IF GOD - 神は斜陽に打ち震える - 完   作:鈴木_

11 / 26
10 名人戦第一局

名人戦第一局は大阪府のホテルで二日間かけて行われる。

二人の対局者は前日に大阪入りし、軽い前夜祭に出席して、送られた花束を抱いて各局各社の取材に応じ、翌日の朝から各時8時間の持ち時間で鎬を削っていくことになる。

 

 

挑戦者を決めるリーグ戦の時もそうだったが、同じ公式手合いでも棋譜が残らず中継もされない手合いと違い、ヒカルはフォーマルなスーツを着ている。

はじめこそ着慣れていない雰囲気が抜けなかったそれも、手合いに勝ち進み上に上がることでスーツ、もしくはそれに準じるフォーマルな格好をする機会が増えた。

ヒカルが対局に際し、そこまで身だしなみに頓着していないことは、ヒカルに何度か接している者であればすぐに分かる。

 

しかし、さすがにテレビ中継されて全国に対局風景が映し出される画面に、パーカーやチェックシャツなどのラフな格好でカメラの前に立つのは控えろと、アキラに指摘されてのことだった。

もちろん指摘されても、キョトンとしてよく分かっていない様子のヒカルだったが、アキラに言われた通りリーグ戦に着慣れないスーツ姿で棋院に現れたときは、その姿を見つけた事務員たちが一斉に胸を撫で下ろし安堵する光景に、周囲が自分の装いを心配していたのだと理解した。

 

 

そして今のヒカルは、名人戦のタイトル挑戦者に決定した時、これからスーツを着る機会が増えるだろうからと母の美津子と一緒に新調した真新しいスーツに袖を通し、ホテルから少し離れた場所にいた。

対局開始までにはまだ時間がある。

今朝は早くに目が覚めてしまったので、気分転換を兼ねてホテルの外へ足を伸ばした。

まだ夏の残暑が残っているが、早朝ということもあり、初秋の涼しさが感じられる。

 

「いよいよだ」

――はい

 

行洋と約束した『本因坊』のタイトルではないにしろ、ヒカルと佐為が臨む最初のタイトル戦が、行洋が長く連覇し続け保有していた『名人』のタイトルというのは、不思議な縁を感じずにはいられない。

いよいよだ、と思う反面、このタイトル戦の挑戦者になるまでを振り返ってみれば、行洋が急逝してヒカルが自身がsaiであると周囲に打ち明けたことで、世間から注目を浴びたり、数多くの取材を受けたりと様々なことがあったはずなのに、あっという間の出来事だったようにも思える。

実感がないんだろうな

自分で打ってるわけじゃないから余計に

 

自身がsaiであると打ち明けてから、全ての対局は佐為が打っている。

対局中の肌をピリピリ刺し、心臓を圧迫されるような緊張感と空気はヒカルにも伝わってくるが、あくまでヒカルの立ち居地は第三者だ。

 

ヒカルの頬に一粒の雨が落ちる。

――雨か……

その雫を人差し指で拭ってヒカルは空を見上げた。

ホテルを出るときは薄曇といった空が、どんよりとした濃い灰色の厚い雲となり空を覆っている。

 

――戻りましょうか。雨に濡れて風邪を引いては大変です

 

「ああ」

 

そう頷いたものの、ヒカルの足がホテルの方角に向くことはなく、じっと一方向見ている。

 

――猫?

 

公園のベンチの下に誰かが捨てたのだろう子猫がダンボールに入れられ、ダンボールから抜け出すことも出来ず、顔だけ出して力なく啼いているのを佐為は見つけた。

公園と道路を仕切るフェンス横の道を、猫の鳴き声に気づいても、朝の忙しいサラリーマンやOLたちは足を止めることなく通り過ぎていく。

 

 

雨脚がだんだんと強くなっていることに構わず、ヒカルは佐為が止める間もなく小走りに公園に入り、ベンチ下を覗く。

ダンボールの底にバスタオルが敷かれ、生まれたばかりだろう真っ白な毛並みの子猫と、食べることが出来るのかも怪しいキャットフードが小皿に盛られ入っている。

そして毛が混じったミルクも。

 

その子猫をヒカルは脇に手を入れたかと思うと、ヒョイと持ち上げ、着ていた新品のスーツの上ボタンを2個外し、スーツジャケットの中に子猫を入れてしまう。

入れられたスーツの中に子猫も驚き少し暴れはしたが、すぐに安定する定位置を見つけ、白シャツ越しに伝わってくるヒカルの体温に安心したのか大人しくなった。

それを確認して、ヒカルはニコッと微笑む。

 

――その子猫、連れて行くのですか?

