花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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沈む者、昇る者

 

 

 

 

 

 

 

 起き上がった少年提督は、とにかく違和感の塊だった。まるで周囲の時間や法則を解体しながら、無理矢理にこの場に存在を割り込ませているかのような――、彼を中心にしてこの世界に亀裂が入り、その割れ目から、人智の及ばない“何か”が顔を覗かせているような――、そんな悪寒と恐怖が、霞の体を幾重にも包んでいた。霞は身動きが出来ないが、今の彼から視線を逸らせない。彼は、澱み濁った乳白色をした微光と、煤けて掠れたような墨色の燐光を羅のように纏い、禍々しい紋様を描く光背を纏っていた。彼は微かに宙に浮いている。爪先が床から離れている。彼と対峙する日向が息を呑むのが分かった。暗がり執務室は凶悪な静寂に塗り潰されていて、冷たい空気が重くうねっている。それは、生きる者を深い海の底へと誘う、巨大な潮流を思わせた。

 

 霞は、自分と言う存在がこの景色の中で、余りにも小さなものに思えた。息が苦しい。それは肉体を拘束してくる術式の効果の所為だけでは無い。彼の表情は穏やかでありながら、僅かな笑みを口許に湛えている。だが、その微笑みと呼びうる表情は、普段の彼が見せる優しいものではない。圧倒的な存在が、矮弱な他者を哀れみ、慈しむ為の、ある種の隔絶を意味する微笑みだった。それが、途轍もなく恐ろしい。霞の知っている少年提督は今、霞たちが居る世界の“層”とでもいうべき何かから、完全に逸脱しているのを感じた。

 

『何が在った?』『応答しろ』『起爆準備は出来てある』『指示を』『何か問題が?』『指示を』『少年提督は始末した筈だ』『野獣を確保しろ』『日向の指示が無い場合、此方から合図を出す』『艦娘達を見張れ』

 

 ソファテーブルの上に置かれた日向の携帯端末からは、複数の声が漏れている。だが、日向はそれに応えられていない。そんな余裕など、少年提督と対峙している今の日向には無いに違いなかった。

 

「キミは、……何者なんだ?」

 

 頬に汗を伝わせた日向は鋭く眼を細めて、少年提督へと訊く。正確には、少年提督の内側に侵入した“何か”へと。軍刀と銃を持つ日向の手は、微かに震えていた。それを見た彼が、悲しみに暮れる泣き顔にも、優しくて穏やかな微笑みにも見える表情を湛えたままで、緩やかに首を傾ける。奇妙な事だが、動けないままの霞には、彼の表情の印象が、揺れる波のように刻々と変化して見えた。

 

「『“お前たちが“海”と呼ぶ概念の、その中に住まう者の一部だ”』」

 

 彼の声は、幾人もの人間の声を縫い合わせて一人にしたように歪であり、重複した響きが含まれていた。ぶれて重なった彼の声は、執務室に不気味に残響する。底知れないその響きは、執務室の暗がりを震わせる。ぐぶがぼぐぶごぼ。くぐもった泡の音が、四方から聞こえる。臨戦態勢を取っていた日向がすっと重心を落とす。

 

「ふん。化仏みたいなものか……、此処に何の用だ?」

 

 日向の声は冷静を装っているが、硬直していた。今の少年提督の存在感に飲み込まれそうなのを、必死に堪えているのが分かった。霞は日向を見る。強張った日向の頬を、一筋の汗が伝っていた。少年提督の内側に居る者は、その日向の様子を見て、「『“そう身構えなくてもいい”』」と、気の毒そうに緩く首を振って見せた。

 

「『“私は、お前たちと争うつもりは無い。私は、この少年を迎えに来たのだ”』」

 

「なに……?」 訝しむようにして、日向が更に眼を細めた。

 

「『“お前達は、この少年を殺し、棄却した。この世界が、この少年を放逐し、廃棄した。だから、それを回収しに来たのだ。この世から弾かれ、何処にも行き場の無い、この少年の肉体と精神を“海”へと持ち帰る為に。この少年の魂を、我々の領域に招く為に”』」

 

 彼の内側に居る者は、複数の声が重なり合った声で言う。ソファの上から動けないままで、霞は眼を見開いて少年提督を凝視する。背筋に戦慄が走り、呼吸が大きく震えた。“海”が、彼を迎えに来たという事か。言葉にすれば、それは荒唐無稽でバカバカしいものだ。だが、この眼の前に居る少年提督と、その内側に居る者の存在を無視することは出来ない。とんでもない状況の中に、霞は入ってしまっている。日向が少年提督を睨む。

 

「それは困る。私は、その少年を殺すように“命令”されている。私は自身の存在理由を証明する為に、その使命を果たさねばならない」

 

 銃と軍刀を構えた日向が、更に重心を落としつつ、半歩前に出ながら言う。

 

「仕方ない。もう一度、死んで貰おう」

 

 日向は、もう怯んではいなかった。いつもでも飛び出せる姿勢だ。霞は、先程の日向の言葉を思う。“私達は、道具であり、兵器だ”。日向は己が己である為に、この超常の現象を前に、毅然と対立していた。恐れを見せず、ただ自分の役割の中に在ろうとしている。自身の信念を貫徹しようとするその純粋さは、艦娘という存在の“道具・兵器”としての側面を体現しているように見える。だが、少年提督はその日向の姿を見て、憐れむような微笑みを浮かべた。

 

「『“我思う、故に、我在り。お前が実践するその思考は、確かに真理だ。お前は自らを道具であり、兵器であると信じ、そう在ろうとしている”』」

 

 少年提督の柔らかみのある声は、深く濃い濁りと重複を含んでいてる。日向は冷たい眼で少年提督を睨み続けながら、彼我の間合いを測っている。

 

「『“だが“己が望む己であろうとする”お前の執着は、お前の意識の中に、お前自身への善悪や正誤の識別作用を生む。本来、道具や兵器などと言うものは、お前の精神内部で発生するような、あらゆる要求から解き放たれているものだ。願いを持たず、願いを捨てず、善も無く、悪も無い。欲望と感情を持とうとしないのではなく、そして捨て去るのでも無い”』」

 

 彼の泣き顔にも見える笑みは、小さな子供をあやすような、角の無い柔らかい表情だった。だからこそ、ゾッとする程に冷然としていた。日向が何かを言い返そうとして、何も言わず、頬を強張らせて唇を噛んだのが分かった。彼の言葉の隙間を、厳然として聳える静寂が埋める。少年提督の存在が、この空間を飲み込んでいく。

 

「『“お前も、心の底では分かっている筈だ。お前が、お前自身に何かを要求するその時、お前は道具でも、兵器でもなくなっている事を。お前は、感情を捨てきれない。木偶にはなれない。お前が、“望む己で在ろう”とするからだ。その欲望を制止できないお前は――”』」

 

 重複して響く少年提督の声は、耳というよりも頭の中に、意識の中に沁み込んでくる。

 

「『“そうだ……、お前は、人間と同じだ”』」

 

 その言葉は、この日向という存在を構成する何処までを否定するのだろうか。いや、少年提督の泰然とした様子を見れば、もしかしたら、そういった意図を全く含んでいないのかもしれない。ただ、日向が抱いている艦娘としての矜持に、ゆっくりと海水が侵入していくように、影と重みを齎しているのは、眼を細めている日向の表情を見るに間違いなさそうだった。

 

「言いたい事は、それだけか」

 

 日向の声が低く、鋭く尖った。

 

「『“いや、まだ在る”』」

 

 少年提督は変わらず、幼い子供をあやすような笑みを浮かべたままだ。

 

「『“お前がどれだけ願っても、お前は純然たる道具になれない。願えば願う程、それは遠ざかる”』」

 

 不気味な揺らぎを湛えた少年提督の声が、日向を飲み込もうとしているのを感じた。

 

「『“お前が欲する心の境地とは、常在する精神の解体によって至るものだ。我執を捨てられないお前は、永遠に、道具でも兵器でも無い”』」

 

 執務室の暗がりが、日向を蝕むように迫っていくように見えた。

 

「『“お前は、何の為に此処に居る?”』」

 

「黙れよ。その問答は、もう済んだ筈だ」 

 

