すう、と息を大きす吸う音が聞こえる。
舞風の指が、動く。ティンホイッスルに命が宿る。
一つ一つの指の動きが繋がり、全てを形成する。ティンホイッスルの上を滑るような、流麗な動きだった。
基地では滅多に見ることのない晴れ渡った冬の空のような、鮮明で、澄んだ高音が響き渡る。
アイルランド音楽を特徴づける、決して楽譜には現れない独特のリズム感だけでなく、合間合間に挟まれる高音や低音といった装飾音も、そこにはあった。
舞風はじっと目を閉じる。楽譜はない、記憶に刻まれた音を指に乗せる。
ダブリンのパブが、クレアの古城が、ドニゴールの山々が……舞風にとってはその目で見る機会は永遠に訪れることのない、アイルランドの情景が現れては消えた。
暴力的にすら思える力強さを感じることもあれば、一転しなやかで、どこか儚さを感じることもある、そんな演奏が続く。
踊る。踊る。舞風の指は止まらない。踊り続ける。
初めはゆったりとしたテンポだった演奏は、速度を増し、儚さはいつしか消え、どこまでも、どこまでも突き抜けて――
ピイ! という鼓膜を貫くような、甲高く強い不協和音で、それは唐突な終焉を迎えた。思わず舞風は右目を強く閉じた。
「あちゃー、逸りすぎだよ、舞風。気持ちが指を追い越しちゃってる。この曲はもっとゆっくりでいーからさー」
椅子に跨がって背もたれに手を、そしてその上に顎を乗せ、それを見ていた鬼怒がケラケラと笑った。
舞風は唇を尖らせ、こめかみを二、三度掻いた。「あーあ、上手くいーかなーい」
そのまま背もたれに身体を預け、手足をだらりと伸ばした。それを見て再び鬼怒が笑う。
「楽しいのはわかるけどさー、もうちょっと……そう、落ち着き、それが足りないかな、舞風には。最初は結構よかったんだけど、後半はもう、両舷最大戦速! とーつーげきー! って感じだよね」
「うーん、何か、演奏してるとドンドンと『もっと! もっと先に! この先に! 早く!』って感じになるのよねー、自分でもわかってるんだけど、抑えきれないというか何というか……」
椅子に座り直しながら、舞風は考え込むように顎に手を当てた。
「情熱的だなー、本当に。溢れ出ちゃってるもん。ま、どうせ時間はあるしさ、ゆっくりやろうよ」
「そうはいっても非番が重なるのは多くはないじゃない」
「そこはまー、ほら、頑張ろう! こうして一緒にできる時まで訓練あるのみ!」
鬼怒が元気よくそう言った瞬間、課業一時終了のラッパが流れた。もう昼だった。
ありゃりゃ、と鬼怒が椅子から首を滑り落とした。「もうこんな時間かあ」
「舞風、確か昼から哨戒だったっけ?」
「そうそう、……ってことはこれで終わりかあ、うー、何かモヤモヤするなあ」
舞風はこめかみに両手を当て、頭を抱え、左右に振った。
「ほらほら、悩むならさっさと行ったほうがいいよー。根を詰めるのは良くないしさ。哨戒してればその内晴れるって! 多分ね」
適当ねー、と呆れ気味に舞風は言い、そのままティンホイッスルを片付け、立ち上がった。
「次はいつかな?」
「えーっと……いつだったかなあ、また食堂で会うだろうし、そこで言うから。それじゃあ頑張って!」
鬼怒は舞風に向かってウィンクし、親指を立てた。
了解、と言って舞風は少し崩した敬礼をし、部屋を――練習は鬼怒の部屋でやっていた――出た。出た途端に風でガタガタ、と廊下の窓ガラスが揺れた。窓の外では厚い雲が空を覆い、風に吹き上げられた雪が舞っていた。この調子だと昼下がりから吹雪くかもしれない、と少し眺めて舞風は思った。
雪の季節、一年の半分近くを占める、長く、厳しい冬がやって来ていた。
――――――――
白と黒。天地だけは判別がつく。雪が七分に海が三分少々。海面は風に煽られ、かなりの時化になっていた。
上がる。下がる。再び上がる。
悪い予想なんてするもんじゃないな、と舞風は溜息を吐いた。こんな具合ではモヤモヤは晴れそうにもない。
顔に雪が止めどなく当たり続ける。冬季装備品のネックウォーマーはとうの昔に波飛沫を浴びて凍り付き、冷たくなっていた。冬用外套にも波飛沫がこれでもかと降りかかる。表面は薄っすら凍っていた。凍結防止用に電熱線の入ったゴーグルが辛うじて視界を保っている。
展開した電探ユニットのHUDには
