本物のぼっち   作:orphan

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第10話

「いらっしゃいませー」

 

「しゃーあっせー」

 

 ティロンティロンティロンと客の来店を告げる電子音に続いて二つの声が店内に響いた。前者は俺の声。もう一つは同じ時間帯勤務の女の子の声である。気の抜けたいかにもやる気なさげな声だったが、無理もない。時刻は午後2時を過ぎた辺り。コンビニエンスストアにおける山場の一つであるお昼時、それも最も忙しい1時間半を乗り切ったのだ。それに他人の耳で聞いた俺の声もきっと似たり寄ったりだったに違いないからな。

 

 納品に次ぐ納品と怒涛のごとく押し寄せるお客様。いらっしゃいませ。そちらの商品でしたらこちらにございます。お預かりいたします。こちら○点で○円です。お弁当は温めますか? お湯はあちらのポットをご利用ください。ありがとうございました。と定型句を半自動的に口にしながら只管に手を動かし、足を動かし、顔を動かして、会計をしたり商品を品出ししたり、ホットスナックと呼ばれる店舗調理の商品を調理したり、或いは糞忙しい時間に訪れる宅配便等の応対に忙殺される1時間半。もうかれこれ半年以上繰り返しているが、いくら経験を積もうとも疲れ難くはなっても疲れなくなることはない。

 

 お客様がはけ切ってガランとした店内で、うんざりとした溜め息を吐きながら穴だらけになった商品棚にバックヤードから商品を補充する作業を開始しようとしていた俺は、声を掛けながらも足を動かし続け銀色のドアをくぐった。そして視界に広がるポテチやせんべいその他スナックの袋や、カップラーメンにパンの在庫まで。目の前に広がる雑然とした風景の中から適当な山を選び出し、一山丸々を台車に載せる。出来ることならこのまま数分間油を売りたい気分だが、少しでも早く売り場に商品を出して真の安寧を得るべく颯爽と売り場に向かう。どうせここからは大した客入りではないので、早々に品出しを終えてしまえば後は5時の上がりまではマッタリタイム。そこまではノンストップだぜ。

 

 ガラガラガラと車輪の音を鳴らしながら店内を進む。ここはパン、ここは弁当、ここはお菓子。と幾つかのコーナーを過ぎて目的のカップ麺コーナー目前、そこで台車の前にぬっと2本の足が現れた。どうせお客様も居ないのだしと高をくくって台車を見ながら歩いていた俺は謝罪の声と共に顔を上げながら一礼。

 

「申し訳ありません。失礼致しました」

 

 商品を落とすことも無く急停止。客に道を譲り、再び視線を台車に向けた。さあ行くのだお客人。何人も俺を止めることは出来ねえ。とかハイテンションに心の中で叫びつつ、その足が動くのを待つ。高いヒールの入った靴とそこに収まる素足。白く透明感の有る美しさを持ち、健康的な柔らかさを見ただけで予感させるような素晴らしい足の持ち主だ。女の足は齢を映すというが(俺が個人的に思っているだけという可能性も有る。何せそんな話をする友人が俺にはいない)、キュッと細くしまった足首から7分丈のスキニーパンツに向かって伸びる脛まで含めこの足はその美貌までこちらに期待させる極上の足である。さぞや美人に違いない。でもさっさとどいて欲しい。

 

 そのまま1、2、3と3つを数え、それが5つになっても一向に退く気配が無い。商品を選んでいるのだろうかと思っても、足の向きからしてこの女性は棚ではなく俺の方を向いている。

 

「こんにちは比企谷君」

 

 何とも珍しい事である。俺と同じ苗字を持つ人間が、こうして俺の職場に来て、俺の背後に立って俺の前に立った人間に呼びかけられる事が有ろうとは。比企谷という苗字は珍しいのではないかと密かに自慢に思っていたのだが、やはり井の中の蛙。自分とそっくりの人間が3人は居るという世の中に出てみれば、こうして俺と同じ珍しい苗字を持つ人間に出逢うという事も往々にして有るという事なのだ。

