花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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少年提督と野獣提督 中編

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 分厚く暗い雲がたっぷりと詰まった空の下で、瑞鶴は吠え猛る。

 

 艦娘である自分と、深海棲艦である自分の境界が曖昧になり、その狭間で、己の自我や精神といったものが燃え上がっているのを感じた。今まで海の上で戦っていた時には感じたことない種類の激情が、自分の体を衝き動かしている。正義も悪も無く、瑞鶴が瑞鶴であるための行動を選択する。少年提督と戦う。少年提督を止めるのだ。それは自身の信念を貫く満足感や充足感とは無縁の、もっと切実で、どうしようもない無念に塗れた突撃だった。

 

 瑞鶴は深海鶴棲姫としての脚力で地面を踏み砕きながら南方棲鬼に肉薄しながら、自身の周囲に艦載機を無数に召ぶ。瑞鶴の体から溢れる膨大な霊気は、周囲の空間に爆発的に広がって凝り固まり、そのまま形を持って生きた武力になる。猫艦戦として発生し、瑞鶴の意思に従う。これを、港湾棲姫やヲ級が使役する猫艦戦の対処に回す。

 

 瑞鶴は、この場にいる全てを相手にする覚悟だった。

 これは、艦隊戦ではない。もっと単純な形での闘争だ。

 弓を構えて戦う間合いじゃない。艦娘の空母としては戦えない。

 セオリーも、アウトレンジも、へったくれもない。

 それでも、少年提督を止めなくてはならない。

 さっきの憲兵やマスコミ関係者が逃げる時間を稼がねばならない。

 

 南方棲鬼は、突っ込んでくる瑞鶴を静かに見据えて、艤装の砲身を向けている。ずらっと並んで此方を睨む砲口の中は黒く、容赦や慈悲などとは無縁の冷徹さに満ちていた。一斉砲撃が来る予感が在った。それに、南方棲鬼の背後には、戦艦水鬼と戦艦棲姫をはじめ、ヲ級や港湾棲姫、集積地棲姫、それに戦艦種のタ級、ル級までが居る。あまりに堅牢で強固な布陣だ。彼女達を押し退けなければ、少年提督までは辿り着けない。少年提督は深海棲艦達に守られるようにして、瑞鶴を冷たく眺めていた。彼の紫水晶のような瞳は無機質で、感情も思考も窺わせない眼をしている。

 

「全弾直撃しても、今のお前なら死にはしないだろうが」

 

 南方棲鬼の声が聞こえた。

 

「ちゃんと避けろよ」

 

 次の瞬間だった。南方棲鬼の艤装が文字通り火を噴いた。砲撃だ。瑞鶴は体を倒しながら、左方向へ大きく踏み込んで砲弾を躱す。瑞鶴の背後が着弾点となり、爆発が起こる。近くの庁舎が爆風に飲まれ、一部が崩れる音も聞こえる。轟音と振動が辺りを包む。吹き荒ぶ熱波を置き去りにして踏み込む。南方棲鬼と瑞鶴の距離が潰れる。砲撃戦の距離ではない。瑞鶴は右手を握り固めて、南方棲鬼に殴りかかる。すっと重心を落とした南方棲鬼は身を僅かに引き、艤装を纏った左腕でガードした。金属が拉げる派手な音が響く。

 

 南方棲鬼の左腕を覆う装甲や艤装に亀裂が走り、腕部装甲の一部が砕け飛んだ。艦種で言えば瑞鶴は空母だが、この超クロスレンジでそんなものは関係ない。そもそも、これは艦隊戦ではない。海戦ですらない。使えるものを使って戦う。深海棲艦としての肉体の強さを叩きつけるだけだ。瑞鶴の拳に激痛が走る。その痛覚のなかに、艦娘でも深海棲艦でもない、『瑞鶴』という個としての自身の存在を感じていた。

 

 瑞鶴は南方棲鬼のガードの上から拳の連打を打ち込む。南方棲鬼の足元の地面が陥没していく程に殴る。そんな瑞鶴の猛攻から逃れ、距離を取るべく、鼻を鳴らした南方棲鬼が飛び退る。両腕の艤装と装甲をバキバキのボロボロにされた彼女は、まだまだ冷静で、厄介だ。彼女は瑞鶴から距離を取ろうとしている。逃がさない。それを追う。少し離れた場所でも、爆発音が聞こえた。誰かが、瑞鶴と同じように戦闘の最中に居るのだろう。二振りの刀を持つ野獣の姿が意識の端を流れたが、すぐに消えた。

 

 瑞鶴は叫ぶ。身体に力が漲り、溢れている。

 自分の中に在ったもの開放している感覚だった。

 まだだ。まだ、力は出せる。この体はもっと強くなる。

 頑強になれる筈だ。だから、そうするんだ。

 南方棲鬼に追いついた。また、殴る。

 殴って、殴って、殴って、殴った。

 

 南方棲鬼はガードを固めている。その上から殴る。殴り抜く。拳が割れて、変形し、血が噴き出すが、殴り続けるんだ。私は。提督さんを連れ戻すんだ。目を覚まさせてあげるんだ。血塗れの拳を振り抜いた瞬間だった。ガードを固めていた南方棲鬼が涼し気に眼を細め、こっちのパンチを潜って来たと思ったら、強烈なカウンターを貰った。

 

 艤装を纏った南方棲鬼の右拳だ。左頬と顎の中間あたりにぶちこまれて、左の眼球や頬の肉や顎の骨、頭蓋、耳の中身などが潰れたのも分かったところで、すぐに再生していく感覚も在ったし、視界もすぐに回復したから、わざわざ怯む必要も感じず、パンチを喰らったままで殴り返すけど、これを避けられて、更にカウンターを貰って、やっぱり痛くなくて、しつこく殴り返したけれど、南方棲鬼の動きはボクサーのように軽やかで、こっちの殴打を避けて、また正確なカウンターを放ってくるのも分かっていたし、その度に頭部がめちゃくちゃになった。でも、すぐに再生するし、避ける必要も感じない程度には全然痛くなくて、破壊された眼や頭蓋が再生するたびに、どんどん感覚が研ぎ澄まされていて、気づいたら、目の前に迫って来ていた南方棲鬼のカウンターパンチを頭突きで迎えに行っていた。

 

「ムッ……!」

 

 南方棲鬼は右拳でカウンターパンチを放っていたから、その右拳どころか右腕全部を拉げさせる勢いで頭突きをぶちかますと、流石に良い音がして、実際に南方棲鬼の右腕を覆う艤装が砕けて、その右腕自体も変な方向へ曲がっているように見えたし、痛みと驚きからか南方棲姫の動きが一瞬だけ止まった。隙だらけって感じで、ちょうどよかった。即座に彼女の胴を目掛けて、左脚で回し蹴りを叩きこんでやったら、かなりいい感じのクリーンヒットだった。

 

 そのまま左脚で南方棲鬼を数十メートルほど思い切り蹴飛ばして、半壊した庁舎の壁にぶち込んでやると、今度はその庁舎が崩れて南方棲鬼が瓦礫に下敷きになった。それを確認してから、猫艦戦を更に中空に召びこんで、港湾棲姫やヲ級が従えた猫艦戦を抑え込ませるついでに、更に猫艦戦を召んで召んで召びまくり、制空権を奪い返す。

 

 瑞鶴の体から滲み、溢れる霊気は尽きる気配がない。深海棲艦の中でも、かなりの上位体である深海鶴棲姫として覚醒しつつあるからだろうか。もっと強くなれると思った。そうだ。私なら、まだまだ強くなれる。だって、海の上で出会った“私”は途方もない力を持ち、凄まじい数の艦載機を従えていた筈だ。なら、私にだって出来る。

 

 深海鶴棲姫としての力を存分に発揮しようとする瑞鶴の体は、常に再生と治癒が行われており、骨が砕けて肉が潰れていた両手の拳も既に元に戻っている。顔の腫れも傷も消えていることが自覚できた。自身の体から湧き出す強靭な生命力と戦闘力を、改めて実感する。“本当の自分”とか“本来の自分”なんていう安っぽい言葉が思い浮かぶ。自分の中から出発する深海棲艦としての巨大な力は、とにかく奔放で自由だった。視界が開ける感覚が在り、戦闘を行うことにばかり向いていた意識が、南方棲鬼以外にも届き始める。

 

 視線を動かしながら違和感を覚えた。

 妙だった。追撃が無い。攻撃が来ない。

 

 瑞鶴に攻撃を仕掛けるタイミングを悠長に計っているのかと思ったが、そうでもなさそうだった。前衛として前に出てきていた南方棲鬼が蹴り飛ばされても、港湾棲姫もヲ級も全く焦りを見せていない。自分達の艦載機が駆逐されていく様子を見ても、まるで動揺した様子もない。彼女達を守るための猫艦戦もまだまだ多いからか、瑞鶴の艦載機に対処しようとする気配もない。集積地棲姫も、タ級、ル級も、まだ動かない。戦艦水鬼と戦艦棲姫が、其々の艤装獣に指示を出すのが見えた。

 

 あの筋骨隆々の巨人たちが攻撃に参加してくるか。強敵だが、今の瑞鶴なら戦える。問題ない。艦載機はまだまだ召べる。巨人どころか、港湾棲姫も集積地棲姫もヲ級も、全員を相手にしてやろう。一人残らず伸して、少年提督の暴走を止めて見せる。瑞鶴は体を倒しながらそう思ったが、艤装獣たちは前へ出てこない。それどころか、戦艦水鬼と戦艦棲姫たちは少年提督と共に、この場から移動をしようとしている。瑞鶴を置いて、何処かに行こうとしている。

 

 寒気と共に愕然とした。

 

 曇天から吹く重たい風が、崩れた庁舎から砂埃と石の屑を吹き上げて、薄い煙霧のように掠れて攫われていく。その向こうで、少年提督が瑞鶴から視線を外すのが分かった。通り道に邪魔くさい違法駐車があって、それを迷惑そうに眺めた後に、進行方向を変えるように。港湾棲姫もヲ級も、集積地棲姫も、少年提督たちに続こうとしている。

 

 少年提督達は、今の瑞鶴を相手にしようとしていないことに、ようやく気づく。

 

 港湾棲鬼とヲ級が召んだ猫艦戦と、瑞鶴が召んだ猫艦戦が、空中でぶつかり合っている。猫艦戦たちは互いに噛みついたり体当たりしたり、あるいは自爆して周囲の敵機を巻き込んだりして、もう無茶苦茶だった。艦戦たちの死骸が、鉄屑と金屑となって降り注いでいる。曇天へと視線を上げる。瑞鶴側の猫艦戦が優勢であることが分かった。数も練度も上を行っている。それでも、まだ足りないと思った。私を無視できないほどに、もっともっと艦載機が必要だ。私自身の存在を膨れ上がらせて、この場を圧倒するほどの力が必要なんだ。

 

 瑞鶴は体を折り曲げて、顔と額を掌で覆う。

 これじゃ足りない。全然足りない。艦載機を、まだ召ぶ。

 身体から溢れる霊気を、艦載機を召び込む力へと注ぎ込む。

 もっとだ。この空を埋め尽くすぐらいに召ぶんだ。

 この曇天は私のものだ。誰にも譲らない。

 

 瑞鶴の周囲の空間が短く、しかし、激しく振動し、赤い光の線が走る。その線は瑞鶴を中心に展開する力線として術陣を編み上げて、現世とは違う次元から物質を読み込む。赤い光の線は、砕かれた地面のコンクリートや石の屑、舞い飛ぶ砂埃も火の粉も飲みながら解けてゆき、その輪郭の揺らぎの内側から、無数の猫艦戦が湧き出して浮かび上がる。周囲にある物質が瑞鶴の意思に従い、艦載機へと姿を変えていく。このまま、召び出した艦載機の量にモノを言わせ、今の鎮守府を徹底的に制圧してやろうと思ったが、それを邪魔する奴が居た。