 日向が動いた。この短い間合いで大型拳銃を撃つ。明るく濁った閃光が、立て続けに5度、執務室を染める。だが、放たれた5発の弾丸は、今度は少年提督には届いていなかった。日向が舌打ちをする。霞は瞬きも忘れて、その光景を見ていた。日向と少年提督の間にある空中で、弾丸が静止している。まるで透明の壁に埋まったように。

 

「『“無駄だ”』」

 

 少年提督がゆったりと言う。彼の纏う白く澱んだ微光が、墨色の燐光が、中空に停滞した5つの弾丸を緩やかに解いていく。それは数秒の出来事だった。弾丸は淡い光の粒子になってから、空中で十匹ほどの金属の蝶へと作り変えられて、執務室をヒラヒラと舞った。新たな生命という造形が、質量保存の法則を超えて銃弾へと無造作に与えられていた。蝶たちの暗紅と紺碧の羽が、窓から差す澄んだ月光を受けて煌めき、暗がりの中に瞬く。

 

 この非常識的な光景は、今の少年提督に対して、艦娘として艤装を召還し、その火力を以て対抗する事の無意味さを雄弁に語っているのだと、チラつく蝶達の煌めきを見ながら、ぼんやりと霞は思った。その蝶達を掻き分けるように、「シッ……!!」と、鋭く息を吐いた日向が前に出る。この間合いでは、艤装を召還しての砲撃も無駄だと悟ったに違いない。

 

 日向は、銃を捨てて軍刀を構えて突進していた。とんでもない踏み込みの鋭さだった。日向の脚力で床が砕ける音が響く。抜錨状態になった日向は一切の躊躇を見せない。少年提督の頭頂部目掛けて、両手で握りこんだ軍刀を真っ直ぐに振り下ろした。それは、暗殺であろうが破壊工作であろうが、“命令”を受けたのならば、それを完遂する為の存在である己を賭けた全身全霊の一撃だった筈だ。

 

「『“私は思う”』」

 

 霞は動けないまま、少年提督と日向を見ている。

 

「『“私を殺そうとするお前の、この懸命さこそが、お前が持つ人間性の証だろう?”』」

 

 月光を反射する蝶達の揺らぎの中で、少年提督は静かな表情をしていた。

 

「『“何度でも言う。お前は、道具などでは無い”』」

 

 振り下ろされたその刀身を、右手の人差し指と中指で、そっと摘まむようにして止めている。「ぬぅううう……!!」と、日向が全身を震わせて、その刀を押しこもうとしているが、ビクともしていない。執務室の暗闇を、その禍々しい光背と共に佇む彼は、気遣わし気に眉尻を下げて日向を見ていた。

 

 一瞬の後。硬く、澄んだ音がした。何かが砕ける音だった。軍刀が折れたという事に霞が気付いた時には、日向は軍刀を捨て、少年提督に躍りかかっていた。あの間合いだ。回避行動は間に合わない。少年提督は逃げられない。日向の手が、宙に浮いている少年提督に触れるそうになった。その瞬間。彼の姿がブレて、横にずれるように動いた。いや、動いたと言うよりも、出現した。映像が歪むような、生物には不可能そうな不自然な移動だった。日向の横合いに動いた彼は、日向の喉首を無造作に右手で掴み上げた。

 

 

「ぐ……ぁ……!」

 

 日向の頸に、彼の指が食い込んでいる。少年提督の体が、また少し浮き上がる。それに合わせて、首を掴まれたままの日向の体も浮き上がった。だが、日向の眼は死んでいなかった。苦悶に表情を歪めた日向は、両手で、喉首を掴んでくる少年提督の右腕を掴んだ。ついでに、首を吊り上げられたままの日向は、彼の腹に、横顔に、側頭部に、蹴りをぶち込んだ。何度も。何度も。しかし、日向の蹴りは届かなった。戦車やダンプ程度なら軽く蹴飛ばすであろう日向の蹴りは、彼の体の数センチ手前で、見えない壁を叩くだけだった。無音だった。何も起こらない。日向の抵抗は、不可視の領域で働く何らかの力によって吸収されている。日向は首を締め上げられ宙に吊られたまま、無力だった。蝶達が音も無く舞っている。

 

「『“無駄だと言った”』」

 

 少年提督が指に力を込めたのが分かった。

 日向の頸の筋肉が軋み、ミシミシと音がする。

 

「がは……ッ!」

 

「『“私を物理的に殺すことなど出来ない”』」

 

 少年提督は日向の頸を片腕で掴み上げ、宙づりにしたままで、気の毒そうに言う。日向の手は、少年提督の右腕を掴んでいる。霞の太腿を握り潰した日向の腕力を以てしても、少年提督の腕を破壊することは出来ていない。彼の肉体が、何らかの理由で強度を増したのか。それとも、日向の力が封じられているのかもしれない。日向は歯を食いしばり、その唇の端から血を零しながら片方の眼を開けて、少年提督を睨んでいる。それに対して少年提督は、やはり物憂げな微笑を浮かべて首を傾けて見せながら、何かを小声で唱えた。それと同時に、日向の額の辺りにコイン程度の大きさの術陣が浮かんだ。

 

「『“お前の過去と未来が、いつか救われん事を”』」

 

 術陣は何度か明滅してから執務室の暗がりに霧散し、それと同時に日向が気を失う。少年提督が日向に対して何らかの術式を展開させたのが分かった。少年提督は日向の喉首から手を放す。日向の体は、力なく床に倒れた。窓から漏れて来る月の光が、日向の頬と髪を儚く、優しく照らしている。

 

 

「『“霞”』」

 

 不意に名を呼ばれる。倒れた日向から視線を上げると、宙に浮いたままの少年提督が此方を見ていた。彼の表情はやはり、泣いている様な、微笑んでいるようにも見える。

 

「『“深海棲艦には深海棲艦の役割が在り、艦娘であるお前には、お前の役割が在る。深海棲艦になろうなどとは考えるな”』」

 

 執務室の中に漂う白濁と墨色の微光が、揺らぎながら霞の周囲を囲んでいる。深海。その言葉が脳裏を過る。彼は、先程の霞の思考を読んだのだろうと思った。宙に佇む彼が、霞に背を向ける。自分の表情を隠すように、遠くを見る眼になって窓の外を見た。彼は、この場から去ろうとしている。霞たちと過ごした時間を置き去りにして、何処かへ行こうとしている。

 

「『“今まで世話になった”』」

 

 動けないままの霞を肩越しに一瞥した彼は、幾重にも折り重なった声で、穏やかに言う。

 

「『“これからは、この少年の事を忘れて生きるといい”』」

 

 彼の声は暖かく優し気ですらあるのに、霞達との別れに、何ら特別な感情を抱いてないかのように空虚に響いた。ただ、その言葉は少年提督のものでは無い。少年提督の内側に居る“何者”かの言葉であるのを感じ、激しい怒りが湧いた。今、霞と少年提督の間に、この“何者”かが無遠慮に立ち塞がっている。少年提督という存在を着込んだ“何者”かが、霞達から少年提督を連れ去ろうとしている。

 

「待ち、な……さ、いよ……」

 

 掠れていたが、ようやく声が出た。同時に霞は、自分の体が僅かに動くのを感じていた。今まで殆ど力が籠らなかった筈の身体に、本当にゆっくりとだったが、感覚が戻って来ている。何らかの術式効果が、今も霞の肉体を拘束しているのは間違いない。だが、確かに身体は動こうとしていた。霞の肉体が、拘束してくる術式効果を跳ね返しつつある。日向には無くて、霞には在る何かが、彼の纏う白濁と墨色の術陣の影響を受けて、霞という存在を艦娘とは別の“何か”にしようとしているのを感じた。霞は少年提督と対峙するようにソファから立ち上がる。日向に破壊された脚が震えた。だが、身体全体に力を籠めていく。少年提督は、立ち上がった霞を見て僅かに眼を細め、振り返った。

 

「もう、一度、……言っ、て、みなさい、……ったら!」

 

 霞は少年提督を、いや、少年提督の中に居る“何者”かを睨み付ける。私の司令官の顔で、司令官の声で、勝手な事を言ってるんじゃないわよ。このクズ。何処にも行かないって、彼は約束してくれたのよ。私は、それをずっと信じて来た。なのに、全然関係ないアンタみたいなのが横からしゃしゃり出て来て、何をいきなり反故にしようとしてるワケ? 殺すわよ。ほんと。