 

 人生とはかくも奥深い物なのだなあと感心してしまう。しかし、その呼び声に応える声が聞こえてこないというのも不思議な話だ。これは一体どういう事だと振り返ってみてみても誰もいない。導入したてのLEDのライトから昼日中だというのに目も眩まんばかりの光が溢れ、それをピカピカに磨き上げられた床が反射しているだけで、そこには影一つ差していないのだ。今は俺の背後に立つ女は一体何を見て、何に呼びかけたというのか。恐ろしくなった俺は台車から手を離して、元来た通路を戻ろうと。

 

「比企谷君? 比企谷君てば。あれれー、無視は感心しないなー。この前はあんなに可愛がってあげたのに」

 

「ひぃっ」

 

 女が再び声を発した。だから誰に話しかけているというのだ!? 最早一刻の猶予もない。ホラー現象に巻き込まれるのだけは御免である。俺はチーターもかくやという速度でその場を後にし、ようとしてそれを阻むように肩を掴まれた。

 

 冷たい。制服越しに掴まれた肩に伝わる掌の温度がまるで寒風吹きすさぶ中を歩いてきたかのように。そしてその手の感触が曰く言い難い程に、そう凄い。滑らかだとかたおやかだとかそう言った形容詞も思い浮かぶには思い浮かぶが、どれだけ言葉を尽くしてもそれが追いつかない程心地良い感触。それはもうこの世のものとは思いがたい程に。

 

 その感触にあっさりと俺の体が屈服してしまう。どれほどに俺が逃げようと心を砕いても体が動かないのだ。そして俺の意志に反するかのように体を捻じり始める。そうだ、この動き。振り返ろうとしているのだ俺の体は。頭(俺)の事など露知らず、肩に置かれた手の、たったそれだけで俺に与える恐ろしい程の快楽に負けている。恐怖に身を浸している訳ではない。だからこそ俺が振り返るのに掛かった時間は、一瞬で、俺には覚悟を決めることしか出来ない。

 

 ここまでか。

 

「う、うわっ、うわああ……ってなんだ雪ノ下さんじゃないですか。驚かせないでくださいよ」

 

「いやいや、君が勝手に驚いただけだから」

 

 安堵の溜息とともに吹き出た冷や汗を拭う。全く振り向いた拍子に心臓が止まるかと思ったぜ。とんだ肩透かしを食らった気分である。

 

「ていうか君、私が君に話しかけたの全く気がついてなかったの?」

 

「ええ、まあ。アルバイト中に声掛けて来る様な知り合いの声とも違いましたんで。すいません」

 

「私の声覚えてなかった訳でもないんでしょ?」

 

「はい。ただあれっきりお話する機会も無いと思ってましたし」

 

 確かに言われてみれば聞き覚えの有る声だ。いつかと同じ、茶目っ気とサドっぽさと元気の良さ、それから強さを持つ声。足も今こうしてみれば、成る程見覚えの有る足である。ちなみに俺の予想では平塚先生も同じくらい綺麗な脚線美をしている。

 

「ふーん、そうなんだ」

 

 興味が無いんだったら聞かなきゃ良いのにと言いたくなるようなテキトウなふーんだった。

 

「ちなみにさ、私が結構ここのお店来てるって言ったら信じる?」

 

「は? そうなんですか? まあ俺平日はシフト入ってないんで」

 

「違うよ。日曜、は滅多にないか。でも土曜日は時々お昼に来てるんだけど」

 

 初耳である。それどころかそんな姿を目にした記憶もない。それもこれも糞忙しいというのにシフトの人数を増やさないオーナーのせいである。仕事に気を取られて接客した相手の顔を見てる余裕もない。何が言いたいのかというと時給をあげるか、人数を増やせという事である。

 

 だが台詞の割に雪ノ下さんの言葉には咎めるような響きがない。それも当然か。俺と彼女は知り合いですら無いわけだし。

 

