花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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黒点

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 秘書艦娘用の執務机に腰掛けていた鈴谷は、顔を上げて大きく伸びをした。目の前には分厚い書類が積まれているものの、その殆どは処理済みである。今日は仕事の進みが早い。欠伸が漏れそうになり、それを飲み込む。緩い風が吹いて、書類の束を撫でて行った。カサカサと乾いた音を立てる。伸びをした姿勢を解きながら、窓の方へと視線を向けた。晴れた空からは柔らかな日の光が差し込み、執務室を心地よく暖めている。いつもよりも時間が滑らかに、しかし、ゆっくりと流れていくのを感じながら、再び欠伸を飲み込んだ。

 

 空腹感を覚え、腕時計を見る。時刻はもうすぐ正午だ。この時間だと食堂は大いに賑わっていて混雑している事だろう。駆逐艦娘達が多い時には、賑わうというよりも戦場みたいになっている時もある。食堂に行くのなら、もう少し時間をおいてからの方が良いな、と暢気に考えた。そんな平凡で緊張感の無い“日常”的な意識の流れを愛おしく思いながら、深い安堵をそっと噛み締める。

 

 少し空けている窓から、また緩い風が吹き込んできた。その風の向こうに、唸るような低いエンジン音と、鉄が軋む音が薄く混じっている。大規模な工事の音だ。何台もの大型重機の動きが伝わってくる。その無骨な労働のリズムは、鈴谷達の“日常”が、再構築されていく音である。

 

 

 あの襲撃事件があってから、暫く経った。

 

 鈴谷をはじめ、鎮守府の艦娘達は術式結界で身動きを封じられてしまったが、深海棲艦達の助力もあり、艦娘の誰かが襲撃者に殺害されてしまうような事態は避けられた。入渠ドックや工廠など、鎮守府の重要な施設には爆発物まで仕掛けられていたようだが、集積地棲姫が使役する小鬼と妖精達の連携により、爆発物の解体が間に合ったという事も聞いている。御陰で、鎮守府の基地機能が致命的なダメージを受ける事なく済んだ。

 

 術式結界の影響に晒され続けていた艦娘達は、その結界が解呪されたあとも肉体機能がすぐに回復せず、まともに動くことも出来なかったが、入渠ドックや妖精達が無事だった御陰で、高度な治癒施術を迅速に受ける事ができた。鎮守府内の建物にも大きな損害が出ていたが、本営が手配してくれた建設業者が復旧工事に入っているし、その現場では妖精達の協力もあって、工事は順調に進んでいる。今では、艦娘達が其々、出撃、遠征、演習などの任務に就く日々が帰って来ている。あの夜、奮戦してくれた野獣、それに少女提督、“何者”かに肉体を乗っ取られかけた少年提督も、各々の日常を取り戻しつつあった。

 

刺客として送り込まれて来た川内、神通、日向の3人は現在、深海棲艦研究施設の地下エリアに収容している。少年提督は彼女達を深海棲艦と同じく自身の管理下に置こうと考えているようだが、その真意は鈴谷には分からない。

 

 

 

 鈴谷は執務室に視線を巡らせた。

 

 執務机に腰掛けた野獣は、難しい顔をしてタブレットを手早く操作していた。いやに真剣な様子で仕事をしていて、鈴谷としては何だか妙な感じだった。いつもなら「ぬわぁぁぁん!! お腹空いたもぉぉぉん!!(ランチタイム先輩)」なんて言いながら騒がしく立ち上がって来てもおかしくない時間なのに、そんな気配はちっともしない。

 

 タブレットの画面を見据える野獣は、他の提督か、或いは、野獣と繋がりの在る誰かとのメールでの遣り取りを交えつつ、脇に於いてある書類を忙しく捲っている。鈴谷とは少し離れた位置にはもう一組の秘書艦娘用の執務机があり、そこに腰掛けている時雨も黙々とデスクワークをしている。今日は秘書艦が二人だ。姿勢よく座っている時雨も、もう殆どの書類を処理し終えている。仕事が早い。

 

 鈴谷も残りの書類を片付けているうちに、野獣がタブレットを操作する手を止めた。そして、椅子に凭れ掛かりながら携帯端末を取り出し、何処かへ通話するでもなくディスプレイを見詰める。少しくつろいだ姿勢の野獣も、仕事を一段落させた様子だった。

 

「もうお昼だけど、どうする?」

 

 声を掛けるにはいいタイミングだと思った。鈴谷は、野獣と時雨を順に見る。

 

「あぁ、もうそんな時間だったんだね」

 

 書類から顔を上げた時雨は、自分の腕時計を見る。

 

「今だと食堂も混んでいるだろうから、もう少ししてから行こうか」

 

 時雨が、鈴谷と野獣を交互に見た。「私も同じコト考えてた」と鈴谷も軽く笑う。

 

「おっ、そうだな!(同調先輩)」

 

 椅子に凭れた野獣は首をゆっくりと回し、ゴキゴキと鳴らした。その音が、外から聞こえて来る工事の音に混ざる。野獣が窓へと視線を向けた。時雨も、野獣の視線を追う。少しの沈黙が在った。緩やかな時間の流れを含む静けさの中に、空いた窓から澄んだ風が吹いて来る。平和だな、と無邪気に思った。こんな時間が続けば良いのに。そんな風に願ってしまうのは、子供っぽい我が儘なのだろうか。

 

 

「ねぇ、野獣」

 

 優しい静寂の中をそっと潜るように、時雨が野獣を呼んだ。

 

「さっきまで、誰かと連絡をとりあっていたのかい?」

 

 時雨は、野獣の執務机の上に置かれたタブレットと携帯端末を見ている。

 

「そうだよ(首肯)。本営上層部に居る、俺の先輩と後輩に、ちょっとね☆」

 

 野獣は答えながら、下手糞なウィンクを時雨に返す。

 

「前みたいな事がもう起こらないように、色々と手を回して貰おうと思ってさぁ(早期警戒)」

 

「それは心強いね」 時雨は口許を緩める。

 

「ねぇ、前から聞きたかったんだけど、野獣の先輩とか後輩って、どんな人なの?」

 

 鈴谷が言うと、時雨も興味深そうに「僕も気になるな」と頷いた。野獣は「そうですねぇ……(思案顔)」と、宙に視線を投げて右手で顎を触る。

 

「後輩はクッソ有能なイケメン提督だけど、キレると怖かったですね、はい(小声)」

 

 明らかに体験談として語るような口ぶりだった。

 

「その人がキレるような事をしたの?」

 

 時雨が控えめに訊くと、野獣はすっとぼけたような真面目顔で、視線を斜め上に固定した。その不自然な無言が、執務室の中に変な感じの沈黙を生む。きっと、その後輩さんがキレるような事をしたんだろう。時雨が、まだ見た事の無い野獣の後輩に思いを馳せ、気の毒そうに表情を曇らせている。鈴谷は苦笑を漏らしつつも、「じゃあ、先輩は?」と訊いてみる。野獣は真面目顔を崩さず、視線だけで鈴谷を見た。

