五月の早朝はまだ冷える。陽は上り始めたが朝食にはまだ早いそんな時刻。
既に和装に着替え、ホテルロビーに面した庭先にヒカルは手に持った扇子を、一枚開いては閉じ、一枚開いては閉じを黙々と続けながら一人立っていた。
「昨日の対局中も思ったがいい扇子じゃな、どこのだ?」
後ろから声をかけてきた相手に、ヒカルは一瞬驚きながらもゆるりと手にある扇子へと戻す。急に声をかけられたのは驚いたが、扇子を褒められたのは素直に嬉しい。
ヒカルの口元がほころぶ。
「知らないんです。譲ってもらったものだから。でも俺にとってすごく大事なもので」
言ってからまた一度、一枚開いてパチリと閉じる。
「塔矢先生が使ってた扇子なんです」
「行洋が?」
どこかで見たような扇子だとは桑原も内心思っていたが、だから見覚えがあったのかと合点がいく。
大多数の棋士なら譲られることはおろか、受け取ることも憚れるだろう品だ。それをヒカルは静かな面差しで扇子を手にし、先ほどまでのように一枚ではなく、パタパタパタと全て開く。
瞬間、ちょうど上って行く朝日のまぶしい日差しが桑原の視界を奪い、瞳を細める。その一瞬、逆光になったヒカルに行洋の姿が重なった気がした。
■
本因坊戦第一局二日目。
一日目が終わった段階では、やはりというべきか対局前の大方の予想通りゆっくりじわじわと形勢はヒカルの黒石へと傾いていく。それでも桑原の白石は始終ぶれることがなかった。最近の桑原には見ることの少なくなった妙手が次々と打たれ、その度に観戦室では唸り声がいくつも上がる。
形勢がヒカルの方へ傾いたのは、桑原が強く出過ぎて悪手を打ったからではなく、ヒカルの応手が非常に丁寧かつ冷静で堅かったからというのが、一日目を終えて検討した感想を占めてだった。
そして二日目に入り、対局再開30分にして桑原が打った一手にヒカルの片眉がわずかに反応する。それから視線を斜め横へと移したものの、すぐに視線は盤面へと戻った。そしてずっと碁盤手前に置いていた扇子を手に取り、正座した膝の上に置く。
――今、少し進藤くんの表情が険しくなった?
たまたま盤面の中継画面ではなく、対局室全体を映しているテレビ画面を見ていた芹澤がヒカルのほんの僅かな変化に気づく。
すぐに盤面が映し出された画面を見やり、滅多に表情に出ることがないヒカルが反応した桑原の一手を確認する。
「進藤君が打ったこの一手に対して、桑原先生が打たれた一手がこちらのトビコミですよね?」
「ええ、これが何か?」
芹澤の確認に森下が頷く。桑原の白石が少し強引に出た感はあるがハネてしまえばしのげるように思える。
「進藤が長考に入りそうだぞ」
「ここで?」
倉田もテレビ画面に映るヒカルの様子に、長考に入る気配を察する。直ぐさま、緒方たちは桑原のツケの狙いを検討し始め石を並べ始める。
最初は何故ヒカルがここで長考を?と疑心暗鬼だった一手だが、それぞれの考えと今後の流れの可能性を潰していくうちに、次第に皆の表情が変わり始めた。
「黒がこう打てば……いや、手にされるな」
「これだと黒地がだいぶ削られますね」
芹澤の考えに、アキラも神妙に頷く。
そして緒方がニヒルな笑みを浮かべて結論を締める。
「ここにきて癪だが、黒は妥協せざるを得ない」
それこそがヒカルが長考に入った理由だろう。
「まだまだやるじゃん!桑原のじいさん!」
「あの狸じじいにしては気合の一手だな」
興奮気味に倉田は扇子をたたき、緒方もニヤリと笑む。もし自分が打たれていたなら見逃していたかもしれない。
それから時間を置かず、ヒカルは黒をツギに入った。決して気持ちの良い手ではないが、黒地が大きく削られる痛みを考えれば、今は堪えて緒方の言う通り妥協するしかないと踏んだのだろう。
対局室から少し離れた部屋で行われているテレビ中継用の解説でも、ヒカルが黒をツイだことでようやく桑原の狙いに解説者も気づいたようで興奮気味に解説をはじめだした。
■
本因坊戦第一局はヒカルが1目半で勝利を収める。途中のトビコミでヒカルの黒地が削られ白が勢いを取り戻しそうに思えたが、それに動じることなくヒカルは終局まで冷静沈着に打ち逃げ切った。
棋譜だけ見て対局相手を交互に想像したなら、桑原の方が年若い棋士だろうという印象を受けるかもしれない。負けた碁ではあったが、桑原の評価は非常に高かった。
反対にこの大舞台でも揺らぐことのないヒカルの底力に、観戦室で実際の会場の雰囲気を肌で感じていた棋士たちは改めて考えさせられた。既に6つのタイトルを得ているとはいえ、ヒカルはまだ16歳である。囲碁棋士は早熟であればあるほど良いと考えられがちだが、それを差し引いてもヒカルの早熟さはどうだろう。