「ちなみにさっきは私、比企谷君のレジに並んだんだけど、本当に覚えてない?」

 

 態々顔を近づけて問い掛けてくる雪ノ下さん。顔をよく見ろという意味合いだろうか。それにしてもしつこいな。若干拗ねているのか? 雪ノ下と同じタイプの自意識過剰かもしれないが、何故接客した程度の、我が家まで乗り込んで傍若無人に振る舞った程度の相手の事をそこまで強く意識しなければならないというのだ。姉妹揃って理不尽な美貌と性格をしている。

 

「すいません。もうレジと品出しでそれどころでは無くってお客さん1人1人の顔までは」

 

「そっか、大変だったんだねー。確かに凄いお客さんだったし」

 

 駅の近くかつ大学が近く、その上オフィスビルまで有るので、この店平日の朝、昼、夕方は土日を凌ぐ地獄の様相を呈するというが土日にしたって大概である。それでも2人で捌けるには捌けているが。雪ノ下さんに分かって貰えて嬉しいよ。だもんでさっさと会話を切り上げたい。

 

 だが雪ノ下さんはまだ俺の傍を離れない。仕方がないので話しながら作業をする事にしようとダンボールに手を掛けた。

 

「比企谷君はさ、雪乃ちゃんの事どう思う?」

 

 開きかけのダンボールから今週発売の新製品を取り出す。なんでもこのコンビニチェーンと有名店のコラボ商品らしいが、売上としては微妙である。何せ不況真っ只中のこの御時世にカップラーメンの癖して300円付近という価格帯、量は大型の物にしては少し少なめ。調理に異常な手間が掛かり、その上味が価格に見合っていないというんだから至極当然か。かく言う俺もその値段に惹かれて1度は買ってみたもののリピートはすまいと誓っている。それと同じパッケージの商品を棚から探し出し、個数を調べる。はあ、昼のピークに1個しか売れていないとは。これは来週の新商品が来たら棚を圧迫する不良在庫化しそうだ。今度のシフトまでに消えてくれることを願おう。ええとそれから、雪ノ下の事か。

 

「特に何も。普通の人だと思います。ま、確かに口は悪いし性格も普通とは言い難いし容姿も抜群に良い。才能も非凡な物が有るみたいですけど。おっ、あったあった」

 

「その並びで美人だって言っちゃうんだ。ふーん、へえー。でも可愛いとは思ってるんだね。じゃあ由比ヶ浜ちゃんの事は?」

 

「特に何も。普通の人だと思います。ま、確かに馬鹿っぽいし、事なかれ主義の付和雷同的な精神の持ち主でかなり可愛いとは思いますけど。はー、これは売れてないのね」

 

 棚に商品は置かず、代わりに手箒で棚の埃を払っていく。それにしても何を聞きたいのかよく分からない質問だ。あの2人がどんな人間かなど俺に聞いた所で分かる訳がないし、雪ノ下さん自身の方が余程簡単に調べられるだろう。それともあれか? 2人の悪評でも立てるために、弱点でも嗅ぎ回ってるとか。

 

 ダンボールに入ってる分が終わった。次はコンテナに入った分。こっちは重なってたりして見通しが悪いので何が入ってるかを確認するのも手間が掛かる。しゃがみ込んで1つ1つを手に取りながら棚に空きが無いかみていく。

 

「比企谷君としては2人の可愛い女の子に何も感じていないと」

 

 雪ノ下さんもしゃがみ込んだのか、聞こえてくる声が近い。ってか本当に近い。耳元から聞こえてくるんじゃないかと勘違いする距離ですよもう。立ち上がって商品を置くついでに、一歩離れた所に移動してそこにしゃがみ込んだ。この前もそうだったけどこの人は他人との距離感が由比ヶ浜以上に短い。十中八九計算だろうと確信してるが、だからと言って思春期の少年の動悸はどうにか出来るものじゃない。というか前回の事も有ってか、この人の近くに居ると違う意味の動悸もするな。ドキがムネムネして落ち着かない。