 

 その反射的な感情の爆発は、艦娘の肉体を無力化する術式効果の中であっても、霞を抜錨状態にさせた。霞は自分の体から、碧く暗く澱んだ光が放散されていることに気付く。それが、海で出会う深海棲艦達が纏っている微光と同じ色をしている事にも。深海棲艦化。その現象と状況の中に、自分が入ろうとしている事が分かった。だから何だと思った。上等だ。体が動くなら、何でも良い。少年提督の中から戯けた事を抜かす“何者”かを、此処から追い払う事が出来るなら。少年提督は暗紅の右眼を僅かに細めたままで、泣いている様な、微笑んでいる様な、――人間の真似をしようとしている様な、不自然極まりない表情のままで、霞の様子を冷静に視ている。

 

 霞は思う。

 やはり今の少年提督は、本当の彼では無いのだ。

 だから、今の私を、本当の彼が見たらどう思うんだろう。

 悲しむだろうか。それでも、許してくれるだろうか。

 困ったような笑みを含んだ、あの優しい声で。

 彼の声を聞きたい。彼に会いたい。会いたい。

 思考の隅を過る彼の声と笑顔を、今は、そっと畳置くように息を吐く。

 

 彼を取り返す。

 

 身体の内側に漲ってくる力は熱く、今までない程に熱く、その熱量自体が人格を持ち、霞に同化しようとしているのを感じた。自分が艦娘とは違う何かへと成ろうとして、同時に、何かを踏み外そうとしている感覚だった。霞の中で荒れ狂う憎悪と敵意が、容赦の無い力に変わろうとしている。霞の体に、霞の意思が通い始める。抜錨状態にはなったが、艤装は召還出来なかった。それでも良い。日向によって破壊された太腿の筋肉が、ミシミシと音を立てて血を吹きながら再生していくのが分かる。体が、動く。動く。霞はグッと姿勢を落とす。体の中で、何かが爆発しようとしている。それを抑える必要は、今は無いと思った。

 

「出て、来なさいよ……! 私の、司令官の中から……!」

 

 少年提督の中に居る“何者”かが言っていた。此処が深海だと。

 

「アンタが、“海”だって、……言う、んなら……」

 

 霞は、自分が何処かに沈んで行こうとしているのを思いながら、息を吐く。

 

「司令官の中から引きずり出して……その背骨を、へし折ってやる!」

 

 少年提督を睨みながら、霞は呼吸と声を途切れさせて叫ぶ。そして、飛び出す。獣ように、少年提督へと駆ける。少年提督は動じず、すぅっと左手を翳してくる。その掌に、術陣が発生する。途端に、霞の体は、先程の弾丸のように透明な壁に阻まれる。不可思議な力場が発生して、霞を捕まえる。だが霞は、腕を伸ばして前へ出る。一歩。また一歩と。日向が破れなかった、この非実在の壁を削る。力づくで穴を開けていく。

 

 前へ。前へ。前へ。

 

 自分の瞳から、碧い光が帯を引いているのを感じる。赤い涙が流れているのが分かった。頭が割れそうな程に痛んだ。ミシミシと体中の筋肉が軋んでいる。内臓が捻じれている。それがどうした。歯を食いしばる。金属の蝶が舞っている。暗がりに、澄んだ月光が色を得て点滅している。霞は、彼との距離を詰めようとする。前へ出る。

 

 前へ。前へ。前へ。

 返せ。返せ。返せ。彼を返せ。

 

 ぶちんという音がして、視界の左半分が消し飛んだ。執務室の暗がりが濃くなる。力場に圧されて、左の眼球が潰れたのだと理解した時には、心臓が不規則に跳ねた。内臓が悲鳴を上げている。血の塊を吐き出す。ビシャビシャと床を汚す。倒れそうになる。でも、倒れない。霞の体は、艦娘とは違う性質の活力を宿している。それは強烈で、崩壊していく霞の体を再構築し続けている。霞が居る“層”と、少年提督が居る“層”を隔てる境界線の上で、霞の肉体は絶えまない圧潰と再生の狭間にあった。途切れる事の無い激痛を抱えながら一歩、また一歩と、霞は彼へと近づこうとする。歩みを止めると、この鎮守府で過ごして来た、大切な時間が消えてしまう確信が在った。

 

「返、せ……! かえ、せぇ……!!」

 

 血を吐きながら叫ぶ。一歩ごとに、霞は自分自身が何者だったのかを忘れそうになる。霞が、霞である為に大切な何かが粉々に砕けて、剥がれ落ちて、二度と元には戻れないような気がしていた。それでも彼を。彼に、会いたい。会いたい。何処にも行かないって、約束したじゃない。こんな別れ方って、あんまりじゃない。急過ぎるじゃないのよ。馬鹿。もっと。もっと違う別れ方が在って良いじゃない? 違う? 私、何か間違ったこと言ってる?  ふらつきながらも、霞は前に出る。超常の力場を徒歩渡り、断ち割っていく。

 

「『“この少年が、そんなに大事か?”』」

 

 声が聞こえる。霞は、何かを言おうとするが、それは声にならない。喉が、声帯が潰れている。真っ赤な視界で、彼を睨み据える。少年提督は、霞を冷静に観察している。

 

「『“……その覚悟も、今は胸の内に仕舞っておくと良い”』」

 

 少年提督は落ち着き払ったままで、左の掌を翳している。其処に象られた術陣が姿を変える。霞の額の前に、術陣が浮かんだ。それは日向の意識を奪った術式と同じものだった。少年提督は、自身の肉体を顧みない霞の暴走を止めようとしたに違いなかった。優しさのつもりか。ふざけるんじゃないわよ。今、この状況で意識を奪われる事は、少年提督との永遠の別れを意味しているのだろうと霞は思った。涙は出ない。声も出ない。痛みと血の味がする。大切なものを喪う瞬間が訪れようとしている。深い絶望が、満身創痍の霞を包もうとした時だった。

 

 

「ちょっと失礼するでありますよ^~(FF外から)」

 

 いつの間に空いていた執務室の扉から、音も無く誰かが滑り込んできた。その動きは疾く、暗がりに溶け込むように無音だった。気配がしなかった。気付かなかった。一瞬で霞まで肉薄してきていた。ソイツは、反応できないままだった霞を横あいから抱え上げた。そして、少年提督から素早く距離を取るべく、鋭くバックステップを2度踏んだ。距離のあるバックステップだった為、ソイツと霞は、少年提督から大きく離れる事になった。

 

 少年提督から離れた瞬間、霞は自分の肉体から熱と力が逃げ、精神からは激情が霧散していくのが分かった。そこで気付く。少年提督が、霞に左手を翳して何かを唱えている。日向の意識を奪った術式とは違う。それは治癒術式に違いなかった。彼は、霞を傷つけるのではなく、飽くまで遠ざけようしているのだと分かった。霞の抜錨状態が解けていく。霞の身体が、柔らかく蒼い光が包んでいる。非常に高度な治癒術式によって修復されていこうとしている。

 

 霞は、まだ艦娘のままだった。いや、艦娘とは違う何かへと成ろうとしたが、少年提督によって引き戻されたのだ。激痛が消えて悔しさが残ると同時に、霞の体は再び動かなくなった。情けない程に。艦娘の肉体を拘束する術式効果が、艦娘である霞を再び捕らえている。

 

「随分と面倒な事になっているようでありますなぁ」

 

 だが、霞を抱えているソイツは、そんな術式効果など存在していないかのように平然としている。飄々と間延びした声。やけに白い肌。黒い軍服。腰には軍刀を佩いている。

 

「襲撃されている筈の提督殿を助けに来たのでありますがね……。その提督殿が、血塗れの霞殿と対峙しているというのは、一体どういう状況なので?」

 

 少年提督に挑むような眼を向けるソイツは、意地悪そうな美貌に不敵な笑みを貼り付けて居た。あきつ丸だ。どうしてコイツは、こんな風に動けるのだろう。艦娘達を無力化する術式の影響を受けている筈なのに。頭の隅の方で浮かんだ冷静な疑問と同時に、申し訳無さが胸を満たした。日向から少年提督を守ることが出来れば、このような状況になはならなかったのではないか。霞の無力さが招いた事態なのではないかと。

 