 

「ウチ一軒家だし庭あるし、ペットダメなマンションでもないから多分大丈夫と思う」

 

本当は母の美津子は、あまり毛のあるペットの類は毛が部屋中に落ちるから好きじゃないと以前言っていた気がするが、アレルギーでダメというわけでもなかった筈だ。

ちょっと迷惑かけるかもしれないが、ダメ元で頼んでみるくらいいいだろう。

 

「んじゃ、急ぐか。雨強くなりそうだし」

 

――ええ、急ぎましょう

雨の勢いは段々と、けれど着実に強くなろうとしていた。

 

 

 

東京千代田区、日本棋院。

大阪で行われている名人戦第一局の中継連絡が、インターネットを通じ即座に棋院に届けられ、棋院の一室に、やってくる時間はバラバラではあったが集まったプロ棋士たちが対局の検討をしていた。

手番は先手の黒が一柳、後番の白がヒカル。

 

「今のところ盤面穏やかに進んでいるけど……」

盤面を覗きながら、胸の前で両腕を組み、うーんと倉田が唸る。

ぎりぎり穏やか、ではある。

対局序盤の布石段階で、限界ギリギリを見定めて地を広げ囲おうとしている。

まだどちらが優勢とは判別つけられず、これから中盤になってどういった局面になっていくのか、検討をしている誰も想像がつかない。

「塔矢くんは今日はもう来ないのかな?」

 

正午になっても現れないアキラに、対局観戦・検討に来ていた守口が時計と周囲を交互に見渡した。

ヒカルと同じ年で、これからプロ棋士として対局回数を重ねるのは、アキラがもっとも多いだろう。

現段階での実力こそヒカルが一歩も二歩も先を行っているが、今後、アキラが対局を重ね自身の碁を磨き続けることで大成すれば、ヒカルのライバルとなる最有力候補だ。

プロ棋士として生きていくからには、アキラとしてもヒカルは避けて通れない大きな壁だろう。

 

「さあ。でも見に来なくても気になってはいるさ。気にせずにいられる性質(タチ)じゃない」

 

同じく盤面を囲んでいた緒方が、師の息子にして長年の付き合いの弟弟子の性格を見越しているように断言した。

今ごろ何をしているのか。

家で一人、ネットの対局中継を見ながら検討をしているのか。

だが、緒方が知る限り、誰よりもヒカルの謎めいた強さを追い求めているのは、他ならないアキラだ。

「進藤くんが仕掛けてきた!」

 

パソコン画面が更新され、新しい点に白石が打たれる。

右下の黒石を囲い攻め立てながら、中央、左上辺へと伸び、地を広げる戦略にヒカルは出たらしい。

 

「進藤の思惑は見て取れるが、一柳先生がどう動くか……」

年齢の老いは否めないが、それを踏まえてトップ棋士に名を連ねリーグ戦を戦い、培ってきた碁が一柳にはある。

リーグ戦ではヒカルにやられたが、タイトル戦本番では同じ二の鉄は踏まないだろう。

ヒカルが仕掛けたのはまだ一手目だ。

この一手に一柳がどう応えるか。

一柳が長考に入ったのを見て、集まったそれぞれが予測を立て盤面に石を打っては、その石の検討をしていく。

だが、

「ええっ!?」

 

「マジで!?」

持ち時間8時間のうち30分以上かけて考え抜いた上で一柳が打ったのだろう一手に、日本棋院の一室に集まっていた者たちが、驚きと戸惑いの声を次々と上げた。

まさか一柳がヒカルの思惑に気づいていないとは考えにくい。

何を考えてここに打ったのかは、対局が終わってから一柳に訪ねるしかないが、

 

「これって進藤が望む展開でしょ?」

 

倉田の呟きに唸るだけで誰も賛同の声を上げなかった。

だが、反対の意見が一つも上がらないのが、賛同に他ならないだろう。

一柳の考えが読めない。

その後もヒカルの狙い通りに盤上が進んでいるように見えた。

右下に打ち込んできたヒカルの白が、その下の黒を下辺に追いやり、左上辺の白が右に地を広げていく。

しかし、緒方が不意に声を上げた。

 

「いや、待て!」

 

何かに気づいたように下にズレ下がりそうになったメガネの位置を中指で正し、頭の中に閃いた考えを確かめるように黒石を取り盤上に打った。

そこで一柳の意図に気づけた周囲が、あっと声を上げる。

 

「すごい!進藤の思惑通りのように進んでいるようだったのに」

 

「いつの間にか一柳先生の黒が優勢になってる!!」

 

始めこそヒカルの思惑通りの展開のように見えた盤面が、一柳がじわじわとボウシから攻めていくうちに、盤面の形勢は決して黒に悪くないものへと展開が移り変わっている。

先ほどの長考で一柳がここまで考えていたとは、緒方や倉田をはじめ誰も気づけなかった。

おそらくヒカルもまた気づかなかったのだろう。

気づけなかったからこそ、一柳の狙い通りの盤上が出来上がっているのだから。

 

「プロ棋士として碁をずっと碁を打ってきた意地か。棋士としてのプライドをかけて一柳先生は進藤と戦っているようだ」

 

それまで静かに周囲の検討に耳を傾け、盤上を見つめていた芹沢が誰に言うでもなくポツリと呟く。

 

