痴物語-シレモノガタリ-   作:愚者の憂鬱

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バトルシーンやっぱり難しい。
そしてどうしても間延びするストーリー。
さらに明日は卒業式……。
変なところで切ってしまったので、もうちょっとだけあざみウルフは続きます。
ごめんなさい。


其ノ陸

 錆びた鉄扉を押し開いて、俺と雪ノ下さんは用具室に入った。奥行き五メートルも無い窮屈な空間には、銀髪の人狼が、俺が部屋を出た時と全く同じ体勢のまま、ぐったりと力なく横たわっていた。

 付けたままだった部屋の蛍光灯の光が、チカチカと点滅している。

 

「……遅かったな」

 

 怪異の王。

 人狼の姫。

 薊は、血も凍るほど美しいその相貌に明らかな不満の意を浮かべて、じっと俺の眼を見つめてくる。

 

「悪い。待たせた」

 

「全くだな。この我輩を退屈で埃臭い場所に何時間も放置するとは、無礼にもほどがある」

 

 そう睨まないでくれよ。

 俺は薊に歩み寄ってから、冷たいコンクリートの床にどかっと座り込んだ。至近距離から見る薊の顔色は、傷口の処置を施す前より幾分か血色も良く、床の血溜まりもいつの間にか乾ききっている。

 どうやら、今はさほど辛くもないらしい。

 

「……なぁ、お前のあの話なんだが……」

 

「その前に膝枕だ、この阿呆め。我輩は肩が凝った、もうこれ以上この姿勢でいるのは適わん」

 

 ……阿呆って何だオイ。こちとら一大決心で話を切り出したってのに。

 しかし薊の体は、硬いコンクリートの上で何時間も同じ体勢で横に倒していたことを考えると、確かにそれなりの負担を感じていたとしてもおかしくないかも知れない。

 一瞬、聞こえなかったことにしてそのまま話を続けてしまおうかとも考えたが、そんなことでは後々どんなしっぺ返しが来るかも分からない。

 しばらく考え込んでいると、薊の尻尾が、不景気な表情とは裏腹に、ぱたぱたと大きく振られていることに気付いた。俺の膝枕はそんなに魅力的か。

 こうなったら今度、俺も俺の膝を枕にして寝てみるしかあるまい。そのためにはまず、凝り固まった身体を柔らかくしなければ。……ヨガでも始めようかしら。

 

「分かったよ。何百年も年上のくせに、我儘なヤツ」

 

「ふふん、良きに計らえ」

 

 俺の言葉に薊がやんわりと破顔して、首の筋肉だけで少し頭を浮かせた。このスペースに脚を差し込め、ということだろうか。

 正直、俺の膝枕処女(小町を除く)は既にコイツに捧げてしまっているのだから、正直なところ今更さしたる抵抗感も無い。俺は、向かい合ったままの体勢で、膝を折り畳んで胡座をかいてから、薊の頭の下にすっとそれを滑り込ませた。

 ……薊の視線が俺の体側に向いているからか、一回目の時よりも距離が縮まっている気がする。

 

「これで満足か?」

 

「是非もない。……どれ、このまま一眠りするかな」

 

「寝るな、お前には話があるんだっつの」

 

 俺は普段から飼い猫と触れ合う時の癖で、薊の艶やかな毛並みの獣耳を、思わずこしょこしょと撫で回してしまった。

 一瞬の間を置いて、自分がやらかしてしまったことに気付いたが、当の薊は反発するどころか、甘い声を出しながら頭を俺の太腿に一層強く擦り付けてくるものだから、ちょっと反応に困る。

 

「なんか付き合いたてのバカップルみたいだよ、二人とも」

 

 ……。

 そうだ、すっかり忘れていた。今この場には、俺と薊は以外にも人がいるんだった。

 これは中々に痛いところを見られたぞ……。

 俺は首を捻って、開け放たれた部屋の入り口に身を預けて立っていた雪ノ下さんの方に目を向けた。

 

「勘弁して下さい雪ノ下さん。もっと自分の存在を主張しといてくれないと……」

 

「あれ? 今の私が悪かった?」

 