 

「先輩の方は、どんな重要な会議でも“おっ、そうだな”、“そうだよ(便乗)”、“あっ、そっかぁ……”の3つしか発言パターンが無い男として、提督連中の間でも有名ですねぇ!」

 

「それマジ? 就いてる上層役職に対して主体性が無さ過ぎるでしょ……。居る意味無いって言うか、もはや置物じゃん……」

 

「あっ、でも、“腹減ったなぁ”って俺に話し掛けて来る時もあったゾ!(無価値な想起)」

 

「会議の最中にかい?」

 

 時雨が不安そうな顔で野獣に訊いた。

 

「ウン、そうですね☆」 

 

 爽やかな笑顔を浮かべた野獣が頷く。

 

「先輩を無視する訳にはいかないし、俺もその時は会議そっちのけでラーメン屋の屋台の話をしてましたねぇ!(思い出)」

 

「置物の方がマシとはたまげたなぁ……」

 

 鈴谷は思わず顔を歪め、呆れを通り越して感心してしまう。楽しそうに話す野獣を見ながら、上層部の人物達が集う会議の場面を想像する。静粛で重厚な雰囲気が満ちたホール。一筋縄ではいかない老獪な男達が鋭い視線を飛ばしあう。張り巡らされる策謀。交錯する闇の利益。その場に居るだけで息が詰まる様な駆け引き。そんな強張る空気の一切を撥ね除けて、屋台ラーメンの話に興じる野獣と、その先輩。駄目だ。場違いを通り越して神秘的にさえ思えてきたところで頭が痛くなって来た。時雨も苦笑を溢している。

 

「あと、先輩は猫が好きで、会議中でも構わず“見たけりゃ見せてやるよ!”とか言って、後輩にも猫動画を見せつけてましたねぇ!(懐かしむ目)」

 

「そりゃ、後輩さんもキレるでしょ……」

 

「とにかく、二人ともスゲー奴だからさ、これだけは真実なんだよね(揺るがぬ想い)」

 

「まぁ野獣がそう言うんなら、優秀な人達なんだろうけどさぁ」

 

 鈴谷はちょっとだけ笑って相槌を打つ。

 執務机に座った時雨が、野獣に向き直った。

 

「その二人は、この鎮守府を取り巻く今の状況について、何か言っていた?」

 

 時雨の声には、余計な強張りが無かった。それは鈴谷も気になっていた事だった。鈴谷も野獣に向き直り、姿勢を正す。野獣は落ち着いた様子でタブレットを手に取って、ディスプレイに視線を落とした。

 

「この鎮守府を狙おうって過激派の連中は、やっぱりまだ居るみたいっすよ? ただ、今回みたいな大規模な襲撃事件が失敗に終わってるのを見て、奴等もビビってるからさ~。当分の間は、うん、(平和で)いいみたい!(たいせつたいせつ!)」

 

 野獣は暢気そうに言うが、その暢気さが鈴谷や時雨を安心させようとしている演技のようにも思えた。この鎮守府の存在を、いや、正確に言えば、野獣や少年提督のことを快く思わない人間が、決して少なくないという事を改めて思い知った気分だった。先日の襲撃事件についても『深海棲艦の群れが、ある鎮守府へ襲来した』という事でニュースでも報道されており、あくまで深海棲艦が起こした騒ぎの一つとして片付けられようとしている。

 

 鈴谷はあの夜以来、人間というか、社会というものに対して、より明確に恐怖を抱くようになった。少年提督や野獣を葬ってしまいたいと考える本営上層の一部が関わっていた事は明らかなのに、それが世間の目に触れるような場所には一切出てこない。まるで当たり前のように事実が隠蔽されている現状を見れば、あの襲撃事件の黒幕達が、本営上層部と密接に関係があり、社会的にも大きな影響力を持っているという事は簡単に想像できた。

 

 この鎮守府内や、深海棲艦研究施設内には無数の防犯カメラが設置されているが、あの襲撃事件があった夜の映像は全て、何者かによって破壊されていたという話も聞いた。それが誰の仕業なのか分からないが、恐らくは、野獣か少女提督が、防犯カメラの映像に細工をしたのだと鈴谷は勝手に思っている。それは多分、時雨だって、いや、他の艦娘達にしても同じだろう。だが、その事について野獣達を責め、理由を深く詮索する者は居なかった。

 

 理由は単純だった。今回の事件が表沙汰になれば、暴かれるべきでは無い軍部の裏事情が白日の下に曝されることになるのも間違いなかったからだ。そうなれば、社会に不要な混乱を齎すことになる。世間の人々にとって艦娘とは、決して人類に逆らうことのない、健気で従順な守護者である。だからこそ、艦娘達の今までの命懸けの献身を讃え、感謝し、人間社会に迎え入れようという動きが出て来たのだ。そんな中で、『元帥クラスの提督を、艦娘を用いて暗殺しようとする事件が発生した』などと報道されるような事があれば、本営と艦娘は、世間からの信用を一気に失うだろう。

 

 いや、信用を失うだけならまだマシかもしれない。

 

 人間は、艦娘達が居なければ深海棲艦と戦えない。深海棲艦達を退け続け、ある程度の平和な世界を取り戻してくれたのは、間違いなく艦娘達だ。その艦娘が人間を攻撃するという事件は、人々が心に取り戻しつつあった平穏を根本から覆す。いくら人類優勢の状況とは言え、深海棲艦との戦争はまだ終わっていないのだ。唯一の頼りである艦娘達をすら危険視する世論が形成されることになれば、それが引き金となって恐慌を引き起こしかねない。だから直接に命を狙われた野獣や少年提督の二人も、襲撃事件が隠滅されることに対しては特に対応しようとしていない。

 

 “黒幕”達も、そんな野獣や少年提督の対応を見越しているに違いない。卑劣だと思う。人類と深海棲艦の戦いは、艦娘達の活躍の御陰で、人類優位に固まった。深海棲艦が居なくなった未来が、すぐ其処まで来ている事を人々が実感できる程度には、社会というものの中に平穏が戻って来ている。今の鎮守府の状況は、その平穏そのものを“黒幕”達によって、人質に取られているかのようでもある。

 

 “黒幕”達や過激派の提督達は終戦後、艦娘の深海棲艦化現象を理由に、艦娘達から人格を奪い、世間から切り離し、秘密裏に管理し、利用する事で、大きな利益を得ようと画策している。特に戦争利権に関わるような人間達の目には、世間から見放されて打ち棄てられた艦娘は、さぞ魅力的に映ることだろう。激戦期を過ぎてなお、本営が艦娘の人体実験を秘密裏に続け、『人間を攻撃可能な艦娘』を造り出そうとしていたのも、終戦後の艦娘達に大きな利用価値が在る事に気付いていたからに違いない。そして厄介なことに、こういった人間達は、艦娘達の未来にも大きな影響を与えることが出来る。

 

 

 鈴谷は何も言えず、時雨を見た。

 時雨は俯き、きゅっと下唇を噛んで、膝の上で拳を握っている。

 

