なんか展開考えるのが難しくなってきて。
皆様のおかげで、このお話の着地点は見えてきましたが、問題はどうやってそこまで運んで行くかなんですよね……。
感想、大変楽しく拝見させていただいてます。
これからもちょいちょい更新していきますので、よろしくお願いします。
白く霞んだ視界。
生ぬるい風が、砕けたアスファルトの粉塵を公園内に運んでいるからだ。
「はっはっはー」
緊張感の無い笑い声で、その女は俺の前に現れた。
厚い衣服の上でも分かる、女性らしく引き締まった身体と凹凸の激しいボディラインからは、先刻見せた怪力のことなど到底想像に及ばない。
雪ノ下陽乃。
只者ではないとは思っていたが、いよいよこの人も人間か怪しくなってきたぞ……。
「いやー間に合って良かった。言ってみたかったんだよねぇ、今の台詞」
吹き抜ける夜風が、雪ノ下さんの艶やかな黒髪をなびかせる。後ろ姿からでは彼女の表情は伺えないが、きっといつかのように、不敵な笑みを浮かべているに違いなかった。
しかし、雪ノ下さんは何故ここが分かったのか。依然効力を発揮しているはずの結界にこうしてすんなりと入り込んできているし。
俺の鼻でも耳でも、接近を一切感じられなかった。
そう。
視覚で捉える分には、確かに彼女がそこにいるのが解る。
だが、『嗅覚』と『聴覚』で明確に認識することができないのだ。透明なフィルターがかかっているかのような。薄い霧に覆われているかのような。
ともかく、そんな得体の知れない力が、俺と彼女の間を阻むように横たわっている。
そんな感じがした。
「……」
内心、俺が今一番強く思っていることは、『助かったという安心感』ではなく。
『何故この人がここに存在するのか』だった。
さも当然かのように、俺たちに介入してきた彼女は。
何の為に。
何をしようとしているのか。
口ぶりからしたら、俺を助けに来たのかもしれない。
しかし。
何もかもが神の如き存在に仕組まれた喜劇であるかのようにすら思えた俺は、頭について離れない薄ら寒さに耐え兼ねて、雪ノ下さんに声を掛けた。
「……雪ノ下さ」
「おやおや、これはまたお美しい乱入者だ」
喉を出かかった言葉を遮ったのは、意外にも『カテゴリーキラー』だった。
ばっちり被せて来やがって、なんか恥ずかしいだろうが。
「悪いんだが、用事があるなら少し待っていてくれ。こう見えて、私は今仕事中なんだ」
おいおい。
こう見えて、ってなんだ。
いたいけの無い少年をどデカイ鈍器でミンチにする様が、一体それ以外のどんな状況に見えるって言うんだよ。怖いわ、いろんな意味で。
「……あの、雪ノ下さ」
「勿論、知っているよ。でも私今、あなたには用が無いんだよね」
俺が今度こそという思いで、雪乃下さんの名前を呼ぼうとしたその時、今度は当の雪ノ下さん本人に台詞を阻まれた。
……終いにゃあ怒るでコラ。
しかし、次の瞬間。
内心不貞腐れていた俺の眼前で、怪訝な顔でこちらを睨む『カテゴリーキラー』に対し、雪ノ下さんか右手の指で音を打ち鳴らした。
乾いた音の振動が、夜の街に反響する。
「これからは、若い二人の時間ってことで」
数秒の沈黙を置いて、突如現れた竜巻の如き暴風が、俺と雪ノ下さんを飲み込んだ。
「なっ……んだ、これ」
「……ちッ⁉︎」
これも雪ノ下さんがやってるのか?
