花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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沢山の応援のメッセージや暖かい評価を頂き、本当にありがとうございます!
更新が遅くなって申し訳ありません……。


※ 感想で御指摘を頂いた部分を修正させて頂きました。
読んでくださる皆様に御迷惑をお掛けして、申し訳ありません。

※ 今回は、
野獣提督が出ない & シリアス色が非常に強い回になっております……。


此処にしか無い景色 終編

 鎮守府の傍に設立された、深海棲艦を研究するための施設。その地下にある特別捕虜房へと向かう少年提督の後ろに控え、不知火と天龍は歩いていた。この研究所は何処も彼処も、息が詰まるような白色で統一されている。壁も床も天井も、重厚さを感じさせる白色の金属で覆われていた。

 

 無機的に響く靴音を聞きながら、不知火は前を見たまま歩く。地下フロアの広い廊下もやはり白く、空調による機械的な冷気が満ちていた。硬い靴音が響いている。不知火の隣を歩く天龍は、眉間に皺を刻んで不機嫌そうな表情を浮かべていた。不知火達の前には、少年提督の他に、二人の男が歩いている。一人は恰幅の良い中年男性で、もう一人は痩せた初老の男性だ。

 

 中年男性は髪を七三に分けて眼鏡をしている事だけが特徴のような、何処にでもいるような風体の男だ。だが、それ故に得体の知れない雰囲気を濃く纏っている。初老の男の方も、痩せているものの眼光が異様に鋭く、迂闊に近寄ってはならないような危険さを感じさせた。二人とも高級そうなスーツを着込んでおり、腕時計や靴も一目で高価だと分かるものを身に付けている。これらのアイテムは、二人の男の社会的な地位が非常に高い事を物語っていた。

 

 

「深海棲艦を欲しがっている者は、キミが思っているよりも多いんじゃないかな」

 

 にこやかな表情を浮かべた中年の男は、歩きながら少年提督の肩に手を置いた。まるで、少年提督を抱き寄せるかのような、馴れ馴れしい手つきだった。

 

「そういった人達は、彼女達を研究素体として欲しがっている、という事でしょうか?」

 

 少年提督は、自分の肩に置かれた手を一瞥しただけで、穏やかな表情を崩さない。中年の男は、少年提督が嫌がる素振りを見せない事に気を良くしたのか。少年提督の肩に置いていた手で、彼の肩を揉んだり、首筋に触れたりし始めた。

 

「私の知る範囲では、そういう輩は少数だね。深海棲艦をただ“所有”したいという人間の方が多いね。私が相手にしている客層が企業では無く、個人だから、余計にそう思うのかもしれない。まぁ飽くまで、私の知る範囲での話だと思っておいてくれ。いや、現状では、という言い方をした方が正しいかもしれないね」

 

「所有、……ですか」

 

「あぁ、そうだ。変わり者も多いが、金払いの良い連中だよ」

 

 中年男も笑顔を崩さず、何処か気持ちよさそうに言う。そんな中年男の傍を歩く初老の男は、会った時に挨拶を交わしただけで、この施設に来てからは黙ったままだった。少年提督も、黙ったままの初老の男に話しかける事も無かった。その間、中年の男だけが饒舌だった。

 

「彼らにとっては、深海棲艦は高価な芸術品や宝石と一緒なんだろうね。所有している事、それ自体がステータスになり得るという点でね。人類の敵である深海棲艦の『姫』や『鬼』は、生まれながらの殺戮兵器だが、怖気を誘う程に、神秘的で麗しい姿をしている。ああいった超然とした存在は、人間の欲望を刺激する。独占し、支配して、愛でるだけなく、それを手中に収めている己の状況を周囲に自慢したいという者は、私の知り合いにも少なくないよ」

 

 

「……僕には、まだ上手く理解できない領域の話です」

 

 

「あぁ。それでも構わないよ。問題無い。重要なのは理解する事では無いよ。そういう世界観が存在することを知っていれば良い。これは常識的な範囲だ。どんな分野にも、好事家やコレクターなどと呼ばれる者は居るものだろう? 彼らは常識では無く、知識や経験といった尺度でモノに価値を見出す。世間から見れば他愛の無いものであっても、彼らの間では信じられない値が付くことも往々にある。だが、その価値を我々が理解する必要は無い。分かる者にだけ分かれば良いし、売買に関わるのは完全に自由だ。それが世間の共通認識だろう。表面上の事実を捉えていれば良いんだ」

 

 

「特殊な価値観の存在も、最終的には、その共通認識の中に埋め込まれていくものだという事は理解できます」

 

 

「あぁ。それが分かっているのなら話は早い。コレクターである者達が権力と地位を持っていれば、彼らの価値観にも説得力が出て来る。彼らの持つ尺度が社会に浸透していって、理解はされずとも、世間の中に新たな価値基準としての輪郭が生まれる。知識となって、人々の頭の中で市場という言葉に結びつく」

 

「……深海棲艦を、“商品”として流通させる可能性が、其処には在ると?」

 

「んん、十分にあると思うけれどね。生活という日常の外にある存在であっても、“一部では高値で取引されている”物品としてね。アンティークや食玩なんてものもそうだろう? 別に珍しくも無い、ありふれた事例だろう? いずれ深海棲艦達も、それと同質の存在になるよ。……勿論、時間は掛かるだろうがね。彼女達は人類の敵であったワケだし、世間から見れば、恐怖や憎悪や怨恨を抜きに語れない存在だ」

 

 

「深海棲艦という生命そのものに経済的な価値を付与するというのは、倫理の面から見ても、世間的には受け入れられないと思いますが」

 

 

「あぁ、すまない。私の言い方が悪かったね。これでは、何十万もする食器や西洋人形と並んで、深海棲艦がカタログに載る様な言い方だったね。すまないね。すまない。私が言いたいのはね、常識の範疇には意識の死角が出来るという話だよ。深海棲艦を売買するという行為は、世間に受け入れられなくても良いんだ。人道的に許される必要は無いんだよ。重要じゃない。私は確かに、深海棲艦達はアンティークや食玩などと同質の存在になると言ったが、深海棲艦達が堂々と取引されるような商品になるという意味では無いよ。ここからが重要な話になる。いいかい? 大企業達の犯罪的な利益追求や麻薬の取引などは違法だが、それが秘密裏に行われている事は誰もが知っている事だろう? 社会が、表と裏の顔を持っている事は皆が知っている。だが日々の生活の中で人は、自分たちに危害が及ばない限り、そういった事に対しては無関心でいられるんだ。純粋な悪徳というものは、表社会の自分たちの暮らしから遠く隔てられた事例としてね。分かるかい? これが理解すべき本質だと、私は考えているよ。そこに、深海棲艦との共存という可能性がある」