「ごめ、……ん、なさ……」

 

 その曖昧な謝罪の言葉には、艦娘であることを止めようとした事を無意識に含んでいた。霞の目が、無力に濡れて来る。だが、「謝るのは自分の方でありますよ」と、あきつ丸は不敵な笑顔で少年提督を見詰めたまま、掠れた霞の声に応えてくれた。

 

「遅くなったであります。何せ、身を隠しながらだったもので」

 

 そう言いながら霞を抱え直したあきつ丸は、黒いボディースーツを着込んだ日向が、口の端から血を零して倒れているのを一瞥した。そして、金属の蝶達が微光の帯を引きながら舞っている執務室の光景を、視線だけで見回す。少年提督が死んでいない事を無邪気に喜べない状況であることは、馬鹿にでも分かるとでも言う風に鼻を鳴らして、あきつ丸は物騒に眼を細め、少年提督へと向き直る。

 

「……それでは、説明を願えますかな?」

 

「『“見ての通りだ”』」

 

 あきつ丸の鋭い視線を受け止める少年提督は、禍々しい術陣を背負いながら僅かに宙に浮かび、佇んでいる。重複するように重たく響く彼の声に、「ほう。それはそれは」と、あきつ丸は肩を竦める様にして言う。ただ、その仕種に全く隙が無い事には、霞は気付いている。あきつ丸の眼は、少年提督を見ていない。普段は見せない剣呑さや粘度を持ったその視線は、少年提督の内側に居座る“何者”かを見ていた。

 

『日向』『応答しろ』『何が在った?』『何か問題が在ったか?』『何か問題が?』『応答が無い』『少年提督は始末した筈だ』『ああ』『そう報告が在った筈だ』『なら問題は無い』『銃声も聞こえた』『作戦は順調に進んでいる』『本営からの応援の到着には、まだ時間が掛かる』『奴らは我々を捕らえる事は出来ない』『起爆は待て』『艦娘達を見張れ』

 

 複数の声が端末から漏れ、執務室の暗がりに滲むように響いた。今こうしている間にも事態は動いている。あきつ丸が倒れている日向だけでなく、ソファテーブルに置かれている日向の携帯端末を見たのが分かった。

 

 

「『“……ぐ、ぅ……”』」

 

 宙に佇んでいた少年提督が短く呻いたのは、その時だった。

 

 彼は、浮いていられなくなったのか。床に降りて膝をついている。拘束具の様な黒い手袋をした右手で、額を掴むようにして抑えている。少年提督の表情は苦し気に歪んでいた。彼の背後に象られた光背が揺らぐ。月の明かりを受け、軽やかに舞っていた金属の蝶達が床に落ちて硬い音を立てる。執務室を支配していた超常の気配が遠ざかっていく。片膝をついて顔を上げた彼は、何かと戦っているかのように真剣な表情で、微かに息を乱していた。

 

「あきつ丸さん……」

 

 少年提督の声からは、重複と濁りが抜けていた。それは正真正銘、霞の知る、本当の彼の声だった。少年提督が、霞の居る“層”に戻って来たのを感じた。いや。違う。少年提督が、自分の身の内側に居る“何者”かを押さえつけて、意識を表出させている。

 

「今は……、霞さんを連れて、此処から離れて下さい」

 

 急くようにして険しい声音で言った彼は、また「『“ぬ……ぅ、ぅ……”』」と呻きながら、頭を手で抑えて蹲った。あきつ丸が何かを言おうとする気配がして、そして彼に駆け寄ろうとしたのが分かったが、それよりも先に、少年提督が僅かに息を乱しながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

「『“……この少年の意思の力を、過少に見ていたようだ”』」

 

 その声には再び、幾人もの人間の声が重なったように不気味に響き、深い濁りを湛えていた。執務室の暗がりが震えている。彼の居る“層”が、また変わった。だが、先程のような遥か彼方まで隔絶した“層”では無く、まだ霞達に近い“層”に居るのを感じた。彼の背後に再び光背が象られていくものの、何者をも寄せ付けない、隔絶した超然さが欠けていた。

 

 少しよろめきながら立ち上がった彼は、もう宙も浮かんでいない。床に足がついている。ただ、その床が大きく凹んでいる。彼がふらつき、足を踏ん張った時だ。ズシン……! という、とんでも無く巨大な生き物の足音にも似た何かが響いた。床がバキバキと音を鳴らして陥没する。彼の体には収まらないものが、重量として現世との接点を持ったかのように。

 

「……顔色が優れませんな?」

 

 霞を抱え、少年提督から少しずつ間合いを取りつつ、あきつ丸は軽く言う。少年提督は冷静な表情のままで口許を緩めた。

 

「『“……あぁ、どうも体の動きが鈍くなった”』」

 

「此処で少し、ゆっくりして行っては如何でありますか?」

 

 あきつ丸の声には、小憎たらしい普段の余裕が戻ってきていた。その理由は、確かな少年提督の存在と意思を確認したからだろう。襲撃者達の存在も無視できない今、あきつ丸に出来る事は多くない。霞を無視して、少年提督に戦いを挑むか。霞を連れて、この場を離れるか。多分、この2つに1つだ。この状況の中で、彼は、その精神内部に侵入してきた“海”に、まだ完全には飲み込まれてはいない。彼は心の内で、“海”と戦っている。そして彼は、あきつ丸に、霞を連れて此処を離れるように頼んだのだ。霞は、信じようと思った。

 

「『“さっさと行くが良い”』」

 

 少年提督は、あきつ丸と霞には執着を見せない。泣き笑いのような表情を浮かべたままで、疲れたように小さく息を吐いている執務室の暗がりが震えた。彼の存在が、再びこの場の空間を支配しつつある。

 

「おや、見逃してくれるのでありますか?」

 

 あきつ丸は彼に訊きながら、霞を抱え直して姿勢を落とす。すっとぼけたような声の調子だったが、油断は無い。あきつ丸は少年提督を注意深く見ている。見据えている。彼が唇の端を少しだけ持ち上げた。

 

「『“私は、お前達を害するつもりは無い。邪魔をするのなら退かしはするが”』」

 

「去る者は追わず、と言う事でありますな?」 

 

「『“それが、この少年の願いだろう”』」

 

「では、此処は退かせて貰うでありますよ」

 

 少年提督に深く目礼したあきつ丸は、迷いや躊躇を見せなかった。それは、少年提督が“海”に屈することなど無いという信頼の現れのようでもあった。

 

 あきつ丸は霞を抱えたままで身を翻す。霞は顔だけを何とか動かし、少年提督へと何かを言おうとするが、意識が朦朧とし始める。ぼやける視界の中で、少年提督は歩き出しているのを見た。体を引き摺るような、サイズの合っていない着ぐるみを纏っているかのようなぎこちない歩みだった。

 

 ズシン……! ズシン……! と、彼が歩を進めるたび、彼の履いた靴が床を砕いている。彼はもう、あきつ丸を見ていなかった。彼は窓から海を見ていた。夜の海を。彼が、海へと出て行こうとしている。それを止められない己の無力さを思いながら、唇を噛む。その間に、あきつ丸は執務室を駆けだし、廊下の窓から庁舎を外へ。夜の空気を感じた。夜空に浮かぶ灰色の雲と、その薄い切れ間からは星と、欠けた月が此方を見下ろしていた。

 

 

 その明かりが落とす庁舎の影を渡るように、あきつ丸は音も無く夜の鎮守府を駆けていく。襲撃者達から隠れながら、霞を何処か安全なところまで運ぶつもりなのだろう。でも、何処かって、何処なのだろう。安全な場所って、何処? 私達が信頼を預ける場所って、何処? あきつ丸の腕の中で揺られる霞の心には、醒めたような冷静さと空虚さが去来していた。

 

 もっと考えることはある筈だと思うが、思考が働かない。ひどく疲れた。痛みが抜けて行った反動か。身体は動かない。意識が溶けて、解けていく。視線だけを動かす。夜空。その月暈に透けて滲む雲に紛れて、何かが夜空を走り去ろうとしているのが見えた。丸い形をしている。それに、獣みたいな耳が上に突き出している。アレは。何で。深海棲艦の。どうして鎮守府の上を……。

 

「ちょっと失礼するでありますよ」

 

