由良は刺青に当てていた手を離し、腕をベッドに置いた。それまで食いつくようにして聞いていた黒潮が、ふう、と息を吐き、壁にもたれ掛かった。男も少し姿勢を崩す。長時間ずっと同じ姿勢でいたからか、腰が痛くなっていた。
「ウチが思うに――龍は水神やな。えーと、つまりは……“川”の化体、化身ちゅうこっちゃな。そんで――」
「その、艤装の接続部が、二頭の龍、即ち二本の川、加古川と由良川の分かれ目――“泣き別れ”ということですか」
男は黒潮に割り込むように言った。同じ考えだったのか、黒潮は特に気にする様子も、男の言葉に付け加えることもなく、由良の答えを待っている。
「正確なところは聞いてないんです。あの絵を見た時に、これだ、って思ってそのまま彫ってもらいましたから。でも、多分……そうじゃないかな、って思います」
「そしたら、
「閻魔は一体、どんな意味があるんでしょうか」
閻魔。二頭の龍の間に鎮座する冥界の王には、いったいどんな意味が込められていたのか。
「聞いた感じやと、そっちの方も語らず終いみたいやな」
「そうね、その通り。でも、聞きたくても、聞けなかった」
黒潮が意表を突かれたように目を瞬かせる。少し首を傾げてから、ああ、と合点がいったように言った。
「……飛ばされたんやな」
「ヤップの方にね。一応『臨時派遣』という形だったけど、戻ってくることはなかった。多分……わかってたんだと思う」
「まあ、規則違反は規則違反やしなあ……お目こぼしにも限度があるやろうし、しゃあないわな」
「今でも、その方の所在はわからないんですか?」
由良は首を振った。「私たちには確認のしようがありませんから……」
「ウチらにはできへんことやな、それは。こればっかしはどないしょうもあらへん。僚艦ですら一遍離れたらもう行方知らずになることなんてザラやねんから、まあ艦以外なんぞ
カラカラと黒潮は笑った。
「まあ、もうわかっとったんやろうなあ。せやからその……罪滅ぼし、って
「そうかもしれないわね」
「由良さんは、閻魔についてはどうお考えなんです?」
私は、と言って少し由良は言い淀んだ。
しまった、これは不躾な質問だったな、と男は内省した。「すいません、思慮の足りない質問でした」男は頭を下げる。
「いえ、気にしないでください……そういえば、あまり考えたことがなかったな、ってちょっと思ってたんです」
「考えたことが、ない……?」
男は眉毛を釣り上げた。そんな返事が来るとは想定外だった。質問する声にも戸惑いが混ざっている。
自分の刺青なのに、あまり考えたことがないというのはどういうことなのだろうか、男は無意識的に首を傾げていた。
「ええ。私にとってこの刺青は『由良』と『加古』と私を繋ぐ証。
「証があればいい、意味など必要ない、ということですか」
由良は苦笑いした。「ええ、まあ……究極的には、そうかもしれません」
「言ってしまえば、私が欲しかったのは、
「『由良』の名を……それは艦籍のことですか?」
「ええ、私は長良型軽巡洋艦三番艦由良第一七五号艦。それはまさしく、『由良』に間違いありません。でも、私は『由良』じゃない。『由良』じゃないのに『由良』だなんて、なんだか根無し草の亡霊みたいですよね? だから、
亡霊、と口にした時、由良は少し自嘲気味に笑った。
「『由良』さんではない、由良さんご自身の……何と言いますか、アイデンティティと言えばいいんでしょうか、そういうものとしての意味が刺青にはあった、と?」
「そうですね……ええ、その通りです。由良としての、私としての自分という存在。『由良』と『加古』と私が繋がっていることを、強く意識することで、ようやくそれを保てたようにも思います。『由良』になろうとしたというのに、随分と身勝手な……私のエゴかもしれません」
アイデンティティか、と黒潮が独り言のように呟いた。「ウチにはちょっと羨ましい話やな……」
