花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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少年提督と野獣提督 後編

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぬるい風が吹いてきて、曇天が暗さを増してきている。重苦しい雨雲の連なりは、陰鬱さと不吉さを象徴すると言うよりも、余りにも巨大で超越的な何者かが此方を見下ろしているかのようでもあった。幽かな雨粒に肌を濡らしたレ級は、能天気そうで無邪気な笑顔を浮かべたままで視線だけをギョロギョロっと動かして、雷達を眺めている。ヤツの尻尾の艤装獣も、「HAaaaaahhhh……」と白く煙る吐息を漏らしながら、こっちを睨んでいた。とにかく、もの凄い威圧感だ。

 

 ひゅっ、と喉を鳴らすような悲鳴を漏らしたのは、雷に手を引かれて立ち上がったテレビ局クルーだ。すぐそこに現れた戦艦レ級という明確な脅威と死の予感に、顔を強張らせて歯を鳴らしている。大井の傍に居る方のテレビ局のクルーは、まだ状況を飲み込めていないのか。驚いたような表情を浮かべたままで、茫然とレ級を見詰めていた。憲兵達は決死の覚悟を決めた表情で、手にしていた大型の銃機を構えている。通常の火器がレ級に通用する筈は無い。だが、それを理解した上で尚、憲兵達は戦闘態勢を取ろうとしていた。彼らもまた雷と同じく、テレビ局のクルー達を守ろうとしている。

 

 もう一度、雷は息を吸う。誇り高い軍人である彼らも、一般人であるテレビ局のクルー達も、艦娘として守らなければならない。雷は彼らを庇うように前に出て、錨を構える。大井も同じように、彼らの盾となるべく“抜錨”状態のままで姿勢を落とし、雷に並んだ。レ級を見据えながら、雷は唇を舐めて湿らせる。掌の中の錨を両手で握り締めた。少しずつ姿勢を落とす。息を吸う。埃っぽい空気が口の中でザラついた。自分の鼓動が耳の中で聞こえる。

 

 状況は圧倒的に不利だ。レ級が容赦なく砲撃を行ってくれば、それだけで憲兵達を守ることは難しくなる。飛んでくる砲弾全てを体で受け止める方法が思考を過る。だが、それは現実的では無い。とにかく、テレビ局のクルーや憲兵たちを逃がすことが先決だが、臨戦態勢を取っているレ級を前にして、安直な退避行動を取ることは出来そうになかった。雷達は、既にレ級の射程に入っている。隙を見せれば、すぐにでも砲弾が飛んできそうだ。雷は目を凝らす。どんな小さなものであっても、レ級の動きを見逃さない。そのつもりで、更に一歩だけ前に出た時だった。

 

「雷」

 

 名前を呼ばれた。少し離れた位置に居る木曽だ。

 

「憲兵達と一緒に行ってくれ」

 

 えっ、と言いそうになった雷は、視線を木曽に向ける。木曽は軍刀に手をかけつつ前に出て、女性記者を下がらせていた。女性記者は顏を恐怖で引き攣らせながら、木曽と、レ級と、それから雷や憲兵たちを順に見て、雷達の方へと走り寄ってきて、雷と大井の背後へと隠れた。その女性記者の怯えた様子がレ級を刺激しないかと思ったが、レ級は白い歯を見せる楽しげな笑顔を浮かべたままで、此方を眺めている。矮弱な獲物を前に、殺戮と愉悦の予感をゆっくりと味わっているのだろうか。

 

 金属獣の尻尾を悠然と揺らすレ級は、まだ動かない。ただ、それは好機でもあった。位置的に、憲兵やテレビ局のクルー、女性記者たちが、僅かではあるがレ級から距離を取ることも出来た。そして彼らの盾とあるように、木曽を先頭にして、雷と大井が三角形を描くように並んでいる。ゆっくりと大井が息を吐くのが分かった。

 

「……艦娘が3人とも残るわけにはいかないわね」

 

 大井は言いながら木曽と並ぶように前に出て、憲兵や女性記者、それにテレビ局のクルー達を雷に預けるように、「お願いするわ」と、肩越しに振り返った。大井は穏やかでありながらも、覚悟を滲ませた表情をしていた。その大井と木曽の背中を見て、雷は喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。奥歯を噛む。理屈で感情を抑え込む。木曽と大井の判断は、多分、正しい。

 

 海上での艦隊戦としての練度や装備を抜きにして、今のような陸地での闘争で見れば、木曽と大井の方が、雷よりも戦闘力は上だ。あの二人でレ級を食い止めてくれるなら、その間に雷が、憲兵やテレビ局のクルー、女性記者たちを逃がすために動くことが可能だ。この場から離れる最中に上空から猫艦戦が襲ってきたとしても、雷がいれば何とか対処もできる。人命を守ることが最優先であるならば、レ級から離れることに迷うべきではない。躊躇してはならない。雷はすぐに行動に移る。

 

「今の内に、安全な場所まで走って!」

 

 雷は女性記者たちに振り返り、叫ぶように言う。

 

「憲兵さん、先頭をお願い! 雷が殿につくから!」

 

 憲兵達はすぐに状況を理解してくれた。一刻も早くこの場から離れるべく、女性記者やテレビ局のクルー達を引き連れるようにして走り出す。その最後尾に続き、雷も駆け出そうとした時だった。背後、レ級が居る方から、ドゴンッ!! という、硬いものが派手に砕ける音が聞こえた。何の音だろうと思って、木曽や大井の居る方へと視線を向けたのが迂闊だった。木曽も大井も、レ級の身体能力を侮っていた訳ではない。それこそ、命を懸けて対峙していた筈だ。

 

 焦った表情をした大井が、雷に何かを叫んでいる。木曽が忌々しそうに上空を見上げていた。レ級の姿が無かった。嫌な予感がしたのと同時に、足元を影が移動していた。丸い影だ。影は雷を通り過ぎて、追い越していった。上だ。上に、何かが居るのだ。何かが頭上を通り過ぎていった。何かなんて決まっている。レ級だ。ズッシィィンン!! と降って来た。憲兵たちのすぐ傍だ。焦る暇も無い。木曽と大井が、此方に向かって駆け出している。雷もだ。だが、憲兵たちを庇おうにも間に合わない。やられたと思った。レ級は、木曽と大井が前に出てくることを見越して、待っていたのだ。

 

 テレビ局のクルー達が、「えっ」「うわっ」と、気の抜けたような声を出して、レ級の方へと視線を向けて、一瞬だけ固まった。女性記者がへたり込む。憲兵達は一瞬だけ怯みを見せたが、すぐに装備していた銃器を構え、即座に発砲しようとしていた。だが、着地したレ級が動き出す方が早かった。レ級は「シシシ」っと肩を揺らして笑いながら尻尾の艤装獣を振り回し、銃器を構えた憲兵を左右に払い飛ばした。

 

 心臓が凍り、血の気が引いた。憲兵達が死んだと思った。だが、払い飛ばされた憲兵達は地面に倒れて呻きながらも、何とか立ち上がろうとしている。ホッとすると同時に、大きな違和感が在った。人間を相手に、レ級が手加減をした? 雷の脳裏にそんな疑問が過る間に、レ級は動きを硬直させていたテレビ局のクルー達に無造作に近づいていた。疾い。まるで影が滑るかのような、捉えどころのない動きだった。楽しげな笑みを浮かべるレ級は、クルー二人の上着を引っ掴んで、横合いに放り投げて地面に転がしてから、彼らを見下ろした。悲鳴が上がる。

 

「あっは、御馳走♪ (レ)」

 

 嬉しそうに目を細めたレ級は、大人が子供を怖がらせるかのように、『食~べちゃうぞ~☆』といった感じで両手を広げた。微笑ましくコミカルな動作だったが、大口を艤装を展開している深海棲艦である彼女がやると、巨大な死の予感を見る者に与えるだけに違いない。

 

