「……もぅマヂ無理」
遠月学園が夏季休暇に突入してから数日後の午後三時半。遠月リゾート第五宿直施設の二階。その寝台の上ではまるで八月三十一日になって、未だ夏休みの宿題が終わっていないかのように悲痛な声を上げる細身の少年の姿があった。勿論その少年は、斬島葵その人である。
薄い生地のTシャツに裾を捲ったジャージを身に纏った葵は、寝台に片膝を立てて座り込み壁に背を預けている。暑さを少しでも和らげる為に全開にした窓からは、豊満な初夏の風が吹き抜け木々の葉の甘い香りと爽やかな花の香りを運んでくる。 窓の外は晴れ晴れとした清々しい青空が広がっているにもかかわらず、葵の心象はどんよりとした雨雲よりも重苦しかった。
葵の心を曇らせているのは、数日前に学園から届いた封筒の中身だ。秋の選抜、その予選で作る料理のお題。そのお題は……。
──カレー料理。
“カレー”を使った“料理”。そんなものは幾らでも種類があり、範囲が広すぎてとっかかりが掴めないのだ。
お母さんに『今日の夕食は何がいい?』と聞かれた息子が『何でもいい』と答えて、お母さんが『何でもいいが、一番困るのよね』と愚痴るのと同じである。ソースは葵。
ぶっちゃけ予選くらいは簡単に突破出来ると考えていたら、この仕打ち。現実は甘くなかった。むしろ辛かった。カレーだけに!
「……このまま引き籠っていても、良いアイデアは浮かばない気がする。何処かに出掛けてみようかな」
素晴らしい発想とは、存外思いがけない所から誕生するものである。ソースはニュートン。万有引力とリンゴである。カレー料理のアイデアに完全に行き詰まってしまった葵が、外へ出かける準備に取り掛かろうとした正にその時。
図ったようなタイミングで扉が開き、見覚えのあり過ぎる美人が朱の点す巻き髪を揺らめかせリビングへと入ってきた。
「話は全て聞かせてもらった! ということで、葵……夏祭りにいこっ!」
……せめてノックくらいはして欲しいものだ。
はぁ、とため息を吐いて葵は外出する為の支度を始めた。竜胆の提案に断る素振りを見せないのは、葵に拒否権が無いからである。無駄な事はしない、葵はかしこいのだ。
☆☆☆
TPO。
Time Place Occasionの頭文字をとって、「時と場所、場合に応じた方法・態度・服装等の使い分け」を意味する和製英語である。
要は状況を考えて、弁えるという事だ。
御葬式に出席する際には、喪服。
会社に出勤する際には、スーツ。
アニメの視聴前には、全裸待機。
夏祭りの際には、和装が基本らしい。ソースは竜胆。
そんなわけで和装を身に纏った葵と竜胆は、東京の某所……遠月学園の最寄り駅から数駅先で開催されている神社の夏祭りに来ていた。時刻は既に六時半。割と早めに出発した筈なのにかなり遅い時間になってしまったのは、夏祭りに向かう人々が電車の中でごった返し到着が遅れてしまった為だ。日が暮れ夜が深まるころになると、花火が上がるそうなので、それを目当てにしている人も多いのだろう。
露店が立ち並ぶ神社の参道。
石畳と下駄がぶつかり合ってカラコロと鳴る音。お客を呼び込む、焼きそばやたこ焼きを始めとした定番の出店。浴衣やら甚平やらを着た少年少女や、両親の手を引っ張るようにしてはしゃぐ子供達の笑い声。
さらにその遠くからは人々の喧騒や何かが弾ける音が聞こえてくる。もう日も暮れ始め夜が深まっていくというのに、それに相反するかの如く辺りは永い眠りから覚めるみたいにざわめいて振動を揺り返してくる。
「うん。ほら葵、手出して……よし、行こっか!」
「ちょ、何で手を繋ぐんですか?」
「何でって、ほら。迷子になったら困るじゃん……葵が」
「なりませんよ!」
竜胆と手を繋ぎぐいぐいと引っ張られる様にして、葵は露店の立ち並ぶ参道へと進んでいく。葵はそんな事を言いつつも、繋がれた手を振り解くことはなかった。
それはきっと薄暗闇の中で杏子色に靄る、提灯の淡い明かりとか。
笑いさざめく、キラキラとした人々の期待とか。
要するに賑やかで煌びやかな夏祭りの雰囲気に当てられているだけなんだと、妙に高鳴る胸を抑えつけて自分に言い聞かせる事にした。
そう、祭りの雰囲気に当てられているだけなのだ。
繋がれた竜胆の手が驚くほど柔らかくてドギマギしたりだとかそういうことは断じて無い。ないったらないっ。
「ていうか竜胆先輩、仕事は大丈夫なんですか、確か秋の選抜は十傑が取り仕切ってますよね?」
「……仕……事?」
「……。いやえっと、初めてそんな言葉を聞いたみたいな顔をされても……」
