五泊六日の日程で実施された宿泊研修は、いざ帰る頃になると長いようで短かった。
何処か弛緩した雰囲気の漂う大型バスの中、薙切えりなはぼんやりと車窓から景色を眺めていた。
菫色の双眸に映るのは、ゆらゆらと揺れる緑の樹々。
新緑に包まれ溢れる陽光を浴びて、キラキラと輝いている。
そこから少し視線を移すと遠月離宮が目に入る。バスの発車までの時間はなんとなく手持ち無沙汰で、えりなは自分がどの辺りに泊まっていたのかと考え始めた。
その思考を妨害するかように、えりなの脳内に違和感が流れ込む。
──そういえば、あの写真。ちゃんともってるかしら?
えりなの記憶が正しければ、あれはまだベッドライトの脇にある収納スペースの中だ。
もし置き忘れたのが他のものならば諦めもついただろうが、あの写真はえりなにとってとても大切な物だ。
──取りに戻らないわけには、いかないわ。
その旨をえりなの隣に座る新戸緋紗子に伝えると、やはり制止の声がかかる。
「え? 忘れ物……ですか? 間もなく発車です! 私が取りに……」
「い、いいの……自分で行きます! 私は別の車で学園に戻りますからーー」
言い終わらないうちに、えりなは座席を離れる。緋紗子の浮かべる驚嘆の表情に少し胸が痛んだけど、今はそれどころでは無いのだ。
胸に焦燥を秘めたえりなはバスを降りて、遠月離宮へと駆けていく。
☆☆☆
一階のロビーへ向かうエレベーターの中、えりなは胸を撫で下ろす。
あの写真が、手元にあるからだ。
幼い頃に撮った、えりなの尊敬する料理人とのツーショット。
神の舌を持つえりなを以ってして、究極の美食と言わしめるほど完璧な料理を創り出す彼。
それを口にした瞬間にえりなの心は歓喜に打ち震え、時が経った今でもその時の衝撃は脳裏に刻み込まれている。
過去へと埋没するえりなの意識は、エレベーターの扉が開く音で現実へと立ち戻った。
ロビーへ踏み出したえりなの目に留まったのは、見覚えのあるシルエット。
藍色のスラックスと純白のカッターシャツ、黒色のカーディガンに包まれた華奢な体躯。
癖のないサラサラとした黒髪、性別を感じさせることのない端正な顔立ち。
えりなのとても数少ない交友関係の中で、最も親しい異性。
斬島葵だ。
葵はロビーの奥、一目見ただけで高価だと分かるようなソファに腰掛けていた。ソファのすぐそばにはテーブルがあって、談話が出来る様になっている。
彼のすぐ隣には、同じように一人の少女がソファに身体を預けている。いや少女というには、かなり幼い女の子だ。
──迷い子かしら?
そう思いつつ、二人の側へと近付く。葵とは知らない仲では無いし、というよりもかなり親しい仲だ。
だけど声をかけようとえりなが思ったのは、ただ親しい仲だからでは無い。
『間もなく発車です!』
つい数十分前に車内で緋紗子がえりなを引き留めたように、バスの発車時刻はもうとっくに過ぎている筈だから。
これはえりなにも言えることではあるが、この瞬間にロビーに留まっている事は、確実にバスには乗り遅れた事の証左に他ならない。
えりなが歩みを進めソファとの距離を縮めると、葵と女の子もえりなを認識したようだ。
葵は柔らかく微笑み、女の子は警戒し身を強張らせる。
すぐそばまで近づいて、えりなは歩みを止めた。
そして口を開く。
何故か先ほどまで思っていた事と、全く別の言葉が出た。
「葵くん……
えりなが穿った言葉に答えたのは、葵では無く女の子の方だった。
「あ、あなたこそ、葵おにいちゃんの何なのよっ!」
「…………」
……何かしら? 改めてそう言われると、えりなは言葉に詰まってしまう。
──友達以上には親しくしているつもりだ。だが恋人というわけでは無い。
つまりは、友達以上、恋人未……。
そこまで考えて、えりなは思考を打ち切った。
これ以上はいけない気がする。この先を考えるのは……なんというか恥ずかしいし、くすぐったい。