 

 

「社会が抱えた闇の中に、深海棲艦という存在を落とし込むという事ですか?」

 

 

「そういう事だね。“かつて人類の執敵怨類であった深海棲艦も、今ではその力も奪われ、違法な取引がなされている哀れな生物”という認識を、世間の中に芽生えさせてやればいい。そうすれば、“一部では高値で取引されている商品”という枠にも嵌るだろう? いずれその認識は、人々にとっての常識の一部に埋没する。特殊な価値と市場が存在することが自然になる。自分達の暮らしには関係が無いものの、社会の影には存在しているものだと見なす。深海棲艦の売買という行為は、表に姿を現さない、ありふれた悪徳になる。誰からも見向きもされなくなる。勿論、その悪徳を裁こうとする者も現れるだろうが、大多数の人々はそういう正義の姿勢を賛美しつつも、結局は自分達の生活を取るだろう。人間達の生業の中にある、この無関心という死角こそが、社会という枠組みの中で深海棲艦が生き残る為の“隙間”になると、私は考えているよ」

 

 

「……深海棲艦との共存という意味に於いて、それが限界だとお考えですか?」

 

 

「現実的な共存のビジョンだと思うけれどね? まぁ、人間の中には、深海棲艦の人権だの何だのと言いだす者が出て来るかもしれない。でも、そんなものは極少数だろう。キミを含めてね。だが結局、この戦いが終結すれば、深海棲艦は人間にとっての海洋資源の一つに過ぎなくなる。本営はね、そういう深海棲艦を金に換える道を開拓したがっている。それを助けるのが私の仕事だ。私の立場から言わせて貰うなら、深海棲艦を商品として人間社会に埋め込むというのは悪くない考えだと思うよ。深海棲艦達は、人間社会の中で新しい役割を担うだろうし、また経済的な効果も齎してくれる。……キミの言う“力による受容”とは、本来こういうものでは無いかね?」

 

 

「しかし……、いえ、そうかもしれません」

 

 

 自身の理論を気持ちよさそうに展開する中年の男に対して、少年提督は穏やかな表情を浮かべたままだった。だが、その声音は寂しさのようなものを纏っていた。「うん。うん。キミは賢いね」と言いながら、中年の男が白い歯を覗かせて、少年提督の頬や髪に触れるのが背後からでも分かった。不知火は反射的に艤装を召還しそうになったが、奥歯を噛み締めてそれを堪える。ゴリゴリゴリッと凄い音が廊下に響いた。

 

「お、おや、何の音かな?」と、中年の男が怯えたように周りを見た。「地下フロアに海水を送る音でしょう。この廊下の壁の中には、何本もパイプが走っているので」と、少年提督が落ち着いた声音で答える。初老の男が、不知火の方を見た。不知火は初老の男とは目を合わさず、少年提督の背中を見詰めた。天龍は気怠そうにそっぽを見ながら歩いている。初老の男は静かな眼差しで不知火と天龍を見比べてから、何も言わずに前を見た。

 

 

 中年の男と、初老の男。

 

 この二人は少年提督の客人であり、執務室での談笑もそこそこに『保護している深海棲艦達の様子を、ぜひ見せて欲しい』と願い出たのだ。本営の上層部からも、彼らを持て成すようにと少年提督に通達があったのを不知火は知っている。あの男たちは大本営にとって、経済的に大きな利益を齎す存在であることが伺えた。会話からして恐らく、あの中年男性は希少動物の売買などに携わっている人間なのかもしれない。或いは、そういった事を請け負う人間と繋がりが在るのだろう。初老の男が何者なのかは分からないが、不知火にとってはどうでも良かった。

 

 気がかりなのは、この男達が特別捕虜房へ向かっている事を、深海棲艦達が知らないという事だった。彼女達は、この男たちにどんな反応を示すのか。例え暴れだしたとしても、彼女達は解体施術を受けている。艦娘である不知火や天龍に掛かれば、暴動を鎮める事は造作もないことだった。だが、そういった生々しい敵意や害意を露にして、深海棲艦との共存を理想とする少年提督の立場に悪影響を与えないかと、不知火は頭の隅で不安を感じていた。

 

 

『深海棲艦との共存』

 

 思考の中を通り過ぎようとした言葉を、不知火は意識で掬う。あの中年男のような者が客人としての少年提督の元を訪れてくるというのは、何を意味するのだろう。少年提督の言う“共存”という言葉を本営なりに解釈した結果、社会の中に用意するべき深海棲艦達の居場所とは、金持ちの道楽としてのペットだという事なのだろうか。不知火は息を吸って、静かに吐いた。

 

 深海棲艦達を人類社会の中に無理なく埋め込もうとするのならば、その解釈は正しくは無くとも、妥当なのかもしれない。少年提督は、保護下にある深海棲艦達に理想を見る。しかし本営の上層部は、その理想が破れた後の現実を見ている。綺麗ごとではなく、実在的な利益を追求しようとしている。例えそれが非道であろうとも、合理的な選択をし続ける姿勢は社会に属する組織としては健全ではないだろうか。

 

 大本営という存在が社会の中で担う役割は、決して小さくない。人々の暮らしの中に在る安らぎの為に、大本営は、人類の勝利の存在を世間に示し続けなければならない。大本営が相手にする世間の認識では、深海棲艦は撃ち滅ぼすべき敵である。それを踏まえた上で深海棲艦達が社会の中で生き残る道を探るならば、あの中年男が言うように、力も尊厳も全て剥奪してしまう事も現実的であるように思えた。

 

 

 もう一度。

 不知火は息を吸って、静かに吐いた。

 

