竜娘の異世界旅行記   作:ガビアル

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十三話

 端的に言って死にかけた。

 死ぬかと思った。

 それほど厳しかった。空腹は。

 

 買い込んだパンをまた一つ取り出し食いちぎる。堅いパンだ。本当はきっと飲み物に浸して柔らかくして食べるのだろう。幾度か噛み、飲み下す。食べ終えるともう一つ取り出し、また口をつけた。

 

「……よく食べるというものではないな」

 

 馬を御すフレッドが呆れた顔と声でぼそりと言ってくる。おれはむぐむぐと声にならない反論をすると、チーズを取り出し口に入れる。味にもやはりアクセントは必要だ。

 

「そーいうなよ、本当にもう腹減って腹減って気失いそうになるんだけど寸前でやはり止まってしまうんだ、いやもう背負われてた時とかお前の首筋に噛みついてくれようかと思ったぐらいだよ」

「道理で殺気に近いものを感じたはずだ」

 

 苦笑いを返しながらフレッドは首筋を撫でる。割と笑い事ではなかったのだ。もう少しで竜から吸血鬼か何かにジョブチェンジするところだった。

 実際あの時の空腹ときたら思い出したくもない。でっかく変身した猪男だの、配下のゾンビーズだの、実際におとぎ話っぽい竜に変身できちゃった事だの、何やらおれっぽくない言い回しが口をついて出た事だの、驚くべきポイントは幾らでもあるのだが、それを吹っ飛ばしてしまうほどの空腹感、飢餓感。

 宿に辿り着いてからは食べっぱなしだった。翌日のために買っておいた食料は全て平らげてしまい、朝市がほどなく始まったので食料を仕入れながら山のように食べた。一日の食費で銀貨が二十枚吹っ飛んだのは初めてかもしれない。五人家族の一ヶ月分の収入を食いきってしまったのだ。

 いやもう本当懲りた。何か嫌な予感がしてたのはこの事だったらしい。もう二度とあんな姿になどなりたくない。ガス欠もいいところだ。

 

「一芸が身についたのは収穫だったけどなー」

 

 口を開いて炎の吐息、ぼふと空中に赤い炎が舞う。原理はよく判らないが一度火を吐くコツを覚えてしまうと後は簡単だった。

 

「便利なものだ、今度から焚き付けを頼むとしよう」

「……せめて旅芸人でも食っていけそう、くらいは言えないのか」

「女の旅芸人は大抵芸技の後で自分自身も提供するものだが知っているか?」

「ああ……あー。そういうのがあるのか」

 

 どうも性欲だのとは疎遠になっている。今ひとつ思かなかった。というか人の事をちょっとそういう対象としては見られないような気もする。ミラベルさんが可愛い! や、フレッド痩せマッチョかっけーとか、そんな小学生並な感想は抱けるというのにだ。

 フレッドは剃ってないせいで伸びてきた髭をざらりと撫で、何となく……といった感じでおれを見る。

 

「しかし巨大な竜にか。確かに大きな音は響いていたが……そんな体で炎を吐けば夜目にも目立つと思うのだが」

「……あー、ええとちょっと待てな、あの時の感じ思い出すから」

 

 むむ、と再考。あの姿の時の感覚、何というか、今のおれだと力足らずなので、小さいままで密度を高める事ができずあんな巨体になってしまった。そして、その後の広がった思考と知性、あるいは感覚。

 ……はて。思い出してみてもよく判らない。どう言えば良いのだろうか。

 おれは頬を掻きながら言う。

 

「んー、被害が出ないように空間ずらして、そのずらした部分の中で焼き払った、らしいよ」

「……なんだそりゃ」

「なんだろうな、あの時はしっかり理解してたんだけど、今は何をやったかくらいしか理解できないというか」

 

 まるで感覚が掴めない。何をやったかは覚えていても、その過程が理解できない。空間ずらしてとか、どこのSF超能力者だというのか。

 当然ながら要領を得ないおれの説明にフレッドは肩を一つすくめるのみだった。

 おれも考えるのは放棄し、再びパンに食いつく。どのみち同じ様な機会はそうそう来ないだろうし、考えるだけ無駄ではあるのだ。

 