俺が驚愕の声を上げるのと、『カテゴリーキラー』が忌々しげに舌打ちをしたのは、ほぼ同時だった。
『カテゴリーキラー』が、公園傍の道路に突き刺さったままだった十字架に向かって素早く手をかざす。目測数トンの巨大な鈍器は、その重さを感じさせない軽やかな動きでアスファルトから引き抜かれ、目に見えない力で奴の元へ戻っていった。
「逃がすわけがないだろう……!」
力強く、されど静かな声色で吐かれた『カテゴリーキラー』の台詞。
主の元に還ろうと飛来した十字架は、勢いもそのままに、『カテゴリーキラー』を中心にほぼ直角に軌道を変え、俺達に突っ込んできた。
……これは……。
「速いっ……⁉︎」
駄目だ、間に合わない。
雪ノ下さんが何をしようとしているかは分からないが、このままでは『カテゴリーキラー』の攻撃が、この薄い空気の壁を容易に破るだろう。そう思った俺は、咄嗟に雪ノ下さんの前に飛び出して、なんとか直進する鉄塊の軌道を逸らそうと、拳を固めた。
『人狼』にとって、銀がどれほどの悪影響を及ぼすのか、俺も詳しくはわからない。それでも、多少の肉体的損害なら恐れる必要がない今の俺なら……──。
しかし、その瞬間。
俺達を取り巻いていた暴風のカーテンが、一気に弾けた。
さらに、俺が決死の覚悟で放った渾身の右ストレートも虚しく空を切る。
「……はぁ?」
間抜けな声を出す俺の視界には、閑散とした屋根の無い空間と、見上げる夜空が広がっていた。
そこには十字架も。
ひしゃげた遊具達も。
目深いハットの男もいない。
……ちょ、なにここ。
ついに俺の火事場の馬鹿力はテレポートすら可能にしてしまったのか。ジャッジメントですの!
「ここはね、君が出てきた地下鉄の入り口。その隣に建ってるビルの屋上だよ」
呆然としていた俺は、背後からかけられた声に振り向いた。そこには、後ろ手を組んで立つ雪ノ下さんが、花も綻ぶような笑顔でこっちを見ていた。……え、なに、普通に怖いんですけど。美人の笑顔ってどこか裏を感じさせるよね、童貞諸君は分かってくれるよね?
「……助けて、くれたんですか?」
「そうだよ、私が助けた。あのままじゃ君、確実に殺されてたしね」
ああ、そうだった。この人はさっきも、『カテゴリーキラー』の攻撃から俺を助けてくれているじゃあないか。
得体の知れない、謎の膂力で。
挙げ句の果てには、瞬間移動ときたもんだ。
いよいよ人間離れしているし。
……ますます信用からも遠ざかる。
「雪ノ下さん」
「なぁに?」
あっけらかんと、小首を傾げて彼女は答える。俺は、胸につっかえる疑念の全てを、ドロドロに溶かして、一つにまとめた。
ようは、核心を突く一つの質問を投げかけた。
「貴方は、何者なんですか」
数秒の沈黙が流れた。
強張った表情で、ただ相手の大きな黒目を見つめる俺と、その視線を正面から受けたまま、微動だにしない雪ノ下陽乃。
屋上に、ふわりと風が吹き込む。
先に声を上げたのは、雪ノ下さんだった。
「君、面白いよね」
「……は?」
予想だにしていなかった返答に、俺は今日何度目かも分からない声を出した。
そんな俺を見て、雪ノ下さんはお腹を抱えケラケラと笑う。
「だってさ、普通こんな状況で、私のことを疑ったりする? よっぽど疑心暗鬼なんだね」
「……」
「きっと、いろんな人に裏切られてきたんだろうな、比企谷くんは。可愛いよ、すごく」
どんな言葉を返していいか分からない俺は、ただじっと雪ノ下さんを見ていた。不思議と、『可愛い』なんて言われても、全く嬉しくはなかった。
「悪意に怯えて縮こまる。まるで捨てられた仔犬みたい」
ようやく笑いが収まった様子の雪ノ下さんは、大きく息を吸って、吐き出す。再び顔を上げる頃には、いつかと同じ強化外骨格の如き笑みが張り付いていた。
「安心して。私の正体も今から話すし、目的は本当に君を助ける、ってことだけだから」
