花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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少年提督と野獣提督 前編

 

 

 

 

 

 本営はすでに、少年提督と野獣が、“違法な艦娘売買”に関わった疑いがあるとして、二人の下に所属する艦娘全てを、一時的に剥奪することを公表していた。世間で言われている艦娘売買は、“軍属兵器の横流し”と“自身売買”を併せたイメージで語られていることもあり、すでにニュースにも数日前から取り上げられ、世間の人々の関心と好奇心、想像力や義憤を燃え上がらせていた。

 

 更に、少年提督や野獣のことが公表されるよりも数日前には、政界の大物数人が“艦娘の売買”に関わり、巨額の利益を得ていた疑いがあるというニュースも流れていたのも不味かった。タイミング的にも艦娘関連のニュースで世間が騒がしかったこともあり、少年提督や野獣の件は余計に注目を集めている。数日前から、テレビ局のリポーターや記者などが鎮守府の前に大挙として集まっている始末だ。

 

 巧妙に操られたマスコミの包囲網には、あたかも自分たちのやっていることは正義であるのだと主張する、容赦のない威圧感が在った。少年提督でも野獣でも、もちろん、少女提督でも誰でもいいが、今の鎮守府の外へ出ようとすれば、それを見つけたマスコミ関係者たちは沸き立ち、すぐにマイクとカメラを向けて迫ってくるだろう。この鎮守府は、そうした今までにない緊張感に包まれて誰も彼もが消耗している。

 

 本営は“真実を解明するために全力で調査にあたっている”としているが、既にその責任を問われている状況だ。だが“黒幕”達にとっては、それも計算の範囲内であることも明らかだった。重要なのは、少年提督や野獣が、艦娘を実験材料として扱ってきた悪人である可能性を世間に認識させることだ。このニュースが社会に浸透すれば、少年提督や野獣と共謀して利益を目論んだ者の存在にも説得力を持たせやすい。

 

 これは王手だ。今までの鎮守府での催しや企画の関係者、それに協力者を、野獣たちの共犯者として仕立て上げやすい環境を本営が作り出したのだ。ここで野獣や少年提督が逆らえば、そのレスポンスとして、“黒幕”達は多くの人々の生活と人生を破壊するために動くだろう。仕組まれた悲劇をちらつかせられては、やはり従うしかない。それしかないのだ。少女提督は重い溜息を飲み込んで、俯く。

 

 

 

 腕時計を見た。もう暫くすれば、時雨と鈴谷の解体・破棄を行う時間だった。これに関わる術式は野獣が行うように命令されている。つまり、自らの手で部下の艦娘を消せ、ということだった。これは不知火と天龍も同じで、少年提督の手によって解体・破棄するように命令が出ている。本営による悪意に溢れた報復であることは疑いようがない。

 

 

 少女提督と野獣は、鎮守府庁舎にある作戦会議室で向かい合って座っている。

 

 重厚感のある会議用のテーブルには、普段なら作戦資料が山と積まれているのだが今日は何もない。今はただ、その表面の冷たい光沢の中に、10人以上の憲兵たちの影を反射させていた。張り詰める空気の中で少女提督は、首を動かさずに視線だけを巡らせる。

 

 正面の席に座る野獣は、白い提督服をきっちりと着込み、背筋を伸ばし、瞑目して座っている。いつものお茶らけた雰囲気は微塵もない。力のある武人が精神統一をしているような、或いは、研ぎ澄まされた日本刀が抜き身のままで其処にあるかのような、周囲に沈黙と緊張を強いるような佇まいだった。とにかく今の野獣は、たとえ反抗してくることが無いと分かっていても、決して油断してはならないと思わせる迫力と殺気を備えている。

 

 野獣を見張る憲兵たちの額には汗が光っている。あれは冷や汗か脂汗の類だろう。本来の憲兵というのは、これこそが軍人といった風情で、もっと威圧的、暴力的に物事を進めていくようなイメージを、少女提督は持っていた。だが、この場に居る屈強な憲兵たちは皆一様に余裕なく顔を強張らせ、野獣を取り囲むように立ちながらも、不用意に近づく気配は無い。とにかく慎重だ。ただ、無理もないとも思えた。

 

 ここで野獣が己の自制を振り切り、艦娘も、今まで協力関係にあった人々の未来も無視し、自身の怒りに身を委ねたりすれば、どうなるか。もう、誰も野獣を止められない。野獣は此処にいる憲兵たちを数秒足らずで殺戮し、会議室を飛び出し、鎮守府をうろついている他の憲兵も残らず皆殺しにするだろう。そのあとは、──考えるのも恐ろしいが、今の野獣が纏う剣呑な空気からすれば、黒幕一人ひとりを直接、自分の手で殺害しに向かうだろうと思えた。

 

 この鎮守府を陥れる事を企んだ者達に相応しい結末を、二振りの刀を手に、野獣自身が届けにいく姿を思い浮かんだ。殺戮者としての野獣は、容赦も遠慮も慎みもなく、どこまでも突き進んでいく。復讐心を胸に社会の闇に潜み、邪魔するものを次々と斬り伏せる。黒幕達を守ろうとする者が居ても、容易く両断し、皆殺しにする。黒幕達は、目の前に迫った野獣に命乞いをするだろう。巨額の金品を積み、女を差し出し、私にも家族が居るのだと情に訴え、ありとあらゆる方法で生き延びようとする。

 

 そうやって懸命に跪く黒幕達を前に、「おっ、生きてぇなぁ? (鬼)」と皮肉交じりに笑いながら、刀を振り下ろす野獣の姿が見えた。艦娘達の人間性を世間にアピールし続けた野獣は、今度は自身の人間性を使い果たすまで、その憎悪に任せて刀を振るう。深海棲艦などよりも、もっと恐ろしい何かに変貌を遂げていく野獣を、誰が止められるのだろう。

 

 

 

 そこから先は、考えてはいけないと思う。濁った溜まり水が抜け道を見つけた時のように、悪い想像が思考と共に流れて広がろうとする。それを、少女提督は瞼をきつく閉じて堰き止める。考えてはいけない。もう十分だ。悲劇は。目を開けば、自身の感情を抑え込み、静かに佇む野獣が、まだ目の前に居てくれる。

 

 少女提督は、瞑目したままの野獣を見詰める。野獣は今、どれだけの悔恨と自責を飲み込み、どのような感情を抱えているのだろう。声を掛けるのも憚られた。知らず、膝の上で拳を握り固めていた。肩が震える。じんわりと目の中が熱くなり、鼻の奥がツンとしてきた。顔を覆い、息を吐く。自分の意思の内部に溜まっていく悲観を絞り出すように、ゆっくりと、長く、細く、丁寧に吐き切る。

 

 野獣と少年提督が居なくなるということだけは間違いない。そのあとで、自分に何が出来るのかなど、見当もつかない。ただ、今まで戦い抜いた野獣の覚悟から目を逸らしてはいけない。今日、これから起きることを、自分は最後まで見届けなければならないのだと思った時だった。

 

 軽いノックが響き、会議室の扉が開いた。

 

「……失礼します」

 

 場違いなほどに穏やかな声が響く。黒い提督服を着こんだ少年提督だった。会議室の空気が、また一変する。彼が纏う超然さが、この場に居る誰をも飲み込んだ。野獣の殺気に満ちた静寂の中、先ほどまで頬を強張らせていた憲兵たちが、今度は息を飲んで顔色を失った。少年提督のあとに続き、深海棲艦達がぞろぞろっと会議室に入ってきたからだ。数名の憲兵が僅かに後退り、うっ……と、小さく呻くような声を漏らすのが聞こえた。明らかな身の危険から少しでも自身を守ろうとするかのように、憲兵たちは揃って体の向きを少年提督の方へと向ける。

 

 少女提督は胸騒ぎを覚えた。喉がひりついて鳥肌が立つ。

 なぜか、今まで感じたことが無いほどに、嫌な予感がした。

 明確な違和感を覚えるが、その正体がつかめない。

 心臓が跳ね、息が掠れた。

 

