黒潮は一つ結びにしていた髪を解くと、机の上に赤いヘアゴムを置いた。
使い込んだことによる劣化か、全体的に表面が毛羽立っていること以外はアクセサリーも何も付いていない、平凡な赤いヘアゴムだった。
「これが……そのヘアゴムですか」
「せや、題して『血染めのヘアゴム』や」
黒潮はニヤリ、と笑ったが、男が困ったように苦笑いを作るのを見て、「ジョークや、ジョーク。今のは笑うとこやで」と口のへの字に曲げ、バツの悪そうな顔をした。「別に血ぃも何もついとらへんよ」と続けた。
黒潮はヘアゴムを指に引っ掛けて数回くるくると指先で回した後、再び髪を元の一つ結びにした。
「ホンマご丁寧なもんや……普通やったらここまでのことはあらへんで。精々一筆知らせが来たら御の字、ちゅうとこや、それもだいぶ経った後にな」
「満潮さんの轟沈は一体どういったものだったんてすか?」
「手紙にはただ、『敵海域にて作戦行動中に轟沈した』としか書いてへんかった。まあ後は文字には出来ひん機密、ちゅうやつやろうなあ。ようあることや。直に聞きに行ったらもうちょい詳しいのがわかるかもせえへん」
「秘密主義、ですか」
「せや、アレも機密、コレも機密、『情報へのアクセスは許可されておりません』、『アクセス権限がありません』てな……ウチはウチの仕事をするだけやからな。ウチらは所詮兵隊や、駒や。要らん情報はノイズや、『
再び饒舌になった黒潮が相次いで繰り出すジョークとも、皮肉とも取れる言葉に男は気圧された。なるほど、これも『歴戦の兵』の為せる業か、と頭の隅で考えた。
その間も黒潮の言葉は続く。
「ついでに言うたら『
アカンアカン、今のはナシで頼むわ、と黒潮はあまり上手とは言えないウィンクをしつつ、口元に当てた右手を上下に振った。日本では取材の自由は
「話は戻りますが……その、封書の送り主はどなただったんですか?」
男の質問の意図が読めないのか、黒潮は首をほんの僅かに傾げつつ答えた。
「満潮が居った艦隊、第三艦隊の旗艦の古鷹やった。まあ基地司令と警務隊長もそこへ入れてええやろうけどな」
黒潮は右の口角を釣り上げて笑った。男も笑い、面白いジョークですね、と返した。その言葉に黒潮は笑顔のまま眉根を下げた。
「ジョークやのうて事実やけどな……と、もしかして満潮が遺言めいて手紙送ってきたとか考えとったんか?」
「そこまでは考えてはいなかったのですが……そういうこともあるんですか?」
「まあ、全くあらへん、ちゅう訳やない。聞いた話やと、そういう遺言残しとる奴も居るらしいな。ウチが死んだらどこどこの誰それに連絡をしてくれ、てな。まあ『遺言』なんて仰々しい名前やけど、別に何も従う義務なんかあらへん、言うてしもたらただの『お願い文』やからな」
男が口を開きかけたところで、ウチはそんなん書いてへん、多分、満潮もな、と黒潮は付け加えた。
「満潮のは……あれは全くもって古鷹の好意やな。ホンマにええ奴や。ウチと満潮が古い戦友や、ちゅうのを知っとったからわざわざ一筆送ってくれたんや、
そう言うと、黒潮は男から目線を外し、いつの間にか水平線に近付き、もう後少しで下弦が触れようかというところまで傾いた太陽を見つめた。釣られて男も太陽に顔を向けた。太陽の色は既に白から赤へと変わりつつあった。
――――――――
これといって特に特徴の無い、平々凡々の事務用の白色の封筒だった。
表の下部にはヤップ島基地の名前や住所、それに電話番号が印刷されており、ヤップ島基地で一般的に使用されている事務用の封筒だということがわかる。
そして宛名書きには、手書きで『黒潮様』とだけ書いてあった。少し線の細い、全体的に縦長の字だった。宛先もなく、切手もなく、勿論基地郵便局の消印もなかった。封筒を裏向けると『ヤップ島基地第三艦隊一番艦古鷹』と表の字と同じ筆跡で差出人の名が記されてあった。
中に紙以外の何かが入っているのか、少し封筒が膨らんでいた。
「何ですか、これ」
基地艦隊司令官室のそこそこ大きな執務机の上に置かれたそれを一瞥すると、黒潮は仏頂面で目の前の司令に尋ねた。
「見ての通りの手紙だ、お前さんへのな。昨日ヤップから別の書類と一緒に届いた。一番艦の長良から渡してもよかったんだが――」
「……轟沈ですか。ヤップちゅうことは、大方、満潮の」
黒潮は司令の言葉を遮った。無表情だった司令は、黒潮の行為が意外に思ったのか、一瞬僅かに左の眉毛を釣り上げた。広い額に深い皺が寄り、すぐに元に戻った。