ヒカルがどうやって脅威というのに相応しいこれほどの棋力を身に付けられたのか。

密会していたという行洋が、こっそりヒカルを指導していたのか。

 

そんなことは現在進行形でヒカルと対峙し打っている一柳にとっては、どうでもいいことなのだろう。

だが、突然現れた新星に、容易くタイトルを渡すことだけは一柳のプロ棋士としてのプライドが許さないのだ。

一柳がトップ棋士となりタイトルを初めて勝ち得たとき、勝ち上がるごとに恐ろしさを増していく鬼たちに何年も揉まれながら、ようやく一つのタイトルを得るまでになったのだ。

それがヒカルは初めからトップ棋士以上の強さを見せつけ、何百段もある階段を一足飛びに駆け上がり頂上に立とうとしている。

 

ヒカルの強さは一柳も認めさずるをえない。

誰かが打った棋譜を取り寄せ並べるだけでなく、この名人戦のリーグ戦でヒカルと対局することで、直にヒカルの強さを肌に感じることが出来た。

ヒカルの強さは本物だ。

 

だからこそ、これまでトップ棋士の一人として囲碁界にあり、次の世代の幕開けとも言えるヒカルに一矢報いるくらいの気概と、新しい波に抵抗するプライドが今までのタイトル戦以上に奮い立つ。

 

 

窓の外は大粒の雨が降り、ガラス窓を雨の粒が叩く音がホテルの一室に響く。

その部屋の中で温く暖めた牛乳を子猫が美味しそうにぺろぺろ舐めていた。

眺めているだけで、こちらが癒されそうな光景だが、子猫を拾ってきた当人は、ホテルの間で名人のタイトルを賭けて、一柳と神経すり減らす真剣勝負の碁を打っている。

本降りになりかけた雨の中を髪から雫を滴らせホテルに駆け込んできて、そのスーツジャケットの中から、子猫が顔をぴょこっと出した時は、ヒカルを見つけた事務員も驚き飛び退きかけた。

 

ホテルは盲導犬などの補助犬以外ペットは禁止されている。

だが、毎年タイトル戦でホテルを指定してくれている義理がある。

ペットが苦手な客たちだって当然いるだろう。

そこに捨て猫を拾ったから自分の対局中見ていてほしいと言われて、スタッフの誰もが困惑したが、ホテル側の配慮で、客室として使われていない一室を貸してもらえることになった。

いきなり猫の番をしていろと命じられた事務員は、最初こそいい迷惑だと思ったが、なってみれば仕事は猫を見ているだけで、あとはお茶をゆっくりすすりながら、パソコンのネット中継を見ることが出来る高待遇だ。

それに猫の様子を見に、ちょくちょく誰かしら部屋に来るので、一人寂しいと思うこともない。

 

「もうすぐ名人になるかもしれない人に拾ってもらえるなんて、お前運がいいな~」

 

パソコンが置かれた机の隣に、猫の入ったダンボールを置き、中で幸せそうにミルクを舐める猫を眺める。

ヒカルに拾って貰わなければ、そのまま誰にも拾ってもらえず死んでしまう運命だって十分ありえたのだ。

 

「お、虎次郎元気になったじゃないか」

 

対局検討室から部屋にやってきた壮年の事務員が、ミルクを飲んでいる子猫の傍に来て、慈愛の眼差しで子猫の頭を人差し指で撫でた。

だが、猫を見ていた事務員はというと、いきなり出てきた名前に目を見開く。

 

「虎次郎?」

「進藤君がこいつにそう名づけたんだよ」

 

「そりゃまたすごい名前ですね」

 

猫の毛並みは全身真っ白で、虎模様ですらない猫に、『虎次郎』なんて古風な名前をよくヒカルが考えついて名付けたものだと思う。

 

「猫の身分にしちゃ大層な名前だが、囲碁棋士の飼い猫なら、とても良い名だ」

 

「何かあるんですか?」

 

「江戸時代の本因坊秀策の幼名がなぁ、虎次郎というんだ」

 

「へ~、そうだったんですか。進藤くんよく知ってましたね」

 

「そうだな」

 

 

過去の棋士の棋譜をヒカルが並べていく過程で、江戸時代の本因坊秀策のことを知っていてもおかしくはない。

しかし棋譜と棋士の名前を知っていても、幼名となると知っている者は棋士の中でも少ないだろう。

自身はプロ棋士にはなれなかったが、壮年の事務員は打たれた棋譜と同程度に、その棋譜を打った棋士の半生や生い立ちにも興味を持ち、様々な棋士を調べた。

ヒカルがそれを知った上で猫に『虎次郎』という名前を付けたのかまでは分からないが、何故か知っているような気がするのだ。

 

 

ミルクを全て飲んでお腹いっぱいになったのだろう。

人差し指で首元を撫でられていた子猫は、そのまま気持ちよさそうに眠り始めた。

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。