教育実習も慣れてきた天気の良い日だった。朝から留美と校門の前で目が合い、無視されるもめげなかった。俺って朝から偉い。比企谷先生の悲しい朝の挨拶はそのまま消えていこうとしたが、おっとそこに弓ヶ浜さん。彼女ならきっと応えてくれるはず──はい。無視でした。眠いのか何なのか下を向いて歩いている。何か変なもんでも食べたのかな? 仕方がないので悲しい心を押し殺し、そのままそそくさと喫煙所に入ると、二日酔いの平塚先生が床に敷かれた体育用のマットで呻いていた。今すぐ指導教師を変えて欲しいし、きっとこのマット片付けるのは俺なんだろうなぁ。
「お、おはよう……比企谷……」
「先生……。家で寝ましょうよ……」
最近年の所為か飲むと家に帰れなくなっている事が多い平塚先生、酔っ払うと学校まで何とか辿りつくようにしているらしい。それで、警報を解除してここで寝ているというパターンだ。勝手に持ち込んだロッカーには既に代わりのスーツと白衣が収まっている。何時クビになっていてもおかしくない不良教師がここにいた。先週、気になっていた人にフられてからずっとこんな感じである。
「……このまま今日の会議は不味いな。比企谷、私は体調悪いフリをして保健室に酒を抜きに行ってくるよ。教頭先生に授業には直接保健室から行くと伝えてくれ。後、職員会議は1人で出て、要点をメモして後で私に教えてくれるとありがたい」
「わかりました」
心の底から冷たい目で平塚先生を見ると、流石にこれは不味いと判断したのか愛想笑いを浮かべてきた。
「……んん! そういえば、最近君を少しほったらかしすぎたな。すまなかった、比企谷。今日はこれできちんとしたお弁当を食べなさい」
先生が丸まった千円札を胸ポケットから出して投げつけてきた。何なのこの男らしさ。いや、確かに雪ノ下が言うようにこれではもはや雄だ。完全に自分が女性だと思っていない。いや、そもそも女性らしさとは何なのだろうか。男は男らしく。女は女らしくなんてこの平成の世では時代錯誤もいいところである。流石は平塚先生だ。何時でもどこでも俺に疑問と思考する大切さを教えてくれる。頭が痛くなってきたけど。
「鶴見の件はどうなったかね?」
「……知ってるんですね」
「一応、こんなんでも担任だからな。まるで、過去の自分自身を見ているようだったろう?」
先生は煙草に火をつけ、目を細めながらそう言った。あれだけ騒ぎになったとはいえ、そこまでわかっているとは流石である。当然の話だが、俺よりも留美の事はわかっているのであろう。どうでもいいけど二日酔いのくせに煙草吸って気持ち悪くならないのだろうか。俺は無理だ。
「あの合宿の時、君がした事は彼女に大きな影響を与えていたようだね。入学した時から見ているけど、君と雪ノ下を足して半分になった感じをまずは受けた。人間に対し、色々と諦めを持ち、だがそれでも嫌いになれない。1人になりきれない。だがしかし、学校社会から除外されない程度のコミュニケーション能力と、確固たる強さを持っている」
「俺がした事が完全に原因っぽいですよね……。本人からも自分も同じ事をしてたじゃないって言われました……」
「そう悪いようにとるなよ。君がやった事は素直に褒められないと言ったが、決して悪い事じゃないんだ。あの経験があったから、彼女は今も毎日元気に学校に来ている。そこは誇るべきだよ」
「わかりました……」
「比企谷──前にも言っただろう? 考えてもがき苦しみあがいて悩め──そうでなくては、本物じゃうぇぇぇぇっ! おえっ!」