 「前みたいな事が起こるのを未然に防ぐことは……、やっぱり難しいのかな?」

 

 「鎮守府のセキュリティーを強化したりする対策ならともかく、過激派の連中全部を牽制し続けるのは、まぁ、限界もありますあります(疲れ気味)」

 

 手に持っていたタブレットから顔を上げた野獣は、首を左右に曲げてゴキゴキと音を鳴らした。

 

 「先輩達も俺達を助けてはくれるとは言ってたけど、飽くまで手が回る範囲までの話だって、それ一番言われてるから(疲れ気味)」

 

 確かにその通りだと、鈴谷も思った。野獣の先輩、後輩の二人が、どれだけ上層部の動きに目を光らせていたとしても限界が在る。上層部の人間達にも其々に政界や経済界の人間と繋がりがあり、さらに社会の影の住人達までが交わってくるのだ。そこで生まれる思惑の一つ一つを具に把握するのは不可能だろう。軽く息を吐いた野獣の顔にも、明らかに疲労の色が滲んでいた。ただ、焦燥や落胆の様子は無かった。冷静に現状を整理し、受け止めている様子だ。

 

 「また誰かが、僕達の鎮守府を襲って来ることもあるのかな?」

 

 そう訊いた時雨の声は、随分と落ち着いていた。時雨を一瞥した野獣は、持っていたタブレットを執務机に置いてから、ゆっくりと息を吐き出した。結論を勿体ぶるのではなく、言いにくい事を言葉にする為に必要な間だったのかもしれない。「まぁ、多少はね?(諦観)」と、時雨に答えた野獣は、力の無い笑みを浮かべていて、胸が詰まった。

 

 「……やっぱり、専守防衛しかない感じ?」

 

 鈴谷も訊く。椅子の背凭れに身体を預けた野獣は、「そうですねぇ……」と眼を窄めて天井を睨んだ。何度かゆっくりと瞬きをして、細く息を吐き出している。鈴谷は野獣の言葉を待つ。時雨も静かに野獣を見詰めていた。工事の音が薄く響いてくる。

 

「先輩達も言ってたけど、“黒幕”全員を暴き出したところで、どうしようも無いんだよなぁ……。社会の中でも重要なポジションに食い込んでる連中ばっかりだろうし、世間から見れば善良な一般人だからね」

 

 そこまで言った野獣は身を起こし、執務机の上に置かれたタブレットに視線を落とし、ディスプレイの上で指を滑らせた。そこに表示されているのは、さきほど遣り取りしていたメールだろう。

 

 「本営とか過激派の提督連中だけならともかく、そういう上流階級の人間まで複数絡んでくると、ソイツ等に結託して美味しい思いをしたい別の企業や集団も、やっぱり釣れて来るみたいですねぇ。社会の表と裏で複雑に思惑が繋がって、そこに関わってくる人間の数も膨れ上がって来てるし、それに比例して世間への影響も強くなるしで……、もう手の出しようが無いゾ(冷酷な現実)」

 

 鈴谷の方を見ようとしない野獣は、自分自身を納得させるかのように重たい声で言う。

 

 「終戦を迎えた後で、色んな業界の牛耳を執るだろう連中にとっちゃ、世間で英雄視されるような艦娘なんざ邪魔なだけだし、その艦娘の人権だの何だのと騒いでる俺みたいなヤツはもっと目障りで鬱陶しいんでしょ? それは前の襲撃事件でもはっきりしたし、俺とかアイツが居る限り、また同じような事は起こるゾ(不可避の未来)」

 

「そんな……、本営だって、艦娘の皆がテレビに出たりする指示を出してるじゃん。それに、世間の人たちだって……」 

 

 力の籠らない声で鈴谷は言うと、野獣は寂しそうな顔つきになる。

 

 「前も言ったけど、あれは本営が自身の世間体を保つための単なるポーズだゾ。世情に沿った道徳的な体制で艦娘達を指揮してるっていう、社会的なアピールなんだよね(クソデカ溜息)。確かに世間では終戦後の艦娘達を“人間”として扱おうっていう世論が主流だけど、“黒幕”共はそれをぶっ壊す準備も同時に進めてるって感じですね……(反吐)」

 

「つまり、表向きは本営が世論の顔色を窺いつつ、その裏では、社会的な影響力を盾にして“黒幕達”が暗躍しているワケだね」

 

 時雨が険しい眼つきで野獣を見詰める。その視線を受け止める野獣は小さく肩を竦め、緩く息を吐いた。ただ、その表情は冷静で、何処か余裕があるようにも見えた。

 

「まぁ、新しい時代の気配が迫って来てるからね。利に敏い人間のアクションが大きくなるのも、しょうがないね(達観)。権力を持ってる奴等なら尚更っすよ」

 

 野獣に落ち着いた声音でそう言われ、鈴谷の言葉は続かなかった。鈴谷は自分の呼吸が震えているのが分かった。本営も、そういった権力者層や超富裕者層の人間達を無視できないが、同時に、深海棲艦達との戦争状態にある今では、その前線で活躍し続ける野獣や少年提督も無視できない。だから本営は、表向きは野獣や少年提督の意向を汲む姿勢を見せ、艦娘と人間の親交を深めるポーズを取っている。そしてその裏では、終戦後の艦娘達の尊厳も人格も奪い去り、秘密裏に生物兵器として売買して利益を得ようと画策している。そのこと自体については、鈴谷もある程度は理解していた。そのつもりだったが、違った。ようやく、鈴谷は今の状況を正しく理解した。

 

 本営を媒介にした人間達のこういった複雑な繋がりは、もはや野獣達では手に負えない程に膨れ上がっているのだ。野獣の先輩と後輩が本営の上層部に身を置き、その立場で構築してきた人脈をどれだけ活用しようと、“黒幕”達の全てを相手取り、黙らせることは不可能な規模なのだということは、野獣の冗談の無い口調からも窺えた。終戦が近づくほど、野獣や少年提督を排除しようとする者達も一層増えていくだろうし、それに比して“黒幕”達の勢力も増幅し、図太く、よりタフになっていく。そんな“黒幕”の連中達が、また鈴谷達の鎮守府を襲う為に動き出そうとするのは、想像に難くない。

 

 つまり、事態は鈴谷が考えていたよりも、ずっと深刻だったのだ。

 

 

「ジリ貧だけど、今の俺じゃ専守防衛がやっとだって、はっきり分かんだね(憂い)」

 

 まるで鈴谷たちに向って懺悔するように言う野獣は、タブレットの画面から手を離し、また椅子に凭れ掛かって天井を眺めた。また執務室に緩い風が吹き込んで来て、書類が渇いた音を立てる。時雨が、何も言わずに俯くのが分かった。鈴谷は、膝の上で手を握る。野獣の言葉は敗北宣言に等しく、同時に、本当に仕方がないことだとも思った。誰が、野獣を責められるのだろう。野獣が悪いのだとは、どうしても思えなかった。

 

