本物のぼっち   作:orphan

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第3話

 翌日、ホームルームを終えて無事放課後に突入した教室からいの一番に出ようとした俺の前に平塚先生が立ちはだかった。

 教室前方の扉その正面に陣取って、これから教室を弾丸のように飛び出していく生徒達を一人一人監視しようというのか。腕を組んで何かを待ち受けていた先生の視線が、扉を開けた俺を素早く捉えた。

 

 取り敢えず昨日からの短い時間で先生を怒らせるような問題は起こしていない。筈だ。断言は出来ない。先生と雪ノ下にははっきりと俺の人間性に問題が有ると告げられたばかりだからだ。でも、昨日奉仕部に入部させられてからたった20数時間、教室の端っこでまるで空気のように過ごしてきたという自負も有る。

 

 俺は声を掛けられる謂れもないだろうと先生に会釈をして前を通り過ぎようとした。

 

「比企谷、部活の時間だ」

 

 が、先生が待ち受けていた相手というのは俺だったらしい。何故だ、殴ったり蹴られたりは御免だぞ。

 

「ええ、これから行こうと思っていた所ですが」

 

「何? そうなのか」

 

「もしかして俺が部活に顔を出さずに帰宅すると思われたんですか?」

 

「あ、そういう訳でもないんだが」

 

 最初の一言は俺の目を見て威圧するような雰囲気を発していたのに、最後は目を逸らされてしまった。マジか、もしかして俺って問題児だと思われてるんだろうか。

 

「先生、不服な事が有ればその場で抗議しますよ俺は。一度でも決まってしまった事を後から覆そうとするのって大変じゃないですか」

 

 人の認識だったり約束だったり。

 前者を裏切ればそんな人だと思わなかっただのと言われて、後者ならばもっと直接的に不興を呼ぶ。

 何かの手続きならば態々取り消しの為の書類を書かなければ行けなかったりと兎に角後から訂正という事には面倒事が付き纏う。

 

「ああ、認識を改めよう。君はそういう人間ではないんだな。……とはいえ、まあここまで来てしまったし君を部室まで連行するとしよう」

 

 先生が白衣を翻して俺が行こうとしていた部室棟への道を先行した。俺も先生の後をそれほど離れずについていく。

 

 こうして平塚先生の後を付いて歩くのは二度目だが、白衣を来た人間の後を付いて行くのというのは新鮮だ。傾いた太陽が放つオレンジ色の光が廊下に窓枠の形を浮かび上がらせる。時にその光を浴びてキラキラと輝きながらゆらゆらと揺れる先生の白衣を追いかけていく。カツカツと先生の履いているヒールがリノリウムを打ち、そのリズムに合わせて俺も歩みの速度を調節。そして眼前で揺れる白衣の揺らめきに合わせて右に左に体を揺らしながら歩く。

 カツカツ、ゆらゆら、ふらふら、カツカツ、ゆらゆら、ふらふら

 

 やがてそれぞれのリズムが俺の中で結び付けられ一つの大きなリズムを形作る。夕方の校舎はノスタルジックな物の一つであると同時に活気を宿したものの一つだ。まだまだ放課後は始まったばかりでそれぞれの教室でそれぞれの生徒達が思い思いの放課後を始めようとしている今は、校舎全体が胎動を始める直前のように思える。その爆発直前の浮ついていながら張り詰めるような空気の先頭を、先生と俺が歩いている。

 

 とてつもない心地よさと、そのエネルギーの余波に俺まで浮ついた気分になりそうだ。

 

 その心地良い感覚がいつしか俺の感覚を更に揺らし始めて、すっかりと現実から遠ざかった頃に唐突に先生が振り返った。

 

「……どうわあっ!?」

 

 夢の国の住人になりかけていた俺がそれに気づくはずも無く、危うく先生に正面から突っ込みそうになる寸前で気付き飛び退った。

 

「ひ、比企谷! い、一体何のつもりだ!!」

 

「あ、え? ……ああ、すいません。ボッーっとしてました」

 

 おお、危ない危ない。……危なかった、んだよな? 

