トレイン=ハートネットが失踪して、1年が経った。
季節は一巡し、日は昇り沈み、月は満ち欠け、時間は変わることなく過ぎていく。
一人の存在を欠いたからといって、世界に大きな変化など起こりうるはずもない。
それでも、トレインを知る者にとって、彼の存在を欠いた世界は、あまりにも違い過ぎて。
――出来うる限りのことはしました。
思い出すのは、深い悲しみに彩られた彼女の顔だった。
ナノマシンの世界的権威である天才女史、ティアーユ=ルナティーク。
革命組織≪星の使徒≫のリーダー、クリード=ディスケンスとの抗争に巻き込まれ、致命傷を負ったトレインを治療してくれた。
現代医学では、とてもではないが治療不可能なほどの深い傷。
故に、ティアーユが用いたのは、トレインの体にナノマシンを移植するという施術だった。
手術は無事終了、それでも成功は五分五分だったそうだ。
しかし、その結果を待たずして、床に臥していたトレインは姿を消してしまった。
トレインが危篤だという情報を聞きつけ、ティアーユの隠れ家を突き止めた時、彼女は泣きながら謝罪をしてきたのを今でも鮮明に覚えている。
自分が強ければ、庇われなければ、もっとトレインをしっかりと見ていればと。
――私が余計なことをしなければ、あの人は傷付かずにすんだの?
思い出すのは、空虚な赤い瞳でこちらを見上げる、幼い彼女の顔だった。
ティアーユの遺伝子を基に生み出されたクローン体、イヴ。
イヴもティアーユ同様、クリードとの抗争に巻き込まれた被害者の一人だった。
だが、≪
その結果が、クリードの怒りに触れ、イヴに凶刃を向け、それをトレインが庇うという結末。
本来ならば忌むべき異能、それでも親しい者を護れればと思って受け入れた優しい力。
間接的にとはいえ、トレインが傷付く原因を生み出したイヴは、以降心を閉ざしてしまった。
しかし、普段は人形のように無感情だった彼女が、眠っている時だけ感情を露わにするのだ。
ごめんなさいと、どうしていなくなったのと、わたしがいなければと、生まれてこなければと。
絶望、後悔、悲愴――そんな感情を浮かべ、届かぬ言葉を口にしながら涙を流すのだ。
――絶対に見つけてやる! 紳士の名に懸けて! 俺はまだ奴に礼すら言えてねぇんだぞ!
思い出すのは、激情のままに行方を晦ませた黒猫を草の根を分けて探す、捜査員の顔だった。
国際捜査局≪IBI≫所属の捜査官、スヴェン=ボルフィード。
かつて、とある犯罪組織に捕まり、駆け付けたパートナー共々殺されそうになったところを、トレインに命を救われたと言っていた。
裏世界を牛耳る秘密結社≪クロノス≫と、表世界の正義の番人である≪IBI≫。
表と裏、両方が手を組んだからこそ、今までトレインを捕捉することが出来たのだ。
だからこそ、ティアーユに治療を施されたのを最後にトレインの行方が掴めないことの意味。
一人、また一人と捜査の手がなくなっていく中、彼はなおもトレイン捜索に尽力していた。
自分を、パートナーの命を救ってくれたことの礼を言う、その想いを糧にして。
「…………」
そして、セフィリア=アークスもまた。
絶海の孤島を、一人彼女は歩いていた。
空が啼いている、風が悲鳴を上げている、動物どころか虫一匹ですら姿を消していた。
明王の進撃を阻めるのは、限られた力ある存在だけだった。
空間を越えて離れた場所への移動を可能にする≪
様々な特性を持った大小様々な大きさの虫を生み出す≪
力場を操る≪
自身の想像した空想の世界へと対象を落とす≪
空気を操る≪
銃に氣を送り込み、弾丸として放つ≪
魂を放出して、それに触れた者の容姿、頭脳、力を自分のものにする≪
触れた者から生気を奪い、一瞬で腐らせる≪
氷の礫を飛ばしたり、触れた相手を凍結させる≪
だが、出来るのは阻むことだけだった。
一時の障害には成り得ても、それ以上のことを成すことは出来ない。
彼等は弱過ぎた。
だからこそ、セフィリアが焦がれた彼の強さがより浮き彫りになってしまう。
絶対不可避だった筈の必殺技ですら、彼には届くことはなかった。
そのことを悔しく想い、同時に嬉しいとも思っていたのだ。
自分の憧れた背中の遠さを痛感し、その背中の逞しさに恋い焦がれたのだ。
「やぁ、久しぶりだね」
でも、目指した背中はもういない。
全ては、過去の話に過ぎなかった。
「いつ以来だろう、こうして顔を合わせるのは。ねぇ、セフィリア=アークス」
古城の玉座に座ったまま、彼は悠然とこちらを見下ろした。