たった16という若い歳で何十年と碁を打ち続けてきた棋士を打ち破り、決して若さゆえの勢いだけではない熟達した碁を持っている。
特に他の追随を許さないがごときズバ抜けた計算とヨミが、ヒカルの強さの根底であることはどの棋士に聞いても認めるだろう。
そして夕刊で本因坊戦第一局目を勝利した和装姿のヒカルが一面を飾ったのだ。
二日目の対局が終わったのち、両対局者がその日の内に帰るか泊まるかは本人の意思である。二日がかりの対局に疲れ切っていても、その日の内に帰宅する棋士もいれば、疲れて一泊する棋士もいる。
対局を終えた直後に一言づつ対局内容をコメントしただけで、対局者同士の検討はなかった。検討室でも散々緒方たち対局を見ながら検討していたので、それ以上検討することはなく碁笥を片付けてお開きとなる。
対局を観戦しにきた棋士であれば、大概が朝の内に荷物をまとめ泊まらずに帰宅するものなのだが、緒方だけは東京へ戻らずもう一泊することにした。
検討するだけならそこまで体力は使わない。本因坊戦を観戦する以外に広島に用はない。だがこの本因坊戦で、二日目勝っても負けても桑原が一泊することを知っていた。
「ふ~、年甲斐もない碁は打つもんじゃないわい。なんじゃ?緒方くん、そのもの言いたげな顔は?ハッキリ言ったらどうじゃ?」
腰掛けた桑原の傍まで来ておきながら、声をかけることなく無言の緒方に桑原の方から声をかける。勝負事は必ず勝者と敗者がいる。勝者ならばおめでとうございますと気軽に声をかければいいかもしれないが、敗者にかける言葉は誰しも迷ってしまうものだ。
しかも、緒方もプロ棋士で、負けた時の悔しさは身を以て知っている。
負けたことを全く気にしないわけではないが、まだ本因坊戦は終わったわけではないのだ。次の対局にすぐ気持ちを切り替えていかなくてはならず、一時の慰めの言葉など何の役にも立たない。
何と声をかけようか迷っていたが、桑原から声かけてくれたのなら有難く受け応える。
「ああいう碁も打てるのなら、日頃から打ったらどうですか?」
「はっ!あんな碁そう何度も打ってたらこっちが参ってしまうわ。ああいう体力任せの碁は若いもんが馬鹿のように打てばいい」
声高らかに桑原は笑うが、やはりというべきか久しぶりに打ち慣れない力碁を打った桑原から疲労は隠しきれない。
もしかするとヒカルも桑原の疲労に気を使って、対局後の検討をしなかったのかもしれないと緒方は頭の隅で思う。
「どうぞ」
ロビー横の自販機で買ってきた缶コーヒーを桑原に差し出す。足は値段相応だが、疲れているなら少しでも採った方がいい。それを片目だけ開けるようにして桑原は見やり、
「今はコーヒーよりタバコが良かったんじゃが、まあいい」
妥協感を垂れ流しにして缶コーヒーを受け取った。
桑原が素直にありがとうと受け取るような性格でないのは緒方も知っているので、今さらイチイチ表情に出すこともなく、文句をつけることもないが、
―― 一言余計だ。クソジジイ
胸の内で悪態をつくくらい許されるだろう。これくらいでイチイチ目くじらを立てていては、桑原の盤外戦など敵にもならない。
空いていた桑原の隣に緒方も腰掛け、今日の対局の感想を伝える。
「今日のトビコミは良かったですよ」
一見してハネだけで良さそうに見えて、かなり奥が深かった。ヨミがスバ抜けているヒカルがあそこで30分以上長考して結局妥協したのがその証拠だ。
「よく気づかれましたね。あのトビコミはもっと先から狙ってたんですか?」
「ああ、あれか?あれはな、秀策になったつもりで考えてみたんじゃよ」
「秀策?江戸時代の本因坊秀策ですか?」
意外過ぎる人物の名前が出てきて、緒方は目を見開く。
「その秀策じゃ。あの局面で秀策ならどう考えるか、どこを狙ってくるか考えてみたらあそこが見えた」
過去の棋士になりきって考えるにしろ何故秀策を?と疑問に思いつつ、当人はあっけらかんと笑う。イベントや指導碁などの気晴らしで試したというならまだ話は分かる。
しかし大事な本因坊戦で秀策になりきり、本当に桑原があの一手を見つけたとしたなら、
「酔狂にもほどがある。たまたまいい手だったからよかったものの」
呆れるしか緒方はできない。
「まだ第一局ですよ?そんなんで今後の対局打てるんですか?」
第一局目から他力本願では今後の対局が知れるというものだ。
だがどんなに疲れていても桑原の悪態が止まることはなく
「緒方くんより少し骨を折りそうじゃが、わしの相手に不足は無しじゃ、ひゃっひゃっひゃっひゃ」