平塚先生は限界を迎えたらしくとても素晴らしい言葉の途中で消火用のバケツに頭を突っ込み始めた。これ、俺が凄く感動した言葉なんだけどな。どっちにしろ今日の先生はまるで役に立たない。「ちょっ。ちょ、ま、待ってくれおぇぇぇぇ」と呻く平塚先生の方を振り返る事なく、俺は喫煙室を後にした。
●
平穏な日常は続く。あれだけの騒ぎになった我がクラスも時間が経てば表面上は何時も通りだ。留美は相変わらず1人で勉強したり本を読んだりしている。表立ってからかう奴は多くない。だが、偶に笑いものにしている奴もいる。それらを完璧に無視しているのだから本当にどこかの誰かさんみたいだ。ちなみに俺の時はもう少し酷かったけど。平塚先生は1時限毎に命をすり減らしながら授業をしている。たとえ二日酔いであっても生徒の前では何時もの平塚先生を装っているのは凄い。お願いだから実習生の前でも装って欲しい。
「太陽光を浴びて酒を抜いてくる」
昼休みになると、そんな国語教師とは思えないような意味不明な台詞を残して先生は屋上へ向かっていった。もういい。不良教師の事は忘れて俺は奉仕部の部室に行くとしよう。雪ノ下も来るとは言っていたがそこまで暇ではないだろう。まずは、あいつが来る前に留美ときちんと会話できるようにしなくてはならない。味方が居るとしても最低限やれる事はやっておくのだ。そして、部室のドアを空けると、
「出てって」
俺、即、斬が入りました。新撰組もびっくりな速さである。更に──
「鶴見さん。警察を呼びましょう。おおよそ教師のようではない不審者が校内にいますと通報した方がいいわ」
雪ノ下は既にもういた。ねぇねぇ、どうでもいいけどゆきのん。君、昨日俺の味方してくれるって言ってなかった? 何でルミルミと組んで邪魔してくるの?
「……おい、雪ノ下。今の場合、どちらかというとお前のほうが教師のようではない不審者だからな」
「言うわね。でも、女子生徒と男性教師が昼休みに密室で2人きりで居るほうがよっぽど問題だと思うのだけれど。……仕方ないわ。入りなさい」
何故か雪ノ下に許可されるような形で部屋に入る事が出来た。おかしい。こいつ業者の人間なのにどうして学校に認可された実習生の俺が入室許可貰ってるんだろう。俺と雪ノ下のやり取りに少しだけ驚いたのか留美は何も言わない。これで、昼食難民ではなくなった。席は昔とあまり変わっていない。雪ノ下が座っていた場所には留美が座り、由比ヶ浜が座っていた場所に雪ノ下が座る。俺だけ座る場所変わってない……。
「そういえば、雪ノ下さんと八幡って同じ奉仕部だったんだね……」
流石に雪ノ下が居る手前、俺の事を完全に拒絶はできないようで、ぽつりと留美が呟く。後、何で俺だけ呼び捨てなのかな?
「そういう事になる。……2人はどうやって知り合ったんだ?」
「平塚先生から奉仕部を復活させたと聞いて、何か協力できる事はないかと聞いてみたのよ。それで、フリースクールへのボランティアや保育園へのボランティアの橋渡しを少し手伝っただけよ」
すげぇな相変わらず。俺には全く声がかからなかったのに。完全にこれアレだよ。俺にだけ内緒で同窓会とかやってたパターンと一緒だ。でも間違いなく行かなかっただろうけど。そんな俺の心情が透けて見えたのか、雪ノ下はとてもいい笑顔を作ると、
「貴方に声をかけても、特に得られるものがないから仕方ないわ」
「う、うるせぇ……!」
それしか言い返せなかった。仕方なし。そもそも毎日生きるのに必死だったから仕方ないの!