「その通り、ご名答。……任務スケジュールを変更しておいた。明後日
西日が差し込む酒保の中で、黒潮は煙草を片手に持ちつつ手紙を読んで――既に一度読み終えていたが、何度も読み返して――いた。机の上には灰皿と封筒、そして封筒を開けるために使った手持ちの小型のナイフが置いてある。煙草の方を見ると、火を着けてから全く吸っていないのか、ただ煙草は指先でゆっくりと灰になるばかりで、今にも灰がポトリと落ちそうだった。
数分経ち、遂に重力に耐えかねて灰が落ち、更には指に火が当たるかというところまで来て、ようやく気付いた黒潮は煙草を灰皿に放り込んだ。新しい煙草も出さず、続けて数分間、黒潮は手紙と睨み合いを続けていた。その目は文字を追っていなかった。
ようやく手紙から目を離すと、次に黒潮は封筒をひっくり返した。中から出てきたのは赤いヘアゴムの束だった。律儀に紐で縛られ、一纏めにされていた。黒潮は紐を解き、その内の一つを手に取った。数秒、ヘアゴムを指先でつまみ、じっと見つめていた。
そのまま手を後頭部に回すと、そのヘアゴムで髪を一つ結びにした。
髪を結ぶと、机の上に置いた手紙を取り上げ、二つ折りにし、ナイフで折り目から二つに切り、また二つ折りにし、また切り……それを何度も繰り返し、手紙は机に堆く積み上がる紙片となった。封筒も同じように――先にナイフで解体された上で――紙片に変えられた。
二つの紙片を灰皿に放り込むと、酒保のマッチで煙草に火を着け、そのまま灰皿にマッチを放り込んだ。一瞬、赤い火が灰皿に広がり、後には燃え尽きた紙片と真っ黒になったマッチ棒のみが残った。何事かと周囲の艦娘が黒潮の方へ顔を向けたが、黒潮は、何でもない、という風に手を振った。
煙草を、そして残りのヘアゴムを胸ポケットへ突っ込むと、灰皿を持って――こぼれた灰も忘れずに灰皿へ落として――席を立ち、灰皿の中身を全部捨て、酒保を出た。
向かう先は既に決まっていた。
コップが二つ、グラスが一つ、コップにはビールが、グラスには赤ワインが注がれている。傍らにはコップにその中身を注いだのであろうビールの大瓶、そしてワインの瓶が置かれていた。
黒潮は基地内の居酒屋のカウンター席に座り、頬杖をつきつつ一人それを無心に眺めていた。かなりの時間眺めていたのか、すでにビールからは気泡が消え、大瓶から滴った水が小さな水溜りを作っていた。
永遠にそのままでいるかのようにすら見えたが、一般基地隊員の食事を告げるラッパ音が基地内に流れると、黒潮は我に返ったかのように目を瞬かせ、気抜けたビールを見て苦笑いし、それを一気に飲み干した。間髪入れず、もう一つのコップのビールを、そしてワインを飲み干した。
『ここは御国を何千里、離れて遠き南洋の――』
「また派手に酔ってるわね……まあ、仕方ないかな」
そう言って腰に手を当てた由良は眉根を下げた。目の前では黒潮がカウンターに突っ伏しながら『戦友』をあやふやな調子で何度も歌っていた。カウンター席には所狭しとビールの大瓶、そして赤白両方のワインの瓶が置かれている。
『赤い夕陽に照らされて、友は墓なき海の下――』
「ちょっと黒潮、起きてるの?」
「起きとる」
黒潮は酔歌を止めると突っ伏したまま答えた。
「それのどこが『起きとる』よ。ほら早く顔を上げて」
「後にしてくれ……頭がえらい重たいんや……まるで戦艦の艤装みたいや」
「そんな浴びるようにガブガブ飲んでたらそうなるに決まってるでしょうに、いくら明日になったらケロッとしてるからって無茶やったわね。ほら、立って。もう店仕舞いよ。営倉送りになりたいの?」
「そら堪忍や……わかったわかった、せやからそない腕引っ張らんといてくれ……いや、一人でいける、大丈夫や、一人で――」
黒潮は由良の手を押し下げて徐ろに立ち上がったが、すぐに倒れそうになり、カウンターに手を置き、身体を支えた。カウンターにもたれ掛かって立つのが――そして上半身はフラフラと危なっかしく揺れている――精一杯という状態だった。顔も目も真っ赤で、アルコールをそのまま吐いているかのような吐息だった。
由良ははあ、と呆れたように溜息を吐くと、「大丈夫なわけ無いでしょう……ほら、肩貸して」と黒潮の腕を自分の肩に回した。
「……スマンな」
「いいわよ……さ、行くわよ」
「おおきにな、また一個、借りができてもうたな」