『一番艦より各艦、位置報告を』
一番艦の朝潮から通信が入る。前を航行しているその朝潮の姿も舞風には見えない。舞風は右を見た。複縦陣で航行していたので、本来であればその姿が見える筈の僚艦、四番艦、駆逐艦夕雲も雪の向こうに消えていた。煙突から出る黒煙も何も見えない。後ろを見たが、同じだった。視界は最悪の一言に尽きた。各艦の艤装から送受信され、ゴーグルに表示される位置情報だけが頼りだった。
『こちら二番、位置は一番右舷、距離五〇、こちらからは一番は見えず……いや、ギリギリ見える。後方の四番は……あーダメだ、影すら見えない。視界距離は五〇あるかないか! 酷いや!』
二番艦の敷波の通信が入る。強風の中、叫ぶような声だった。舞風は確認のためにもう一度右、そして後ろを見たが、先程と変わらずただ吹き荒れる雪と、荒れる太平洋の極北の海しか見えない。
一瞬、電波が途切れ、僚艦が画面から消えた。すぐに回復し、位置がゴーグル上に現れる。舞風は眉を顰めた。
「こちら三番、位置は一番後方、距離一〇〇、こちらからも一番は見えず。右舷の四番見えず。後方の五番も見えず。この雪と時化じゃビーコンでも危ない気がする、さっきから何度か途絶してるよ!」
その後も次々と報告が入る。どの艦も前後左右の僚艦がほぼ見えない状態だった。位置情報も度々
『舞風、電探は?』
「この雪じゃ全っ然使い物にならない、何やってもゴーストばーっかり。それでなくても時化で精度がガタ落ちしちゃってるし、一応艦隊は全艦見えるけども、いつまで保つかなー」
本来は四番艦の夕雲も装備している筈の電探は、出撃間際に故障が発覚し、舞風のみが装備していた。
HUDにも複縦陣に並ぶ僚艦の姿が映っているが、やはり雪による影響か、その周囲には虚像が乱立していた。
『了解……潮時かしらね、一応監視はそのままで』
「了解」
そう返事をした瞬間、雪が目に見えて弱まってきた。風は未だ強く、波も高かったが、波間の向こうに前方を航行する朝潮のシルエットが見え、次第にハッキリとした後ろ姿が見えた。舞風はホッと胸を撫で下ろした。HUDの虚像も次第に消えてゆく。
そこに慌てたように朝潮の上ずった声が入る。
『左舷、一〇時方向に雷跡確認! 各艦散開! 散開! 急いで!』
その瞬間、HUDにも新たな輝点が現れた。距離一五〇〇、複縦陣を作る六つの輝点だった。
舞風は目を見開いた、どうして、と思わず声が漏れた。未だ雪の中、雷跡は見えないが、右足を踏み込み、更に左右の主機の出力を調整し、真反対の逆方向へ急角度のターンを行う。強い遠心力に身体と艤装が揺られた。
後方を確認すると朝潮と敷波が出力を上げ、近付いてきていた。前方には夕雲、そして五番艦の駆逐艦五月雨、六番艦の駆逐艦村雨がおり、ちょうど全艦が揃う形となった。自然と朝潮を先頭とする複縦陣が再び形成される。
「後方に敵艦隊! 方位
HUDを睨みつつ、舞風は大声を上げた。
その声に釣られて全員が後ろを振り向くと、雪の幕の向こう、遠くの方から一瞬、光が見えた。
少し遅れて砲声が聞こえ、悲鳴のような風切り音が迫り、そして頭上を越えていった。
はるか前方に敵艦が撃ったであろう多数の砲弾が着弾し、派手な水柱を上げる。
『まずい、これ多分二〇センチだよ、向こうに重巡がいる、複数……二か、三か』
砲声と着弾時の衝撃から推測したのか、敷波が言った。
『……私を先頭に単従陣、間隔は通常から二分の一、針路
了解、と全員が返事すると、敷波は複縦陣から抜け、最後尾に移動した。全員が単従陣になったのを確認し、白い煙幕を焚く。再び雪が強くなり、煙幕も相まって、艦隊の後方は真っ白になった。
――――――――
艤装にアームユニットとして接続された主砲の一二.七センチ連装砲が鈍い爆発音を立て、砲弾を撃ち出す。
ほぼ無仰角で撃ち出された砲弾は雪を掻い潜り、横並びで後方を追い掛けて来る小型漁船程度の大きさの二つの黒い物体――駆逐艦、その中でもイ級に分類される深海棲艦――の近くに着弾し、海面を砕く。
片方、着弾場所が近かったイ級は、一瞬バランスを崩したようで、波の中に頭を突っ込んだ……がすぐに体勢を立て直し、再び後方に現れる。