「雪ノ下さん、テレビにも出てるから色々と話が早く進んでありがたかったです」
「え……? テレビ……?」
何それ全然知らない。そもそもうちにあるテレビ地デジ対応してない。義輝が貢いだ女から「私だと思って大切にして」と実家の廃棄物を押し付けられた形であるだけだ。ゲームしか出来ないじゃん。
「ええ、私は広報的な役割を務める事もあるから。姉さんが今まで出ていたのだけれど、やはり若さは強いわね。最近では私だけにオファーが来るようになったわ」
何時の間にか敗北していた陽乃さん。姉妹のパワーバランスが崩れかかっている。だから最近八つ当たりみたいのが多かったのか。何て女だ。人の事をサンドバッグが何かだと思っているのだろう。何処と無く雪ノ下も得意げだ。目の前にいるもっと若くてもっとスタイルが良い奴にいつかとって代わられない事を切に願う。
「まさかお前がテレビに出るなんてなぁ……」
「将来の為よ。母が何か面倒くさい事を言ってきたら、テレビやネットで洗いざらい文句を言ってやるわ。最近、自分の事を棚に上げてすぐに文句つける人間が多くてやりやすい事この上ないわね」
何時の間にか炎上商法まで覚えたようだ。人の成長というモノを感じる。どうでもいいけどこいつ結構ネットに毒されているのか発言が昔より過激じゃない?そして雪ノ下と留美は顔を見合わせるとニコっと笑いあった。とてつもない疎外感を感じる。言っておくけど、ここに臨時顧問もいるからね?
「そういえば鶴見さん。今日はフリースクールに行く日よね? 最近はどんな活動をしているのかしら?」
「今日は低学年の子が多い日なんです。前に本を読んで欲しいってせがまれてるので、何か読んであげようかなと」
「良い事ね。そういう事ならば、パンダのパンさんがオススメよ」
「え……。パンさん、ですか……? うーん。何かちょっと子供っぽ過ぎません?」
──その瞬間。部屋の温度が一瞬下がったかのような錯覚を覚えた。雪ノ下の笑顔が固まっているが留美は気づいていない。そして、俺と目が合う。その笑顔怖いって。抑えろ、心の底から念じた。ここでお前が食い下がっては変な空気になる。落ち着け。……俺の言葉が伝わったのか、はたまた大人になったのか雪ノ下は笑顔のまま何も言わない。
「まぁ、パンさんもいいけど。小学生ならもう、きつねにょうぼうとか王さまライオンのケーキとかでいいんじゃねぇかな」
「……うん。まぁ、確かにその辺なら。…………じゃあ、今日の放課後図書室に集合で。そこで本を見つけてフリースクールに行くから」
…………多分、これ俺に言ったんだよな。どうやら、少しだけ話してくれる気にはなったようだ。雪ノ下グッジョブ。だからもうその笑顔はやめてくれ。
●
放課後。俺が図書室に行くと留美はもう本を借りていた。平塚先生にはもう俺から話は通してある。未だに抜けない二日酔いを見破られないため教頭先生から逃げまくっていたが何とか見つけ出した。本当に何なのあの人。そのまま校内を通って留美とは一定の距離を保って歩いていく。一緒に居るのあんまり見られたくないだろうし。やはりだが、廊下をすれ違ってもヒソヒソ話は聞こえてくるもんだ。山羽という男の影響力は凄まじい。隼人も似たような感じだったが、今では見る影もない。今なら米10キロと引き換えであれば壁ドンぐらいはやりそうだ。だが、このままでも気まずいし、ついでに学校も出たのでもう会話しても良い頃合だろう。
「留美。ボランティアって保育園だけじゃなかったんだな」
「……雪ノ下さんが最近紹介してくれたとこから今日で三回目ってだけ。まだ正式に何時も来てもいいって認可が下りてるわけじゃないの」
「へぇ……。雪ノ下、そういう人脈作るのとか一番苦手だったのに面白いな」
