遠月リゾート第五宿直施設は、二階建ての建物だ。
一階が厨房、二階が生活空間になっていて、二階へと上がる階段は外につけられている。
黒曜石を思わせる澄みきった瞳に、その外観が映った。
白壁には西陽が差し込んで、蜂蜜を流し込んだような艶やかな金色に染まる。
真紅と黄金を綯い交ぜにした強烈なまでの色彩は、もうしばらくもしないうちに水平線へと沈み、夜の帳が下りることだろう。
少し懐かしさを感じながら斬島葵は階段をのぼり、スラックスのポケットから鍵を取り出して扉を解錠する。
──あれ、鍵閉め忘れた?
半回転した鍵穴からは、金属がこすれ合うことがなかった。嫌な予感が微風と共に、葵の頬を撫でる。
扉を開けて少し視線を落とすと、玄関には明らかに自分のものとは違うローファーがあった。葵のものよりワンサイズ小さい学園指定の靴は、それ以前に女性用だ。
もう脳内では十中八九、その靴の所有者の見当がついていた。長いというよりは短い廊下を早足で歩くと、やはり彼女がそこにいた。
──というか、寝てる。
遠月十傑第二席、小林竜胆は寝台の上でその肢体を投げ出していた。枕に顔を埋め、さらには枕を抱き締めるようにしてすやすやと寝息を立てている。
葵がカーテンを開けると、夕映えの赤が室内に差し込む。
竜胆はその淡い光を浴びて眩しそうに、端正な容姿を歪ませた。うぅ、と小さくうめいて肢体を横向きにすると、彼女が纏っている黒のキャミワンピのシワの形が変化する。
陶磁器のように透き通った肌、剥き出された肩に触れることを葵は躊躇った。
未だ微睡みに囚われた竜胆を現実へと引き戻すべく、葵は言葉を投げかける。
「竜胆先輩、起きて下さい……もう夕方ですから」
「…………これが、あたしが救った世界の夕焼け」
いつの間に、世界を救ったのだろう。
「ほら……バカなこと言ってないで、起きて下さいよ」
「んー」
「いつまで休んでるんですか」
「完全週休七日制が良い」
「それはプー太郎です」
「やれやれだぜ」
「それは承太郎です」
──というか竜胆先輩、もうとっくに起きてますよね?
葵がそう問いかけると、竜胆はタオルケットに肢体を巻きつけて、えへへと微笑みを見せた。
緩やかにウェーブし朱の交じった茶髪が、夕映えの光の中で煌めいている。
蜂蜜と砂糖が混ざり合ったような、すごく甘い微笑み。
それはいつも彼女が葵に見せるような蠱惑的で小悪魔めいた雰囲気は無くて、もっと純粋で無垢なものに近かった。
いつもと違う雰囲気を漂わせている竜胆に、葵は戸惑ってしまう。
でもそんな内心を悟られるのは嫌だから、葵は誤魔化すように言葉を繋いだ。
「ところで竜胆先輩は何故、僕のベッドで寝てたんですか?」
「……き、今日は良い天気だなー」
「そうですね、綺麗な夕陽です」
あ、話そらした。
内心そう思った葵は、しかし口には出さない。
竜胆がベッドから起き上がったのを契機に、葵は荷物を片付けだした。
☆☆☆
完全に居座る気満々の竜胆の提案により、宿泊研修の終了を祝したささやかな晩餐会を開くことになった。
テーブルの上には一階の厨房で作られた、様々な料理が並んでいる。更にはお酒まであり、どうしてこんなものがあるのかと葵が問い詰めてると、竜胆は言葉を濁していた。
ここまでが数時間前の出来事。
既にほぼ全ての料理は葵と竜胆の胃袋に収まり、葵は自らが腰掛けているソファに背を預けた。
そして、自分の隣にいる彼女に声をかける。
「あの、竜胆先輩。酔ってますよね?」
「ぜんぜん酔ってらい!」
竜胆は完全に、出来上がっていた。ベロベロに酔った彼女はひどく機嫌が良い。黒のキャミワンピの上に純白のカーディガンを羽織って、グラスを持っていない方の手で袖を弄んでいる。