取り敢えず落ち着こう、と言う雪ノ下さんは、閑散とした屋上の隅にポツンと置かれた一脚のベンチを指差した。
「言ったでしょ。私は君の味方だ、ってね」
雪ノ下さんは、自分が怪異に深く関わるようになった経歴を、詳らかに話してくれた。
身内が、幼少から怪異に取り憑かれている特異体質であること。
大学に進学した時、何代か上のOBの中に、特別怪異に詳しいサークル仲間達がいたこと。
その身内をどうにかするために、彼らとコンタクトをとったこと。
先刻見せた怪力も瞬間移動も、ちょっとした未来予知さえも、彼等の指示の下身に付けた、小さな裏技だということ。
そして、俺を助けようとする理由。
それを聞くと、雪ノ下さんは待ってましたと言わんばかりに語り出した。
「いやー、それがね。先輩からさっき連絡があって。『今直江津は手一杯だから、これ以上の面倒事は出来るだけ避けてほしい』なんて言われちゃってさ」
相変わらず胡散臭い人だったなぁ、と。月のない夜空を見上げて呟く雪ノ下さんは、悪戯好きの悪童のような笑みを浮かべていた。
……なんだかんだで、彼女もその先輩を慕ってはいるのだろうか。
ぼーっと雪ノ下さんの横顔を盗み見ていた俺は、ふと鼻をつく血の匂いに気付いた。首を回して辺りを見るが、源たりえそうなものは何一つ見当たらない。閑散としたビルの屋上と、街灯だけがむなしく輝く景観が眼下に広がるだけだ。
……まだ、鋭敏過ぎる感覚に俺がついていけてないのかも知れない。
「何か事情とか、知ってる?」
そう言った雪ノ下さんは、気が付けば肩が触れ合うほどの距離にまで詰め寄ってきて、俺の瞳を覗き込んでいた。ジャパニーズニンジャかなんかですか、その気配遮断スキルは。
俺は、思わず動揺してしまった男心を気取られまいと必死に平静を取り繕いながら答えた。
「そんなに深くは知りませんが……確か、何人かのヴァンパイアハンターが仕事中で、『カテゴリーキラー』もそこに合流するつもりだった、とか……」
「なーんだ、結構知ってるじゃない」
聞くや否や、雪ノ下さんは指で銃の形を作り俺に向き直ると、「ばーん」なんて言いながらウインクをしてきた。
流石の執行官、雪ノ下陽乃。
危うく俺のハートがエリミネーターされるところだったぜ。今回はなんとかパラライザーで済んだけど。
やだ、俺の眼と色相濁り過ぎ……。
「そう、まさにそれだよ。あっちも結構面白……厄介なことになってるらしいんだよね」
いや、本音が口から出かかってますよ。
「まぁつまり私の目的は、『カテゴリーキラー』をここで何とかして、直江津に向かわせないことにあるんだけど……──」
雪ノ下さんがそう言いかけて、突然黙った。俺はその瞬間の、彼女の苦しげに顰められた眉を見逃さなかった。
……なるほど。
さっきから匂っていた血は、これか。
「あちゃあ。ちょっと当て方が悪かったかな」
雪ノ下さんの右脚、膝の直ぐ下辺りから、数滴の血が滴って、コンクリートの床に染みを作っていた。彼女の言う通り、きっと『カテゴリーキラー』の十字架を蹴り飛ばした際、衝撃を殺しきれなかったんだろう。黒いタイツが破れ、その下に赤黒い傷が深々と刻まれていた。
……流石にいたたまれない。
俺は思わず、その傷を直視できなくなるほどの自責の念を感じて、目を伏せた。
何故ならその傷は、本来死の運命を辿るはずだった俺を救うために、雪ノ下さんが肩代わりをするような形で負ったもの。
今、俺の前で流れているのは、十/十とは言わないが、俺にも責任の一端はあるはずの血なのだ。
「……すいません、俺のせいですね。どうにかしますんで、何処かから適当にガーゼと消毒液でもかっぱらってきま」
俺が、良心の呵責に耐えかねて行動を起こそうとしたその時。
「この傷、『舐めて』。比企谷くん」
「すぅ…………………………」