 暖かな日差しの中にある執務室の穏やかさと、野獣が話す暗澹とした内容がうまく結びつかない。どうしようもなく重苦しい沈黙が、鈴谷達を沈めて行こうとした時だった。執務室の扉がノックされた。寂しげな顔つきをしていた野獣が即座に身体を起こし、「入って、どうぞ(いつもの調子)」と、能天気そうな声を作り、軽薄な笑みを浮かべ、何事も無かったかのように扉に向き直る。まるで、この鎮守府における“野獣”と言うポジションに意識的に戻ろうとするかのようだった。扉が開いたので、鈴谷と時雨も背筋を伸ばす。

 

「失礼します」

 

 扉を開けたのは加賀だった。演習が終わり、その報告をする為に執務室に訪れたのだろう。冷然とした無表情の加賀が、「これを」と、報告書であろう書類をぶっきらぼうに野獣に提出する。

 

「ありがとナス☆」

 

 野獣は椅子に座ったままで腕を伸ばし、それを受け取った。書類を手渡した加賀が、野獣や時雨、それに鈴谷の執務机の上に積まれた処理済み書類の山を順番に見た。順調に仕事が終わりつつある様子に、不味そうに眉間に皺を寄せた。それに気付いた野獣は書類から顔を上げ、「おっ、どうしました?」と、とぼけた口調で言う。

 

「いえ、……本当に年に2回くらいは、真面目に仕事をしている時があるのだと感心していたの」

 

 冷気そのもののような声で言う加賀は、深々と眉間に皺に刻み、野獣の執務机を見下ろしている。椅子に座ったまま傲然と胸を反り、ついでに足まで汲んだ野獣が「当たり前だよなぁ?(威風堂々)」と、まるで自分の仕事ぶりを誇るように時雨と鈴谷を交互に見た。

 

「野獣、分かってるとは思うけど、別に褒められてるわけじゃないよ?」

 

 切ない表情を浮かべた時雨が、諭すように静かに言う。鈴谷も半目になって頷く。溜息を堪えて口を引き結んだ加賀は、冷然とした下目遣いで野獣を見詰めてから鼻を鳴らす。いつもの、どうせ何を言っても無駄だろうという態度だった。野獣は加賀を見上げて笑う。

 

「だからその無期懲役みたいな顔はやめろっつってんじゃねーかよ(棒)。お前はまた近い内にテレビに出るんだからさ、もうちょっと表情を柔らかくする努力をして、どうぞ」

 

 へらへらした表情の野獣の言葉に、鈴谷は加賀を見上げて、「わっ、本当ですか!?」とテンションが上がってしまった。

 

 以前、テレビの歌番組に初出演した加賀を応援すべく、この鎮守府に居る艦娘達で、食堂のテレビを囲んだことが在る。めいめいに手作りの加賀グッズを手に、熱い視線を画面に向けていた。その時の食堂は、野球やサッカーなどの熱心なスポーツファンが集まり、怒号交じりに叫ぶ観戦会の様相を呈していたのを思い出す。

 

 だが一方で、テレビ画面に映った加賀は、沸き上がった会場からの大きな拍手を受けながらも、まるでベテラン歌手のような泰然とした佇まいで緊張などは一切見せなかった。大物芸能人である司会にコメントを求められた加賀は、その冷然とした美貌をそっと崩し、ほのかな微笑すら湛えて受け答えをしていた。応援するためにテレビの前に集まった艦娘達のほうが、よっぽどハラハラして緊張していたぐらいだ。

 

 番組の中で今の心境をコメントとして求められた加賀は、番組に出演する機会に恵まれたことに感謝を述べ、また、見守ってくれている観客や他の出演者、番組制作に関わる全ての人にも重ねて感謝を述べた。簡潔なコメントだったが、視聴者やスタジオに居る全員に届く真摯さと謙虚さがあり、再び暖かい拍手が起こった。その拍手に応えるように加賀が一度立ち上がり、会場の観客に深々と頭を下げると、また拍手の深味も増した。加賀は、すぐに番組に馴染んだ。凛然とした加賀の立ち居振る舞いと見事な歌声は、他の演者である歌手たちを含め、誰をも魅了していた。

 

 食堂に集まり、その様子をテレビ越し見ていた艦娘達の間に流れた「やっぱり加賀さんて凄いなぁ……」という感想は、畏敬、尊敬の念として共有されたのも間違いなかった。鈴谷を含め、あの場に居た艦娘達は残らず加賀のファンになっていた。だから、また加賀がテレビに出ることが決まっていると知って、鈴谷は素直に嬉しかった。

 

「えぇ。前とは違う歌番組に、少しだけ顔を出させて貰うわ」

 

 口許を薄く緩めた加賀は、鈴谷に頷いて見せる。怜悧な美貌が解け、遠慮がちな親しみを覗かせるような優しい表情だった。同性ながらも鈴谷はドキリとしてしまう。時雨が「頑張ってね、加賀」と、仲間が活躍することの喜びを湛えた声でエールを送る。

 

「こういう依頼が続くってことは、やっぱり『加賀断層』は名曲だって、はっきりわかんだね!(誇らしげ)」

 

 ワザとらしい訳知り顔を浮かべた野獣が、真面目くさって力強い声で言う。微笑みの表情から一瞬で無表情に戻った加賀が、すかさず「『加賀岬』です(半ギレ)」と、言葉を差し込んだ。その一連の様子が、リズムと呼吸の合ったボケとツッコミのようで可笑しく、鈴谷と時雨は小さく笑ってしまう。おかげで、鈴谷の心の中で硬く強張っていた何かが、ゆっくりと解けていくのを感じた。

 

「……まぁ、冗談抜きでお前は凄いゾ(感服)」

 

 不意に、野獣が背筋を伸ばして加賀に向き直った。

 

「お前の歌が名曲である以上に、“お前自身”が求められたってことも、はっきりわかんだね(事実確認)」

 

「貴方が居なければ、私がテレビに出ることなど無かったでしょう」

 

「でも、それをまた見たいと望んだのは視聴者なんだよなぁ……」

 

 余計な力の籠っていない野獣の声には深味があり、加賀に感謝するかのような響きが在った。普段のおちょくった口調とは全く違う。その落差に当惑したのか。加賀は何度か瞬きをしてから、「……そうなのかしらね」と野獣から視線を逸らした。

 

「当たり前だよなぁ?(分かち合う希望)」

 

 再び、野獣が鈴谷と時雨を交互に見た。時雨が頷く。鈴谷も続いて頷いた。加賀が出演していた歌番組での様子を振り返れば、その通りだとも思う。

 

 番組内で多くの人間に囲まれて注目される中で加賀は、温和で友好的な態度を崩さず、知性と道徳、常識、強固な理性を兼ね備えた“人間”として存在していた。あれが人間や社会に対する加賀の打算や忖度から来る演技ではなく、加賀という“個”の人間性から来るものであることを視聴者や他の出演者が察したからこそ、別のテレビ番組からも依頼が来たのは間違いない。テレビに映った加賀の姿は世間にとって、深海棲艦と戦ってくれた感謝と共に、人間社会に受け容れて共存を目指すべき存在であり、人々が求めている完璧な“艦娘”の姿だった筈だ。