 

「雪乃ちゃんが男の子の家に行くなんて滅多にないからね。最初は彼氏かと思っちゃった」

 

「彼氏の家に来てあんな事してたら仲悪くなるのも当然ですね」

 

「あんなの君だけだよ。まさか知り合って一月もしない内に家に誘うほど仲良くなったのかと思って焦っちゃった」

 

 予想外の事態に動転して苦しみ紛れの邪魔立てがあれだったと言いたいのか。しかし雪ノ下の姉だという情報と前回の所業を鑑みるに本当かどうかは疑わしい。この人の言う事は何処までも疑ってかかるべきだという直感が有る。が、という事は何処までも疑ってかかっても仕方がないという事でも有る。結局気にかけるだけ無駄だろう。どうせもう関わり合いになることもない。

 

「そうなると何か不味いんですか? もう雪ノ下も高校生だし、いや高校生だからこそ心配だというのも分かりますけど雪ノ下なら心配要らないんじゃ」

 

 心にもないことを言う事で話を無難な流れで運ぶ。内心は正反対。あいつにはきちんと目をかけてやったほうが良い。世界征服宣言といい馬鹿な事を言い出す頭も心配だが、それ以上にあいつの友達のいなさっぷりが、ちょろさの裏返しの様に思えてならない。案外本当に下心だけで近づいたら上手く行ってしまうんじゃないかと考えてしまう位である。下心があれば面従腹背もやろうと思えてしまうものだし。由比ヶ浜との絡みを見ていても、あの性格に耐えさせすればすんなり近づけている。

 

「うふふふ、本当にそう思ってる? それとも何か下心が有るのかなー? うりうり」

 

 一歩雪ノ下さんが俺との距離を詰める。これでまた俺と彼女は手を伸ばせば届く距離。雪ノ下さんが動く気配を察知して急いで立ち上がると、すんでのところで雪ノ下さんの指が俺の膝に突き刺さった。大方俺の頬にでも指を突き立てて掘削機のごとく抉るつもりだったのだろう。油断も隙も無い。が安心したのも束の間、うりうり攻撃が俺の膝を直撃して痛みを走らせた。

 

「いったあ、もう何するんでですか?」

 

「うーん、比企谷君はそっちの方が好きなのかなって。さっきっから私の事ずっと避けてるし」

 

 喜んでくれると思ったんだけど、ごめんね。と舌を出す雪ノ下さん。この間とは行動も印象も違いすぎる。やばい、この人雪ノ下よりうっとおしい人だ。具体的に言うと性格が壊滅的に終わってる。だってこの人単に俺のこと甚振りたいとしか思ってなさそうだし。おっかしいな。この人に気に入られるような真似をした覚えはないんだけど。今度はコンテナを持って2歩遠ざかる。もう棚の端っこだ。これ以上逃げると仕事に差し支えてしまう。

 

「比企谷君にはあんまり隠し事をしたくないから正直に言うとね、私って雪乃ちゃんの事大好きなんだよね」

 

 マジかよと言いたくなるような衝撃の事実である。普通大好きな妹の人間関係ぐちゃぐちゃにはしないと思うんだが。やっぱりこの人相当面倒臭い人だ。てか何故俺には嘘を吐きたくないなんて事になるんだ? 嘘をつくのも面倒とかそういう評価ならまだ納得しようもある。俺など雪ノ下や雪ノ下さんからすれば、路傍の石同然の人生において何の意味も持たない人間だ。付き合いがないので殆ど憶測の域を出ないが、俺はこの考えが殆ど間違っていないと確信している。今この高校生活という時間俺と偶々居場所が重なった事さえ奇跡みたいなものなのだ。

 

 だというのに雪ノ下さんはたった2回しか面識のない俺に、妙な価値を見出しているようである。或いは誰にでもこんな事を言っているのか。

 