俺の時が、止まった。
六秒、五秒、四秒、三、二、一……。
時は、再び動き出す。
「何言ってるんですか、雪ノ下さん」
「すごーい、本当に時が止まったみたいだったよ。まさか瞼一つ動かさないなんて」
いや、そうじゃなくてですね。
「何故俺が雪ノ下さんのおみ足を舐めなければいけないのか、説明がいただけないとですね……」
しどろもどろになって言う俺に、雪ノ下さんは悪戯な笑みを浮かべていた。
計画通り、ってか。タチが悪い。
「あんまりからかわないでください。思わせぶりな態度を見せられたら、簡単に好きになっちゃいますんで」
「うわ、それはちょっと気持ち悪いかなー」
本当になんなんだこの人は……。今のめっちゃ傷付いたんですけど。
いとも簡単に俺の純情を踏みにじった雪ノ下さんは、自分の人差し指をぴっと立てて、薄い口紅の乗った艶やかな唇を指し示した。
「『人狼』の体液には、強力な治癒効果があるんだよ。ほら、何か心当たりはない?」
「……心当たり……?」
少し考えて、すぐに思い当たった。
薊の傷を止血する時、彼女は俺に血を『吸い出せ』と言ったのだ。きっとそれは、雪ノ下さんが言うような効能が、俺の唾液にあったからなのだろう。
つまりあれは、銀髪ケモミミ美女と俺とのエッチなフラグでは無く、その実とても合理的な処置だったのか……やっぱ現実って糞だわ。
たまには俺が良い目を見てもいいじゃないの。
「……ま、いいか。分かりました」
思わず溜息をついて、俺はベンチから立ち上がり、雪ノ下さんの足元に膝を折った。低くなった目線の正面には、太腿半ばまでのワンピースの裾、雪ノ下さんの聖域を護る暗闇があった。パンツ見ながら足を舐めるとかどんなご褒美だよ。
なんだかんだでラッキーすけべの神はまだ俺を見放してはいなかったか!
くそっ、あと少し……あと少し見ていたら目が闇に慣れて……!
横目でチラチラと覗き見を試みていた俺だったが、『人狼』の鋭敏な感覚が、雪ノ下さんの冷たい視線に気付いた。
……終わった…………。
「比企谷くんは、人間に戻りたいとか思わないの?」
「すいませんこれは男の性というか…………はい?」
あ、そっちじゃないのね。良かったー。
いつになく真剣な声色の雪ノ下さんに、俺も思わず身構えた。
それは俺自身、正直まだよく分かっていないことだ。
確かに俺は今、人間ではない。
全く別の生物に推移しているし。
全く別の次元へ乖離していまっている。
だけど。
「特別、人間に戻りたいとかは思っていませんよ」
俺自身、今の俺がどんな表情でこの返答をしたのか分からなかったが、雪ノ下さんが珍しく面喰らったように眉を吊り上げていたから、それはきっと余程酷い顔だったのだろう。
「……そんな『さもありなん』、みたいな感じで割り切れちゃうか」
「だって、別に俺が人間じゃなくなったとして、迷惑かけるのは多分家族くらいなもんですから。それに、見た目が完全な化物になっているわけでもないから、上手いことやっていけば社会にも溶け込めるでしょうし」
「まぁ、そりゃあそうかもね」
「確かに最初は動揺しました。だけどよくよく考えりゃ、今の俺はどんな才能人をも種族という垣根から超越してるって事です。勉強が出来るとか、顔が整っているとか、そんなことは人間社会の内側でだけしか通用しない優位性であって、いざ生物として本来の価値ってのは腕っ節の強さに帰結しますからね」
そう。
俺だって何も、この世の全てを否定的に取って生きて行こうなんて思っていない。そもそも俺が人を信じなくなった理由だって、誰かのなんでもないような行為を、勝手に『好意的』に解釈してしまったことが原因だ。
俺はありのままの現象を、自分の都合に合わせてせっせこ歪めて生きてきた。
でも、それはきっと失敗だった。
他人から傷付けられることを恐れすぎて、結果として最も深い傷を、自ら刻んでしまったから。