 起伏を縫うように走っている街道を行く。

 どこまでも、どこまでも同じ様な高さの低い山が連なる風景だった。後ろにしてきたタウリスもいい加減山の中だったが、そこから西に進むとまた一味違う。徐々に緑が増え始め、草花も多く見えるようになってきた。心なしか気温も少し暖かくなってきたような気もする。木々の種類も増えてきたかもしれない、背の低い木ばかりだったのがいつしか見上げるほどの木が見えるようになっていた。

 

「ちょっと来ただけで風景ってな変わるもんなんだな」

「この付近は雨もそれなりに降るからな、大体タウリスの西あたりから気候が変わり始める。高原から次第に低地に移り、北に行けばカラデニズ湖より流れるデニズィア川、南は東西に流れているタージル川により区切られている。山は多いがいずれも低山だ、夕頃には着くだろうが、ここからさらに西のバスティアという町のあたりまで行けば林業も盛んになってくる。そこで取れた丸太を筏のように組み、タージル川に乗せ、沿海州の北石湾まで運ぶんだ。途中で石切場から石を積んだりもしてな、なかなか面白い光景だぞ」

 

 フレッドはそんな説明をしてくれる。相変わらずどこで仕入れたのか、物知りな男だった。

 

   ◇

 

 フレッドが言うように日も傾いてきた頃には風景もすっかり木々が生い茂るようになっていた。藪があったと思えば、雑木がわんさと葉を茂らせ、蔓が巻き付き、小さな白い花を咲かせている。砂漠や荒涼とした今までの場所ではなかなか聞く事のできなかった気の早い虫の音色が聞こえるようにもなり、どこか賑やかだ。ぽつりぽつりと民家が見えてくる頃になり、小山のようになっている部分を越えると、眼下にはゆるい盆地、柵に囲まれた町が見えてきた。

 最早慣れっこになった検問での荷検めを終え、預け所で馬車を預けると、今回はトーリアを預けず、手荷物を持ち、手綱を引いて、酒場に行く。行く途中であちこちから出ている白い煙を見ていると、フレッドがのんびり歩きながら言った。

 

「バスティアは保養地としても有名でな、温泉が湧き出ているんだ。金持ちも忍びで来る事が多くてな、バスティアの二枚壁と言えば有名な話だ」

「なんだそりゃ?」

「文字通り二枚の壁さ、最初はただの保養地だったが、段々秘密裏の会合を行う場所としても重宝されてきてな、あちこちに音を通さぬよう特殊な作りにした部屋がある。この付近の勢力はバスティア都市同盟と呼ばれる横の繋がりで結ばれた勢力なんだが、名前の由来になっているのもここで盟約を交わしたからだそうだ」

 

 いつものようにフレッドの蘊蓄を聞きながら歩いて行き、中央から少し外れた酒場の前に止まる。すぐ済む、待ってろというのでトーリアと共に外で待っていると、ほどなくして大きな袋を抱えたフレッドが出てきた。

 

「今日はここで泊まりか?」

「いや、今日は北の山場の方までもう少し歩く。炭焼き小屋があってな、そこで一泊だ。今の時期なら炭焼きも終わって空いている。近くに温泉も湧いているようだ、やはりここに来たなら行ってみんとな」

 

 うん、まあ。正直嬉しい。こんな地まで来て温泉入れるとは思っていなかった。思わず気が緩んでしまったらしい、尻尾がばたついてしまった。

 

 町を抜け、一時間ほども歩いた場所にその温泉はあった。

 かなり適当に建てられたものらしい小屋を入り口とし、露天風呂になっている。温泉部分は石造りの枠で作られており、小屋とは対照的でいかにも本格的だ。何でも昔の遺跡の一部だそうで、もう形もほとんど残っていないが、貴人の館か別荘かみたいなところだったらしい。その風呂部分のみをこういう形で利用しているという事のようだった。