 あきつ丸も気付いたようで、庁舎の影に滑り込むように隠れて、頭上を見上げる。それから霞の上半身を大事に抱える姿勢のままで、地面に寝かせた。空いた手で携単端末を取り出し、ディスプレイを手早く操作しながら視線を走らせた。霞は、薄れていく意識の中で焦る。深海棲艦。深海棲艦が、近くに来ている。

 

 艦娘だけでなく、深海棲艦達まで此処を襲いに来るなんて。最悪過ぎる。霞は浅い息を吐いて、あきつ丸を睨むようにしてその服を掴んだ。だが、携帯端末のディスプレイを見詰めるあきつ丸の方は、「この短時間で……、まったく、たまげたでありますなぁ……」と、感嘆するように小声で呟いてから、霞に唇を歪めて見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 艦娘を対象に取る術式効果は、無慈悲に、一切の容赦無く、時雨の体を地面に押さえつけている。廊下の床にうつ伏せに倒れたままの時雨は、胸に太刀を生やしたまま、野獣の呼吸が薄れて消えていくのを見ている事しか出来ない。時雨は声にならない低い呻きを上げながら、身体に力を入れようとする。今まさに愛する者を喪おうとしている焦燥と、その愛する者を奪おうとする者達に向けられる憎悪が時雨を衝き動かそうとする。野獣の死と引き換えにして時雨は、人間を心から憎み、世界を呪う艦娘として生きる権利と資格を得ようとしているのを感じた。

 

 ただ、こんな状況で時雨の頭の片隅には、自身に嫌悪感を抱くほどに悠長な思考が流れ始めていた。正義とは何だろうと思っている自分が居るのだ。野獣を喪ってからの自分たちが、信じるべき正義とは何だろうと。今、胸の内に重く荒れ狂う感情に、自分の未来を託してしまう事は、野獣と過ごして来た今までの日常から、とても遠く離れた場所に行くことを意味しているのだろうと。

 

 だが、それでも構わないと叫び出そうとする自分が、確かに居る。何なら自ら海に沈み、深海棲艦になって人間達の前に還って来て、存分に殺戮の限りを尽くしてやりたいとすら思う激情が、時雨の心を支配しようとしていた。しかし同時に、その暗く獰猛な決意に抵抗しようとする冷静な自分もまた、時雨の中には確かに存在していた。残酷な衝動に身を委ね、野獣と共に歩んできた道を全て否定して、歩み寄ってくれようとしてくれた人間達をすらも憎むような事はしてはいけないのだと。そして、そのどちらが正しいのかという答えは、考えても出ないという事も分かっていた。時雨の中に在る感情たちが、それぞれに人格を持ち、主張し、其処から発生する行動の実現を望み、葛藤しているかのようだった。

 

 ただ、目の前にある事実として、時雨は、人間の企みの前に無力だ。時雨が抱く激情は、時雨の精神の内部でのみ燃焼し、それが物質として現実に影響を与える事は無い。鎮守府の廊下の空気は冷えて、時雨の体から体温を少しずつ攫っている。夜空の雲に透ける月は、薄く、弱く、倒れた時雨を照らしている。しかし時雨の感情は、この世界に何も齎さない。存在していないのと同じように無意味だ。これが世界の本質なのだと思った。

 

 時雨とは全く関係の無い、利益と利得の中に住まう一部の人間達によって定められていく世界は、『艦娘』達を、人間性というものから隔てていくのだろう。野獣を喪いたくないと強く願う時雨の想いなど、彼らにとっては恐ろしく他愛の無いものであり、実体を持たない無価値なものに違いない。

 

 

 時雨は、人間とは何なのだろうと思う。

 

 

 こんな風に目の前で、大事なひとが死のうとしている時、或いは殺されようとしている時には、人間だって時雨と同じように、己の内に湧き上がる悲哀や憎悪に打ちのめされるのではないのか。人間こそが感情の生き物ではないのか。艦娘と人間は、確かに違う。だが、その心と呼びうる精神作用の中に生まれる感情の起伏は、人間のソレとは大きく違わない筈だ。時雨は、自分の眼から涙が溢れていることに気付く。その涙は時雨の体温を受け取りながら頬を伝っている。暗い廊下に零れて、床を濡らしている。窓の外から、月が見ている。時雨の感情は今、確かに世界に触れているのに、それは力を持たない。意味を為さず、無視され、価値を持たず、誰も守れない。体は動かない。押しつぶされて拉げたような声を絞り出しながら時雨は、人間とは何なのだろうと、もう一度思う。

 

 

「……そろそろ死んだかな」

 

 携帯端末を耳に当てている川内は、数歩だけ野獣に近づいて眼を細めている。倒れている加賀の頸元に刀の切っ先を突きつける神通は、冷たい眼で野獣を見据えている。廊下に広がる闇を背に立つ二人の姿は、この世界と時雨達との冷酷な接点そのものだった。彼女達は野獣を見ている。心臓から太刀を生やしたままの野獣は、片膝をついて項垂れる姿勢で動かない。野獣の呼吸は止まっていて、その足元に出来上がった血の池も、廊下の床に黒く大きく広がっている。既に致死量の出血だ。

 

『野獣の回収を』『それで任務は終わりだ』『既に起爆準備は出来てある』『此方もだ』『日向からの応答が無い』『何か問題が?』『応答が無い』『少年提督は始末した筈だ』『トラブルか』『構わない』『日向の死体が残っても、それは問題にならない』『川内』『野獣を確保しろ』

 

 川内の持つ端末から、複数の者が連絡を取り合っている音声が、暗がりの廊下に滲みだすように漏れている。その声達に「分かってる」と短く答えた川内は、更に野獣に近づく。すぐ傍だ。野獣は動かない。川内が野獣の頸筋に触れる。野獣は沈黙している。

 

「脈は無い。……もう心臓が止まってる」

 

 それを確認した川内が、神通に頷いて見せた。

 

「呆気なかったですね」

 

 神通は低い声で川内に言いながら刀を鞘に納めて、倒れている加賀を一瞥した。加賀が首だけを動かして、神通を睨んでいる。私は、貴女達を許さないわ。吐息に紛れてしまうような、微かな声で加賀がそう言うのが分かった。加賀は、神通を睨み続けている。殺意すら込められた加賀のその言葉と視線には関心を払わず、神通は川内へと歩み寄る。

 

「でも、……ちょっと気になるよ」

 

 川内は、端末を見ながら言う。

 

「日向の事ですか?」

 

「うん。……本当に何か在ったのかもしれない」

 

 潜めた声で言う川内は、何とか身を起こそうと震える時雨と、肩や膝を破壊され、身動きの出来ない加賀を交互に見た。日向。戦艦の艦娘。襲撃者の中に居るのか。しかし、何らかトラブルが在ったようだ。「……何か、知ってるかい?」と。川内の眼は、時雨と加賀を探る様に細められていた。日向と連絡が取れない原因についてだろうか。加賀は黙ったままで、鋭く川内を睨んでいる。時雨もまた無力なまま、涙で滲む視界の中で彼女達を見上げ、睨みつける。濃い闇が其処に在る。神通が、冷たい眼で此方を見下ろしている。

 

「……まぁ良いか」

 

 川内が軽く肩を竦める。

 

「此方、川内。野獣を回収する」

 

『了解した』『了解した』『日向からの応答が無い』『少年提督の死体の確認に向かう』『急げ』『起爆装置、作動させます』『艦娘達は巻き込まないように気を付けろ』『了解』『爆破予定ポイントは工廠と』『埠頭の数か所』『それに、入渠ドッグだ』『艦娘達を鎮守府庁舎に集めろ』『任務は終った』『艦娘達には傷を付けるな』『了解』『了解』『(゜∀゜ゞ) イエッサー!!(レ)』

 

 短い応答が続く最後に、明らかに場違いで緊張感の無い声が混ざった。川内と神通が顔を見合わせている。時雨も、倒れている加賀と眼が合った。何かを言おうとしたが、それは声にならない。体も動かない。だが、鎮守府の状況は大きく動こうとしているのは分かった。時雨達が知覚していない領域で、何かが起こっている。

 

「何だ今の……?」

 

 川内は携帯端末を訝し気に見てから、倒れている時雨と加賀を見比べる。同時だった。

 

