「お墓、ですか」
そう呟きながら、男はその様子を思い浮かべた。ついさっき見た由良の背中、そこに数多の名前が刻まれているその光景を。数多の名前が所狭しと背中に並ぶ。墓場、確かにその通りだった。
ある種の禍々しさすら感じられるのではないだろうか、男はそう思った。
「無茶や、そんなん。そんなん……やったかて、どないしょうもあらへん」
由良の話を聞く中で、黒潮は驚き呆れたような表情になっていたが、一転、首を左右に振って言った。「いくらなんぼ“優しい”
黒潮は口をへの字に曲げていた。不機嫌なようにも見えたが、理解できないものへの不安を感じているのかもしれない。
何でや、と黒潮は言った。「何でそこまでするんや」
「そいつら沈んだんも、別に
再び黒潮は首を振った。黒潮の言葉に男も同意を示すように頷いた。
確かに黒潮の言う通りだった。話を聞く限り、由良はあらるゆる味方の死を全て背負い込もうとしているように思えた。
それはあまりにも危険な行為なように、男には思われた。
「まあ、ウチとはだいぶ
自問自答するように、黒潮は一段と声を下げて呟くように言った。以前、黒潮や響が言っていた『心』の話が男の頭を過った。
「黒潮の言うことは何も間違ってないわ。その通り。無茶だった、本当に、とんでもない無茶だった。でも、誰も止められなかった。それをすることが、由良の意思だったから」
由良は黒潮の言葉に肯いた。「私が思うに――」
「由良は、あの娘は人間で、『人』でありたかった、だからあんな無茶をやってでも、『人』であろうとした。そう思うんです」
「人間であろうとした」
「人間?」
男と黒潮はほぼ同時に言った。黒潮は眉間に皺を寄せていた。
「ウチらと
「それは確かにそう。でもね黒潮、結局は私も同じ『
「……“名前”の話かいな」
「わかってもらえたかしら?」
「まだ納得はしてへんけど……まあわからへんこともないわ。アンタの、由良の
少し自嘲気味に口角を釣り上げながら、黒潮の眉は元に戻った。
「そうね、『人』でなし。私たちは『人』じゃない」
「ですが、由良さんは『人』であろうとした……それは、どういうことです?」
「そのままの意味ですよ、『人』でなしの『
「それはその、『
「持てません」
由良は断言した。きっぱり、という語がつくような言い様だった。
「それはどうしてです? かなり確信をお持ちのようですけども」
「そら当たり前や」
黒潮が口を挟んだ。「ウチにでもわかる簡単な話や。ウチらは『人』でなしやねんから、『人』と同じ心は持たれへん。もし持てたとして、そん時は『
黒潮は由良の方を向いて「せやろ?」と問い掛けた。少し首を右に傾げていた。ウィンクこそしていなかったが、どこか年頃の少女らしい雰囲気を――見た目は確かにその通りであるが――男は感じた。
『人』でなし、と言った時に黒潮の口が嘲るように釣り上がったのを男は見ていた。饒舌なのは黒潮が『建造』であることも多分に含まれているように思えた。
「ええ」黒潮の目配せを受けた由良は肯いた。「黒潮が言った通りですよ」
「『人』であることを捨て、『
「由良さんは、心を捨てきれなかった?」
「多分、一度は、捨てることができたんだと思います。確かに仲間が沈んで、それを悲しんで歌ってはいました。でも、別に私たちだって『
「では、『人』としての心が……何というかその、復活したと言えばいいんでしょうか、そうなった、と?」
由良は顔を曇らせ、言葉に迷うように途切れ途切れに言葉を紡いだ。そんな由良の様子は、言うべきか否かの逡巡というよりは、どう表現すればいいのか由良にもわかっていないように、もっと言えば由良自身が整理をつけることができていないように、男には感じられた。
「復活……復活とは、少し違うような気がします。何というか、元々捨てたように見えて、『人』としての心はいつも由良の中に残っていたんじゃないかな、と思います。さっき言ってたのと真逆ですけども、多分、そうなんじゃないかな……。それが、あの時自分だけが生き残ったことで……あの娘は『人』としての心を思い出したんだと思います。そう、あの娘が思い出した歌のように。……全部私の想像ですけども」