 今。自分は、なんと残酷な事を考えたのだろうと後悔にも似た感情を覚えた。そのこと自体が偽善的であるようにも感じた。不知火は唇を噛んで、前を歩く少年提督の背を見詰める。彼の言う“共存”とは、どういった状態を指すのか。人類と艦娘と、そして深海棲艦達が仲良く手を繋ぎあい、互いに笑みを交わし合うような非現実的なビジョンを指している訳ではないのは理解している。だが、中年の男が言うような未来を指している訳でも無いのだと思う。

 

 想像力に乏しい不知火が頭の中でそれを突き詰めようとすると、“現在”という圧倒的にリアルな場所をグルグルと回るだけだった。海から発生した深海棲艦は、人間を襲う。それに対抗する為、人間は艦娘を必要している。艦娘は人間によって召還されて、存在する事を許されている。この三すくみの“現在”も、歪ではあるが、ある種の“共存”では無いのかと思う。

 

 

 不知火達は地下フロアを進み、深海棲艦達を保護している捕虜房の前まで来た。壁や天井に沈むようにして開いていく重厚なゲートを幾つか潜ったところで、場の空気が明らかに変わった。中年男性が息を呑む音がした。よく見れば、中年男性の頬には汗が浮かんでいる。初老の男性もだ。不知火達が歩を進めるにつれ、人間ではない者達の気配が濃くなっていく。此処で、不知火と天龍が、少年提督や男たちを守るように前へ出る。

 

「おぉ、頼もしい。噂で聞いているよ。キミの不知火と天龍は、他所の同型艦娘を圧倒する性能を持っていると。いやぁ、頼もしいね。うん」

 

 緊張を解す為か。中年の男は明るい声音で言い、少年提督の肩を撫でながら笑う。初老の男も、ハンカチを取り出して顎まで流れていた汗を拭っていた。少年提督達には聞こえない程度に、天龍が軽く鼻を鳴らすのが分かった。不知火もそれに続きそうになったが、また堪える。フロアを進んでいく。深海棲艦達が居る特別捕虜房まで、もうすぐ近くまで来た時だった。

 

 

 ヴェアアアアアアアアアアア!!! 憎ラシヤァァァァァァァ!!!

 

 

 腹の底に響いて来るような、凄絶な絶叫が廊下に響いてきた。「ぉほっ!!?」と奇妙な悲鳴を上げた中年男が尻餅をついた。眼を細めた初老の男が息を呑んで歩を止めた。彼らとの距離を保つために、不知火と天龍も足を止めて振り返る。

 

「い、今のは深海棲艦の声だね!? 解体施術はしているんだろう!? 弱っている風では全く無かったが、だ、大丈夫なのかね!? 」

 

 明らかに狼狽した様子の中年男は不規則に呼吸を弾ませており、少年提督に手を引いて立ち上がらせて貰っていた。初老の男は落ち着いてはいるものの、険しい表情だった。少年提督は二人を交互に見てから、慣れた様子で穏やかな微笑みを浮かべて見せた。他者との距離を測る為の、温度の無い仮面のような笑みだった。少年提督のあの表情を、不知火は久しぶりに見た。

 

「大丈夫ですよ。此処は、とても安全な場所です」

 

 異様な程に落ち着き払った少年提督の声音に、二人の男が微かに息を飲んだのが分かった。「あぁ、そうか、そうだな。そうだとも。私はキミを信じるよ。信じているとも」と、中年男は汗を何度も頷いて、少年提督の肩を抱くようにして立った。頬の筋肉を強張らせている初老の男も、少年提督に深く頷いた。

 

「では、行きましょう」

 

 少年提督の顔に張り付いた微笑みは、全く揺るがない。

 

 

 

 深海棲艦達の捕虜房へと続く最後の扉を通った時点で、不知火と天龍は、艦娘としての力を発揮できる“抜錨”状態に入る。解体施術を受けてスポイルされた人型の深海棲艦達は、見た目通りの女性程度の力しか持っていない為、今の不知火と天龍に太刀打ちする事は到底出来ない。それは、中年男と初老の男も理解しているに違いなかった。艤装としての刀を召還した天龍を見てだろう。中年男が安堵するような息を漏らしているのを背中で聞いた。不知火も自分の手に、武装として錨を召還する。初老の男の視線が、不知火の手の中に在る錨に注がれているのに気付いた。不知火は特に反応を返すことなく、白い通路を歩いた。

 

 捕虜房の通路進むにつれて、深海棲艦達の気配は強くなる。そして同時に、この白一色のフロアの重圧感を和らげる、生活の匂いと温もりが優しく漂って来る。中年男が混乱した様子で、辺りをキョロキョロと見回しているのが、やはり背後の気配で分かった。

 

 

「……本当に此処が、深海棲艦達を収容しておく特別捕虜房なのかね?」

初老の男の声は少し掠れていたが、低く、そして力強かった。

 

 神妙な表情になった初老の男が、少年提督に訊いた。その質問も当然だろうと不知火は思った。このフロアに染み付いている生活感があまりにも暖か過ぎて、とてもでは無いが人類の天敵を収容している雰囲気では無い。少年提督が、「えぇ。そうですよ」と、優しい声で短く答える。初老の男は、再び黙った。「キミは……」と、少年提督に何かを言おうとしていた中年の男も、途中の言葉を飲み込んだ。通路の先に扉があり、その向こうに多くの気配が固まっているのを感じたのだろう。中年男と初老の男が、緊張した面持ちで同時に足を止めた。それに合わせて、不知火と天龍も立ち止まる。

 

「この先は歓談室と言いますか、ちょっとしたサロンのようになっています」

 

 少年提督だけは不知火と天龍の脇を抜けて、扉へと歩いていく。彼が扉を開けると、ふわっと紅茶の香りが通り過ぎて行った。

 

 その部屋は広々としていた。壁も床も、やはり白一色だ。その壁には大型のテレビが立て掛けられており、雑誌などが並べられた棚が置かれ、部屋の隅には簡単なキッチンスペースが設けられていた。部屋の中心には白いソファテーブルが置かれていて、それを囲むように上質そうな白いソファが並んでいる。其処に、戦艦ル級によく似た黒いボディスーツを着込んだ彼女達が腰掛けていた。ソファテーブルの上には、トランプのカードが無造作に積まれている。

 

「グ、グ、グ……! オ、オノレェェ~~……!!!」

 