 雪ノ下さんの瞳孔から光が消えた。ほんの軽いジョークのつもりだったんだが、どうやら彼女は本当に俺が舐めた態度をとったと思ったのだろう。

 怖い怖い怖い怖い。

 マジで謝るからその顔やめて下さい。夢に出るわ。

 

「……そう言えば、主は何者だ。見たところただの人間ではないな」

 

 産まれたての子鹿並みに震えている俺を他所に、薊はそんな言葉を雪ノ下さんに投げ掛けた。しかし、その視線が当の雪ノ下さんへ向くことはなく、(そもそも、俺の体が邪魔で薊からは雪ノ下さんの姿が見えていないと思われる)膝枕の感触を味わうためか、ごろごろと体の向きを変えては、俺のパーカーの裾に鼻を寄せたりしている。

 興味が無いなら聞くなよ……雪ノ下さん相手によくやるぜ。

 

「お初にお目にかかるわ、四狼正宗。私は比企谷くんの協力者、つまりは回り回って貴方の協力者。名前は……教えたところで、どうせ覚えないでしょ?」

 

 対する雪ノ下さんの対応は、俺が思っていたよりも遥かに落ち着いていて、当たり障りが無かった。これだけ舐めた態度を取られたら、笑顔全開でガトリング銃の如く薊を罵ったりしそうなものだが。いや、気のせいかもしれないが、雪ノ下さんの眉が僅かに痙攣しているようにも見える。あれは内心相当腹が立っていると見えるが、それを表に出さない理由もあるのだろうか。

 つーかこの人、薊の名前を以前から知っていたのか。それは果たして、雪ノ下さんの情報量がすごいのか、それとも薊の知名度がすごいのか。……業界の闇は深いぜ。

 返答を受けた薊は、「左様か」とだけ告げると、再び俺の太腿の上でもぞもぞと悶え始めた。

 

「おい、さっきから人の衣類を弄るな、匂いを嗅ぐな、気持ち悪い……」

 

 よく見ると薊は、俺のパーカーやその下のシャツをすんすんと匂っては、そこに顔をうずめたり軽く口に含んだりしていた。

 獣の本能が、付着している血の匂いに当てられたのだろうか。目のとろけ具合なんて、まさしく変質者のそれだ。

 

「む、すまん。気が付いたら夢中になっていた」

 

 我に返った様子の薊は、はっとした表情でそんなことを言ってはいるが、両手共に俺のパーカーを掴んだままだった。

 どうやら、口では言いつつもやめる気は無いらしい。

 助けを求めるつもりで雪ノ下さんの方を見た俺は、そこで彼女から凍てつく吹雪のような視線を受けていることに気づいた。

 ホ、ン、ダ、イ、二、ハ、イ、レ、と口の動きだけで促してくる。

 超怖い。

 多分薊の態度のこともあって、通常の五割増しで苛ついていらっしゃる。いや、そんなことが言えるほど普段の彼女を知らないけど。

 ……命があるうちに命令に従おう。

 

「お前の依頼、請け負った。俺は一人で奴を斃す。だからお前は、何もしなくていい」

 

「…………なんだと?」

 

「どうせやるからには、中途半端な仕事はしないってことだよ」

 

 薊からすれば、俺の言葉はまさに寝耳に水な話だったのだろう。きっと彼女は、なんだかんだで俺が、人殺しを拒むと思っていたに違いない。

 膝下からこちらを見上げる薊の顔は、やはり驚愕に目を丸くしていて。

 口には破れたパーカーの断片を含んでいた。

 

「って何やってんだ⁉︎」

 

「むぐぅ‼︎」

 

 俺は慌てて薊の口に指を突っ込んで、べっとりと唾液に濡れたパーカーの裾(だった布切れ)を引きずり出した。

 

「おまっ……人が大事な話してるって時に……」

 

「いや、すまんすまん。怪我で弱っているせいか、つい日頃の癖が出てしまってな」

 

 犬って気がつくと色んなものを噛み切るだろう、と。薊はけろっと笑いながら、なんでもないようにそんなことを言う。

 

「お前の謝罪からは全く誠意を感じないんだよ……!」

 

 これ、結構な値段するやつなんだぞ。大抵のいい服は小町に当たる比企谷家で、奇跡的に俺が手に入れた珠玉の一品だったというのに、それをこの駄犬は……!