 少年提督は無表情だが、悠然としている。憲兵たちの緊張に意識を払っている様子もない。それは深海棲艦達も同じだった。彼女たちはそれぞれ、会議室の空いている席に腰掛けていく。彼女達の肉体はスポイルされ、人間よりも少し劣る程度の身体能力にされている。不知火や時雨たちを解体・破棄したのち、弱体化された深海棲艦たちは、各地の深海棲艦の研究所に輸送されることになっているからだ。

 

 少年提督の手を離れた深海棲艦達が、どのような扱いを受けるのかは分からない。少女提督は、以前この鎮守府に訪れた“中年の男”を思い出す。あの深海棲艦たちは、力を奪われたままで、金持ちたちのペットになるのだろうか。それとも、何らかの実験の素体となるのか。それは分からない。だが、今までのように保護されて過ごすということは無いだろう。

 

 この会議室の空気を読んでか、深海棲艦達は徹底して従順だ。特に、戦艦棲姫・水鬼などは、憲兵たちに敵意を見せるどころか、目が合えば深く頭を下げてすら見せている。姿勢よく椅子に座るヲ級と集積地棲姫は、テーブルの表面に視線を落としている。タ級、ル級も同じく、大人しく椅子に腰かけている。

 

 南方棲鬼は眉間に皺を刻みながらも、特に暴れだすようなこともなく腕を組み、重巡棲姫はテーブルに頬杖をついて窓の外を睨んでいる。港湾棲姫は北方棲姫を抱き上げる格好で、遠慮がちに椅子に座っていた。普段はやかましいレ級も、フードを被ったままで退屈そうな表情を浮かべ、頭の後ろで手を組み、会議室のテーブルに足を投げだしている。ただ、深海棲艦たちのことを捕虜どころか奴隷程度であると認識しているであろう憲兵たちにとって、そのレ級の態度は看過できなかったのだろう。

 

「貴様っ!! なんだ、その態度はッ!!」

 

 憲兵の一人がレ級に詰め寄り、声を荒げた。勇気がある。だが、野獣と少年提督の持つ雰囲気に完全に飲み込まれていた憲兵にしてみれば、勇気を振り絞ったというよりも、憲兵としての矜持と面子を苦し紛れに保とうとしているようにも見えた。或いは、重要な任務についているという責務が、あの憲兵の誠実さを奮い立たせたのかもしれない。

 

 声を上げた憲兵は若く、背が高い。幅も厚みもあり、大型の銃器で武装している。足をテーブルに投げ出したままのレ級は、被ったフードの奥で、紫水晶のような眼をゆっくりと動かして憲兵を見上げた。会議室に、より強く緊張が走るのが分かった。

 

 少女提督は、レ級に「やめろ」と叫びそうになる。何をやめろというのか全くわからないが、喉元まで言葉が出かかった。祈るような気分で全身に力を込めて、それを飲み込む。他の憲兵たちも固唾を飲んでいる。野獣は瞑目したままだ。少年提督も落ち着き払った無表情を崩さず、成り行きを見守っている。

 

「何の問題ですか? (レ)」

 

 レ級は不思議そうな表情を浮かべて憲兵を見ている。

 

「足を下ろせ!」

 

 どこか必死な様子の憲兵は、怒声を上げながら銃器を構えた。銃口がレ級に向けられる。レ級が片方の眼を、すぅ……っと細めた。それだけで、憲兵が息を詰まらせるような迫力が在った。スポイルされているとは言え、やはり『戦艦レ級』だ。レ級は首を傾け、頭の後ろで組んでいた手を解き、立ち上がろうとしている。やばいと思った。破裂寸前の風船を彷彿とさせるような沈黙が数秒あった。

 

 そこで、深い溜め息を漏らしたのは集積地棲姫だった。「おい。言われた通りにしろ。行儀が悪いぞ」と、やんちゃな子供に注意するかのような口調で言う。「ちゃんと座って」と、ヲ級が続く。戦艦棲姫・水鬼の二人も、レ級を凝視しだした。怒られてやんの、と言った風に鼻を鳴らした重巡棲姫は、意地悪そうに唇を歪めてレ級を見ている。険しい表情のままの野獣はと言えば、何も起こらないことが分かったかのように、再び静かに眼を閉じた。

 

「もぉ、好きにやらせてちょうだい……(レ)」

 

 叱られた子供のように下唇を突き出したレ級は、しぶしぶと言った感じでテーブルから脚を下ろし、背筋を伸ばして座りなおした。あからさまにホッとした様子の港湾棲姫が小さく息をつき、南方棲鬼は不機嫌そうにテーブルの表面を眺めている。少年提督は微笑みを浮かべていた。

 

 

 少女提督は、先ほどからの強烈な違和感の原因に気づく。いや、そうじゃない。気づくというよりも、見ないフリをしようとして、結局それを無視できないと諦めたと言った方が近いかもしれない。

 

 少年提督と野獣の様子が、あまりにも違う。時雨と鈴谷を解体する覚悟を全身全霊で整えている野獣に対して、少年提督は悠然とし過ぎている。全てを受け入れる決意を固めているにしろ、今の状況であれだけ自然体でいられるのはおかしい。自然体であることの異様さが際立ち、どうしようもなく不自然だった。少年提督が腕時計を見た。少女提督も腕時計を見る。不知火や時雨、天龍と鈴谷の解体・破棄時間が迫っている。

 

 それを確認した時だった。少女提督の携帯端末に着信が入る。端末を取り出して確認すると“初老の男”からだった。警戒する顔つきになった憲兵達の視線が流れてきたが、通話に出ていいかを近くに居た憲兵に訊くと、あっさりと許可を貰えた。憲兵達も、この非力な元帥は脅威にはならないと判断しているのか。それとも、少年提督や野獣、深海棲艦たちなどの方がよっぽど注意を払うべき対象だからなのか。何にせよ、ノーマークであることが今は有難かった。

 

 廊下に出て、すぐに端末を操作して通話を繋いだ。

 

『……忙しいところ、すまないね。ただ、どうしても伝えておくべきだと思って連絡させてもらった』

 

 初老の男の声は相変わらず低く、端末越しでも十分な威容と貫禄が在った。だが、何処か緊張しているような硬さも感じた。

 

『状況が変わった。近日中に、本営は君たちを相手にしていられなくなる』

 

 胸騒ぎが大きくなる。心臓が跳ねだす。唇を舐めて湿らし、端末を持ち直す。

 

「どういう事ですか?」

 

 端末の向こうの初老の男が、手元で何らかの資料を捲っているのか。紙がこすれる音が聞こえる。

 

『改めて調べてみたが、艦娘の人体実験や、それに関係する艦娘の精神操作実験……、それに、激戦期の頃に横行した捨て艦法などについての記録は、確かに偽造されて、改竄された形跡があった。だが、その内容が明らかに妙でね』

 

 少女提督は、端末を持つ自分の手が震えていることに気づく。

 

「妙というのは……」

 

『偽造・改竄された記録書の類は膨大だが、その全てに少年提督の名前が在る。だが、野獣の名前は一切、確認できない。あの少年提督が、こうした記録書類の在処を調べていたらしい話は聞いてはいたがね……。恐らく、一度改竄されたものを再び、別の文面に書き換えるか、すり替えるように彼が手を回したんだろう』

 

 内臓が震えて、吐き気がした。少女提督は浅く息をする。

 

『偽造や改竄という行為自体は表沙汰にならないだろうが、その内容については既にマスコミにも流れている。いや、意図的に流されたと言った方が良いかもしれない。マスコミが情報を掴む速度と深度が異常だ。もう隠蔽工作も間に合わない。本営は近々、あの少年によって用意された記録書類の公開を、世間に迫られることになるだろう』

 

 少女提督は、肌が粟立つのを感じた。端末を持ったままで作戦会議室の扉を見る。鼓動が暴れる。この会話が、まるで少年提督に筒抜けになっているかのような気さえしてきた。軽く頭を振ってから手汗を提督服の裾で拭って、もう一度、端末を握りなおす。