 少年提督達に続き、不知火達が部屋に入るタイミングで、何らかのゲームが丁度終わったようだ。テーブルの上に置かれたカードを見た不知火は、そのゲームが大富豪であることが分かった。少し前に此処に収容された重巡棲姫だけが、数枚のトランプを手に持ったままで悔しそうに項垂れている。

 

「へっぼwww!(レ)、ワロスwww(レ)」

 

 そんな重巡棲姫を指さして笑っているのは、レ級だった。レ級は一人だけ黒のハーフパンツと黒のTシャツ着て、その上から黒いフード付きパーカーを羽織っていた。

 

「あんまり煽るなよ……。また取っ組み合いの喧嘩になって泣かされるぞお前」

 

 バカ笑いするレ級を、隣に腰かけていた集積地棲姫が、微妙な表情を浮かべて窘める。

 

「調子に乗るのは、良くない」

 

 集積地棲姫に続いて頷いたヲ級は、静かな面持ちのままで此方を見てから、驚いたような顔になった。そのヲ級の様子に他の深海棲艦達も、此方に顔を向けてくる。「あぁん!? お客さん!?(レ)」と、さっきまで笑顔だったレ級が、訝しむような顔で言う。男たちの存在に気付いた集積地棲姫は、冷静な光を眼に宿らせながら「……ちょっと静かにしてろお前」と、再びレ級を窘めていた。

 

「突然お邪魔して、すみません。トランプゲームの途中でしたか」

 

 少年提督がにこやかに言うものの、誰も返事を返さない。沈黙がこの場を包んだ。深海棲艦達は、不知火と天龍を、いや少年提督をすら見ていなかった。中年の男、それから初老の男へと視線が集まっている。浅く早い呼吸になった中年の男が、唾を飲む音がした。初老の男は何も言わずに、深海棲艦達を見詰め返している。

 

 ゲームに負けた悔しさを引きずっているのだろう重巡棲姫が、物騒に眼を細めて男たちを見ている。南方棲鬼はソファに座って足を組んだまま、つまらなさそうに鼻を鳴らした。オロオロとした様子の港湾棲姫の視線は、周囲の深海棲艦と中年の男達の間を行ったり来たりしていた。ただ、この部屋の中で高まっていく緊張感は、長くは続かなかった。

 

 

「ヘイ、ワイと一緒にやらないか? 良いぞ?(レ)」

 

 陰湿さの無い、子供っぽい笑顔を浮かべたレ級が、少年提督や不知火、天龍だけでなく、中年の男と初老の男をゲームに誘ったからだ。他の深海棲艦達も、ぎょっとしたような顔でレ級を見た。不知火は天龍と顔を見合わせた。少年提督も驚いた顔をしている。初老の男は、少女のように笑うレ級を見詰めながら、何度か瞬きをしていた。中年男の方は眼を見開いて息を詰まらせ、「わ、私もかね?」と、しゃっくりみたいな声を出しながら、他の深海棲艦達を見回していた。

 

「あぁん? 見せかけで超ビビってるな? ちと来い!(レ)」

 

 レ級は、少し怯えた様子の中年の男の手を掴んだ。中年の男が体を硬直させて「ぃい!?」と、くぐもった悲鳴を漏らした。そんなものはお構いなしで、レ級は顔を強張らせる中年男をソファの一つに座らせてから、少年提督達に振り返った。

 

「へい、どうぞ!(レ)」

 

 レ級は不知火達にも手招きをする。他の深海棲艦達は若干の困惑を見せつつも、急な客人である人間達に攻撃的な態度をとる事も無く、その輪の中に中年男が入ってくる事を拒まなかった。さっきまでの緊張感は、もう跡形も無い。深海棲艦達の間に出来上がろうとする穏やかな空気は、全てを受け容れる覚悟にも似ているように思えた。ソファに座らされた中年男が、助けを求める眼で少年提督を見ていた。

 

「あぁ、でも、僕達が全員で参加してしまうと、ゲームの人数が増えすぎてしまいますし……」

 

 仮面のような笑顔とは違う、柔らかな微笑を浮かべた少年提督は、初老の男の方を見た。

 

「僕と不知火さん、それに天龍さんの三人で、ここで観戦させて貰います。……僕達の代わりに、参加して上げてくれませんか?」

 

 じっとレ級を見ていた初老の男は、少年提督の視線に気づいて、この日初めて口許を緩めて見せた。優しそうな笑顔だった。レ級の屈託のない笑顔や快活な仕種が、初老の男の心の中にある、何かを捉えたのが分かった。

 

「あぁ。せっかくだ、……お邪魔させて貰うよ」

 

 その声は僅かに震えていて、今にも泣きそうな声にも聞こえた。初老の男は深海棲艦達に会釈をしながら、上品な仕種でソファの一つに腰掛けた。慌てたように立ち上がった港湾棲姫が、中年の男と初老の男に、紅茶、コーヒー、緑茶、どれがいいかなんて事を聞いていた。二人はコーヒーをお願いしたようだ。港湾棲姫がキッチンスペースに向かう。

 

 人間という存在を飲み込んでなお、この場の空気は先程と同じような、気負いのない平凡な空気になりつつあるのを不知火は感じた。この場を支配していた緊張感が緩やかに解けていく。誰もレ級の行動を咎めない。それは何故だ。中年の男と初老の男が、少年提督の客人であること知っているからか。あの二人の前で、“深海棲艦達は、実は人間に友好的な部分を持っている”という事をアピールする為か。そんな風に考えていると、レ級と眼が合う。

 

 少年提督や不知火、それから天龍が参加しない事を察したレ級は、残念そうな顔をして唇を尖らせていた。だが、テーブルに撒かれていたカードを集め、シャッフルし終えた集積地棲姫が再びトランプを配り始めると、レ級はギザッ歯を見せる快活な笑顔を浮かべた。狡猾という言葉とは、およそ無縁そうなレ級の純粋さを目の当たりにすると胸が詰まった。

 

 

 自分は今、余計な事を考え過ぎていると思う。不知火は意識的に呼吸をする。その間に、トランプのカードが配られていく。不知火と天龍は抜錨状態のまま、仮に、もしも仮に何かあったとしても、すぐに深海棲艦達を鎮圧できる距離で、少年提督と共にそれを見守る。

 

 

 カードが配られ、『大富豪』と『大貧民』がカードを2枚交換し、『富豪』と『貧民』がカードを一枚交換する。

 

