艦娘哀歌   作:絶命火力

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COG.5 -「『戦友』」

 単調なヘリの風切り音が妙に耳に心地良い響きを与えてくる。本来なら耳を塞ぐべきほどの爆音だが、どこか遠くにあるように感じられた。

 身体がずしりと重い。艤装も何もないにもかかわらず、ひらすらに重たい。油断すれば意識を刈り取られそうだ。既にヘリのキャビンには青葉と駆逐艦娘たちが折り重なるようにして倒れ込んでいて、キャビンを包む轟音をものともせず眠りこけている。

 いっそ自分も同じように眠りに落ちてしまえばよいのだろうが、加古は睡魔を拒絶し、じっと目を見開き続けている。それは一番艦としての責務を未だ感じているからなのか、それとも自らが感じている後ろめたさによるものなのかはわからなかった。

 加古はただ、ヘリの窓の外から暗い海を見ていた。少しずつ、空と海は色を取り戻しつつあった。

 

 結局、由良は戻ってこなかった。

 いや、戻ってこないのは既にもうわかっていたことだった。由良が艦隊から離れて暫く後、遥か遠くから次々と砲声が(こだま)し、そしていつしか加古たちには届かなくなっていた。現に、ヘリの派遣を知らせる司令部(HQ)との通信時にも、由良は轟沈したと予想される、と自らの口から伝えていた。

 加古は、最早まともに動かない頭でひたすら同じ問いを繰り返していた。

 本当に、これでよかったのか。お前は由良を見捨てたんじゃないのか。由良はまだ、敵の跋扈するこの海を彷徨っているんじゃないのか。助けに行くべきじゃないのか。このまま基地へと戻っていいのか。

 

 由良が嘘を言ったことはすぐにわかっていた。

 由良の偵察機の通信を傍受して、由良が何をしようとしているかは把握していた。だが、加古は動かなかった。

 理由は幾らでも作ることができる。任せられた一番艦を放棄することはできなかった、一番艦の経験がない青葉に一番艦を任せることはほぼ無理だった。主機が限界を迎えていて、とてもじゃないが由良に追いつくことはできなかったし、燃料の残量も最早戦闘行動による燃費悪化を無視できる量ではなかった。主砲はヒビが入っていて、下手すれば腔発の危険があったし、残弾はほぼカラで、とても戦闘を継続できるような状態ではなかった。

 だが、どんな理由をもってしても、結局は加古が自らの意思で判断し、決めたことだった。

 加古は由良が何をやろうとしているのかを知った上で、それを止めなかった。無線で呼び掛ければ、もしかしたら止めることができなのかもしれない。別の案を出せたのかもしれない。しかし、やらなかった。

 自分は、由良を死地に捨て置いた。自分が、由良を殺したのだ。加古の思考は、その結論を繰り返し続けていた。

 

 いつの間にか、東の空が明るくなってきていた。既に空は黒から群青、群青から空色になり、そして曙色に染まっている。暫くすると朝日が水平線の向こうから顔を出し、加古の目を焼いた。目が眩み、顔にじりじりとした熱を感じる。夜が明けた、朝が来た。

 加古の目から、一滴の雫が落ちた。加古は無意識に口を開いていた。歌声は、轟音の中で掻き消されていった。

 

 

――――――――

 

 

「赤い夕陽に、照らされて――」

 

 まるで鼻歌でも歌うかのように、由良が歌い始めたのは『戦友』だった。以前黒潮が歌った歌詞のものでなく、元の、かつての時代の歌詞だった。

 何の脈絡もなく歌い始めたので、男も黒潮も少し面食らったが、口を挟むことはなかった。ただ、静かに由良の歌声を聴いていた。由良は目を瞑り、淡々と、静かに歌っていた。透き通った声だった。

 二番まで歌い終えたところで、由良は少し気恥ずかしそうな、はにかんだような笑みを見せた。「すいません、突然歌っちゃったりなんかして」

 

「久々に元の聴いたわ。そういやあそんな歌やったなあ……」

 

