宿泊研修三日目の夜。
薙切 えりなは廊下を軽い足取りで進んでいた。
溢れんばかりの光を放ち、踊るように揺れる
結い上げられた輝きには、静謐と気品があった。
魅惑的な肢体をつつむのは、薄桃色の浴衣と紅色の羽織。
豊満な双丘が薄桃色の布地を押し上げ、扇情的な腰周りは見るものの心を狂わせるほどの色香が漂う。
そのえりなの後ろ。
まるで貞淑な妻のように、三歩後ろから付き従うのは新戸 緋紗子。
緋紗子もまたえりなと同じく、浴衣姿だ。
両者共に似合っていることは確かなのだが、同じ衣服をきているにもかかわらずそこから受ける印象は異なる。
えりなの浴衣姿には、完成された美と扇情的な魅力があった。
対して緋紗子の浴衣姿は、凛とした美しさと見るものに親しみを感じされる家庭的な魅力があった。
えりなの足取りが軽いのには、理由がある。
──これからお風呂なのだ。
そんなえりなの澄み切った菫色の視線に、見知った背中が見えた。
線の細い華奢な体躯。身に纏っているのは、水色の浴衣と藍色の羽織。
癖のないさらさらとした黒髪が、歩くたびにゆらゆらと揺れるのがちょっと面白い。
「あら、葵くん。どこに行くのかしら?」
「……あ、えりなさんに緋紗子ちゃん。多分、同じところだと思うけど」
えりなが声をかけると、水色の袖が揺れて彼が振り返った。
斬島 葵。
黒曜石のような瞳、性別を感じさせない端正な容姿。
葵は親しい者に見せる綺麗な微笑を浮かべ、口を開いた。
すわ何事か。
とんでもないことを言ってきた。
えりな達はこれから、お風呂に入り一日の疲れを洗い流すのだ。
──同じところってことは、つまり……。
「こ、混浴はダメよ。エッチなのはダメっ! この薙切えりなが、認めません!」
「もし仮にえりなさんが認めても、遠月学園が認めないよ! ……同じところっていうのは、これからお風呂に入るって意味だよ。同んなじ湯船に入るわけないだろ」
「か、勘違いしないでよねっ!」
「……勘違いしたのは、そっちじゃないか」
「……むぅ」
言葉に詰まる。
しっとりと濡れたような黒い瞳は、じっとりとした半眼になりえりなを呆れたように見つめてくる。
と、そこでえりなは違和感を覚えた。
いつもなら、このくらいのタイミングで緋紗子が会話に加わってくる筈だからである。
どうやら葵も同じことを思ったようで、えりなの後ろにいるはずの緋紗子に視線を向けていた。
そしてえりなも促されるように、後ろを振り向く。
緋紗子はと言うと……。
「あうあう、え? こ、混浴? そんなのダメだ! 絶対ダメ! ……多分ダメ! おそらくダメ? でも葵がどうしてもって言うなら……いやいややっぱりダメ!」
途轍もない早口で何かを口走り、頬を真っ赤に染めていた。あまりに早口過ぎて、えりなには聞き取れない。
それは葵も同じようで、彼は明らかに平素とは異なる様子の緋紗子に戸惑いつつも声をかける。
「……あーと、緋紗子ちゃん?」
「でもでも、巧遅は拙速に如かずって言うし。よし、覚悟を決めろ、緋紗子!」
……聞いてないし。
いや声は届いているのだろう。ただそれに反応が出来ていないのだ。
──どうすれば、正気に戻るかしら。
えりなはそう考えて、ある言葉を口にした。
「……秘書子」
「はぅっ?! 私はひさこ!!」
──あ、こんなので戻るのね。
緋紗子が正気を取り戻したことを契機に、また大浴場へと歩き出す。
えりなと緋紗子で葵を左右から挟むようにして、廊下を進む。
三人の空間に流れている空気は、穏やかで心地良い。
足並みが揃うのは、きっと無意識のうちに葵が歩幅を狭めペースを合わせているからだろう。
中等部で知り合ってから葵には他人を思いやることができる優しさがあることを、えりなは知っている。
でもそれを本人に言うのは恥ずかしいし、きっとそんなことないよって否定するだろうことも、えりなには分かっていた。
彼には不思議な魅力がある。
言葉を交わすと楽しい気分になるし、その綺麗な微笑には目を奪われる。
そこでえりなは、幼少期に言われたある一言を思い出した。自分が最も尊敬する料理人に言われた一言だ。
──いい料理人になるコツは……自分の料理のすべてを捧げたいと思えるような、そんな人と出会うこと──
えりなのすべてを捧げたいと思える人は……。
そこまで考えて、思考を無理やり中断させる。
脳内で考えていたことなんておくびにも出さずに、会話に加わった。
「緋紗子、貴方すごい勢いで、何か口走っていたけど、大丈夫?」
「へっ?! だだだ大丈夫です、えりな様!」
「いや、明らかに大丈夫じゃ無いよね。緋紗子ちゃん?」
「う、うるしゃいっ!」
「ほら、噛んだ」
「ぐぬぬぬぬ」
葵はえりなと緋紗子に、微笑みを見せた。
見るものを惹きつける綺麗な微笑。
──まだお風呂には入っていないのに、えりなの肢体はじんわりと熱を持っていた。
☆☆☆