『大富豪』は、「(>ω<)わふー♪(レ)」と、上機嫌なレ級。相当に強いカードを巻き上げたようだ。『大貧民』は、「憎ラシヤァァァァァアアア……!!」と、頭を抱えて呻く重巡棲姫。あの様子からして、捨てるの

が難しい弱小カードを握らされたのは間違いない。調子に乗ったレ級が、「どんな気分どんな気分?ww(レ)」と、俯く重巡棲姫の顔を覗き込んで煽っている。

 

 

『富豪』は、落ち着いた様子のヲ級。そんなヲ級とカードの交換時、何やらアイコンタクトを取った『貧民』は集積地棲姫だ。何かを狙っているのか。残るプレイヤーは『平民』だ。南方棲鬼と港湾棲姫、途中参加した中年の男と、初老の男である。かなり人数の多い大富豪なので、皆の手札はそんなに多くない。

 

「おっと、その、ちょっと良いかな? 此処のローカルルールについて聞きたいんだが……」

 

 手札を扇状に持っている中年の男が、頬をビキビキに強張らせた笑顔で、おずおずと手を挙げる。深海棲艦達に囲まれている中年の男は、彼女達の存在感に気圧されつつも、ちゃんと勝負はするつもりのようだ。「はい」と、傍に居たヲ級が微笑んで頷いた。

 

「私達の間で採用しているのは、“8切り”と“スぺ3”のみ、“都落ち”もありません。最後に手札に残してはならないカードは、2、8、ジョーカーです」

 

 ヲ級は、ここに収容されて日の浅い重巡棲姫よりも流暢に言葉を話す。その声音には、人間である中年の男を排除しようとするような冷酷さや、距離を作ろうとする意思表示としての事務的な冷たさが無かった。ヲ級が纏う柔和な雰囲気と説明の親切さに、中年の男は目を丸くしていた。

 

「あぁ、ありがとう。シンプルだね。うん……」

 

 中年の男は、ヲ級に礼を述べて頷いてから、渋い顔になって自分の手札を睨んだ。何とか勝ち筋を見出そうとしているようだ。対して初老の男は、特に何も気負った風では無く、ゆったりとした態度でゲームが始まるのを待っている。

 

 最初の親を決めるジャンケンが行われ、勝ち残ったのは南方棲鬼が“ハートの3”を捨てて、ゲームが始まった。そこから時計回りでプレイヤーが順にカードを捨てていく。手札が少ない状態で始まった今回のゲームでは、すぐに上がるものが出て来るだろう。

 

 そんな中、一週目で既にパスをして、グゥゥゥ……!!と心底悔しそうに唸っている重巡棲姫の手札の弱さは如何ほどか。対して『大富豪』のレ級は、満面の笑顔で手札を眺めつつ、自分の番が回ってくるのを待っている。比較的弱いカードを消費出来るタイミング。集積地棲姫とヲ級が、またアイコンタクトを交わした。中年の男がそれに気付いて、カードを捨てる手を止めてパスを宣言。初老の男も気付いていたようだが、何かを調整するようにカードを捨てた。

 

 最終的に、集積地棲姫が“クラブの2”を切ってきた。彼女は『貧民』だ。ただでさえ少ない手札から強いカードを奪われ、代わりに弱いカードを押し付けられた『貧民』が“2”を出すという事は、無理をしてでも場を流して親になりたいという意思が透けて見えた。

 

「思い知らせてあげる!(レ)」

 

 周囲のプレイヤーがパスを宣言する中、冷酷な笑みを浮かべたレ級がジョーカーを切った。集積地棲姫の“2”は潰される。眼鏡をそっと指で押し上げた集積地棲姫が、軽く息を吐いた。2秒後。ヲ級が“スペードの3”を、ジョーカーの上に置いた。ジョーカーを潰されたレ級は、「ハッ、yeah~(レ)」 と、挑発するように肩を竦めて見せた。此処まではレ級も読んでいたに違いない。ワイルドカード扱いのジョーカーを失ってなお、レ級はまだまだ余裕がある。相当に恵まれた手札だという事は明白だった。

 

 しかし、そんなレ級の余裕も、速攻で崩される事になる。

 親になったヲ級が、手札からジョーカーを含む4枚のカード出したのだ。

 

「“革命”」

 

 ヲ級が澄んだ声で宣言する。

 

「嘘ォ!!?(レ)」

 

 目が飛び出しそうな顔になったレ級が叫んだ。ついでに、「おま、ふざけん……!(レ)」と、自分の手札とヲ級を高速で見比べている。「ヴェァ!!?」と、変な声を上げた重巡棲姫は、驚愕の表情を浮かべてソファから立ち上がる。中年の男がビクッと肩を震わせて、大声を上げたレ級と重巡棲姫を見比べた。集積地棲姫は特に表情を変えない。南方棲鬼は手札を一瞥してから鼻を鳴らす。初老の男は、にわかに騒がしくなった面々を何処か遠い目で眺めていた。

 

 ヲ級が序盤で起こしたこの“革命”によって、「馬ァァァアアアアア鹿メェェェェエエ……!!」と、さっきまでとは打って変わって強気になりまくった重巡棲姫が、圧倒的な手札の強さを見せつけて『大富豪』として上がった。弱小札ばかりだった手札が、一気に強カード揃いになったワケだから、これは当然の流れだった。一方でレ級は、場に出された“ダイヤの10”を見て、『アーーッ!! (´;ω;`) もう無理です!!(レ)』と悲鳴を上げている。

 

 

「お前、本当にクッソ強い手札だったんだな……」

 

 集積地棲姫が呆れたように言う。ちなみに、時計回りの順でカードを出しているのだが、集積地棲姫の次の番がレ級、という按配である。つまりレ級は、集積地棲姫が上がらない限り、弱小カードとなった“2”や“A”を殆ど切れない状況にあった。

 

「救いは……!! 救いは無いんですかっ!?(レ)」

 

 喚くレ級を尻目に、ヲ級が『富豪』として上がり、申し訳なさそうな顔をした港湾棲姫が『平民』として続いた。順調に手札を減らした南方棲鬼も上がり、先程の集積地棲姫とヲ級とのアイコンタクトに“革命”の匂いを感じ取り、あえて弱小カードを残していた中年の男も『平民』として上がった。次々とプレイヤーが上がっていく。