 

「世相自体を相手どって、そのクソデカ感情を揺さぶる主役はさぁ、やっぱりお前等なんだよね。それ一番言われてるから(父の顔)」

 

 そう言って唇を歪める野獣を、加賀は静かに見下ろした。

 

「私達には海とはまた別の戦場が在ると、そう言いたいのね」

 

「おっ、そうだな(便乗)」

 

「……随分と、分の悪い戦場ですね」

 

 余裕のある野獣の声音に比べて、加賀の声が僅かに強張るのが分かった。

 

「私は貴方の指揮下にある以上、任務だと言われれば、歌番組でも何でも誠意をもって参加するわ。でも、それは……、最終的に無意味では無いのかしら。“艦娘の深海棲艦化現象”が表沙汰になれば、社会は私達を危険視するでしょう。それに……」

 

 そこで言葉を切った加賀は、野獣から眼を逸らし、俯いた。秘書艦用の執務机に座っていた鈴谷は、加賀が拳を握っているのが分かった。「瑞鶴も似たようなことを言ってたなぁ……(分析)」と、野獣は何かを思い出す顔で呟くのが聞こえた。時雨が野獣に声を掛けようとする気配が在ったが、それよりも先に加賀は顔を上げて、真剣な眼つきで野獣を睨んだ。

 

「私達が精力的に活動すればするほど、過激派の提督達から貴方は疎まれ、より敵を作ることになる。貴方を狙う人間達は、世間の顔色を窺うこともない。そういう人間達は必要な理屈を捏造して、卑劣で無遠慮に襲って来る。私達がどれだけ世間との距離を縮めても、……その活動では貴方を守ることが出来ない」

 

 野獣を見下ろす加賀の低い声は冷静ながらも、深く切実な響きが在った。澄んだ風が吹いて来て、ゆっくりと瞬きをした加賀の髪を揺らす。

 

「そろそろ貴方も彼も、終戦後の艦娘達のことよりも、自身のことを考えるべきだと思うわ」

 

 小指で耳を掻いた野獣は、鼻から息を出して口許を緩めた。加賀が野獣の心配をしていることを察しているのは間違いないが、それを茶化すこともないし、俺のことなんて心配すんなよと笑い飛ばすでもない。「まぁ、多少はね?(一理あるという顔)」という、落ち着いた佇まいで加賀を見上げている。

 

「……実は俺さぁ、この戦争が終わったら、やりたいことが幾つかあるんだよね?(告白)」

 

 急に何を言い出すのかと思い、鈴谷は顔を上げる。口許を緩めた野獣は、椅子に凭れ掛かって手を頭の後ろで組んだ。未来に思いを馳せる眼で天井を仰いでいる。

 

「それは何ですか?」 

 

 加賀が静かに野獣を見詰めた。こういう話題に野獣が自分から触れるのは初めてのことだったから、加賀も興味を惹かれたのかもしれない。鈴谷と時雨も、野獣を注視する。三人分の視線を受け止める野獣は息を大きく吸い、答えるのを勿体ぶるようにたっぷりと間を作ってから、「ラーメン屋の屋台ですねぇ(夢語り先輩)」と不敵に笑って見せた。

 

「……ラーメン屋?」

 

 素朴な堅実さと現実味のある野獣の答えを意外に思ったのか、ちょっと驚いた顔になった加賀が、何度か瞬きをして聞き返す。

 

「そうだよ(鷹揚とした頷き)」

 

 身を起こした野獣はタブレットを手に取り、手早く操作した。

 

「実はさ、もう店の名前も決めてあるんだよね(乾坤一擲)」

 

 野獣は言いながら、まるで新しい元号でも発表するかのように、厳かな空気さえ醸し出しながらタブレットを顔の横に持って行った。ディスプレイには店名であろう“猥々亭”の文字が、達筆な墨文字でデカデカと表示されている。“わいわいてい”と読めばいいのだろうか。加賀の顔が歪んだ。「えぇ……」と、鈴谷も困惑する。何処か誇らしげな表情の野獣は、タブレットを構えた姿勢のままで、時雨にもディスプレイがよく見える様にゆっくりと身体を向けた。急に来た下ネタに失笑したのか、時雨が「ぅふっ」と息を漏らして俯きがちに目を逸らす。一仕事終えたような顔になった野獣が、鈴谷の方を見た。

 

「どうだよ?(自信満々)」

 

「どうもこうも無いよ……。清潔感の欠片も無いじゃん……。飲食系にあるまじき店名でしょ……」

 

 鈴谷は辟易しながら、タブレットと野獣を見比べる。

 

「じゃあ、これ(変更案)」

 

 野獣が持っていたタブレットを軽く操作すると、表示されていた店名が“猥々軒”に変わった。鈴谷は思わず、「あのさぁ……」と半目になってしまう。

 

「肝心な部分がそのまんまなんだけど」

 

「じゃあこれ(メガシンカ)」

 

 タブレットに表示される“猥々軒”が“卑猥軒”に変わった。加賀が鬱陶しそうに息を吐き出した。下ネタがツボったのか、時雨は俯いて肩を震わせている。「開き直るのはNG」と言いながら、半目の鈴谷は溜息を飲み込んだ。

 

「何かイカガワシイお店みたいになってんじゃん……。って言うか、なんでそんな店名にする必要があるの?(正論)」

 

「だってホラ、何て言うか、こう、ただ者じゃないって感じをアピールできるだろ?」

 

「しなくていいよ、そんなアピール……(良心)」

 

「じゃあ何をアピールすれば良いのだよ?(半ギレ)」

 

「いやいや、一杯あると思うんだけどな……。こだわりの材料とか調理法とか、美味しさとか」

 

「それじゃ何か足んねぇよなぁ?(難癖)」

 

「“猥々亭”とかいう店名じゃ、足りてるとか足りてないとかいう問題じゃないでしょ。警戒してお客さん寄って来ないよ」

 

 鈴谷は疲れ気味にツッコミながらも、薄々気付いていた。どこまで本気なのか分からない野獣の馬鹿な振る舞いは、加賀の発言が齎した深刻な空気をかき混ぜて中和するためのもだ。当然、加賀も気付いている筈だ。だから黙って野獣と鈴谷の遣り取りを聞いているのだろう。

 

「まぁ、ラーメン屋の店名は置いといてだな(タイムベンダー先輩)」

 

 タブレットに表示されている画面を切り替えて執務机の上に置いた野獣は、不意にお茶らけた空気を消して加賀を見上げた。

 

「戦争が終わってからやりたい事のもう一つが、これだゾ(本題)」

 

「……何ですか、これは」

 

 加賀は執務机に近づき、タブレットを覗き込む。鈴谷と時雨も席を立ち、野獣の横からディスプレイを覗き込んだ。タブレットには日本地図が表示されている。その地図の各地域の沿岸部には緑色に塗られている部分が多数あり、山間部には青色でマークを付けられている部分もあった。地図の横にはマークされた各地の地方自治体や、農業、漁業などの組合、それに民間企業の名前もずらっと並んでいる。