 黒潮が感慨深げにそう言った。基地で歌われている『戦友』はかなり歌詞の内容が変わっている。確かに、黒潮がそう思うのも当然だった。

 

「そう、元の『戦友』。……私がこれを『思い出した』のは救助されて基地に戻る途上でした。ヘリの窓の外、遠い遠い東の水平線から朝日が登って来るのが見えたんです。真っ赤な、真っ赤な朝日。二度とその姿を見ることはないと、一度は覚悟した太陽。それを見た時、自然と口から『戦友』が溢れてきて……止まらなかった」

「思い出した……つまり、由良さんの歌のように、ですか?」

「その時やっとわかったんです。『思い出す』ってことが。ああ、由良もこんな感じだったんだ、ってその時思いました。不思議な感覚でした。知りもしない歌が、自然と口をついて出てくる。まるで私の口を借りて、誰かが歌ってみたいな、そんな感じでした」

「何か一緒に、フラッシュバックのようなものもあったんですか?」

「特に、そんなのはありませんでした。ただ、涙が止まらなかった。ヘリに回収された時に、もう由良は戻ってこないんだってわかっていて、でも私だけじゃどうしようもなくて、諦めていたはずなのに。あの朝日を、太陽を二度と由良が見ることはないんだ、私のせいなんだ、って思った途端、『戦友』と涙が溢れてきて……」

 

 由良は首を左右に振った。どこかこみ上げてくる感情を振り払うかのように、男には見えた。

 幾分俯きがちだった顔を上げる。気を取り直すように少しだけ口角を上げ、笑みを男に向けた。

 

「その日から、私はたまに『戦友』を歌うようになったんです。何かぼうっとしている時とか、何でもない時とかに、自然に口をついて出てくるようになりました」

「無意識に?」

「ええ」由良は肯く。「他にいくらでも歌を知っていたのに、出てくるのは『戦友』ばかりでした。どうしてかは……私にもわかりません、私も知りたいぐらいです」

一番(いっちゃん)最新の、最後に聴いた歌やからとちゃう?」

「そうかもしれないわね。あれからずっと……歌を聴くような余裕はなかったもの」

「あれから、というと……その、救出されてから、ですか?」

「そうです。あの日、ヘリで基地に戻ってからは大変でした。何しろ基地全体で壊滅判定半歩手前の状態でしたから。私のような損傷を負った艦が沢山居ました。規定量を超えた修復剤(コレ)の投与で何とか、無理矢理戦力を維持しているような状態で……」

 

 そう言って由良は点滴チューブを軽く引っ張った。「ギリギリだったんです」

 ホンマに限界やな、とぼそりと黒潮が言った。「修復剤(コレ)の過剰投与なんて、ヤブな技官が下手こいたら(おか)で死ぬ羽目になるで」少々呆れた様子だった。

 

「それに手を出すくらいには危なかったの。敵の攻勢を挫いたとはいえ、いつ何時敵が再び現れるかわかったものじゃなかった……ずっと、緊張状態を強いられていたわ。それに、ヤップに戦力が抜かれてて増援は乏しかったから、動ける艦は無理してでも動かさなきゃならなかった。動ければ、ね」

「……動かれへんかったんやな」

「そう、動けなかった。私は回収時に艤装を投棄(パージ)して――基地にそのまま持って帰っても再度使えたかは怪しいけども――たから。それでもいつもなら予備の艤装があるはずだったのに、基地の艤装保管区域に敵の砲撃が降ってきて、運悪く古鷹型の艤装の予備が全部全損、ニコイチもサンコイチも、そもそも部品の回収すらできないくらいにバラバラのスクラップになっちゃった。黒潮も知っての通り、いつもはそういう時の為に分散保管されてるのだけど、その時は月一の動作試験の準備の為にまとめて集められていたせいで――本当はそれも別個にやらないといけなかったの、規則違反よ――見事に全滅。元々、古鷹型の予備艤装は定期的な補充が誤配のせいで遅れていて、次に基地に来る補給船でその分もカバーする予定だったからストックが少なくて、そもそも補給船自体来れるかわからなくなっちゃって……動こうにも、動きたくても、動けなかった」