 気付いた時には先生の顔が目の前に来ていてつい反射的に飛び退いてしまったが、気付くのがもう少し遅くなっていたら完全に当たっていた。

 いかんいかん、シラフでしかも徒歩で交通事故とか洒落にならんよ。

 これが妹にでも見られていたらそりゃもう怒髪天を衝く勢いで怒られるが、幸いに目撃者は居ないし、被害者も未遂だ。

 さっさと謝って済ませてしまおう。

 

「大丈夫ですか? 本当にすいません。なんか気持ちよくって前を見てませんでした」

 

「ききききき、気をつけろ。も、もうすこ、もう少しで……」

 

 部室の前でもないのに振り返っていたという事は、何か俺に話しかけるつもりだったと思うのだが先生は途中で口を噤んで歩みを再開させてしまった。

 なんなんだ一体、途中で口篭るなんて先生らしくもない。

 それから部室の前に着くまで俺は先生を注意深く見つめ続けたが、先生は俺の不注意を怒るでもなく、先生の用事を言い出すでもなく歩き続け。

 終いには昨日2回も言われたはずのノックも忘れて教室の扉を開いたのだった。いや、本当何の用だったんだ先生。

 

「先生、ノックをしてくださいといつも言っているじゃ……、先生?」

 

「……あ? あ、ああ雪ノ下か。いや比企谷が逃亡するかもと思ったので連行してきた。それじゃ、私はこれで。あはは、あははは」

 

 結局先生はあの調子で階段から滑り落ちたりしないよなと俺が余計な心配をする程度には、教室を出て行っても様子がおかしいままだった。

 俺はそんな先生が廊下を曲がって踊り場に差し掛かる辺りまで行くのを見守った後、教室の扉を閉めて昨日出した自分の席についた。

 というかもう雪ノ下部室にいんのか。速いな。

 

 放課後真っ直ぐに部室に来たつもりだったが、雪ノ下の居るJ組の方がこちらよりも早く放課したのだろう。

 その構成員の殆どが女子であり、また多数の帰国子女も居るというJ組だ。

 多分あっという間にホームルームを始められるし、終わることが出来るのだ。

 

 一方こちらはむくつけき男子高校生と、姦しい年頃真っ只中の少女たちの群衆である。

 ホームルームの前には既にその午後の間貯めに貯めたフラストレーションを爆発させて喧しいのでホームルームが開始されるまでに時間が掛かるわ、ホームルームが始まっても一旦爆発したテンションを抑制するのが困難なようで隙有らばお喋りが始まってしまう。

 

 今日も退屈なホームルームを終えるまでに20分近い時間が浪費され、一体何度騒音の発生源を縊り殺してやろうと思ったか。

 そんな調子なのでこれからも暫くはこういう場面が繰り返される事になるのだろう。

 つまり雪ノ下にこちらから挨拶をする場面がである。

 

「おはよう、雪ノ下」

 

「おはよう? 比企谷くんもしかして貴方寝ぼけてるのかしら。だとしたら」

 

 昨日の雪ノ下の調子を見ただけで殆ど推測できた事だったが、どうやら雪ノ下という少女は所構わず相手を攻撃せずには居られない質らしい。

 今日も早速、俺の第一声を取り上げてこんな愉快な台詞を吐いてくれやがる。

 

「すまん、バイト先での癖が出た。こんにちはだったな」

 

「……そう。こんにちは。もう来ないのかと終わったわ」

 

 ちっ。先制パンチをキャンセルしてやったと思ったら二の矢が継がれていたらしい。ていうかこいつにも俺は問題児だと思われてるのかよ。

 

「昨日入部を承諾した時から来るつもりだったよ。あ、でも土日はバイトが有って来れないんだけど、奉仕部って土日の活動はどうなってんだ?」

 