 

「(´;ω;`)あぁ、もう最悪ぅ……(レ)」

 

 取り残されているレ級が半泣きになっているが、その様子を見ていた重巡棲姫は「ソノママ沈ンデシマエェェ……!」と、ご満悦だった。残るは、レ級、集積地棲姫、初老の男の3人だけになった。

 

 親になった初老の男が、場にカードを出す。“ハートの7”。初老の男の手札は、残り1枚。何かを測るかのように、集積地棲姫は“スペードの5”。手札と場のカードを見比べたレ級は、「(´;ω;`)おほほほほ~ん……(レ)」と情けない声を出している。

 

 手札の弱さから、単純にレ級はカードを出せないのだろう。それに加えて、2枚出し、3枚出しをするためにカードを温存しているようにも見えるのだが、大ピンチである事に変わりは無い。レ級は再び手札を睨む。その隙に、初老の男が集積地棲姫を見て、片目を閉じた。初対面の“人間”にアイコンタクトをされるとは思っていなかったに違いない。集積地棲姫は初老の男を見詰めて、驚いたように何度か瞬きをした。だがすぐに、集積地棲姫は男の手札の数とレ級の手札の数、それから場に出ているカードを視線だけで見てから、軽く息を吐いた。

 

 集積地棲姫の手札の枚数は、残り4枚。それを2枚出しで消化する。レ級は手札の弱さ故にそれを止められない。初老の男も、手札の枚数的に出すことは出来ない。結果、最後の『平民』として集積地棲姫が上がった。これで、やっと親となったレ級が好きなカードを消化出来る。手札の殆どを消化しきれずに半泣きのレ級だったが、サシで相対する初老の男の手札が一枚しかないのを確認し、その紫水晶のような瞳に光を取り戻した。

 

「(`;ω;´) 全てはチャンス!!(レ)」

 

 やはりレ級は、2枚出し、3枚出しが出来る手札だった。手札が一枚の初老の男は、当然何も出来ない。そのままレ級は手札を吐き出し、なんとか『貧民』として上がって見せた。

 

「どうじゃ!!(レ) 出来る棒人間なんでーちゅ!!(レ)」

 

 レ級は両腕の筋肉をアピールするようなポーズを取りながら、誇らしげにソファの上に立った。「鬱陶しいから座れよもう。アピールしてるけど、お前『貧民』だからな」と、集積地棲姫が半目でツッコむ。港湾棲姫が微笑んで、大きな手で拍手をしている。それに倣い、中年の男も拍手をしつつ、何とかゲームが無事に終わってほっとしているような表情だった。レ級が『大貧民』に落ちなかった事が面白くないのか、重巡棲姫は鬱陶しそうな顔でレ級を見上げている。

 

 南方棲鬼だけが、何かを言いたそうに初老の男を見ていた。ただ、その視線に気付いている筈の初老の男は何の反応も示さず、テーブルに積まれたカードを集めて整え、自分が最後まで持っていたカードを隠すようにシャッフルを始めた。さっきのゲームを見ていた不知火には、初老の男が最後まで持っていたカードが何なのか分かっていた。

 

 “ダイヤの7”だ。

 

 つまり、初老の男は、親が回って来た時点で上がることが出来た。だが、そうしなかった。レ級を庇い、『大貧民』に落ちる為だ。これには集積地棲姫や南方棲鬼も気付いていたに違いないが、見て見ぬふりをしているのも分かった。不知火は怪訝に思う。初老の男は、レ級に対して何らかの特別な感情を抱いているのか。それは何故? シャッフルを終えた初老の男は目許を緩め、「では、カードを配りましょうか」と、深海棲艦達を見回した。

 

 

 その後もゲームは何度か続いて、『大貧民』になった初老の男は、『大貧民』のままで負け続けた。それをレ級に笑われることによって、この場の空気を暖める役目を自然と担っている。中年の男は『富豪』になったりもしたが、深海棲艦達とのカードの交換の度にビビっていた。中年の男と初老の男は、深海棲艦達の輪の中に馴染んではいなくとも、排除される様子も無い。いや、違う。そうでは無いのかもしれない。もっと大きな視野で見るならば、人間が排除されていないのではなく、深海棲艦達が、人間に排除されていないのか。不知火はその光景を、現実感が薄れていく不思議な感覚で眺めていた。

 

 

 

「あ」

 

 扉の開く音と、気の抜けた声が聞こえた。眠たそうな顔をした少女提督が、今日の秘書艦であろう木曾を連れて、この部屋に入って来たのだ。少女提督は、ざっと部屋の中を視線だけで見て状況を把握したようだ。姿勢を正した彼女は、中年の男と初老の男の方へと畏まった礼をして、木曾もそれに続いた。

 

 

 

 

 

 

 トランプゲームを切り上げて、不知火達は大部屋から違う部屋へと移動した。大型の機器類が並んでいて、何らかの研究室であることが分かった。白い部屋の中に、光沢の無い銀色の機械達の低い駆動音が響いている。ここが、少女提督の最近の仕事場だった。

 

「忙しいところ、申し訳ないね」

 

 中年の男が、大型機器のコンソールを操作する少女提督の背に、気安そうな声を掛ける。少女提督は振り返り、彼女の持つニヒルな雰囲気とは似合わない笑顔を浮かべて、「いえいえ」と首を振って見せる。必要最低限しか言葉を返さないのは不機嫌の表れか、或いは、誰かの機嫌を取ったりするのが不得手なのか。少女提督から少し離れた位置では、集積地棲姫と港湾棲姫が、其々に違う機器の前に座っていた。

 

 集積地棲姫は棒付きのキャンディーを咥えてモニターを見ながら、絶えず手を動かしてコンソールを操作している。もの凄いスピードだ。港湾棲姫は外骨格に覆われた凶悪で巨大な手をしているが、その指先の本当に先端だけを器用に使いながら、集積地棲姫に負けない速度で機器類の操作を行っていた。不知火と天龍、木曾の三人は、彼女達の姿を感心したように見つめる。膨大なデータを扱う仕事に入るので、この二人の手を借りようと思い、先程はサロンに足を運んだのだと言う。

 