 

 話すごとに熱が入り、早口に捲し立てるような勢いで由良は言った。言葉の奔流に気圧されるように、黒潮は眉根を下げて口をへの字に曲げ、困ったような顔をした。

 

「そら何ちゅうか……まあ、難儀な話やなあ。ホンマに、ほとほと運のあれへん……」

「びっくりするくらいね」

 

 肩を竦め、由良は苦笑した。

 

「だから、そこで艦種変更を?」

「その通りです」

 

 由良は肯く。

 

「持ち掛けられたんです、やらないか、って」

 

 

――――――――

 

 

「艦種……転換?」

 

 思わず、加古は目の前の女を凝視した。目の前の女――かつて由良に刺青を施した泉とかいう工廠の隊員――はそんな加古の猜疑の視線も意に介していない様子だった。何故か基地艦隊副司令が隣に立っている。気乗りのしなさを包み隠すことなく顔に出していて、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。ただの一隊員と基地の中でも重要なポストにいる士官の組み合わせ自体異常だったが、話の内容も異常だった。

 

「聞いたことくらいあるでしょ? 言った通りよ。艦種転換、できるとして、やる気ある?」

 

 聞いたことはあった。以前は戦力の増強目的に古い型の艦を別の艦に転換させたことがあったというのは知っていた。神風型や峯風型の駆逐艦を特型駆逐艦や球磨型軽巡洋艦、更には古鷹型重巡洋艦に転換させたという話を――古鷹型は眉唾と思っていたが――耳にしたこともあった。しかし、最近ではそんな話はあまり聞いたことがなかった。

 本気だろうか、と加古は訝しんだ。彼女の言っていることが本当として、なぜ彼女が――刺青を施すということ以外については単なる一介の士長に過ぎないはずのヒラ隊員が――こんな話を加古にぶつけてきたのかが不思議だった。

 

「知ってますよ。そりゃあ……アタシだって、こんな状態のままなのは不本意です。何もできないのはじれったいに決まってる。できることなら何でもやります」

 

 大袈裟に両腕を広げて、「こんな状態なんだから」と言った。さすがに艦隊副司令の前なので丁寧語を使った。

 加古が居るのは医務室のベッドの上、ベッドが十床ある病室に、加古だけが居た。偶然他の艦の修復が連続して完了し、加古だけが取り残されていた。その加古はといえば、修復剤の点滴の代わりに、身体のそこらかしこに包帯が巻かれている。実質“戦力外”となってしまった加古には、まだ修復剤は回ってきていなかった。

 

「いいじゃん、気に入ったよ」

「それで……どうしてこんな話を? できるんです?」

「できるわ、そんなに難しいことじゃない」

 

 奇妙に思えるほど自信が溢れている態度だった。加古は艦隊副司令の方に顔を向けた。

 

「……こいつは本土とパラオの方でいくつかの艦種転換に関わったことがある技術者だ。問題はないと判断した。いかんせん、ウチには戦力が足りなさ過ぎる。戦闘経験のある連中が必要だ。以前の検査で、君は『加古』以外の適合があることが判明している」

 

 言葉とは裏腹に、できればやりたくない、という感情がまだ顔には残っていた。『加古』以外にも適合があるというのは初耳だった。

 

「本当なんですか?」

「本当だ。ただ、その適合は『由良』だったから知らされなかっただけだ。通常なら艦種転換は型が新しい方か、保有火力の大きい方になされるからな。逆の話は聞いたことないだろう?」

 

 『由良』への適合という言葉を聞いて、加古は少し呆然としていた。由良の姿が脳裏に甦る。訓練所で出会った時のこと、基地で再会した時のこと、僚艦を弔った時のこと、そして最後の時のこと……様々な由良の姿が去来し、終わりに夜の闇へ消えていった。