「心配しないでも土日は休みよ。依頼に来るのはここの生徒だけだし、部活の生徒しか来ない土日はその依頼者も期待出来ないから。それにしても貴方みたいな人でも務まるバイトなんて有るのかしら」

 

「何故そう俺の社会性を低く見積もる。つまんないコンビニ位なら俺にもこなせるわ」

 

 俺にこなせない仕事なんて肉体労働系の仕事全般と特殊な技能を必要とする仕事と辛い仕事と大変な仕事位なもんだ。

 そしてその台詞こそ雪ノ下に言い返してやりたい。こんな人格破綻者に務まるバイトが有るのか。

 

「普通あれだけこっぴどく言われたら二度と顔を出さないと思うんだけど……マゾヒストなのかしら?」

 

「そんな酷い目に合わされたか? まあ強いて言うならお前の相手させられた位だと思うけど」

 

「あら? こんな美少女と言葉を交わせたのよ。感謝してしかるべきよ。特に貴方みたいな人は」

 

「そりゃお前に好意が有るならそうだろうが」

 

 正直こいつの相手が務まるなら大概の接客系のバイトが務まるだろう。今まで相手したどんな迷惑な客より面倒臭い。

 しかも、いつのまにか俺がこいつに好意を抱いている前提で話を進めてやがる。

 

「違うの?」

 

 態とらしく顔を傾けてきょとんとした表情を作った雪ノ下は間違いなく可愛い。

 平素から飛び抜けた可愛さを誇る雪ノ下が可愛いポーズで可愛い表情を作っているのだ。

 可愛くない訳がない。

 ただ。

 

「んなわけねえだろ。可愛いだけで人の事好きになれるなら今まで100回は惚れてるわ」

 

「あら、それで100回告白していても貴方に恋人が出来るとは思えないわね」

 

 性格が絶望的に可愛くない。両者合算してプラマイゼロになるならまだマシで、個人的にはマイナス方向に突き抜けると推測できる。

 本当どうなってんだこのアマあ。

 

「兎も角、俺はお前の事好きじゃねえよ」

 

「てっきり私の事好きだと思ったわ」

 

 数学の教科書に乗っている数式を読み上げるくらい当然と言い張る雪ノ下の表情は、冗談を口にするような柔らかな表情でも、俺を嗜虐する時の様な悦楽を感じさせる表情でもなく、何の感情も感じさせない表情だ。

 

「お前みたいなヤツの事を好きになる奇特な奴ってのはそんなに沢山居るのか。世の中変態ばっかりなんだな」

 

 確かに雪ノ下は可愛いが、それだけだ。性格が"こんな"女を好きになるなんて世の中の男子という奴はやはり度し難い。同じクラスの女子の方が数段可愛さという意味では落ちるがこいつよりは総体として可愛いと言えるだろう。

 

「あら、私としては貴方ほどの変態が変態という自覚すら持っていない事の方が意外だわ」

 

「あくまでも、俺がお前に好意を抱いているという設定で行きたい訳だ。分かった、そっちはそれでいい」

 

 友達との軽口の叩き合いというならこのまま付き合い続けても良いのだが、昨日今日知り合ったばかりの性格破綻者とでは俺の精神が持たない。

 こんなどうでもいい話題に拘泥せずに、何かこいつを黙らせるような話題に展開させよう。

 幸いこんな性格なら友達も少なかろう。その辺を叩いてさっさと黙らせよう。

 そう思って、雪ノ下の設定に付き合ってやる事にしたのだが、ザザッと雪ノ下が椅子に座ったまま後退った。

 

「嫌だ、貴方もしかしてストーカー?」

 

「もしもこれから犯罪に発展するとして罪状は迷惑防止条例及びストーカー規制法違反じゃない事は確かだ」

 

「大変、幾ら私が魅力的だからと言ってレイプ予告をしてきたのは貴方が初めてだわ。貴方の汚れた瞳で見られている間も汚されている感覚だったけれど」

 