 実際、クルー達は悲鳴を上げることも出来ずに倒れ、怯え切った表情で体を震わせ、レ級を見上げている。レ級の尻尾の艤装獣が、鋭い牙がびっしりと並んだ大口を開け、クルー達に近づいていく。捕食する気か。木曽と大井の援護は間に合いそうにない。雷は艤装を召んで、砲口をレ級に突き付けようとしたが、砲撃は無理だ。憲兵やテレビ局のクルー達まで爆風に巻き込んでしまう。その可能性を認識した時点で、艦娘である雷の艤装は沈黙した。艦娘は、人間を傷つけることは出来ない。

 

 だが、雷の意思と使命と、それを遂行しようとする肉体は動く。熱を帯びた呼吸と共に、鼓動が聞こえる。錨を握る雷の腕と掌からは、力は消えていない。艤装は沈黙しても、艦娘としての雷の肉体は黙らない。細い雨の雫が瞳を濡らした。瞬きをせずに駆けだす。集中力が極限まで高まる。思考が高速で流れる。駆ける雷は、体を更に前に倒す。

 

 地面を蹴る。叫ぶ。数秒後、自分は死ぬ。そう思った。戦艦レ級にタイマンでなんて、逆立ちしても勝てない。殺されるだろう。でも、重要なのはそんな事じゃない。何とか、テレビ局のクルーや憲兵達が逃げだせる状況を作り出すんだ。この場には、まだ木曽と大井が万全の状態で居る。彼女達が、クルー達を助け出すチャンスを作る。その可能性を手繰り寄せるために、命を捨てるんだ。その覚悟はとっくにできている。

 

 駆ける一歩と一歩の刹那。

 脳裏に、いつかの光景が浮かんで消えた。

 

 別の鎮守府の雷が、この鎮守府の辿り着いた時の夜だった。彼女は、雷の腕の中で消えていった。少年提督が、消えていく彼女を近代化改修してくれた。雷へと、彼女の魂を鋳込んでくれた。雷の中には、二人分の勇気と使命がある。無私の正義がある。

 

 それを今、ここで、使うんだ。

 何もかもを置き去りにするつもりで走る。

 脚を前に出す。錨を握りこむ。気付く。

 レ級が、視線だけでこっちを見ている。

 

 位置的に見れば、レ級は雷に左側面を見せている。横っ腹を雷に向けている状況だ。レ級は、さっきと同じ『食~べちゃうぞ~☆』の格好ままで動かない。艤装獣もまた、怯えて震えるテレビ局のクルー達に噛みつく気配はない。大口を開けたままで捕食のポーズを維持している。子供っぽい動作をしているレ級だが、雷を捉える彼女の瞳は酷く冷静だ。先程も感じた違和感が、胸のあたりで燻ぶる。レ級は、雷が突っ込んでくるのを待っているのか。クルー達を餌にして、何らかの罠へと誘っているのかもしれない。

 

 だが、そんなことに構っていられないことも確かだった。黙って見ている訳にはいかない。

 今、雷はクルー達を助けなければならない。それが艦娘としての存在意義であり、同時に、生きてきた時間の中で育んだ、雷の決意でもある。奥歯をゴリゴリと噛みしめる雷は、レ級の横合へ迫る。踏み込む。両手を掲げたままの格好のレ級は、首を僅かに傾け、顔を雷の方へと向けた。尻尾の艤装獣もだ。

 

 反撃が来ると思った。相手はレ級だ。殺される。それでいい。雷の攻撃は、届かなくていい。レ級の意識をクルー達から逸らすんだ。ちょっとの時間で良い。レ級がクルーを喰い殺してしまう前に、木曽と大井がレ級に肉薄できるだけの時間を稼ぐ。死を実践する気持ちで、錨を振りかぶる。雷の全存在を、この瞬間に投入する。極限まで高まった集中力は、何もかもをスローモーションに見せた。

 

「うらぁぁああああああ!!!」

 

 姉妹艦である響の雄叫びを真似て、雷が錨を振り抜こうとする瞬間だった。

 レ級が、雷にだけ分かる角度で片目を閉じるのが分かった。

 

 それが茶目っ気たっぷりのウィンクであり、同時に、雷への信頼と友情を確かめるような真剣さを乗せた眼差しだったことを理解した時には、すでに雷は手にした錨を思いっきり振り抜いて、レ級の横っ面をぶん殴っていた。鈍い音が盛大に響く。当たると思ってはいなかったから、雷も驚いた。

 

「阿吽!? (レ)」

 

 奇妙な悲鳴を上げたレ級は、錐揉みに吹っ飛んで地面を4回ほど大きくバウンドしたあと、その勢いのままで派手に地面を転がり庁舎の壁に激突した。轟音とともに庁舎の壁面が崩れ、瓦礫がレ級に降り注いだ。巨大なコンクリの塊が、レ級の頭部にガッツンガッツンと激突しながら、圧し潰すように降り積もった。細い雨が降る中でも、濛々と白い粉塵が舞い上がる。ただレ級は、大人しく瓦礫に潰されたりなんてしなかった。積もって来た瓦礫の山を、ズガァァァンと尻尾の艤装獣の一振りで払い飛ばして姿を見せる。

 

「痛ァァァアア!! (ノД`)・゜・。(レ)」

 

 半泣きになって立ち上がったレ級の顔は歪んでいた。眼球が潰れて、喉からは折れた骨が飛び出している。雷の攻撃が届いたことを信じられない気持ちで、雷はレ級の姿を眺めていた。

 

 握った錨から伝う感触には、肉と骨を砕いた重みと生々しさが在り、雷は、自分が生きていることを実感する。生きている。レ級は反撃をしてこなかった。それどころか、ウィンクまでして見せた。明らかに、ワザと雷の攻撃を受けた。それは、どういうことだろう。何を意味しているのか。

 

 臨戦態勢を解くことが出来ない緊張の中で、集中力によって加速した思考だけがグルグルと巡る。遭遇してからのレ級は、雷たちに対して砲撃をしてこなかった。そしてつい先ほども、レ級は自分のすぐ近くにテレビ局のクルーを倒して寝転ばせ、雷たちが砲撃を行えない状況を作り出している。その一連の行動は、万が一にも一般人を砲撃戦に巻き込まないために、レ級は自身の身体能力をフルに使って立ち回りながら、艦娘に──雷に、攻撃され、撃退されることを目的としているのではないか。まさかとは思うが、胸の中で燻ぶる違和感は消えない。

 

「あ、ありがとう!」

「ありがとうございます!」

 

 すぐ近くで必死な声が聞こえて、雷はハッとする。そうだ。クルー達だ。彼らは腰を抜かしていたが、生き延びた安心感のせいか涙目になっていた。

 

「大丈夫!? 怪我は無い!?」

 

 雷は錨を構えたまま、視線だけで彼らを交互に見る。大きな負傷をしている様子ではないことに安心するが、危機を脱した訳ではない。雷がレ級に視線を戻した時には、既にレ級は再生と修復を終えていた。とんでもない自己修復速度だ。元通りの可憐な顔貌を取り戻したレ級は、明らかな怯みを見せるかのような苦い表情を作って雷を見ている。その表情もワザとらしい。まるで、『せっかく人間を捕食しようとしたのに雷に邪魔をされ、苦戦しているのだ』と、何処かへ向けてアピールしているかのようでもあった。胸に抱えた違和感が更に膨らんでいく。

 

 平静を保つんだ。雷は自分に言い聞かせるのと同時に、木曽と大井が雷と並んだ。前方のレ級に意識を割きつつ、周囲を確認する。雷の少し背後にいる女性記者も、憲兵達も立ち上がっていた。女性記者に大きな負傷は見られないし、憲兵達も、雷達を援護するかのように銃器を構えようとしていた。雷と木曽、大井は背後にクルー達を守るように位置を取りなおす。これでレ級との遭遇戦は、状況的に振り出しに戻るかと思った。違った。

 

 不味そうな表情を作って雷を見ていたレ級が、「おっ」っという顔になって、手でひさしを作り、空へと視線を上げた。いや、空じゃない。雷達から少し離れた庁舎の上辺りを見た。雷はレ級の視線を追うよりも先に、木曽が舌打ちをするのが聞こえた。何者かがその庁舎上部の壁を蹴って、レ級の隣へと飛び込んできたことに気づいたのだ。雷は舌打ちをするよりも先に、呻きそうになった。大井も鬱陶しそうに息を吐いている。

