聞く者によっては残酷ともとれる堂島銀の言葉を最後に、合宿の概要説明及び、卒業生の紹介は終了した。
葵たち高等部一年の生徒は、フランス料理部門主任のローラン・シャペルから一度、自らの部屋に戻り制服から着替えることを命じられた。
自室の鍵を受け取り、扉を開く。
落ち着いた雰囲気の室内。椅子や机、照明に至るまで質の良いものが使われていることが分かる。
葵は黒塗りのキャリーケースから、自らの調理服を取り出した。
それをベッドの上に丁寧に載せて、カッターシャツのボタンを一つずつ外していく。
線の細い身体を外気に晒しながら、寝台の上の服に袖を通した。
襟を正し、鏡の前に立つ。
細身の身体に纏っているのは、着流し。
一年前の誕生日に、竜胆からプレゼントされた服だ。その後、葵の身体が成長すると着流しは新調されて、今現在葵が着ているのは二代目。
上質な深い藍色の布地を、漆黒の帯で纏めあげたその姿は凛然としていた。
左の胸元に咲いているのは、贈り主と同じ名前の花。
紫紺の花弁を眺めていると不思議と心が落ち着いて、何故か笑みが零れた。
衣服がもたらす効果の一つに、【意識の切り替え】がある。
例を挙げてみるのが分かりやすい。
学生服を着れば、学生らしい行動をしようとする。
警察服を着れば、ルールに厳格な人間になる。
寝間着を着れば、リラックスして眠たくなるだろう。
このように、衣服には意識を切り替える効果がある。
そして斬島 葵にとってこの藍色の着流しは、一生かけて歩き続けたところでとても極められない……果てしない道を征く覚悟。
──それ、そのものなのだ。
☆☆☆
藍色の衣をヒラヒラと揺らしながら扉を開いて、施錠をする。分けられたグループごとに指定された場所にいくために、足を動かす。
廊下に葵の足音は響かない。
それはリノリウムの上に高品質のカーペットがあるからだ。足と床が接触する際に発生する音を、完全に吸収している。
ここにも遠月離宮の経営者の配慮があった。
ホテルで素晴らしい一日を過ごしていただくお客様に、自室の静かな空間を提供できるように。
たかが足音一つ、されど足音一つなのだ。
廊下には葵の他にも、自室から集合場所へ向かう生徒たちがいた。
視界の端に、何人かのグループになって談笑している姿がある。
──何故だか、妙な視線を感じた。しかも複数だ。
男子から感じるのは、恨みのこもった視線。
憎らしげに葵のほうを睨みつけると、吐き捨てるように何かを言い合っている。
──……の敵。
──……メンは滅……ろ!
──ウホッ、……い男♂
葵の耳は地獄耳では無いので、断片的にしか聞き取れない。恐らくこれから始まる試験のことを、話しているのだろう。
それならば何故、葵を見て言っているのか理解に苦しむが。
とりあえず最後に発言した生徒には、近づかないようにしよう。よくわからないが、嫌な予感がする。
女子から感じる視線は、男子とは全く系統の違うものだった。
両者とも葵を見つめコソコソと言い合っているのは変わらないが、女子達の視線からは負の要素が見当たらない。
落ち着かないと言う点では、大差ないのだが。
──……れ、誰?
──…島…くんだよ!
──格好……よねー!