『なっ!?』『深海棲艦だと!!』『いやぁ、すみませ~ん!(レ)』『バカな!!』『退避しろ!!』『退避だ!!』『だらしねぇな!!(レ)』『うわぁ!!』『なんだ!? 深海棲艦の艦載機が!?』『猫艦戦だ!!』『対処できない!!』『凄い数だ!!』『艦娘達を銜えていくぞ!!』『艦娘達を連れて行こうとしているのか!?』『ちくしょう!!』『まだ撃つな!! 艦娘に当たる!!』『今は交戦するな!!』『まずは退避だ!!』『少年提督は始末した!』『目的は果たした筈だ!!』『川内、野獣を回収して合流ポイントに向かえ!!』

 

 川内の持っている端末から、切羽詰まった複数の声が断続的に響いて、暗い廊下に不穏な残響を残した。今、この鎮守府で何が起ころうとしているのか。時雨は考える。深海棲艦という言葉が在った筈だ。つまり、こんなタイミングでの深海棲艦の襲撃か? この鎮守府のセキュリティが殺されているせいで、深海棲艦の襲撃を感知出来なかったのか? しかし、あの通信の中に混ざっていた声は、レ級のものではなかったか。

 

「了解」

 

 川内が神通と頷きあいながら、携帯端末に応えた時だった。

 

 廊下の窓をぶち破って、誰かが飛び込んできた。位置的には、川内と神通の二人と、廊下に倒れている加賀の中間辺りだ。彼女は、月光を溶かしこんだように白く染まった髪を逆立たせて、鈍く明滅する赤錆色のオーラを纏っていた。暗い廊下に、彼女の輪郭が暗紅に滲み、浮かび上がっている。緋色の眼が、川内と神通を交互に見ている。艦娘の艤装を召還してはいないが、明らかに抜錨状態にある彼女は、加賀を庇うようにして立っている。倒れたままの加賀が、驚愕の表情で彼女を見上げていた。深海鶴棲姫。いや、違う。

 

「遅くなッテ、すミまセン」

 

 肩越しに加賀を見た彼女は――。

 あの艦娘装束を纏っているのは、間違いなく瑞鶴だ。

 

 

 さっきの通信の中に在った猫艦戦は、彼女の仕業なのかと時雨は咄嗟に思う。この鎮守府は、艦娘を無力化する術式効果によって括られている。だが、そうか。“深海棲艦”ならば。今の瑞鶴ならば、その効果の対象にならない。瑞鶴は、少年提督の捕虜である深海棲艦達と共に、鎮守府を制圧しようとしている襲撃者達に混乱を与えて撤退させ、人質となっている艦娘達を解放し、そして、時雨や加賀を助けに来てくれたのだ。時雨は瑞鶴を見る。瑞鶴も時雨を見た。もう大丈夫とでも言うように、目許をほんの少し緩めて見せた瑞鶴は、時雨に頷いてくれた。それを見て時雨は、瑞鶴が、自分自身の中に持つ深海棲艦としての側面を受け容れて、今の行動の決意と覚悟をしたのだろうと思った。

 

 

「へぇ……、こういう迎撃準備もしてあったワケだ。深海棲艦を手懐けるなんてね」

 

 先程まで冷静そのものだった川内が、瑞鶴に向き直った。少しの焦りと驚きが混じった低い声で言いながら身を沈めつつ、すっと両腕を下げている。その両手には、いつの間にか苦無が握られていた。まるで忍者のように。

 

「でも、対応が遅すぎるんじゃない? 少年提督も野獣も、もう死んだ」

 

 薄い笑みを浮かべた川内は、完全に臨戦態勢だ。その隣で、今の状況に僅かに動揺した様子の神通が、刀を構え直そうとした時だった。再び廊下の、別の窓が割れた。澄んだ音が暗がりに響く。誰かが、セーラー服を靡かせて飛び込んできたのだ。彼女は軽やかに廊下に着地して、時雨と川内達との間に陣取った。時雨は息を詰まらせて彼女を見上げる。彼女の上半身の左半分は歪な装甲で覆われていたし、彼女の左眼からは蒼く濁った微光が漏れて、帯を引いていた。蒼い微光を薄く纏った彼女の長い黒髪が、割れた窓から吹き込んだ風に流れている。その後ろ姿は深海棲艦の軽巡・雷巡クラスの姿にも見える。彼女が時雨を振り返って、ウィンクした。

 

「お待たせ~」

 

 間延びした声で言いながら、唇の端で緩い笑みを浮かべたのは――、身体の半分を深海棲艦化させた北上だった。

 

「もう一人か」川内が瑞鶴と対峙したまま、視線だけで北上を見る。それに応えて、神通が北上に向き直った。

 

 時雨は混乱しそうになる頭で、必死に冷静さを保つ。瑞鶴が自身の肉体を深海棲艦へと変容させて、艦娘を無効化する術式に対抗しているというのは、今の状況を見て理解できる。そして、人質となっている加賀を助ける為に此処に現れたのだと。しかし、なぜ、北上まで。いや、今の状況で考えても答えなんて出ない。やはり無意味だ。とにかく、この場に居るのは、野獣を除けば6人。

 

 襲撃者である川内と神通が、死んだ野獣を連れて行こうとしている。

 身動きが出来ないままの時雨と、その時雨を守るように飛び込んできた北上。

 膝や肩を破壊された加賀と、その加賀を庇う位置に立ち塞がる瑞鶴。

 状況としては、川内と神通は、もう時雨と加賀には手を出せない。

 

 この場に、もう余計な会話は無い。睨み合いになる。廊下の空気がビリビリと震えている。ただ、川内と神通の目的が『死んだ野獣の回収』だからだろうか。二人は、瑞鶴と北上の接近を阻むような位置に立っている。同時に、この場から野獣の死体を持ち出して脱出する隙を伺っている。

 

『不味い!』『トレーラーが襲われた!』『港湾棲姫を発見!!』『術式展開の為の機器が!!』『結界術式が乗っ取られようとしてる!』『集積地棲姫がトレーラーを!!』『重巡棲姫も居るぞ!!』『な、なんでこんな所に!』『タ級・ル級と交戦中!!』『武器を捨ててろーー!!(レ)』『重火器じゃ干渉できない!』『通常の銃器では……!!』『(`・ω・´) 痛くないね!(レ)』『艦娘なら、艦娘なら戦える筈だ!!』『部隊の艦娘は何処だ?!』『未だ、日向、川内、神通からの応答ありません!!』『何をやってる!?』『此方、南方棲姫と交戦中!!』『カエッテ、ドウゾ!』『ひぃぃ!!?』『北方棲姫の出現を確認!!』

 

 川内の持っている携帯端末から、複数の声が漏れ続けている。

 

『そんな馬鹿な……!』『戦艦棲姫と、……水鬼!!』『合流ポイント付近だ!!』『大型の艤装獣を確認!!』『くそ!!』『退避しろ!!』『退避だ!!』『駄目だ!!』『逃げろ!!』

 

 

 割れた窓の外から、何かが爆発する音が聞こえる。銃声がしている。巨大な生き物の咆哮と、その生き物が激しく動き回るような轟音が響いて来る。襲撃者達と深海棲艦達との戦闘の音に違いなかった。鎮守府の内部から、そして外からも響いている。あぁ、そうか。深海棲艦。少年提督が保護していた彼女達が、鎮守府を守ろうとしてくれているのか。さっき聞こえた気がしたレ級の声は、やはり彼女のものだったのだと分かった。しかし、捕虜房に戻されている彼女達の肉体は、極端にスポイルされていた筈だ。姫や鬼級の彼女達は、今は人間の女性程度の身体能力しか持っておらず、深海棲艦としての強大な力は封じられていた。大幅に弱体化していた彼女達を、再活性したのは……。

 

『誰も殺しちゃ駄目よ!! 襲撃者を追い払うのが目的なんだから!!』

 

 少女提督の叫ぶ声が、通信の中に混ざる。

 

『不審な大型トレーラーは、鎮守府の周囲に5台確認できます!!』

『OK! 遠慮なくやる!!(レ)』

『いや待て壊すな壊すな! こっちで利用できる!』

 

 続いて野分の声と、レ級、集積地棲姫の声が混ざる。

 