そんなのは、リストカットが趣味なんて輩と大差ない。
俺は、恥を知るべき痴れ者だったのだ。
「つまり俺が言いたいことは、『力こそパワー』ってことです」
俺はありったけの気合で、俺のできる全力のキメ顔を作った。
どうだお前達、たまには俺も良いこと言うだろ。
雪ノ下さんはそんな俺を見て、小さく笑ってから空を見上げた。
「……やっぱり君って」
どんな顔をしているのか、膝立ちのままの俺からは見えない。だけどやっぱり、彼女はきっと笑っているんだろうと、そんな漠然としたことを思った。
「面白いね」
その後。
ビルの側面に取り付けられていた昇降階段を使い、俺達は普通に地上に降りて、地下鉄へと向かった。
雪ノ下さんのおみ足の件について、深く言及はしまい。ただ一つ言えるのは、余りにも『人狼』の回復力が強すぎて、舌先が触れた瞬間にほぼ完治してしまったため、存分に感触を味わうことができなかったということだ。
……ってそれ殆ど全部言うとるがな。
ホンマ堪忍してやしかし。
ともかく、数時間前と同じ地下道を通って、数時間前と同じ血痕を辿り。
俺達は、薊の居る用具室の前に到着したのだった。
「どーするの? なんて答えるかはもう決めてる?」
雪ノ下さんが、扉の前で硬直している俺の背中にそう問いかけた。
「……まぁ、大体は」
「嘘、まだ煮え切らないんでしょ」
俺の嘘は速攻でバレた。彼女には他人の心情なんて筒抜けなんだった。相変わらず学習しないな、俺も。
そう、俺は未だに悩んでいた。
薊の願いを受け入れるか否か。それはもしかしたら、殺人の一端を担ってしまうかもしれない選択だ。
世界の裏側に生きる『怪異達』が、人間社会の法に囚われることはない。もし『カテゴリーキラー』がなんらかの決着の果てに死んだとして、それはきっと明るみには出ないし、仮に出たとしても、それはただの『怪事件』として世間に処理されるのだろう。
故に俺は、社会的制裁を受ける可能性に怯えているのではなく。
単純な。
至極単純な。
俺自身という一個人の矜持と、今やあやふやな人倫観の上で揺れているだけに過ぎなかった。
「私がまた、なんとかしてあげよっか」
俯いたまま、じっと考えをまとめていた俺に、雪ノ下さんは再び声をかけてきた。
「私はどこかのお人好しな先輩みたいに、『助けたんじゃない。勝手に君が助かっただけ』だなんて言わないよ」
雪ノ下さんの声色は冷たいようで。
我が子に語り掛ける母のように暖かく。
また、赤の他人と会話するかのように無機質だった。
きっと俺は今、彼女に試されている。
「私が『助けてあげるから、君はもう何もしなくていいよ』」
違う。
「そういうわけにはいきません」
間髪入れずに、そう言い放った。
人生には、必ず避けては通れない選択を迫られる機会が何度かあると、人々は言う。
ならば俺にとってその機会とは、きっと今だ。
二十年にも満たない俺の人生に、果たしてどれほどの価値があるかは分からない。
尊くはないかもしれない。
特別でもないかもしれない。
だが、かけがえのないものであったことは確かだ。
誰かが俺のような生き方を選べはしても、誰かが俺自身になることはできないのだから。
俺が舵を取らなければ、それは俺の人生ではないのだ。
「──────斃します」
体を翻し、雪ノ下さんに向き直る。
逡巡を振り払って、ようやく俺は腹を据えた。言葉の力とはやはり凄まじいもので、それを口にした時、すでに俺の中には確固たる意志が立ち上がっていた。
本当は殺さなくてもいいのかも知れない。
だけど、今決めた。
俺が決定した、俺の選択だ。
必ず『奴』に、報いを受けさせてやる。
誓いのようで、祈りのようでもあった俺の言葉に、雪ノ下さんは人の悪い笑顔を浮かべた。
「……やっぱり比企谷くんといると退屈しないなぁ。私気に入っちゃった」