 適当に泥や浮かんでいるゴミを掻き出し、入ってみる。泉質によるものか、温泉の中に見える底石は一面が真っ白にも見えた。カンテラの明かりに照らされ、ゆらゆらと淡く反射している。

 

「ふうあぁ……」

 

 何時ぶりだか判らない感覚に思わず緩みきった声が出てしまった。多分普通よりかなり熱め。フレッドは慣らしてから入った方が良いかもしれない。

 

「フレッドも別に気にせんで一緒に入りゃいいのになあ」

 

 あの男はやはり戒律なのかそう育てられたのか、男女の区分けを頭の中でしっかりする部分がある。それはおれの素性を知ってなおの事だったので無意識にそうしてしまうくらいすり込まれているのだろう。やはり今も先におれを温泉に入れ、自分は馬の手入れをしていた。

 無意味に尻尾でちゃぽちゃぽ水面を叩きながらくつろぐ。話相手が居ないとちょっと暇に感じなくもない。屋根がないため夜空がよく見える。少し欠けた月だ、そういえば新月になるのを観測するだけのお仕事もあるのだったか。国によって暦が違ったりするから中々面倒だとフレッドがぼやいていた覚えがある。

 などとぼんやり寛いでいると入り口の小屋で何やらどたばたと物音がし、次いで子供が騒ぐような声が聞こえた。むむ、と思い、湯船に立つ。何かあったのかと湯から上がり小屋を覗くと、フレッドが少年を押し倒していた。

 

「……な」

 

 そのあまりにあんまりな光景に絶句。少年は逃げようともがいているようでもある。服が破れ剥き出しの白い肩がテラテラと松明の明かりを反射していた。いかん、これはあれか、俗に言う衆道という奴なのか、そっちの気があったのか、ミラベルさんに何て報告すればいいんだ。

 混乱しながらもとりあえず、体の水気を拭くのもそこそこに慌てて近づき声をかけた。

 

「な、なあフレッド、人の趣味はどうこう言わないけど、だ、男色とか理解はしないけどそういうものもあるって知ってるけどな、あれだ、ほら、無理やりはよろしくないかと」

「……まず落ち着けエフィ」

 

 ちらりとこちらを一瞥すると、フレッドは大きく溜息と共に言った。

 

「物盗りを捕まえただけだ、それと服を着ろ」

 

 おれは黙って下がり、体を拭く。軽く埃を払った服を着込み、戻った時にはその物盗りらしい少年は縄で拘束され、悔しげに床を睨んでいた。

 

「騒がしいと思ったけど何事? 何で少年が拘束されているんだ?」

「無かった事にするか。ならそうだな、塩抜きの食事が三日続くのと素直に頭を下げるのとどちらがいい?」

「勘違いしてゴメンナサイ」

 

 言い終わると同時に頭を下げた。食の危機にはちょっとしたプライドなど安いものなのだ。

 フレッドは鷹揚に頷くと、相変わらず床を睨んでいる少年を顎で示し「リヤードというらしい」と言った。

 何でも馬の手入れをしているフレッドに気付かず、小屋に置いたおれの荷物を盗もうとしたのだとか、うん、残念だった少年。おれは鈍いがもう一人はとびきり敏感なのだ。それはもうお前野生動物と違うか? と言いたいくらいに。

 

「……ンだよ?」

「いや、運が悪かったなーと思って」

 

 何となくぽんぽんと少年の肩を慰めるように叩いていたら睨まれた。赤茶けた髪に琥珀の目、普段は勝ち気なのかもしれない、悔しげな目でまっすぐにおれを睨んでいる。そういえば、と気になってフレッドに聞いてみた。

 

「そういや、この辺だと旅人の荷を盗もうとしたのはどんな罰になるんだ?」

「さてどうだったか。この辺りの決まり事としては確か見せしめも兼ねて指四本の切断刑だったか」

 

 少年がヒュッと息を飲むような音を出した。

 フレッドは無表情に見せているが、最近は段々何となく判ってきた。唇の端が少し上がっている。おれは肩の力が抜ける感覚を覚え、呆れの溜息を小さく一つ。

 