「それだけ軽口叩ければ心配する必要はなかったですね」
「なんじゃ?儂を心配しておったのか?」
「いつ倒れてもおかしくないお年頃でしょう。このタイトル戦を期に引退されてゆっくり養生されるのをオススメしますよ」
「減らず口を。それに小僧もよう覚悟しとる」
急に口調を変えて、桑原は満足そうに口角を斜めに上げた。あれだけの気配を放つ鬼を背負いながら、終局まで盤面を見つめるヒカルが揺らぐことはなかった。
この本因坊戦にたどり着くまでに、他に得た6つのタイトルを鬼に打たせ続けてなお自分を見失わないだけの覚悟をあの歳でしたのだろう。
並大抵の人間に出来る覚悟ではない。
――あの目は鬼に誑かされて碁を打っとる目ではないわい。小僧め、自分を殺して鬼背負う覚悟したか
鬼の甘い誘惑にほだされてタイトルを軽はずみに欲しただけなら、周囲からのプレッシャーや自身を持ち上げようとする周囲に簡単に自分を見失うだろう。
タイトルを一つとるだけで数千万の金が入る。普通の人間なら強さではなく金に目が眩む。
しかし、ヒカルは自分を見失うことなく桑原の対局者として盤面向かいに座った。
けれど、
「覚悟?」
桑原が何の話をしているのか咄嗟に分からず、緒方が聞き返す。
「緒方君にはまだわからんか?」
「何の話です?」
桑原が何を言いたいのか、さっぱり話が見えないと緒方は眉間に皺を寄せるが、『ヒカルが覚悟している』の一言だけで桑原の意を全部酌めというのが土台無理な話である。
しかも緒方が分からないと言っているのに、桑原はさらさら説明する気はなく、これで塔矢門下一番弟子なのだからと思いながら、桑原は盛大なため息をつき、
「これだから儂はいつまで経っても引退出来んのじゃよ」
勝手に自分ひとりで納得して話を切ってしまう。
それにずっと耐えてきた緒方の忍耐の尾がプチっと音を立てた。
棘が生えた口調で、
「さっきから何をブツブツ言われているんです?今日の対局でボケが進行しましたか?引退祝なら喜んでお贈りしますよ」
「まだまだ若いと言っとるんじゃ。進藤の方がよっぽど肝と根性が座っとるわい」
「あ?口の減らないクソジジイが」
ついに緒方の忍耐の尾がブチっと完全い切れて、辛うじて保っていた丁寧語も剥がれてしまった。最初の方はいいとして、桑原を相手にして元から緒方の口調が素に戻るのは時間の問題なのだ。
これがもし緒方ではない別の若手の棋士だったなら、目上の棋士相手にどうすればいいか分からず泣いて逃げるだけだろうが、そこはもう何年も桑原にしごかれてきた経験の差がある。
一方的にやられているだけでは対局も勝てない。
しかも緒方が本性を出したところで、桑原はさっさと矛先を変え、和装の袂の中からたばこを取り出す。
「ほれ、火」
「ちっ」
一本口に咥えて火を催促されれば、しぶしぶと緒方もジャケットからライターを取出し、たばこの先に火をつけてやる。
そして緒方もタバコを一本咥え、
「で、進藤と対局してみてどうでした?」
「どうとは?」
「……打っている最中、進藤と打っているのに進藤ではない別の誰かと打っている気分になったりとか……いえ、なんでもないです。聞かなかったことにしてください………」
平静を装い尋ねようとするも失敗してしまい、せめて桑原と顔を合わせまいと緒方はそっぽを向く。
桑原にヒカルの何を緒方が尋ねようとしているのか。
まったく気づいていないのかと思えば、そうでもないらしい。
しかし、緒方が何を聞きたいのかわかった上で、たった缶コーヒー1本で教えてやるにはいささか安い気もするが、今の桑原は非常に機嫌がよかった。
負けてしまったが、久しぶりに自分でも納得出来る碁を打てたからだろう。
「返せ、と言われたわい」
「返せ?」
「本因坊を返せとな、あれは元々自分のものだと一丁前に睨んできおったわ」
緒方の表情が怪訝なものになる。
一瞬、もし行洋が生きていれば今頃行洋のものだったから、それを返せと言っているのかとも考えたが、文脈からするとまるでヒカル自身が以前本因坊だったかのような言い方だ。
しかしヒカルが本因坊だった事実はない。
神妙な顔つきで考え込み始めた緒方に、
「儂らが打っている相手は、そういう相手ということじゃよ。ひゃっひゃっひゃっひゃ」
意味ありげに桑原は笑い始める。
「何か知ってるんですか!?」
「缶コーヒー1本じゃあのう、まぁあまり深く考えぬことじゃ」
安すぎて話にならないと、問い詰める緒方からプイと顔をそらす。
ああいう類は、近づき過ぎず、踏込み過ぎず、そこにあるのを疑わず受け入れるのが最も最善なのだから。
++++++
夜中更新はダメダメですね・・・・