 

「比企谷くーん?」

 

 俺が本腰を入れた説教に入ろうとしたその時、例の肌を刺すような視線と、どこまでも底冷えする声が俺に届いた。

 脊髄反射で声の方へ振り向くと、案の定雪ノ下さんが、床に座る俺と同じ目線の高さまでしゃがんで、にこにこと朗らかに笑いながら俺を見つめていた。

 パ、ア、カ、ア、ナ、ン、ゾ、ド、ウ、デ、モ、イ、イ、と声を発することなく口を動かしている。

 あぁ、これはもうダメだ。

 流石におふざけが過ぎた。

 俺は即座に表情を平常運転に戻し、背筋をぴんと張った。

 

「真面目に話を聞いてくれ、薊」

 

 俺の命の為にもな……。

 

「聞いているよ。お前の意思も、言わずとも伝わった」

 

 いつの間にか、薊の表情からも砕けた雰囲気が消え去って、どこか穏やかな微笑みがそこにあった。俺の真っ向からの眼差しを、彼女もまた真摯に受け止めていたのだ。

 

「そうか、やる気になってくれたのか……」

 

「……今回限りだ。それに、お前の為に動くんじゃあない。あくまで俺が私怨で動くだけで、そこにお前は関係ないんだからな」

 

「……捻くれ者め」

 

「大きなお世話だ」

 

 そう、今はこれでいい。

 仮にこれから、俺にどんな選択肢とそれに付随する結末がやってきたとしても。

 彼女を。

 薊を舞台に上げることだけは、あってはならない。

 だから今、俺が彼女に出来ることは、言葉をかけることだけ。

 それでいい。

 それだけのことでいいのだ。

 

「やり遂げる自信はあるのか?」

 

 薊の真っ直ぐな瞳が、俺のやつれた眼を焼き焦がす。その内側に潜む何かを見通されているような気がした俺は、明後日の方向に目を逸らした。

 

「自信がなかったら、最初からこんなこと言わねーよ」

 

 薊は、なおも俺をじっと見つめ続けていた。

 やがて、何かを悟ったかのように小さく微笑んで、瞼を閉じる。

 

「……左様か」

 

 部屋の蛍光灯が、ゆらゆらと力なく点滅した。

 

 

 午前03:30。

 夜明けが近い。

 しかし、俺達はまだ知らなかった。

 いや、あるいは雪ノ下さんだけが知っていたのかもしれない。

 これから始まる惨劇が、ついぞ誰一人救いはしなかったこと。

 俺と、人狼の姫は。

 互いに消えない傷を背負って。

 

 果てに広がる、血を零したような暁を望むことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午前03:50。

 俺は千葉駅から徒歩数分の、付近で最も大きいスクランブル交差点のど真ん中に突っ立っていた。

 ここもしっかり結界の圏内らしい。

 辺りには音もなく、もっと言えば車両が一台も見当たらない。街灯も含めた全ての光源が機能していない為、出歩くことすら危険なほど濃密な闇が満ちていた。

 しかしその点に関して、今の俺は異常なまでに夜目が利く。俺をぐるりと囲んでいる四つの車道は、手前から奥へ真っ直ぐと伸び続け、やがて地平線に吸い込まれていくまではっきりと見透せた。

 

「……よし」

 

 特に目立つ異常は見当たらない。

 俺は一度深呼吸をして、緊張で高鳴り始めた鼓動を鎮める。

 雪ノ下さんから『作戦』の概要を聞いた時は、正直上手くいくか半信半疑ではあった。潜在能力ならまだしも、技量で遥かに勝る敵を相手に、喧嘩事に関して完全な素人の俺が、果たしてどこまで行けるのか。それはかなり分が悪い賭けだ。堅実かつ最低限の労力を良しとする俺らしくもない。

 だけど。

 

「──偶には、冒険も悪くはないよな」

 