 でもね、と雪ノ下さんが言葉を続ける。

 

「だから雪乃ちゃんの事構いたくて構いたくて仕方ないんだよね」

 

 これはあれか。学生時代いじめをやってた奴が何十年も経ってから、よく遊んでたよなというような奴なのだろうか。当の雪ノ下本人も周囲の人間である俺も間違ってもその記憶を共有できそうにない。それとも雪ノ下さんの中じゃ構うってのはいじめるとかルビが振って有ったりするのか。

 

 どちらにせよ、雪ノ下さんはロクでもない人間決定である。

 

「でね、ずっと後ろをちょろちょろ付いて来てた雪乃ちゃんも大きくなって、今度は私を越えようと躍起になってるのがもう可愛くて仕方ないんだよね」

 

 出来るわけがないのにね。言外に絶対の自信を滲ませながら雪ノ下さんは笑う。俺はその気配だけを感じながら相変わらずカップ麺の品出しを続けていく。どうやら発注がポカしたらしく一部の商品が大量に在庫を抱えているのだ。それがあっちこっちにちらばって邪魔で仕方ない。これは一先ず商品をざっと分類してしまった方がやりやすそうだ。後雪ノ下に雪ノ下さんが超えられないというのは同意だ。雪ノ下もそこらの奴を相手にすれば敵なしの逸材だが、雪ノ下さん相手では流石に分が悪い。役者が違いすぎるのだ。片や自分の外面まで偽ってしまえる、その上で尚微動だにしない自我を築いた人間と、何もかも、自分の内面すら偽れない雪ノ下。始末に終えない事に能力の方まで雪ノ下さんの方が上なのだろう。でなければこれ程自信満々に彼女を嘲笑する事など出来ない。

 

 しかし、この難敵を向こうに回して戦おうと言うのだから雪ノ下の方こそ誰かの助けを借りるべきである。同じ部活の誼でその相手探し位なら手伝ってもいいが、これの相手を出来るような人間か。心当たりがないな。

 

「でもさ、雪乃ちゃんたら弱っちくて、直ぐに諦めそうになっちゃうの。周りの人の影響も受けやすいし。そんな所に君みたいな味方が居るとちょっと面白くなさそうな事になりそうなんだよね」

 

「俺が雪ノ下相手に何が出来るっていうんです? あいつに手を貸してやれるほど、俺は凄くないんですけど」

 

 あいつだって努力をしていない訳じゃない。むしろ人一倍努力を惜しまない奴だろう。だからこそ俺という怠惰と惰弱の塊のような人間からは何の影響も受けないはずだ。しかし、雪ノ下をよく知る、雪ノ下さんの読みでは異なる見方が出来るようだ。

 

「でも雪乃ちゃんの味方にはなれるでしょ?」

 

「そんなの誰だってなろうと思えばなれるでしょう。特にあいつの味方だっていうんならなりたがる奴も多いと思いますけど」

 

 小林多喜二はこう言っている。ーー困難な情勢になってはじめて誰が敵か、誰が味方顔をしていたか、そして誰が本当の味方だったかわかるものだ。ーーそしていつだったか雪ノ下はこう言っていた。「心から愛されていれば良かったかもしれない。結局私に好意を表していた人でさえ私の周囲には居なくなったわ。そもそも悪意の盾になってくれようとした人さえいなかった」。なるほど確かに雪ノ下には今まで本当の意味での味方は居なかったかもしれない。だからこそあいつは今のように生きていくしかなくなったと考えることも出来る。だが、根本の所で躓いてしまう。俺が雪ノ下の味方になれるって?

