「いくら塔矢先生のご子息の方でいらっしゃられましても、ウチの店では一歩店の門をくぐった瞬間から店を出るまで、お客様が過ごされる時間は守秘すべきプライベートとして誰であっても他言できません」
昨日に続き、今日も店を訪ねてきたアキラに店の女将は、邪険な対応にならないよう気をつけながら、しかし昨日同様に毅然と断り続ける。
それまで何を考えていたのかもあやふやだが、アキラは母親の明子と家で夕食を食べていたとき、不意に行洋とヒカルはどこでこっそり会っていたのだろうかと疑問に思ったのだ。
普通に考えればホテルの一室だが、大勢の客が出入りする場所に碁のタイトルホルダーが頻繁に出入りすれば、年配のホテル客の中には行洋の姿に気づく者が出てくるだろう。
行洋の性格を考えれば、静かに騒がれることなく碁を打てる環境と場所を選ぶはずだ。
となるとホテルは選択肢から除外される。
家は論外。
では、それ以外のどこで?となると検討がつかない。
母親の明子に尋ねても、知らないと首を横に振るだけで、残す心当たりは、塔矢門下中の筆頭で行洋がなくなる前にもsaiについて話したという緒方しか残されていない。
そしてアキラにとって意外なほど緒方はある店を教えてくれた。
行洋に指示され、一度だけ緒方も行った事があり、そして紛れも無く行洋とヒカルが会っていた店を。
ただしその店は一見は入れない高級料亭であり、その店柄ゆえ客の息子だろうと聞いても何も話してもらえないだろうと、忠告付で。
案の定、アキラが店を訪ね、女将に行洋の様子を尋ねても、『お教えすることは出来ません』の一点張りだった。
しかしアキラを応対する姿勢は、粗雑にあしらうものではなく、きちんとアキラと正面から向き合い変に「分かりません」「知りません」と答えるより、毅然と「答えられない」と拒む方が決然とした潔さを感じられた。
店はそれなりの覚悟と誇りを持って客のプライバシーを守り、客もそんな店だからこそ贔屓にするのだろう。
「そこをどうかお願いします!父のことを知りたいのです!」
もう何度下げたのか分からない頭を、アキラは下げて頼む。
昨日も昼過ぎに来て、今日と変わらない問答を続け、客が来たことで『また来ます』と言い残し引き下がったが、今日は朝10時からすでに3時間この問答を続けている。
アキラのしつこい粘りもだが、女将も冷静さを失うことなく、平静さを顔に貼り付け断り続ける。
「話すことはありません。申し訳ありませんが、どうかお引取りを」
恭しく女将が頭を下げる。
しかし、アキラは女将以上に頭を下げ、
「お父さんと進藤が会っていたとき、緒方さん以外に、もう一人誰か訪ねて来たりしませんでしたか!?どんな些細なことでもいい!教えていただきたいのです!お願いします!」
「………」
昨日から話を聞きに来て、即答で女将が断らず、黙ったのは初めてではないだろうか。
その差異にアキラはすぐに気づいたが、すぐに頭を上げて女将の様子を確か見ようとせず、頭を下げたままの姿勢でずっと待ち続けた。
「……本当にお二人以外、誰とも会っていないので聞かれても何もお話することはないのです」
声を低めながら、控えめに話す女将に、今度はアキラが無言になる。
「…………」
「お二人が碁を打っている間、店の者は誰も部屋に近づきませんからどんな会話をされていたのかも分かりませんし。店に来られると朝から夕方まで二人でずっと碁を打っていました」
アキラはぎゅっと顔を顰め、唇を噛み締めた。
これが女将の知る行洋とヒカルの全てなのだと直感で分かる。
いくらアキラが問い重ねようと、女将はそれ以外何も知らないのだ。
例え何も知らなくても、知らないことすら『話すことはできない』として第三者へ話さないという徹底を犯して、女将はアキラの嘆願に話してくれた。
これ以上の問答は、無駄でしかない。
ゆっくりとアキラは顔を上げた。
「そうですか……」
「ご期待に添えず、申し訳ありません」
「いえ、何度もおしかけてご迷惑をおかけしました」
押しかけ迷惑をかけて申し訳ない気持ちと、何も手がかりが掴めなかった落胆が隠し切れず、アキラは唇をきゅっと結び伏目がちの複雑な表情になる。
「……ただ……お茶をお運びするとき、何故かお茶を一つ多めに頼まれておりました」
「お茶?」
不意に女将が呟いた一言をアキラは反芻する。
「余分に運んだお茶は最後まで飲まれることはありませんでしたが 、いつも必ず一つ多めにご用意させて頂いておりました。しかし、多めに用意したお茶は一度も飲まれることはありませんでしたが」
それだけ言うと女将は一度ペコリと頭をさげ、店の母家の方へ戻っていく。
――お茶を多めに頼んでおいて最後まで飲まない?