 今は妙に清々しい気分で、漠然とそんなことを思った。

 再び、深く息を吸い込む。

 何秒、何十秒と空気を飲み込み続け、やがて肋骨がもう限界だとばかりに内側から押し広げられた。

 そして。

 

「──────ヴゥオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ‼︎‼︎」

 

 ───────────オオオオォォ………

 

  ─────────オオォォ……

 

  ───────ォォ…

 

 俺は全身の筋肉に力を込めて、ありったけの気迫で肺に圧縮した空気を、一気に夜空へと解放した。

 全身の毛が逆立ち、ざわざわと神経が疼き出す。どうやら俺の獣としての面が、本能に耐えられず今にも暴れ出そうとしているらしい。

 閑散とした街に、獣が放つ『遠吠え』はどこまでも、どこまでも響き渡り、方々で乱立するビル群に反射して無数の木霊となった。

 それから、どれだけの時間が経過しただろうか。

 数分、あるいは数十秒だったかも知れない。

 薄れていく残響音と入れ替わるように、乾いた足音がどこからともなく聞こえてきた。

 数時間前に全く同じ音を聴いたというのに、なんだか妙に懐かしい気がする。

 しかしまぁ、つくづくらしくないぜ。

 知的でクールな男であるこの俺が(根暗なだけとも言う)、こうして野蛮な体育会系の如く(全国の体育会系に謝れ)けたたましい声を上げるなんてな。

 

「けど、撒き餌にしては上出来だったろ?」

 

 向かって正面の道路。

 俺の問いかけに答えたのは、縒れたコートを翻し、暗闇の中から浮かび上がった、一人の男のシルエットだった。

 目深のハット。

 黒の長髪。

 俺より頭一つ分はデカい、異国の男。

 ……得物はどこに置いてきたのか、両腕はコートのポケットに突っ込まれている。

 

「君が何を考えているのか、私には甚だ分からないよ……。せっかく逃げ果せたんだ、与えられた猶予は、最大限有効に使うべきだったと思うがね」

 

 確かにな。

 俺だって逆の立場だったら、こいつと同じ質問を相手に投げかけただろう。

 だが事実、カテゴリーキラーはここに現れた。作戦の第一段階は、確かに遂行されたのだ。

 怪訝そうに眉を顰めていたカテゴリーキラーは、明らかに、俺の一見やけくそにも見える行動を訝しんでいる。

 

「別に……お前には関係無いだろ」

 

 聞かれて素直に答えてやる義理はない。

 俺達は今、敵同士としてここに相対しているのだから。

 カテゴリーキラーは、小さく「……それもそうだね」と呟くと、ハットのつばを指で押し上げて、それまで影に覆われていた顔の上半分を明らかにした。

 彫りの深い外人らしい鼻立ち、燻んだ碧眼。

 軽薄な笑みを貼り付けた顔を見て、俺も思わず小さく舌打ちをした。

 

「相変わらず、気持ちの悪い目付きしやがって」

 

「……それに関しては、君に言われたくないな」

 

 うるせえ馬鹿。

 揚げ足取るな馬鹿。

 俺の目付きはチャームポイントだっつの。

 内心毒づく俺を他所に、カテゴリーキラーが首をひねって辺りを見渡す。

 俺の目には、奴が何を探しているのかすぐに分かった。

 

「……あの女性は、今どこだい?」

 

 ほら、やっぱりな。雪ノ下さんを警戒してるのか。

 懲りねぇ奴だ。

 だから、こっちに答える義理はないんだよ。

 

「んなこと言ったら、お前はあのでけぇ十字架どこにやったんだよ」

 

 俺は話をはぐらかそうと、敢えて話題を別のものにシフトした。

 カテゴリーキラーも、言外に俺の拒絶の意を感じ取ったようで、やれやれと言わんばかりにため息をついて、平坦な声で小さく笑った。

 

「……確かに、私達が言葉を交わす意味は、既に存在しないのかも知れない」

 

「……あぁ?」

 

「我々は敵同士、狩る者と狩られる者だ。猟師が獣を追い詰めるように、私が君に投げかけるべきは言葉ではなく──無慈悲の鉛玉だよ」

 