 加古の反応は織り込み済みだったのか、艦隊副司令は咎めることもなかった。

 

「つまり……『由良』に、転換するんですか?」

「あくまで任意だ、軽巡と重巡では勝手が違うことは重々承知している。だが、艦隊を嚮導する艦が全く足りていないのも事実だ」

「で、やるの?」

 

 じれったそうに、泉は聞いた。ゆっくりと、加古は肯く。

 

「やります。『由良』に、なります」

 

 迷いはなかった。そうこなくっちゃ、と泉は笑顔を見せたが、対する艦隊副司令は口を真一文字にして、仏頂面のままだった。

 

 

――――――――

 

 

 後期長良型の艤装を装着し、工廠の水面へとスロープ伝いに足を踏み入れる。浮いた。少し安心する。

 再度艤装のチェックを行う。主機、両腕の一四センチ単装砲、艤装側の二門の一四センチ単装砲、魚雷発射管――これは唯一残っていた古鷹型の艤装の()()()()残骸からサルベージしてきた、肩口の機銃、水中聴音機ユニット、爆雷投射機ユニット、カタパルトユニット……どれもきちんと動く、『妖精』の応答も問題ない。

 オールグリーンだった。このまま出撃したって大丈夫だろう、と思った。

 由良は――もう、『加古』ではない――振り返って、様子を見ていた泉や艦隊副司令、他の隊員を眺めた。安堵の表情が見える。

 

「成功ね」

 

 腕組みしてじっと眺めていた泉が、満足げに言った。隣に立つ艦隊副司令はやはり仏頂面だったが、泉の言葉に肯いた。

 午前は艤装のチェックだけで、主砲などの発射試験はまだだ。由良はスロープを登り、泉たちの元へ戻った。

 

「後は午後の訓練だが……まあ問題はないだろう。早速だが、明日から動いてもらう。基地付近の海域に敵の進出が確認された。まだ防衛ラインの外側だが、追い出しにかかってもらう。一番艦が損傷して動けずに余っている艦隊がある、そこに入れ。詳細は午後の訓練終了次第伝える。私のところへ出頭するように。そこで正式な書類も交付する」

 

 言うだけ言って、艦隊副司令は去って行った。

 

「しかしまあ……似てるわね」

 

 感慨深げに泉は言った。同意するように数人の隊員が肯く。

 

「似てるって……?」

「あの由良に、ね。そりゃ髪色も違えば顔の作りも違うし、体格だって何だって違う。でも、不思議と艤装を着けた姿は……どこか似てるわ。どうしてかしらね」

 

 不思議、と泉は呟いた。

 由良は首を傾げる他なかった。艦種転換は艤装の接続部の改装であって、その前後で容姿が変わるなんてことはない。未だに艤装を着けた自分自身の姿は確認していなかったので、泉の言っていることはあまりよくわからなかった。

 

「ま、それはそれ。とりあえず艤装を外しましょうか。もう昼よ。さっさと昼を済まして、次に行くわよ」

 

 そう言った途端、課業一旦休憩のラッパ音が工廠のスピーカーから聞こえてきた。正午になっていた。

 

 

 午後の発射試験は意外に早く終わった。

 元々二〇.三センチ連装砲を扱っていたのだけあって、砲撃訓練は一四センチ単装砲の反動と弾道さえ掴めれば難しいことではなかった。魚雷発射管も古鷹型のものを流用していたので問題なかった。主機や機銃も機構自体は大きな違いはない。ただ、水中聴音機ユニットと爆雷投射機ユニットは訓練所で形式的に扱い方を習っただけだったので、かなり苦労したが、当面は潜水艦狩りや船舶護衛任務から外されるとは聞いていたので問題ないという評価に――勿論訓練の続行は必要だったが――なった。

 

「さて」

 

 形式的な敬礼を終えて、艦隊副司令は書類を由良に見せた。「これが君の艦籍になる、それと……これだ」

 抽斗から艦隊副司令が出したのは艦札だった。チャリン、と金属の触れ合う軽い音が響く。

 