そのお茶に何の意味があるのか皆目検討もつかない。
一見して繋がりのないピースの一つだ。
しかし何でもにないことに思えるそれが、ひどく重要なことのようにアキラは思う。
アキラは女将の後ろ姿に深く頭を下げた。
□
テレビ中継に映されたヒカルの姿に、一人暮らしをする和谷のアパートに院生の頃からの付き合いがあるメンバーが集まり、名人戦第一局が決する二日目を皆で観戦・検討していた。
プロ試験に合格した者も、まだ院生でプロ試験合格を目指している者も、タイトル戦の対局となれば、チェックしない者はいない。
特に今年は、和谷の家に集まった全員が知っている棋士が、名人のタイトル挑戦者として出場するため、否が応にも例年になく関心が高まる。
対局観戦の情報はテレビ中継と、ネット中継、そして携帯の棋譜速報の3つから。
携帯は棋士が打ってすぐに打った場所が更新され、一番早く棋譜情報が手に入り、次にネット中継だと対局会場のホテルに集まった立会人を含むプロ棋士たちの検討した意見なども中継ブログに記載される。
中継ブログは棋譜以外に、対局場の画像や挑戦者の様子などもUPされるので、対局中の様子がよく伝わってくる。
そしてテレビ中継は録画したものをダイジェストで少しずつ放送するのだが、見ているこちらまでTV画面を通り越して緊張感が伝わってくるようだった。
「この進藤と数年前まで院生手合で一緒に打ってたとか夢みたいだ」
昼のテレビ中継ダイジェストに映されたヒカルの姿に、本田が長いため息をつきながら呟いた。
片やテレビや新聞に取り上げられない日はないほど日本中から注目され、タイトルに手をかけた挑戦者。
そして己はまだ低段者の棋士に揉まれる毎日。
同じプロ棋士でも正しく天と地の差だ。
まるで他人事だと言っているようにも受け取れる姿勢の本田に、隣に座っていた奈瀬がムッとした表情になり、本田の脇を肘で突く。
「あら?私だって院生手合いで手加減されてたなんて、全然気がつかなかったわよ。てゆーか、同じプロ棋士なのは変わらないんだから、夢なんて悠長なこと言ってる暇ないじゃないの?」
「進藤くん、対局する前に、今日は何目で勝つとか負けるとか決めて打ってたのかな?」
と、本田と奈瀬のやり取りをスルーして、テレビに映るヒカルの姿を見ながら福井がぼんやりと周囲に問う。
ヒカルは自身の実力を隠し偽っていたことを、周囲に騒がれたくなかったから、としか言っていない。
確かにヒカルが本気を出したとたんに、今のこの状況であり環境の変化だ。
本能的に騒がれたくないと忌避したヒカルの気持ちが分からなくも無い。
だが、
「天才の気持ちは凡人には分かんねーよ」
ぶっきら棒に、そう言い捨てたのは和谷だった。
今、和谷の部屋に集まっているメンバーの中で、院生の頃から今も含めて誰よりも和谷がヒカルと親しいだろう。
それを踏まえて、ヒカルが実力を偽って院生時代に打っていたというのは、頭では昔のことだと割り切ろうとしても、根底の部分でなかなか納得出来ない。
ヒカル本人の前では口に出さないが、和谷と伊角とヒカルの3人で碁会所巡りをした思い出は偽りだったのかと、なんとも言えない気持ちになる。
そんな和谷に伊角は苦笑いして、話題と空気を変えるべく、「凡人だって悩みを大勢で共有できる特権くらいあるさ」と軽い口調で言って、携帯に送られてきた一柳の一手を打つ。
「形勢は一柳先生が優位のままか」
昨日の後半で一柳がじわりと仕掛けた展開と流れが、二日目の今日になっても流れを変えれないでいる。
「昨日のあの展開、俺鳥肌立ったぜ。一柳先生カッコイイとか思っちゃったもん」
「俺も。最初は進藤の狙い通りに進んでるように見えたのになー」
「まだ第一局目でしょ?これに負けても次があるからまだまだ分からないわ。ちょっとは進藤応援しなさいよ、二人とも!」
小宮と本田が一柳を褒める中、奈瀬の一喝がまた入った。
その様子を視界の端に映しながら、伊角の機転に感謝しながらも、はやりどうしても和谷の胸の奥に何かが燻っている。
じっと無言で碁盤に並べられた棋譜を見つめ、和谷は何が引っかかっているのだと自問する
本当にこのまま進藤が何もしないで終わるか?
研究会でいつも進藤の碁を近くで見ているだろうが
進藤のヨミはズバ抜けている
このまま何も出来ずに終局を迎えるなんて流れになるか?