華美な装い、煌めく銀の髪、彼の醸し出す雰囲気はまさに王の風格。
だが、かつては野心に染まった瞳には、爛々としていた光がない。
あれだけ嫌悪していたセフィリアにさえ、語り掛ける声音は慈しみすら宿していた。
「懐かしいな。でも、随分と昔のことの筈なのに、今でも昨日のことのように覚えているよ。僕達はいつもいがみ合っていた。互いに譲れないものがあったから、そのために引くことをしなかったんだ」
セフィリアは答えない。
クリードは構わず喋り続ける。
「でも、そんな僕等の間に、彼はいつも割って入ってくれたんだ。仲を取り持って、時には叱ってくれて……僕はね、セフィリア。君が彼に恋慕を抱いていたように、僕は彼に友情を感じていた。君が僕に彼を盗られたくないと思っていたように、僕も君に彼を盗られたくなかったんだ」
異常な緊張感に、場が張り詰めていく。
クリードが口を開くたびに、≪彼≫を語る度に。
セフィリアの脳裏に、かつての光景が蘇ってくる。
一年という時が経ち、徐々に色褪せてしまう記憶が、クリードの言葉で補強されていく。
それが、どうしようもなくセフィリアの心を刺激していく。
「ははっ……僕達、実は似た者同士だったんだね。だからかな、君の気持ちが僕には分かるよ」
心がどうにかなってしまいそうだった。
無意識に食い縛った歯から呻き声が漏れる。
握り締めた≪クライスト≫の柄から赤い血が滴り落ちた。
「……逢いたいな、トレイン」
その言葉で、限界を迎えた。
「――――」
一瞬だった。
瞬きすら挟む間もない、そんな間隔を経て、クリードの体が消し飛んだのは。
首から上を残し、玉座から転がり落ち、室内を静寂が支配する。
かと思えば、次の瞬間には失った筈の体が元通りになり、クリードは何事もなかったように立ち上がり、俯けていた顔を上げ――
直後には、再び四肢が消し飛んだ。
セフィリアはいつの間にか≪クライスト≫を突き出したまま、首だけの存在を見下ろした。
「感謝します、クリード=ディスケンス」
≪アークス流剣術≫、終の第三十六手≪滅界≫。
突きの壁で逃げ場を奪い、眼にもとまらぬ刺突の連射が痛みもなく対象を絶命させる奥義。
だが、それは過去の話。
予備動作や過程すら挟まず、≪死≫という結果だけを残す、極限まで突き詰めた動作や流麗な体捌きが可能にした、感知も予測もさせない究極奥義。
過去に一人、≪滅界≫が通用しないのは、セフィリアが最強だと信じる彼だけ。
だが、今となってはもう一人、≪滅界≫を受けても死なない存在が、目の前にいた。
「不死のナノマシン、≪
再生、≪滅界≫、再生、≪滅界≫、再生、≪滅界≫、再生、≪滅界≫、再生、≪滅界≫――。
愛剣≪クライスト≫がブレる度にクリードの体が消し飛び、次の瞬間には再生される。
終わりの見えない無限ループに、しかしセフィリアは作業のように淡々とこなす。
そこに、彼女が焦がれ、目指した剣はなかった。
死よりも生を持って罪を贖わせる、そんな彼の、セフィリアの理想などどこにもなかった。
感情の赴くまま、行き場をなくした力を闇雲に振るう、そんな光景だけだった。
「死でも償えない、永遠の苦しみ。そんな不吉を、私は届けに来たのです」
憎悪と殺意。
愛する者を奪われたセフィリアは、復讐の刃を振るい続けるのだった。
◆ ◇ ◆ ◇
曇天の空、ジメジメと不快な空気、薄暗い室内。
そんな中でも、彼女の黄金色の髪は輝きも清涼感さえも失うことはない。
「……よしっ」
鏡の前に立ち、左右それぞれの髪を結い上げ、準備万端。
同じ黒を基調としたものだが、普段着だった戦闘服とは趣の異なる部屋着で気分を一新。
解れはないか、皺になっていないか、身嗜みを入念に確認。
背中を確認しようとスカートを翻し、覗きかけた純白の布地に慌てて裾を抑えて隠す。
羞恥に赤く染まった頬をふんすと鼻を鳴らして誤魔化し、鏡の自分を彼だと仮想する。
「ごめんなさい」
謝罪の後、一礼。
最上級の角度まで下げ、顔を上げた後は相手の目を見て反らさず。
「先日の温泉での一件、非はこちらにあります。頭に血が昇ったとはいえ、それが暴力を振るっていい理由にはなりません。本当にご迷惑をおかけしました」
そして、締めにもう一度頭を下げる。
そっと覗き見た、鏡の中の仮想相手は一瞬ポカンとするが、次の瞬間には笑って言った。
――≪気にしてねぇよ。でも、もうすんじゃねぇぞ≫と。
果たして、それはヤミの希望的観測なのか。
でも、例え怒られたとしても、それはそれで構わない。