「これは……えっ……」

 

 手渡された書類をまじまじと見つめる。書類は二枚あり、一枚目を見た由良は驚きで固まっていた。

 一枚目の書類には『長良型軽巡洋艦三番艦由良第一七五号艦』という字が記されている。その下には由良の――『加古』ではなく、『由良』の――認識番号などの諸々の情報、経歴が記されているが、そこには取り消し線が引かれ、最後に『沈没につき除籍』という字が記入され、艦隊司令の印鑑が押されていた。ところが更に『艦種転換により艦籍再交付』という字が――筆跡が異なる――記入され、同じく艦隊司令の印鑑が押されている。

 書類を捲り、二枚目を見る。そこには『加古』の艦籍が記されていて、こちらも最後に『由良第一七五号艦へ艦種転換』と記され、印鑑が押されている。

 

「……『由良』の艦籍……ですよね? これ」

 

 書類から顔を上げた由良は、半ば問い詰めるように艦隊副司令に言った。

 由良の反応は予想していたのか、あまり艦隊副司令の表情は変わっていない。ただ、少しだけ気まずそうな顔をしているように見えた。

 

「君には申し訳ないと思っているが……艦種転換も含めて臨時の処置だ。艦種転換は最近行われていなくてな、ここ数日の混乱もあってこちらでの事務処理が間に合わなかった。さすがに“名無し”では出撃させることはできん。艦名だけだが、新規に艦籍を振り出すまでは、すまないがこれで過ごしてほしい」

 

 ぐい、と艦隊副司令は艦札を突き出した。書類と交換する形で由良はそれを受け取る。

 やはり艦札にも『LIGHT CRUISER(軽巡洋艦) CL-43 YURA 0175』と打刻されている。当然ながら、認識番号などは『加古』と同じままだった。

 

「それで、明日の任務だが――」

 

 艦隊副司令はそのまま説明を続ける。由良は半分ほど上の空でそれを聞いていた。

 

 

――――――――

 

 

 黒潮は呆れ果てたとばかりに大きく口を開けている。“開いた口が塞がらない”という風だった。

 少し顔が引き攣っているようにも見える。右の眉が上がったり下がったりしていた。

 

「艦籍の流用やなんて、ウチそんなん聞いたことあらへんで……昔はようあったことなん?」

「いくらなんでもそうそうないわ、調べたけど、片手で数えれるくらいしかなかった」

「そら、せやろなあ。沈んだ艦の籍を流用するやなんて、正気の沙汰やあらへん……」

 

 そこまで言って、黒潮は何かに気付いたように、首を傾げた。「ん、ちょい待ち」

 

「由良。もしかしてや、もしかしてやけど……」

「何? そんなに勿体ぶって」

 

 由良は不思議そうに首を傾げる。黒潮は険しい顔をしている。男はようやく黒潮が何に気付いたのかがわかった。

 

「もしかして……今もその艦籍のままなん?」

「ご明察……当たりよ」

 

 由良は首に掛けていた艦札を胸元から取り出した。そのまま黒潮に投げ渡す。受け取った黒潮は絶句していた。

 男は黒潮の元へ行き、艦札を眺めた。確かに、そこには『LIGHT CRUISER(軽巡洋艦) CL-43 YURA 0175』と打刻されていた。男は黒潮から艦札を受け取ると、由良へと返した。

 

「……どうして、そのままの艦籍を? 臨時の処置ではなかったんですか?」

「私がこのままでいい、と言ったからです。このままにしてほしい、と」

「そこまでして、『由良』を殺したなかったんか……?」

 

 黒潮は呆れるでもなく、心の底からで由良のことを心配しているような声だった。

 男は由良の発言を思い返し、ある言葉に思い当たった。

 

「『由良』に、なろうとした。そういうことですか」

 

 確かに、由良は言っていた。「『由良』にならないといけない」と。男の言葉に、由良は肯く。

 