 

 さっき思い切り蹴り飛ばしてやった南方棲鬼だ。

 庁舎の瓦礫の中から飛びだして、横合いから突っ込んでくる。

 もの凄い速さだった。一瞬で距離が詰まる。

 

 瑞鶴は姿勢を変える間も無かったが、視線だけで彼女を見ることは出来た。彼女は琥珀色のオーラを纏っていて、その陰影が、とんでもない速度で彼女の艤装や傷を修復しているのが分かった。まるで世界そのものが、南方棲鬼の損傷による“変化”を否定しているかのようだ。不死という言葉が頭を過った時には、顔面を殴打されていた。殴り飛ばされる。凄まじい勢いで体が空中を移動しているのが分かる。だが、その間にも瑞鶴は艦載機を召び出し続ける。反撃に移るためだ。瑞鶴は砕けた石畳の上に叩きつけられながら転がるが、体勢を整えて手をつき、即座に起き上がる。

 

 頭部の損傷は、もう修復している。

 戦える。私は戦えるんだ。

 

 顔を上げると、視界の隅に何かが映った。

 深海鶴棲姫としての視力が、それを捉えた。

 

 離れた場所の、庁舎の屋上だ。あれは。人の形をしている。派手な色をした上着を着ている。

 テレビ局の、なんらかの番組スタッフ用のジャンバーだ。胸のところにロゴが入っていた。カメラも構えている。こっちを映しているようだ。でも、おかしい。だって。あれは、さっき見失った筈の。「神通……?」 そう声を漏らした瞬間には、右の横っ面をぶん殴られていた。

 南方棲鬼が眼の前に踏み込んで来ていたのだ。

 

「申し訳ないが、1秒以上のカメラ目線はNG」

 

 立ち上がろうとして、南方棲鬼の声を聞いた。

 同時に前蹴りが来る。顔面が潰れて、また吹っ飛ばされる。

 すぐに転がって起き上がる頃には、顔の傷は再生している。

 だが、追撃が続く。反応が遅れたのが不味かった。

 

「奴らの事は気にするな。お前たちの味方だ」

 

 音もなく間合いを詰めてきた南方棲鬼が、やたらケンカ慣れした動きで両拳の連打を打ってくる。連続パンチのインパクトの瞬間には艤装の艦砲もあった。数は10発。瑞鶴はそれを全部喰らった。痛みは無かった。衝撃だけがあった。視界の右半分が消し飛んで右腕が爆ぜ、左の脇腹が吹き飛んで左脚が潰れて、胴体に大穴が空いた。血煙となった自分の姿が分かる。原型を留めないほどに四肢がバラバラに千切れ飛びながらも、すぐに再生と修復、復元が始まる。瑞鶴の体は吹き飛ばされた勢いのまま、空中ですぐに元通りになって、無意識のうちに反撃に移ろうとしていた。

 

 だが反撃に移るよりも先に、瑞鶴の頭の中に神通の姿が浮かんだ。何だ。神通は何故、テレビ局のクルーの格好を? それに、テレビカメラまで構えていた。それが意味しているものは何だ? 目的は? 次々と疑問が浮かんでくる。考えごとをしている場合ではない。戦闘に集中しなければと思う。

 

 ただ、肝心の南方棲鬼の方が、追撃をしてこなかった。重心を落とした戦闘の姿勢を取ってはいるものの、攻勢を維持しようとしていない。修復された艤装を展開しつつ、白く薄い煙を吐き出す砲口を瑞鶴に向けたままで距離を取っている。南方棲鬼には、何が何でも瑞鶴を殺そうという意思が感じられない。落ち着いた余裕も窺える。手加減されていると思った。瑞鶴は自分の顔が歪むのが分かったし、それを見た南方棲鬼が唇の端を微かに持ち上げた。

 

「心配はいらない」

 

 南方棲鬼の落ち着いた声は、殺気立つ瑞鶴を柔らかく諭すようでもあった。

 

「今日、この鎮守府で死傷者は一人も出ない。お前は、お前自身に誠実であればいい」

 

 彼女の低い声を聞きながら、瑞鶴も姿勢を落とす。どういう意味だ? 自身に誠実であればいい? 南方棲鬼の言葉の意味を、頭の中で必死に探ろうとしている自分に気づく。考えても明確な答えの出ない問いだ。

 

 冷静になれと、心の中で声がした。戦いながら違和感の正体を探るんだ。艦娘である自分が、深海棲艦である自分に言う。彼女達の行動が戦闘や殺戮を目的としているのならば、瑞鶴に対して手加減する必要などない筈だし、少年提督たちが瑞鶴を見逃すことも筈だ。しかし、少年提督と、彼が率いる戦艦水鬼や戦艦棲姫、それに港湾棲姫、集積地積姫たちは、瑞鶴を積極的に攻撃しようとはせず、この場を離れていった。

 

 その理由が分からない。少年提督の真意は読み取れない。今は南方棲鬼が壁役として前衛に残り、掛かる火の粉を払うように瑞鶴の相手をしているような状況だ。それも、手加減しながら。それを思うと、頭に血が上っていく感覚と同時に、深い沼に沈んでいくような感覚が同時に来た。焦燥が心に渦を作り、思考が疲弊していきそうになるのを振り払うべく、目の前に立ち塞がる南方棲鬼に意識を向けたまま、視線だけで神通の姿を探そうとした。だが、出来なかった。

 

「言ったはずだ」と、南方棲鬼の砲撃が来たからだ。

 

 瑞鶴は咄嗟に体の軸をずらし、砲弾を回避する。

 

「カメラ目線はNG」

 

 だが、先ほどよりも着弾点が近い。爆発と爆風の熱波が、着弾点から膨らんで吹き荒び、炎と瓦礫の嵐が瑞鶴を飲み込んだ。熱い。熱くはない。痛みも遠い。目の表面が焼ける。身体が崩れ、焼ける。焼けながら再生する。瑞鶴の体は弾けても、すぐに再生する。また砲撃が来る。直撃じゃない。やはり手加減されている。だが、手加減されているのだと分かるのは瑞鶴だけだ。庁舎の上に居る神通からは、瑞鶴が激しい砲撃に曝されているようにしか見えないだろう。それに、この砲撃による爆風が、瑞鶴の目線を隠す為のようにも思えた。

 

「提督も、それを望んでいる」

 

 南方棲鬼の落ち着いた声が、砲撃音の隙間に滑り込んでくる。南方棲鬼の声音には、その“提督”という言葉の感触を確かめ、それを口にする新鮮な喜びを味わうかのような響きが在った。それに、今の鎮守府の状況が、少年提督が仕組んだものであることの告白に違いなかった。

 

 瑞鶴は爆炎の中から飛び出して、一瞬で南方棲鬼との距離を詰めて掴み掛かった。砲撃の射程を潰す。南方棲鬼は反応していた。まるで待っていたかのように、伸びてくる瑞鶴の手を、組み合うようにしてガッチリと掴んできた。とんでもない反応速度だった。瑞鶴と南方棲鬼は額をぶつけ合い、至近距離で見つめ合う格好になる。上位深海棲艦の二人が、互いの両手で相手の体を圧す力に、二人の足元の地面が先に耐えられなくなった。石畳とコンクリで舗装されていた地面が、轟音と共に砕けて陥没していく。

 

「……何ガ目的なノ」

 

 額をぶつけ合ったまま、歯を剝いて南方棲鬼を睨みつける瑞鶴は、これが最後のつもりで問う。南方棲鬼と掴み合う両手と両腕と震える。「すぐに分かる」と、南方棲鬼は赤い眼を細めて、囁くように言う。つまり、瑞鶴の問いに答えるつもりは無いということだ。彼女の声や言葉は滑らかで、この鎮守府で過ごすことになってすぐの頃にあった様な、ぎこちなさは無い。「話にナらなイわ」と、吐き捨てるように言い放った瑞鶴の声音の方が、よっぽど硬く強張っていた。

 

「退きナさイよ……!」

 

 瑞鶴の声に呼応したのは、中空で縺れて喰らい合っていた猫艦戦たちの一部だ。ただ、一部とは言っても相当な数で、20や30では無い。もっと多い。その猫艦戦たちが大口を開けて鋭い牙を剥き出し、急降下してきて、瑞鶴と睨み合う南方棲鬼に襲い掛かった。猫艦戦たちは南方棲鬼に群がり、むしゃむしゃガブガブと噛みつこうとした。南方棲鬼は、艦戦達にぐるっと周囲を取り囲まれているような状態だし、瑞鶴と組み合っている最中だ。もう逃げ場はない。その筈だった。

 

「まだ退くわけにはいかない」

 

 油断していた訳ではない。

 

「あと数分、お前の相手をする手筈になっているんでな」

 

 南方棲鬼が言い終わるのと同時だった。全身に力を込めていた筈の瑞鶴の体がふわっと浮いた。とんでもない力で引き摺られる感覚が同時に在った。次の瞬間には、瑞鶴の足はもう地面から離れている。何が起きたのかを理解するよりも先に、強烈な衝撃を感じた。その衝撃は次々と来る。絶え間ない。瑞鶴の体が、何か硬いものとドカドカバキバキガッツンガッツンとぶつかっている。瑞鶴の体が、何かを破壊している。視界が高速で流れている。南方棲鬼が瑞鶴の両手を掴んだままで、その瑞鶴の体そのものを滅茶苦茶に振り回し、群がってきた猫艦戦達を殴り飛ばし、叩き落とし、跳ね飛ばしているのだ。

 

 身体がバラバラになるような衝撃が続く。顔や腕や肩や腹や脚や背中の肉が潰れ、骨が砕ける。だが、すぐに再生する。瑞鶴は意識を手放さない。全身を包む痛覚は、反撃のチャンスを窺うだけの冷静さをくれた。瑞鶴は南方棲鬼の手を握っている。掴んでいる。離さない。このまま、猫艦戦を召び続ける。瑞鶴を振り回している南方棲鬼に、さらに大量の猫艦戦達が押し寄せる。

 

 南方棲鬼は更にメッタクソの無茶苦茶に瑞鶴をブン回して見せたが、艦戦達を捌ききれなくなってきて、彼女の左肩と右脚に猫艦戦が噛みついた。彼女の頑丈な肉体を食いちぎるまでは行かずとも、僅かに動きが鈍った。チャンスだ。南方棲鬼に噛みついた艦戦を、即座に自爆させる。かなりの大爆発だった。至近距離であったため、瑞鶴も爆風に巻き込まれる。腕と肩の感覚と、視界が消し飛んだ。そんなことは些細なことだった。吹き飛ばされて地面を転がる間に、体は修復される。すぐに手をついて立ち上がろうとして、南方棲鬼と目が合う。

 

 シュゥゥゥゥ…………、と全身から白く細い煙を立ち昇らせる彼女には、顔の左半分と体の左半分が無かった。ついでに、右の腰から右脚にかけてが吹き飛んでいる。それでも、南方棲鬼は倒れてはいない。彼女は左脚だけで立ったまま、落ち着いた表情を顔の半分だけで作り、瑞鶴を見ていた。

 

「出鱈目な戦い方をする」

 