 雪ノ下は通報しなきゃと言って慌てた様子で携帯電話をポケットから探り出した。

 

「待て待て待て、どんなクソゲーだこれは」

 

 まるでどの選択肢を選んでもバッドエンドが確定しているギャルゲー一周目の様な八方ふさがり感。

 ああ、願わくば俺の中の女性観が歪みきる前にこいつとの繋がりが切れますように。

 

「極めつけに現実と虚構の区別もつかないと。残念ね比企谷くん。黄色い救急車は都市伝説の中だけの存在よ。それに貴方がこれから乗るのは救急車ではなく、パトカーよ」

 

「ええい、そこはどうでもいいけどまさか本気か」

 

 雪ノ下の携帯電話を耳に当てる仕草に、俺が腰を浮かせると ここまで散々俺を罵倒してきて満足したのか雪ノ下が掛ける振りをしていた携帯電話を下ろした。

 そして画面を見ながら何事か操作すると、手の中で弄び始めた。飾り気のないスマートフォンの通話画面が表示されていた様な気がするのはきっと俺の見間違いだろう。

 

「馬鹿ね、本当に通報するわけがないでしょう」

 

「そういう冗談はせめてお友達相手にやってくれよ」

 

 何にしろ悪い冗談だ。浮かせた腰を再び椅子に落ち着けるが、立ち上がる前よりもぐっと疲れた気がする。

 そんな俺の目に雪ノ下の肩が急にぴくっと震えたのが映った。

 不幸中の幸いという奴だろうか。このまま雪ノ下のお友達事情に矛先を逸らそう。そこから話題をずらさなければ今日一日をもしかしたら平穏の内に終えることが出来るかもしれない。

 俺は急に明後日の方向を向き始めた雪ノ下に、俺の心の安寧を求めて笑顔を浮かべながら語りかけた。

 

「そうだ、雪ノ下。昨日俺に講釈を垂れてくれたし、今日だって俺を人間関係で弄ってくれてて、おまけに俺の壊滅的人間関係を改善する依頼まで受けてくれたお前の事だ。さぞ立派な友人知人が居ることだろうなあ。教えてくれよ。お前はどうやって友達を作ったんだ?」

 

「そうね。依頼を受けた以上は全力で貴方に友人を作らせるつもりだけど、まず貴方の言う友人の定義を教えてもらってもいいかしら」

 

「一緒に居て、それでいて話すでもなくただ居場所を共有するという行為に苦痛を感じない人間だな」

 

「……そうなるとちょっと難しいかしら。ほら、女性って一緒に居れば会話せずには居られないものでしょう?」

 

最後にぼそっと『その筈よね』とか言った気がしたが、それに雪ノ下の言葉のアクセントが俺に同意を求める物ではなく、半信半疑聞き齧りの知識を披露する時のそれに近い気がしたが、なるほど言っている内容について女性の生態に詳しくない俺ではうんともすんとも言えん。くっ、しかしここで迂闊に同意を返せば知ったかぶりはしなくていいのよとか慈愛顔で言われそうだし、かと言って黙っていてもあら比企谷君に分かるはず無かったわねとか言われそうだ。

となると、同意でも否定でもなく適当な言葉で話を続けさせればいいのだが。

 

「ああ、そういう奴って男女問わず死ぬべきだよな。自分から近寄ってきたくせに話が途切れると気不味そうにしてどっか行きやがる。相手すんのも面倒だから最初から近寄ってくるなと思うよな」

 

「は?」

 

雪ノ下が信じられない物でも見るような目で俺を見つめる。あれ? おかしいな。そんな顔をされる様な事を言った覚えはないんだが。

 

「そういう奴って落ち着いて一緒に居られないんだよな。買い物行っても四六時中くっついてくるか、でなきゃついていかされておちおち自分の買い物も出来やしない。何故お前の買い物に付き合っただけで俺まで帰らにゃならんのか。一人で帰ってろよって……雪ノ下?」