一体何を話しているんだろう? 葵がそう思っていると、一人の女生徒と視線が交差した。
……あっ、避けられた。
恐らく、この着流しのことを話しているんだろう。そんなに珍しい物とは、思えないのだが。
小首を傾げながら、葵はエレベーターに乗る。一階を選択すると、しばらくして扉がしまった。
緩やかにエレベーターは動きだす。
備え付けられた窓からは、青と緑が混じり合う絶景が見えた。この景色だけでも、ここに来た価値はあると言えるだろう。
一階のロビーに到着すると、見知った顔の姿があった。
えりなと緋紗子である。
こちらから近づいていくと、何故か二人とも目を丸くしている。
「あの、多分だけど……葵くん、よね?」
「そうだよ。えりなさん、緋紗子ちゃん」
「秘書子じゃなくて、緋紗子だ!」
「だから緋紗子って言ってるじゃん」
「今回は間違って無かったわよ、緋紗子」
「〜〜っ?!」
多分色々な人に、秘書子と呼ばれているからだろう。
緋紗子はぐぬぬっと、悔しそうに歯噛みする。
既に二人とも制服から、調理服に着替えており何時もよりも凛々しく見えた。
「……むぅ。どうして葵は、着流しを着ているんだ?」
「あ、話題そらした」
「う、うるしゃい!」
しかも噛んだ。
葵は緋紗子に対して基本的に煽っていくスタイルなのだが、緋紗子は度が過ぎると本気で拗ねてしまう。
そのため緋紗子の堪忍袋の限界を見極めることが、重要になってくる。
──今日はこの辺で、勘弁しといてやる。
葵の心の中の悪魔が、そう言い放って飛び立っていくのを感じた。あの悪魔は気のせいか、一回り大きくなっている気がする。
頑張れ、天使。出来る出来る! 絶対に頑張れ積極的にポジティブに頑張る頑張る葵だって頑張ってるんだから。お米食べろ!
悪魔の言葉では無いが、そろそろ本気で怒られそうなので、緋紗子の質問に答えることにした。
「二人にはまだ見せたこと無かったか。いわゆる勝負服って奴だよ。この服の時が一番、上手く作れるんだ。地味なのは、分かってるんだけど」
「地味っていうよりは、その……」
葵が藍色の袖を揺らしながら笑いかける。身につけた暗色とは真逆の、明るい笑顔。緋紗子は言葉尻を濁して、顔を伏せてしまった。
よく見ると緋紗子の耳が赤く染まっていた。
──熱でもあるのだろうか?
俯いた緋紗子から、えりなへと視界を移す。
えりなは陰湿なオーラを放ちながら、吸い込まれるような菫色の瞳を半眼にして睨みつけている。
俗にいう所の、ジト目というヤツだ。
「……葵くん。私は何も言わないわよ」
☆☆☆
そんなやりとりをしていると、あっという間に移動時間となった。
どうやら三人は別々のグループのようで、それぞれの成功を祈りあう。
葵は担当する講師の指示に従い、指定されたバスに乗り込んだ。車内の座席に座る生徒の顔が目に入る。
緊張する者、自信に満ち溢れた者。今にも泣き出しそうな者までいる。
空いている席につき、葵は静かに目を閉じた。
バスの揺れが収まると、生徒達はそれぞれ動き出す。周囲の生徒の足音で、葵は眠りから目覚める。
到着した場所は、二階建ての洋館だった。
この世の贅を尽くしたような外観に、生徒達は息を飲む。
引率の講師に牽引され、厨房へと案内された。
掃除の行き届いた厨房内で異彩を放つのは、質の良い大振りな肘掛け椅子。
柔らかなクッションに背を預け、尊大に足を組んだコック服の男。
「おはよう。79期卒業生の
フランス料理店
オーナーシェフ。四宮 小次郎。
日本人で最初に、フランスプルスポール勲章を受賞した男。
「この課題では、俺が指定した食材をテーマとした料理を作ってもらう。そしてこの課題では、チームを組まない。一人で一品仕上げてもらう。調理中の情報交換、助言は一切認めない。食材は厨房後方の山から任意で選び、使用してくれ」
内容を淡々と説明すると、小次郎は足を組みかえた。
小次郎の瞳の奥に見えるのは、此方を侮るような嘲笑。
薄く嗤い、口を開いた。
「周りの奴ら全員、敵だと思って取り組むのが賢明だぜ? 制限時間は三時間。テーマは……」
──卵料理だ。