竜胆がゆっくり一つ瞬きをして小首をかしげる。明らかに惚けているにもかかわらずその姿はやたらと色気があって、葵は思わず言葉に詰まってしまった。多分それは彼女の姿が普段とは違うからだろう。竜胆と歩いていると、周囲の人々が彼女に反応するのがよく分かった。それほどまでに人目を惹くほどの容貌と雰囲気を持った人なのだと実感する。
淡い花があしらわれた闇色の浴衣に、鮮やかな深紅の帯が映える。いつも下してあった朱の点す髪は丁寧に結い上げられて、白磁のようなうなじがさらされていた。
普段とは違う妖艶な雰囲気。普段よりも近い彼我の距離。その二つが相まって葵は竜胆に見入ってしまう。まるで夢でも見ているかのように。
しかしながらその夢は一瞬で覚める。それは浴衣を押し上げる豊満な双丘を強調させるかのように胸を張り、自慢げに放った竜胆の言葉によって。
「働いたら負けかなと思っているっっ!!」
「おいこら」
そんないつも通りの会話をして歩いていると、視界の左右には出店が立ち並んでいた。
「あ、たこ焼き! たこ焼き食べる!」
「……まずは手に持っているリンゴ飴を食べてからにしてください」
「わ、射的がある! ひゃっほー!」
「下駄で走ったら、あぶないですって!」
はしゃぎまくりとは、このことである。年上であるにもかかわらず日頃から子供っぽいところがある竜胆だが、葵と二人でいるときはその部分が顕著になって現れる。正直言って疲れることもままあるが、目を輝かせる姿や無邪気に笑う顔を見てしまうとなぜか断れないのだ。
カラコロと下駄を鳴らしながら、射的屋に駆け寄る竜胆。彼女に引っ張られる形で、葵も後に続く。そして葵が手を離すと、竜胆は早速屋台の店員に一回三百円な代金を支払った。並べられたオモチャの銃にばねをセットして、銃口にコルクの弾を詰める。
「あたし、あのお菓子めっちゃ入ってるやつがほしいっ!」
「絶対落とせないですよ。やめたほうが……」
「あ、外れた」
「もっと手前にある小さい景品狙わないと……」
「あ、また外れた」
「……おいこら」
その後も竜胆は外しまくった。そもそも紛い物の銃と紛い物の弾丸で、最上段に位置する巨大な箱を落とすのが間違っている。葵の忠告など一切聞いていなかった。店からすれば、良いカモである。
「あー、結局なんも取れなかったじゃんかよー」
「残念賞のハンカチで我慢してください」
「これ、可愛くないし……」
よくわからないゆるキャラの刺繍が入ったハンカチを胡乱げに見つめて、竜胆はそれをおざなりにポーチにしまう。少しだけ残念そうに肩を落とす竜胆が纏う雰囲気は、ほんとうに子供のようだ。葵はちょっと拗ねた彼女の手を取って、少し微笑んでみる。
「そろそろ花火が始まりますね。一緒に見ませんか?」
「……うんっ!」
普段は悪戯っぽく笑う竜胆の、無垢な笑み。これじゃ、どっちが年上か分かんないな……そんな考えが頭に浮かんだ。
☆☆☆
夕焼けの鮮烈な紅が山並の稜線に沈むと、天空には夜の帳が下りる。全天が深青色の闇で満たされ、散りばめられた星々が宝石のように爛然と輝く。
葵と竜胆は神社からひっそりと続く道途の先、少し開けた空間にいた。ポツリと一つベンチがあるだけで、それ以外は草木しかない。遠くから途切れ途切れに聞こえてくる祭囃子も、夏の空気に溶けていくようだ。
周囲に人影は無く、しかし見晴らしは良いので花火は良く見えることだろう。きっと、知る人ぞ知る穴場である。
「あ、始まった……」
炸裂音が響く中、夜空に大輪の花が咲く。幾重にも折り重なる鮮烈な光の花が、暗闇の中で咲き乱れる様はとても幻想的だ。周囲の草木に光輪が映り込み、空間が華やぐ。
……光り輝く空に見とれてしまっていたから、葵は一瞬反応することが出来なかった。
「ちょっとは、気分変わった?」
「……え、どういうことですか?」
明滅する空の下で、彼女は少し照れたような顔になる。
「なんか葵、色々悩んでたみたいだったから……」
「そうですね、少し気分が晴れました」
「……そっか」
秋の選抜でどういったものをつくればいいのかはまだ分からないけど、少なくとも心に余裕ができた気がする。色鮮やかな花火が打ちあがる空の下でそう伝えると、彼女は少し安堵の表情を浮かべるのが分かった。
彼女は穏やかな声で、相づちを打つ。花火の谷間に入ってしまったせいか、周囲は暗闇に包まれてしまう。光の残滓だけが淡く残っていた。
「葵なら大丈夫……いつも応援してるよ」
その言葉に重なるように、最後の花火が打ちあがった。