 言うや否や。

 カテゴリーキラーの両腕が、片口から消失した。

 いや違う。あまりのスピードに、かすかな残像を残したまま消失したかのように見えたのだ。

 俺は、その光景を見たことがあった。

 中学生の時、なんやかんやあって朝から仮病を使い学校を休んだ日(詳しく言及したくない)、暇を持て余して、テレビの電源を入れた昼下がりのこと。

 西部劇のワンシーン。

 一人のガンマンが見せた、『早撃ち』だ。

 カテゴリーキラーはそのガンマンのように。

 腕を動かし。

 懐から左右一丁ずつ、銀色の回転式拳銃を取り出して。

 弾を装填。

 引き金を引く。

 この数ある工程を、人狼の俺ですら微かにしか捉えられないほどの速度で行った。

 

「うぉッ……⁉︎」

 

 研ぎ澄まされた動体視力が、時間の流れを遅延させたかのように感じさせる。

 全てがスローになった世界で。

 俺は咄嗟に、マト◯ックスよろしく膝を折り上体を反らした。コンマ0.0001秒前に俺の頭部があった場所を、銀の銃弾が素通りする。

 僅かに遅れて、重なり合った二つの発砲音が街に轟き、俺の全身から冷や汗が滲み出た。

 今更奴がどんな得物を使ったとしても、別段驚くことはないが、それでもあの早業は予想外だ。

 

「もっとも、この弾丸は銀製だけどね!」

 

 カテゴリーキラーが、両腕に拳銃を掲げたまま言う。

 奴もスイッチを切り替えたのか、語調が心なしか強くなっている気がする。

 

「……来いよ」

 

 俺は震える手足を無理矢理動かして、カテゴリーキラーの射程から逃れるために移動を始めた。恐らくだが、相手が飛び道具を使う時、早期決着を望むなら懐に飛び込むのがいいのだろう。だが今は状況が違う。突っ込むより距離を離した方が、時間は稼げる。

 ほほほほほ、捕まえてごらんなさい?

 ──なんつって、ふざけている場合じゃあないか。

 次の段階を踏もう。

 今はとにかく、逃げの時間だ。

 

 こうして、大した前触れもなく。

 俺達の闘いは幕を開けたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午前03:43

 

「比企谷くん、素人がプロの格闘家に勝つ方法、分かる?」

 

 いよいよカテゴリーキラーとの決着に臨むため。

 俺と雪ノ下さんは、「仕方ないからもう一眠りする」と言った薊を置いて、地下鉄を後にした。外の空気は、間も無く夜明けともあって、公園にいた時よりも明らかに冷え込んでいる。

 行く先も知らせてもらえないまま、雪ノ下さんの後を付いて行った俺は、彼女から飛んできた突然のクイズに少し動揺してしまった。

 

「あっ……と、そうですね。……武器を使うとか、どうですか」

 

 質問の意図が微妙に分からない俺は、自分でもパッとしない答えを返した。

 

「うーん、いまいちかな。正解はコレ」

 

 そう言うと、雪ノ下さんは右手で人差し指を立てて、ふいと明後日の方向を指した。

 え、何?

 何かあるんですか?

 俺は雪ノ下さんの指先を視線で追って、首を捻る。

 その瞬間。

 俺の目に飛び込んできたのは、何の変哲も無い錆びれた信号機。

 そして、死角から放たれた雪ノ下さんの拳だった。

 

「おぶッ⁉︎?」

 

 それこそプロボクサーの如く、洗練されたフォームから放たれる無慈悲のストレートに横っ面を捉えられた俺は、与えられたベクトルのままに体ごと一、二メートルほど吹っ飛ばされた。

 

「正解は、『騙し討ち』でしたー」

 

 ……納得できねぇ。

 全然信憑性無いし。

 かりにこれが雪ノ下さんの言いたいことだったとして、俺にここまでガチのパンチを打つ理由も分からねぇ。

 やばい死ぬほど痛い、奥歯欠けたんじゃなかろうか。

 

「……まぁ、納得は出来ませんけど、理解はしました」

 

「あれ、結構反応軽いね。もしかして綺麗なお姉さんにこんなことされるの、好きだったり?」

 

「俺だってキレる時はキレますけど?」

 

「地面にのされたままの状態で言われても、あんまり怖くないなぁ」

 

 殴った上にドM扱いとか、マジで許すまじこの女。

 いつか然るべき報いを──……いや、駄目だ! こんなことを考えたらまた心を読まれる!