 

 レ級の隣に音もなく着地したのは、重巡棲姫だった。

 

 彼女も“抜錨”状態にあり、腹部から大蛇のような2匹の艤装獣を展開していた。蛇型の艤装獣たちはうねり、首をもたげ、雷達を睨んでくる。悲鳴を上げたのは女性記者か。憲兵達が息を飲み、クルー達がひゅっと息を詰まらせるのが分かった。それと同時だったろうか。

 

「オッスオッス!! (助太刀)」

 

 近くの庁舎の屋上付近を三角蹴りして、提督服を着こんだ人物がこの場に乱入してきた。雷達よりも前に出た位置に着地した人物が一瞬、誰だが分からなかった。ちゃんと詰襟の服を着ていたからだ。誰だよ? (素)と思いかけたが、それが二振りの刀を手にした野獣であると気づいて、雷は泣きそうになった。重巡棲姫を追って来たのだろう。さきほど見た艦娘囀線でも、野獣が重巡棲姫と交戦中であると、吹雪が書き込んでいた筈だ。

 

 野獣が交戦していたエリアは、雷達の居るエリアと隣接している。重巡棲姫を追う状況になって、雷達が一般人を守ろうとしている場面にでくわした、と言ったところだろうか。だが、それも都合が良すぎる気がした。雷の脳裏に、レ級の不自然な行動の数々が過っていく。全く自覚できないままで、何らかの役割を演じさせられているかのような感覚が在る。タイミングを見計らった重巡棲姫が、交戦中の野獣をこの場に誘い込んだのではないかと思う。

 

 レ級と重巡棲姫は、此方に体を向けたままで言葉を交わしている。気楽な表情を見せるレ級に対し、重巡棲姫は少々疲れた表情を浮かべていた。彼女たちは戦闘中であるという緊張をまるで感じさせない態度だ。仲の良い女子高生が、「職員室に呼び出されてやんの」「うっせぇなぁ黙れ」なんて言い合っているような風情すらある。レ級の隣に立った重巡棲姫に傷は無い。野獣と戦闘を行い無傷というわけでもないだろうから、今のレ級と同じく、修復・再生して間もないだけなのかもしれない。

 

 

「怪我してる奴とか居ないっスかぁ? Oh^~? (現状把握)」

 

 野獣は右手に握った長刀を肩に担ぎ、もう左手に握った刀の切っ先を下ろす独特の構えをとっている。一分の隙も無い。その研ぎ澄まされた佇まいを崩さず、雷達に真剣な視線を寄越してきた。「えぇ」と、大井が頷く。「雷の御蔭でな」と木曽が続いた。その言葉を聞いて、雷の奮戦があったからこそ、テレビ局のクルーや憲兵達を含め、この場での負傷者が出ていないと野獣は判断したのだろう。

 

「やりますねぇ! (惜しみない感謝と賞賛)」

 

 構えを取ったままの野獣は、落ち着いた表情のままで雷にウィンクをして見せる。それは、先程のレ級が雷に見せたウィンクと同じ種類のであることに気づく。雷は内臓を圧されたような気分になり、野獣に何も答えることが出来なかった。喉が僅かに震えただけだ。唇を噛む。勝手に思考が流れ始める。先程までのレ級は、クルー達に危害を加えるようなポーズを取るだけで、実際には何もしなかった。それが何らかの罠なのかとも思ったが、攻撃を仕掛けた雷に対しても、レ級は無防備であり続けていた。もしかしたらと思う。

 

 レ級には、全く敵意など無いのではないか。この鎮守府に入り込んだ人々へ危害を加えるつもりなど微塵も無いのではないか。不可解なレ級の行動にも、何らかの明確な理由と目的があってのことだろう。その目的と理由を与えたのは、今の少年提督に違いない。無意識のうちに俯きかけていた雷は、慌ててレ級達へと視線を戻す。

 

 彼女達は艤装を召んだ臨戦態勢でありながらも、雷達や野獣を見比べたままで動かない。隙も無いが、此方に向かって攻撃してくる気配も無い。雷達から少し離れた位置に、カメラ付きのドローンが飛んでいることに気付いたのはその時だ。猫艦戦達が居ないうちに、この場を撮影しようとしているのだろう。低空を飛行し、雷達や野獣、それにレ級や重巡棲姫へと遠慮なくレンズを向けている。二振りの刀を構えた野獣が、ドローンを一瞥した瞬間だった。

 

 地面を踏み砕く音が二つした。レ級と重巡棲姫が動いたのだ。だが、彼女達は此方に襲い掛かっては来なかった。攻撃ではなく撤退を選んでいた。雷も、木曽も、大井も、上手く反応できていなかった。レ級と重巡棲姫が示し合わせたように飛び下がり、この場から離れていくのを、茫然と見送るような形になった。

 

 ただ、野獣だけは彼女達を追撃しようとして、2歩ほど足を前に出していた。だが、すぐに雷たちを振り返り、そして、憲兵や女性記者、テレビ局のクルー達を順番に見た。「……これもう、(あいつらが何をしたいのか)わかんねぇな」と呟くように言いながら、野獣はレ級達が去って行った方を一瞥してから構えを解き、雷たちの方へと駆け寄ってきた。

 

「一先ず俺も、鎮守府の外まで付いていきますよ今は~(人命優先)」

 

 憲兵や一般人に怪我が無く、雷達も無事であることを再度確認したのだろう野獣は、落ち着いた表情のままで言う。雷達は顏を見合わせてから野獣に頷く。深海棲艦の脅威が遠のいた今のうちに、この場から離れるべきだ。女性記者を、憲兵の一人が背負う。腰を抜かしたテレビ局のクルー2人は、雷と大井が背負った。先頭を木曽、殿を野獣にした列を作り、雷達はすぐに駆け出す。

 

 雷は視線を曇天へと視線を上げる。相変わらず曇天が頭上に広がっているが、幽かに降り始めていた雨はいつの間にか止んでいた。空母艦娘たちが放った艦載機に撃墜されて数は減った筈だが、上空には猫艦戦たちの姿が見えた。中空に佇み、此方を見下ろしている。だが、襲い掛かってくる様子は無い。気味の悪い話だが、見送られているというか、見守られているかのような感じですらある。あれは、瑞鶴のコントロールの下にある猫艦戦なのだろうかと思う。だが、すぐに頭の中でその考えを否定する。

 

 雷は、瑞鶴が深海棲艦化することが出来るのを知っている。以前の襲撃事件で、彼女は深海棲艦化し、艦娘の肉体を無力化する術式を潜り抜け、加賀や時雨たちを助けるために活躍したと聞いている。艦娘囀線での書き込みを思い出す。瑞鶴が戦闘を行っていたとすれば、恐らく、膨大な数の猫艦戦を召び出して戦ったのは想像できる。ただ、少年提督が率いる深海棲艦達の中にも、港湾棲姫をはじめ、大量の艦載機を扱える者も複数いる筈だ。瑞鶴がどれほど深海棲艦の上位体としての力を発揮することが出来たとしても、そう簡単に制空権を奪えるとも思えなかった。交戦エリアだけならともかく、鎮守府の上空と全体なると無理だろう。

 

 瑞鶴のコントロール下にある猫艦戦たちは、翔鶴たちが合流したというEエリアに集中していると考えられるし、雷の居るCエリアまでは少し距離がある。なら、雷達の周囲を飛行しているのは敵機であると判断すべきであり、油断してはならない。雷は背負ったクルーの重みを確かめる。“抜錨”状態であり、艦娘としての力を発揮している雷にとって、大人の男性など羽のように軽いものだった。だが、そのクルーの体が弱々しく震えていることには気付いていた。彼の体温の背後に、彼の家族の存在を想う。

 

「大丈夫よ! 雷がついてるじゃない!」

 