 人類や艦娘に激しい憎悪や殺意を見せる深海棲艦達だが、その激情の背後に、与えられた環境に適応するための明確な知性を持っているのは明白だった。この捕虜房に居る深海棲艦達に対しては、常識や一般的教養を含め、艦娘達が教育を行ってきた。秘書官見習いとして、彼女達に実務の指導も行ってきた。それが実を結び、今ではこうして高度な業務にも携わるようになっている。『その仕事の様子を、私にも見せて欲しい』と、少年提督と少女提督に頼んだのは、初老の男だった。真剣な顔をした初老の男が、少女提督が操作している機器と、そこに備え付けられているモニターを見比べて何かを話している。恐らくだが、初老の男は医療分野に関わっている人間なのだろうか。人工臓器、生命維持管理装置、新薬開発という単語が聞こえて来る。

 

 

 一方で中年の男は、少年提督の隣に立って、この部屋の隅の方を凝視していた。そこは広めのスペースが取られており、大掛かりな施術ベッドが二つ並んでいる。微光によって象られた術陣が、施術ベッドを囲うように展開されていた。其処に寝かされているのは、被術衣を着た戦艦棲姫と戦艦水鬼だ。彼女達は顔の上半分を覆うようなヘッドギアをしており、首や脊柱、肩などの至るところにプラグが差し込まれていた。ただ、彼女達は眠っている訳では無い。何かを朗々と唱えている。

 

 彼女達の低い声は重なり合い、余韻が連なって互いに混ざり、この白い部屋の中で神秘的に響いている。厳かで、神聖な儀式のようでもあった。彼女達は何らかの術式を構築しながら、それを人間に扱えるデータとして提供しているのだという事は、傍から見ていた不知火にも分かった。少女提督がこの施設の地下に出入りするようになったのも、それが技術研究の為であろう事も知っていたからだ。

 

 彼女達の詠唱は、それから暫く続いた。少女提督と集積地棲姫、港湾棲姫は、休みなく機器類の操作を続けている。不知火と天龍達は、黙したままでそれを見守っていた。その間、天龍が何かを言いたそうに少年提督を見ている事に気付いた。不知火も、視線だけで少年提督を見た。少年提督は、初老の男と中年の男と、また何やら話をしている。

 

「艦娘の皆さんを治療する為の生命鍛冶や金属儀礼の術式を、人間の肉体に応用する研究は以前からされてきましたが、殆ど成果はありませんでした。しかし、深海棲艦である彼女達が扱う術式ならば、それが可能なのです」

 

「だが、人間では深海棲艦達の扱う術式を行使できないのではないかね……」

 

「確かに、人間では扱えないのは事実です。その壁を超える方法を、彼女達は探ってくれています」

 

 少年提督と中年の男が話をしているうちに、戦艦棲姫と戦艦水鬼の詠唱が終わった。軽い電子音が鳴り、彼女達に繋がれていたプラグやヘッドギアが外れていく。

 

「……お疲れ様」

 

 労いの言葉と共に少女提督が立ち上がり、彼女達の傍へと歩み寄る。戦艦棲姫と戦艦水鬼は、外れたプラグやヘッドギアを施術椅子の上に丁寧に置いてから、少女提督に頭を下げた。彼女達は既に中年の男と初老の男の存在には気付いていたようで、立ち上がってすぐに、彼らに深く頭を下げて見せた。その御陰で、先程のサロンの時のような空気になることも無かった。

 

「深海棲艦達の持つ特殊なチカラを、実在的な技術として取り出そうという試みは確かに意義深いね。もっと人員を割いてフロアを増やすなりして、研究の規模を拡大する予定は無いのかね? 」

 

 中年の男は、少女提督と戦艦棲姫と戦艦水鬼を順番に見ながら、少年提督の肩を抱き寄せてから、背中と腰を擦るように手を動かした。それに気づいた不知火は、頬の内側を少しだけ噛みちぎった。天龍が冷たい眼で中年の男を見ている。集積地棲姫も不快そうに片目を細めてそっぽを見ていた。港湾棲姫は何処か悲しげな表情を隠すように俯いている。

 

「えぇ。この研究を進めることが出来るのは、恐らく、彼女だけだと思います」

 

 少女提督を一瞥した少年提督は表情を全く変えない。少女提督は、タブレット型の端末を操作しながら、戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人の体に異常が無いかを調べている。

 

「しかし……、こう言っては何だか……」

 

 中年の男が声を潜めて、少年提督に耳打ちをした。

 

「彼女は“元帥”の中でも特に脆弱だと聞く。何でも、戦艦を召還することも出来ず、戦果による貢献は今まで殆どなかったそうじゃないか……。信用できるのかね?」

 

 その声は確かに小さかったが、抜錨状態にある不知火の耳には、はっきりと聞こえていた。完全な無表情になった木曾が、佩いていた軍刀に手を掛けようとして、それを寸でのところで止めたのが分かった。艦娘は、人間に危害を加える事は出来ないのだ。軍刀を握ろうとした手を、筋肉や骨が軋むほどに強く握る音が聞こえた。

 

「この研究においては、戦果や評価は重要ではありません」

 

 少年提督は、穏やかな表情を崩すことなく、中年の男に緩く首を振った。

 

「生命鍛冶や金属儀礼の術式は理論化されていても、あくまで非実在の領域にあるものです。それを技術として存在させるには、彼女の持つ特質が必要不可欠です」

 

 そこで言葉を切った少年提督は、一度息を吐いた。

 

「僕の人格や思考を模したAIを完成させたのも、彼女なんですよ」

 

「……まさか」

 

「事実です。彼女は情報工学にも造詣が深いだけでなく、非実在に属する術式の理論を、電子とプログラムに変転させて活用できる。そういう特殊で、稀有な資質を持っているんです。『提督』しか扱えない術式も、『深海棲艦』しか扱えない術式も、彼女が居る事によって、それは医用工学や生物工学、遺伝子工学などに応用することが可能になるでしょう。そしてそれは、各分野の発展の大きな助けになると考えています。これからの時代、彼女は誰よりも必要とされる人間になる筈です」

 

「君には……、いや、君たちには、本当に感謝しているよ」

 

 

 少年提督と中年の男との会話を縫うようにして、僅かに声を震わせた初老の男の声が響いた。彼は、今まで話をしていた少女提督に頭を下げてから、戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人の前に立った。初老の男は、真っ直ぐに彼女達を見詰めていた。