 咄嗟の英断で思考を打ち切り、俺は体を起こしてから土汚れを軽く払った。

 頬の傷は、既に完治している。

 

「つまり今のは、カテゴリーキラーをおびき出してから騙し討ちをかます、ってことでいいんですね」

 

 仏頂面の俺に対し、雪ノ下さんの反応は芳しくない。

 

「うーん。それもまた、いまいち違うんだよね」

 

 俺達はゆっくりと歩を進めながら、作戦の概要を共有する為になおも会話を続けた。

 まず、と雪ノ下さんが切り出す。

 

「四狼正宗が君には言っただろうけど、彼女が撃退された理由は、この空にあるのよ」

 

「はい。月が隠れているから、殆ど力が出せなかったとか言っていましたね」

 

「確かに、この『新月の結界』は、人狼に対して絶大なマイナス効果を与える。君はまだ成り立てで、そもそも自分のベストコンディションを知らないから、いまいちピンと来ないんだろうけど」

 

「……それも、薊から言われました」

 

「そ。つまり今の君も、本来の人狼としての実力を極端に制限されているの。『母』である四狼正宗と同じく、ね」

 

「……今の状態で、制限されてる……?」

 

 それが本当なら、一体どれだけ恐ろしいことなんだろうか。公園で発揮したあの腕力にまだ上があるなんて、正直スケールが大きすぎて想像もつかない。

 ましてや、薊が本来の力を取り戻した姿など……。

 しかしようやく俺にも、話が見えてきた気がする。

 

「──全力の俺なら、カテゴリーキラーを倒せるんですね」

 

「モチのロンだよ。恐らく、相手にもならないだろうね」

 

「……分かりました、雪ノ下さんの言う『騙し討ち』の意味が」

 

 なるほどな。

 何のひねりも面白味も無いが、これは確かに『騙し討ち』だ。それならば、俺達の役割分担にも納得が行く。

 俺の役目は雪ノ下さんでも出来るだろうが、雪ノ下さんの役目は、きっと雪ノ下さんにしかできない。

 駅の乗り口から、どれだけ歩いただろうか。

 やがて俺達は、大きなスクランブル交差点に辿り着いた。

 ……辺りにビルが乱立する駅前近くに、こんな場所があったとは。

 生まれてこのかた千葉で育った俺だが、知らなかった。

 

「ここが、奴を呼び出すポイントですか」

 

「うん。ここなら視界が開けていて闘いやすいし、辺りに高い建物も多いから、私も『作業』がしやすいの」

 

 雪ノ下さんは、付近でももっとも高いビルをふいと顎で示した。全面ガラス張り。普段は大企業の支社だとか、高級ホテルだとかに使われていたりするのだろうか。

 

「大丈夫! 私に任せてよ」

 

 いつかと同じように、雪ノ下さんがぐっと親指を立てて、自信満々で言う。

 正直この人の笑顔には、基本的に嫌な予感しかしない。

 ……本当、成功を祈るばかりだ。

 

「……頼みましたよ」

 

 小走りで、暗いビルのエントランスに向かう雪ノ下さんの背中に、俺は小さく呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午前03:54

 

 銃声が鳴り止むことはなく。

 弾丸は雨の如く射出され続ける。

 追撃を振り切る為、カテゴリーキラーから背を向けた俺は、コンクリートの道路を全力で蹴った。

 獣の膂力が俺の体を大きく宙に投げ出し、そのまま十字路の傍に建っている全面ガラス張りの高層ビルに飛びかかる。

 両足で上手く壁面に着地したのなら、あとは簡単なことだ。

 走る。走る。走る。

 地上十五メートルほどの地点を、地球の重力に直交する体勢のまま。

 俺はビルの壁面を駆けた。

 

「──流石だよ、化物」

 