 

「そう? 雪ノ下ちゃんの周囲を取り囲む敵でも、友達でもなく、雪乃ちゃんの単なる味方になってあげられる子がそんなに沢山いる?」

 

 雪ノ下ならばまず味方の定義から始めそうな問答だ。とはいえ、それは間違いでもない。俺と雪ノ下さんの間で味方という言葉の持つ意味が食い違っているような違和感が有る。

 

「雪乃ちゃんの事を大切にも粗末にもしない、雪乃ちゃんの事を突き放しも抱きしめもしない、雪乃ちゃんの事を綺麗な女の子なんて思わないで、羨まないで嫉まないで、安息も平穏も与えないまま、休息を与えてあげられるかな?」

 

 ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』の中でこう語った。すなわちーーもし君が悩む友を持っているなら、君は彼の悩みに対して安息の場所となれ。だが、いうならば、堅い寝床、戦陣用の寝床となれ。そうであってこそ君は彼に最も役立つものとなるだろう。ーー。多少違ってはいるが、求める所は同じだろう。それにしたって、まるで彼女が上げた要素全てが雪ノ下を堕落させるような口振り。いや、彼女は雪ノ下を可愛がるのが目的なのだからそれも当然か。それらが雪ノ下に与えられるというのは彼女にとっては紛れも無く堕落なのだ。腐敗で、悪徳なのである。

 

 漸く合点が行った。雪ノ下さんはRPGの魔王もかくやという態度で、己の敵対者を育成しているのだ。違う点と言えばこれが現実で確実に勇者が魔王に敗れるという所だ。だから雪ノ下さんは、雪ノ下に最終決戦の時まで決して腐ることも倒れる事も許すまいとしているのだ。今回のこれは勇者ただ1人を対峙させる為の作戦。雪ノ下さんは俺に雪ノ下を自分の前に差し出せと言っている。

 

「雪乃ちゃんはね、別に強い子じゃないんだよ。だから簡単に変わってしまえる。でも私はそれじゃ面白くないの」

 

 変わっていくこと。それは雪ノ下が、いつか肯定した事だ。変わっていかなければ苦しいままだから、変わらなければ痛いままだから。その痛苦の原因の言う事は、どこまでも自分勝手な言い分だが、この人はきっとこれからも色々な物事を自分の思いのままに進めていくだろう。だから雪ノ下は変わらなければいけないのだ。でなければ逃げ出せない。だが、逃避の原因がそれを許さないなら。それが自分よりもずっと強烈に、強固に自分を自分のまま押し留めていたら。

 

「俺にあんまりあいつを甘やかすなって言いたいんですよね。最初からそんなつもりありませんよ」

 

「それは嘘だね」

 

 この人はきっと何処ぞの暗殺拳の継承者とかに違いない。硬い床の上をヒールの入った靴で音も無く動くのだから。余所見をしていた俺に実感されるのは、突如目の前に現れる雪ノ下さんだけ。

 

 視界いっぱいに見覚えがある顔にそっくりで、でも何もかも決定的に違う雪ノ下さんの真剣な表情が広がる。そのそれぞれが微妙に記憶の中の雪ノ下と異なるパーツの中でも一番違うのはやはり目だ。雪ノ下と正面から話してみると分かるが、あいつはどんな相手であっても話す相手の事をとても意識している。被虐者の習性か、ぼっち特有の習慣か。どちらであってもいいが、根っこにあるのは防衛行動だろう。対してこの人は、相手の事にさして興味がない。あるのはそれを使って何が出来るかという事だけだ。今も雪ノ下さんの視界には俺の視界に映る雪ノ下さんと同じ位、俺が映っているが、俺が何をした所でこの人が狼狽える所など想像も出来ない。それはこの人の中にあって、俺が同等の存在ではないからだ。

 

「何が見える?」

 

 そんな物は決まっている。

 

「雪ノ下さんが」

 

 同時に雪ノ下さんの瞳に写り込んだ自分が見える。

 

「相手の目を覗き込んで、相手の事を分かった気になるなんて比企谷君もまだまだ青いなー。それで見えてくるものなんて、相手の目に映る自分だけなんだよ」

 

 嫌に哲学的な話だ。

 