嬉しそうに目を細め、コクコクとお酒をあおる。
──そろそろ飲むの止めないと。
葵は浅く息を吐く。先ほどの竜胆ではないけど、まさに『やれやれだぜ』といった心境だ。
正直にいって、こんなに竜胆が酔うとは知らなかった。
「ちょっと先輩、飲み過ぎです。ちょっと待って下さいね、お水持ってきますから」
「あれ? 葵が二人いる……なんか得した気分」
「こんな外が真っ暗になるまで、飲んでるからですよ。もうかなり酔ってるじゃないですか」
葵の言葉には、諦観が込められている。じっとりとした半眼で、窓の外を
開け放たれた窓辺から夜風が緩やかに流れ込んで、ゆらゆらとカーテンを揺らす。
空には夕闇が満ち満ちて、蒼く移ろっていた。
もうすっかり夜の風景になってしまっていて、葵はため息を一つついて言葉を繋ぐ。
「……お水持ってきますね」
「逃がさん……とりゃー!」
「ちょっと?!」
洗面所に向かうため立ち上がった葵に、竜胆は何故かタックルを仕掛けてきた。
中腰のまま踏ん張れるはずもなく、葵は呆気なくソファに倒れ込む。タックルを仕掛けた彼女も、そのまま葵の上に覆いかぶさる。
葵の身体に、魅惑的な肢体が襲いかかる。
現在竜胆の装いは、薄手のカーディガンと同じく薄手のワンピースだ。
それはつまり柔らかな肌が、ほぼダイレクトに伝わってくるということ。あまりに突然なことに、葵は身じろぎ一つ出来なくなる。
──落ち着け、素数を数えるんだ……えーと、あれ? 1は素数に含まれたかな?
もう全く平静を保てない葵をみて、竜胆が微笑む。砂糖と蜂蜜を
「あはっ、葵の香りがするー」
「なな、何してるんですかっ?! 離れて下さい!」
「えー」
「えー、とかじゃなくて!」
葵の肩口に顔をうずめていた竜胆は、渋々といった様子で距離をとった。葵も竜胆もソファに横向きに座って、向かい合うような形になる。
自らの行動を邪魔されたからか、竜胆はむすっとした表情になり、その不満を隠すことなく告げる。
「……前から思ってたけど、葵はもっとあたしを敬ってもいいと思う」
「……前から思ってましたが、竜胆先輩は僕の苦労を知るべきですよ」
「よし良い機会だ、そこに座りなさい」
「もう座ってます」
竜胆がぐぬぬと端正な顔を歪め、葵は少し優越感を覚える。もう葵の頭の中からは、お水を取りにいくということは抜け落ちていた。
彼女は葵のグラスを手にとって、なみなみとお酒を注ぐ。
今グラスに注がれているお酒は、竜胆が飲んでいたソレよりもずっとアルコール度数が高い。
竜胆がグラスを差し出す。
「よし、先ずは一杯」
「え? 先輩、これウォッカ……」
「はい、ぐいー」
「なにする……やめっ」
喉の奥というか身体全身が沸騰したように、熱を持つ。
その熱は簡単に頭まで回って、葵の意識は簡単にブラックアウトした。
☆☆☆
ソファに横たえてすっかり寝入ってしまった黒髪の少年に、タオルケットを一枚かけた。
緩くウェーブし朱が混じった茶髪の彼女は、一人でお酒を飲んでもつまらないからと夜風に当たっている。
そんなことをしていると、すっかり酔いが醒めてしまった。
昼間から夕方にかけてたっぷりと睡眠をとったせいだろうか、眠気もやってこない。
手持ち無沙汰になって、黒髪の彼の頬を指で突っついてみる。思ってたよりも、柔らかくて驚いた。
少しだけ苦しそうに身じろぎをする彼の反応が可笑しくて、
そして優しげな声音で告げる。
「葵がいない間……つまんなかったんだからなー」
言霊は夜風と共に、窓の外へ。
弦月が空の下、宵闇へと消えていった。
※一部、未成年者にそぐわない描写があります。
本作品は未成年者の犯罪行為を助長、推奨するものではございません。