 

「情報をマスコミに流し、今の状況を仕組んだのが彼だと?」

 

 少女提督は、やっとの思いで言葉を口にする。

 初老の男はすぐには答えず、結論の前に呼吸を置くような間を作った。

 

『マスコミの中に潜っている者にも話を聞いた。少し前に、ある大企業の重役と政治家が数人、艦娘売買に関わった疑いがあるというニュースが流れたのは知っているね? 報道関係者の多くはアレの続きを夢中で追っていて、流出したデータや記録書類を掴んだそうだ』

 

「……続きというのは、艦娘売買の、“買う方”ではなく、“売る方”を暴こうとしているという事ですか?」

 

『そういう事だ。もう君も気づいているだろうが、あのニュースで名前が出た重役や政治家たちは、君たちの鎮守府を襲う計画を立てた者達の一部だ。あの少年や野獣を始末する算段がついてきて、連中の仲間割れが目立つようになってきている。今までマスコミを操っていた者たちも、護身に必死になってきたようでね。……そこに、あの少年提督が入り込んだんだ』

 

 初老の男が話しの聞きながら、つい最近まで、少年提督が頻繁に出張に出ていたことを思い出す。あれは、“黒幕達に追い詰められた黒幕”に会いに行っていたのか。いや、そうに違いないと思えてきた。全国に散った膨大な量の記録書類に手を加えるには、どうしても権力者の力が必要だろう。そうした権力の源泉は、往々にして社会の闇の中だ。その暗闇のど真ん中に分け入り、自分の要求を通すための取引を行う少年提督の姿を想像する。

 

 彼なら、やりかねない。かつて彼の艦娘の誰かが言っていた。彼は目的の為なら、微笑んだまま助走をつけて、地獄の窯へと跳躍していくヤツだと。更に、先ほどの“艦娘を売る側”という、初老の男の言葉を思い出す。胸が重くなる。眩暈がした。まさか……。そう漏らしてしまいそうになるのを堪え、唾をのむ。

 

『マスコミに巨大な影響力を持つ者たちも、無論だが、艦娘を“買った側”だ。それを隠すために奔走しているうちに、少年提督にコンタクトを迫られたようだね。そこで、何らかの取引が在ったことは間違いない。そうでなければ、艦娘売買に関わる真実を、これ以上マスコミが深追い出来るはずがない。普通ならもっと早い段階で、本営上層部などから大きな圧力が掛かる』

 

 この鎮守府の事よりも先にニュースとなって名前が出た政界の人物達は、少年提督や野獣を始末しようとしていた“黒幕”達の一部なのだろうという事は、少女提督も推察していた。彼らの悪事が隠蔽されることなく表沙汰になっているとうことは、“黒幕”達の中でも権力や利益を巡った陰謀が渦を巻き、その謀略に嵌められ、蹴落とされた者が出始めたに過ぎないのだと。あれだけ大掛かりで手の込んだ鎮守府の襲撃に関しては、ほぼ完全に情報が操作、隠蔽し続けているのを見ても、まず間違いなく、“黒幕”達の都合でマスコミは動いている。

 

 いや、動いていた。つい先日までは。

 

「今では彼が、間接的にマスコミを動かしているという事ですか……」

 

 初老の男は、少女提督の問いには答えなかった。代わりに、息を吐くのが聞こえた。少年提督の周到さを恐れるような、同時に、その大胆さに嘆息を漏らしたかのようでもあった。

 

『状況から推察するに彼は、……今まで本営や大企業が行ってきた悪徳を、全て引き受けるつもりなんだろう。記録書類にまで細工を施したのも恐らく、世間からの在らぬ疑いが野獣や君に掛からぬようにする為だ』

 

「そんな……! そもそもマスコミを動かせるのなら、もっと正当に自分たちの正義を主張すれば良いはずです!」

 

『だが、あの少年はそれを選択しなかった。マスコミは君達の鎮守府を取り囲み、艦娘を剥奪される提督達の姿を世に映そうとしている。……前にも言ったかもしれないが、艦娘絡みのニュースは関心を集める。君達が社会と艦娘の距離を縮めてきたから、余計にその傾向は強くなった。事実も正義も、あとは世間が決めていくだろう』

 

 

 

 そこから、どんな話を初老の男としたのか覚えていない。気付けば少女提督は、携帯端末を握りしめ、廊下に立ち尽くしていた。何かを考えようとするが、上手くいかない。熱を持った頭が思考をガタガタにする。ただ、初老の男の話からすれば、少年提督がマスコミに影響力を持っていられる期間は、そんなに長くない。多分、極めて短い。その間に彼は自分の目的を果たそうとしている。

 

 本当に彼は、この鎮守府の中で自身だけが悪人であるという情報を世間に流し、艦娘たちを剥奪される姿を白日の下に晒すことで、野獣や少女提督に降り掛かる疑念を払うつもりなのか。そんなことが可能なのか。見通しが甘過ぎるのではないか。そもそも、誰か一人を大罪人として吊るし上げるだけで、世間が納得するだろうか。

 

 規模が大き過ぎて、全体を上手く把握できない。明るみに出てくる情報に翻弄される。暗い海の上で、途轍もなく巨大な潮流に漂う一隻の小舟になったような気分だった。自身の命運を完全に他者に委ね、ただ力なく浮かび、流されていくしかない。それでも、じっとしていられない。無駄でも、両手で海の水を漕ぐぐらいはやってやる。腕時計を見た。放心状態にあったのは1分か2分か。その程度だったが、随分と長く感じた。

 

 深呼吸をしてから、気づく。

 手に握ったままの携帯端末だ。

 この中には、少年提督のAIが保存されている。

 

 このAIなら、何か、少年提督本人の真意を知っているのではないかと思った。少女提督は手早く携帯端末を操作し、AIを起動させるための管理者パスワードを打ち込もうとした。そこで度肝を抜かれた。パスワードを入力するボックスは、今まで一つしか無かった。当たり前だが、AIそのものが一体だからだ。

 

 だが、今は違う。ボックスが4つも並んでいた。目玉が飛び出るかと思った。そんな馬鹿な。AIが4体に増えたのか。自己増殖という言葉や、シンギュラリティなんて言葉が脳裏に浮かぶが、それを具に考える時間なんてない。とにかく、ボックスの一つに今まで使っていたパスワードを打ち込む。端末はエラーを吐き出した。信じられなかった。何度やってもエラーが出る。AIを起動することが出来ない。

 

 なんでよ……! 

 

 思わず叫んだ。在り得ない。少年提督のAIを開発・構築する段階で、何度も使ったパスワードだ。間違える筈はない。端末のパスワード自体が変わっている訳ではない。何者かが──少年提督が、この端末を勝手に弄り、AIの設定に関わる何かを変更した形跡も無かった。

 

 いや、そうじゃない。息が震えた。

 

 この端末の中には既に、少年提督のAIが居るのだ。少年提督本人がこの端末に触れる必要などないのではないか。AI自体が己に関わるコンピューターの動きを支配し、自身を作り上げた管理者の権限すら乗っ取り、起動する為のパスワードまで書き換えたのだとしたら、今の状況にも辻褄があうのではないか。

 

 初老の男が先ほど話していた内容が頭を過る。少年提督は、黒幕達の一部を利用、或いは協力関係を結び、各地に存在する膨大な記録文書を書き換えた。それと同じように、少年提督のAIもまた、自身に関わる設定を書き換えたのだと思えた。少女提督を冷徹につっぱねるエラー表示を見詰めて、舌打ちよりも先に呻きが漏れた。まるで彼を閉じ込めていた牢獄そのものが、彼に跪いて姿と機能を変え、堅牢な砦となってデータの中に聳えているような感覚を覚える。

 

 それでも、今できることはこれしかない。

 

 固く閉ざされた扉を拳で何度も叩くように、少女提督は思い付く言葉をパスワードにして、手あたり次第に打ち込む。その度に端末はエラーを吐き出す。波の音が聞こえる気がした。少年提督に執拗に呼びかけ、饒舌に誘い、手招きをするような波音が近くに聞こえる。耳鳴りがしてきて、頭痛が来た。それでも指先を動かす。端末を持つ手が震える。出てきなさいよ。そこから、出てこい。そう念じながら、指先を動かす。エラーが無情に積み上がる。不意に少女提督は、少年提督と出会った日の事を思い出す。

 

 “Are you Happy? ”

 

 咄嗟に、そう打ち込んだ。

 

 積み上がるエラーが崩れる音が聞こえた気がした。強く頑なに握り絞られていた巨大な拳が、そっと解けて開くかのように、少年提督のAIが起動してくる。それと殆ど同時だったろうか。作戦会議室の扉の向こうで、いくつもの怒声が重なり、弾けるのが聞こえた。

 

 何をする気だ、貴様っ!! 