「雪ノ下さんの事はあまり覚えてないけど、昔はもっと冷たい人だったの?」
「冷たいというよりは、不器用な奴だった。俺と雪ノ下の2人で最初は活動してたんだが、いかんせん俺達はコミュ力が無くてなぁ。よく、そこを後から来た由比ヶ浜って奴に助けて貰ってたんだよ」
「ふぅん……。ぼっちじゃなかったんじゃん。あんな可愛い人達と一緒でさ」
「言っておくが卒業式の時、俺は1人で校門から出たからな。そういう意味じゃ総武を卒業した時にはまたぼっちに戻ってたぞ。終わり良ければ全てぼっちだ。良くなかったけど」
「…………でも、今日凄く仲良さそうだったけど」
「お前にゃわからんだろうし、俺も最近思い知ったんだが、しがらみってもんは全部捨てたと思ってもついてくるもんなんだ。……だから、ついてきたものは大事にしておけよ」
卒業式の日。俺は全てを捨てたつもりでいた。あの日話しかけてきたのは一色と小町ぐらいだったか。彩加とは顔を合わせ辛かったし、義輝の事は忘れた。本牧と握手ぐらいはしたかな。こっそりと平塚先生にだけ挨拶しに行って、1人で校門を出たのは今でも鮮明に思い出せる。──あれから4年。何だかんだあの日捨てたと思ったものは、未だに手の中にある。
「……ま、考えとく」
凄く良い事を言ったと思ったのに鼻で笑って流された。でもまぁ、しょうがない。多分今はわからないだろうし。このまま一生わからない可能性だってある。でも、わかってくれたらいいなと思う。こいつは性格が悪くてぼっちではない。誰かが困ってれば助けてやるし、人に対し諦観した感情を持っているだけだけだからだ。そんな事を考えていたら、何時の間にかフリースクールのある建物まで来ていた。よし、教師モードに入ろう。職員の方々に悪い印象を与えてはならない。
「失礼のないようにね」
「ねぇねぇ、それ普通、俺が言う事じゃない?」
「いや、目つきキモいから」
「それは言い返せない……」
「それは言い返そうよ……」
小気味いいやり取りを終えて2人でため息をつく。そして俺達は門をくぐってフリースクールの中へと入っていった。
●
フリースクールでの事で特に言うべき事は無い。留美はそこに通う低学年の子供達に懐かれてるらしく希望どおり本を読んであげていた。俺はというと、やはり馴染めなかった。子供達は警戒心をまるで隠そうとしなかったし、最後の方にはボランティアの職員の方が俺の相手をしてくれた。泣ける。そこでも、色々な話をきけたので良しとしたい。雪ノ下の親父の話。雪ノ下母の話から始まり、このフリースクールは学校に行けない子供達の学校への復帰を目指した施設だという事まで。不登校。俺も教師であれば目を背けられない事だ。知っておいて損はない。今でこそ思うが、よく俺不登校にならなかったよな。偉い。そうこうしている内に6時を過ぎた、やべぇ日誌書かなきゃ。留美も生徒も帰り支度を始めたので、俺も退散。
「……後、保育園に寄って打ち合わせして行くから先帰っててもいいよ」
「いや、お前1人残して帰れるか。最後まで付き合うよ」
「……そ。まぁ、後悔しないといいけど」
え、何最近の保育園ってそんなに怖い所なの? しかしまぁ、そんな事は置いといてそろそろと本題に入りたい。
「……。学校で、色々と言われてるみたいだな。後、この前はごめんな。俺も頭に血が上って言い過ぎた」
「……別に。知っててやった事だしもうどうでもいいよ。あれが解決に一番速かったし。その分こうして、早くに何時もの活動に戻れるならそれでいい」