 

「頭が痛いわ……こんな人間が居るだなんて」

 

雪ノ下の同意を得ようと話を続けたが、結果は雪ノ下が頭を抱えるだけに終わってしまった。

 

「あれ? 同意して頂けない?」

「本気……いえ正気かしら? 大変、先生には奉仕部ではなくて誰か良い頭の先生を紹介するよう言っておかないと。それと普通そういう事って思っていても口にしないものだと思うのだけれど?」

 

「勿論本人に言ったりはしなかったぞ。鬱陶しいからそいつを帰らせて一人で買い物続けた事なら有るが」

 

「比企谷君、ごめんなさい。昨日あれだけの啖呵を切っておいて申し訳ないけれど貴方の更生は私には出来そうにないわ」

 

「待って! 待って! お願いだから待って! ……あれ? そんなに変か?」

 

「最早変とかいう次元のお話ではないわね。狂ってると言っても過言ではないわ」

 

あれれれれ? 雪ノ下に自分の話をさせるどころか雪ノ下からの警戒心と可哀想な物に対する態度が強くなったぞ。

 

「ねえ、確認させて貰うけどそれって貴方の知り合いの話かしら」

 

「友達だけど」

 

友達に対する態度かしらそれが。雪ノ下はそう言うけれど。

 

「友達にだって嫌いな部分はある。当然好きな部分も有るが、それだけじゃないだろ。死ぬほどムカつく所が有ったって、げんなりするような所が有ったって、結果がギリギリプラスなら一緒に居たいと思えるもんだ」

 

「……一年も連絡を取らない人間を平然と友人だと言える人間から言われたのでなければ感動的な台詞だわ」

 

そんなに引っかかる所なのかそこは。

 

「兎も角俺の話は置いておいて」

 

「たった今貴方に何を言っても無駄だと悟ったわ。まず取り掛からないといけないのは貴方の意識改革の方よ」

 

俺の発言を遮って雪ノ下が話し始めた。彼女の悟ったという発言も冗談ではないのだろう。俺が目で雪ノ下に抗議してみせると黙って聞いていろと目で語ってきた。

 

「こういうのも異次元人との出会いと呼んで良いのかしら。どうやったら貴方みたいな手合が生まれるのか、この世界の不思議の一つね」

 

こうやって俺を罵倒する文章を吐き散らすのは俺に口を挟んで貰いたいサインだと思う。まさか、まさかこの女俺が黙って言われたままとでも?

 

「そういうお前がここで明らかなボッチライフを送っているのはこの世界の条理だな」

 

「失礼ね。何処から見たらそんな事実が明らかになるのかしら」

 

彼女の意向に逆らって発言した俺への苛立ちからだろうか、雪ノ下は俺を睥睨し真っ向からの戦闘態勢を取った。

その苛烈な感情と自信の籠もった雪ノ下の瞳の美しさと来たら、俺の嗜虐心を煽るには十分な物だった。

 