 背後からそんな言葉と共に、俺を追走しだす革靴の音が聞こえた。

 ──そうだ、追ってこい。

 こうして適度に引きつけたまま、攻撃を回避し続けてやるよ。

 カテゴリーキラーは、高速で移動する俺に対してなおも銃撃を止めない。俺が踏みしめたガラス窓は、片っ端から奴の弾丸が粉々に粉砕していく。

 ……まずいな、今少しでも速度を緩めたら、一瞬で文字通り蜂の巣だ。

 しかし二十メートルも進むと、ビルの壁にも終わりが来た。

 次の建物との間には、六車線以上もある開けた道が横たわっていた。この距離を飛び移るとなると、空中で減速しないようにするのは難しいかも知れない。

 かと言って、悠長に考えている暇もなかった。こうしている今も、カテゴリーキラーの弾丸が、背後のガラス窓を穴だらけにしながら接近してくるし、減速しすぎても重力に捕まって壁面からずり落ちてしまう。

 

「……くそっ!」

 

 半ばヤケクソになって、俺は最後の一歩を思い切り踏み切った。

 その衝撃に、ビルの窓ガラス──全ての壁面が真っ白にひび割れて、地上に破片の雨を降らせた。

 急加速に強い空気抵抗を感じながら、俺は空を飛んだ。

 ──逃げ切れる、か?

 すぐ背後を、無数の弾丸が風切り音と共に通過していく。

 そのまま、俺は見事次の建物へ。

 コンクリート打ちっ放しの古びた建物へ、飛び移ることに成功した。

 

「──よしッ……⁉︎」

 

 しかし。

 思わず感嘆の声を上げた俺をあざ笑うかのように。

 恐らく、最初からこの瞬間を狙っていたのであろうカテゴリーキラーの弾丸が、俺の右足──脹脛を、後ろから捉えた。

 弾丸は、曲がりなりにも獣化させた体をさも当然のように抉り、砕き。

 傷口からは大量の血が迸った。

 

「がっ……あ……⁉︎」

 

 衝撃に足を崩し、急激に減速した俺の体は、真っ逆さまに地面へと落ちて、背中から思い切り歩道と激突した。

 

「まだまだ甘いな少年、人狼にとって銀がどれだけ致命的な弱点か、分かっちゃあいない」

 

 カテゴリーキラーは、車道の真ん中をゆっくりと歩いて、俺に近づいてくる。

 くそ、足が全く動かない。しかも傷口を見るに、弾丸が貫通せず体内に残っている。撃たれたのは脹脛なのに、足全体が動かなくなっているのは、薊の体を今も犯している銀製弾と、この弾丸が同じ効果を持っているからだろう。

 人狼の堅牢な筋肉を破る弾丸に、人狼すら行動不能にする神経毒を上乗せしているのだ。

 そして何より、傷口からはこの弾丸を抜くことはできない。

 

「あ、あぁぁァァァ……ッッ!」

 

 激痛に思わずうっすらと涙を浮かべた俺は、撃たれた足を抱えて、どうにかカテゴリーキラーから遠ざかろうと、醜くも四つん這いで進み続けた。

 ──飛んだお笑い話だな。

 今の俺は、まさに痛手を負ったケモノのようだ。

 実際に俺は、その滑稽な様に思わず笑みをこぼして。

 それから、覚悟を決めた。

 四つん這いのまま、右手の指を一直線に揃え──貫手を作って、右膝上数センチの辺りに添える。

 あまり迷っている時間はない。こうしている間にも、カテゴリーキラーは俺にトドメを刺そうと近づいてきている。

 深く呼吸をして、これからやってくる苦痛を思い、じわりと冷や汗を垂れた。

 ──嗚呼。

 そうだ、俺はケモノだ。

 どうせ人間じゃあない。

 だが、だったらいっそのこと、思い切りやらせてもらおう。

 中途半端なケモノとなるくらいなら……。

 ──俺は、バケモノでいい。

 人差し指から小指までの四指が、右膝上にずぶりと食い込む。それと同時に、尋常ではない激痛が神経を駆け抜け、脳を襲った。

 堪えろ。

 堪えろ堪えろ堪えろ。

 ──痛覚なんてのは、ただの電気信号に過ぎないのだから。

 