「……脅すのもいいけどさ、まだ見たとこ十かそこらだろ、さすがにそりゃ無いんじゃないか?」

「まあ、無いな。成人の十六までは鞭打ちが精々だ、ついでに言えば名も知れぬ余所者相手だからな。不問に帰される事も多い。もっとも、図に乗るような奴が現れると見せしめに手を断つくらいはするだろうが」

 

 などと肩をすくめて言う。少年も何とも言えない顔で文句を言いそうになり、そう文句を言うのも悔しい気分になったのか、複雑な顔でやはりうつむいて溜息を吐いていた。

 

「大体こんな物を持っている盗人などいまい」

 

 持ち上げたのは小型の弓? いや、確かクロスボウとかボウガンとか言う奴だったか。張られた弦はともかくとして、軸に妙なレバーがついている。なんだこりゃとへこへこいじっていると補足するようにフレッドが言った。

 

「それは羊の足と言ってな、弦を引く為のレバーだ」

 

 こうして使う、とレバーの中程から出した爪を弦に引っかけ、そのまま押し込むと、弦が引かれた。おもむろに外を狙い、トリガーを引くとブンと硬い弓鳴り音。

 

「子供の力でも何とか引けるように調整されている。大物はとれんだろうが、山羊か鹿くらいまでなら上手くいけば仕留められるだろうな」

「猟師か何か?」

「だろう、手ぶらなところを見ると獲物が獲れなかったか。だがまあ、猟犬も連れず、子供一人で山に入るなんぞは昼間であっても論外だ。訳有りではあるんだろうな」

 

 クロスボウを皮のケースに入れたフレッドは少年の前にそれを置き、拘束していた紐をほどいた。驚くように目を開いた少年に、肩を揉みながら言う。

 

「見なかった事にしてやる、行け」

「……い、いいのかよ?」

「殴ってほしければ殴ってやるが、生憎そういう趣味はない、自警団に突き出すのも手間だ」

「感謝はしねーぞ」

 

 と言って走り去ろうとする少年の手を掴んで止める。

 

「……エフィ」

「ちょっくらその訳ってのを聞かせてくれる?」

 

 呆れた声を出すフレッドは置いておき、少年に尋ねる。少年はしきりに掴まれた手首をもぎ離そうとしてくるが、当然ながら子供の力で外れるもんじゃない。いや、大人の力でも無理だろうけど。

 やがて諦めたのか、一言二言悪態を吐くと、渋々説明してくれた。

 どうやらこのリヤード君、病気の父親に代わって猟をしようと山を駆けていたらしい。父の猟犬は老齢でとても動かせるものではなく、ここ一ヶ月は食いつなぐ程度の獲物しか狩れていないのだとか。大抵そういう人達は横の繋がりがありそうなものだが、肝心の父がそういう狩猟仲間を嫌っていたため、子供に苦労が行ってしまっている、という事のようだった。

 

「なるほど、んじゃ獲物が獲れれば良いんだな」

「気軽に言うなよ……」

 

 呆れた様子で溜息を吐くリヤード君。フレッドは何となく察したらしく肩をすくめ、言った。

 

「エフィ、獲物を獲る時は頭を狙うんだ、できれば殺さず気絶させるのが良い。腹は狙うな、腸が破裂したりすると肉が臭くなる」

「了解、ちょっと行ってくる」

「な、え、待て、何で? 何で?」

 

 混乱するリヤード君にフレッドは若干の苦笑を送った。

 

「リヤード、その女は狩猟の名手だと思え、この山はお前の方が詳しかろうし案内してやってくれ、小物など狙わず猪なり熊なり大物を狙っていくといい」

「あんたは何言って……って、あ?」

 

 よいしょと少年を抱きあげると面白い形で顔が固まった。起きだしてきたミアを呼び、首に巻き付けた布の中に招きいれる。胸元から顔だけ出す形で小さく鳴いた。

 

   ◇

 

「……死ぬかと思った」

「男なんだから情けないこた言わない言わない」

 