 

「簡単に言えば、終戦後の艦娘達には、一次産業を支えて貰おうって話だゾ」

 

 野獣はタブレットを操作して、マークされている沿岸地域や山間部の労働人口を表示させた。

 

「深海棲艦が現れてから人口減少も加速しつつあったからね。労働人口の減少にも影響するし、働き手が足りてない地域が出てきてるのはお前らも知ってるダルルォ?」

 

「うん。一応はね」 時雨が頷く。

 

 言いながら、野獣はタブレットに映る地図を拡大し、深海棲艦が出現する前と後での人口の推移と、それに伴う一次産業の規模をグラフで表示した。激戦期を抜け、深海棲艦と戦いながらもシーレーンを確保出来てからは各産業分野の景気も回復しつつあるが、水産・海上運輸に関わる労働者離れの深刻化は依然として続いていた。そういった現場には艦娘達が護衛として派遣されるものの、深海棲艦と遭遇する恐怖を考えれば当然のことだった。

 

「水産業なんかは人が離れていくのは無理無いけど、山間部でも耕作放棄地とか獣害、竹害なんて問題が広がって無いか?(確認)」

 

 鈴谷は地図を覗き込む。それぞれにマークされた沿岸、山間地域ごとに、自治体や地域復興に取り組む企業などが表示されている。加賀はタブレットと野獣を交互に見て、「……なるほど」と、小さく呟いた。

 

「そういった自然を相手にする場所でなら私達も、純粋な労働力として、社会的な居場所を確保しやすいかもしれませんね」

 

「そういう身も蓋もない言い方はやめてくれよな~、頼むよ~(苦笑)此処に表示されてる自治体、民間団体なんかとは、マジでちょっとずつだけど、話を進めてるトコなんだよね(差し込む光明)」

 

「……結局はそれも、本営の『艦娘を大事にしている』というポーズの一環なのでは?」

 

 冷めた顔つきの加賀が言う。鈴谷も加賀と同じことを思った。

 

「おっ、そうだな! でも、本営がそういうポーズを世間に見せたいってんなら、俺達もそれをに乗っかって、大っぴらに動けるからね?(不敵な笑み)」

 

 そう答えた野獣は、タブレットを操作しつつ鼻を鳴らす。

 

「艦娘たちとの共存を強く訴える民間団体ってのは、終戦が近づいてるムードの中で増えつつあるからね。団体の規模としては大小あるけど、やっぱりメディアとか世相への影響力ってのを考えると、本営も放っとけないんでしょ?」

 

 表示されている地図をトントンと右手の人差し指で叩いた。

 

「でも、凄い数だけど、……これ全部と?」 

 

 そう言いながら鈴谷は、野獣とディスプレイを見比べる。マークされている地域は全国規模だし、そこに関わる地元企業や自治団体の数を見れば10とか20とかじゃない。もっとある。数えきれない。だが、野獣は「そうだよ(チャ)」と、こともなげに頷いて見せた。そこで何かに気付いたかのように、時雨がそっと息を吐き出すのが分かった。

 

「……野獣の先輩や後輩の人が、手を回してくれているんだね」

 

「そうだよ(先輩譲り)」

 

 時雨の方へ首をねじった野獣は、肩を竦めながら言う。

 

「本営の意向に逆らう訳じゃないから、先輩と後輩もさぁ、自分のコネを最大限利用できて、うん、美味しい!(環境利用戦法)。本営上層部特有のクソデカ人脈っていうのは、社会の裏だけじゃなくて、ちゃんと表にも伸びてるってハッキリわかんだね(希望)」

 

「そっか、その先輩と後輩の人達が、そういう艦娘に友好的な団体と繋がりあったら……」

 

 鈴谷はタブレットを見詰める。野獣が頷いた。

 

「お偉いさんはお偉いさん同士で繋がってるし、その中にはさぁ、これからの国策に関わる政府の人間だっているからね。先輩と後輩の話じゃ、地方の自治体だけじゃくて、艦娘擁護派の政治家とかにも話を繋いであるみたいで、たまげたなぁ……(感嘆)」

 

「人々の感情に訴えるだけではなく、国策にかかわる人物も味方につけようと言うわけね」

 

 視線を落とした思案顔の加賀は、自分の唇に触れながら呟いてから、「……でも、まだ戦争は終わっていないわ」と、すぐに野獣を射抜く様な視線を向けた。

 

「だからこそ、だルルォ?(早期警戒) 艦娘の活躍をクッソ恩着せがましくアピールするタイミングはよぉ、終戦が近づいてるムードで世間が安堵してる今が一番!! ラブ安堵ピース!!(激うまギャグ)」

 

「は?」 加賀が眉間に皺を彫り込んだ。

 

 野獣は肩を竦める。

 

「まぁ、まだ具体的な取り決めをしてるわけじゃないけど、終戦後の艦娘に対する政策とかについて、ネットとか街頭とかでアンケートを配って、世間からの意見を吸い上げていこうって感じっすねぇ……(フェードアウト)」

 

「ねぇ野獣……。何か本格的な規模で動いてるみたいだけど、そんな事してたらさ、また過激派の提督とか本営に目を付けられたりしない? 大丈夫?」

 

 鈴谷は不安になって、思わず野獣に訪ねてしまう。心細い声が出てしまった。時雨が野獣を見詰めている。野獣が「ヘーキへーキ!(無問題)」と、力強く頷いた。

 

「今は先輩と後輩が主体となって動いてくれてるから、俺みたいな木っ端提督は目立ってないから安心しろって、も^~! さっきも言ったけど、二人とも本営のお偉いさんだし、余計な手出しをしてくる連中なんてそうそう無いゾ。そもそも本営が終戦後の艦娘を受け容れるポーズを取ってるんだから、誰もコソコソする必要も無くていいゾ^~これ(ご満悦)」

 

 鈴谷と時雨の心配そうな表情を濯ぐためか、野獣は明るく暢気な声音で言う。確かに、野獣の先輩と後輩が本営上層部の人間であるなら、彼らを邪魔に思う人間が出て来たとしても、そういった人間への対処法を持っていることは窺える。それに、敵意を向けてくる人間を上回る数の味方や協力者がいるのだろうということも、野獣が深い信頼を寄せる様子からも察することが出来る。本営の狡猾さを逆手に取るなんて大胆なことをする以上、周到な準備をしている筈だとも思った。ただ、そんな一先ずの安堵を鈴谷が味わうよりも先に、加賀が緩く、しかし重い息を吐いた。

 

「艦娘達に対する貴方の清廉な情熱には、頭が下がる思いです。勿論、感謝もしています。……でも。私達の深海棲艦化という事実が、それで消える訳では無いわ」

 

 加賀の声は低く、それでいて平板だった。声音に乗ろうとする感情を意識的に潰しているかのような響きさえ含んでいた。その冷酷な無機質さは、野獣や人々の善意は全て、その事実の前では無力であるのだと言外に主張していた。鈴谷は、加賀に反論しようとしたが、視線が彷徨うだけで言葉が出てこなかった。