茶化すでもなく、心の底からそう思っているように男には聞こえた。実際、そう思っているのかもしれない。
「ま、それはそれとして……ちゅうことはまあ、閻魔の意味は実際のところようわかれへん、ちゅうこっちゃな」
「そうなるわね」
「今、思い返してどない思う? この、あんたの閻魔が一体何を意味しとるんか」
うーん、と由良は唸った。顎に手を当てて、悩んでいる。「そうね、もしかしたら――」
「これって、三途の川なのかもしれない。『由良』も
確信はないようで、由良は首を傾げながら言った。
三途の川。言われてみれば、確かにそうとも言えるかもしれない。“川”の向こうは閻魔が鎮座している冥界。あちらが彼岸、こちらが此岸。由良が背負うのは、彼岸に行った者たち。由良が生きるのは、此岸。そういう意味もあるのかもしれない。
「黒潮はどう考えたの?」
「ウチは――いや……これはウチが口出すようなモンやあらへん。アンタん中で決める話や。そこにウチが入り込むことは許されへんやろ、心に仕舞っとくわ」
黒潮は言いかけた口を閉じて首を振り、そう言った。
由良は少し口を尖らせる。「ちょっとズルくないかしら……まあ、いっか」あまり気にしていないようだった。
話に間が生まれた。この質問をするなら今だろう。判断するが早いか、男は口を開いた。
「由良さん、一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
男が少し椅子から身を乗り出して、前のめりになりつつ言う。由良は「ええ、どうぞ」と返した。
「非常に気分を害されるかもしれません、もしそうであれば、これにはお答えいただく必要は一切ありません」
かなり慎重な前置きだった。
一体何を言うのか、という風に黒潮が怪訝な顔をする。由良は特に表情も変えず、それを聞いていた。
「……ずっと、いえ、最初からでしょうか。お話を聞いていて気になっていたんです。どうして、どうしてそこまでして、『加古』であることを捨ててまで、由良であろうとしたのか。そして今も、そうして由良として過ごしていく決心をなさっている……。私には――」
「ただの、自分勝手です」
あっけらかんと、由良は言った。由良は微笑んでいた。
「全部、私の自分勝手……だって、そうでしょう? 誰かの死を背負うことなんて、たった一人だって、本当はできっこないんです。私はただ、『由良』の真似事をしていただけです。あの娘は……あの娘は、本気で背負っていた。あらゆる死を、全身全霊を懸けて。……私にはできなかった。だからせめて、あの娘のだけでもって、そう思ったんです。思ったけど……できなかった。できなかったなりに、なんとかしようと思ったら、こうするしかなかったんです」
「諦めようとは、思わなかったんですか?」
「……思わなかったことはないと言えば嘘になります。実際、昔は何度か『戻らないか』って色々なところから言われてました。そう、あくまでこれは一時的な処置、いつでも、今でも、『加古』に戻ることができる。もう『加古』に戻ったって、いいのかもしれない。そんな思いが過ったこともあります。でも――」
ゆっくりと、由良は首を振った。「それじゃダメなんです。二度も、由良を殺すことは……私は絶対にやらない。絶対に」
声にも、顔にも強い意志が篭っていた。そんな由良を見るのは初めてだった。黒潮も意外そうに由良を見つめている。
殺す。どこかで同じような言葉を聞いた気がして、男は少し首を傾げた。
「殺す、とは、つまり――」
「艦籍やな。『加古』に戻ったら、『由良』の艦籍は抹消されてまう。それが、『殺す』……ちゅうこっちゃな」
今度は黒潮が男の言葉に割り込んだ。男もそう言うつもりだった。由良は肯く。