 顔の半分が吹き飛んでいるせいか、流石に喋りにくそうだった。アンタに言われたくない。そう言いかけて、やめた。そんな余裕がない。南方棲鬼の損傷だらけの体が、まるで動画を逆再生するかのように再構築されていく。彼女の体を包んでいる、あの琥珀色をしたオーラの仕業に違いない。今の少年提督が、彼女に付与している特殊な術式効果なのだろうが、悪い夢でも見ているかのような気分だ。瑞鶴の肉体もかなりの速さで再生・再構築しているが、南方棲鬼はそれを上回っていた。

 

 あっという間に元通りになった南方棲鬼が、此方に悠然と近づいてくる。

 強い。素直にそう思う。倒せない。そう思い掛けて、やめた。

 瑞鶴は立ち上がる。少年提督を追わねばならない。

 

 ここで立ち止まっている訳にはいかない。

 何としても押し通らねばならない。

 瑞鶴の身体も、もう完全に再生している。

 南方棲鬼を睨みながら立ち上がる。

 もう一度だ。今度は、再生する間も与えない。

 もっと大量の猫艦戦を仕掛け、圧殺し、爆殺する。

 徹底的に焼き尽くす。

 

 瑞鶴が再び、曇天の中に猫艦戦を召ぼうとした時だった。ブゥンと空気が振動する音がして、南方棲鬼の右の耳元に三角形の術陣が浮かんだ。初めて見る術陣だ。新しい攻撃術式か。警戒する瑞鶴を一瞥した南方棲鬼は、耳元に現れた術陣に指で触れる。

 

『そろそろ戦闘は切り上げてくれ』

 

「……予定より早いな」

 

『提督の指示だ』

 

「わかった」

 

 三角形の術陣からは声がしている。深海棲艦化した瑞鶴は、その五感が研ぎ澄まされている。聴覚も視力も、人間を遥かに凌駕しているから分かる。集積地棲姫の声だ。あの術陣は、深海棲艦が扱う通信用の術式なのだろうと予想がつく。提督という言葉が聞こえた。提督。それが少年提督を指しているのは間違いない。では、少年提督の指示とは何だ。瑞鶴は無意識のうちに、三角形の術陣から漏れる声と南方棲鬼との会話に耳を澄ませていた。何かが分かるかもしれないと思ったが、そう上手くはいかない。

 

 南方棲鬼が早々に会話を切り上げ、三角形の術陣を閉じてしまった。そして瑞鶴に向き直りながら、すっと後ろに下がる。逃がさない。瑞鶴も前に出ようとした。だが、そのタイミングを潰すように、彼女の艤装が火を噴いた。砲撃だ。立て続けに5発。瑞鶴と南方棲鬼の、ちょうど中間あたりの地面だ。そこに砲撃を行ったのだ。爆発と爆風が起こり、煙と石の屑が濛々と舞う。瑞鶴の視界が白く濁る。煙幕か。南方棲鬼の気配が遠ざかる。それを追いかける。瑞鶴も飛び出していく。立ち昇る煙や埃の分厚い層を突っ切ろうとして、視線を上げる。離れた場所に立つ庁舎の屋上に神通の姿を探したが、もう見当たらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 少女提督は、完全にフリーズしてしまった携帯端末を忌々しく思いながら走る。深海棲艦を率いた少年提督が反逆をしたことや、鎮守府内に残っている憲兵たちを逃がすために動いてほしいと、艦娘達に伝えたい。すぐに食堂に向かい、集められている筈の艦娘達と合流しようと走っている途中で、テレビカメラやマイクを持ったリポーター、記者たちが、数人の憲兵に誘導されて鎮守府の外へと逃げようとしているのを、少し離れた場所に見つけた。

 

 最悪だと思った。

 

 作戦会議室の壁が吹き飛ばされた爆発音を聞いて、大きなアクシデントの匂いを嗅ぎつけたのだろう。こういったマスコミ関係者が鎮守府内部に侵入しているという事実に、軽い眩暈がした。これ以上、状況が複雑になっていくのは勘弁してほしいが、文句を言っても何も変わらない。一般人まで鎮守府に入り込んでいるなら、その全員の身を守り、退避させなければならない。

 

 ただ、今の鎮守府に憲兵が詰め掛けてくれていたのは幸運だった。軍属の憲兵たちであれば、艦娘との連携も可能かもしれない。深海棲艦たちの脅威の届かない範囲でなら、マスコミの関係者への避難誘導を任せることも出来るだろう。そこまで考えたところで、憲兵達も少女提督に気づき、駆け寄ってきた。

 

 

「おい! アンタも提督なのか!? とにかく逃げろ!」

 

 大きなカメラを担いだ男が息を切らせながら、少女提督に大声で言う。テレビ局の人間なのだろう。彼が着込んでいる派手なジャンバーには見覚えのある番組ロゴが入っている。昼の時間帯にやっているニュース番組のロゴだった筈だ。

 

「深海棲艦が暴れ回ってるし、少年の提督が深海棲艦化したそうだ!」

 

 次に少女提督に声を掛けてきた男は、どうやら記者のようだった。少女提督は二人の顔を交互に見て、違和感を覚える。彼らの顔に薄い笑みが浮かびかけていたからだ。それは、このカメラマンと記者だけではない。マイクを持った男性リポーターや他の記者たちも似た表情をしている。

 

 彼らから感じるのは、自分の命を守るために行動する必死さでもなく、自分達は助かるだろうという楽観と油断でもない。スクープを捉えるのに必要な撮影機材を慌てて取りに戻ろうとしているかのような、充実と高揚に満ちた慌ただしさだ。彼らの眼差しには危険なほどにギラついた光が宿っている。今の非日常のスリルが、真実を報道しなければという彼らの使命を燃え上がらせているのかもしれない。此処に憲兵が居なければ、すぐにでも深海棲艦達が暴れている現場へ駆け戻りそうな雰囲気が、彼らにはあった。

 

「元帥殿も、我々と共に避難を!」

「すぐに此処も敵艦載機の索敵範囲に入ります!」

 

 続いて声を掛けてくれた憲兵達は険しい表情をしていて、今の状況をちゃんと理解している様子だった。少年提督が率いる深海棲艦達の中に、大量の艦載機を使役できる個体がいることを知っているのだ。制空権を奪われる事態になれば、すぐに安全な場所など無くなる。

 

「マスコミ関係者は、これで全員ですか?」

 

 少女提督は質問しながら、憲兵二人を交互に見やった。

 

「いえ、まだ避難していない者達も多数いると思われます!」

 

 片方の憲兵が表情を歪めて、もう片方の憲兵が、「彼らからも話を聞きましたが、相当な数が鎮守府に入り込んでいるのは間違いありません」と、マスコミ関係者を一瞥した。少女提督は出そうになった溜息を飲み込み、「まぁ、そうよね」と、胸中で頷いた。

 

 艦娘に非道な人体実験を行ってきた大罪人の疑いがあるとして、少年提督と野獣は世間からも強い関心を集めていた。そんな彼らから艦娘が剥奪される当日に、彼らの所属する鎮守府で爆発が在ったなんてことになれば、どうなるか。決まっている。鎮守府を包囲していたマスコミたちが、黙って成り行きを見ている筈がない。我先にと真相を求めて動き出す。現場が目と鼻の先なら余計だろう。だが、鎮守府の門扉がすべて閉ざされていたのも間違いない筈で、どうやってマスコミ関係者が鎮守府にまで入り込んだのかは分からない。だが、その方法や原因を探っている時間は無い。

 

 少女提督は憲兵達に向き直り、何処かソワソワとして落ち着かない様子のマスコミの関係者たちを一瞥する。

 

「では、彼らの安全な場所までの避難誘導をお願いします。私は鎮守府に残り、テレビ局のクルーや記者たちの捜索にあたります。それに、禁固房に拘束されている艦娘4名の開放もせねばなりません」

 

 その言葉に憲兵だけでなく、マスコミ関係者たちまで驚いたような表情を浮かべ、少女提督に視線を流してくるのが分かった。こんな女の子に、何が出来るのかという疑問を込めた視線だった。

 

「私は此処の“提督”です。一般の人々や艦娘を置いて、先に避難するわけにはいきません」

 

 彼らが何かを言う前に、少女提督は有無を言わせない力を込めて言葉を繋ぐ。少女提督が、提督適性が低い非力な“元帥”であることは、目の前に居る憲兵達も知っている筈だ。だが同時に彼らは、今は人命を最優先しなければならない時であり、その為に果たすべき役割と責任を、其々が背負っていることも分かっている様子だった。

 

「では、その護衛として私も同行させて頂きます!」

 

 少女提督を一人で行動させることに躊躇したのだろう。護衛につこうと申し出てくれた憲兵の一人に、少女提督は緩く首を振った。

 

「いえ、その必要はありません。幸い、禁固房までの距離は知れていますし、禁固房の艦娘を開放すれば、彼女達に護衛して貰うこともできます。それに、捜索に協力して貰うこともできます。大丈夫です。私は一人ではありません」

 

「しかし、今の艦娘達には、抜錨ができない処置が為されているはずです!」

 

 必死な様子の憲兵が食い下がってくる。少女提督を守りたいという気持ちが伝わって来た。彼は優しい人物なのだろうと思う。

 

「その処置の解除なら、私にも出来ます。問題はありません。お気遣い、感謝します。……お二人は、マスコミの皆さんを避難させることを優先してください。ご存じの通り、私は“元帥”ではありますが、いくらでも替えの効く凡人です。私のことは気にせず、確実な任務遂行をお願いします」

 

 憲兵達は少女提督を見詰めて何かを言いかけたが、すぐに表情を引き締めてこちらに敬礼してくれた。彼はマスコミ関係者たちを連れ、鎮守府の外へと誘導すべく、踵を返して駆け出す。自らが果たすべき役割の中に戻っていく彼らの背中を見送りつつ、少女提督も体の向きを変える。地面を蹴って走り出す。自分の息が弾む。そのリズムを感じながら、自身のすべき行動を考える。

 

 微力な今の自分が、必死に鎮守府を掛けずり回っても、その範囲は多寡が知れている。なら、もっと有力な者に協力を請う必要がある。多数のマスコミ関係者を避難させるには、憲兵と艦娘たちの協力が必要になるだろうと思えた。食堂に居る彼女達が装備されているチョーカーを解呪し“抜錨”可能にすれば、艦娘の超人的な力を以て、憲兵もマスコミ関係者も守って貰える。

 

 ただ、今の段階では艦娘たちも肉体をスポイルされている。食堂に居る艦娘たちの場合は、彼女達を監視するために配置されている憲兵が守ってくれるか、避難を誘導してくれることも期待できる。だが、禁固房に拘束されている天龍達の場合では、房の中に取り残されてしまっている可能性があった。

 

 少女提督がせねばならないことは、まずは天龍達を開放し、その次に他の艦娘達の肉体のスポイルを解くことだ。少年提督や深海棲艦との戦闘よりも、艦娘と憲兵達の協力のもとで、鎮守府に入り込んだマスコミ関係者たちを避難させることが優先される。少女提督は走りながら、携帯端末を取り出す。まだフリーズ中であることが忌々しいが、仮に使えたとしても、艦娘達の端末もロックされている。連絡を取り合うことはできない。

 

 そこまで考えて、自分に出来ることがまだあることに気づく。犠牲者を出さないなんてことは、あくまで理想論であることは理解している。ただ、その犠牲者の数を、出来る限りゼロに近づける為の努力を放棄するつもりは一切ない。少女提督は走る速度を上げる。禁固房までは、もうすぐだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷たく、硬い感触が頬に在った。

 それが禁固房の床の温度であることは分かっている。意識はある。思考も動いている。つい先ほど、爆発音があったことも認識している。大人数が使える作戦会議室がある庁舎の方角からだった。その、すぐあとだった筈だ。身体が動かなくなった。力が抜けて、その場に崩れ落ちた。懐かしさすら感じる、身に覚えのある感覚だった。あの襲撃事件の夜にも使われていた、艦娘の肉体を無力化する術式効果だ。間違いない。

 

 だが何故だ?