 時雨は鼓動が高鳴るのを感じた。彼女と野分が、深海棲艦達を連れて来てくれたのだと理解した。深海棲艦達を再活性して、それを施設の外へ連れ出したのだ。なんて無茶苦茶な事をするんだろう。普通なら軍法会議ものだろうし、そもそも、再活性した深海棲艦達が彼女の味方になってくれるなんて保証はない筈だ。それでも彼女達は身の危険を承知して、自分の命を懸けたのだと分かった。少年提督と野獣は殺されてしまったが、少女提督はその絶望を力づくで追い払うべく、無慈悲な世界の選択と正面から対峙している。

 

 なんて非常識で頼もしいんだろう。

 まるで少年提督と野獣みたいだ。

 

 そう思うと、今の少女提督達の強行に勇気を貰った気がした。それは、生きる勇気だ。そうだ。時雨は、まだ生きている。これから、野獣の居なくなった世界を生きて行かなければならない。倒れたままの時雨は、渾身の力で首だけを動かして腕で涙を拭う。それだけの動作なのに、とてつもなく体力を消耗した。体は鉛のように重いままだ。立ち上がる事も出来ない。それでも、気持ちが折れてはいけない。野獣が死んだ事は悲しい。苦しい。世界が憎い。それらの感情の強度は、これからも時雨の中で増し続けるだろう。でも、野獣と今まで生きて来た時間を無視してはいけない。野獣が大切にしようとしていたものを、時雨が壊してしまう訳にはいかない。逃げるわけにはいかない。そう思った時だった。時雨は、自分の心臓が止まりそうになるのを感じた。

 

「ぬわぁぁぁん、死ぬかと思ったもぉぉぉん!!(大復活)」

 

 膝立ちの野獣が、血だまりの中で勢い良く立ち上がり、全力バリバリの伸びをしたからだ。

 

「えっ……!?」

「なっ……!?」

 

 位置的に、野獣のすぐ傍に立っていた川内と神通が、素の反応を見せて野獣から飛び退った。二人は表情を驚愕のままで凍りかせている。加賀もだ。それに時雨も、自分が似たような表情を浮かべているのだろうと思った。

 

 胸から太刀を生やしたままで深く息を吐きだした野獣は、首を左右に曲げてコキコキと鳴らしつつ、左手で右肩を揉みながら右腕を回した。当たり前だが、野獣の胸から下は血塗れだし、凄い出血量だ。その凄惨な姿のままで行われる、まるで準備運動の様な暢気で自然体な仕種は、この場に全くそぐわなかった。時雨はそこで気付く。血が。野獣の身体を濡らす血と、床に広がった野獣の血溜まりが、燃え上がるのを待つ熾火のように淡く明滅を始めていた。野獣の姿は、暗い廊下の冷たい空気の中にあっても、陽炎の揺らぎを纏っている。野獣は川内と神通を見比べてから、唇を僅かに歪めて見せる。

 

「おっ、どうしました?(王の帰還)」

 

「ぇ……どっ、どうしたって……」

 

 瞳を揺らす川内が言葉を詰まらせながら、野獣と、その背後に居る北上と時雨を見た。その表情に明らかな焦りを見せる神通も、加賀を守る位置に居る瑞鶴を視線だけで見る。これで川内と神通には、もう人質は一人もいない。深海棲艦化することによって、艦娘を無効化する術式対象から外れた瑞鶴と北上が、動けない時雨と加賀をカバーしている。他の襲撃者達も、既に艦娘達を手放して撤退する旨の通信がさきほど在った。それに、陸上での戦闘が可能な野獣も復活しているのだ。形勢が、完全に逆転した。

 

「何故、生きているのです」

 

 刀を構え直し、神通が野獣を睨む。

 

「貴方の心臓は間違いなく破壊されて、停止していた筈です……」

 

 その神通の鋭い声を聞きながら、野獣は肩を竦めた。

 

「まぁ、俺も見た目通りの人間じゃないからね(アンニュイ先輩)」

 

 そう言いながら、野獣は左胸を刺し貫いたままの太刀を右手で引き抜く。太刀を濡らす野獣の血が、静かに燃え上がった。明るい赤橙の炎が太刀を覆い、廊下の暗がりを払うように照らしている。刀身に刻まれた“聖剣『月』”の銘が、野獣の炎血と沸血に舐められて消え、変わっていく。その炎が持つ熱量が新たな金属として、太刀の鋼に織り込まれていくかのようだった。「抜け目ないね」と、息を薄く吐いた川内が鼻を鳴らす。

 

「私達が撤退して艦娘達が解放された後、貴方は、自分を回収した人間達の手元で目覚めるつもりだったんだね。そうして、黒幕達を暴く為に」

 

「そうだよ(作戦暴露)。まぁ、想定してた状況と大きく変わってきてるみたいだし、死んだフリは此処で終わり!って感じでぇ……(フェードアウト)」

 

「怪物だよ。貴方は」

 

 頬に一筋の汗を流した川内は、数歩下がりながら笑みを浮かべた。

 

「俺達みたいなのが必要になる時代が、すぐそこまで来てたからね。……しょうがないね(万感)」

 

 眉尻を下げて笑う野獣は、自分の胸の傷を一瞥してから、海パンからゴーグルを取り出して装着した。野獣の胸の傷口からは、鼓動の代わりに火の粉が漏れている。足元に出来た血溜まりも乾かずに煮え滾り、薄く炎を上げ始めていた。しかし、その火炎は廊下に燃え移らず、物質には干渉していない。非実在の、炎ならぬ炎だった。野獣が手に持つ太刀には新たに、“夜冥『血繰』”の文字が灼きついている。

 

「……その刀と炎が、貴方の命の原形質ってワケだ」

 

「ウン(首肯)」

 

 特に気負う様子も無く頷いた野獣は、揺らぐ炎を纏う。その炎は捻じれながら、割れた窓から入り込む月明りと混ざり合い、廊下の暗がりに狂猛な獣の陰影を描きだしていた。途轍もなく巨大な獣が炎の揺らぎの奥に潜んでいて、それが野獣に付き従っているかのようだった。宵闇を赤橙に染め、鼓動の様に揺らめく炎は、その獣の息吹と唸りそのものに見える。相対する者の魂を打ち据え、激しく動揺させる。凄いプレッシャーだ。北上が「おぉ~……」なんて声を漏らして、ビビったようにちょっと身を引いた。加賀が息を呑む。瑞鶴は目を細めて、野獣を見詰めている。

 

「燃える刀って、カッコいい……、カッコよく無い?(小学生のノリ)」

 

 クッソ暢気な事を言いながら、野獣は手に握った刀と川内達を見比べる。だが、その仕種には全く隙が無かった。野獣が流した血は炎となってうねり、“夜冥『血繰』”へと収束していく。野獣の体や床を濡らしていた血の跡は、もう何も残っていない。ただ床には、さきほど野獣が捨てた“邪剣『夜』”が鈍い光を湛えているだけだった。野獣はそれを無造作に拾いあげる。川内と神通は、野獣に対して構えたままで、また数歩後ずさる。だが、逃走しようとはしていない。野獣と戦う気なのだ。あの二人の目的は、飽くまで野獣を殺して回収する事であり、逃げると言う選択肢は無いようだ。すぐにでも飛び出せるように姿勢を更に落とす。

 

「……貴方は、この状況を何処まで予想していたの?」

 

 川内の声は、恐ろしく平たかった。

 

「少年提督を見捨てることになる事態まで、互いに了承していたの?」

 

「まぁ、……多少はね?(意味深)」

 

 野獣はもう川内達を見ていなかった。窓から外を見ている。今まで気づかなかった。音が聞こえる。時雨の頭の中へと沁み込むように響いてくる。ぐぶごぼ……。がばぐぶごぼごぼ……。深く澱んだ水の中で、溺れた人間が泡を吐き出すな様な、不気味な音だ。音は外から聞こえている。まるで鎮守府全体を包みながら、この場に居る者達へと囁きかけるように。強い頭痛がし始める。見れば、川内と神通も片手で頭を押さえている。加賀が呻く。北上が表情を歪めている。瑞鶴が野獣を倣い、窓の外を一瞥した。外ではまだ深海棲艦達と、撤退しようとする襲撃者が戦う音が聞こえている。だが、その戦いの音が僅かに緩んだ。

 