「もし私が『加古』に戻ったら、もうこの艦籍はなくなってしまう。『由良』が消えてしまう! そんなこと……私にはできない。この手で、私の意思で、二度も『由良』を殺すなんて……やりたくないし、やるつもりはない」
「……ですが、その艦籍だって、いつかはなくなってしまうものではないんですか?」
いつかはそうだ。この戦いが終われば――まさか終わらないということはないだろう――その時には、由良たちも役目を終える。
「変わりません。その
「心中する気ぃかいな」
呆れた、というよりは心配するように黒潮が言った。
「心中……ね」
フッと由良は笑った。
「そうかも、しれないわね。私……あの娘と一緒に、死にたいのかも」
「……二度と言いなや、それ。ウチは何も聞かへんかったことにするわ」
それを聞いた黒潮は苦り切った顔をしていた。
「そこまで、艦籍に拘る理由はどうしてなんです?」
艦籍でなくとも、それこそ『記憶』していれば『由良』を殺すことにはならないのではないか。外野だからそう感じるのかもしれないが、男はそんな思いを抱いていた。
「これは……言わば、私が復活させたようなものなんです。だって、そうですよね? 私が由良になると言ったから、『由良』の、あのままだと抹消されていた筈の艦籍が復活して、今も由良として残ってる。言ってしまえば、私が自分勝手に生き返らせたようなものです」
「その責任は、最後まで取り続ける。そういうことですか」
最後まで、と言ったが、果たして何が最後なのかは男にもわからなかった。どういう意味と捉えたのかはわからなかったが、由良は男の言葉に肯く。
「ええ。私はあの時『由良』を見捨てて、それなのに自分勝手に生き返らせたんです。これ以上は、私の勝手は許されないし、私自身が許せない……わかってます、これもまた、私の自分勝手な思い込みなんだ、って」
「死人に口なしや。死んでもうた奴が何を思っとるかなんて、誰もわかりようがあらへん」
「それはわかってるわ。わかってる、頭では。でも……私の心が言うのよ。『また、見捨てるのか』って」
黒潮は眉を顰める。「『記憶』だけや、アカンちゅう
「記憶だけじゃダメ……だって、もう『由良』を、あの娘を覚えているのは私しか居ない、多分。私以外にも、『由良』が居たことを、あの娘が生きていたことを証明してくれるものがないと、不安なの」
「それが艦籍であり、アンタ自身ちゅうことかいな」
「多分、そういうことになる……のかな」
「……由良さん。貴女はもう十分――」
十分すぎる程に『由良』を背負っている、そう言おうとしたが、男の言葉は遮られてしまった。
突如、けたたましいサイレンが基地を包んだ。あまりに突然だったので、男は思わず椅子から飛び上がった。その一方で、由良と黒潮は顔を見合わせていた。一瞬だけ、顔が険しくなっていた。
「これは……訓練ですか?」
サイレンに負けないように男は大声を張り上げる。由良も黒潮も首を振った。「ちゃうな。これは――」
「本物の、警報です。種別は……ご存知でしょう、非常呼集。それも基地だけでなくこの島全体の」
サイレンは非常呼集を示すものだった。にわかに基地全体が緊張に包まれたように男は感じた。事実、庁舎では先程からいくつもの足音が交錯するのが聞こえる。その中で、病室に近付く足音があった。小走り気味だ。
ガラリとドアが開かれる。ドアの向こうに居たのは医官の屋代と看護官だった。どちらも顔は明らかに強張っており、緊張しているのがわかる。
屋代は男を見て、おや、というような顔を一瞬作ったが、すぐに元の顔に戻った。
「先生、こら一体どないしたん?」
「ご覧の通り、第三種非常呼集が出ました、大規模な敵が西太平洋に出現したようです。まだ詳細は不明ですが、待機命令が出ています」
「ああ……やっぱり」
「そんなとこやと思ったわ」
由良も黒潮も無反応だった。予想していたのかもしれない。
「そんで?