 

「僕も、そう思うな」

 

 加賀に続いた時雨も、悲し気な顔で俯いている。それは明確に、野獣が抱いている志への疑問だった。鈴谷にとっても避けては通れない感情と思考だった。雲のせいか、執務室に差し込む陽の光が翳った。唾を飲みこんだ鈴谷は、ゆっくりと野獣を見た。野獣は、「そりゃそうだよな」とでも言うような、落ち着いた表情のままだった。動揺の色は無い。

 

「ま、そう結論を焦んないでよ?(滲む決意)」

 

 自然体の野獣は再びタブレットを操作して、幾つかの動画ファイルを再生した。

 

 動画ウィンドウに映し出されたのは、寂れた雰囲気が漂う港町の埠頭だった。漁師らしき何人かの男性が、こちらを見ている。その男性たちの顔に、鈴谷は見覚えがあった。「あっ」と声を上げた時雨や、一瞬だけ息を詰まらせた加賀も同じだろう。以前、“鎮守府さんま祭り”で、応援として鎮守府に手伝いに来てくれた漁師達だった。皆、笑っている。

 

 “久しぶりだな。いや、さんま祭りの時の礼がしたいって奴が多くてよ”

 

 漁師のうちの一人がカメラに向かって言うと、周りの漁師が笑い合った。

 

 “艦娘の嬢ちゃん達には、漁の時はいつも護衛して貰って世話になってるからな。皆、本当に感謝してるよ”

 

 “どこの国の漁師も、お嬢ちゃん達に足を向けて寝ねる日は来ねぇだろうな”

 

 漁師の一人がそう言うと、束の間の沈黙が降りた。夕暮れの港町を、波音が包んでいる。漁師たちは互いに顔を見合わせ、どうやって本題を切り出そうかと悩んでいる気配が在った。鈴谷も時雨も、そして加賀も、画面を見詰める。漁師の一人が大きく息を吸い込むのが分かった。彼はカメラを見ていない。俯いたまま、口を開いた。

 

 “……でも、嬢ちゃん達にどんなに感謝はしてても、どうしても人は減っていくな。この町でも、残ってる漁師は少ねぇ。もうちょっと年の行った爺さん連中も居るが、新しい働き手なんざ、とんとつかねぇ。”

 

 “まぁ、しょうがねぇ。獲れる魚の値は釣り上がる一方だけどよ、艦娘の嬢ちゃんに船を護ってもらうにも金が要るからな。ちょっと前も、なんたら省の下っ端官僚が視察に来てた。結局、俺達の収入はお上にハネられて、ちっとも増えねぇ。暮らしが良くなる見込みがねぇなんて、若い奴等だってよく分かってるんだろう。まぁそれはこの港町に限ったことじゃねぇんだろうけどな。”

 

 “今も、艦娘の嬢ちゃん達が沖に出てこの町を護ってくれちゃいるがな、やっぱり海の近くに住むってのは怖ぇんだよな。深海棲艦はおっかないからな。無理もねぇ。誰も責めらねぇんだよな。しょうがねぇことだが、このままじゃ、俺達の住んでるちっちぇ町なんざお終いかもしれねぇって思ってた。でも、この戦争が終わって、お嬢ちゃんたちが漁業に参加してくれるかもしれないって話を聞いて、ちょっと希望を持てたよ”

 

 “小さな港町だが、ここにも役場はある。そこに軍部の人間が何人か来てたんだ。なんか、アンケート用紙を持って来ててよ。終戦後のお嬢ちゃん達が、農業とか漁業とかに参加することについて、現場の意見を簡単に書いて欲しいって言ってたんだよ。アナログだよなって笑ったんだが、まぁ、こんな田舎町じゃ、ネット環境が殆ど整ってねぇってのもあるんだろう。……えぇっと、何処まで話したかな”

 

 “アンケートまでだろ。しっかりしろよ。……まぁ、嬢ちゃん達がこの町に来てくれるなんて事が、実際に決定したじゃねぇって事は分かってる。それでも、俺達は嬉しかったぜ。そういう未来の可能性があるんだって、ちょっと前向きな気持ちになれた”

 

 “最近の漁師の間じゃ、『艦娘が深海棲艦になる』なんて噂話も聞くし、艦娘そっくりの深海棲艦を見たって言うヤツも居るな。その真偽については、俺達は何も言えねぇけどよ。もしもだ。もしもの話として聞いてくれよ? 万が一だ。艦娘の嬢ちゃん達が、いつか深海棲艦になっちまうんだとしたら……、俺達はそれを受け容れなきゃいけねぇんだろうな。一緒に生きていく方法を、俺たち人間が真剣に考えるしかねぇ”

 

 “艦娘の嬢ちゃん達に見捨てられたら、俺達人間はお終いさ。俺達は海の傍で生きてるからな。分かるんだ。深海棲艦に、人間は絶対に勝てない。俺達は、艦娘を必要としてる。戦争が終わったからって、嬢ちゃん達を使い捨てるような真似をしたら、それこそ人間はお終いだ。人間として生きていく資格を失っちまう。”

 

 “変な話だがよ、嬢ちゃん達が深海棲艦になって俺達を襲ったとしても、それはもう、どうしようもねぇよ。そうなったらよ、当然だけど、艦娘の嬢ちゃん達を殺したいほどに恨むだろうけどよ。仕方ねぇとは言えねぇけど、……まぁ、それこそが仕方ねぇんだろうな。俺の倅も女房も深海棲艦に殺されたけどよ、今まで嬢ちゃん達が、人間の為に命を張って来てくれたことも事実なんだよな。戦争が終わって、嬢ちゃん達が俺達を助けてくれるんなら、こんな辺鄙でちっぽけな港町も残せるんじゃねぇかと思う。でも、今の時代じゃ、それは俺達の我が儘なのかもしれねぇ。”

 

 “お嬢ちゃん達が俺達の世界に入ってきてくれるってんなら、これに勝る喜びはねぇが、今も海の上で命を張ってる嬢ちゃん達に、戦争が終わってまで、人間の何かを背負って貰おうなんざ筋違いだろうしな。さっきも言ったが、こんな時代だ。誰も責めらねぇんだよな。しょうがねぇことだ。俺達も分かってる。だからよ、せめて俺達は、嬢ちゃん達の味方でいようって、そう決めてる。それがどうしたって言われたら、それまでだけどな”

 

 “暗い話ばっかで申し訳ねぇなぁ……、あっ!ああ、そうだ! そう! テレビ見たよ! バラエティ番組に出てた、扶桑ちゃんとか、山城ちゃんとか、あれ、“秋刀魚祭りの鎮守府”に居るお嬢ちゃん達なんだろ? ワサビ入りのシュークリームを喰うヤツで、腹を抱えて笑ったよ! 美人の陸奥ちゃんが半泣きになって、大鳳ちゃんが客席に転げ落ちて……、いやぁ、あんなに笑ったのは久ぶりだったな! ああ、そうそう! 前に歌番組にも出てたよな! 加賀岬! いい歌だし、加賀っていう艦娘もな、どえらい別嬪で見惚れたし、聞き惚れた! 全部録画して、俺達もしょっちゅう見てるんだ! あぁ、駄目だ、何を言いてぇのかわかんなくなってきたな!”