雪ノ下さんは大きく一歩こちらに踏み込み、息も触れ合う距離で、じっと俺の瞳を覗き混んできた。
大きな黒眼に映り込む俺の姿が、はっきりと見える。
不思議と、突然の急接近にも関わらず、俺は動揺していなかった。
「なんでもそつなくこなすヤツなんて、つまらないでしょう。人間は苦悩して、踠いて、汚れて、憐れに地面を這いずって。そうしてきっと、初めて完成するんだよ」
ふわりと、雪ノ下さんの髪の香りが漂ってきた。良い匂いだ。でも、それが何の香りかは分からない。どこかで嗅いだことがある気もするし、全く嗅いだことがないものな気もする。
まさに、彼女らしいと評するべき匂いだった。
「それで、具体的にはどうするつもり?」
その言葉に、俺は一気に現実へ引き戻された。
……。
…………。
………………。
それもそうだな。
やっべ、どうしよう。目先の問題に精一杯で、事態を俯瞰的に見ることを忘れていたようだ。
これから『カテゴリーキラー』を斃すにしたって、どうするんだ。なにを、どうして、どうやったら、俺は目的を達成できる。
「……あー……」
「……」
「……いや、まぁ。それはアレですよ、アレをこーしたり、コレをあーしたりして……」
沈黙が痛いとはまさにこのことか。俺はしどろもどろになりながら、何かを語るようで何も語っていない台詞を吐いた。
「結局ノープランね。ま、いいけど」
呆れたように、雪ノ下さんが息をついた。
さっきまでちょっとカッコつけていた分、現状との落差のせいでより恥ずかしい……。
「……なんとか考えてみます」
俺は、雪ノ下さんを見ているようで、わずかに視線を脇にそらしてそう言った。
「いや、別に構わないよ。さっきは私も少し意地悪なこと言ったし」
ぱちん、と乾いた音が鳴る。雪ノ下さんが指を打った音だ。
その音は俺の視線を雪ノ下さんの元に集め、場の空気を再び引き締めた。
「言ったでしょ。私の目的は『カテゴリーキラー』を直江津に向かわせないこと。で、君の目的は『カテゴリーキラー』を倒す事。つまり私達が協力したら、互いに大きな利点が生まれるじゃない」
「……確かに、そうですね」
なんだ。
『俺の味方』だなんて言っていたが、雪ノ下さんは最初から、きっとこうなることを見越していたに違いない。俺が彼女の目的達成に都合のいい動きをしてくれると知っていたからこそ、今迄何度も助け舟を出してくれたのだ。……女って怖いよぉ。
「よし! じゃあ共同戦線を張るのは決定として、次は役割分担なんだけど──……」
しかしまぁ、雪ノ下さんが協力的な姿勢を取ってくれると言うのなら、それは願ってもいない話だ。きっと彼女が持つ多様なスキルは、これから先どんな状況になったとしても必ず役に立つ。
なんなら、一切手こずることもなく『カテゴリーキラー』を倒すことだって……──
「『カテゴリーキラー』は、比企谷くんになんとかしてもらうね」
「いや、全然意味分からないです」
何がどうなったらそういう分担になるんだよ。雪ノ下さんは、俺がついさっき、奴に挽肉にされかけたことを覚えていないのか。
「いや、マジで意味分からないですって。俺はてっきり、雪ノ下さんと俺のコンビで『カテゴリーキラー』を斃す流れだと、あわよくば殆ど雪ノ下さんに任せられるとも思ってたんですけど……」
「後半のやつは口に出したらダメだったんじゃない?」
おっといけない。
テンパって思わず余計なことも口走ってしまった。
「まぁまぁ。君が慌てる気持ちもよく分かる。勿論お姉さんは、何も考えないでこんなこと言ってるんじゃないよ」
「……何を考えているんですか」
「そう慌てないの。男は常に余裕を持たなきゃ」
雪ノ下さんは、ふっふっふー、とわざとらしい笑い声で、ぴんと人差し指を立てた右手を俺に向けた。
「我に秘策あり……なんつって」
あと数話で完結……かな?