「そうです、なろうとしていました。『由良』を殺してしまった私があの娘のためにできることは、私が『由良』になることしかない、そう思ってましたから」

「そんなん……できる訳、あれへんやろ。だいたいそれが『由良』のためになるか()うたかて……」

「あの時はそう思ってたの。でも、なれなかった。どれだけ私が『由良』と似ていても、『由良』のようになろうとしても、私は私だった。『由良』じゃなかった、『由良』にはなれなかった」

 

 当然よね、と由良は肩を竦めた。

 

「でも、私はそれでも『由良』になりたかった。もう、『加古』に戻る気はなかった。だから――」

 

 ゆっくりと、由良は左手を右肩越しに背中へと当てた。ちょうど龍の頭のある部分に指先が触れる。

 

「だから、この刺青を入れることにしたんです。私と『由良』の、この刺青を」

 

 

――――――――

 

 

 きっかけは些細なことでした。いや――もう、それまでにわかってたのかもしれません。ただ、それが最後の一押しになった。

 やめろ、って言われたんです。艤装の整備担当だった方――そうです、『由良』に刺青を入れた士長さん――に、ただ「やめなさい」って。いつだったか忘れちゃいましたけど、何でもないただの出撃後、艤装を解除していたときに、そう言われたんです。

 

 自分でも、わかってました。自分は『由良』にはなれないんだ、って。同じ艤装を使おうと、多少姿が似ていようと、私と『由良』には決定的な、絶対に覆せない違いがありました。私には、あの娘のように誰も彼もの死を心の底から悼むことは、背負うことは……できなかった。どうしても、できなかった。

 心だけは、どう頑張っても『由良』には近付けなかった。私には、『由良』だけで手一杯でした。

 だから、やめろ、って言われたとき、ようやく自分でも踏ん切りがついたんです。『由良』ではない――あの娘ではない――、由良として――私として――、生きていこう、って。

 

 この刺青は、その証なんです。『由良』と『加古』、そして私。その全部を繋いでいるのが、この刺青なんです。

 

 

――――――――

 

 

 泉が手元の画帳に絵を描いている。ガリガリという形容が似合うような姿だ。どんな絵かはよく見えない。由良はただ、机に――おそらくは医官が使う筈だったろう無骨な鉄製の机――向かってかじりつくようになっている泉の後ろ姿を見ていた。

 由良が工廠の元医務室に来てから既に十数分、由良も泉も無言のまま時が経過していた。

 

「私の地元ってさ、広島なんだけど」

 

 唐突に、泉が口を開いた。絵に集中しきっているのか、由良の方を見ることなく、独り言のように泉は言う。

 

「広島でも広島市じゃなくて、三次(みよし)ってとこでね。ま、田舎。あ、数字の『三』に『(つぎ)』って書いて『みよし』って読むの」

 

 由良は泉の話の意味が掴めずに、どう反応すればよいのか困惑していた。そもそも返事を期待していなのか、泉は言葉を続ける。

 

「それで、地元の小学校の近くに可愛川(えのかわ)ってのが流れててね、最終的に日本海まで行くんだけど。ま、それはそうとして、『社会』の授業だったかな、そこで『地元の川を調べてみよう!』ってのがあったの。課外学習みたいな感じね。それで、そこで色々調べた訳。川自体に行くのは危ないからって、暇な老人に話を聞きに行くんだけど。そこで面白い話を聞いたの」

 

 泣き別れってのがあってね、と泉は言った。「三次も結構上流なんだけど、その上流に向原(むこうはら)ってとこがあって、そこに『雨水の泣き別れ』ってのがあるって聞いたの」

 泉は一旦手を止めて、眼鏡を外し、鼻筋を何度か揉んだ。

 

「泣き別れってのは、えーっとね、向原には別の川が流れてて、そっちは太田川、県内を通って瀬戸内海に流れてる川に繋がってるんだけど……二つの川は同じ場所から出てるの。それも何にもないただの田んぼからね。つまり、同じ田んぼに雨が降って、片方は日本海に、もう片方は瀬戸内海に向かう。二度と同じ水とはならない。だから、泣き別れ」