 動くな!! 止まれ!!

 撃つぞ!! 深海棲艦ども!! 

 

 そんな憲兵達の必死の声は、次の瞬間には爆発音にかき消された。強い衝撃が在った。建物が揺れて、軋んだ。少女提督は頭を抱えて伏せようとして尻餅をつく。携帯端末は取り落とさなかった。ディスプレイにはAI起動中の表示が在る。端末を懐に入れてから顔を上げた。作戦会議室の扉が蹴破られるように開けられ、数名の憲兵たちが悲鳴をあげて逃げ出してきた。その背中を見送りながら、少女提督は手をついて立ち上がる。作戦会議室に飛び込んだ。

 

 会議用の机は無残に割れて吹き飛び、粉々になって床に散らばっている。壁には、戦艦の砲弾でも直撃したかのような大穴が空いていた。その破壊を齎した爆発の余熱を掻き混ぜるかのように、曇り空から降りてくる湿った風が会議室に透明な渦を巻いている。

 

 今まで見たことのない表情を浮かべた野獣が、二振りの刀を手に、腰を落として構えを取っていた。逃げずにこの場に残った憲兵達も、恐怖に歯を鳴らしながら銃を構えている。少女提督は、その場にしゃがみこんでしまいたくなった。それでも、廃墟のようになった会議室に佇む、少年提督の姿から目を逸らせない。

 

 少年提督の額の右側からは、白磁色のツノが生えている。深海棲艦化だ。彼が着込んでいた黒い提督服にも禍々しい青黒い文様が浮かび上がっている。彼に付き従うように並び立った深海棲艦達は、琥珀色をした濃い霊気を纏っていた。戦闘の意思を見せてはいないものの、其々に艤装を召還しつつある。

 

 それらが意味するものは一つしかない。

 深海棲艦を率いた少年提督の、人類に対する反逆だ。

 

 憲兵の一人が通信端末を取り出し、何処かに応援を要請している。他の憲兵達は、構えた銃を発砲した。野獣が「あっ、おい、待てぃ! (江戸っ子)」と制止の声を出したが、遅かった。発砲音が重なり合い、ストロボのような閃光が会議室に瞬く。憲兵達の持つ大型の機関銃が、少年提督や深海棲艦達めがけて無数の弾丸を吐き出したのだ。轟音だった。少女提督は耳を抑えて身を屈めた。野獣は構えを解かず、重心を落としている。

 

 銃弾の嵐を前にしても、少年提督と深海棲艦達は平然とそこに立っていた。

 

 憲兵達の撃ち出した無数の弾丸は、琥珀色の光の粒子となって空中で解け、深海棲艦達の纏う霊気に混ざり合うだけだった。まるで、大海原に向けて銃を乱射したかのようだった。人間の暴力や攻撃になど、まるで関心を払わない雄大な風景のように彼らは揺るがない。そして自然の風景が、人間に優しいとは限らない。少年提督達が身に纏う超現実的な現象を前に、憲兵達が後ずさる。

 

「此処は俺が、で、……出ますよ(決死)」

 

 憲兵達が逃げる時間を稼ぐためだろう。両手に握る刀の切っ先をすっと下ろし、野獣が前に出た。野獣は視線だけで憲兵たちを見回してから、会議室の出口に顎をしゃくって見せる。

 

「一旦退きませんか? 退きましょうよ? (悪いことは言わない)」

 

 憲兵達は、野獣が殿に立ってくれることを察したらしい。互いに顔を見合わせ、すぐに踵を返して走り出す。賢明な判断だ。彼らが今の少年提督や深海棲艦を相手に戦いを挑むのは、子犬の群れが山火事に戦いを挑むようなものだろう。

 

「お前も早くしろ~? (背中で語る)」

 

 既に臨戦態勢になった野獣はこちらを向かず、少女提督にも逃げろと言っている。当たり前だ。少女提督が此処に居たって、足手纏いになるのは明白である。少年提督と深海棲艦たちが動き出す気配が在った。一斉にこちらに飛び掛かってくる。そう思った。だが、違った。少年提督と深海棲艦達は、会議室に空いた大穴から外へと飛び出して行ったのだ。此方を強襲するのではく、離脱した。まるで、予め打ち合わせていたかのように澱みの無い揃った動きだった。

 

「あっ、おい、待てぃ! (TAKE2:届かぬ声)」

 

 野獣も反応が遅れていたが、すぐに少年提督や深海棲艦たちを追って、壁の大穴から外へと飛び出して行く。少女提督が声をかけるタイミングは無かった。野獣の背中を見送ってから、自分も壁の大穴から慌てて外へと出ようとしたところで、懐の中に仕舞ってあった携帯端末から電子音が響いた。

 

 端末を取り出してディスプレイを確認する。少年提督のAIの起動準備が整ったのだ。ディスプレイには少年提督のAIアバターが立ち上がっている。ここでも、少女提督は驚かされた。

 

『……勝手な事ばかりして、申し訳ありません』

 

 AIは昔の少年提督の姿をアバターとして表示されていた筈だ。そう設定していたからだ。だが、今は違う。端末の中で悲しげな微笑みを浮かべているのは、白髪と紫水晶の瞳をした少年提督の姿だった。その変貌に面食らいながらも、少女提督は端末を睨みつける。AIのアバターも、少女提督を見ている。視線が交わっているようで、交わらない。アバターの眼は、少女提督を見ているようで、もっと遠くを見ていた。

 

「アンタ、今度は何をやらかすつもりよ!」

 

 少女提督は叫んだ。

 AIのアバターは寂しげな微笑みを深める。

 

『“僕”は、自分の人生に決着をつけようとしているんですよ』

 

「はぐらかすんじゃないわよ……! 」

 

『そんなつもりはありません。ただ、言葉通りの意味です』

 

 アバターは微笑みに綻びはない。それは強い覚悟の裏返しと言うよりも、分かり切った実験結果を観察するような無機質さに満ちていた。

 

『他にも方法を探ったのですが、もう手はありませんでした。このままでは、不知火さんや天龍さん、それに、時雨さんや鈴谷さんを解体破棄するだけでは済まなくなります』

 

 このアバターの、何でもかんでも見透かしたような態度が気に喰わない。

 

「……まるで未来を視てきたような口振りね」

 

 言ってから、改めて思い出す。今の少年提督が内部に宿しているものは、未来視の力を持った何かだ。それも、神仏という言葉で類されるような超常の存在である。襲撃事件の夜も、少女提督は人類の未来を見せられる経験をした。自分の言葉が皮肉や嫌味どころか、比喩にすらならないことが忌々しい。

 

「ねぇ……」

 

 少女提督の声は、とうとう涙声になった。

 

「何でこんなことになるのよ? アンタがさ、ある程度マスコミを動かせるんだったら、私達はちっとも悪いことしてないって、そう言えばいいだけじゃない」

 

『もしもそんなことをすれば今度こそ、無防備な人々を巻き込むでしょう。不知火さんや天龍さん、それに時雨さんや鈴谷さんを解体・破棄せよと命令してくる本営は、きっと今とは比べ物にならない規模で報復を企てる筈です』