「そうだな。まずその口調。今時そんな話し方をする女は居ない。世に聞く女の習性に横に倣えというものが有るが、女の群れの中で一人だけ明らかにお前の口調が浮くだろう。そうなればお前のその口調はお前自身の反省によるものか、それとも他者からの介入によって修正・淘汰されるだろう。つまりお前には普段から口をきくような人間が存在しないという事だ。第2にお前のその攻撃的な性格。昨日初めて会った時から今と変わらない調子で話し続けるお前がまさか友人達の前でだけ話し方を変えるとも思えない。しかしだ、お前みたいに初対面の相手にすら堂々と罵詈雑言を飛ばす女に友人が居るとは思えない。女の悪口は大概本人の前では口にされないものだからな。次にお前の容姿と現在のこの部室の人口密度。この部室には現在俺とお前の二人しか居ない。そろそろ放課してから時間も経つというのにだ。昨日も同様の状況だった事を鑑みればこの部活はお前と俺しかいないという推測が成り立つ。たった一人しか所属していない部活という事も考えられるが、お前位容姿に秀でていればお近づきになろうという人間が必ず一定数いるはずだ。そんな連中すら姿が見えない事からやはり友人が居ない説が支持される。更に言えば奉仕部という部活。悪いが名前を聞いた事がない。にも関わらず平塚先生は俺の更生を依頼し、また平時施錠されているこの教室も開放されていた。へんてこな名前と活動内容の部活だ。友達のいない俺にもその存在の噂くらいは聞こえてきてもおかしくないというのに俺には憶えがない。つまり教師である平塚先生には部として認知されているものの、生徒に認知されていない部という事になる。態々昨日入部届を書いておけと言われたという事から書類上存在している事は確かだ。そんな部が生徒に認知されていない理由は分からないが、そこに所属する生徒が一人しかいないというならお前が余程特殊な事を期待されている人間か、余程特殊な人間だと推測できる。或いは特別な扱いを受けているという事だ。平塚先生は気安い先生だからその辺よく分からんがボッチだというなら保護する位の事はやってのけそうだ。俺がここに連れてこられたようにな。これだけ根拠があれば少なくとも可能性の一つとしては十分でそれを確信したのは俺の勘だな」

 

「呆れた。結局は推測の域を出ないという事じゃない。その為にこんなに長い口上を垂れるなんて酸素の無駄遣いよ。猛省してその分の呼吸を止めることね。ざっと40分位だったかしら」

 

「死ぬだろ。どう考えても」

 

「「最後まで言わないと分からないのかしら?」 か?」

 

「な!?」

 

他に「私の優しさが分からないのかしら」をこの直前に繋げるパターンや、「そうよ、死ねって言っているの」というパターンが考えられたが、ヤマを張って雪ノ下のs音に被せて言ってみたら上手くいったらしい。台詞をピタリと当てられた雪ノ下の驚き顔は素晴らしいレスポンスと言える。

 

「お前の友達の話をしようぜ。まあでもいないのか」

 

「いないとは言っていないでしょう! それに、もし仮にいないとしてそれで何か不利益が生じるのかしら」

 

「生じるだろ。俺に友人を作るというミッションのオブザーバーが友達一人もいないっていうんじゃ不適格もいいトコだ」

 

「それなら心配要らないわ。友達作りを指南するのに、何も友人がいなければならないという訳ではないのだから」

 

こういうのも語るに落ちたというのだろうか。不適格という言葉に一瞬眉を顰めた雪ノ下の発言は遠回しに友人が皆無な事を肯定してしまっている。が、今はそこを突くよりも興味深い事が有る。

友達のいない雪ノ下が如何にして俺に友達を作らせようとしているのかという事である。こいつの性格のエキセントリックさからしてまともな方法ではないと分かっているが、だからこそ興味が有る。

一体どんな方法なんだろうか。

 

「友人というのは何もこちらから積極的に働きかけなくとも作れるものよ。向こうから寄ってきたってね」

 

「雪ノ下。お前が愛されガールだってのは分かったが、その手は俺には使えない。だって俺はお前ほど可愛くもなければ格好良くもないからな」

 

「それもそうね」

 

あっさりと納得されるとそれはそれで悲しい。

 

「それよりもその不愉快な呼び方をどうにかしなさい」

 

「よっ、愛されガール・雪ノ下雪乃!」

 

「死にたいようね」

 

音もなく立ち上がった雪ノ下の髪の毛が心なしか揺らめいている。ひんやりとした風が俺の頬を撫でるのも果たして錯覚の一言で済ませていいものだろうか。

 

「待て待て、分かった。分かったから。頼むから腰を下ろせ」

 

