十傑第二席の舎弟ですか?   作:実質勝ちは結局負け

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第九話

 宿泊研修二日目の夜。

 月光が自身の身体にあたるのを感じて、幸平 創真は視線を地面から夜空へと移した。

 深青色(しんせいしょく)の空に浮かぶ、禍々しいほどの漆黒の雲。

 何か(おぞ)ましい狂気を孕んだ暗黒が、闇風の中で千切れその形状を刻々と変化させていく。

 雲の隙間から零れる月明り。

 

 ──なんて淡く、儚げな光だろうか?

 

 胸の奥の禍々しい激情、込み上げてくる思いを理性の蓋でシャットアウトする。

 感情の発露を誤魔化すように、創真は隣にいる少女に声をかけた。

 

「みんな心配してる。早くいきなっ……」

「あのっ、創真くん……ありがとう」

 

 泣いてるような笑ってるような、そんな表情で田所 恵は感謝の言葉を伝えて走り去る。

 きっと恵は今日、自分の殻を打ち破った。自力で壁を乗り越えた彼女は、これからも成長を続けていくのだろう。

 

 ──ちゃんと、隠せただろうか?

 

 この悔しさを。

 もしかしたら、恵は創真が隠そうとした悔しさに気づいていたのかもしれない。

 気づいていようと無かろうと、恵は変わらずあの微笑みを見せただろう。

 恵の背中が闇に消えていくと、創真は右の手で拳をつくった。

 

 ──負けた。

 

 行き場の無いもどかしさを、感情が昂るまま壁に打ち付ける。鈍い痛みが右手から全身へと伝わってきて、それさえも苛立たしい。

 

「……ちくしょう」

 

 夜の帳に響く、低い声。

 頬を流れる、一筋の涙。

 

 ☆☆☆

 

 ホテルの扉が開き一階のフロントに入ると、外との気温の差に少し驚いた。

 先ほどに比べると、創真の心は幾分か穏やかだった。

 夜の森の静けさ。草木の香り。風のざわめき。

 それらが創真の逆立った感情の波を、緩やかに鎮めてくれた。

 それでも気分が高揚することはなくて、視線は下へと落ちてしまう。

 

 ──自分の靴とスラックス以外の床を動くもの。それを見つけるのは容易かった。

 

 コロコロと転がる、何の変哲もない黒色のボールペン。

 それが創真の靴先へと当たって、動きを止める。

 

 そして近づいてくる足音を耳にした。

 

「それ」

「え?」

「君の足元にあるボールペンだよ。僕のなんだ。拾ってもらえないかな?」

 

 創真は相手の顔を確認することなく、とりあえずボールペンを拾うことにする。

 腰を屈めて、右手でボールペンを……。

 

「っ! ……ほらよ」

「どうも、ありがとう」

 

 拾う瞬間に感じた鈍い痛み。

 間違いなく、先ほど壁を憎しみのままに殴った時のものだ。その痛みを堪えたまま、所有者へと返却した。

 視線と視線が交差して、創真の瞳孔が散大する。

 

 ──なんて目をしてるんだろう。

 

 黒曜石のような澄み切った闇色。

 その瞳の奥には、人を惹きつける何かがあった。

 そして聞く者を不思議と落ち着かせる声音が、創真の耳朶を震わせる。

 

「右手の怪我、痛む?」

「あぁ、これ? 別に大したことねーよ」

「……このペンを持つのを、一瞬躊躇うくらいなのに?」

 

 中性的な雰囲気の彼は、綺麗な微笑を浮かべている。

 表情は笑顔なのに、感情が読めない。

 創真はその表情にどんな意味が込められているのか分からないまま、彼の問いかけに言葉が詰まった。

 放たれた言葉は、正鵠を射るように創真の身体を強張らせた。

 目の前の彼は創真の雰囲気が変わったのに、気が付いたのだろう。

 彼の笑顔が、見るものを安心させるような穏やかな雰囲気を纏う。そのまま、優しげな声音で言葉を繋げた。

 

「料理人にとって、手は命だよ。大切にしないと駄目だ。よかったら部屋に来なよ? それくらいなら、僕にも治療できる。ここで会ったのも、何かの縁かもしれないし」

 

 ☆☆☆

 

 ホテルから部屋に入るまでで、簡単な自己紹介を済ませた。

 名前を、斬島 葵というらしい。今日生徒たちの間で噂になっていた人物だった。

 白いベッドに腰を下ろして右手を差し出すと、葵の繊細な手つきに驚いた。

 葵の適切な処置により赤く滲む擦過傷(さっかしょう)は、清潔な純白のガーゼで隠される。

 真剣な表情で治療を施す葵に話しかけるのは躊躇われて、創真は口を噤んでいた。黙っていると頭に浮かぶのは数時間前の敗北で、自覚の無いままに傷口を見つめる創真の目は険しくなる。

 短くない時間両者の間には沈黙が流れて、その静寂は治療の完了をもって破られた。

 

「ねぇ、幸平くん。【cry for the moon】って言葉、聞いたことある?」

「いや、ねーけど?」

 

 何だそれ?