 若干涙目で顔色を白くしているリヤード君の肩をぽんぽん叩く。

 あまり時間を無駄にするのも何なので、抱き上げたままそれなりに山の中を走ったり跳ねたりして中腹まで登ってきたのだ。ミアは慣れてしまったのかリラックスしたままだったが、考えてみたらジェットコースターに乗った気分だったのかもしれない。いや、でもそれなら。

 

「……楽しくはなかった?」

「たた、楽しいわけあるかッ! 何であんな速さで木が迫ってくるんだよ! 何であんな崖を飛び越せるんだよ! てか途中で木の上飛んでたろ! 猿の群れが騒ぎまくってた!」

 

 がーッとまくし立てるリヤード君。怖がりながらも案外冷静に観察していたようだ。

 現在地は山に入る林道を見渡せるちょっとした高台の上。剥き出しの岩場にしがみつくように小さな木々が生えている。

 

「で、小さな狩人さんや、どの辺が狙い所?」

「……うう、本当にあんた名手なんだろうな? 足が人間離れしてんのは判ったけど」

「獲物さえ見えれば間違いなく、でも獲物見つけるのは苦手、そんなわけで案内頼むよ」

 

 納得はしてない様子で、それでもさっきの移動で納得せざるを得ないのか、とても微妙な顔でリヤード君はそっぽを向いた。

 

 さすが、少年とはいえ、狩猟で生計を立てる家の子の事だけはある。

 獣の足跡を見、草に引っかかっている毛を確認する、動物の糞を見、木の皮についた跡を見、それが新しいものか古いものかを見ていた。

 

「この木の芽はエルブが好んで食うんだ、でっかい鹿の仲間でさ、たまに狼も蹴り殺す事があるんだ」

「おー、どれどれ」

「人間には毒なんだけど……」

 

 確かにちょっと苦かった。

 などと呆れさせながらも、夜の森を歩く。ちょっとした思い付きのようなものだったが、リヤード少年は父に教えられた事をそのまま言ってるだけかもしれないが、教師に向いているかもしれない。おれが聞くと、判りやすくそれがどういう事なのかを勿体ぶりもせず教えてくれる。おれもこういう獲物を見つける技術のようなものを知りたかったのだ、ありがたい限りだった。

 やがてリヤード君は立ち止まり、緊張した面持ちになる。指に唾を付けて風向きを確認すると、声を小さくして言った。

 

「な、なあ、ほ、本当に熊も狩れる?」

「ん、いけると思うけど?」

 

 おれの軽い言葉がよろしくなかったか、リヤード君は渋い顔をして、風上の方向を指さした。木々の間、月明かりに照らされて微かに揺れ動くものがある。

 

「普通、夜に熊は動かないんだけど、腹減らせているのかも。木を剥いで舐めてる熊は飢えてるんだ、ど、どうしよ、一応狼避けの粉薬は持ってきてるけど、熊に効くかは判らないし」

「おお、本当だ。しかしよく気付いたなあ」

 

 狩人の目と耳、凄い。木々に隠れていて、本当にわずかにしか見えない。距離もあり、樹皮を剥ぐ音も他の小さな動物の動く音、鳴き声、雑多な虫の音に消されてしまっているというのに。

 

「まあ、とりあえず」

 

 と首元から顔を覗かせているミアを引っ張り出し、近くの枝に乗せる。

 

「え、や、やるの? えっと、ちょっと待って」

 

 クロスボウを慌てて用意しようとするリヤード君にいい、いいと手を振って答える。

 せーの、と呟き、地面を蹴り、一歩、二歩、三歩、木々の間を縫うように走り抜け、物音に気付いたらしい熊が振り向くのと同時に。その頭を殴った。

 殴られた勢いのままに熊は樹皮の剥けた松にも盛大に頭をぶつけ、鈍い音を響かせる。やがてずるずると力が抜けていった。触ってみると心臓は動いているようなので多分死んでないだろう。

 振り返り、こっちを覗いているリヤード君に手を振る。呆気にとられた顔に思わず少し吹いてしまった。

 