自覚してから会話すると、本当に昔の自分がそこに居るようだった。留美と俺の最大の違いは、部活動──俺は本を読んでいただけだが、留美はきちんとボランティアをやっている。今日だって不登校の子供達と上手く会話をしていた。俺と雪ノ下にあれは無理だ。由比ヶ浜でも上手くやるのは難しかっただろう。傍から見ていただけだが、上手く心に寄り添ってやっていた。留美は迫害される痛みを知っている。また、その行為の愚かさも知っている。留美が小学生の頃、何度か俺も話しかけはしたし手も打ったが、結果はこんな状態だ。強いだけ。負ける事に関しては俺が最強とかほざいていたどこぞの馬鹿に近くなってきている。
「そうか。……でも、困った事があれば平塚先生には言えよ」
「わかってるよ。……私は大丈夫。もう、周りには屈しないし。何があったって大丈夫」
──それだ。かつての俺もそう思っていた。何も失うものがないから。最下位が更に下に落ちていくだけだから。そんな傲慢さが、周りを壊しかけた。きっと留美にはわからない。俺もわからなかったからだ。近い距離にある人間は普通誰もそんな事をしないからだ。留美が同じ事をやってようやく俺も思い知る事ができたぐらいだから。何を言っても理解まではできない。
「お前は強くなったって、周りはそんなに強くない。それだけは忘れるな」
「……何の話?」
「別に、ぼっちの先輩からのありがたいアドバイスだ」
「リア充じゃん。雪ノ下さんと付き合ってたんじゃないの?」
「……ねーよ」
「ふぅん。じゃあやっぱあっちか……」
意味深な台詞を残して留美はすたすたと歩いていく。どうやら保育園についたようだ。在学中も何度か通ったことがある。比較的大きな保育園だったような気がする。
「園児が怖がるから、入ってこないでね」
「お前なんちゅう事を……! でも、否定できない……」
「軽い打ち合わせだけだから、すぐに済むよ。そこの自販機でジュースでも飲んでて。…………あ、お金ある?」
「あるに決まってるだろ……」
生徒に財布事情まで心配されてしまった。ふざけんな。ジュース飲む金ぐらいあるわ!あ、……うん!ごめん!ジュース飲めない。水しか飲めなかった!マッ缶とか好きじゃねぇから。水が好きだからオーラを出しつつ、何とか意地で水のペットボトルを購入した。留美はそれを呆れたような目で見た後、保育園の中へと入っていく。バレてないよね?年上の威厳保てたよね?それにしても味気ねぇ。ゼロカロリーコーラを少しは見習って欲しい。どうして同じ0カロリーなのに水は甘くないし腹にも溜まらないの?なんて哲学的な事を考えていると、
「あれ? お子さんのお迎えですか?」
背後から声をかけられた。……いかん。こんな日も落ちた時間にスーツを着た俺みたいな奴が保育園のまん前で水を飲んでいるのはどう考えても怪しい。多分、保育園の先生だろう。
「あ……いや、その……」
「お子さんのバッジ見せて頂けます?」
そういえば小町に聞いた事がある。最近の保育園では親子でペアのバッジを持っていてそれがないと子供は引き渡す事ができないのだと。このままでは通報されかねん。信じて貰えるかどうかは微妙だが、
「あ、いや。その。私総武高校で教師をやってまして……生徒の付き添いで……」
「ああ、じゃあ留美ちゃんの。あれ? という事は奉仕部の先生……?」
おお、この人話がわかる人だ。安堵とともにくるりと先生の方を向くと、えらい美人が居た。そして、どっかで見た事のあるお団子の髪型。少し茶味がかかった黒髪。そこまで見ると何処かで聞いた事のあるような声だった。向こうも向こうで俺の事を認識したらしい。まず髪型を見て、次は多分目。というか、眼鏡を見ている。そして──
「あっ──ヒッキー?」
「──由比ヶ浜……!」
時間が止まったかのような衝撃。お互いポカンと口をあけて見詰め合っている。最初に脳が動き出したのは誠に遺憾ながら由比ヶ浜の方だったらしい。
「あ、あれ? え? ヒッキーが先生? え? マジ? ありえない? 何で? 寝癖もないし何かお洒落眼鏡かけてるし……あれ?」