今にもこちらへの一歩を踏み出しそうな雪ノ下。その華奢な体から発する得体の知れない雰囲気が俺の防衛本能を刺激した結果だった。気迫だけでこれとは恐ろしい奴である。

小動物位だったらそれだけで心臓が止まりそうな容赦の無い剣呑な視線に知らず俺の腰まで浮いている程である。人一人殺した事が有ると言われても雪ノ下相手だったら俺は信じるね。

バックンバックンと情けなく跳ね上がった俺の心臓の音がもしかしたら教室の空気を通じて雪ノ下に伝わったのか、雪ノ下は殺気を収めて元の姿勢に戻った。

その際鼻で笑われたのが見えたが下手な事を言って雪ノ下の撃発を誘う勇気は無く、俺は雪ノ下の沈静にただ胸を撫で下ろすばかりだった。

 

それきり雪ノ下が口を開かず、そんな雪ノ下に俺も話しかけることが出来ず沈黙が放課後の教室に充満した。

何故雪ノ下は愛されガールと呼ばれただけであそこまで起こったのだろうか。その原因を考えた。

確かにコンビニで雑誌棚に陳列された、いかにもなファッション誌に乗っていそうな言葉だが、その事に怒る雪ノ下ではないだろう。

それならばここまでの俺の発言でさっきの様な姿をもう何度も目にしているだろう。

では……

俺の疑問に応えるように、ふと雪ノ下が言った。

それはともするとただの吐息だと勘違いするような弱々しい一言だったが、確かに俺の耳にはこう聞こえた。

 

「本当に、心から愛されていれば良かったかもしれないわね」

 

「はあ」

 

俺に聞かせるつもりが有ったのか無かったのか。それは俺には分からない。しかし彼女のその言葉を俺は聞き逃さなかった。何となく応えた俺に雪ノ下は真っ直ぐな冴え冴えしい顔を見せた。

 

「ねえ、貴方の友達に常に女子に人気のある人がいたらどう思う?」

 

「別に何とも」

 

「きちんと考えてから答えて。どう思う?」

 

「お前こそきちんと俺の返答を聞けよ。何とも思わないよ」

 

俺の答えを嘘だとでも決めつけているのだろう。雪ノ下の顰めた眉が、握りしめた手が、落ちた肩がそれを物語っている。

もしかしたら出会ってから一番真剣だった彼女に、確かに俺の態度はあまりにも不誠実だったかもしれない。

だが

 

「そうやって疑われてもな。意外かと思われるかも知れないけどな、中学まで俺ってそこそこ友達多かったんだぜ。それも結構人気者のな」

「貴方の妄言は結」

「そうじゃなくたってやたらと女好きな奴とかも居てな。全く何が悲しくて修羅場に巻き込まれなきゃいけないのかと思ったことも2度や3度じゃない。それに何となく良いなって子が友達に告ったりとかな。でも、別に何とも思わなかったよ」

 

茶々を遮り、俺は雪ノ下を押さえつけるように言葉を吐き出し続けた。

ここで雪ノ下の思い込みに付き合ってやるのも悪くないと思ったが、彼女相手に嘘を吐くのが何となく憚られたからだろう。

それが何故なのか。この時の俺には分からなかった。いや、これから先長いこと気づくことが出来なかった。

 

「強いて言うならめでたい事だと、そう思って周りの連中と一緒になって冷やかしたりもしたが、はにかんでる友達の顔を見て馬鹿みたいだけど俺も嬉しくなったよ」

 

これでいいか。と俺が雪ノ下を見つめ返すと雪ノ下は何故か目にも留まらぬ速さで目を逸らした。

そうして何故かあさっての方向を見ながら話す雪ノ下にポカンとしてしまった俺を、文字通り脇目にしながら

 

「貴方に通常の人間の尺度を当てはめる事自体が間違いだということがよく分かったわ。貴方がそうでも、多くの人間はそうじゃないわ。大抵そういう場合にはそういう人は排除されるのよ。まともな知性を持っていさえすれば、そんな事したって何にもならないと分かりそうなものだけど。そして私のいた学校にもそういう人が多く居たの。後は分かるでしょう?」