「君はね、自分が関与した相手の事なんか心の底からどうでも良いんだよ。だから甘やかそうと思えば、可哀想だと思ってしまえば、際限なく相手を甘やかす。相手が自分1人で立てなくなっても気にしない。相手が比企谷君をどれだけ求めたって関係ない。君は君のしたいようにして、用がなくなったらさようなら。おろおろしてる迷子が家に帰れなくたって構わないんだ」

 

 貴方こそ、一体俺の何を分かった気になっているんだ。どうせ、俺のことなんて何も知りもしないくせに。

 

 普段の俺ならこんな事を考えつきもしなかっただろう。だが今日は、雪ノ下さんの言っている内容が胸に刺さりすぎた。俺の知っている、俺の嫌いな俺の事を、こんなに簡単に言い当てる雪ノ下さんに動揺して、恐怖して、戦慄して思わず距離を取らずにはいられなくなった。だからこんな事を。

 

 すっかり作業の手が泊まり、もう何分も同じカップ麺を握りしめたまま俺の動きは止まっていた。作業に戻らないと。そう言って雪ノ下さんから離れたい。見透かされないよう俺の姿を隠したい。まぶたを閉じれば、どうせそこに映っているのが雪ノ下さん自身の姿で有っても、それを閉じれば彼女に見通されている自分の姿が掻き消える。そう思ってもまぶた1つ動かなかった。

 

 雪ノ下さんは更にぐっと彼我の距離を詰めた。それは鼻先がぶつかりそうなほど近い、俺と他人の線を越える距離。それでも俺は動けない。

 

「分かるよ」

 

 心臓が止まる。

 

「君と私はそっくりだよ。まるで鏡に写った自分みたい」

 

 俺の考えが、心が読まれているのかと思ってしまう。そんなドンピシャのタイミングで雪ノ下さんがそう言った。

 

 そう、さっき雪ノ下さんはこんな近さでは自分しか見えないと言った。だから今雪ノ下さんの瞳には雪ノ下さん自身の姿が映っている。だが、その姿が本当に俺そっくりだったとしたら。鏡に映る自分の心を読むことなんて造作も無い。

 

「でもね、そんな君だからこそ雪乃ちゃんの味方になれる。2人で1つの方向を見る為じゃない。2つの方向を見ながら正しい道を歩いていける。そんな味方にね」

 

「俺を炊きつけるつもりとしか思えませんね」

 

「嘘つき」

 

 それだけ言って漸く雪ノ下さんは俺から顔を離した。こんなに近くに息を呑むような美しい顔が有るというのに全く嬉しくならない。鼻先をくすぐる微香も、眩しく光るデコルテも今の俺には気にしている余裕が無い。

 

 只々どうするべきかがわからない。

 

 別に雪ノ下さんを恐ろしいとは思っていない。だから彼女の思惑に楯突こうとする事は可能だ。だが、それは同時に雪ノ下と深く関わりあうという事でも有る。そしてまた俺には雪ノ下に肩入れする理由もない。同じ部活の誼という程度の理由では、人生相談にも、この人との闘いにも参加出来ない。俺は雪ノ下の事が好きだろうか? それはNO。では雪ノ下さんの事は? それもNOだ。どちらも正直どうでもいい。ならば、今こうして選択を迫られている俺が選ぶべきなのは。

 

「分かりました。雪ノ下さんが、こうして俺に話しかけるという手間を掛けてまでそうする理由は分かりませんが、雪ノ下の味方はしません。これでいいですか?」

 

 むべなるかな。ここで俺が雪ノ下の味方をするという選択肢は無かった。そもそも何の恩義も無ければ友誼を交わした記憶もない。単に同じ部活の女生徒だ。彼女の巻き込まれる諍いにも、彼女の苦悩にも興味はない。同情はない。悲哀はない。

 

 あるとすれば……。

 

「うん、ありがとう。比企谷君。別に雪乃ちゃんと仲良くする事に関してはどうこう言わないから、これからもよろしくしてあげてね。何だったら私の事お義姉ちゃんって呼んでくれる関係になっても」