 

 “さんま祭りの礼だったろ! まったく、言いたい事が一杯あって、話がとっ散らかっていけねぇな”

 

 “ああ、そうだったそうだった!”

 

 漁師達の声音に、まるで言葉そのものをカメラに押し込もうとするかのような力強さを感じた。タブレットに立ち上がったウィンドウの向こうでは、漁師達の男達がカメラに向かい、言いたい事を口々に言いながら、嫌味の無い笑みを浮かべて此方に手を振っている。彼らの背後にある町並みには、夕暮れの薄い橙色が滲んでいた。暗闇の中に沈んで行こうとしている。

 

 そんな中でも漁師の男達は揺るがず、生活の中に根付いた諦念を背負いながらも下を向かず、力強く、此方に手を振ってくれている。彼らは、自分達の暮らしがいつか潰えることを受け容れて、その悲壮な覚悟を携えて笑っている。鈴谷は、この画面に映る港町と漁師達に、野獣の姿が重なって見えた。この薄いタブレットによって繋がった景色に、奇妙な既視感と、やりきれない親近感を覚える。目線だけを動かして加賀を見た。加賀は押し黙り、タブレットを見詰めている。時雨もだ。

 

 「俺の後輩の、その部下が現地の漁師達と話をした時に、ちょうど此処の鎮守府のことが話題になったらしいッスよ(縁結び先輩) 戦後、艦娘達が漁業とかに参加する事について意見を聞いたりしてるうちに、話の流れで、こういうビデオメッセージを取って欲しいって頼まれたらしくてぇ……(フェードアウト)」

 

 野獣が言うには、さんま祭りの時は鎮守府の全員が忙しかったし、祭りの途中で任務に出て行った艦娘も居たため、応援に来てくれた漁師達が、ちゃんと艦娘全員に挨拶が出来なかったということで、改めて礼を伝えたいという旨でこの動画を録ったのだと言う。動画を見ている野獣は、息をゆっくりと吐き出して口許を緩めていた。

 

「お前らが来てくれることを、こんな風に心待ちにしてくれてる人が要るのも確かだからね☆ やっぱり、影が在るってことは、どこかに光が在るってことなんスねぇ……(しみじみ)」

 

 ワザとらしい感嘆の声音を作った野獣が、顎を撫でながら訳知り顔で呟く。そんな芝居がかった仕種にも、気障ったらしい嫌味は全くなかった。冗談めかした言葉の中には、この世界の寛容さや慈悲深さを測り、確かめ、そこに自分の人生と願いを託そうとする決断が垣間見える。もう何を言っても、この野獣と言う男は変わらないだろうと思った。

 

「さっきもお前が言ってたけど、確かに“艦娘の深海棲艦化”については、どうしよう無いゾ……。でも、そういう事実を知って尚、お前等と共存しなきゃ(使命感)って、そういう風に考えてくれるように、何とか世の中に訴えるしかないんだよね(正道を征く)」

 

 

 穏やかな表情の野獣は、言い訳がましく正論を振りかざすのでもなく、綺麗言で現状を包んで誤魔化すのでもない。着地点を見極め、そこに降りるために手を尽くそうとしている。意識の射程を遥か遠くに置いて、淡々と自分に出来ることを積み重ねている。"黒幕"達と戦うことを諦めていない。

 

 鈴谷は、“主役は艦娘である”という、先程の野獣の言葉を思い出す。その艦娘達には見えないところで、これからも野獣は暗躍し続けるに違いない。艦娘達の絶望や悲観に寄り添いながらも、その連鎖を断ち切る為に、無反省で無茶苦茶な振る舞いを続けていく。今までの“日常”が立体的に思い出され、その背後には、野獣と少年提督が共有する孤独な戦いの日々が見え隠れしている。

 

「……本当に、分の悪い勝負ですね」

 

 息を細く吐いてから、加賀はそう呟いた。呆れとも諦観ともつかない笑顔を浮かべている。初めて見る種類の加賀の微笑だった。しんみりとした空気が流れそうになったところで、野獣が椅子から立ち上がり、「ぬわぁぁん!! そう言えば、お腹空いたもぉぉぉん!!(想起)」伸びをした。それが合図だったかのように、雲に隠れていた陽が顔を出し、白い光がまた執務室に飛び込んでくる。今までの翳りが薄れて、窓からは暖かな空気が流れ込んだ。

 

「もう昼飯時だし、難しい話は終わりッ、閉廷!」

 

 深刻な雰囲気を軽々と吹き飛ばした野獣は腕時計を一瞥して、鈴谷達の顔を順番に見回した。

 

「良い時間になったし、そろそろ食堂に行きますか~? Oh^~?」

 

 言いながらも野獣は、その足元に陽光を引き連れ、扉に向って歩き始めている。工事の音が、遠くから聞こえていた。重機の音が重なって実在的に響き、“日常”と地続きにある悲劇を思い出させる。それでも、今のこの瞬間は、掛け替えのない時間に違いなかった。何かを取り戻すように、鈴谷はぐっと体に力を込める。

 

「そうだね。あー、お腹空いた!」

 

 憂鬱な空気を脱ぎ捨てるように言いながら、鈴谷も椅子から立ちあがり、野獣の後に続く。すっと息を吐いて、晴れやかな表情になった時雨もだ。加賀は動かず、動画の再生が終わったタブレットを見詰めている。扉の前で、野獣が振り返る。

 

「おい加賀ァ! お前も昼飯はまだダルルォ!? 一緒に来いホイ! 昼からは赤城とも合流するんだからさ!(改ニ施術に向けて)」

 

 野獣が呼びかけると、加賀は一つ息を吐いてから、野獣に向き直った。

 

「……えぇ。ご一緒させて貰います」

 

「よし!(適当) それじゃ昼からは、次のテレビ出演用に、お前の衣装も作ってやるか、しょうがねぇなぁ~(悟空)」

 

 いつものクールビューティーに戻った加賀に、野獣は恩着せがましく言う。「やっぱり、“加賀トンネル”っていう曲名に似合う衣装って言ったら……」と、真剣味を帯びた言葉を続ける野獣に、先程と同じく加賀は、「加賀岬です」と訂正を入れつつも舌打ちを混ぜた。時雨が小さく笑う。鈴谷も半目で野獣を睨もうとしたが、口許が緩んだ。

 

 

 

 

 

 







最後まで読んで下さり感謝本当にありがとうございます!

誤字報告や暖かな感想、身に余る評価なども頂き、本当に恐縮です、
内容や描写に不自然な点があれば、また御指摘頂ければ幸いです。
不定期更新で誤字も多く、ご迷惑をおかけしてばかりで申し訳ありません……。


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