 何でこんなタイミングで、艦娘の肉体無力化の術式が発生してんだ?

 誰が編んだ? 何が起きてやがる? 

 

 頭の中に無数の疑問が同時に膨らみ、混乱しそうになる。呼吸が上手くできない。うつ伏せに倒れる天龍は、細い息をヒューヒューと漏らしながら、眼球だけを動かし、鉄格子の向こう側を見る。薄暗い廊下に、此方を見張る憲兵の姿はない。戻ってこれない事態になったという可能性が高いと思えた。少し遠くで、地響きのような音が低く聞こえ、石の床に横たわる天龍の体にも振動が届いている。何かが起きて、今の鎮守府の状況が大きく変化しているのだということは分かった。

 

 猛烈に嫌な予感がするのと同時に、天龍の脳裏に、少年提督の顔が浮かんだ。能面のような微笑みを顔に張り付けている。全てを見透かしたような、穏やかな笑みだ。あの、何を考えているのかを分からなくなさせる、天龍の嫌いな微笑みだった。

 

 クソが。笑うんじゃねぇ。何を笑ってやがる。

 

 石の床を掴むようにして指先に力を入れる。指先から、掌へ。掌から、腕、肩へと、力を込めていく。上半身を僅かに動かすだけで、体中から汗が噴き出した。獣のように呻きながら這う。芋虫ほどの速さで、石の床を這う。沼に沈んでいく体を、何とか持ち上げながら移動するような有様だった。

 

「今の爆発音は……」

 

 近くの禁固房から、不知火の深刻そうな声が聞こえる。ただ、禁固房に入れられているため、不知火の居る房室から此方の様子は見えない。同じように、天龍にも不知火の姿は見えない。

 

「天龍さん? どうかされましたか?」

 

 返事がないことを妙に思ったのか。不知火が聞いてくる。天龍は笑いそうになる。おう、どうかしてんだよ。つーかよ、何でお前は平気そうなんだよ。いや、そういえば、前の襲撃事件の時も、不知火は最後まで戦ってたんだよな。なら、艦娘無力化の術陣効果に対して、耐性を付与する施術なり装備なりを持っていたとしても不思議じゃねぇな。何だよ。俺にもやっとけつーんだ。そういう対策はよ。頭の中でぶつくさ言いながら地べたを這う天龍が、鉄格子の扉までたどり着いた時だ。また爆発音がした。禁固房全体が揺れる。間違いない。この鎮守府内で戦闘が行われている。

 

「時雨さん! 鈴谷さんも! 返事をしてください!」

 

 焦った不知火の声が聞こえる。不知火が鉄格子を掴む音も。だが、天龍は何も答えられない。息が細く揺れるだけだ。傍の禁固房に居る時雨も鈴谷も、今の天龍と似たような有様だろう。天龍は舌打ちしようとしたが、上手くできなかった。

 

 全くムカつくぜ。頭にくる。俺達を無視するんじゃねぇ。俺達は此処にいるんだ。傍観者にするんじゃねぇ。もうたくさんだ。何も出来ずにじっとしているのは。もう嫌なんだ。勘弁してくれ。誰でもいい。俺達を舞台にあげてくれ。役割をくれよ。なんか有るだろ。無いってことはねぇだろ。なきゃおかしい。とにかく、こんなトコで寝てるだけなんて、死んだ方がマシだ。誰か居ねぇのかよ。誰でもいいんだよ。あくしろよ。

 

「お待たせ。そろそろ、君たちの出番だよ」

 

 天龍の心の声が届いたのか。鉄格子の向こうに誰かが現れた。禁固房の中に響く声に、うつ伏せの天龍は信じられない気持ちで視線を動かした。薄暗い廊下を見上げる。改二装束を纏った川内が此方を見下ろしていた。川内は唇の端を持ち上げるようにして笑みを浮かべ、腰に手を当てている。

 

「貴様……」

 

 殺気立ち、ドスの効きまくった不知火の声がした。天龍も警戒を込めた眼で川内を睨む。そうか。確かコイツは、艦娘の肉体を無力化する術式の影響を受けない。そういう施術を受けて調律されているという話は聞いた。だからこそ、前の襲撃事件では実動部隊として鎮守府内部にまで侵入してきていたのだ。じゃあ今の状況は、コイツが原因なのか。また少年提督や野獣を襲う為に、俺達の肉体を無力化したのか。

 

「睨まないでよ。おっかないなぁ」

 

 川内は肩を竦めて見せてから、天龍が入れられている禁固房の鉄格子を引っ掴み、無理やりにこじ開ける。脆い紙細工を軽々と破るかのようだった。鉄製の鍵が弾け飛び、檻が拉げ、へし折れる音が響く。“抜錨”状態の艦娘なら造作もない破壊行為だが、その“抜錨”状態はおろか身動きも碌に取れない天龍にとって、今の川内は脅威でしかなかった。

 

 もしも川内が天龍達を始末しに現れたというのなら、とても太刀打ちは出来ない。不知火だけは艦娘の肉体無力化の術式の影響を受けていない様子だが、“抜錨”状態になれないのであれば、やはり相手になどならないだろう。天龍は何とか立ち上がろうとするが、それも無理だ。警戒を漲らせて川内を睨むのがやっとだった。

 

「悪いことは何もしないから、安心してよ」

 

 川内は軽く笑いながら言うが、這い蹲る天龍が眼を細めるのを見て、また肩を竦めた。

 

「まぁ、こっちの言い分を信じて貰うのは難しいよね。ん~……、こんな遣り取り、前にもやった気がするな~」

 

 暢気に言う川内は、ひっぺがした鉄格子の扉をひょいと後ろに投げた。邪魔な紙くずを丸めて放るような仕草だが、重厚な金属扉が空中を移動して、かなり派手な音を響かせて床に落ちる。憲兵達がその音に気づき、戻ってくる気配もない。川内はそのまま鈴谷と時雨、それに不知火の禁固房の鉄格子も順番にこじ開けて破壊していく。

 

「……どういうつもりだ」

 

 壊された鉄格子の扉から、不知火が廊下に歩み出る。不知火は身を僅かに落とし、すぐに動けるように重心を下げていた。油断なく川内を睨んでいる。その不知火の目の前で、川内は携帯端末を操作して、それを床に置いた。何をする気だ。不知火も警戒を漲らせて、半歩下がった。同時だった。床に置かれた携帯端末の上の空間に、積層型の術陣が構築された。術陣の色は見慣れた深紫をしていて、溢れる微光が薄暗い禁固房の空気を濯ぐように流れていく。清らかな潺が、静かな音を立てて流れていくかのようでもあった。

 

 天龍は視線を動かして、展開された術陣を睨んだ。あの光は、明らかに天龍達に作用を及ぼす為のものだ。細かな光の粒が、天龍の体に沁み込んでくる。

 

「君達をスポイルしている術式を解きに来たんだよ。食堂に集められている艦娘たちも、もう少ししたら“抜錨”できるようになる。君達と同じようにね。……それをさ、あの女の子の提督に会ったら伝えて欲しいんだ」

 

 廊下に佇む川内は、睨んでくる不知火にも怯みは見せない。両手の掌をぱんぱんと軽く叩き合わせ埃を払っていた。不知火と交戦しようとする気配は無い。課された仕事をこなしているといった様子だ。

 

「そんなに身構えなくてもいいよ。私は、提督の命令に従ってるだけだから」

 

「司令からだと……」 不知火は川内に詰め寄ろうとしていたが、踏みとどまった。冷静だ。“抜錨”状態の川内に生身で組み付いて勝てるワケがない。その不知火の判断を満足そうに眺めていた川内は、「どういう事かは、すぐに分かるって」と、落ち着いた声で言いながら、腕時計を一瞥した。積層術陣が薄れて、霧散していく。天龍達を照らし、注がれていた深紫色の微光も解け、房内の暗がりに溶けていこうとしていた。

 

「さて、あと10秒もしないうちに、君達の肉体を無力している術式効果は消えるよ。そしたら、君たちの出番だ」

 

 禁固房を見回した川内は、床に置いた端末を拾い上げるついでに、倒れている天龍を見て、それから不知火を見た。それに、天龍と同じように房室内で倒れているだろう時雨や鈴谷を一瞥してから、後ろに下がっていく。全く足音がしない歩法と、川内独特の気配の消し方の所為か、禁固房の廊下の薄暗さに溶けていくかのようにすら見える。忍者という言葉が浮かぶ。陳腐な感想だったが、目の前の川内の静かな佇まいと雰囲気には相応しく思えた。川内の輪郭がぼやけて、すぅっと暗がりに薄れていく。

 

「待て!」

 

 不知火が声を上げて踏み出した時には、既に川内の姿は無かった。

 

「まだ仕事が残ってるんだ。悪いね」

 

 ただ、川内の声だけが薄い響きを暗がりに残っているだけだった。その直後に、天龍を地面に抑えつけている重さが消えた。正常に動く肉体と呼吸が、唐突に還って来た。自身の体が、再び艦娘の姿と機能を取り戻した感覚を握りしめ、大きく息を吸いながら飛び起きる。一気に酸素を取り込んだ肺が震え、咳き込んでしまう。

 

「げほっ……! あぁ、クソ……!」

 

 川内の言う通り、艦娘の肉体を無力化する術式効果が消えたのだと分かった。腕や脚にも力が入る。首に手をあてて回すと、ゴキゴキと音が出た。すぐに“抜錨”状態になれることを確かめ、手の中に刀剣を召還して廊下に飛び出る。時雨と鈴谷も、“抜錨”状態になって房室から駆け出してきた。

 

「川内は!?」

 

 鈴谷が辺りを見回すが、すでに川内の姿は無い。禁固房が並ぶ廊下には、薄暗がりが漫然と在るだけだ。ひとつ呼吸を置いて難しい顔になった時雨が、不知火と天龍を交互に見る。

 

「さっきの川内の口振りだと、彼女は天龍達の提督の指示で動いてるみたいだけど……、何か知ってるかい?」

 

 時雨からそう問われ、不知火と天龍は顏を見合わせる。だがすぐに、「いえ……」「さぁな」と、同時に首を振った。少年提督が何を考えているのか分からないのはいつもの事だ。今までのように結果オーライで済めば良いと思いつつも、今回ばかりは、そうはならないような気がしていた。再び、爆発音と振動が在った。クソが。

 

 舌打ちをした天龍はボリボリと頭を掻いてから、また全員を見た。時雨と鈴谷、不知火も、互いに互いを見て、頷く。この場で何かを議論している暇はない。この場に居る4人が似通った判断をしたに違いなかった。

 

 そして殆ど同じタイミングで、全員が薄暗い廊下を駆け出していた。

 

 天龍は隣を走る不知火を横目で見る。真剣な表情をした不知火の手には、艦娘装束としての手袋が嵌められている。その手袋の中の左手薬指には、恐らく少年提督から渡された“ケッコン指輪”が嵌められているのだろう。そのケッコン指輪が、艦娘の肉体を無力化する術式効果から不知火を守ったに違いない。今日のこの騒ぎにも、不知火には何らかの役割が用意されているように思えた。

 

 そして、天龍にも、時雨にも、鈴谷にも、他の艦娘全員にも、其々に役割が在るのだろうという強い予感も在った。再び、爆発音がした。戦闘が続いている。戦闘。それは、何と、何が戦ってやがるんだ。誰と誰が、何の為に、こんな真面目にドンパチやってんだよ。それを想像すると、本当に嫌になる。