 

 分かっている。情報を制して本営の悪徳を暴いたところで、“めでたしめでたし”にはならない。現実にはその続きが必ずあるのだ。アバターの声は、やはり何処までも穏やかだった。

 

『僕は、先輩や貴女とは違う。口が裂けても、自分は無実だとは言えません。……だからこそ、僕に出来る役割があるのだと気づいたんです』

 

 一体誰に似たのか、このクソ頑固なAIアバターの言葉を飲み込むのには時間が必要そうだった。飲み込む必要もないと思ったが、何を言っていいのかも分からない。涙を堪えながら洟を啜ってから、マスコミという言葉から連想される存在を、今になって思いだした。我ながらなんて間抜けなんだろう。ガバっと顔を上げて、会議室の外へと視線を向ける。

 

 今、鎮守府の周りには記者やリポーターが大勢いる筈だ。

 いや、大勢という言葉では追いつかないくらい、居たかもしれない。

 万が一だが、そこに、今の少年提督と深海棲艦達が鉢合わせたら、どうなるか。

 心臓が凍る心地だった。

 

『……お互い、自らの役割を果たしましょう』

 

 手の中にある端末からAIの声がして、慌てて視線を戻す。だが、もうそこには、アバターの姿が無い。それどころか、端末自体がフリーズしている。再起動をかけるが、画面が立ち上がってこない。明らかに、中に居るAIの仕業だと思える挙動だった。少女提督は苛立つよりも先に駆け出す。会議室の大穴から飛び出すと、空から淡い光が降りてきた。曇天に切れ間が出来て、少女提督の居る場所を陽が照らしたのだ。まるで空が少女提督を祝福しているかのようでもあり、その矮小さを嘲笑しているようでもあった。

 

 少女提督はもう一度、洟を啜る。どっちでもいい。上等だと思った。身体に力込める。自分の命が、燃焼しようとしているのを感じる。自分のちっぽけさは、自分が一番よく分かっている。

 

 

 

 

 食堂から飛び出した瑞鶴は、日向達の後を追っていた。だが、既に彼女たちの後ろ姿はもう見えない。見失っている。それでも立ち止まるわけにはいかないと思い、先ほど爆発音が聞こえた方角へと走る。身体が重く、思うように動かない。もう息が上がっている。苦しい。全身の関節が軋みを上げ、筋肉が悲鳴を上げていた。身体を引き摺るように走りながら、自分の喉首に触れた。錨を模した錠前と、それを取り付けた革の首輪の感触は無い。先ほど食堂で展開された術陣効果によって。瑞鶴が装着していた首輪は既に消滅している。

 

 ただ、艦娘の肉体を無力化する術式効果も持続しているためか、瑞鶴の体は艦娘としての力を発揮できずにいる。舌打ちをしようとした瞬間に脚が縺れ、廊下に倒れ込む。すぐに手を付いて起き上がる。走る。廊下の窓に、自分の姿が透けて映っているのを横目で見た。片方の瞳が緋色をしているのが分かった。

 

 前の襲撃事件の時と同じように、瑞鶴は自身の体を深海棲艦化させることで艦娘の肉体を無力化する術式の効果から免れている。だが、その深海棲艦化も不完全にしかできなかった。艦娘として纏う霊気の質と、瞳の色が緋色に変化した程度である。以前のように『深海鶴棲姫』と同じ姿になるには程遠いし、運動能力や肉体の強靭さも全く及ばない。

 

 龍驤や日向達の会話に耳を欹てていた瑞鶴は、その原因も薄々分かっていた。今の鎮守府の内部を覆っているのは、艦娘の肉体を無力化する強力な術陣だ。それを展開したのが、今度は“黒幕”達ではなく、少年提督なのだろう。あの襲撃事件の夜よりも、更に強力な術式効果が瑞鶴の肉体機能を縛っている。状況から見て、そう考えるのが自然だった。

 

 日向達は、“私達の新しい提督”という言葉を使った。それが少年提督か、或いは、少年提督のAIであることは予想できる。深海棲艦研究施設の地下房で、日向たちを管理していたのは少年提督だ。彼ならば、瑞鶴たちが知らないところで日向たちと何らかの計画を準備していたとしても不思議ではない。

 

 しかし、彼が何かを企んでいる可能性については理解できるものの、彼が何を考えているのかはまるで分からない。分からないという事が恐ろしい。早く、速く動きたいのに、その意思に体が追い付いてこない。胸を焼く焦燥が、瑞鶴の冷静さを空回りさせる。日向たちの姿は見えない。何処だ。何処へ行った。更に焦りが増す。

 

 瑞鶴は息を乱しながら、唾を飲み込む。廊下から外に飛び出す。辺りを見回す。身体の力を抑制された上で、無理矢理に深海棲艦化を維持しようとしている所為か、視界がぼやけて狭まり、足元が揺れているような感覚に陥って、余計に焦りが増していく。動けなくなりそうになる。止まるな。動け。日向たちの行方が分からないなら、まずは爆発音がした方へ行くんだ。泥が詰まったように鈍い体を無理やりに動かしながら、瑞鶴は奥歯を噛む。

 

 少年提督が、何かをしようとしている。こういう時が来ることを彼は知っていて、着々と準備を進めていたのだと思った。いや、知っていたのではなく、すでに視ていたのだろう。自分から艦娘を剥奪される日や、艦娘が食堂に集められる景色も全部、分かっていたに違いない。だったら、これから瑞鶴がすべきことが在るという事だ。少年提督が今の状況を避けず、迎え入れたということは、今から数分後か数秒後かは分からないが、瑞鶴には何らかの役割がある筈だと思えた。

 

 いや、瑞鶴だけじゃない。全員だ。この鎮守府の全員に役割がある。少年提督が視た未来の姿の中に、全員の居場所が在るのだと信じる。信じるしかない。自分を鼓舞する。動け動けと自分の体を叱咤する。視線が下がる。斜め前方の地面を見る。舗装されている筈の其処には、黒い波が見えた。そんな気がした。自身の焦燥が見せる幻覚に違いない。自分に言い聞かせようとして、更に動揺する。

 

 次に、身体が沈んでいく感覚が来た。沈む。冷たい潮風が吹いている。いや、吹いていない。でも、寒い。息ができない。海水が体の中に侵入してくる。足が沈む。浮かぶことが出来なくなる。脚が濡れて、膝まで沈んだ。もがく。気付くと半身が海水に浸かっている。2秒後には胸まで沈み、肩まで沈み、顔の半分までが水に浸かる。揺れる水面の下へ、下へと、視界が下がっていく。一人は、寂しい。このまま、深海へ──。

 

「脚が速いでありますな。瑞鶴殿は」

 

「あ゛~、ほんとそれ……」

 

 茫然としていたから、駆け寄ってくる足音には気づくよりも先に、二人分の声が聞こえた。その声に腕を掴まれて、今まさに沈んでいこうとしていた水面から引っ張り上げられたかのように感じた。はっとして振り返る。あきつ丸と北上だ。あきつ丸は息を乱しながらもニヒルな笑みを浮かべているが、北上の方は汗だくだ。肩で息をしながら膝に手をつき、面倒そうな表情で瑞鶴を見上げていた。その北上の右眼には蒼い光が揺らぎ、線を引いている。北上の右半身は深海棲艦化していたが、それはやはり瑞鶴と同じで不完全だった。深海棲艦としての外骨格を纏うまでの変化はなく、肌の色の青白さが目立つ程度だった。

 

 

 瑞鶴は二人の顔を交互に見て、込み上げてくるものをグッと飲み込んだ。

 

 