 人々を守るために、戦う。その艦娘である自身の使命を心の中で確かめながら、背負ったクルーの恐怖を少しでも和らげるつもりで言う。クルーは震えた小さな声で「あぁ、ありがとう」と、応えてくれた。その声には人間の温度があった。雷に背負われた彼の意思は、雷の持つ感情や心に呼応していた。自分の命を預け、庇護を求める切実な祈りと感謝が在った。今の彼は雷のことを、ただの兵器などとは思っていないのは確かだった。

 

「やっぱり、お前らは頼りになりますねぇ(本音)」

 

 列の殿の居た野獣が、太い声を出した。雷は駆けながら、一瞬だけ野獣に振り返る。野獣は右手の長刀を肩に担ぐようにして持ち、太刀は腰の後ろの鞘に納めていた。空いた左手で携帯端末を操作しつつも、上空や周囲の気配を注意深く探っている様子だった。「そりゃどうも」と、ぶっきらぼうに答えた大井が鼻を鳴らし、列の先頭を走る木曽が「俺達の指揮官が優秀だからな」と、油断なく周囲へと視線を巡らせつつ、胸を張るような声で言う。

 

 雷達が艦娘囀線で連絡を取り合っているとき、野獣は重巡棲姫との戦闘の最中にあった筈だ。携帯端末を操作している野獣も、このタイミングで少女提督の活躍を把握したのだろう。「おっ、そうだな! (異論無し)」という野獣の同意を、木曽が満足そうに頷くのが分かった。雷はもう一度、視線だけで野獣に振り返る。

 

 携帯端末を操作する野獣が、今までに見たことのない表情を浮かべていることに気付く。声を掛けようとしたが、それよりも早かった。何かが高速で落下してくるような音が聞こえた。雷達の直上からだった。なんでこんなタイミングでと思わざるを得なかった。猫艦戦の群れが雨粒の隙間を縫うようにして、一斉に急降下してきたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女提督の執務室をあとにした不知火は、自身の内部を蝕んでくる焦燥を跳ねのけながら廊下を走る。手にした携帯端末で、艦娘囀線のタイムラインを素早く確認する。他の艦娘達が、鎮守府に入り込んだマスコミ関係者を退避させるために迅速に動いているのが分かった。携帯端末を懐に仕舞おうとする自分の手が、僅かに震えていることに気付く。自身の内部を蝕んでくる焦燥を跳ねのけようとするが上手くいかない。落ち着くんだと己に念じながら、不知火は唇を舐めて湿らせる。

 

 “抜錨”状態にある今の不知火に疲労はない。冷徹な活力に溢れた艦娘の肉体は万全だ。疲労は無い。ただ、自身の呼吸が震えているのを感じる。並走する少女提督に気づかれないように唾を飲みこむ。庁舎の出口が見えてくる。まず、不知火が庁舎を飛び出す。周囲を見て、頭上を見た。深海棲艦や艦載機の姿が無いことを確認すると、すぐに少女提督も走り出してくる。不知火は再び、少女提督と並走する。視線を上げると、曇天の中に籠る明るさが増していた。幽かに雨が降ってはいるが、重厚な雲が崩れるようにして流れ、その亀裂から仄かな茜色が滲んでいる。そろそろ夕刻になろうとしている。

 

 天龍、時雨、鈴谷の3人は、庁舎の損壊が激しいD、Eエリアへと向かった。鎮守府に入り込んだマスコミ関係者が、建物の崩落に巻き込まれていないかを確認し、捜索をするためだ。残った不知火は、少女提督が鎮守府の外へと退避するまでの護衛についている。少女提督は自分もD 、Eエリアに向かうつもりだったようだが、流石にそれは不知火たちも引き留めた。

 

 “元帥”とは言え、少女提督は生身の人間だ。深海棲艦の“姫”や“水鬼”クラスが健在である戦場に飛び込んでいくのは、いくら何でも無謀だったからだ。少女提督は不知火達に何か言いたげな表情を浮かべたものの、不知火達に従ってくれた。この鎮守府の提督の一人として戦闘に参加するのは野獣に任せるべきで、まだ鎮守府の外周に留まっているマスコミ関係者を退避させるのが、自身の役割だと考えてくれたのだろう。

 

「……現場での判断は、皆に任せるしかないわね」

 

 重たい荷物を慎重に手渡すような顔つきになった少女提督は、タブレット画面に映し出された鎮守府の地図と艦娘囀線のタイムラインを一瞥してからすぐに立ち上がった。そして、自身の護衛を不知火に頼んだのだ。その理由については不知火自身も理解している。あの場に居た4人の中で、不知火が最も冷静ではなかった。冷静さを装うつもりで、余計に動揺していた。タブレットに映し出されたニュース画面に現れた少年提督の姿に、明確に打ちのめされ、立ち竦んだ。それを少女提督は見抜いていたのだろう。今のタイミングでは、不知火を戦闘領域に近づけるべきではないと判断したに違いない。一般人の捜索と安全の確認が最優先である現場の判断を艦娘たちに預けた以上、自身の護衛を不知火一人にしたのも納得できた。

 

 視線を戻しながら、不知火は神経を研ぎ澄まし、周囲に深海棲艦の気配を探る。視線を巡らせる。少女提督の通信相手の声が微かに聞こえる。聞き覚えのある声だ。並走する少女提督を横目で見た。息を弾ませる彼女は、大型のタブレットを抱えている。

 

 タブレットには軍属の通信アプリが立ち上がっており、少女提督が何者かと通話している。その相手が、いつかの時の“初老の男”のものだと気づく。深刻な様子で通信を続ける少女提督には声を掛けず、不知火は周囲の警戒を続けた。少女提督が、また違う人物と通話を始める。相手は本営の人間のようだ。外部へのコンタクトを頼んでいる。この鎮守府へと取材班を送ったマスコミ各社に、自社のスタッフ全員の安否確認を急ぐよう伝えているようだ。

 

 不知火が少女提督を護る間に、少女提督は出来る限りの手を打とうとしていた。だが、野獣との連絡がつかない様子だった。彼女が不知火の隣で、走りながら悪態をつくのが分かった。だが、すぐに彼女は別の誰かと通話を始めている。焦燥の中に在りながらも、たっぷりとした冷静さを湛えている彼女が頼もしく思う。彼女の“元帥”の称号が伊達ではないことを改めて実感した。

 

 

 鎮守府の外へと向かう途中、何体かの猫艦戦が此方に気づき、見下ろしてきていたが、猫艦戦達は不知火たちに襲い掛かってくることは無かった。むしろ、不知火たちを見守っているような風情すら在った。拍子抜けするほど何事もなく、不知火と少女提督は、鎮守府の外周へと出ることが出来た。

 

 マスコミ関係者たちを避難させた他の艦娘達と合流すべく、少女提督と不知火も移動する。その途中でも、大型のタブレットを抱えて走る少女提督は、いくつもの本営施設へと通信を行っていた。丁度その通信を終えたタイミングで、少女提督が苦い表情を浮かべた。少女提督の視線の先を見て、不知火も舌打ちをしそうになる。

 

 

 鎮守府から出てすぐの広い道路の端で、悠長なことに人が集まっている。恐らくだが、鎮守府の中から退避してきたマスコミ関係者たちだった。騒がしい声が重なって聞こえてくる。彼らはカメラを構え、或いはマイクを突き出し、此処まで退避してくるのを護衛してくれた筈の憲兵や艦娘たちへと遠慮なく群がっている。けたたましく吠える犬の声が周囲の犬にも伝わっていくように、彼らが異様な熱を込めて口にする質問の殆どが、その詳細こそ違えど、『今の鎮守府で何が起こっているのか』を聞き出すためのものだった。

 