 

 アイツ、まさか“放火”したんじゃねぇだろうな……。

 

 天龍は禁固房の外へと向かう廊下を駆けながら、鬱陶しそうにボヤく。隣を走る不知火の視線を感じたが、無視する。さっきまでしていた、昔の文学作品の内容が頭を過る。その作品に関する解説の中の一つに、“行為者は、その行為を他者に観測されることによって、行為者と行為が重なり、観測者にとっての真実になる”、といった内容のものが在ったのを思い出した。そんな場合でもないのに、余計な思考が働き始めようとしている。

 

 天龍は意識的に、手の中に召んだ刀剣型の艤装を握り直す。冷たい鉄塊の温度が皮膚に伝わり、武骨な重量が掌と腕の筋肉に馴染んでくる。この武装の感触は、艦娘である自分の真実だ。なら、艦娘である自分が、今すべきことは何だ。天龍達は禁固房の廊下を走り抜けて外に出る。灰色の雲が空を覆い、その分厚い雲の一部が明るく見えた。そこに太陽がある。

 

「他の奴らと合流するか、爆発音がした方へ行くかだな」

 

 駆ける速度は緩めず、天龍は他の3人を順に見る。天龍達以外の艦娘は皆、いったん食堂に集められることになっていた筈だ。

 

「“抜錨”できるようになれば、食堂に居る皆も爆発音がした方へ向かうんじゃないかな。憲兵も居るだろうし、此処の皆なら協力して動こうとすると思う」

 

 かなりの速度で走りながらも、呼吸も声も全く乱さない時雨が言う。先ほどの川内は、艦娘たちのスポイルを解いているのだと言っていた。肉体の機能を取り戻した艦娘たちが、どんな行動を取るのかを想像すれば、確かに時雨の言う通りに思えた。

 

 天龍と並走している鈴谷も、「今から食堂に向かうと、すれ違いになるかもだね」と、冷静に頷いて見せる。それと同じタイミングで、轟音が体を揺らしてきた。庁舎が崩れる音だ。戦闘の気配が大きくなっている。おいおい。妖精達と工事業者が協力して、せっかく立て直したってのにな。

 

「では不知火達も、爆発音がした方へ向かいましょう」

 

 不知火が短く言葉を継いで、「あぁ、そうだな」と、天龍が頷こうとした時だった。庁舎の角から、誰かが走り出してくるのが見えた。息を切らせた少女提督だ。荒い息をしている。彼女も此方に気づいて驚いた表情を浮かべたあとで、安堵するように空を仰いで肩を落としている。そんな少女提督の姿を見た天龍も、彼女が無事であったことに安堵した。同時に、先ほどの川内の“少女提督に会ったら、伝えて欲しい”という言葉を思い出していた。

 

 

 

 

 

 

「忘れないうちに言っとくぜ。“俺たち以外の艦娘も、“抜錨”できるそうだ」

 

 合流した天龍は、開口一番にそう言ってきた。いきなりの事に、少女提督は何の話かと思った。だが、すぐに理解できた。目の前に居る天龍が、刀剣型の艤装を手の中に召還しているということは、“抜錨”状態であることを意味している。不知火や時雨、鈴谷にしても、艤装を召んでこそいないが、張り詰めた空気を濃く纏っていて、“抜錨”状態なのだろうことが窺えた。

 

 彼女達は“抜錨”状態にはなれないよう調律を受けていた筈だが、それが解呪されている。誰が、どうやって解呪したのか。そもそも、天龍達を開放したのは誰なのか。頭に浮かんだそういった疑問も、つい先ほどまでの出来事を時雨から聞いて、すぐに解決した。

 

 艦娘の肉体無力化の術式展開があり、不知火以外が禁固房の中で行動不能に陥った。そんな中で、術式の影響を受けない川内が禁固房に現れた。彼女の口振りでは、少年提督の指示によって動いており、天龍達以外の艦娘も“抜錨”可能な状態にしておくと言っていたらしい。そして、その事を少女提督に伝えて欲しいと、川内から頼まれたというのだ。食堂に居る艦娘達と携帯端末で連絡を取り合うことが出来れば、真偽はすぐに確認できるが、そうもいかない。艦娘たちの端末はロックされている。それは目の前に居る天龍達の端末も同じであり、少女提督の端末もフリーズ状態だ。

 

 川内がこの鎮守府の脅威として存在しているのなら、天龍達を見逃す説明がつかない。川内が言うように、彼女が本当に少年提督の指示によって動いていると考えるならば、『他の艦娘たちのスポイルを解除する』という言葉に、異様な真実味が出てくる。艦娘の肉体無力化の術式を展開しつつ、艦娘たちに装着させられたチョーカー型の拘束装備の解呪するなんて芸当も、今の少年提督なら容易くやってのけるだろうからだ。

 

 少年提督が仕込んだ術式が艦娘の動きを止め、その間に川内や日向、神通が何らかの仕事をこなしているという構図も見えてくる。もしかしたらと思う。鎮守府の門扉を開放し、マスコミ関係者この状況に入り込んでくるように仕向けたのは、川内たちなのではないか。少年提督のAIアバターが言っていた「役割」という言葉が、思考の裏側で響き、蘇る。

 

「川内が動いているってことは、日向や神通も動いてると見て間違いなさそうね」

 

 少女提督は右手親指の爪を噛みながら、視線を落とそうとして、気づいた。

 

「なぁ」

 

 天龍が、少女提督を見据えている。

 

「順番がめちゃくちゃになっちまったが、教えてくれ。今の鎮守府で何が起きてんだ?」

 

 天龍の声は酷く落ち着いていて、その眼も強く据わっていた。時雨や鈴谷、それに不知火も、少女提督を見詰めてくる。内臓が縮まるような心地だった。離れた場所で、また轟音が響いた。曇天を震わせる、戦闘の音だった。音の発生源は2か所ある。つまり、2つの場所で戦闘が行われている。一つは野獣と、深海棲艦の誰かだろう。もう一つは分からない。だが、激しい戦闘であろうことは、聞こえてくる轟音で簡単に予想できる。

 

 少女提督は一つ呼吸を置く。余計なことは言わなくていい。事実だけを端的に話せばいい。重要なのは結論であり、今からの対処方と判断だ。感情を乗せる必要はない。頭ではそう理解していても、呼吸が震えた。

 

「彼が、深海棲艦を率いて暴走してるのよ」

 

 自分の言葉に動揺したくなくて、意識して事務的な口調で告げる。時雨と鈴谷が眼を見開いて驚愕し、言葉を失っているのが分かった。一方で、天龍の反応はと言えば、「……そうか」と静かに呟くだけだ。予想していたものを改めて聞いたような反応だった。不知火は何も言わずに俯いて、数秒ほど地面を見詰めたが、すぐに顔を上げる。

 

「憲兵の方々は、既に退避しているのですか?」

 

 無表情の不知火は感情を見せない。少女提督と同じで、動揺に流されたくないのだろう。今の状況に対して、艦娘として冷静な対処に徹しようとしているのが分かった。それは正しいのだと思う。少女提督は不知火たちを視線だけで順に見る。

 

「鎮守府の敷地内に、それなりの数のマスコミまで入り込んで来ててね。先に避難して貰わなきゃなんない状況なのよ」

 

 事態の複雑さを理解したのか、「それって、結構ヤバいんじゃ……」と、鈴谷が焦りを見せる。轟音が聞こえる。戦闘範囲が広がりつつある。「すぐに他の皆にも連絡を取って、僕たちも避難誘導にあたろう!」と時雨が頷いてから、何かに気づいたかのように動きを止めて、唇を噛んだ。

 

「……俺たちの端末は、本営から遠隔でロックされてるからな」

 

「不知火たちだけで連携を取るのは難しいですね」

 

 鬱陶しそうに言いながら、天龍と不知火は自身の端末を取り出す。彼女達の端末のディスプレイには、操作不可を表すメッセージボックスが表示されている。時雨と鈴谷も端末を取り出すが、やはり同じだ。携帯端末さえ使えればという思いは全員一致している。どのような目的なのかは不明だが、裏で動いている川内達は、少女提督たちにとって敵対行動を取っているわけではない。それは、天龍達が無事であることが証明している。彼女達が、食堂に集められた他の艦娘達を“抜錨”可能にするという話を信じ、行動を急ごう。

 

「ねぇ、天龍。ちょっとお願いがあるんだけど」

 

 少女提督は天龍を見上げる。少年提督が召還した天龍は、激戦期を戦い抜いた猛者だ。箆棒に強い。世界で一番強い『天龍』と言っていい。既に改二になっているし、不知火や時雨、それに鈴谷よりも練度が高い。

 

「……何かいい作戦でも思い付いたか?」

 

「えぇ。説明は後でするから。とりあえず私を抱えて、執務室まで送ってくれない?」

 

 体格的に見ても、頼むのなら天龍だと思った。時雨や鈴谷、そして不知火を順に見ると、彼女達も頷いてくれた。一刻を争う今の状況だが、微力な少女提督と行動を共にしてくれるのは有難い。爆発音が2度、立て続けに響いてくる。ビリビリと空気が震え、熱い風が吹き抜けていった。天龍が鼻を鳴らす。

 

「確かに、“人間”の提督には護衛は必要だな。……舌噛むなよ」

 

 天龍は言うが早いか、少女提督を肩に担いで走り出していた。不知火達も追走してくる。とにかく疾い。喋っていたら本当に舌を噛んでしまう。襲撃事件の夜にも野分に抱えられて思ったが、陸の上でも彼女達の身体能力は超人そのものだ。彼女達が全員で協力すれば、尋常では無い速度で鎮守府全体を見て回り、マスコミ関係者や憲兵を退避させることも可能だと思えた。

 

 天龍達が少女提督の執務室がある庁舎の中に駆け込むまで、本当にあっという間だった。途中で、また轟音が聞こえた。少し離れた場所からだ。不穏な静寂に満ちていた庁舎内の空気が震え、廊下が軋みをあげて、冷え込んでいた空気がうねる。その中を、少女提督を抱えた天龍が駆け、扉を蹴飛ばす勢いで執務室に飛び込んだ。

 

「ありがとう!」

 

 少女提督は天龍に礼を言いながら、その腕の中から飛び出す。自分の執務机に駆け寄って、引き出しにしまっておいた大型のタブレット端末を取り出した。フリーズしてしまった携帯端末の代わりが必要だった。

 

「川内達が皆のスポイルを解除してくれてるんだったら、あとは……」

 

 少女提督は言いながらタブレットを起動して、通話専用の軍属アプリを立ち上げて本営に繋ぐべく、手早く操作する。通信が繋がるまでの僅かな時間も惜しい。少女提督は端末に保存していたデータの中から、鎮守府のマップと所属艦娘の艦種別リストを立ち上げる。ついでに、艦娘たち全員の携帯端末にファイルデータを送信できるように操作を行いながら、別のウィンドウを開いた。今の鎮守府の状態を、既にマスコミ関係者が映像としてテレビ中継している可能性に気づき、それを確認したかった。

 

 天龍達もタブレットを覗き込んでくる。

 

 同じタイミングで、立ち上がったウィンドウに幾つかのテレビ番組が映った。主要なチャンネルでは緊急のニュース特番として、この鎮守府の様子が映し出されている。痛みを感じるほどに心臓が跳ねて、強い寒気がした。時雨が息を飲み、鈴谷が浅い呼吸をしているのが聞こえた。天龍が舌打ちをして、不知火が奥歯を噛む音も聞こえた。全員がウィンドウを見詰める。