 林道をゆっくり歩いて山を下る。林道といっても人が通るようになって自然と踏み固められただけのような道だったが。

 おれはリヤード君が蔓で器用に作った即席の背負子で熊を背負っていた。むろんの事拘束済みだ。二メートル以上あるヒグマ、おれの身長よりなお大きいので、背負っても足がずるずると引きずられてしまう。

 

「何だかもう、ねーちゃんの事で驚くのは馬鹿らしくなってきた」

「そんな事言わず驚きに驚いてくれていいのに」

 

 ねーちゃん呼ばわりは若干アレな気はするが、こんな見た目なのでもう今更だ。しかし、この調子だといつまでかかるか判らない。おれは無言で少年の腰に後ろから手を回して抱き上げる。ミアを呼び、胸元に潜り込ませた。リヤード少年は恐る恐るといった様子で顔を上げ、言った。

 

「えーと、もしかして」

「結構この蔓も丈夫だし、多少飛び回っても平気かなと思って」

「い、い、嫌ああああああぁぁぁーーーッ」

 

 森に住む動物たちは初めてドップラー効果というものを経験したかもしれなかった。

 

   ◇

 

 入っていた温泉からそれほど離れていない一軒家がリヤード君の家のようだった、ひとまずヒグマを庭に運び込み、獲物を吊り下げておくらしい器具の近くに横たえておく。

 ドアが開き、カンテラの明かりがこちらに向けられた。父親だろう、病気という事だったが、確かに夜目にも顔色が悪い。おれと運び込んだ獲物を見ると、ぽかんと口を開けた。

 

「こりゃあ……」

「だから父ちゃん、俺は嘘ついてないって言っただろ!」

 

 リヤード君は信用してもらえなかったらしい。頭を押さえているところを見ると拳骨でも貰ってしまったようだ。

 

「とりあえず、まだ息は吹き返してないけど生きてるから、しっかり縛ってトドメ刺した方がいいと思うよ」

「あ、ああ……」

 

 そう言い多少慌てた様子で家に戻る父、その息子の方は何かハッと思いついた様子で、おれに向かって言った。

 

「そうだ、取り分決めてなかった! えーと……半々で良い?」

「んー。その前に熊の血抜きってどんくらいかかるもんなんだ?」

「……どのくらいだろ、さすがにこの大きさのだとよく判らない。ただ捌くのは明日になってからだと思う。今晩中に出来るのは血抜きと臓抜きくらいじゃないかな、その後は井戸水で冷やしておくんだ」

「そうかー」

 

 うん、考えてみたら、大物獲っても捌くのが大変だったのだ。迂闊。天を仰ぎ見る。胃袋が小さく不満の呻きをあげる。

 

「分け前はいらないから、そのな……すぐ食える肉とかないか?」

 

 腹をさすってそう提案した。

 

 フレッドの居る炭焼き小屋に戻ると、竃に大きな鍋が乗っていた。

 周囲には香草と野菜、複雑に入り交じった香りが漂い、食欲を刺激する。たまらず涎が口に充満し、ごくりと飲み込んだ。

 フレッドはその竃から少し離れたところで、松明の明かりを頼りにナイフを研いでいる。おれが近づくと、一言、成果はどうだった? とナイフを立てて片目で見ながら言う。

 

「ヒグマ狩って、鳩六羽に化けた」

 

 そう言って縄で括った成果を突き出す。フレッドはある程度予測していたのか、くっくと笑うと、鳥を受け取った。

 ふと首を傾げると、ひょいと荷袋をこちらに投げてくる。

 

「とりあえずもう一度温泉にでも浸かってくるといい、ヒグマの臭いが移ったおかげで猫が居心地悪そうだぞ」

 

「……あー、道理で何となく不機嫌なわけだ」

 

 やっと判ったかとなじるようにミアが地面に下りて小さく鳴いた。

 