 前の襲撃事件が在ってから、あきつ丸はどうやら普通の艦娘ではないという事や、今まで伏せられていた北上の深海棲艦化についても、この鎮守府に全員に知れ渡ることになった。もちろん、瑞鶴もだ。それでも、この鎮守府の艦娘達は以前と変わらずに瑞鶴たちに接してくれたし、特に気遣ったり、同情したり、遠ざけたりする空気も無かった。ただ瑞鶴は、贅沢な話だが、それがかえって息苦しく感じることもあった。そんなとき、瑞鶴を落ち着かせてくれたのは、この二人の存在だった。いつでも、この二人の自然体が心強かった。今だってそうだ。涙が出そうになるのを堪えて、息を吸う。吐いた。

 

 もう一度、二人を交互に見る。

 

「日向たちを見失ったわ」

 

 それがまず、今の状況だ。あきつ丸が肩を竦める。

 

「無理もありません。あっちは“抜錨”状態ですからな」

 

「それに、こっちはスポイル状態だしね~……。やっぱり、爆発音がした方に行く? 此処で散ってさ、三人で日向たちを探す手もあるけど」

 

 間延びした声で言う北上の眼には、戦闘海域に居る時と同じ真剣さが在った。

 

「それも手ではありますが、仮に彼女達を見つけても、我々では手も足も出ないでありますよ」

 

 あきつ丸が異議を唱えると、「そうなんだよね~……」と息を吐きだした。確かに、今の瑞鶴と北上では、“抜錨”状態の日向たちには太刀打ちできない。大人と子供どころか、子供と芋虫くらいの差がある。携帯端末を取り出してみるが、やはり遠隔でロックが掛かっている。使い物にならない。

 

「……でも、あんたは良い勝負できるんじゃないの?」

 

 瑞鶴は、あきつ丸の佩いた軍刀を見ながら言う。襲撃事件の夜、あきつ丸は野獣に匹敵しうる刀技で、並み居る金属獣を斬り捨てまくっていた筈だ。ただ、あきつ丸は肩を竦める。

 

「あの夜よりも肉体の拘束が強いでありますからな。3対1では、どうにもなりませんよ」

 

 あきつ丸は余裕のある態度のわりに、声音は酷く冷静だった。瑞鶴ほど焦っている様子でもない。頼もしい。

 

「じゃあ、決まりだね。爆発音がした方へ行こう」

 

 呼吸を整えた北上が駆け出そうとした時だった。

 

 あっ、おい、居たぞ! 此処の艦娘だ! 本当だ! やっと見つけた! 俺達が一番乗りか!? おい、カメラ止めるなよ! 中継! もうスタジオに繋がるか!?

 

 少し離れたところから大人数の声が聞こえて、走り寄ってくる気配が在った。えっ、と思う。あきつ丸も北上もそちらへ視線を向けて、一瞬だけ呆気に取られたあとで、苦々しい表情を浮かべていた。瑞鶴も「何でこんな時に……!」と、零してしまう。

 

 異様な熱気を纏って近づいてくる彼らが、テレビ局のリポーターや記者、マスコミ関係者であることはすぐに分かった。彼らが無断で鎮守府内に入ってこないよう、鎮守府のすべての門扉は閉じていた筈だ。誰かが開けたとしか思えなかった。はっとする。瑞鶴の脳裏に日向たちの姿が脳裏に浮かんだ。嫌な予感がする。鎮守府を取り囲んでいたマスコミ関係者の数は、かなり多かった筈だ。少なくとも、瑞鶴たちに駆け寄ってくる者達の数では少なすぎる。という事は、鎮守府内には他にも多数のリポーターや記者たちが勝手に侵入し、スクープを手に入れる為に取材対象を探しているのか。

 

 瑞鶴が眩暈を堪えているその間にも、彼らは無礼なほどに瑞鶴たちを指差し、興奮した様子でカメラとマイクを携えたまま、此方を取り囲もうとしてくる。あきつ丸と北上、それに瑞鶴は顏を見合わせる。逃げない方が良いと思えた。逃げては逆効果だ。先程の爆発音は、彼らも聞いていたに違いない。アクシデントの匂いを嗅ぎつけている彼らは、逃げ出す瑞鶴たちを必ず追いかけてくるだろう。状況が掴めないままで、彼らをより刺激するに違いない。

 

 瑞鶴たちは、すぐに囲まれた。無数のマイクとカメラのレンズが、まるで槍か刀のように威圧感を持って向けられる。これは、生放送のニュースか何かで放送されているのか。そう思うと、口の中が急速に乾いていく。彼らの熱量に圧倒されそうになりながらも、瑞鶴は叫ぶ。

 

「関係者以外は立ち入り禁止ですよ! 危険ですから、鎮守府の外に避難してください!」

 

 取り囲んでくるマスコミ関係者の一人が、瑞鶴の必死な姿を見て、嬉々とした様子で叫んだ。

 

「危険とは、どういう事ですか!?」

「先ほどの爆発音に何か関係があるんですか!?」

「何が起こっているんですか!?」

「鹵獲した深海棲艦の売買も行われていたという話もありますが!?」

「その深海棲艦たちが、暴れているんですか!?」

 

 威圧感と熱量をたっぷりと含んだマスコミ関係者たちの質問が、取り囲まれて身動きが出来ない瑞鶴たちを目掛け、矢継ぎ早に飛んでくる。答えるつもりがあるのかさえ分からないような言葉の密度だ。瑞鶴も怯んだ。鬱陶しそうに眉間に皺を寄せた北上が何かを言おうとしているが、その気配を質問で塗りつぶす勢いだった。あきつ丸が醒めた無表情になって、マスコミ関係者を睥睨している。

 

「此方の鎮守府の提督が、この前に明るみに出た“艦娘売買事件”に関与していたという話は、本当ですか!?」

 

 その発言を聞いた瞬間、瑞鶴の体の奥から今まで感じたことのない生々しい怒りが湧きあがり、反射的に発言者に掴みかかりそうになった。それをグッと堪える。強張った瑞鶴の表情に気づき、それを面白がるように、カメラのレンズが瑞鶴を映している。まるで銃を突きつけられているような気分だ。中継という言葉が聞こえたのを、もう一度思い出す。下手なことは出来ない。瑞鶴たちを取り囲むマスコミたちは、安全な場所から此方の出かたを観察している。

 

「今はそんなこと言ってる場合じゃなくて、本当に危ないかもしれないからさ~! ほら、とにかく避難してくださいって!」

 

 北上が語気を強めて言う。

 

「そうやって白を切って、私達を追い払うんですか!?」

 

 瑞鶴たちを取り囲んだ者達の一人が声を上げた。

 すると、連鎖的に他の者達も熱狂する。

 

 そうですよ! 説明を願います! 

 爆発音がしましたよね!? 何があったんですか!? 

 私達には真実を世間に伝える使命があります! 

 何が起こっているのか説明してください!

 

 ますます興奮した様子で捲し立てる彼らの姿に、流石の北上も弱り切った表情を浮かべる。自分たちに危険が及ぶ可能性を考慮しない辺り、憲兵なんかよりも質が悪い。ただ、マスコミ関係者たちのそういった図太さは、瑞鶴の怒りを冷ましてくれつつあった。先程までとは全く種類の違う焦燥が、瑞鶴の中で膨れ上がっていく。

 

 このマスコミ関係者たちはもう、今の鎮守府の状況の中に入ってしまっている。何が起こるのか分からないが、目の前の彼らは否応なく巻き込まれてしまう。それは避けなければならない。自分は艦娘だ。艦娘として人々を守らなければならない。その使命に誠実であろうとした瑞鶴は、彼らの安全を確保するために、一刻も早く此処から遠ざけなければならないと思えた。

 

「ですから、早く避難を……!!」

 

 瑞鶴が必死の想いで声を出そうとした時だった。

 

 再び、爆発音が響いた。身体の芯にぶつかってくるような音だ。かなり近い。瑞鶴たちを取り囲んでいたマスコミ関係者たちが悲鳴をあげる。傍にある庁舎に大穴が空いたのだ。粉塵が舞い上がり、瓦礫が飛び散る。曇天の下に満ちた湿った空気が、大きく振動する。断続的に銃声が混ざる。

