宿泊研修四日目。
清潔感の漂う白壁は朝日の色に僅かに染まり、会場は柔らかな光に包まれている。
だが和やかな外の景観とは対極をなすように、厨房内は騒然としていた。
生徒達は各々割り当てられた会場、割り当てられた台で料理を提供する準備に取り掛かっているからだ。
藍色の着流しを身に纏った少年、斬島 葵はA会場に割り振られ、料理を提供する準備を整えていた。
ある程度完成品が出来た所で、葵は力強い洗練された低音を耳にした。
「各自料理を出す準備は出来たな? これより合格条件の説明に入る。まずは……審査員の紹介だ!」
銀は生徒達の視線を扉へと促す。
葵の視界にまず飛び込んできたのは、快活な雰囲気の少年。小学生くらいだろうか、自分と比べるとずいぶん頭身が低い。
その後に体格の良さそうな成人男性や、幼い少女の手を引く女性の姿が見られた。
杖をついた老人までいる。
「遠月リゾートが提携している食材の生産者の方々。そしてそのご家族だ。毎年この合宿で審査を務めて下さっており、【驚きのある卵料理】というテーマも事前にお伝えしている。審査は非常に正確でおいでだ。……そして我が遠月リゾートから、調理部門とサービス部門のスタッフ達も審査に加わる」
コック服やウェイター服を身に纏った、遠月リゾートのスタッフ一同が会場内に入ってくる。その足取りには余計な音が一切無い。
プロの料理人にとって、些細な音の変化を聞き逃すことは絶対にあってはならない。
給仕をする者にとっても、サービスを提供するお客様に雑音を聞かせるなんてことはあってはならないのだ。
「この課題の合格基準は二つ。生産者のプロと現場のプロ……彼等彼女等に認められる発想があるか否か。そしてもう一つは、今から二時間以内に【二百食】達成すること。以上を満たした者を合格とする……それでは皆様、朝食のひとときを存分にお楽しみ下さい」
──審査開始──
☆☆☆
ビュッフェ。
お客様は様々な料理の中から、任意のものを選ぶ。
それだけ聞くとバイキングと混同してしまうが、
バイキングは座って食べるが、ビュッフェは立って食べるのだ。
この課題に於いて、【見映え】は最も重要な要素の一つだ。
お客様がどの料理を手に取るのかを決める、大きな判断材料の一つは見映えの良さだろう。
見映えの良い料理は手に取っていただける可能性が高くなるし、味に対する期待値も膨らむからだ。
「どうぞお召し上がり下さい……イクラの卵巻き寿司です」
葵は割り当てられた台に自らの品を並べながら、此方を興味深そうに見つめる二人の少女に微笑みかけた。
葵がニッコリと笑いかけると少女二人のうち、快活そうな雰囲気で髪をポニーテールにした彼女が、もう一人の手を引いて此方に寄ってくる。
そのもう一人手を引かれた少女は、少し大人しい雰囲気でサラサラとした黒髪が肩口で切り揃えられていた。
前髪につけたヘアピンがお揃いなことから、姉妹なのかなと推測する。
「お揃いのヘアピン可愛いね。二人は姉妹なのかな?」
「そうよ。わたしが凛花で、こっちが優花。わたしがおねえちゃんよ!」
「……優花、です」
「あっ……ヘアピンはあげないわ!」
「うーん、僕にはちょっと似合わないかなぁ」
どうやらポニーテールの女の子が凛花、髪を下ろしている女の子が優花らしい。
白い花のあしらわれたヘアピンを褒められたからだろう、凛花も優花も嬉しそうに二人で笑い合う。
笑ったことで緊張が解れたのだろう、少しおどおどしていた妹の優花の表情が葵には和らいで見えた。
「じゃあ、いただきます!」
「……いただき、ます」
そういって二人の少女は、葵の品を口に運ぶ。
一口サイズに握られた酢飯。それが薄く焼かれた卵で巻かれて、上にイクラが被さっている。
イクラの軍艦巻きの海苔の部分が、卵に変わっていると表現すると分かりやすい。
口にした瞬間、凛花と優花の表情が明らかに変化した。
それは美味しいものを食べた時の至福の表情。
そんな彼女達の嬉しそうな顔を見て、やっぱり葵自身も嬉しくなってしまう。
──ああ、良かったな。
そう思うのだ。
どれだけ味見をしようと、どれだけ調理を丁寧に行おうと、料理を出すまでは常に不安が付きまとう。
自分では納得のいく品を作ったつもりなのに、もしかしたらと思ってしまうのだ。
だけど。
たった一言、【美味しい】と言ってもらうだけで、胸にある不安は霧散する。それまでの苦労は報われて、心が弾む。
「美味しかった、ありがとうお兄ちゃん!」
「……あ、ありがとう、ごさいます!」
凛花と優花はコクンと喉を鳴らして、お礼の言葉を告げた。
舌足らずな、しかし心に響く声。
向けられた純真無垢な笑顔に、葵は思わず魅入ってしまう。
穢れのない清らかな感情を持ち続けることは、実はとても難しいから。
でもどうか目の前の少女達には、今感じている心の揺らぎを忘れないでいて欲しいと思う。
そんなことを思いながら、葵は言葉をかえした。
「こちらこそ、ありがとう」
☆☆☆
料理を食べ終えた凛花と優花は手を振って、葵に割り振られた台から別の場所へと移って行った。
イクラを用いた葵の料理は審査員からの評判もよく、かなりのハイペースで皿は積み重なっていく。
そんな中、追加分の品を作る葵の台にまた一人、お客様が現れた。
「あ、どうぞお召し上がり下さい」
「娘達が世話になったようだな!」
「……ん?」
葵の視界に映るのは、一人の男性の姿だ。
短く刈り上げられた黒髪。身に纏っているのは、ジーンズとTシャツ。その体躯は筋肉質で、シャツから伸びる浅黒い腕はとても逞しい。
それよりも、娘達とは誰だろうか?
「凛花と優花が、着物のお兄ちゃんの料理は美味しかったと言っていた」
「あぁ、凛花ちゃんと優花ちゃんのお父さんでしたか」
「君にお義父さんと呼ばれる筋合いは無い!!!」
……うわぁ、なかなかパンチの効いたお父さんだ。
しかし困った。お父さんと呼べないなら、なんと呼ぼうか。
葵は逡巡して、口を開く。
「あぁ、凛花ちゃんと優花ちゃんのパパさんでしたか」
「言い方の問題じゃないし!!!」
「なら、なんとお呼びすれば良いでしょう?」
「ふむ、健太郎と呼びたまえ」
「分かりました、パパ」
「分かってないじゃないか!」
葵は健太郎が話す言葉の端々から、なんとなくこの人は弄りやすいと思っていた。試しに軽く冗談を言ってみると、小気味好い反応がかえってくる。
これを弄らずにいられようか、いや無い(反語)。
「冗談ですよ、健太郎さん。お詫びでは無いですけど、どうぞお召し上がり下さい」
「ふむ、では頂こうか」
そういって健太郎は、葵の料理を口にする。
咀嚼した瞬間健太郎の表情が明らかに変化して、親子で同んなじ反応をするのかと、葵は思った。
「なるほど、娘達のいうとおりだ……美味しいよ」
「ありがとうございます」
「私からもお礼を言おう。娘達を笑顔にしてくれてありがとう」
そして、健太郎の食べた一皿で。
『斬島 葵、二百食達成』
葵の試験突破が確定した。