 

「彼女から話は聞いた。君たちの協力の御陰で、医療技術は革命的に、そして飛躍的に向上するだろう。本当に、有難う」

 

 不知火と天龍は少しだけ驚いた。少女提督や集積地棲姫、港湾棲姫も、そして木曾も、僅かに眼を見開いている。初老の男の声に、この場に相応しくないほどの熱量が籠っていたからだ。泣き出す寸前のような明らかな感情の高ぶりが滲んでいて、男が口にした感謝という言葉が一切の偽りの無いものだという事が分かった。初老の男は両手を握り、肩をぶるぶると震わせていた。戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人は、初老の男に微笑んで見せた。

 

 

「お礼の御言葉を頂く様な事は、私達はしていません。私達は提督の配下で、私達が引き受ける事が出来る役割を頂いているのです。礼を述べねばならないのは、私達の方です」

 

 

 戦艦棲姫が初老の男にそっと歩み寄って、男の右手の拳を両手で包んだ。初老の男の震えを、優しく鎮めようとするかのようだった。初老の男が驚いたように、繋がれた自分の右手と、戦艦棲姫の顔を見比べた。その間に、戦艦水鬼が初老の男の左手を両手で包んだ。初老の男が抱えている何らかの事情を詮索するのではなく、ただその身体を労わるように。

 

「人類では無い私達だからこそ、難病に伏せる方々や、それを見守るしかない家族、医療関係者たちにとって、新しい希望となる事を提督から聞いております。私達は、とても高貴な使命を賜ったのだと、感謝しております」

 

 戦艦水鬼の静かな声には、揺るがない真摯さがあった。不知火は胸に苦しさを感じた。戦艦水鬼の真摯さは、人類に対する無私の献身や奉仕では無く、深海棲艦である自身の存在を、戦闘や殺戮から無縁の領域で証明しようとする、ある種の健全な決意から来るものだと感じたからだ。

 

「私達は、貴方のお役に立てることを光栄に思います」

 

「……どうか、お疲れのでませんよう」

 

 戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人は、細く節くれだった初老の男の手を包むようにして持ったまま、礼節と敬意を持って、再び頭を下げた。彼女達の言葉が、初老の男の心に届いたのだろう。初老の男の肩の震えは止まっていた。礼を、また、ちゃんと礼をさせて欲しい。君たちが、居てくれた御陰で、私の、私の娘が、まだ、助かる可能性が、見えた。ありがとう。ありがとう。初老の男が絞り出すように細々と紡いだ声は頼りなく揺れていて、彼の頬や、唇、顎が細かく震えていた。

 

 

 その光景を見ていた不知火は、呼吸が難しくなるのを感じた。初老の男が漏らした『娘』という言葉と、レ級を優しく見詰めていた彼の眼差しが頭の中で結びつく。大富豪の時、初老の男はレ級に勝ちを譲った。あの時の懐かしそうなものを見る優しい眼は、娘との昔日の思い出と、レ級の快活な笑顔を重ねていたのかもしれない。

 

 

 初老の男はまだ何かを言おうとしていたが、それは言葉にならなかった。その代わりに、彼の感謝は涙となって流れた。初老の男は、戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人に両手を握られている為、その涙を拭わずに俯く。頬を伝うその涙が床に落ちるよりも先に、「ご無礼を」「お許しください」と、戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人が、初老の男の涙を指でそっと拭った。港湾棲姫と集積地棲姫が、人間の涙というものを珍しそうに見ていた。少女提督がハンカチを取り出し、初老の男に駆け寄ろうとしている。

 

 

 

「……先ほどの言葉を、今は撤回しよう」

 

 少しだけバツの悪そうな笑みを浮かべた中年の男は、少年提督の肩を叩いた。

 

「深海棲艦との共存は、私などでは想像する事が出来ない形で、実現が可能なのかもしれないね。その限界は、まだ見定めるべきではないと……、そう認識を改めるよ。ただ、時間が掛かるのは事実だと思うよ。人々の憎悪や恐怖が、深海棲艦達というものから遠のくまではね」

 

 悪徳を担ってきた中年の男の言葉には、不思議な重みのようなものがあった。少年提督は、中年の男に何かを答えようとしたが、曖昧な笑みを浮かべただけで何も言わなかった。中年の男が口にする『時間が掛かる』と言う言葉には、“時間が足りない”という響きが在ったからもしれない。不知火は、自分の胸の中に拡がっていく漠然とした不安を跳ね返すことが出来ないまま、この部屋を見渡した。

 

 此処は、地下に拵えられた、研究施設の一室だ。そして、人間社会の上流階級に巣食う闇と、人類の敵であった筈の深海棲艦達が出会う処だった。ある意味で、深海よりも深く、暗い場所なのではないかと思う。しかし、そんな深淵のような場所であっても、一人の人間の大事な思い出と、大切な人が救われて欲しいという切実な祈りと、涙と、それを受け止めようとする純粋で高潔な意思が存在する事は、何かの奇跡だと思った。

 

 ただ不知火達だけが、この景色の中に馴染めず、中途半端な場所に立ち尽くしている。不知火の息苦しさを無視しながら、重みの無い、優しい静寂がこの部屋に満ちていく。木曾は難しい顔で視線を下げていて、天龍はそんな木曾の横顔を見詰めていた。この場に居る“艦娘”という存在が、酷く場違いで異質な存在に感じたのは不知火だけでは無かったようだ。その事を確認して安心しようとする自分に嫌悪する。

 

 自分の存在を疑いながら、野獣がこの場に居てくれたならと思った。あの突拍子も無い下品で馬鹿馬鹿しい言動は、立ち尽くす不知火達を問答無用でこの景色の中に引きずり込んで、不知火の内部を支配する焦燥や不安を有耶無耶にしてくれるだろう。ただ、この場に野獣は居ない。それだけの事だった。私達は、何の為に戦っているのだろう。不意に頭に浮かんだその問いは、不知火の心の深く暗い部分に落ちて、消えない木霊を残した。

 

 








シリアス色は、これから濃くなっていくかもです……。
少しずつ妄想を形にしているような状況ですが、なんとか次回更新を目指したいと思います。
今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございました!

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