「これで貸しはいくつかしらね、溜め込んだら高くつくわよ……と、重いわね、体重増えた?」
「筋肉言うてくれ……やっぱし今のはナシにしとくわ、撤回や」
黒潮は由良に支えられつつ、フラフラとした足取りで居酒屋を出た。季節に関わりなく南洋は夜も暑い。居酒屋を出ると熱気が黒潮と由良を包んだ。黒潮は宿舎への道すがらも外れ調子の『戦友』を歌っていた。由良は何も言わずに半ば引き摺る形で黒潮を部屋まで送り届けた。
黒潮を部屋に放り込むと、由良は「『戦友』かあ……」と一人呟き、黒潮の汗、それに微量の涙が染みこんでしまった制服をつまみ、肩を竦めつつ苦笑いした。ま、貸しにしとくからね、と小さく呟いた。
――――――――
黒潮は何か考えこんだように沈黙していたが、少し笑うと太陽から目線を戻し、再び口を開けた。
「まあ、ウチの話はそんなところや。これで
「一つ、質問よろしいですか?」
「ええで、今更何も隠す
男は幾分か逡巡したかのような様子を見せたが、そのまま質問を途切れ途切れに言葉にした。
「満潮さんが、その、轟沈したと。それを知った時に、何を、何かを感じましたか?」
「ホンマにド直球な質問やな」
まあええわ、と黒潮は笑う。
「『何を』か……。『悲しい』が正解かもせえへんし、『喪失感』も正解かもせえへん、もしかしたら『何も感じへんかった』が正解かもせえへん。自分でもようわからへんわ。村雨の時もせやったような気ぃするわ。アンタもそういうことないか? 遠くの親戚が――顔知っとってたまに会う機会があるとか、そういうのや――死んだ時とかや。どないな気持ちや、って聞かれたかて、何やら具体的な概念では言われへんやろ? そういうのと
そう言うと黒潮はまた新しく一本煙草を吸い始めた。既に男が黒潮に渡した煙草は、半分が吸殻と化していた。
「『ウチら独特の物』ですか」
「せや、娑婆の人間とも、軍人とも、そんで戦艦やら巡洋艦やらの他の
「ではもう一つ。……どうしてそのヘアゴムでご自身の髪を結ぼうと思ったんですか?」
黒潮は言葉にならないような声で唸った。意識してか無意識なのか、右手が結んだ髪に触れた。
「難しいな……『なんとなく』やアカンか」
「いえ、それでも全く構いません」
「『なんとなく』……せやな。そこにヘアゴムがあったから
黒潮は笑った。自嘲のようにも見える笑いだった。
「そんで、これで終いか」
男はええ、と肯くと黒潮は「ほなこれで失礼するで、長いことありがとうな」と言うと灰皿を持ち、席を立った。
そこに一つ思い出したのか、慌てたように男が言った。
「あ、最後に一つだけ……どこで『戦友』を知ったんですか?」
ああ、それかいな、と黒潮は立ったまま――とはいえ灰皿は一旦机の上に置き――答えた。
「
「ええ……長時間の取材、本当にありがとうございました」
男は黒潮に向かって頭を下げた。黒潮は、ええよそんなん、と手を振った。
「煙草、おおきにな。ほなまた後日」
「はい、よろしくお願いします」
再び男は礼をした。黒潮は振り返ることなく手を振り、酒保の中へ入っていった。
男はそのまま暫く机に座り直してタブレットに何かを打ち込んだり、ノートに何かをメモをしたりしていた。
いつしか時間が経ち、課業終了のラッパが基地に鳴り響いた。慌てて男は立ち上がり、国旗がある方向に直立した。少し遠くから流れ聞こえる国歌が終わると、その姿勢を崩し、一人苦笑した。
太陽はより一層血のような赤色に染まり、その半身を海に沈めつつあった。
男は鼻歌を歌いつつ、荷物をまとめ、その場を離れた。『戦友』とはまた異なる、ゆっくりとした曲調の、暗く古めかしい鎮魂曲のような軍歌と思しき曲だった。
――――――――
思えば
それより後は一本の 酒瓶二人で分けて呑み 更には同期と呑み回し 戯れに契りを結び合い
肩を抱いては口癖に どうせ命はないものよ 死んだら持ち物頼むぞと 言い交わしたる皆の仲
思いもよらず我一人 不思議に命永らえて 赤い夕陽の南洋に 友の眠れる海彼方
俄かに激し雨今宵 心染み染み筆執って 友の最期を細々と 同期へ送る此の手紙
筆の運びは拙いが 訃報に面する
――南洋のとある基地に伝わる『戦友』(明治三八年、真下飛泉作詞、三善和気作曲)の替え歌から一部抜粋
「髪をくくる」という表現が共通語ではないことを恥ずかしながら初めて知りました。
黒潮の言っていた英文は言わずと知れたかの名作です。一体黒潮はどこでこれを知ったのでしょうか。