辺りがしんと静まり返った、星明かりの綺麗な夜。
川に落ちて水に濡れてしまった衣服が乾くまで露天風呂に浸かり、その服を着てトボトボと山道を歩き旅館へと帰ってきた斬島葵。
エレベーターで最上階まで上がり、廊下を抜け自室の扉を開く。
竜胆が、いた。
この部屋は二人部屋で、同室は竜胆だ。彼女は葵よりも先に露天風呂から上がったし、もう夜も遅いのだから出歩く可能性も少ないだろう。
以上の事から、竜胆が部屋にいるのは別に可笑な話ではない。
……ただ一つ問題があるとすれば。
竜胆は
「……あ、葵」
「……り、竜胆先輩」
互いの名前を呼ぶ声が空虚に響く。
葵の視線の先で、竜胆は身動き一つせずに固まっていた。
淡い色合いの浴衣に辛うじて袖を通してはいるが、帯が締められていない。微かに揺れる薄い浴衣から、透けるように白い肌とそれを申し訳程度に隠す下着が見えてしまっていた。
恐ろしいほど均整のとれた肢体。その中でも一際目立つのが豊満な隆起。浴衣を押し上げるほどの胸が、深い谷間をつくっていた。
身体と同じく停止していた思考がようやく動き出して、葵は徐々に自分の置かれた状況を理解する。
そして弾かれたように一言。
「な、何も見てないので!」
バタンと扉を閉めた
そして十分後。
葵と竜胆は漆塗りの長机を挟んで、向かい合っていた。竜胆は和座椅子に身体を預けて、葵は和座椅子の上で正座をしていた。
もう竜胆はしっかりと浴衣を身に纏っているので、目のやり場に困るということは無い。だから葵が十分前に目撃した竜胆下着姿を脳裏に思い浮かべて、顔を赤くするなんて事は無い。ないったら、ないっ。
「葵……見たでしょ?」
「なにもみてません」
「正直に言ってみな、怒らないから」
「ごめんなさいみました」
あっさりと白状した。
すると竜胆は長机に肘を置き、両手を組んで顎を乗せ此方を見つめてくる。
「ふぅん……そっかぁ」
彼女は納得して首肯した後、何かを思い付いたようにいたずらっぽく笑う。ひどく見覚えのある、蠱惑的な表情。
……嫌な予感がする。
「ねぇ、葵。あたしだけ恥ずかしいのは、不公平だと思うなー」
「……はい?」
「だから、葵も恥ずかしい思いをするべきだと思う!」
「な、何をさせるつもりですか?」
葵が恐る恐る問いかけると、竜胆は小悪魔めいた顔になって艶っぽい唇からちらりと赤い舌を出す。
「添い寝をさせるつもりっ!」
☆☆☆
寝室には布団が二組敷かれていた。その片方を意気揚々と片付ける竜胆に、葵は断乎として
かくして寝室は一組の布団に二つの枕があるという、なんとも言い難い状況にある。どうしてこうなった。
「ほら葵、電気消して」
「……あの、本当にこれで寝るんですか?」
「寝るったら寝るっ、いいから早くー」
まったくよくない。
ウキウキとした様子で布団に潜り込む竜胆を横目に見る。はぁ、と浅い息を吐いて照明を消す葵。その姿には何処か聖性すら感じられる諦念ばかりが表れている。
仄蒼い闇に覆われた寝室、窓から差し込む星明かりを頼りに布団の中へと入った。
薄暗い部屋の布団に、葵と竜胆が二人きり。これじゃまるで……なんて事を脳裏に思い浮かべて、顔を赤くするなんて事は無い。ないったら、ないっ。
「竜胆先輩は随分とご機嫌ですね」
「最高にハイッってやつかなー」
「何でですか?」
「葵の顔が真っ赤だから」
「あ、赤くなってないし」
葵が咄嗟に否定するも、竜胆はその様を見てクスクスと小さく笑っている。見透かされている気分だ。
葵の顔が赤くなる……つまりは恥ずかしがっているということなので、竜胆の目論見は大成功といったところなのだろうか。
なるほど、聞くんじゃなかった。
葵の頬は朱肉でもまぶしたかのように紅くなってしまっていて、竜胆に背を向けるように寝返りを打つ。
「嘘つきだなー……こんなにドキドキしてるくせに」
「なな、何やって……っ」
後ろから抱き締めらた。
まるで金縛りにあったかのように、身体が硬直する。背中に感じる柔らかな感触。
続けて、するりと白い手が伸びてくる。
竜胆のしなやかな指先が浴衣の内側に滑り込んで、ゆっくりと肌を撫でる。早鐘を打つ心臓は、いまにも破裂してしまいそうだ。
つい数時間前にも似たような体験をしたのだが、葵には全く耐性がついていなかったようだ。
「葵の髪、いい香りがするなー」
「ち、ちょっと、髪の匂いを嗅ごうとしないで下さい。先輩の髪が首に当たってくすぐったいです」
「だって、何か落ち着く感じがするから」
「僕が全然落ち着かないんですよっ」
葵の後頭部。
「……何かもう、本格的に眠い」
「え? この状態のまま、寝ないで下さい。マジで」
「んー…………おやすみなさい」
「り、竜胆先輩?」
へんじがない。
ただのしかばねのようだ……。
いやいや寝息が聞こえるのだから、しかばねではないのだろうけど。
──これは、ヤバい。いやマジで。
脳内に警鐘が鳴り響く。
布団から抜け出そうにも、身体をしっかりとホールドされてしまっている。
何か妙案はないものか。
すると頭の中に、幻聴のようなものが聞こえてきた。
──なに葵? 竜胆先輩が葵のことを、抱き締めて離さない?
悪魔の声だった。
──葵、それは無理やり抜け出そうとするからだよ。
それだっ!
極度の疲労とストレス。冷静な判断力を欠いた葵は、ころっと悪魔に騙された。
☆☆☆
月が沈み、日が昇る。夜が明けて、朝がくる。
結論から言おう、眠れませんでした。一睡も。
むべなるかな。竜胆は外見
そんな彼女と肌の触れ合う距離にいて、寝られるわけがないのだ。決して葵がヘタレとか奥手とか甲斐性なしというわけではない。なったら、ないっ。
「……ごっつ眠いやんけ」
何故か関西弁で、葵が呟く。その姿は見るも無残だ。目も当てられない。
ふらっふらっな状態で窓辺に立ち柔らかな朝の陽射しを浴びる葵に、竜胆が躊躇いがちに呼びかけた。
「……これからあたしと美月で買い物に行くんだけど、葵はどうする?」
「……寝ます。チェックアウトする三十分前まで、絶対に起こさないで下さい。いいですか、絶対に起こさないで下さいね」
「フリ?」
「……なんでやねん」
すわ何事か。
ツッコミに冴えがないし、キレもない。消え入るほどの弱々しさだった。
そして寝室にたどたどしい足取りで辿り着くと、死んだように布団に倒れ込む。
「……おやすみなさい」
こうして葵にとって、初めての京都旅行が幕を閉じた。
もう絶対に竜胆と旅行になんか行かないと、固く決意する葵。
しかし竜胆は有無を言わせず葵を振り回すので、その決意に意味は無いのだった。
……あわれなり、斬島葵。