 

 不思議よね、と泉は笑った。由良は曖昧に肯いたが、おそらくは泉には見えていない。

 

「私、これでも昔は文学少女でね。何かこう、ロマンがあるなあって思って、ちょっと調べてみたの。泣き別れってのはつまり分水嶺、まあ、山の尾根みたいな感じね。でもたまに、平地のほんの小さな傾斜が分水嶺になったりするの。泣き別れはそれ。で、ここからが本題」

 

 今までは全部導入だったのか、と由良は肩透かしを食らった気分になった。そもそも一体何のために、こんな長話をしているのだろうか、と訝しんだ。

 

「もう一つ、有名な泣き別れがあるの。兵庫県の丹波にあるんだけど……それはね、片方は北へ由良川、もう片方は南へ加古川に流れていくの。同じ場所から、二つの川へ。二度と逢うことは、ない」

 

 カランカラン、と鉛筆が机を転がった。どうやら、絵を描き終えたようだった。

 泉は絵から由良へと顔を向けた。「あんたたちのことを聞いた時、真っ先にそれが浮かんだ」

 画帳を持ち上げ、ガタン、と由良に向けて見せるように立てる。本当にどこからか削り出したような、荒削りの生々しい絵がそこにあった。

 

「これって……龍と、これは……閻魔大王、ですよね。龍はつまり……つまり、『由良』と『加古』、ですか? 閻魔大王は一体……?」

「龍はせーかい、その通り。閻魔はまあ……あんたの解釈に任せるよ、悪い意味じゃない。……あんたの為に、私も全力を出す。超力作だよ、今までで一番のブツになる。一日そこらじゃ入れれない、こいつはね」

 

 眼鏡を外すと、ニヤリ、と泉は笑ったが、すぐにその笑顔には陰が差した。「……あんたにはさ、申し訳ないことをしたと思ってるの。私が、引き金を引いたようなもんだからね」

 由良は首を傾げる。一体どうして、泉はそんな顔をしているのだろうか。考えてみたが、これといって思い当たるようなことはなかった。

 

「もしかして、由良の……刺青のことを言ってるんですか?」

「そう。今になって思うの。あれは、入れるべきじゃなかったって。でも私は……入れた。私も今まであんなの入れたことなかったから、興味があった、好奇心があった、モグリの彫師とはいえ……私なりに意地があった」

「でも、結局は由良は自分で選んだんです。自分の意思で、自分でずっと考えて、決意した。多分、そこに後悔はなかった……多分――いえ、絶対に、間違いなく」

「それはそうかもしれない……でも、それだけじゃないの」

 

 泉は頭を振る。「あんたのことも、私に責任がある。とても、大きな責任がね」

 

「私が艦種転換なんて大昔のアクロバットをウエにぶち上げていなけりゃ、あんたがこんなことになることはなかった。あんたが『由良』になるろうとすることは――いや、なることなんて、なかった。あんたはもう――」

 

 由良から目を逸らし、少し俯く。「――まあいいや。とにかく、あんたがどう思ってようが、これは私なりのケジメなの。自分のやったことの始末は、自分でつけなきゃいけない」

 泉は自分に言い聞かせるように言っていた。顔を上げ、由良を見つめる。

 

「由良として生きることを決意したあんたに、私ができるただ一つの贖罪がこれ。だから、私は全力を尽くすよ。この龍と閻魔、あんたの背中に預ける。受け取って欲しい」

 

 そう言って、泉は頭を下げた。由良は突然の泉の行動に目を丸くして驚いていたが、すぐに笑顔を見せた。

 

「勿論です。だからこそ、私はお願いしたんですから。……こちらこそ、どうか、よろしくお願いします」

 

 由良も深々と頭を下げた。顔を上げた時、由良を見つめる泉の顔は、少し悲しそうに見えた。なぜそう見えたかは、わからなかった。


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