 “マイクやカメラを前に下手なことはするな”と本営から指示でもあったのだろう。憲兵達も大人しいものだった。軍人然とした怒鳴り声をあげて、マスコミを追い散らすようなことはしていない。取り囲んでくる記者やリポーターを前に、憲兵や艦娘達は皆一様に険しい表情を浮かべ、迅速にこの場所から遠く離れるように叫んでいる。その必死な様子を見たマスコミ関係者たちは、この期に及んで何らかの美味しいスクープが隠されているのだと勘繰り、より興奮した声を遠慮なく上げ、唾を飛ばし、相手を突き刺すかのような質問を浴びせかけている。細い雨粒が微かに降る中で、そういう悪循環に嵌り込んだ熱狂が、あの人だかりの中で起きているのは明白だった。

 

 異様な熱気に包まれたマスコミ関係者たちの内の数人が、鎮守府の敷地内から出てきた不知火と少女提督に気づいた。何人かの男たちが、明らかに色めきだった様子で此方に駆け寄って来る。マスコミ関係者たちは鎮守府の外に逃げこそすれ、もっと遠くへと離れるつもりは無いらしい。何かあれば撮影機材を抱え、すぐにでもまた鎮守府の中へと駆け戻っていきそうな興奮が窺える。彼らは命の危険に鈍感なのではなく、すぐ傍に艦娘たちが居るお陰で、此処は安全に違いないと悠長な判断をしているようにしか見えない。

 

「貴女は、此方の鎮守府の提督ですね!?」

「貴女の同僚が、深海棲艦を従えているのは何故ですか!?」

「あの少年提督のツノは、何なのですか!?」

 

 駆け寄ってきたマスコミ関係者たちの様子は、躾のなっていない犬の群れが、威勢よく吠えて集まってくるかのようだった。フラッシュがたかれる中、彼らはあっという間に少女提督と不知火を取り囲む。彼らの声音には此方を責めるような勢いがあった。それに加え、他者の不安をたっぷりと煽るようなワザとらしい深刻な響きを持たせているのが分かった。中継されている番組を盛り上げ、視聴率をあげるためなのだろう。

 

 眉を顰めた不知火は、無礼なマスコミ関係者たちから少女提督を守るように前に出ようとした。だが、少女提督がそれを手で制して、不知火に頷いてくれた。少女提督に怯みは無かった。堂々とカメラの前に立っている。少女提督は一つ呼吸を置いて、周囲のカメラを順番に見た。

 

「皆さんの質問に、ひとつずつ答えている時間はありません。一刻も早く、この場から離れて下さい」

 

 少女提督の声は、曇天から吹いてくるぬるい風の中でも、よく通った。マスコミ関係者たちが不満そうにどよめく。それはすぐに、「説明を!」「はぐらかすのですか!?」「我々を追い払いたいのですか!?」などという喚きに変わったが、「そのようなつもりは在りません。此処は危険です。早急に退避を」と言葉を繋いだ少女提督は、一歩も引かない。

 

「どうか、退避をお願いします!」

 

 少女提督の隣に立つ不知火も、マスコミ関係者たちを見回しつつ大声で言う。だが、やはり彼らは不満そうに喚きだした。不知火は唇を噛む。時間が惜しいが、艦娘の武力で彼らを脅し、力づくでマスコミ関係者を動かすことは出来ない。“人間”に対する、そういった示威行為は艦娘の肉体が許さない。この場で不知火が持っているのは言葉だけだ。それが届かない。彼らには悪意も敵意も無い。だが、彼らは人間だ。艦娘という種の主人だ。その人間を前にした時の自分の無力さを、不知火は改めて思い知る。無遠慮な喧騒の中で、噛んでいた下唇を噛み千切りそうになった時だった。

 

「おい! あれを見ろ!」

 

 少し遠くで声がした。不知火たちを取り囲んだマスコミたちも、その声に釣られて一斉に顔を向けた。少女提督と不知火も、彼らの視線の先を追う。どよめきが大きくなる。

 

 不知火達が来たのと同じ方向から、雷と大井、それから憲兵の二人が走り寄ってくる。雷と大井は其々に男性を一人背負っていた。服装からして、背負われているのはテレビ局のクルーだろうか。憲兵のうちの一人もまた、記者らしき女性を背負っていた。負傷者かと思ったが、背負われている男性、女性共に大きな怪我をしている様子はなく、不知火は安堵の息を吐きだした。マスコミ関係者たちの集団が獲物を捕食する軟体動物のように蠢き、不知火と少女提督だけでなく、雷や大井、それに憲兵達まで囲んだ。

 

「Cエリアに残されてる人は、もう居ない筈よ!」

 

 駆け寄ってきた雷はマスコミ関係者には目もくれず、少女提督に報告した。そして背負っていたテレビ局のクルーを優しい手つきで地面に下ろし、彼の体に怪我がないかを確認するように見た。男性クルーは、駆逐艦娘である雷よりも背が高いが、その場にへたり込むような恰好だったので、雷を見上げる姿勢だった。人が大勢いる場所に来たことで安心したのかもしれない。彼は軽く涙ぐみながら、雷に頭を何度も下げて礼を述べていたが、その声はガタガタに震えていた。少しの笑みを湛えた雷は、男性クルーに敬礼を返した。大井も同じように、背負っていた男性クルーに礼を述べられて敬礼を返している。

 

 背負っていた女性記者を地面に下ろした憲兵の一人が、敬礼と共に少女提督に駆け寄る。「途中で、レ級と重巡棲姫と遭遇しましたが、野獣提督がカバーに入ってくれたおかげで、退けることができました。ただ……」彼は、つい先ほどまで野獣と木曽とも一緒であったが、此処へ退いてくる途中、猫艦戦の群れに捕まったが、二人が足止めになってくれたのだと早口で報告してくれた。

 

 その憲兵の緊張した面持ちと言葉を、幾つものテレビカメラが捉えている。憲兵の切羽詰まった様子に、マスコミ関係者が沸き立つ気配があった。だが、その熱狂を吹き払うかのように、空から何かが急降下してきたことに不知火は気づく。視線を上げて目を細めた。獰猛そうにガッチガチと歯を鳴らす猫艦戦だ。空母艦娘たちが展開した艦載機の攻撃を潜り、此方に迫ってくる。数は6体。上空から突進してくる。不知火達を取り囲み、カメラを構えていた者もマイクを突き出していた者も、揃って悲鳴を上げ、慌てて逃げ始める。

 

「伏せて!!」

 

 少女提督が鋭い声を出す。その声には、周囲に居る人間全てを刃物で斬り付けるかのような迫力が籠っていた。急接近してくる猫艦戦たちに対し、スクープを求めて騒いでいたマスコミ関係者達も、リアルな命の危機を瞬間的に感じたからだろう。異論も反論もする余裕のない状況の彼らは、少女提督の言葉に従い、一斉に頭を抱えてしゃがみこんだ。その時にはすでに、不知火も、雷も、大井も、装備を召んで、戦闘と迎撃態勢を取っていた。

 

 だが、やはり妙だった。猫艦戦たちは、明らかに艦娘である不知火と、雷、それに大井目掛けて接近してくる。非力なマスコミ関係者たちなどには目もくれない。それに、海の上で見る艦戦の動きに比べて遅い。鈍すぎる。全く迫力がない。まるで撃墜してくれと言わんばかりだ。雷と大井、それに不知火は、無防備に突っ込んでくるこの6体の猫艦戦を、距離を詰めさせることなく容易く撃墜した。おかげで、墜落する艦戦達の破片が一般人に降ってくることもなく、怪我人を出さずに済んだ。

 

 伏せていたマスコミ関係者たちが悲鳴を飲み込み、息を細く漏らす気配が不知火の足元に充満する。だが、安堵を味わっている暇もない。更に6体の猫艦戦が、上空からこちらに向かってきている。

 

「彼女達が迎撃を続けます! 早く退避を!!」

 

 再び、少女提督が見回して叫ぶ。立ち上がりかけていたマスコミ達も、この場所が安全な場所だという認識を改めたらしい。彼らはすぐに駆け出し、逃げていく。「ちょっと! ちょっと待ってください!! 撮影用ドローンの回収がまだッスよ!?」「逃げるのが先だ! 全員と連絡を取れ!」と、携帯電話で仲間の安否を確かめる連絡をとり始める者や、「逃げるぞ! 車を回してこい!」と指示を飛ばす者が入り乱れていた。それを横目で見てから、不知火は再び艤装を構える。雷と大井と共に、続いて突進してきた6体の艦戦達を撃墜しながら『この場に居ると戦闘に巻き込まれるぞ!』という切羽つまった焦燥感が、周囲に居るマスコミ達に伝播していくのを感じた。