思考を逸らすためでは無いが、少し目の前の女の子を見つめてみる。
未成熟な起伏のない肢体。身に纏っているのは、純白のワンピース。
肌は透けるように白く、色素の薄い亜麻色の髪は下ろされていて鎖骨の辺りまである。
快活というよりも気の強そうな容姿は整っていて、瞳が少し潤んでいる。
小さな手がワンピースの裾をきゅっと握ったところで、えりなは気が付いた。
──何だか、悪者みたいね。
先ほどから一言も発さずに女の子を見つめている姿は、第三者から見れば睨んでいるようにも見えるかもしれない。
そしてえりなは高校生で、相手は小学生……もしくはそれ以下の年齢だ。
えりなは逡巡して、言葉を取り繕う。
ちなみに気が付いてから、ここまで一秒もかかっていない。
「……ごめんなさい。私は、薙切えりな。葵くんとは……その、親しくさせてもらっているわ」
「……結衣よ」
「結衣……可愛い名前ね。私も座っていいかしら?」
「むぅ……好きにすればいいわ」
えりなの誠意は伝わったのだろう、結衣はまだ少し不機嫌ながらも了承した。
それから結衣の母親が来るまで、えりなと結衣と葵の三人でとりとめのない話をした。
結衣も女の子だからだろうか、料理のことに興味をもち合宿でのことを色々と質問してきたのだ。
第一印象が悪かっただけで、えりなと結衣の相性は悪くなく、むしろどこか似ているところがあるせいか気が合った。
そして、結衣の迎えが来る頃には……。
「ばいばいっ……葵おにいちゃん! えりなおねえちゃん!」
「うん、またね。結衣ちゃん」
「結衣、もう迷い子にはならないことだわ。気を付けて帰りなさいよ」
結衣は母親と手を握り、繋いでいない方の手を力いっぱいふって別れを告げている。
結衣の母親はそんな娘を
そして結衣の小さな背中が見えなくなる頃に。
「薙切お嬢様! 車の手配が整いました。ちょうど
どうやら、えりなにも迎えが来たようだ。
☆☆☆
黒塗りの車。
後ろのトランクにえりなと葵は荷物を積み、後部座席へ乗り込んだ。
シートに背中を預けると、控えめに押し返してくる。
エンジンがかかり車が動き出すのを契機に、えりなは葵に話しかけた。
「結衣と一緒に待っていたら、バスに乗り遅れることくらい分かっていたでしょう?」
「頭では分かってたんだけどさ……やっぱり放っては置けないじゃん」
「はぁ……葵くんって、結構そういう所あるわよね」
「……そういう所?」
「分かってないなら、別にいいわ……気にしないで」
そう言って首を傾げる葵に、しかしえりなはそれ以上言葉を重ねることはない。
──自分のことなんて二の次三の次にして、誰かの為に行動する所だ。
結局それで自分は損をしているにもかかわらず、そんなこと気にも留めずに他人の幸せを喜んで、葵は微笑んでいる。
そんな彼の性質を好ましく思ってしまうのは、きっとえりなには無いものだから。
もちろん自分が冷淡だとは思わないけど、優しいとも思わない。
えりなが優しくなれるのは、自分が気を許したほんの僅かな人だけだ。
隣の花は赤く見える、そう思った。
そう言えば、とえりなは話題を変更する。
「そろそろ秋の選抜が、始まるわね」
「あー、もうそんな時期なんだね」
遠月学園伝統、秋の選抜。
高等部一年生からの選抜メンバーが、腕を振るい競い合う美食の祭典である。
学園理事や出資者……一堂に会した食の重鎮達の前で、生徒にとっては自らの力を学外に示す最初の舞台だ。
もう既に、その選考は始まっている。
その事にをえりなが気づいたのは合宿の三日目から、選出委員が会場に出入りしていたからだ。
えりなは窓の外、移り変わる景色をみつめながら、浅く息を吸い込んだ。
そして優しげな声音で、告げる。
「葵くん……その、頑張りなさいよ。お、応援していてあげるんだから」
──えりながその優しさを見せるのは、彼女に選ばれた者だけだ。