「………………ッッッ⁉︎‼︎」

 

 砕けるほどに奥歯を食いしばって。

 俺は右足を──手刀で斬り飛ばした。

 ゲームやアニメの世界でしか見たことのない勢いで、断面から大量の鮮血が噴き出し、全身から脂汗が滲んだ。

 想像を遥かに超える痛みに、俺の思考はショート寸前だったが、辛うじて意識を繋ぎ止めて。

 

 ──そして、カテゴリーキラーに背を向けたまま、再び両足で地面に立った。

 

「……何?」

 

 その異様な光景に、カテゴリーキラーも思わず声を上げた。

 切断から二秒も経たない内に、俺の右足は生え変わったのだ。

 確かに痛みを感じた。

 そこら中に血が飛び散っているし。

 なんなら元の俺の右足は、今も俺の足元に無造作に転がっているままだ。

 しかし、そんな事実など初めから無かったかのように。右膝から下に──むき出しの素肌の新たな右足が、そこにはあった。

 

「……なるほど驚いた。正直、ここまで再生が速い個体は、君の母以外には見たことがないよ」

 

 カテゴリーキラーは、ひどく平坦な──しかしどこか深刻そうな雰囲気も感じさせる声で、そう言った。

 

「……いや、俺の方が驚いている自信があるぜ」

 

 振り返って、カテゴリーキラーと正面から対峙する。未だ痛覚の残響が鳴り止まないが、俺は必死に頭を回転させていた。

 ……全く、バケモノ様様って感じだが、まさかここまでとはな。

 しかし油断は出来ない。

 さっきは偶々足に当たったから良かったが、もしあれが胴体や頭部だったら、自切はしにくくなる。後者に至っては、恐ろし過ぎてやる気も起きない。

 そうそう頻繁に使うべき手段じゃあ無いな。

 ……さぁ。ならばどうするか。

 彼我の距離は二十メートル弱、といったところだ。

 また背を向けて逃げ出すことは可能だろうが、それだと同じ流れがループで行われるだけ。

 逃げて、撃たれて、再生して。この繰り返しだろう。相手は専門家だ、いつかは対策を講じられるかも知れない。

 カテゴリーキラーがじりじりとにじり寄って来るだけ、俺も奴と目を合わせたまま後退する。

 そうして十歩分ほど、お互いに次の行動を取りあぐねている状態が続いていたが──先に動いたのはカテゴリーキラーだった。

 奴は両腕に持っていた拳銃を、突然地面に放り投げたのだ。

 

「どうやら、コレじゃあ少年を殺し切ることはできないようだ」

 

 ため息をついて──全くやれやれ、とでも言いたげな表情で、カテゴリーキラーは、そうしてフリーになった両腕を、天にかざした。

 

「──やっぱり、こっちにしようか」

 

 やがて、どこからともなく空を裂いて、奴の真の得物──本当のところは俺も分からないが、少なくとも俺にとって奴の武器と言えば、それだった──巨大な銀の十字架が現れ、黒革のグローブに収まった。

 本人の身長の三倍、体重の三乗はありそうなその十字架は、あいも変わらず重厚な存在感と、無機質な殺気を放っている。

 

「これにて幕引き、だ」

 

 カテゴリーキラーが、十字架を投擲するモーションに入った。

 恐らく俺は数秒後、体の大半を吹き飛ばされて、やがて絶命するのだろう。

 もしかしたら、避けることもできるかもしれない。だが以前見せられたように、あの十字架は念力のような見えない力で、高精度かつ高速な機動を行う。

 素人の俺に、いつまでも回避し続けることは不可能だ。

 最早、万策尽きた。

 そう見える絶望的なこの場面で。

 ──俺は、笑った。

 

「ああ、そうだな、幕引きだ。──俺の勝ちでな」

 

 向かい合う俺達の頭上で。

 月のない夜空を、引き裂くような。

 大きな亀裂が走った。




ちょいちょい描いてるイラストも、少しずつ乗っけたりします。

【挿絵表示】

上手い下手どうこうというより、やっぱりお絵描きはいつになっても楽しいですね。

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