遠月学園高等部一年の生徒の殆どは、制服に着替え大宴会場に集まっていた。
もちろん、理由がある。
それは夕食や入浴を済ませあとは明日への英気を養うだけとなった生徒達への、堂島 銀からのアナウンスだ。
『全生徒へ連絡だ。本日もご苦労だった。今から一時間後、二十二時に制服に着替えて大宴会場へ集合してくれ。繰り返す。今から……』
会場内に集まる生徒達は、満身創痍。それは仕方のないことなのだろう。
連日連夜課題を与えられ、合格点に満たなければ即刻退学処分。神経は擦り減り、心は擦り切れる。
ざわめき立つ雰囲気の中、扉が開かれる。
入室してきたのは、一組の男女。薙切 えりなと、斬島 葵である。
その二人が会話をしていることに、周囲のざわめきがまた大きくなった。
才能ある料理人同士の会話だからだろうか。
或いは容姿の優れた男女の組み合わせに対する、思春期特有の憶測だろうか。
だがえりなと葵の意識は周囲の視線ではなく、会話へと向いている。
えりなは出来るだけスペースの広い所で歩みを止め、視線で葵にもそうするよう促す。
話の内容は、たわいもないことだ。
「そういえば、緋紗子ちゃんは何処なんだろう?」
「おかしいわね、多分もう着いてるはずだけど」
「一緒じゃなかったんだ」
「途中まで一緒だったんだけど、緋紗子の家から電話がかかってきたみたいで」
えりなが葵とそんな会話をしていると、大宴会場に力強い洗練された低音が響く。
堂島 銀だ。
「よし、集まったようだな。全員ステージに注目してくれ。集まってもらったのは他でもない、明日の課題について連絡するためだ。課題内容は、この遠月リゾートのお客様に提供するに相応しい【朝食の新メニュー作り】だ!」
朝食。
宿泊客の一日を演出する朝食は、ホテルの顔と言っても過言ではない。
そのテーブルを華やかに彩る、新鮮な驚きが求められる。
さらに銀の話は続く。
「メインの食材は【卵】。和洋などのジャンルは問わない。ビュッフェ形式での提供を基本とする。審査の開始は……明日の午前六時だ。その時間に試食出来るよう準備してくれ。朝までの時間の使い方は自由。各厨房を解放するから、そこで調理を行うも良し。部屋に戻り睡眠をとるも良しだ。では……明朝六時にまた会おう」
──解散。
そう言い残し、銀は舞台袖へと姿を消した。
会場内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。
えりなはその光景を嘲笑うように見つめ、隣の葵に話しかけた。
「ねぇ、葵くん。貴方はどう思うの? 私はなかなか面白い課題だと思うけれど」
「うーん、朝の六時って起きられるかな。早起きって苦手なんだよね」
「あはは、随分と余裕じゃない?」
「そういうえりなさんも、切迫したようには見えないけど」
「当たり前じゃない……私は、【薙切 えりな】よ?」
そうえりなが言うと、葵は困ったような微笑みを浮かべた。でも葵は明言はしなかったが、余裕なのだろう。
葵はえりなの問いかけに対して、否定はしていない。
そんなえりなと葵に声をかけてくる人物が一人。
「おぉ、斬島と薙切じゃん」
「あぁ、幸平くん。腕の怪我は治ったみたいだね?」
「あの時は、ありがとーな」
「大した事じゃないさ」
えりなはその生意気な声を聞いた瞬間、無視しようと思った。
えりなは創真のことが嫌いだ。彼の作る料理は安っぽいし、飄々とした態度も気に食わない。
反りが合わないというやつだ。
でも会話に参加しないのも、取り残された感じがしてなんか嫌だ。
「二人は知り合いだったのね」
「あぁ、昨日の夜、偶然知り合ってなー。腕の怪我を診てもらったんだよ」
──こんな奴の怪我なんか、構うことないでしょうっ?!
えりなは一瞬、そう口走ってしまいそうだった。
こういう時だけは、葵の優しさが憎らしい。
流石に口に出してしまうと、えりな自身の評価を下げてしまうので胸の奥に押しとどめた。
えりなの口から出るのは、忠告の言葉だ。
「あの時の……編入試験の時のような下品な料理は出さないことだわ。審査員の失笑を買いたくなければね! まぁせいぜい無い知恵を絞りなさい、ごきげんよう」
えりなはそう言って、その場から離れた。
しかしすぐに、早足でその場にもどった。
葵がまだ創真と談笑していたからだ。
「やー、薙切っておっかねーな」
「……いつもはもうちょっと、可愛げがあるんだけ……っ?!」
「葵くん、貴方も一緒に来るのっ!」
「ちょっ、えりなさん……引っ張らないでっ。いたいいたいっ! あ、幸平くん、またねっ!」
えりなは葵の右手を引っ張って、会場から早足で退出する。
会場のざわめきがまた大きくなったことに、えりなも葵も気がつかなかった。
☆☆☆
「ねぇ、えりなさん。一つだけ言ってもいい?」
「何よっ?」
「緋紗子ちゃんは?」
「あ」
……忘れてたわ。