もう片方のイ級はお返しとばかりに一二七ミリ砲を放つが、時化の中の砲撃、しかも言わば『口』の中に砲があるため正確な狙いはつけられないのか、砲弾は舞風たちのはるか頭上を通り越し、見当違いの場所へ落ちた。
「外れか、やっぱりこれじゃあ厳しいよね」
振り返ってそれを見ていた舞風は呟く。もうこんなことを何十回と繰り返していた。
戦闘を避け、敵艦隊から全力で退避していた舞風たちだったが、悪い予感は当たり、かれこれ数十分の間、こうしてイ級から追い回され、双方決め手のない砲撃戦を繰り返していた。
戦闘に移ればすぐに巡洋艦群に捕捉されるのはわかっていたので、足を止めることもできず、アームユニットの主砲によって身体を後方に向けること無くイ級に対し砲撃可能な舞風のみが、殿を敷波と交代する形で応戦していた。
いくら主砲の『妖精』が熟練だとしても、この状態では当たるものも当たらなかった。弾薬の消費も馬鹿にはならない、一旦砲撃を取り止めた。
『舞風、電探の方は?』
「巡洋艦はもうかなり離れてるけども、やっぱり追っては来てる、速度は三〇ノット前後。イ級は言わずもがな。援護は映ってないけども、まだなの?」
『第二艦隊が応援に来るって、もう三日月のレーダーでも捕捉したみたい』
「了解、あともうちょっとの辛抱ねー」
第二艦隊、鬼怒が所属する艦隊だった。非番を召し上げられて怒っているかもしれない、とふと舞風は思った。
数分もしない内に、HUDに新たな輝点が西の方角から現れた。一寸遅れて輝点に情報が次々と――第二艦隊の各艦の情報が――表示される。味方だった。
『第二艦隊より第五艦隊へ、こちら第二艦隊、一番艦妙高。第五艦隊、応答を。送レ』
妙高の声が全艦に流れる。救いの女神がやって来た。艦隊の間に安堵感が漂った。
『第五艦隊より第二艦隊。こちら第五艦隊、一番艦朝潮』
『巡洋艦はこちらで対処します。あと一五分程で接触しますので、進路そのままで、イ級への対処はそれまで待ってください。主機は大丈夫ですか?』
『一五分後、了解。主機については現在のところ問題なし、出力は規定内上限。燃料残量も問題なし。援護、感謝します』
『非番の恨みは食の恨みより強いですからね、早く片付けますよ……終ワリ』
やっぱり怒ってるな、しかも第二艦隊全部、と舞風は苦笑した。援護が来たことで、舞風は景気付けにと再度一二.七センチ連装砲を撃った。
砲弾は吸い込まれるように舞風から見て右方のイ級に直撃し、爆ぜた。白と黒の世界に、赤とオレンジの花が咲いた。
舞風は、ネックウォーマーの下で数秒口を開け、信じられない、という風な顔をしたが、ニッと笑うと快哉を叫んだ。「敵イ級、一艦撃破!」
『やるじゃない、その勢いでもう一艦やってくれないかしら?』
『陽炎型はやっぱいいなあ、こういう芸当できるもんね』
朝潮も敷波も言葉端に喜びを漂わせていた。
もう一回は厳しいかな、と返そうとした瞬間、第五艦隊のすぐ近くに新たな輝点が三つ、突然現れた。舞風は息を呑んだ。敵だった。
直後、それまで艦隊を覆っていた幾分か楽観的な雰囲気を一変させる無線が入った。
『第二艦隊より第五艦隊、現在敵戦艦三艦と交戦中! 巡洋艦群もどうやら進路を変えてこちらへ向かってきているようです。至急、応援をお願いします!』
――――――――
どうしてあんなことになったのかは全くわかりません。いくら『
そもそも、あたしたちが置き魚雷を、それも時化の中で正確にされた時から――あ、置き魚雷っていうのは、敵がこっちに気付いていない時に、敵の予測進路に魚雷を放つことです――おかしかったんだと思います。そうです、敵が今まで置き魚雷をやってきたことなんて一度もなかったんです。少なくとも基地周辺で交戦した敵については。
ミイラ取りがミイラに、なんて言ってしまえば容易いですけど、決して油断とか、慢心とかはありませんでした。基地近くまで重巡、しかもそれが複数出現したのも久々でしたから緊張感はあったと思います。それに、あの時の敵の陣容に対しては、第二艦隊は十分過ぎるくらいでした。
……あたしたちが残りのイ級を撃破して駆け付けた時にはかなり危険な状況でした。既に第二艦隊は大打撃を喰らっていました。 戦艦って強いんです。何しろ三五.六センチやら四〇.六センチ、もしかしたらもっと上の口径の砲ですよ?