 

 

 少女提督や不知火たちから少し離れた場所で、憲兵や他の艦娘たちに群がっていたマスコミ関係者も踵を返し、慌てた様子で逃げ出している。しぶとく喚いて騒ぎ立てていた彼らが、蜘蛛の子を散らすかのように逃げていくのを見て、空母艦娘達が更に艦載機を放ち、彼らの安全を上空から確保している。これで何とか一般人たちを鎮守府から遠ざけることが出来そうだ。

 

 その様子を確かめた少女提督は、地面に落ちた艦載機たちの死骸を見回してから、深く息を吐きだした。それが安堵から吐いたものではなく、重い溜息であることは間違いなかった。猫艦戦を撃墜した不知火も、大井も、そして雷も、警戒は解かないままで押し黙る。ほんの僅かに事態は好転したが、楽観は全く出来ない。マスコミ関係者達の中には、鎮守府のD、Eエリアの崩れた庁舎に巻き込まれた者がいるかもしれない。捜索と確認が必要だ。

 

 少女提督が手にしたタブレットの画面を一瞥した。恐らくだが、マスコミ各社からの、自社スタッフの安否確認についての報告が来ていないかをチェックしたのだろう。それと同じか、少し早いぐらいのタイミングだった。ブゥンという音が聞こえた。少女提督が持つタブレットからだ。空気が短く、強く振動するような音だった。雷、大井が、少女提督の持つタブレットに視線を向けて息を呑んだ。不知火も息が詰まる。

 

『怪我は無いか?』

 

 ぶっきらぼうだが、少女提督の身を案じる音声がタブレットから再生される。ディスプレイに表示されているのは、愛嬌のあるマスコットのような姿にデフォルメされた集積地棲姫だった。アバターという表現が正しいのかどうか判断に迷うが、集積地棲姫が軍属の端末に侵入しているのか。不知火は黙ったままで、目の前の現象を見詰めていた。どう反応し、どのような行動を取ればいいのか見当がつかない。立ち尽くす不知火の傍では、驚いた目を何度も瞬かせている雷と、警戒を滲ませた大井も、少女提督が持つタブレットのディスプレイを見詰めている。

 

「……えぇ。何とかね」

 

 一瞬の間を作った少女提督はディスプレイに映し出された集積地棲姫のアバターを見下ろし、眉を顰めながら鼻を鳴らす。

 

『そうか。なら良いんだ』

 

「良くないんだけど。見たらわかると思うんだけど、こっちは忙しいのよ。それに、この端末に侵入とか辞めてくれない? 責任取るの誰だと思ってんの?」

 

 少女提督は軽口を叩きながらも、慎重に言葉を選んでいる気配があった。集積地棲姫の真意を測ろうとしているのだろう。

 

『悪い悪い。だが、このタイミングでお前にコンタクトを取るように指示されていてな。それに、私はお前のサポートだってしているんだから、ちょっとくらい大目に見てくれ』

 

 対して、集積地棲姫の声には緊張は無い。

 

「サポートですって?」

 

『あぁ。猫艦戦どもが役に立っただろう?』

 

 少女提督は周囲を見回す。この場から離れようとするマスコミ関係者と、彼らを護るべく動いている憲兵や艦娘たちは、今の少女提督や不知火達の様子に気づいていない。それを少女提督が確認し終えるのを見計らったかのように、ディスプレイの中の集積地棲姫が鼻を鳴らした。

 

『マスコミと言うのは、情報の新鮮さを重視するらしいな。どれだけ早く情報を提供し、視聴者を沸かせるかを競っている。まるでレーシングカーさながらだ。そういう種類の人間を追い散らすには、分かりやすい脅威を目の前に持って行ってやるのが一番いい』

 

 タブレットから聞こえてくる集積地棲姫の声の冷静さは、混乱しそうなっていた不知火を落ちつかせてくれた。傍に居る雷や大井も、先ほどまでの驚愕や警戒を解いて、集積地棲姫の声を聞いている。「なるほどね……」と零した少女提督がタブレット持つ反対の手で、自分の額を擦った。

 

「……さっき、猫艦戦たちが不自然に突撃してきたのは、アンタの差し金だったワケね」

 

 少女提督がボソッと言う。

 

『お前たちに纏わりついていた命知らずのマスコミ共も、流石に避難を始めた筈だ』

 

「深海棲艦の艦戦が12体も飛んで来たら、マスコミじゃなくても逃げるわよ」

 

『だが、お前は逃げなかった』

 

 ディスプレイの中に映り込んだ集積地棲姫が少女提督を見据えて、そのデフォルメされた丸っこい指を突きつける。まるで揺るがない真理を貫くかのようだった。

 

『お前は艦娘たちに指示を飛ばし、一般人たちを護るために最善の手を尽くしている。そのお前の姿はテレビカメラが捉えて、ニュースにも流れた。既に多くの人間が、命を懸けたお前の行動を目撃している。お前の正義を疑う者は、もうこの国には居ない』

 

 集積地棲姫の言葉に、不知火は無意識のうちに唾を飲み込んでいた。雷や大井と目が合う。彼女たちもまた、険しくも不安そうな表情をしていた。

 

「私達には、任されてる使命とか役割があんのよ。それを全うしようとしているだけで、特別なことは何もしていないわ」

 

 少女提督はディスプレイから指を差してくる集積地棲姫を睨み返す。

 

『そうだな。お前たちの気高さに偽りは無い。私たちはな、“お前たちがその役割を全うして、これだけの大事件であっても一般人に死傷者を出さなかった”という事実が欲しかったんだよ』

 

 タブレットのディスプレイの中から満足そうに言う集積地棲姫は、少女提督を差していた指を引っ込めて肩を竦めた。

 

『私たちの目的は、もう殆ど果たされた。あとはこのまま、事態が動くに任せるだけだ』

 

「何を暢気な事を……っ!」

 

 少女提督の横から、怒気を孕んだ声を挟んだのは大井だった。

 

「その一般人を戦闘に巻き込んだのはアンタ達じゃない! 崩れた庁舎に巻き込まれた人だっているかもしれないのに!!」

 

 大井の言う通り、幾つかのエリアでは庁舎の損壊が激しく、瓦礫の下敷きになった者が居る可能性はあった。これは絶対に無視できない。艦娘囀線でも、大和や長門を含む多くの艦娘たちが、その要救助者の捜索にあたるために連絡を取り合っていた筈だ。

 

『大丈夫だ。誰も巻き込まれてなどいない』

 

 集積地棲姫の口調は、まるで大井を宥めるようだった。きっぱりと断言された大井は、何かを言いかけて黙り込み、訝しむようにディスプレイに映る集積地棲姫をまじまじと見ている。「それは、どういう……」と、不安そうな声を出したのは雷だった。タブレットを持つ少女提督は何も言わず、集積地棲姫の言葉を待っている。不知火もそれに倣う。

 

『簡単な話だ。鎮守府の上空を飛んでいる大量の猫艦戦達が、お前たちよりもずっと前にD、Eエリアの含めた戦闘領域の無人を確認しているんだよ』

 

 退屈な手品のタネ明かしをするかのように、集積地棲姫は軽く息を吐く。

 

『熱源や生体反応によって人間を探せる猫艦戦達の性能は、お前たちが思っているよりもずっと高い。ヲ級や港湾の扱う艦戦なら猶更な。……今の鎮守府上空に陣取っている大量の猫艦戦達なら、ネズミ一匹見逃さんよ』

 

 そこまで聞いて、不知火も状況を飲み込めてきた。害意も殺意も無く、ただ上空から鎮守府内部を見下ろして飛行する猫艦戦達の奇妙な行動には、艦娘囀線でも言及されていた。そうか。あの猫艦戦達は……。「最初から負傷者を出さないために……」と、思わず言葉を零した不知火に対して、タブレットのディスプレイに映る集積地棲姫が『そういう事だ』と頷いて見せた。