温泉での一件以来、気まずくなった関係を元通りに出来るのならば。
「……トレイン」
昔のような、素直な自分になれたのなら。
温泉での一件など、一夜明ければ簡単に忘れてしまえただろうに。
邂逅一番に暴力など、トレインと再会した時の二の舞ではないか。
何も成長していないと、ここ最近で数え切れないほどついた溜息を零す。
「…………」
不意に脳裏を過る、温泉での光景。
姿を消した美柑とセフィを探し、周囲を歩き回っていて、ようやく見つけて。
成熟した大人の肢体、タオルでは隠しきれない巨大な双丘、そんな彼女が顔を近付けて。
確かに触れた彼女の唇、見たこともないほど赤くなった、彼の頬――
「っ……」
不意に湧いた、どす黒い衝動にはっと意識を戻す。
再生されかけた映像を頭を振って追い出し、そっと触れたのは己の胸部。
躓く程度のなだらかな丘は、息を呑むような彼女の急勾配な双丘とは比較にもならず。
「……大きい方が、好みなのでしょうか」
現実から目を反らすように、鏡を後にし自室の扉を潜り抜けた。
外見こそ不気味だが、内装は小奇麗な洋館は見た目通りの巨大な規模を誇る。
涼子がヤミの滞在を二つ返事で了承してくれたのは、その圧倒的な空き室にあったが。
目的の部屋は、廊下を挟んだ向かい側、目と鼻の先にあった。
右を確認、左を見て、再度右へ。
廊下に自分以外誰もいないことを確認後、手櫛で身嗜みの最終確認。
頭の中で何度も行った謝罪をシミュレートし、煩く暴れ狂う心臓を落ち着けようと深呼吸。
「トレイン――」
「おはよう、クロちゃん」
ノックしようと伸ばした手が、寸でのところで止まる。
「……私も一応起きているのだがな、メアよ」
「ふんだ。お寝坊さんなネメちゃんなんか知らないもん」
「……あのな、私とて一度は消滅寸前までエネルギーを消耗した身だったんだぞ。昨夜の顛末は聞いたが、別に無視をしていたわけじゃない。単純に声が届かなかっただけで――」
「心配した。すっごく、心配したんだから」
「……すまん」
「うん、じゃあ許す」
「…………」
「……ネメちゃん?」
「くくっ……私の寝ている間になにがあったかは知らんが、随分とトレインには毒されたようだな。正直見違えたぞ、メアよ」
「え、そう? えへへ~」
一つは聞き覚えがあるが、もう一つは初めて耳にした、恐らくは女性の声が二つ。
部屋を間違えたかと思ったが、扉に掛かった黒猫印のプレートは確かにトレインのものだった。
即座に気配を殺し、音を立てぬよう扉を開き、中を盗み見る。
「ところでネメちゃん。さっきからクロちゃんが動かないんだけど」
「おお、ようやく動き出したぞ。それと、慌てて服を着ているかの確認をし出したな。安心しろトレイン。裸なのは私で、お前はちゃんと服を着ているぞ。何の問題もない」
「なんかゾクゾクしちゃうな。昨日のきりっとしたクロちゃんも素敵だけど、こういうクロちゃんもそれはそれで……」
「人の裸を拝んでおいて平気な顔をしているかと思えば、妙なところで慌ておって。本当にトレインはおかしな奴だな。だが、嫌いではないぞ」
「私も好きだな。知ってる、ネメちゃん。クロちゃんってお日様の匂いがするんだよ。あっ、それとこれは……ミルク? 甘くて素敵な香り。ペロペロしていい?」
扉を粉砕する勢いで開け放った。
「おお、金色の闇ではないか。温泉以来だな」
「えっ、じゃあこの人が私のお姉ちゃん?」
褐色肌に金目の幼子。
赤毛をおさげにした少女。
言いたいことは色々あったが、ヤミがなによりも優先して告げねばならないことは。
「な、なな何なのですかあなたたちは! 一人は裸でもう一人は下着丸出し!? 非常識です!」
パジャマにナイトキャップな恰好で凍り付くTHE・寝起きなトレインは問題ない。
だが、薄手のシャツに縞パンな赤毛の少女と褐色の肌を晒す全裸な幼子には物申さねば。
怒髪天を衝く勢いで、火照った頬など気にする余裕もなくズンズンと進撃。
トレインの教育上よろしくないと、お姉さん思考に染まったヤミの思考は、
「……姫っち」
「なんですか!」
泣きそうな声で語りかけてきたトレインに条件反射で返し、
「俺、汚れてないよね?」
「なにを言っているのですかあなたは!!」
意味不明な問いかけに、ヤミは絶叫で返す。
涼子所有の洋館は、今日も変わらず穏やかで平和で賑やかだった。
≪BLACK CAT≫世界「トレインー! 早く来てくれー!」
≪ToLOVEる≫世界「ふふふ……トレインは絶対に渡さないわ……」