 

 琥珀色のオーラを纏った南方棲鬼が、あきつ丸を殴り飛ばし、北上を撥ね飛ばし、憲兵達を払い散らしている。彼女は艤装を召還している。“抜錨”状態にあり、人間を遥かに凌駕する力を発揮していた。南方棲鬼は、尻餅をついて腰を抜かしている若い女性リポーターに歩み寄ろうとしている。無慈悲な殺人の予感が在った。少女提督は知らずに息を飲んでいた。目を逸らしそうになるが、全身に力を籠めて映像を睨む。

 

 女性リポーターが殺されることは無かった。深海棲艦化した瑞鶴が南方棲鬼に突進し、女性リポーターを守った瞬間が大写しでテレビに流れている。映像の中で、深海鶴棲姫の姿となった瑞鶴が女性リポーターを優しく、しかし素早く立たせて、「私ハ、貴女たちヲ守りタい。だかラ早く、此処カラ逃げテ下さイ」と、退避を促していた。それは間違いなく瑞鶴による肉声だった。

 

 違うチャンネルでは、深海棲艦達を率いる少年提督の姿が映し出されていた。手振れが激しい映像の中で、完全な無表情になった少年提督は何かを唱えるように唇を薄く動かしている。彼の紫水晶のような瞳は玲瓏でありながらも無機質な光を湛えており、その冷たい眼が此方を見た。カメラを通り越し、そのレンズの向こうに居る者達に冷酷な殺意を注ぐかのような、人類に対する宣戦布告そのもののような眼差しだった。スタジオのコメンテーターなどが軽い悲鳴を上げている。

 

 映像の中の少年提督には、戦艦棲姫や戦艦水鬼に似た白磁色のツノが生えている。額の右側だ。それを得意げに指摘しているコメンテーターは、“人間の深海棲艦化”の可能性について唾を飛ばして語っている。深海棲艦の有識者にも急いで連絡を取っているという旨のテロップが入った。また別のチャンネルでは、深海棲艦化した瑞鶴が人間を助ける姿が、混乱と驚愕を呼んでいた。それら殆どのニュース特番の画面には、『人間の深海棲艦化』、『艦娘の深海棲艦化』という文字が大きく付随していた。これらの映像を提供しているのは言うまでもなく、この鎮守府に入り込んでいるマスコミ関係者たちだ。それは間違いない。

 

「マジかよ、これ……」

 

 冷静だった筈の天龍の声が震えていた。その言葉が、少年提督の今の様子を目の当たりにした感想なのか。それとも、こんな映像をニュースで流しても大丈夫なのかという意味なのかは分からない。正直、少女提督も「これマジ……?」という気分だったし、頭を抱えそうになる。

 

 少年提督が接触していた“黒幕”達の中には、マスコミに大きな影響力を持つ者が居たという話は、“初老の男”から聞いて知っていた。少年提督との間に、何らかの取引が在ったのだろうとも。今の鎮守府の様子を包み隠さずテレビで流すことによって、“黒幕”たちの中に何らかの利益を享受する者か、或いは、その身を守られる者が居るということなのだろう。ただ、そんな事は、今はどうでもいい。やらなければならないことがある。

 

「……今から、本営に連絡を取って、アンタ達の端末のロックを解除して貰うわ。多分、本営には憲兵達からの報告が上がってるだろうけど、具体的な対抗策が降りてくることなんて期待できないから、私達でなんとかするしかない」

 

 少女提督は作業を続けながら、肩越しに彼女達に振り返る。時雨は何も言えずに、ただ目を見開いていた。鈴谷が泣き出す寸前のような表情で、唇を噛んでタブレットを見詰めている。立ち尽くす不知火は無表情のままで拳を握り固めていた。

 

 彼女達に掛ける言葉など思いつかない。ただ少女提督に出来るのは、彼女達に明確な行動を指示し、その任務が達成できるように、可能な限り状況を整えるだけだ。それが今の少女提督の使命であり、役割だった。

 

 少女提督は一度深呼吸をしてから、鎮守府のマップに手を加える。所属艦娘のリストからバランスの良い編成を組んでいく。これ以上は不可能だという速度で作業を続けながら、ニュース番組の音声にも耳を傾ける。『現在、この鎮守府での怪我人は確認されておりません』『艦娘の2名が負傷したという情報が入っていますが……』『軍属関係者以外に負傷者は出ていないとのことです』『取材を続行したいと思います!』『これは大変な事態ですよ!』 情報が入り乱れ、感情的な声が聞こえてくる。

 

 ニュース番組のスタジオは何処も彼処も白熱していたが、タブレットの向こう側で声を荒げる人々の様子は少女提督を落ち着かせた。取り乱して混乱するのは、画面の向こうの人々に任せておけばいい。後のことを心配するのは、今の状況を切り抜けてからだ。余計な思考を削ぎ落し、意識の全てを現在に集中させなければならない。そのうち、本営に繋いでいた通話回線から応答が在った。

 

「反応が遅いのよッ……!!」

 

 キレそうになりながら通話を始め、少女提督は作業の手を緩めない。

 

 少女提督は、“元帥”としての資質は持っているが、それ以外は普通の人間である。野獣のように超人的な近接戦闘の技術を体得している訳でもないし、少年提督のような神懸った規模と精密さを両立した術式を編むこともできない。できることは限られている。今の鎮守府の状況に直接干渉するようなアクションも取れない。だが、鎮守府には優秀な艦娘の皆が居る。少女提督は、彼女たちを指揮できる立場にある。つまり、自身の“提督”という役職こそが、今の自分の最大の武器だ。

 

 

 

 

 

 

 

 食堂のテーブルに展開されていた積層術陣が解けて霧散し、艦娘の肉体を無力化する術式効果も消えた。“抜錨”を抑えるチョーカーも解呪されて消えているため、今の艦娘達は普段通りの力を振るうことが出来る。自分たちの体の状況を把握した艦娘たちはすぐに起き上がり、食堂を外に飛び出そうとしていた。霞もそのうちの一人だった。

 

 ただ、食堂には見張り役の憲兵が数名残っており、彼らは色めき立つ艦娘たちに、まずは大人しくするように大声で言う。それは単なる怒鳴りつけというには余りにも懸命で、必死の説得だった。

 

 彼らは、つい今まで展開していた積層術陣と、その術式効果によって身動きの出来なくなった艦娘達を前に右往左往していた。憲兵たちは術陣を銃や軍刀の柄で殴ろうとしたり、腕を振ってかき消そうとしていたが、そんなものは当然、何の効果も無かった。倒れた艦娘達を抱き起し、「おい! しっかしりしろ!」「どうした! 大丈夫か!?」などと声を掛けて回るのが精々だった彼らからすれば、今も動揺しているからこそ、復活した艦娘達に冷静になることを訴えることで、自分たちも混乱から立ち直り、冷静さを取り戻そうとしているのだと分かった。

 

「一体、今のは何だったんだ!?」

 

 強張った表情をした憲兵の一人が、龍驤に声を掛けているのが見えた。

 

「いや、すんまへん。急に体が動かなくなってしもて……」

 

 龍驤は片方の手で顔を擦りながら、呼吸を整えながら答えている。だが、そんな必要もないほどに、艦娘達が身動きすらできなくなった原因など誰でも分かった。さっきの積層術陣の効果に違いないからだ。ただ、誰が展開したものなのか。どういった目的が在って展開されたものなのかは分からない。ただ、さっきの爆発音を思い出すと、余り悠長なことはしていられない。まず動いたのは武蔵だった。

 

「さっきの爆発音の原因は何だ? お前たちは知っている筈だ」

 

 武蔵は、傍に居た憲兵に詰め寄る。他の憲兵と連絡を取り合っていたのだろう。武蔵に詰め寄られた憲兵は、携帯端末を手にしていた。胸倉どころか喉首を掴み上げるような威圧感を纏う武蔵に迫られて憲兵もたじろいでいたが、彼はすぐに表情を引き締めた。

 

「深海棲艦を率いた少年の提督が、反逆を……!」

 

 彼は武蔵の眼を見据えながら答える。武蔵を召還し、運用してきたのが少年提督であることを彼は知っているのだろう。憲兵の眼差しには、艦娘たちに混乱の余地を与えない真剣さを漲らせていた。艦娘達の間に、大きな動揺が広がるのが分かった。それに、どよめきも。だが、「そんなのは、何かの間違いだ!」などと声を上げる者は居なかった。

 

 霞は、身体から力が抜けていきそうになるのを堪え、感覚がなくなるほどに拳を握る。脚に力を込めて、奥歯を噛みしめる。ぐちゃぐちゃになって暴れだそうとする自身の精神内部を、何とか鎮めるので精いっぱいだった。他の艦娘の様子を、具に観察するような余裕はなかった。だが、大和が息を呑む気配があり、武蔵も頬を強張らせていて、長門が伏し目がちに視線を彷徨わせ、陸奥が悲しげに俯いているのは分かった。

 

「……先ほどの爆発音は、少年提督と深海棲艦達が、庁舎の壁面に砲撃で穴を開けた音だ。奴らはこの場を逃走しようとしている」

 

 他の憲兵が、艦娘達のざわめきを鎮めるように見回しながら言葉を繋いだ。また別の憲兵が、携帯端末を操作しながら鬱陶しそうに舌打ちをして、顔を上げる。

 

「今の鎮守府内に、多数のマスコミ関係者が侵入しているという報告があった。その一部を避難させてはいるが、全員ではないようだ。それと、深海棲艦と交戦し、負傷者した艦娘を2名、この鎮守府の外へと運んでいる。……あきつ丸と北上だ。だが安心してくれ。2人とも意識はある」

 

 日向、川内、神通を追って、食堂から飛び出して行った艦娘が居たことは、霞も気づいていた。艦娘の肉体を無力化する術陣が展開されてすぐ、憲兵達の制止を振り切って駆け出していたのは、あきつ丸、北上、それに瑞鶴の3人だった。その内の2人が負傷しているという事実が、艦娘達にさらに動揺を呼ぼうとしていた時だった。霞の傍に居た野分の、その上着のポケットから電子音が響いた。携帯端末に通信が入ったのだ。

 

 艦娘の持つ携帯端末は遠隔でロックされていた筈だが、そのロックがいつの間にか外れ、本来の機能が蘇っている。野分も驚いた表情を見せていたが、すぐに端末を取り出して確認している。どうやら少女提督からの通信のようだ。野分が通話の許可を求めるように憲兵達を順に見たが、咎める者は居なかった。それを確認した野分は端末を耳に当てる。

 

「司令! ご無事ですか!? すぐに我々と合流を! 深海棲艦達が……!」

 

『えぇ、知ってるわ。とりあえず、私は大丈夫。天龍達と合流できたから。そっちの状況を教えて」

 

 心配そうに声を強張らせた野分と、端末の向こうにいる少女提督のやり取りを聞きながら、霞も携帯端末を取り出して確認してみる。見れば、確かに携帯端末のロックは外れていた。ただ、緊急回線であっても外部には繋がらない。通信可能なのは、あくまでこの鎮守府の艦娘、提督との間だけのようだ。他の艦娘達も端末を取り出し、少年提督や野獣に通信を試みようとしているが繋がっていない。

 

 つまり、少年提督と野獣は通信に出ることができない状況だと考えられる。先程から聞こえる爆発音や、建物が崩れるような轟音の原因である戦闘の最中に居る可能性が高い。それを思うと、霞は今にも駆け出しそうになる。とにかく少年提督に会いたい。会って何かが解決するとも思えないが、彼と話がしたい。そうすることで何かが分かるかもしれないと思うのは、希望的観測に満ちた現実逃避なのだろうか。