 

「じゃあ、さっきのレ級が、本気で人を襲わなかったように見えたのも、……アレも、ワザとだったっていうこと?」

 

 自分の記憶を慎重に辿る顔つきになった雷が、詰め寄るようにして少女提督の持つタブレットに近づいた。それに気づいた集積地棲姫のアバターが肩を竦める。

 

『無論だ。私たちは、一般人を戦闘に巻き込まないよう細心の注意を払っている。さっきも言ったが私達の目的は、“お前たちの活躍によって、死傷者が出なかった”という事実と状況を作り出すことだからな。今の鎮守府には、職員を含めた一般人など一人もいない。安心しろ』

 

「……ねぇ。そろそろ、アンタ達の本当の目的を話してくれない? いい加減、焦れてきたんだけど。彼は、アンタ達に何をやらせようとしてんのよ? 知ってるんでしょ? 教えなさいよ」

 

 歯軋りを混じらせて少女提督は掠れた声で言うと、集積地棲姫は短く鼻を鳴らした。

 

『……提督は、今の世間の認識を破壊したいんだよ』

 

「それを信じろって言うの?」

 

『いや、信じたくないなら信じなくてもいい。だが、既にニュース特番では瑞鶴の深海棲艦化が報じられているし、私達の提督も深海棲艦化した姿を世に曝している。この時点で、今の世界を支えている常識的な観念には大きく亀裂が入った筈だ』

 

 集積地棲姫は恬淡とした口調で続ける。瑞鶴の深海棲艦化がニュースになっていることを知らなかったのか。雷と大井が驚いた表情で息を詰まらせている。

 

『艦娘の深海棲艦化。人間の深海棲艦化。白日の下に曝されたこの2つの現象を、もう人間社会は無視できない。特に提督は、人類に対する裏切者として、その過去から何から全部調べ尽くされることになる。世間の人々がそう望むからな。真相を求める世論の強度は今までにないほどに高まるのは目に見えている。こうなったら黒幕達も本営も、大人しくするしかない。そして明るみ出てくるのは、激戦期の頃に行われていた実験記録というワケだ』

 

「……改竄された大量の記録書は、その時の為に用意されたモノだったのね」

 

『そのようだ。偽造されていようと捏造されていようと関係無い。凄惨な実験記録や作戦記録の内容に登場する提督の名は、今日の事件がこの上ない説得力を与えてくれるからな。あぁ、それから、テレビ局の撮影用のドローンも、既に私達のコントロール下にある。人々を守ろうとする艦娘達の活躍を、世間に向かって発信中だ』

 

 集積地棲姫の物言いは落ち着いていながらも自分の持つ強力な手札を晒し、少女提督の行動を締め上げていくかのような、有無を言わさぬ説得力が在った。

 

「……ご苦労様なことね。アンタってドローンまで操縦できるの?」

 

 軽く頭を抱える少女提督に対して、『いや、操縦しているのは日向と川内だな。テレビカメラを持って動くのは神通に任せている。3人にはマスコミ関係者に紛れて貰って、鎮守府内部の映像を集めて貰っているところだ』と、集積地棲姫が気楽そうに言葉を続ける。重大な内容を無防備に語る彼女の声音には、悪意と共に隠し事をしている気配はない。

 

『どのテレビ局のニュース番組も大いに賑わっているよ。ちょうど今も、“鎮守府庁舎が幾つも崩落し、そこに巻き込まれた人間が居ないかを艦娘たちが捜索しようとしている”場面が映っている。それに、テレビ局の男性クルーをレ級から守った、勇猛果敢な雷の姿もな』

 

 集積地棲姫の話している内容に、理解が追い付いてこない。不知火は顏を片手で覆いながら、思考を必死に回す。雷が茫然とした顔で立ち尽くし、大井も深刻な表情で視線を下げ、何かを考えこむように頻りに唇を触っていた。少女提督が一つ深呼吸するのが聞こえた。

 

「……で、私にその話を聞かせることも、彼の書いたシナリオなの?」

 

『あぁ。お前の行動を決定づける話だろう?』

 

「私って捻くれてるから、ロールプレイって苦手なのよね」

 

『奇遇だな。私もだ』

 

「私達は、アンタの思い通りになんて動かないわよ」

 

『いや、動かざるを得ないさ。お前はもう舞台に上がっているんだ』

 

「飛び降りてやる」

 

『お前ならやりかねんな。だが、やめた方がいい』

 

 集積地棲姫の言葉に、無茶を言う友人を宥めるかのような温もりが不意に滲んだ。

 

『それは“世間”という観客が許さない。Show must go onというヤツだな。舞台上の役者は、役割をこなす義務があり、存在を許されている。お前が舞台のド真ん中から客席に飛び降りたりすれば、お前の部下の艦娘まで巻き込むことになる。深海棲艦の私が言うのもなんだが、観客は厳しい。求められていない行為は容赦なく咎めてくるぞ』

 

 お前は、世間というものから艦娘達を守ろうとしていた筈だろう? と続けた集積地棲姫に、タブレットをぎゅっと抱える少女提督は押し黙って答えなかった。高速で思考を回転させているだろう。少女提督は目の動きを止めている。『まだ伝えておくことが在る』と言葉を繋いだ集積地棲姫のアバターが、タブレットの画面の中で揺らぎ、薄れ始める。

 

『私達は提督と共にD、Eエリアに向かう』

 

 腹に寒々しいものを感じた不知火は、タブレットを凝視する。D、Eエリアは崩れた建物が多く、その瓦礫に巻き込まれた者が居ないかを確かめ、捜索をしようとする艦娘達が集まってきているエリアだ。艦娘囀線でも、長門や武蔵、それに他の艦娘たちも向かおうとしていた筈だ。

 

 集積地棲姫の言葉を信じるのであれば、D、Eエリアに要救助者は既に居ない。だが、鎮守府内に居る艦娘達は、それを知らない。要救助者が居ることを前提に動いている彼女達は、エリアに近づこうとする深海棲艦達の足を止めようする筈だ。戦闘は避けられないが、それも彼女達の狙いなのだろうと思えた。つまり彼女達は、深海棲艦を率いる少年提督と、その部下であった艦娘達が対峙する光景を、世間に向けて公開するつもりに違いない。

 

 この鎮守府で何が起きているのか、ようやく分かって来た。不知火達は、集積地棲姫と敵対しているわけではない。実際には彼女達と共闘し、艦娘や深海棲艦を取り巻く常識や観念を破壊しようとしている。まさにそれは、先ほど彼女が言っていた通りだった。ならば、集積地棲姫が、こうして少女提督とコンタクトを取るタイミングは今しかないという言葉にも頷ける。

 

『それと、この話をしている間に、お前たちの持つ通信端末をロックさせて貰った』

 

「なっ……!?」 

 

 焦った声を出したのは大井だった。雷が慌てた様子で携帯端末を取り出すが、その端末が薄い光を纏い始めていた。海上で出会う深海棲艦達が纏うものと同じく、蒼く濁った微光であり、端末の画面はブラックアウトしているのが分かった。不知火も自分の携帯端末を取り出して確認してみるが、雷のものと同じく完全に沈黙していた。特殊な深海棲艦術式の影響を受けているのは間違いない。これでは艦娘囀線に繋ぐこともできない。崩れた庁舎に巻き込まれた者がいないことを、D、Eエリアの艦娘たちに伝えられない。

 

『お前たち艦娘の正義は、深海棲艦である私達が保証する。入渠施設や工廠にも被害が出ないように立ち回るから、負傷も気にしなくてもいい。お前たち艦娘を殺すつもりもない。……ただお前たちは、お前たちの役割に忠実であればいいんだ』

 

 連絡手段を封じられ、不知火達の戸惑う気配を察したのかもしれない。タブレットの画面から掠れて消えていこうとしている集積地棲姫のアバターが、“心配するな”とでも言うふうに、心の籠った声で不知火達に言う。