心の中でそう自問自答すれば、答えはNOだ。
「進藤がこのまま終わるとは思えない。全てを読みきった上で、必ず……アイツは必ず自分の碁にする何かを仕掛けてくる」
「ここから?」
と問う伊角に和谷はコクリと首を経てに振った。
対局は中盤の終りに差し掛かろうとしていた。
ヒカルの逆転を捨てていない和谷に、集まった全員が怪訝な眼差しになった。
いくら天才と言われるヒカルでも、盤面に作り上げられたこの状況から、何が出来るというのか。
アマがファンのプロ棋士のタイトル戦を応援するのとは訳が違う。
曲りなりにも、正式にプロ棋士になっている者、プロ棋士を本気で目指している者たちが集まった場だ。
希望的観測で物事を言うアマと違い、勝負を厳し過ぎるほどにシビアな目で見て判断出来るのだ。
「まさか、ここから逆転なんて、一柳先生が何かポカするとかヨミ間違えでもしない限り無理よ」
「それでも、進藤なら絶対に勝負を捨てない。ここからでも勝つ気でいる筈だ」
和谷がそう言ったときだった。
伊角の携帯に、最新の一手が届く。
それを何気なく見た伊角の目の色が一瞬で変わった。
「……いい手だ」
「伊角さん、どうしたの?」
次はヒカルの打つ番だ。
ヒカルがどこに打ったのかと待つ周囲に、伊角は携帯を傍に置き、険しい眼差しで白石を碁盤に打った。
途端に部屋の空気が沈黙した。
「この白は取れないわね……」
「こんな一手があったなんて……」と本田。
黒の地と思われていた場所に、白の矛先が鋭く突き刺さる。
「気合いの踏み込みだな。打たれてみると、この場面、ここしかないという絶対の一手に見える。しかし、どれだけの人間がこの一手に気づけたか」
言い終わった後、伊角は唾を飲み込む。
和谷の言う通りだった。
ヒカルはまだ勝負を捨てておらず、本気で逆転を狙っていた。
しかもただ、一柳のミスを待つだけでなく、自ら勝つ道筋すら探し見つけていたのだ。
連勝を続ける勢いだけではない、ヒカルの底力と言ってもいいかもしれない。
「形勢がいつの間にか互角になってる!進藤くん、すごいやっ!」
興奮して福井が立ち上がって叫ぶ。
こんな碁を見せ付けられて興奮しない棋士がいるだろうか。
ネット中継のブログでも、検討しているプロ棋士の批評の大半が一柳優勢だったのに、ヒカルの一手を皮切りに逆転を長い批評と興奮気味の感想で記載された。
恐らく対局場にいるプロ棋士の誰もヒカルの一手に気づかなかったのだろう。
名人戦、第一局の勝敗が、ヒカルの反撃で大きく揺れていた。
□
残すのは小寄せのみ
複雑で手順を間違えやすいものの、正しい道は一本。
最後まで読みきれば、己の半目負けだ
瞼を閉じ、ゆっくり息を吐いてから、一柳は体の一部に等しい扇子を畳の上に置く。
「ありません」
頭を下げ自身の負けを認めた。
記録係を含め、まさかここで一柳が投了するとは誰も予測しておらず、カメラマンは誰一人いなかったため、その様子を収めたのは対局室を映し出していた中継用のカメラだけだった。
一柳の投了を知らされ、バタバタと対局観戦室から立会人が部屋に入ってきて、係員がまだヒカルが礼を返していないのだと耳打ちすると、姿勢を正し正座してヒカルの言葉を静かに待つ。
ここまで打って自身で負けを認めるというのは、悔しくないと言えば嘘になる。
ヒカルには上を行かれたが、自身の持てる全てを出し切った良い碁が打てたと一柳は碁盤に描かれた黒と白の石を眺めながら思った。
まだタイトル戦の第一局目であり、完全な負けが決まったわけではない。
次の第二局こそは、と気持ちを切り替えようとするが、
「……ここ、確かに必要な一手だって誰でも思う」
対局相手が負けを認めても、礼に応じず、そのままじっと盤面を見ていたヒカルが指で盤上を指し示す。
ヒカルが対局相手の投了に応じない限り、対局は続いているのだ。
そしてヒカルが応じる前に一柳が次の一手を打てば、対局は続行される。
にも関わらず、ヒカルは独り言に近い呟きを続けている。
「進藤くん?」
「でも、その前にこっちにのスミにオキを打つのは?それだけで一目得してる」
「あっ!」
ヒカルに指摘されて、一柳は声を上げた。
ヒカルの言うとおり、確かに半目逆転している。
――なんだ……勝っていたのか……
何故、こんな簡単なことに自分は気がつかなかったのだろう、と一柳は張り詰めていた気がゆるゆると抜けていく。
しかしすぐに盤面から顔を上げ、逆転の一手を指摘したヒカルを見やれば、
「逆転してる、一柳先生の勝ちだ」
ヒカルは残酷なまでに無垢に純粋に微笑んだ。