どうやら脳みそが限界を超えたらしい。言われて見りゃ昔の俺と違って髪は毎朝セットしてるし、一色から貰った眼鏡もかけている。しかも極めつけは教師だ。同級生の誰もが俺が教育実習やってるだなんて思わないだろう。むしろ比企谷って誰?ああ、ヒキタニ君ねでもまだ良い方だ。俺はと言えばまぁ割と納得だった。雪ノ下がどうせ会うって言ってたのもわかる。保育士という仕事も優しい由比ヶ浜のイメージと合わなくもない。
「……お前、雪ノ下から何も聞いてないんか」
「え? ゆきのん? 昨日電話したけど、何かヒッキーが総武の辺りをうろうろしてるから気をつけてって言ってたけど……」
何なのあいつ。まるで俺が不審者みたいな──とまで言いかけて気づく。間違いなく、不審者でした。由比ヶ浜さんめっちゃ疑って声かけてきました。間違ってない。悔しい。
「総武高校で教育実習やってるんだよ……。奉仕部の顧問は、まぁ、平塚先生に命令されてな」
「へぇ……。凄いねヒッキー。でも、びっくり。あのヒッキーが教育実習だなんて。昔のあたしに言っても、絶対に信じないよ」
「……そうかもな。俺だって信じない」
「でも、なりたかったからなってるんでしょ? ヒッキーは優しくて何時だって誰かを助けてたから、あたしは凄く合ってると思うよ」
「ありがとよ」
そこで会話が途切れた。雪ノ下も気まずかったが由比ヶ浜と会話するのは重さの桁が違う。何せ、振った身だ。こんなに素敵な子を。数年見てなかったが、とても綺麗になったと思う。口には出さない。出す権利もない。彼女の泣き顔は未だに覚えている。あれほどの想いをぶつけられたのは初めてで。それでも俺は彼女の好意を無かった事にした。何を言われても仕方ない。
「やっぱ、気まずいね……」
「そうだな……。俺、もう行った方がいいか?」
「ううん。大丈夫。あたしも、もう平気だから。──ヒッキーの心は独占できなかったけど、あたしには頼りになる親友が出来たから。だからもう、気にしなくてもいいんだよ」
「そうか……」
「うん。ヒッキーがね。部室に来なくなってから、あたしとゆきのん毎日喧嘩してた。あたしが何を言ってもゆきのんは謝るしかしないし。あたしはそんなゆきのんにずっと怒ってたの。あたしは全部言ってるのに。本心を最後まで出さないって悲しいじゃん。全部伝えても返ってこないのって悲しいじゃん。それで、何時もあたしは疲れた後に言ったの、お腹すいたからご飯行こうって」
知らなかった。雪ノ下と由比ヶ浜がそんな事になってたなんて。胸がキリキリと締め付けられる。
「それでご飯食べた後はゆきのんの家に行ってまた喋って、喧嘩して。それでね。ある日ゆきのんに馬鹿って言ったらね。やっとゆきのん怒り出したの。貴女にそんな事言われる筋合いはないって。あるよって言ったらまた謝りだして。そうしたらもう一回あたしは馬鹿って言ったの。そしたらあたしも急に悲しくなって、ゆきのんも泣き出して。ずっと2人で泣いてた。それで──1週間ぐらい話さなかったかな。でも、また部室で喋って……そんな事を繰り返してた。でも、そうしたら──あたし達、親友になってたよ。お互い全部吐き出して、それでも求め合って。多分、ヒッキーが居たら出来なかったと思う」
俺達三人の関係は酷く歪だった。誰かが誰かに何かを求めて。それを言い出せなくて。何も壊せなくて。妥協したまま終わろうとした。一度はそれを俺がぶち壊した。本物が欲しいと告白した。だが結局、由比ヶ浜はそんなものは要らないと言った。そして、雪ノ下も結局は何も言い出せずに、最終的に俺が幕を降ろす形で奉仕部は終わったのだ。
「だから、ヒッキーそんな顔しないで。笑って。ヒッキーのお陰で親友が出来た。あたしにはもうそれだけで十分だから。もう、過去は振り返らないから。もう、どうしようもないから。何も出来ないから。もう絶対に、今より悪くならないように頑張り続けるから」