「いえ……私たちもこの先待機や司令部との連絡で忙しくなるので、先にこちらの検診を済ませておこうかと。多分、手が回らなくなるので」
「なるほどなあ」
「まあ、私たちは別命あるまで待機になるわね」
「早速で悪いが、その別命だ」
そう言って病室に入ってきたのは三佐の肩章を着けた男だった。男の顔には見覚えがあった、確か司令部で艦隊の運用に携わる要員の一人だったはずだ。由良と黒潮は素早く背筋を正したが、三佐はそれを制して「いい、楽にしてくれ」と言った。男は立ち上がってお辞儀をする。
「おや、こちらにいらっしゃいましたか」
「一体これは……?」
「それはまた後程説明しますので……」
それだけ言うと、三佐は由良と黒潮に向き直った。
「由良、担ぎ込まれて早々で済まないが、レーダーに行ってもらえるか。黒潮もだ。恐らく今回はかなり厳しい戦いになる。動ける連中は全員投入することになる」
「戦い……すると敵が来るのはこっちですか。状況はどうなんです?」
「ヤップ、パラオの各基地にに増援と哨戒の交代を要請したが……正直に言って間に合わんだろう。どうやら向こうの方にまでもかなりの敵が向かっているという話だ。とりあえず今は隼鷹や祥鳳の艦載機を上げれるだけ上げている。幸い制空権はこちらにあるが、ここのところ護衛任務が立て続けに入っていたからな……知っての通り、基地の戦力は最低ラインだ」
「そんでウチらを電探番に、ちゅうことですか」
「本当は修復を優先させたいが……当座の艦を確保するのが先決でな。今レーダーに詰めている艦と一時交代だ、後で人を寄越す。屋代一尉、修復の方は問題ないですか?」
「現状なら日に四度の注射で代替できますが……」
「ではそちらの方でお願いします」
全体的にかなり早口でそう言うと、今度は男の方に顔を向けた。
「という訳です。この後、戦闘地域宣言と同時に避難命令が出ます。手続がありますので、司令のところへ出頭をお願いします」
「私も避難する必要が?」
「はい、民間人は例外なく避難していただきます」
三佐はあくまで冷静だった。事務的ながら、有無を言わさぬ言葉だった。
「……わかりました」
「ご理解いただけたのなら幸いです、ではこれで失礼します」
足早に三佐は去っていった。屋代が肩を竦めている。
「どうやら状況は更に悪くなっているようですね……とりあえず、一旦点滴は中止します。その後どうするかはまた決めましょう。こうなると俄然私達も忙しくなるでしょうし」
屋代たちもまた、慌ただしく去っていった。後には元通り、男と由良と黒潮だけが残った。
はあ、と黒潮が溜息を吐く。
「最近なーんか変やなあと思ったらコレかいな……ホンマにまあ、難儀やなぁ……」
「変、ですか」
「空気の流れちゅうかなんちゅうか……勘やな、勘。そういうのがあるんや。由良も思っとったんちゃうの?」
「嫌な予感はあったわ。実際、この通りだもの」
由良は吹き飛んでしまい今は存在しない右腕を掴むように左手を動かした。
「戦闘かぁ……久々やな」
「今回はもっと大規模になるでしょうね」
「……せやろなぁ。由良の
黒潮は窓の外を眺めた。既にサイレンは止んでいるが、基地には慌ただしい雰囲気が漂っている。小走りで移動する艦娘や基地要員の集団や気持ち速めに基地内を走行する車輌がいくつか見られた。それぞれの任務に向かうのだろう。
「さ、
「え、ええ……」
「何や、そんな後ろ髪引かれるような顔して。今生の別れでもあれへんねやから、また落ち着いたら戻ってきてくれたらええやんか、許可やかて下りるやろ。そん時はついでに……せやな、何やったっけ、めっちゃ高いピースあるやろ、あれ持ってきてもらおかな」
ニヤリ、と黒潮は笑う。『
「通貨にでもする気?」
「一本千円や」
「とんだボッタクリね」
呆れた声で由良が言った。
「需要があるんやったらその分価格も上がる、これが経済ちゅうもんや……。さ、ぐずぐずしとらんと行きや。ウチらももうちょいしたら迎えが来るやろうし。ま、しゃあないけどこれで終いや」
「はい、もう少しお話を伺いたかったのですが……残念です」
男はようやく立ち上がって椅子を片付けると、深々と礼をした。「どうも、ありがとうございました」
お気を付けて、お元気で、と由良が微笑んだ。それに続いて、ほな達者でな、と黒潮も言う。
そのまま部屋を出る男の背中に、由良の鼻歌が流れた。『戦友』ではない、男の知らない歌だった。もしかすると今のが『由良』の歌なのかもしれない。明るい曲に聞こえたが、どこかうら寂しさも感じたような気がした。
一応、何とかこの島に残れないか掛け合ってみよう。彼女たちへの『取材』はまだまだ不十分なのだから。
もし無理ならば――その時はその時で、自分のやれることをやるしかない。庁舎の階段を登りつつ、男は反芻した。彼女たちを記憶するのだ、この海で戦う彼女たちの姿を。
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いよいよこれが最後です
白木の箱が届いたならば たいした手柄じゃないけれど 泣かずに誉めて下さいね
――『海鷲だより』(製作年、作詞作曲者不詳)から一部抜粋