 

 お姉ちゃんプレイ? ってそんな訳はないか。昼日中から何という勘違いをしてるんだ俺は。幾らなんでも盛り過ぎだ。結局そんなプレイに及んだ所で極悪非道な姉に隷従を強いられる展開しか想像できずげんなりしてしまう。それとも俺が弟になってもこの人の歯牙には掛からないか。そちらの方が可能性としては十分にありそうだが、万が一のリスクが高すぎる。

 

「ごめんですよ。俺には妹1人で十分過ぎます」

 

「えー。私は義弟(おとうと)も1人欲しいんだけど」

 

 手のひらを返したように笑顔を浮かべて拗ねたような声を出し始める。どうやら彼女を満足させることが出来たらしい。いつの間にか動くようになっていた体は、何事もなかったかのように仕事に戻っている。これはシーフード、これはカレーと商品の種類毎にコンテナの中で商品を選り分けていく。頭の中も切り替わりは速い。頭の何処かに引っ掛かりを感じていても時間を確認して、時間にどの程度の余裕が有るかなんてことを計算できる程度には。

 

「それじゃあ私そろそろ行くね? 友達待たせてるから」

 

 この人この後友達と遊ぶっていうのに、こんな事してんのかよ。あたかも飯を食べながらエロ動画を見るような食合せの悪さを感じてしまう。改めて雪ノ下さんの非人間性を目の当たりにしてしまった。

 

 雪ノ下さんは、ドン引きしている俺に手を振ると足取り軽く店を後にした。俺はといえばその背中を見送ることはせずに、カップ麺の山をバックヤードに戻していた。そして時計を見て、在庫の山を確認して、売り場を見て。

 

「どっと疲れた」

 

 そんな事を言った所で仕事をサボるわけに行かない。普段から仕事に手を抜く夕勤をボロクソ言っているせいで、夕勤と店長には目をつけられているのだ。今日のサボりを反撃の糸口にされては適わない。虚脱感すらある手足を気力で動かして品出しを続ける。

 

 そのままお菓子とパン、お弁当の在庫を陳列し終わった頃、5時の納品物を置いて置くためのスペースを作っている間、俺の迂闊さを呪いたくなるような出来事が有った。

 

 思い出してしまったのだ。雪ノ下に肩入れする理由。雪ノ下さんの不興を買うに足る理由というやつを。つい30分前の自分を呪い殺したいと後悔しても無駄である。俺は雪ノ下さんに言ってしまったのだ。雪ノ下の味方にはならないと。

 

「でもま、いいか。どっちにしろあの人の言う事には逆らうことになるわけだし。変わんない変わんない」

 

 そうだ。未だ俺に何の利益も恩恵も齎していないが、雪ノ下雪乃。あの女は俺に友達を作ってくれるという依頼を請け負ってくれた。そもそも真面目に話を聞いていたかも謎だが、少なくとも承知されてしまっているならこれはもう恩だろう。それに対して報いないのは道徳心溢れる人間のやる事ではない。

 

 そう。それにだ。雪ノ下がそうそう簡単に味方を必要とする機会も訪れないだろう。今じゃもう由比ヶ浜という友人もいる。もしもこれから先同じように雪ノ下という人間の周囲に人が増え続けるなら、遠からず俺が何をしなくとも雪ノ下さんが危惧していた様な状態に雪ノ下が陥る可能性だってある。だから、だからもしもの時があれば、雪ノ下の味方にはなるけれど、出来たらそんな時は来てほしくないなあ。

 

 




 自分で言うのも何ですが今回は微妙な出来です。
 いやー個人的には陽乃が一番好きなんで陽乃ヒロイン、あるいはいろはメインなんて事も考えたりしてるんですが、難しいですね。

 皆様のそれぞれのキャラ像なんかを聞かせてもらえると参考に出来るかもしれません。

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