 

 殆ど無意識のうちに食堂から駆け出していきそうになっていたのは、どうも霞だけではなさそうだった。少年提督によって召還された艦娘たちの内、その少なくない人数が、霞と同じように体の向きを変えつつあった。

 

「司令から、此処に居る全員に伝えたいことがあるとのことです!」

 

 何とか踏みとどまった霞の耳には、その野分の声がやけに遠くから聞こえた。彼女は携帯端末を右手に持ち、全員の注目を集めるように左手を挙げる。艦娘たちは当然のことながら、憲兵達も顔を見合わせて野分に向き直る。

 

『OK、聞こえてる? 手短に言うわ。よく聞いて』

 

 少女提督の声が、野分の持つ端末のスピーカーから流れた。大音量に設定されているせいか、音が割れている。それが余計に、今が切迫した状況であることを物語っていた。

 

『今の鎮守府については、そっちに居る憲兵達から説明があったって野分から聞いたわ。それに、日向たちが妙な動きを見せてることとか、今のトラブルに便乗したマスコミの関係者が鎮守府に入り込んでることとかもね。……いろいろと手を付けなきゃなんだけど、まず私達が優先すべきは、一般の人達の安全を確保することよ』

 

 一刻を争う状況だからこそか。少女提督は、絶対に譲ってはならない大事なことを全員で確認するかのような真剣な口調だった。彼女は今、この鎮守府の提督の一人として、艦娘達と共に今の状況に対処しようとしている。

 

『貴女たちの端末のロックは解除したわ。これで艦娘囀線も使える筈だから、全員で連携して、鎮守府内に要救助者が居ないかを探って欲しいの。本格的にアイツや深海棲艦の相手するのは、要救助者を守る時と、遭遇して追撃された時に限定して。……みんなの気持ちは分かるけど、戦闘は二の次よ』

 

 先程まで場を支配していた混乱と動揺が鎮まり、艦娘全員が表情を引き締め、野分の持つ携帯端末を見詰めている。すると、全員の持つ携帯端末が電子音を鳴らした。何らかのデータを受信したのだ。霞は手にしていた端末を操作すると、少女提督からファイルが送られて来ていた。他の艦娘たちも、自分の端末を取り出して確認している。

 

『鎮守府をAからIまでの9つのエリアに分けたマップデータを皆の端末に送ったわ。鎮守府祭りとか秋刀魚祭りの時に、来客を避難させるための訓練に使ったヤツだけどね。艦隊の編成もこっちで済ませてあるし、担当して欲しいエリアの指示も添付してるから。すぐに其々のエリアに向かって』

 

 そこまで言った少女提督の声を掻き消すように、また爆発音が響いた。強い衝撃があって食堂を揺らす。深海棲艦の砲撃か。いや、鎮守府で行われている戦闘の流れ弾か。食堂が崩れそうな気配が在った。「司令!」と、野分が端末に向かって大声をあげる。『大丈夫なの!? 凄い音がしたけど!?』少女提督の声が、割れた電子音として鳴っている。「はい! 私達は問題ありません! これより私たちも、鎮守府内の其々のエリアに向かいます!」野分が答え、また轟音と振動が在った。憲兵達が伏せる。あるいは、よろめいた。大和と武蔵、それに長門と陸奥が、傍にいた憲兵を庇うように立ち、支える。他の艦娘達も動く。もう、ここに留まってはいられない。

 

「憲兵を守るんだ! 外へ出るぞ!」

 

 長門が凛然と指示を出す。食堂に居る艦娘の全員が『応!!』と声を合わせる。艦娘たちは即座に“抜錨”し、憲兵を支え、あるいは抱えて駆け出す。霞も憲兵の一人を庇いながら、食堂の外へと向かう。砲撃で壁に穴を開ける方法は、崩落の危険を考えれば選択できなかった。とにかく走る。

 

 神経が研ぎ澄まされていく感覚の中で、呼吸が静まってくる。少年提督が反逆を起こしたということに対する動揺は依然として強く在ったが、憲兵たちを何としても守らなければならないという想いが勝った。艦娘は人を守らなければならない。そう望まれて存在し、今まで戦って来た。だから今この瞬間も、その役割を果たそうと思えた。この場に居る他の艦娘も、同じ想いでいるのだろうという確信もあった。

 

 再び、轟音が聞こえた。廊下が揺れる。傍を走っていた憲兵がよろけた。霞は、その憲兵が倒れる前にその腕を引っ掴んで持ち上げ、右肩に担ぐ。あまりに軽々と持ち上げられたことに驚きながらも、霞の肩に担がれた憲兵は「すまない!」と、こんな状況だが律儀に礼を口にした。駆ける霞は前だけを見据えたままで「舌を噛むわよ」と、ぶっきらぼうに答える。

 

 自身の胸の中にある幾つかの感情が、複雑に混ざり合うのを霞は感じた。

 

 襲撃事件の夜に抱いた、人間や社会への底なし憎悪は、まだ霞の内側に確かに在る。深海棲艦になって、この世界に自分の存在を叩きつけてやりたいという衝動は、一時の気の迷いなどではないと断言できる。あの時に抱いた暗い感情と情熱は、今でも霞の心の深い場所で、熾火のように燻ぶっている。絶対に消えることは無い。だが、そんな霞が、艦娘として人々を守護することを少年提督が望んでいることも、その願望と地続きにあるのが“人間と艦娘”の共存であるのだろうということも知っている。

 

 霞は少年提督の信奉者ではない。彼の部下であり、艦娘だ。だが、彼には姿と使命、機能と居場所を貰った。その恩に報いたいという願いも確かにあった。

 

 人間社会への憎悪と共に、少年提督の理想を貴いと想う自分が居る。

 

 その矛盾に、かつて少年提督の下に訪れていた肥えた男のことを思い出す。あの“黒幕”の一人は、他者に冷酷でありながら、自身の家族の幸せを願う矛盾を抱えていた。彼は一人の人間だった。今の霞は、あの男と同種の、立体的な感情の矛盾を精神の内部に持っている。程度の違いこそあれ、それは霞だけなく、他の艦娘の中にも、霞と同じような感情を抱いている者は居る筈だ。その矛盾を陳腐に言い換えれば、“人間らしさ”とは言えないだろうか。

 

 

 廊下を駆けていると、大きな建物が破壊される轟音が別々の方角から響いてきた。2か所からだ。それと、多数の悲鳴。さきほど憲兵が言っていた、“鎮守府に入り込んだ、マスコミ関係者”という言葉が頭を過る。

 

 霞たちは、憲兵と共に食堂の外へと飛び出す。

 

 複数の気配を感じ、曇天を見上げる。他の艦娘も、視線を上にあげるのが分かった。深海棲艦の艦載機が群れを成し、低空を飛行しているのが見える。緊張が走った。凄い数の猫艦戦だ。距離もそう遠くない。憲兵達を守りながらの、厳しい戦闘になると思った。艦娘達が艤装を召還する。憲兵達は落ち着いていた。自分たちが足手纏いにならないように身を屈め、艦娘の背後に隠れるような位置にすぐに移動してくれた。

 

 霞も、召還した連装砲を握る手に力を籠めて、構える。唾を飲む音がして、それが自分のものであることに数秒掛かった。奥歯を噛み、上空を飛行している敵艦戦の数を見る。少年提督と共に反逆に出た深海棲艦達の、その殆どが上位の“姫”クラスであることを思えば、あの猫艦戦の大群ですら、彼女たちが使役する艦載機の一部に違いない。今の鎮守府の状況に入り込んでいる人々の全てを守ることは不可能に思えた。犠牲の予感に、霞が奥歯を噛む。

 

 上空の猫艦戦たちも此方に気づいた。

 だが、霞たちを襲ってくることは無かった。

 

 奇妙なことに、猫艦戦たちは殺意や攻撃の意思を見せず、ただ自分たちの存在を示すかのように、庁舎の合間を見下ろしながら飛行を続けている。その猫艦戦たちの下から、悲鳴が重なって響いてきていることに気づいた。「こっちだ! こっちへ走れ!!」という、懸命な声も聞こえてくる。彼らは、或いは、彼女たちは、庁舎の角から走り出てきた。必死に逃げようとしている。テレビのリポーターやカメラマン、記者、マスコミ関係者を避難させようとしている憲兵達だった。猫艦戦たちの行動にどういった意味があるのかは判然としないが、見過ごす訳にはいかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪睦月@Bエリア.●●●●●≫

 Bエリアで、野獣提督と重巡棲姫が交戦中です! 

 

 

≪夕立@Bエリア.●●●●●≫

 要救助者の人達を3人保護したっぽい! 

 Bエリアはクリアっぽい! 

 

 

≪吹雪@Bエリア.●●●●●≫

 庁舎の中も、隅々まで確認しました! 

 私達の艦隊は、現段階での戦闘参加を回避

 保護した方々を守りながら、この場を離れます! 

 

 

≪ビスマスルク@Fエリア.●●●●●≫

 こっちでも2人保護したわ

 敷地内の建物内部も全部見て回ったけど、他に人影は無かったから

 これでFエリアもクリアね

 

 

≪プリンツ・オイゲン@Fエリア.●●●●●≫

 近くから戦闘音が聞こえてきます! 

 近くのE、Gエリアの皆さん、気を付けて! 

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Fエリア.●●●●●≫

 深海棲艦の艦載機たち、まったく襲ってくる気配がないな

 艦載機で追い散らして撃墜しているが、まるで無抵抗だ

 

 

≪飛龍@Cエリア.●●●●●≫

 こっちのエリアでも同じです。

 戦闘と言うよりも、一方的な殲滅戦みたいになってます

 

 

 

≪金剛@Eエリア.●●●●●≫

 でも、今は都合が良いネー! 

 艦載機の動きが鈍い今のうちに、

 憲兵サンやマスコミの人達を退避して貰いまショ! 

 

 

≪雷@Cエリア.●●●●●≫

 マスコミ関係者の人達と憲兵さんを合わせて5人、保護したわ! 

 

 

≪木曽@Cエリア.●●●●●≫

 このエリアの敷地内は全部見て回った

 俺達は先に撤退するぞ

 

 

≪満潮@Gエリア.●●●●●≫

 Gエリアで、マスコミ関係者と憲兵、7名を保護

 私達の艦隊は、鎮守府の外へ彼らを送るから

 

 

≪山城@Gエリア.●●●●●≫

 要救助者を安全に送り届けた後、野獣提督の援護に向かいます! 

 

 

≪扶桑@Gエリア.●●●●●≫

 此方も、敷地内にある庁舎、他の建物の内部を確認しています。

 他に一般の方々の姿も無く、退避し遅れた憲兵の方も居ません。

 Gエリアも、F、Bエリアと同じくクリアです

 

 

≪曙@Aエリア.●●●●●≫

 こっちもマスコミ関係者と憲兵、合わせて6名を保護したわ

 

 

≪潮@Aエリア.●●●●●≫

 庁舎内も隈なく見ましたが、他に要救助者の姿はありませんでした! 

 私達も一度、鎮守府の外へ退避します! 