 

 女性リポーターが身を竦めてしゃがみこんだ。カメラマンが横向きに倒れる。だが、職業病のようなものか、それとも執念か。カメラマンはテレビカメラを庇い、倒れたままで何が起こったのかを撮ろうとしている。大穴が空いた庁舎の方からも、テレビ局やマスコミ関係者であろう者達が必死の形相で駆け寄ってくる。マイクを手にした男性リポーターの姿も確認できる。先ほどの爆発での負傷した様子はないが、かなりの人数だった。瑞鶴たちを取り囲んでいた者達とは別のグループに違いなかった。彼らの様子からして、明らかに何かから逃れようとしている。

 

 マスコミ関係者たちだけではなく、憲兵たちの姿もある。銃を構え、発砲している。あの巻き上がる粉塵の向こうに居る何かと戦いながら、撤退してきているという風情だ。尋常ではない緊迫感の中、憲兵達がこちらを見て怒号を上げた。逃げろ。この場を離れろ。そんなことを叫んでいた。だが、瑞鶴たちを取り囲んでいたマスコミ関係者たちは、「おい、やっぱり何か在ったんだ!」などと、はしゃいだ声を口々に出していた。

 

 

「カメラだ!! カメラを止めるな!!」 

 

 瑞鶴の傍で、そんな怒号まで飛び始める。女性リポーターがカメラの前で、真剣な表情で何かを喚いている。記者であろう者達は、こちらに逃げ散ってくるマスコミ関係者を通せんぼして、或いは、血相を変えている憲兵たちに追いすがり、何があったのかと情報を聞き出そうとしている。絶対に、そんなことをしている場合じゃないのにだ。瑞鶴は歯噛みする。

 

「だからさぁ~……!! はやく逃げなよって!!」

 

 北上も必死な声で叫んだ。だが、スクープを前にした彼らの熱気は、瑞鶴たちの想いを跳ねのけてしまう。逃げてきた者達ですら踵を返し、ただでは帰れないとばかりに息を乱しながらカメラを構える始末だ。彼らの眼は爛々と輝き、今から起きる全てを世間に映し出そうとしている。瑞鶴は言葉を失う。彼らは、報酬や評価を求めているのではなく、彼らの役割と使命を果たそうとしているようにも見えた。

 

 そしてそれは、自分たちと同じだと思えた。ただ、それでも、瑞鶴も黙って今の状況を見ている訳にはいかない。マスコミ関係者たちを守るように動こうとした。彼らを避難させようとしたのだ。だが、もう遅かった。北上が呼吸を詰まらせるのが分かった。瑞鶴も立ち竦む。あきつ丸だけが、腰に佩いた軍刀に手をかけ、緩く息を吐きだしていた。

 

「……なるほど。こういう事でありますか」

 

 あきつ丸がボソッと零すのが聞こえた。北上にも聞こえたようだ。瑞鶴と北上があきつ丸の方を見るよりも早かった。

 

 …………南阿無。頼耶。無夜般。阿陀知魔訶。識。濁如是。精原等何方無在有。周功徳今不二玻瑠璃。楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量天心祁獄楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量因地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊小業劫。境涯外塵。真如妙境深羅進。無迦楼浅苦畢。竟壊小業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐可。舎利水囲。故地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅………………

 

 数多の僧侶が肉声を折り重ね、浪々と読経するかのような詠唱が聞こえてきた。いや、聞こえてきたと言うよりは、脳が作る意識の中に、現実世界に存在しない者達の声が流れ込んでくるかのような響きだった。聴覚が全く違う次元の音を感知し、それがたまたま、読経に似た響きを持っているだけなのかもしれない。頭痛がする。視界が狭まってくる。頭を軽く振って目を凝らす。

 

 …………不二玻瑠璃。楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量天心祁獄楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量因地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊真如妙境深羅楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅………………

 

 濛々と巻き上がる白く濁った粉塵の中から、ゆっくりと少年提督が現れた。彼は象牙色と琥珀色のオーラを纏い、“人間の深海棲艦化”を克明に表すかのように、額の右側からは白磁色のツノが伸びていた。彼が歩くたびに、その足元には黒い蓮が咲いていく。超然とした雰囲気を巻き散らす彼の背後ではオーラが凝り固まり、いつかのように禍々しい光背が象られている。仏教的な荘厳さに満ちていながらも、見る者に沈黙と畏怖を強いる、重厚で厳粛な光景だった。誰もが動きを止め、目を奪われている。

 

 …………徳今不二玻瑠璃。楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量天羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量因竟壊小業劫。境涯外塵神。真如妙境。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐可。舎利水囲。故地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅………………

 

 少年提督は文言を唱えている。彼は一人ではない。

 

 彼の両脇を固めるようにして歩いている戦艦水鬼・棲姫の二人は、既に艤装獣を召びだしている。彼女達の艤装獣は筋骨隆々で、要塞のような巨体を誇っている。数は2体。それだけでも十分すぎる脅威だが、それに加えて、空母ヲ級と、北方棲姫を抱きかかえた港湾棲姫の姿もあり、彼女たちが召還したのであろう大量の猫型艦戦も空中に陣取っていた。

 

 少年提督の右斜め後ろには、集積地棲姫の姿もある。両腕をガントレットのような艤装で覆っている集積地棲姫は、空間に幾つものディスプレイを展開しており、何らかの術式構築の準備をしている風情だ。そんな集積地棲姫を守るべく壁となって傍に控えているのは、戦艦タ・ル級の二人である。深海棲艦の上位種を率いる今の少年提督の姿は明々白々、普通の人間ではない。黙ったままのカメラのレンズ達が、己の姿を隠そうともしない彼を捉えている。現実社会と、そこに住まう多くの人間の瞳と心が、今の少年提督の姿を捉えているのだと思った。

 

 …………螺不。悪阿耨多羅多空。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量天心祁獄楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。空羅。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。竟壊小業劫。境無迦楼浅苦畢。竟如妙境深羅楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅………………

 

 

 あ、あの少年が、深海棲艦を連れているのか。

 彼は、ここの提督じゃないのか……、ほら、“元帥”の……! 

 艦娘たちで人体実験を繰り返したっていう、あの……? 

 

 マスコミの関係者たちは、目の前の光景に慄きながらも強張った声を出す。彼らは少年提督と深海棲艦達の威容に飲まれ、恐怖に立ち竦んでいるがカメラを手放さない。何人かの憲兵が携帯端末を取り出し、何処かへ連絡を取っている。叫ぶようにして通信を繋いでいる。目の前の景色を、自分たちの知っている情報や常識に照らし合わせ、最適な行動を取ろうとしている彼らは、今にもしゃがみこんでしまいそうな瑞鶴などよりも、よほど冷静だった。

 

 やめてよ。やめて。提督さんを撮らないでよ。お願いだから。

 違うんだって。私達の提督さんは、本当は優しい人なんだ。

 今の姿とか状況は、何かの間違いなんだ。違う。違うんだ。

 

 瑞鶴は、自分でも分かるほどに感情のバランスを失いつつあった。だが、取り乱す暇もなかった。「やっばいよ……!」 北上が焦った声を出すのが聞こえた。大穴が空いた庁舎とは、また別の庁舎から、こちら目掛けて何かが飛び込んでくる。漆黒の艤装。白髪のツインテール。南方棲鬼だ。彼女は、瑞鶴たちのすぐ傍に、ズズゥゥゥン……!! と、重たい音を立てて着地した。地面が砕ける。深海棲艦がすぐ傍に出現したことに、大勢のマスコミ関係者も、そして憲兵も、大きく反応が遅れていた。

 

 あきつ丸が軍刀を抜き放つ為に姿勢を落とす。だが、着地姿勢だった南方棲鬼が立ち上がるのと同時に、あきつ丸に肉薄していた。とにかく疾かった。あきつ丸は軍刀を抜くのではなく、盾のように持ち替えて防御姿勢をとった。咄嗟の判断だったに違いない。南方棲鬼は艤装を纏ったゴツイ腕と拳を振りぬき、あきつ丸が構えた軍刀の上から強烈なストレートパンチをぶち込んだ。重くて鈍い音と、軍刀がへし折れる音がした。あきつ丸が吹っ飛んで、舗装された道の上を転がっていく。