『深海棲艦の動きが鈍ったぞ!』『好機だ……!』『今の内に距離を取れ!!』『退避しろ!!』『トレーラーは捨てて行け!!』『もう捕まった奴らが居る!!』『そんなものは捨てて逃げろ!!』『此方の部隊は合流ポイントを無視して、作戦エリアを離れる!!』『川内!!』『応答しろ!!』『川内!!』『神通!!』『野獣の回収はどうなった!!』

 

 川内は答えない。野獣との距離を測っている。神通も同じだ。北上に守られる位置で、時雨はようやく震える身体を起こし、唾を飲む。頭痛がする。「俺達、もう別に戦わなくてもよくないっすか? 人質の艦娘達も解放されたし、俺も復活したし……」と、野獣が川内達を見ながら、肩を竦めた。

 

「それに、もうお前らと遊んでる場合でもなさそうなんだよね。それ、俺の中で一番言われてるから(状況重視)」

 

 野獣は言いながら、“邪剣『夜』”を肩に背負い直す。そして、空いた方の手で携帯端末を拾って、手早く操作し始める。Pipipiと音がした。野獣の端末に通信が入ったのだ。「そうは行かないんだよね……!」それを隙と見た川内と神通が動いた。疾い。時雨には二人の動きが見えなかった。消えた。「お」と、北上が変な声を出していた。川内と神通が野獣の正面、すぐ傍まで迫っていた。野獣は動かない。川内が、再び消えた。上へと跳んだ。そう見えた次の瞬間には、野獣の背後に回っていた。川内と神通の挟み撃ちだ。暗殺術という言葉が、時雨の脳裏を過る。加賀が何かを言おうとしている。北上と瑞鶴は動かない。時雨は眼を奪われた。

 

「おっ、あきつ丸か? アイツは生きてる? 当たり前だよなぁ?」

 

 野獣は携帯端末を耳に当てて会話をしたまま、まず神通の刀を“夜冥『血繰』”で弾きつつ踏み込んで、刈り取る様な足払いを掛けて神通の態勢を崩すついでに体の軸をずらした。前から迫ってくる神通を、ひょいっと横に交わすような動きだった。さらに野獣は、身体を泳がせまくった神通の背中を、かるく押していた。「うっ……!」神通がつんのめり、「ぁ……!?」距離を見誤った川内が、その神通の額に自分の鼻っ面を激突させた。鈍い音が響く。ゴッツーンっと行った。踏み込んだ速度そのままで、二人は激しくゴッツンコしたのだ。

 

「もうちょいしたらアイツの眼を覚ましてやりに行くから、ハイ、よろしくぅ!!」

 

 通話を続ける野獣の傍で、川内が鼻を押さえてよろめく。神通が尻餅をついた。二人は再び構え直そうとしたようだが、その隙に、携帯端末を操作する野獣は術式を唱えて、拘束術式を完成させていた。川内と神通の手首と足首、それに喉首に、動きを拘束する術陣が枷のように嵌る。いや、ついでに猿轡のような奇妙な術陣も形成されて、二人の口まで塞がれていた。鼻血を流す川内が、何とか動こうともがく。神通もだ。だが、野獣が発動させている術式陣は剥がれない。本当に、一瞬で勝負が着いた。

 

「舌を噛んで死のうとか考えないでくれよな^~?(優しさ)」

 

 必死にもがく川内と神通の方を見ない野獣は、端末を操作しながら鼻を鳴らして、加賀へと歩み寄る。少しだけ表情を柔らかくした瑞鶴が、加賀を横抱きに抱き上げていた。加賀は瑞鶴の姿に対しては何も言わず、野獣に対しては、……貴方、ゴキブリみたいにしぶといのねと、掠れた吐息みたいな低い声で言いながら、不機嫌そうに見上げている。かなり酷い怪我をしている筈だが、それを感じさせない加賀の気丈さに、野獣は苦笑していた。

 

「生きてないと、お前がテレビで『加賀岬』を歌う姿を見れないからね(したり顔先輩)」

 

 加賀が、驚いたような顔で野獣を見詰め、何度か瞬きをした。その様子に、瑞鶴が唇の端を少しだけ緩めていた。野獣は加賀の表情には気付かずに、加賀の傍にしゃがみ込んですぐに何かを唱えた。それが治癒と痛覚を消す為のものであるのは間違いなかった。

 

「今の所、奇跡的にみんな無傷ではないけど、なんとか無事?……っていうか、まぁ、良かったよかった」

 

 北上が間延びした声で言いながら、時雨を抱き上げてくれた。時雨に外傷は無い。加賀に治癒施術を行いながら、野獣が時雨を見た。一度だけ視線を逸らした野獣は、何だか申し訳無さそうな笑みを浮かべて見せる。時雨は、野獣に何か言ってやらないとと思った。

 

 本当に死んじゃったのかと思ったんだよ。川内達が言っていたけど、こういう事を想定していたなら、どうして僕達に前もって言ってくれなかったのさ。そりゃあ、野獣と少年提督が大人しく殺されれば、時雨達艦娘は無事に済むことなんだろうけど。そんなの、納得できないよ。出来るワケない。やめてよ。そういうの。言いたい事が頭を巡り、それを言葉にしようとすると、時雨の目から涙が溢れて来た。鼻水もだ。止まらない。みっともない。

 

「時雨、ごめんナス(掠れ声)」

 

 野獣が時雨の眼を見て、少しだけ頭を下げてくれた。時雨は何も言えないままで嗚咽を噛み殺した。生きていて、本当に良かった。ばか。それだけ、何とか言ってやった。野獣が参ったように眉尻を下げる。その、普段は見せないような弱々しい表情に、胸が詰まる。

 

「野獣サンは、大丈夫なノ? 身体」

 

 加賀を横抱きにしている瑞鶴が、野獣を見る。深海鶴棲姫としての、冷静な眼に戻っていた。

 

「当たり前だルルォ!?(天下無双)」

 

 加賀への応急施術が一応終わったらしい野獣は、ばっと立ち上がり、加賀達から距離を取ってから「ホラ見ろよホラ!!」と、ズイズイダンスを踊って見せた。少し離れたのは片手に“夜冥『血繰』”を握ったままだからだろう。その激しい動きに、北上が笑った。加賀が「ぅふっ」と、息を漏らす。「何かムカつくんデ、やメて下さイ」と、瑞鶴が舌打ちをした。時雨も、鼻水を啜りながら笑ってしまった。

 

 本当に、この場で言うべき言葉が見当たらない。時雨は今、深海棲艦達に助けられて、深海棲艦化した仲間達と笑い合っている。互いを助けようとする勇敢さを分かち合い、人間の都合や設計と言ったものと戦っているのだ。隠蔽されて、何も無かった事にされる今夜の、この瞬間の貴重さは如何ほどなのだろう。だが、と時雨は思う。まだ気は抜けない。ここからだ。野獣の御陰で、ほんの少しの安堵を共有出来ているが、鎮守府の状況は、まだ安全とは言えない。野獣はズイズイダンスを踊りつつ、携帯端末を操作している。通信が入ったようだ。その野獣の端末から、再び

 pipipiと電子音が響く。

 

『野獣、生きてるの!?』

 

「バッチェ生きてますよ^~(王の風格)」

 

 少女提督だった。

 

『彼は!? まだ連絡つかないんだけど!』

 

 少しの沈黙が在った。時雨も、北上も、加賀も、瑞鶴も、野獣の言葉を待つ。切羽詰まって不安そうな少女の声に、野獣がズイズイダンスを中断して息を吐く。それに倣うようにして、野獣の手の中に在る“夜冥『血繰』”もまた、一瞬だけ炎を吐いた。ぐぶごぼ……。がばぐぶごぼごぼ……。泡が成る音が、時雨の頭の中に響いている。

 

「へーきへーき! 今から俺が迎えに行くんだからさ(決戦への道)」

 

 

 

 

 

















いつも読んで下さり、有難うございます!
今回の更新内容にも、私の未熟さ故に不自然な点なども多々あるかと思います。
誤字も多く、いつもご迷惑をお掛けして申し訳ありません。
また御指摘、御指導頂ければ幸いです……。
出来る限り、加筆修正させて頂きます。

今年も本当にお世話になりました。
年末年始の事故などには、皆様も十分にお気を付け下さいませ。
最後まで読んで下さり、本当に有難うございます!



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