「………………強いな、お前は」
俺に出来る精一杯の強がりが出た。気を緩ますと泣いてしまいそうだから。でも、そんな事はできない。彼女には甘えられない。精々、強がって笑ってやるのだ。何時ものように、死んだ目で。キモいと笑われようと。最後の最後までこんな素晴らしい女の子に迷惑をかけないように。
「幸せを願ってる。ずっと、何時までも」
「うん。あたしも願ってる。いつか、ヒッキーにも大事な、手放したくない人が出来るよ。──きっと」
俺と由比ヶ浜はそう言って笑うと、どちらともなく手を差し出し握手をした。柔らかい手だ。ずっとこの手を繋ぐ未来もあった。でも、これでいい。これがいい。これが欲しかった。すると、少し離れた場所から咳払いが聞こえた。留美だ。もしかして由比ヶ浜を探していたのか、少し髪が乱れている。
「ああ……その、ええと。結衣先生。お取り込み中でした?」
「あっ。ううん。こっちこそごめんね。明後日の件だよね? メールくれた通りの時間で大丈夫だよ。園長先生も楽しみにしてるって」
「そうですか。……八幡。これで最後の確認事項終わったから先帰ってるね」
「いや、俺も帰るわ。じゃあな、由比ヶ浜。仕事中邪魔して悪かった」
もう言いたい事はない。伝えたいことは伝えたし。伝わって欲しかった事は伝わっていた。後、子供が変に気を使うんじゃありません。
「ううん。いいよ、久しぶりに会えて嬉しかった。────今度、ゆきのんと一緒に会いに行くね。そうしたら、もう一回三人で話をしよう? また、あの時から」
「──ああ、わかった」
由比ヶ浜に手を振って俺と留美は歩き出す。もう辺りは真っ暗だ。流石にこいつを1人で帰すわけにもいかないので、平塚先生にメールだけ入れておく。
「本は俺が返しておくから今日はもうこのまま帰れ。駅まで送っていく」
「……わかった。ありがとう」
そのまま2人とも無言で歩いていく。留美がずっとこちらを伺っているのを感じる。流石に俺と由比ヶ浜が手を握り合ってれば何かを勘ぐるか。つか、何処から聞かれてたんだろ。恥ずかしい。
「……八幡は、結衣先生と付き合ってたんだね」
「その事実はない」
「じゃあ、フられたんだ」
「その逆」
留美が目を丸くした。嘘はついていない。俺だって自分の発言聞いて嘘だろ?って思う。あんな良い子。多分もう、ずっと会う事はないだろう。
「でも、少しだけ羨ましいよ。傍から見てても、心が繋がってるの見えたし……ああ、うん。ごめんなさい。今の忘れて」
何時か一色もそんなような事を言っていた。俺達は本当に特別な3人だったと思う。同性ならこんな事にはならなかっただろうし、同性ならきっと特別にはならなかっただろう。留美は自分で言った事が恥ずかしかったのか少しだけ頬を赤くしている。でも、その言葉は嬉しかった。他人から見ても俺達は特別だったのだから。こうして奉仕部が無くなった今でも。だから、そのお礼として俺は、
「お前の代の奉仕部だって、きっとそういう事が起きるかもしれないぞ」
「…………1人なのに?」
「新入部員を平塚先生がまた無理矢理連れてくるかもしれんし。俺と先生だって頭数に入れてくれよ」
「……そ。その時が来たら、まぁありえないだろうけど考えてみる」
留美はそっぽを向いてそう呟いた。俺はそれに満足した笑顔で返し、そのまま何も言う事無く駅までの道を歩き続けた。
出かける直前まで書きました。予約投稿なのでまた誤字脱字等あればお願いします。後、指摘してくれる方何時もありがとうございます。
ボリューム的に何時もの二倍ぐらいあります。
3人について書きたい事は大体書けたので後は留美です。
次回から留美の話になります。落とし所が難しい。