 洗った服の水気を絞り、木々の間に張ったロープに吊す。あまり力を入れすぎないようにしないと、びりっといってしまう。何度か失敗して力加減は覚えた。

 髪を適当に後ろでまとめて縛り、炭焼き小屋の前の竃で何やら火加減をみているフレッドに近づく。

 石組みの竃の中では今までよく使っていた乾燥糞の燃料ではなく、どうも炭火のようだ。久しぶりに見た気がする。端切れのような炭ばかりなので、きっと商品にならないで置きっぱなしにしていったものなのだろう。その上に何やらフレッドは木を削って乗せている。モクモクとした煙が立ち昇り、それが竃にひっくり返される形で乗せられた大鍋の中に入っていく。

 

「ひょっとして燻製?」

「ああ、エフィが貰ってきた鳥は良い具合に塩で漬けられていたからな、燻すだけで立派な燻製になる。クルミの枝もそこらに落ちてるし、場所が良かった。鳩肉はさほど癖も強くないしクルミとの相性もいいだろう、しばらくは酒の肴に困らんぞ」

「おおお……って酒の肴にするなよ、おれにも食わせてくれよ、腹減ったよ」

「出来上がりは明日だ。あんたにはそっちの鍋を用意してある、もっともあそこまで早く戻るとは思わなかったからな、まだ味が馴染んでないかもしれんが」

 

 下に置かれている鍋を指す。おれは無言で食器を持ち出し、鍋の蓋を開けてよそった。たっぷりと。

 煮物なのかスープなのか、ロールキャベツに近いのかもしれない、団子状の肉か何かを葉っぱに包んだものがごろごろ入っている。そして芋や人参、きのこもたっぷり。

 小さいおにぎりほどもありそうなその包みを噛むと、甘みと香りが先に立ち、次いで肉の味が広がった。

 

「地方によって色々呼び方はあるが、要するに肉団子の葉包みだ。この辺だとナッツもよく出回るからな、前に仕入れて置いた干しぶどうとクルミを併せて肉と一緒に叩き、塩漬け葡萄の葉で包んだものだ。なかなかいけるだろう」

 

 してやったりという顔に何となく腹が立ったので体ごと横を向いて食べる。最後までスープを干し、一秒二秒迷ったのち、素直におかわりを所望した。

 

 鍋一杯分食べ終え、お茶を啜っているとミアがどこで仕留めたのか、バッタを獲物として咥えていった。こちらをちらりと見、大きな石の陰でかつかつと食べ始める。

 

「おお、もう自分で仕留められるようになってきたか、よかったよかった」

「なんだ、子供相手に善行でも積んでるのかと思ったがもしや狩りの練習のつもりだったのか?」

「……んー、半々か。何となくおれもこう本能というか何というか、楽しんでたところがあったし。獲物を見つけるやり方は知っておいて損はないしなー」

「猫を野性に戻すのはいいがその前に自分が野性に戻るなよ?」

 

 想像してみる。三秒で想像ついた。

 

「ごめん、野性に戻っても普通にパンか肉で釣られそうな予感がしてならない」

「自分で言うあたりがもうどうしようもないな」

 

 そう言い皮肉げに笑いかけ、流れた煙を吸い込んだのか、げほと咳き込んだ。

 息を鎮めると、フレッドは夜空を見上げ、月の位置を見ながら言う。

 

「温泉で疲れもとれた事だし、トーリアにも新鮮な牧草を食わせた。明日は天候も良さそうだ、早めに出て一気にアルノーまで詰めてしまうとしよう」

「んむ? もうそんなとこまで来てたのか」

「ああ、ここは一見内陸に見えるが、その実既に海に近いところまで来てるんだ。南山の頂上付近まで行けば見えるが、大きな半島が西にあってな、その南側の湾まで行けばアルノーだ。荷を置いたらしばらく休む。大きな都市だし物珍しいものも多い、いつぞや言った竜の話もあるし、確か祭りもやっていたな。まあ、楽しみにしておくといいさ」

 

 そう言い、茶を煽る。竃に土を被せて消火すると、さて寝るかと首をコキコキ鳴らしながら炭焼き小屋に入っていった。


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