 

『ハッピーエンドは決まっている。めでたしめでたし、だ』

 

 それからすぐに、集積地棲姫のアバターはタブレットの画面から消えた。ついでにタブレットもブラックアウトする。不要なものを思考から排除するかのように、少女提督は左手でタブレット抱え直す。ついでに、右手でこめかみに触れて、眉間に皺を寄せ、目をきつく閉じた。重要な念仏や聖句を重々しく唱えるかのように、本当に小さい声で何かを呟き始める。今の彼女が頭の中に無数の選択肢を広げ、これからとるべき行動を吟味しているのは明らかだった。

 

 不知火は今までにないほどに強い胸騒ぎを感じていた。少女提督と集積地棲姫の遣り取りの中に、改竄や偽造といった不穏な言葉が混ざっていたことも気に掛かる。この場で少女提督に聞き出して説明を求めるべきかもしれないと思うが、声を掛けるのも憚られるような鬼気迫る気配を纏う少女提督を前に、不知火は黙り込むしかなかった。雷も大井も黙ったままで、混乱と動揺を抱えて立ち尽くしている。

 

 少し離れたところから、避難を誘導する憲兵や艦娘の声が聞こえてくる。鎮守府の方からは、再び砲撃音と爆発、建物が崩れる音が響いてくる。今の鎮守府の状況は、絶えず動いている。刻々、念々と、取返しがつかなくなっているのは間違いない。体が微かに震えてくる。俯きそうになるのを堪え、無理やりに視線を上げる。頭上を白々しく流れていく暗い雲の群れを見た。分厚く垂れこめた暗雲は不吉でありながらも、荘厳な儀式を遠巻きに見守る群衆を思わせた。

 

 “正義”という言葉が、未だに不知火の心の奥底で木霊し続ける「何の為に戦っているのか」という自問に結びつく。自身の役割とは何かを想いながら、不知火は手袋の上から左手の薬指に触れた。そこには確かに、ケッコン指輪がある。

 

「彼の目的が何であれ、私達のやることは変わらないわ」

 

 集積地棲姫との通信が切れてから10秒ほどが過ぎてから、少女提督が顔を上げた。

 

「大井」

 

 完全な無表情になった少女提督の眼は据わり切っており、異様な迫力を備えていた。名前を呼ばれた大井は、「は、はいっ!」と、背筋を伸ばして姿勢を正した。

 

「退避したテレビ局の人達の安否確認するのを手伝って。安全な場所まで離れたら離れたで、艦娘も憲兵もどうせまたマスコミ関係者に囲まれるだろうから、その相手は私がするわ」

 

 少女提督は言いながら、今度は不知火と雷を順に見た。

 

「来た道を戻らせて悪いんだけど、二人は鎮守府のD、Eエリアに向かって」

 

「さっきの集積地棲姫の話を、皆に伝えればいいのね?」

 

 雷が力強く頷くが、少女提督が首を振った。

 

「それは駄目よ」

 

「えっ、でも……っ」

 

「駄目なのよ。いえ、無駄って言ってもいいかも」

 

 戸惑いを見せる雷に対して、少女提督は静かに言い切る。

 

「撮影用ドローンが、今の艦娘達の姿をテレビに映してる。……もしも今、D、Eエリアに向かってる艦娘達が、いきなり要救助者の捜索を断念して、深海棲艦達との戦闘を避けたりしたら……」

 

「救助を求める人を見捨てたと見做され、許されない行為として世間に映るかもしれません」

 

 低い声で、不知火は少女提督の言葉を繋いだ。雷が泣きそうに顔を歪めるのが分かった。大井が俯いている。「……やられたわ」と、少女提督も憔悴しきった様子で項垂れた。

 

「真実はどうあれ、世間はそういう判断するわ。私達に人々を見捨てる意図が全く無くてもね」

 

「でも、それはっ、鎮守府内に一般人が居なかったってことを説明すれば……!」

 

 雷が必死に反論しようとしているが、大井が首を振った。

 

「それも難しいと思うわ。マスコミ関係者や憲兵、それに鎮守府職員を含めた要救助者が、あのD、Eエリアに居ないと判断した理由を、深海棲艦の姫から通信で聞いたなんて説明できないもの」

 

 重々しく言う大井が、雷を見た。「でも、でも……」と、雷は弱々しく言い返そうとするが、言葉と理由が見つからない様子だった。

 

「こちらの携帯端末をロックしたのも、エリア内に向かう長門さんや武蔵さんへ、不知火達が連絡を取ろうとすることを防ぎたかったでしょうね」

 

 不知火は言いながら、微光に包まれて沈黙する携帯端末を懐に仕舞う。

 

「……アイツにとっては、そこで戦闘を行う必要があるのよ。救助活動をしようとする艦娘達と、それを邪魔しようとする人類の裏切者っていう構図を、世界に叩きつける為にね。しかも、人と艦娘の深海棲艦化現象って言うオマケ付きで」

 

 少女提督が呻くように言ながら、がりがりと頭を掻いた。

 

「今の鎮守府で起きていることは結局、出来の悪いの“劇”なのよ。しかも、国中の人間が見てる。だから、途中退場も許されない」

 

 集積地棲姫の言葉から現状を判断すれば、食堂に集められていた艦娘達が、肉体無力化の術式によって身動きがとれなくなったのにも説明がつく。艦娘たちの動きを止めている間に、少年提督は日向や川内、神通を動かし、マスコミを鎮守府に誘い込む状況を作り出して、この舞台を整えたのだ。集積地棲姫は言っていた。「提督は、この世界の認識を破壊するつもりなのだ」と。つまり少年提督の目的は、人類の反逆ではない。反逆者という“役割”の中に入り込み、人間にとって艦娘とは何かを問う為に、この“劇”を鑑賞している世間そのものを相手にするつもりなのだ。

 

 不知火は、少年提督からケッコン指輪を渡された時のことを思い出す。あの時、少年提督は穏やかな微笑みを浮かべて、言ってくれた。「これから何が在っても、きっと不知火さんは人々の味方であってくれるのだと、僕は確信しました」と。「司令がそう願うのであれば、不知火は人類の味方であり続けます」と、不知火も答えたのを憶えている。あの時の言葉に、一切の嘘は無かった。拳を握りながら、今の自分の“役割”を想う。不知火は少年提督との約束を果たさねばならない。

 

「私は、貴女たちの正義を証明したい。だから、……お願いするわ」

 

 少女提督が覚悟を決める顔になって、不知火と雷をもう一度見た。彼女の眼差しは、その視線によって相手を刺し貫くかのようだった。今の鎮守府は巨大な舞台装置であり、無数の人間の視線や価値観が降り注いでいる。その中に飲み込まれて雁字搦めにされている彼女はそれでも、艦娘の未来を守ろうとしているのだと思えた。そしてそれが、今の彼女が果たそうとする役割なのだろうと分かった。

 

「彼を斃すために、戦ってきて欲しいの」

 

 その命令は恐らく、不知火と雷が、少年提督と顔を合わせる最後の機会になることを察した少女提督なりの、ギリギリの気遣いだったのかもしれない。雷が奥歯を噛んで俯いたが、すぐに顔を上げて敬礼の姿勢をとった。不知火もそれに倣うとすぐに、鎮守府の方から激しい爆発音と破砕音が響いてきた。戦闘が始まったのだと分かった。

 

 不知火は雷と同時に振り返り、すぐに駆け出す。同時に、空に晴れ間が見え始めていることにも気づいた。先程の幽かな雨は、もう止んでいる。千切れた雲を溶かしながら吹き流すような強い風が吹いた。茜色を濃く滲ませた空が、分厚い雲の隙間から此方を見下ろしている。夕暮れが近い。

 

 

 

 









 更新が遅くなっており、申し訳ありません……。また次回も不定期更新になると思いますが、皆様のお暇つぶしにでもなれば幸いです。いつも暖かな応援で支えてくださり、また身に余る高い評価や御感想を寄せて頂き、本当に感謝しております。今回も最後まで読んで下さり、本当にありがとう御座います!

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