 

 

≪龍驤@Aエリア.●●●●●≫

 ウチの艦載機を全部発艦して捜索してるけど

 Aエリアの敷地内には要救助者の姿は無いで

 こっちもクリアや

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 迅速な行動ね。皆、ありがとう

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 これで9つあるエリアのうち、

 残りは、D、E、H、I、の4つね

 

 

≪ガングート@Hエリア.●●●●●≫

 このエリアも問題無い

 要救助者を探してはいるが、一般人の姿は無いぞ

 ただ、戦艦水鬼と戦艦棲姫たちを引き連れた提督が移動している

 

 

≪ゴトランド@Hエリア.●●●●●≫

 提督達はIエリアに向かってるみたい。

 でも、逃げてるっていう風には見えないよ

 戦闘を仕掛けてくる気配もないし

 

 

≪陽炎@Hエリア.●●●●●≫

 こっちの救助活動を邪魔しないために

 不自然にならない程度に距離を取ってくれてるみたいにも見えます

 

 

≪飛龍@Iエリア.●●●●●≫

 此方もクリアです。人の姿はありません。

 ただ先ほど、無防備な猫艦戦に混じってドローンが飛んでいるのを見つけました

 

 

≪大鳳@Iエリア.●●●●●≫

 今の鎮守府上空を覆う猫艦戦達なんですが、やはり妙です。

 私達の艦載機に抵抗することもしないし

 近くに飛んでくるドローンにも殆ど反応を示しません

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 気味が悪くて嫌な感じだけど、直接の脅威じゃないなら有難いわ

 金剛も言っていたけど、今のうちに動きましょう

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 あとドローンについては確認が取れたわ。テレビ局のヤツよ

 鎮守府の外に陣取ってるクルーが、撮影目的で飛ばしてるみたい

 放っておいても大丈夫。問題ないわ

 

 

≪リットリオ@Dエリア.●●●●●≫

 Dエリアは損壊している建物が多いです

 駆逐艦娘の皆も必死で探してくれていますが、人影はありません

 

 

≪ローマ@Dエリア.●●●●●≫

 ただ、建物が幾つか崩れてるから

 その下敷きになってる可能性もあるわ

 

 

≪野分@Dエリア.●●●●●≫

 可能な限り瓦礫をどかして、捜索にあたります

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 えぇ、お願い。

 各エリアの艦娘達の中で、応援に行けそうな人が居るなら向かって

 遭遇戦に気をつけて

 

 

≪長門@Bエリア.●●●●●≫

 了解だ! 

 

 

≪大和@Hエリア.●●●●●≫

 分かりました! 

 

 

≪武蔵@Aエリア.●●●●●≫

 すぐに向かう

 

 

≪陸奥@Fエリア.●●●●●≫

 扶桑、山城と一緒に向かうわ

 

 

≪リシュリュー@Cエリア.●●●●●≫

 私もすぐに行くわ

 

 

≪高雄@Fエリア.●●●●●≫

 私も、他の駆逐艦娘の子と一緒に向かいます

 

 

≪摩耶@Gエリア.●●●●●≫

 任せろ! 

 

 

≪陽炎@Hエリア.●●●●●≫

 私も行きます! 

 陽炎型で動ける子が居たら、Dエリアに急いで

 

 

≪翔鶴@Eエリア.●●●●●≫

 瑞鶴と合流しました! 

 南方棲鬼と戦闘になったようで、エリア内の庁舎などは損壊が激しい状況です! 

 

 

≪龍田@Eエリア.●●●●●≫

 ただ、瑞鶴ちゃんが言うには、

『今日、この鎮守府で一般人が負傷することは無い』って

 南方棲鬼が言ってたみたい

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 それは有難い情報ね。でも、鵜呑みにするわけには行かないわ

 Dエリアに向かう艦娘たちの中で、

 現状でEエリアに近い人はそっちの応援に向かって

 

 

 

 庁舎の影に隠れるようにして、姿勢を落として走る。その速度を落とさずに雷は、携帯端末を操作し、素早く艦娘囀線を読み込む。タイムラインには短くも貴重な情報が流れていた。そこに在る少女提督の言葉が、雷の心を落ち着かせてくれた。そうだ。とにかく今は、自分が出来ることをやるしかない。自分の役割を十全にこなす。それしかない。端末を制服のポケットに仕舞う。この鎮守府の日常の象徴とも言える艦娘囀線が、人々を助ける為に明確に役立っていることが心強かった。

 

 微かに頬が濡れる感触に、視線だけで空を見た。雨粒か。鎮守府を見下ろす曇天に、殆ど切れ間は見えない。重たそうな雲が頭上を埋めている。ほんの少しだが、雨が降ってきていた。細い雨だ。小雨とすらいえない程度の、幽かな雨だった。

 

 雷のすぐ傍には木曽と大井が居る。そして雷達に守られるようにして、テレビ局の男性スタッフが2人と、女性記者が1人、憲兵2人が並走していた。雷たちは、この5人を鎮守府の外へと退避させるべく動いている。雷達と同じくCエリアを担当していた艦娘の中には、赤城と加賀、アイオワや榛名なども居たが、彼女達は、DとEエリアへ向かってくれていた。崩れた庁舎に巻き込まれた一般人が居ないかを探すためだ。この鎮守府の艦娘全員が、最善を尽くすべく行動している。

 

「皆さんは、あの少年提督の艦娘なのですか?」

 

 木曽に守られるようにして走っていた女性記者が、雷たちを順に見てから訊いてきた。雷は視線だけで彼女を見る。記者の顔は強張っているが、怯えや恐怖は無かった。それは、他のテレビ局のスタッフであろう2人も同じだった。彼らは、今の鎮守府で起こっている事件の、その真相を暴こうとする強い意志と共に、何らかの情報を持ち帰らねばならないという使命感を含んだ、真剣な表情をしていた。

 

 彼らもまた雷達と同じく、自分たちの役割を果たそうとしている。だが、それは場違いだと感じた。どう考えても今は逃げるほうが先決だ。情報収集は後でもいいのではないかと思う。ただ、情報の新鮮さが命である彼女達にとっては、此処に自分が居る意味を全うしようと必死なのかもしれない。

 

 もしくは、自身の身に及ぶであろう危険に対して鈍感で、想像力に乏しいのか。それとも、今の鎮守府の状況に、まだ自分が入り込んでいないとでも思っているのか。雷に並んで走っていた憲兵が厳しい表情を作り、女性記者に何かを言おうするのが分かった。だが、それよりも木曽の冷たい眼が女性記者を捉える方が早かった。

 

「答える義務はない。俺たちの義務は、お前たちを守りながら、安全な場所まで逃がすことだ」

 

 そう毅然と言い放たれた木曽の言葉は、雷を庇うような響きが在った。

 

「何処の誰が召還した艦娘かなど、今は関係が無いし意味も無い」

 

 大井が悲しげに視線を下げている。彼女は、雷の方を見ようとしない。雷たちの提督である少年提督が、本営に対して明確な反逆行為を取ったことは食堂で聞いた。大井にとっても、今の雷に気軽に声を掛けるのは憚られる思いなのかもしれないし、どのように気遣っていいのか判然としていないのかもしれない。彼女のそういった迷いは、そのまま彼女の優しさの証明に違いなかった。

 

 女性記者は何か言葉を繋ごうとしていたが、木曽の低い声に気圧されたようで、大人しく黙ることを選んだ。一方でテレビ局のスタッフ達は走りながら、発言のタイミングを窺うように視線を彷徨わせている。彼らに悪意はない。彼らが今の状況を知りたいと思うのは、世間という巨大な意識な集合もまた、少年提督の行動に納得のいく理由と背景を求めるからこそだ。

 

 社会から見れば、艦娘と深海棲艦が戦うことは全く不自然さがない。だが雷たちは、この鎮守府で秘書官見習いをしていた深海棲艦たちを知っている。数奇な縁を結び、彼女達と日々を過ごしてきた。襲撃事件の夜には、身を挺して雷達を助けてくれた恩人でもある。深海棲艦の姫や鬼である彼女達は、少年提督の下で一般的な良識や常識についての理解を見せていたのも間違いない。その事実だけを切り取って、彼女達が人類にとって完全に無害で安全な存在なのだと主張するつもりも、雷には全くない。

 

 ただ、艦娘と言う完成されて整えられた武力によって、人類が深海棲艦の脅威を安定して退けることが可能になったのならば、深海棲艦を打ち滅ぼすのではなく、住み分けて共存する為の構造やルールを社会の中に作ることも可能なのではないか。

 

 無論、深海棲艦たちによって殺された人々の遺族にとって、共存など受け入れられるものではないだろう。人類に敵意と殺意を持った種族である深海棲艦など、殺し尽くして然るべき存在に違いない。被害者が増えるのを防ぐことを考えても、それは正しい考え方に見えなくもない。だが、その理念を実践することによって深海棲艦を殺し尽くした後、人類の為に懸命に戦い抜いた艦娘達もまた、深海棲艦に変貌する可能性を秘めていたとしたらどうなるか。考えるまでもない。深海棲艦の次に、艦娘たちが迫害されることになるだけだ。

 

 だから、海を巡るこの戦争が人類優位に傾いている今のうちに、何処かで誰かが、今の人類にストップをかける必要があったのではないか。人類による海への侵略戦争の様相を呈している現状に警鐘を鳴らし、停戦を唱える冷静さこそが人類の強さと賢明さであると、少年提督は信じていたのだろう。彼が唱えていた『力による受容』という言葉には、他種族の根絶を是とする人間至上主義の世間から、深海棲艦に対する何らかの妥協点を引き出したいという、少年提督の切実な願いが込められているのではないかと思った時だった。

 

 すぐ近くで、体が揺れるような轟音がした。

 

 何かが飛んできた。雷達の前方だ。その何かは庁舎の外壁を貫通し、破壊しつつ、飛んできた勢いを殺しきれずに庁舎の中へと派手に転がり込んでいった。ただ、砲弾ではない。爆風や熱風が押し寄せてくることは無かったが、一般人にしてみれば気を失うほどに動揺する爆音だったに違いない。悲鳴を上げた女性記者が派手に転びかける。だが、傍に居た木曽が彼女の体を庇うようにして抱えた。憲兵の二人は倒れ込むようにして地面に伏せている。テレビ局のスタッフ2人の方は、すっころんで尻餅をついていた。雷と大井はすぐに、その二人の手を引いて立ち上がらせる。

 

 不味い。

 遭遇戦になった。

 

 木曽の頬を濡らす細い雨を吸いながら、一筋の汗が伝っていた。大井が舌打ちをする。雷も唇を噛んだ。庁舎の中に転がり込んでいった何かは、バキバキドカドカとまた派手な破壊音を鳴らしながら、大穴の開いた庁舎の壁から、元気一杯に飛び出してきた。ソイツは、琥珀色のオーラを纏った抜錨状態で、獰猛そうな巨大艤装獣の尻尾を揺らしている。雷と大差ない体躯に超大型の艤装獣を繋いでいるというアンバランスさは、壮絶な威圧感を相対する者に与え、容赦なく飲み込む迫力に満ちていた。

 

 暴力的な破壊の予感を巻き散らすソイツは、いつも通りの明るい表情できょろきょろと周りを見渡し、雷たちに気づいて、快活な笑顔を浮かべた。その態度があまりにも普段と同じで、胸が大きく軋む。深海棲艦の研究施設で、初めて出会った頃を思い出す。あの時も確か、今と同じような敬礼のポーズをとって、底抜けに明るい笑顔を見せていた。

 

「あっ、こんばんは~! (レ)」

 

 曇天の中に能天気そうな声が響き、雨が少し強くなった。

 






今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございます!
話の内容に整合性を取りつつ、何とか完走を目指しておりますが、何処かで矛盾点や描写がおかしな点があれば、ご指摘、ご指導頂ければ幸いです。次回更新に繋げられるよう、加筆修正させて頂きたいと思います。

暖かな感想や身に余る高評価、親身な誤字報告など、本当に感謝しております。
朝晩寒くなってきましたが、皆様も体調を崩されぬよう、ご自愛くださいませ。
いつも読んで下さり、本当にありがとうございます!

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