 創真はあまり勉学に重きを置いているタイプではなかった。机に座る時間よりも、【ゆきひら】の厨房に立つ時間のほうが多かったくらいだ。

 怪訝な表情を浮かべ、創真は目線で話を促す。

 

「とある作家の言葉だよ。泣いて月を求める、つまりは、出来ない事を望む。得られないものを欲しがるって意味なんだ」

「それが、どうしたんだよ?」

 

 創真は料理の本以外、漫画くらいしか読んだことが無い。

 だからそんな作家の言葉は知らないし、そもそも何で葵がそんな事を話したのか分からなかった。

 葵は穏やかな笑みのまま、言葉を繋げる。

 

 ──それは創真にとって、酷く残酷に響いた。

 

 

「今の幸平くんには、ピッタリの言葉だと思うんだけど」

 

 

 ──ゾッとした。

 

 創真の脳裏に浮かんだのは、一つのイメージだ。

 

 仄暗(ほのぐら)い空間。

 そこには一つの階段があって、何処までも果てし無く続いている。

 創真はまだ始めの一歩すら踏み出していないのに、視線の先には何人もの人がいて、その誰もがひたすら頂きを目指し歩みを進めている。

 

 薙切 えりな。

 一色 慧。

 四宮 小次郎。

 そして、才波 城一郎。

 

 創真はその背中を追って階段を駆け上がるけれど、その距離は果てし無く遠い。

 手を伸ばして大声で叫んでみても、誰も振り向かずただ上だけを目指している。

 

 そこでイメージは終了して、創真はその言葉の意味を自覚した。……自覚させられた。

 幻影風景の中にいた料理人達にあって、創真自身に無いもの。

 (とこ)しえに、得られないもの。

 渇望するほど、欲しいもの。

 

 ──才能。

 

 創真には特別料理の才能は無い。

 才能とは先天的なもの。

 神に愛された選ばれた人間だけが、天から(たまわ)るものだ。

 

 それでも創真の心は折れない。研鑽の歩みを止めない。

 諦めという名の、心の蓋がないから。

 欠けているものと、向き合える強さがあるから。

 創真の心が余裕を平静を取り戻し、胸に残ったのは疑問だけだ。

 

 ──葵は何故、創真が才能を求めていることを見抜いたのだろう?

 

 だって、斬島 葵には才能があると思うから。

 宿泊研修初日。

 小次郎の課題を唯一クリア出来たのが、斬島 葵その人だ。

 噂話に疎い創真でさえ、顔は知らなかったけどその名前は今日呆れるほど耳にした。

 

 ──斬島くんって、知ってる?

 ──昨日四宮シェフの課題を、一人だけクリアした人でしょっ?

 

 そんな内容の話を、ぼんやりと覚えている。

 火の無い処に、煙は立たない。

 葵に関する噂には、何らかの根拠があるのだろう。

 

 だから創真は、葵に問いかける。

 

 ──それが葵にとって、どれだけ残酷な意味を持つかも知らないで。

 

「どうして、そう思ったんだ?」

「……似ていると思ったから」

「似ている?」

 

 深淵のような深い悲哀を含んだ声。

 

 

「どれだけ手を伸ばしても、届かない。……高嶺の()のような人がいるんだ」

 

 

 ──どうして、自分は問いかけてしまったんだろう?

 

 そこに創真が感じるのは、深い後悔だ。

 

 ──深淵を覗けば覗き込まれることぐらい、分かっていた筈なのに。

 

 創真は触れてしまった。

 触れたら消えてしまいそうなほど、儚げな雰囲気の彼。

 その心の奥深くに潜む得体の知れない何かに、触れてしまった。

 

 葵は誤魔化すように微笑んで、ある人物の名前を告げた。

 いったいどれだけの思いを込めたら、あんなにも綺麗で悲哀につつまれた微笑ができるのだろう。

 

 今にも逃げ出してしまいたいのに、創真の身体は、言うことを聞いてはくれない。

 

 

 その紫紺の花の名前は……。

 

 

 震える声を聞いてしまって、創真はひたすらもどかしい気持ちになった。

 悲壮と焦燥。

 自分の怪我を治療してくれて、あんなにも穏やかな微笑みをかけてくれたのに。

 

 儚げな今にも壊れてしまいそうな、線の細い体躯。

 闇夜に浮かぶ淡い光を、焦がれるように見つめる瞳。

 

 泣いて月を求める彼に、創真は何も言えなかった。

 ……何も言えないことが、悔しかった。


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