 

 地面をバウンドしながらゴロゴロっと派手に転がったあきつ丸は、すぐに手をついて体を持ち上げたが、立ち上がれていない。折れた軍刀を杖のように持った片膝立ちになって、左手を地面についている。「ごほっ……!」と血を吐いて、そのまま崩れ落ちた。

 

 

 マスコミたちはまだ反応しきれていない。今の状況を把握できていない。距離のある少年提督達とは違い、すぐ傍に深海棲艦の“鬼”クラスが居ることの危険さを実感する為には、あと2、3秒ほど必要だろうか。その時間を稼ぐ。「早く逃げなって……!!」北上がマスコミ関係者や憲兵に叫んでいる途中で、南方棲鬼は動いた。奴は北上に突進して腕を振るい、抜錨すらできない北上を軽々と払い飛ばしたのだ。鳥肌が立つような鈍い音がした。僅かながら深海棲艦化していた北上だが、南方棲鬼の攻撃をガードするのがやっとだった。あきつ丸と同じように、北上も舗装された地面を転がる。

 

「くっそ……!」 

 

 倒れた北上も起き上がろうとするが、上半身を持ちあげてそういうのがやっとのようだった。北上のすぐ傍に居た女性リポーターは、目の前で振るわれた圧倒的な暴力の片鱗に圧されて尻餅をついている。南方棲鬼が、その女性リポーターに向き直り、見下ろし、近づこうとしている。5人の憲兵が南方棲鬼の動きを止めようと躍りかかるが、まるで羽虫でも払うかのように、南方棲鬼は腕を数回振るっただけで憲兵達を払い散らしてしまった。地面に転がった憲兵が、装備していた大型の機関銃を撃つ。だが、弾丸は届かない。南方棲鬼が纏うオーラに飲まれ、光の粒子となって消えるだけだ。無力だった。

 

 リポーターの彼女を守れるのは、瑞鶴しか居ない。

 

 マスコミ関係者たちは、まだ動き出せていない。状況を把握できないまま、手にしたカメラを回している。迫っている危険の大きさを彼らが実感し、驚愕に至り、そして逃げ出すまでの硬直した僅か数秒の間に、最悪の事態が起ころうとしている。幾つものカメラが、深海棲艦による殺人を映そうとしている。少なくとも、世間にはそう見えている筈だった。

 

 不意に、南方棲鬼が視線だけで瑞鶴を見た。彼女の紅い瞳には、艦娘である瑞鶴への殺意も敵意も無かった。人間に対する憎悪も害意も無い。ただ落ち着いていた。その眼差しは、瑞鶴の心を貫いている。瑞鶴に訊いている。こういう時、お前は、お前たち艦娘は、どうするんだと。お前が生きてきた時間は、お前自身にどんな決断を迫るのだと。

 

 この瞬間。瑞鶴は、自分の役割が分かった。自分の全存在を預ける決断ができた。今まで生きてきた時間の中で蓄えてきた勇気を、全て使い切る決心だった。現実を破壊する覚悟だった。瑞鶴は地面を蹴って飛び出していた。自分の髪が白く染まり、逆立っていくのが分かる。艦娘のものではない力が、巨大な力が湧きあがってくる。艦娘としての自分が剥がれ落ちていく。艦娘とは違う何かに変わろうとしているのを感じた。構わない。私は、自分の役割が分かった。だから、それを選んだのだ。

 

 瑞鶴は南方棲鬼に飛び掛かって、左の拳でぶん殴った。拳を振りぬいた瞬間には、瑞鶴は、もう瑞鶴の姿をしていなかった。南方棲鬼は避けず、ガードの姿勢をとって受けたが、後ろに圧し飛ばされていた。その隙に瑞鶴は、倒れている女性レポーターをそっと抱え上げて、優しく、しかし、素早く立ち上がらせる。

 

「私ハ貴女たちヲ守りタい。だかラ早く、此処カラ逃げテ下さイ」

 

 瑞鶴は、女性レポーターの眼を見詰めながら言う。若い女性レポーターは、青ざめた顏を強張らせ歯を鳴らし、唇を震わせて瑞鶴を見ている。恐怖に潤む女性レポーターの瞳には間違いなく、深海鶴棲姫の姿が映っていた。それを見て瑞鶴は、いつかの少年提督とのやり取りを思い出す。

 

 瑞鶴さんは、瑞鶴さんですよ。

 

 あの日の少年提督の優しい声が、胸の内で暖かく木霊している。

 今まで瑞鶴が生きてきた時間と、“今の瑞鶴”を結び付けてくれている。

 

 先程まで少年提督を捉えていたテレビカメラのレンズ達が、今度は瑞鶴を捉えている。世間に曝されたままの少年提督は、人間の深海棲艦化を証明した。そして瑞鶴も今、艦娘の深海棲艦化を証明している。深海棲艦化した人間から人々を守ろうとするのが、深海棲艦化した艦娘であるというこの景色を、現実社会はどう受け止めるのだろう。少年提督と瑞鶴は、同じ景色の中に存在し、今まで自分たちを縛り付けていた常識や観念を叩き壊そうとしているのだと思えた。

 

「ぁ、ありがとうございます……!」

 

 女性リポーターが勇気を振り絞る顔になって、瑞鶴に頭を下げた。瑞鶴は頷きを返してから周囲を見渡し、他のマスコミ関係者達にも、この女性リポーターと共にこの場を離れるよう促した。憲兵達には、倒れている北上、あきつ丸を連れて逃げて欲しいと伝える。そこでようやく、マスコミの関係者たちは悲鳴を上げて動いた。その悲鳴が瑞鶴に対するものなのか、少年提督達に対するものなのかは判然としなかったが、どうでもよかった。彼らは逃げていく。憲兵達も、あきつ丸と北上を抱えて逃げてくれた。

 

 …………螺不。悪阿耨多羅多空。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量天心祁獄楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。空羅。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。竟壊小業劫。境無迦楼浅苦畢。竟如妙境深羅楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅………………

 

 瑞鶴は一人残され、目の前に広がる景色と向き合う。

 少年提督が、瑞鶴を見ている。

 彼は無表情のままで、文言を唱え続けている。

 この世界を破壊しようとしている。

 瑞鶴は瑞鶴であるために、それを止めなければならない。

 

 呼吸が震えた。瑞鶴の体から霊気が滲む。艤装を召還する。いつかの決戦装束だ。懐かしく思う。深海鶴棲姫としての力を振るう為に、瑞鶴は前に出る。仲間たちと過ごしてきた暖かな日常を想い、砕かれてしまった大切な場所を憂い、溢れる涙を拭うこともせず、瑞鶴は、“鬼”と化した少年提督と、彼が率いる大軍団に、正面から突撃する。

 

「うぁぁぁああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 深海棲艦が泣く姿を、人々はどう思うのだろう。

 

「鬼は外、福は内だ」

 

 低い声で言う南方棲鬼が、艤装を展開している。

 

「お前は鬼じゃない」

 

 やはり、こちらに対する殺意も敵意もない。それでも、瑞鶴は戦わなくてはならない。一人は寂しいと言い、沈んでいったもう一人の自分を思う。彼女も、この景色を作り上げるために、瑞鶴の影の中にいるのだと思えた。

 

 

 









親切な誤字報告や、暖かな高評価、感想を寄せて頂き、いつも本当にありがとうございます! 話の中で不自然な個所や整合性が取れていない箇所などがありましたら、また御指導いただければ幸いです。加筆修正しながら、なんとか完走を目指したいと思います。

次回更新も不定期ですが、またお付き合い頂けるよう頑張ります。
いつも支えて下さり、本当にありがとうございます!

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