 

こういったのだ。

つまり彼女にとって愛されるという事は、敵を作るという事に他ならないのだろう。仕方のない事である。彼女の事を愛する人を愛する人々もまた存在し、自身より鮮烈に意中の人の心に居座る彼女を疎ましく思うなという方が土台無理なのだ。

だから彼女は、きっと人々の関心の中心であると同時に悍ましい想念の中心でも有ったのだろう。台風とは違い、それらは中心に近づけば近づくほど人を傷つける。

恐らく彼女を傷つけたのは周囲の人間との直接的な関わりと、それと同じ位の間接的な関わりだろう。

 

その渦中に立ったことのない俺には、彼女を襲った悲劇がどんなものなのか想像さえ出来ない。

そんな安穏とした世界しか知らない俺を嘲るように雪ノ下は酷薄な言葉を口にした。

 

「結局私に好意を表していた人でさえ私の周囲には居なくなったわ。そもそも悪意の盾になってくれようとした人さえいなかった」

 

彼女は己に好意を向ける者が原因で窮地に陥り、その原因が自分を慰めることすらせず敵に回ったのだ。しかし、それは雪ノ下以外には決して批難できる事ではないと俺は思った。子供は何より未熟だし、その原始的な情緒に覚悟まで求めるのは酷だと思ったからだ。高校生の俺でさえそう思うのなら、きっとより同調圧力の強い小中学生などではひとたまりもなかっただろう。

 

「この世界はね、完璧ではない人ばかりだわ。弱くて、心が醜くて、嫉妬をすれば他人を蹴落とさずには居られないような人たち。そこでは優秀な人間は不思議なほど行き辛いわ。だからこんな世界変えてしまうのよ。人ごと、この世界を」

 

いつの間にか雪ノ下は俺の事を見ていた。彼女の言葉は今更決意染みた気合が込められるでもなく、それが却って彼女が本気であることを示していた。その言葉はあまりに冷たく、俺には彼女自身を追い込むような響きが感じられてならない。

 

そしてそれと同時に、こうして堅い意思を見せる彼女は俺の目には酷く弱々しいもののように見えた。

世界を変える。強い言葉を使うわりには今彼女が身を置いている環境は、それに似つかわしくない。教室にいる彼女がどんな風かは知らないが、放課後こうして一人先日の平塚先生のように誰かが訪ねてくるのを待ち続ける彼女は、世間に背を向けて自分が傷付かぬよう身を震わせているようにしか思えない。穴熊を決め込み、それでいて自らの理想を語る彼女に、俺はどうしてか酷い違和感を覚えた。

 

まさか、俺がこいつに期待をしているとでも、雪ノ下雪乃にこんな生き方は似合わないとでも言うつもりだろうか? 何様なんだ俺は。そもそも傷付きここまで逃げ延びてきたような彼女にこれ以上頑張れなどと言えるほど、俺は雪ノ下の事を好きでも嫌いでもないはずだ。

結局俺は雪ノ下に当たり障りのない言葉を返す事しか出来なかった。

 

「中二病乙」

 

と。

 

「中二病? どういう意味かしら? 到底褒め言葉とは思えないけれど、まさか比企谷君ごときが私を罵ったのではないでしょうね」

 

文学に造詣が深いだけあってという訳でもないのだろうが、雪ノ下にはこのネットスラングは伝わらなかった。しかし、俺の態度からニュアンスを読み取ったのだろう。

先ほどまでの痛々しいまでの真剣な顔はどこかへ行って、雪ノ下はすっかりこちらを小馬鹿にしたような攻撃的で、何処か突き放したようなそんな表情になっていた。

これもまた不思議な事だが、そんな彼女を見ている俺の胸中には、今の彼女が俺の見た彼女の中で最も彼女らしいなんてそんな確信が生まれているのであった。


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