一番艦の妙高は中破……といっても大破半歩手前くらいの損傷、三番艦の重巡鳥海が戦艦の砲撃で、四番艦の軽巡多摩が直後に合流してきた敵の重巡の砲撃で轟沈、他も小破中破と、各艦損傷していました。鬼怒は……確か、まだ小破でした。
対する敵は、何とか戦艦一を撃破したものの、あたしたちを追っていた巡洋艦群、重巡二と軽巡二が合流してからは数の上でも劣勢になってしまって、必死の抵抗で軽巡一は撃破できましたが、そこからはジリ貧でした。
駆け付けた時は敵は第五艦隊を半包囲するような形で布陣していて、こちらに気付いていなかったので、まず軽巡に対して攻撃をしました。何とか敵の数を減らして数の優位だけは確保する、それが第一でした。
背中からの奇襲です。時化のせいで魚雷を使えなかったとはいえ、全員の一二.七センチをありったけ叩き込んで、何とか軽巡を撃破し、包囲をこじ開けに突っ込みました。
自分よりも強力な相手と一対一でやりあうなんて、相当の手練れじゃないとできません。
倒す必要はありませんでした。何とかこの場から脱出さえできればよかったんです。そもそも、
……実際のところ、奇襲からの攻撃はそこそこは成功しました。残る敵は戦艦二、重巡二。あたしたちは第二艦隊の救助を優先して、戦艦に対して攻撃したんです。あたしと夕雲、そして朝潮と敷波の組がそれぞれ戦艦に攻撃を仕掛けました。
戦艦相手に至近距離で逃げ回る、もう気が気じゃないですよ。僅かでも気を抜くと、あのル級戦艦の真っ黒な砲口が見えるんです。真っ黒で真ん丸の円がいくつもこっちを見てくる。その砲口が光った瞬間があたしの最期になります。勿論、装填のタイミングは計ってます……それでも、あの底無しに真っ暗な砲口がとても怖い、恐ろしい! 本当に、もう恐怖で足が竦みそうになります。足はガックガク、歯もグッと噛み締めて堪えないと、ガチガチと音を立ててしまうくらい。でもやらなきゃ味方が轟沈してしまう。ただの哨戒が、あんな大事になるなんて……本当に運が無かったとしか言えません。
数十分はそうして、あたしたち第五艦隊が戦艦と重巡に対峙して、時間を稼いでいました。その間に第二艦隊の残った艦が何とか重巡一を撃破、後はもう撤退するだけという状況にまで何とか持って行くことができたんです。援軍の第一艦隊も近くまで来ていて、送り狼の心配もほぼなくなっていました。そして機を見て第二艦隊は撤退。安全な距離まに到達したところで、あたしたちも一斉に煙幕を展開して機関最大で脱出。殿は第一艦隊に任せて、急いで第二艦隊に合流……そこまではシナリオ通りでした。でも、無事に帰投は出来なかった。
あの雪の中、どこからか――それこそ『海中』かもしれません――敵の空母艦載機、艦爆が一機、飛んできました。偵察がてら攻撃用にそこそこの大きさの爆弾も搭載しているような機体です。こんな雪の中飛ばしてくるなんて正気じゃないです、でも飛んできた。そして、あたしたちに向かって爆弾を落とした。気付いた時にはもう投弾体勢に入っていて、対空射撃が間に合いませんでした。
爆弾はあたしの真横に落ちました。落ちた先には鬼怒が……そうです、鬼怒に直撃しました。鬼怒の艤装は粉々に吹き飛ばされて、身体も酷く損傷して……手持ちの携行式修復剤ではとてもじゃないですが、治せるものじゃなかった。それに艤装も完全に
そのまま、鬼怒はゆっくりと沈んでいきました。あたしが最期を看取ったんです。別れ際まで鬼怒は……鬼怒は、笑顔でした。