「思い出した。なら、思い出してから、由良さんはどうなったんです、その……」
男は言い淀んだ。最初に由良が語ったように、既に由良はこの世には居ない。『人』としての心を持ったことが、その死に繋がったのではないか。考えはしたが、口には出せなかった。
由良はそんな男の躊躇を察して、男を安心させるように微笑んだ。「言わなくてもわかりますよ」
「そう、由良は『
由良の顔にはもう笑みはなかった。
「沈んでしまう。もう、『
――――――――
水平線に太陽の下弦が近付きつつある。海は遠く西へ沈み行く太陽が出す、断末魔のような真っ赤な光に照らされていた。
そして血の色のような赤い海は、文字通り血に染まっていた。片方は赤い血を有し、もう片方は青い血を――それが血であるかは措くとして――有する者たちの戦いは、海の色が示すように赤い血を流す艦娘の方が劣勢を強いられていた。
「八時方向、敵艦隊! 距離三五〇〇! 数は一二、か……ル級がいる! 数は四、後はホ級とイ級だ!」
ようやく敵機が空から消えたと思えば、太陽とは真反対、月が昇りつつあつ方角から敵が見えた。針の穴のような小ささだったが、ル級戦艦を特徴づける一六インチ砲のシルエットは見間違えようがなかった。
加古は疲弊する心と口から吐き出したくてたまらない罵りを押し殺して、努めて声を張り上げた。無線機は誰も彼も既に物を言わなくなってしまった。艦隊内の通信だけでなく、
「どうします?」
加古以外では艦隊で唯一の重巡洋艦である青葉が顔を青くしながら加古に尋ねた。青くなりながらも加古に意見を求める程度には責任感が残っていることに、加古は多少感心した。加古は集まりつつある艦を見回す。数は多くない。自分と青葉を除けば、後は駆逐艦しか残っていない。
全艦、手を伸ばせば届くような距離に居た。通常なら何かの拍子に衝突し、損傷を負う危険性がある距離だったが、無線が失われた今では仕方がなかった。誰もが不安げな表情で加古をじっと見つめていた。
どう好意的に見ても戦意は芳しく無い。これが実質的な実戦デビューという艦も少なくなかったため、仕方のないことだった。この中では加古が一番の先任であり、そして一番場数を踏んでいる“古参”だった。加古は一層気を引き締めた。自分が斃れた先、艦隊は間違いなく壊滅する。それだけは明らかだった。
「今のアタシらじゃ太刀打ちできない。引き付けるだけ引き付けて、夜になったら撤退するしかないね! このままの針路で同航してくるならそのままだけど――」
言いながら、つい今しがた視認した敵を確認する。ル級の左右の砲は二基とも正面を向いたままだ、明らかにこちらに向かって来ていた。加古は他の艦に見られないように盛大に顔を歪めた。「ま、そうだよね」あくまで予想の範疇だと言わんばかりに、余裕を持ったような言い方をした。
「こっちが速力出せないと見てるなありゃ……全艦、三〇ノットは出せるよね?」
おずおず、という風に全員が首を縦に振った。本当かどうかわからないが、信頼するしか途はなかった。
「じゃあ、これより二八ノットに増速、針路
再伝達の意図も込めて加古は声を一段と大きく張り上げた。各艦がバラバラに復唱する。復唱する声には力が入っていない。最早まとまった戦闘集団としては正常に機能していなかったが、とりあえず意思伝達は確認できた。それだけで十分だった。
「いいか! 死にたくないなら踏ん張れ! 絶対に基地に戻るぞ!」
あらん限りの声量で加古は鼓舞した。実際にやっていることは基地への遁走というよりは基地へ敵艦を行かせないようにする囮だった。他の艦にどれほどの効果があるかはわからなかったが、自己暗示くらいの効果はあるように思えた。
敵に背を向け増速した瞬間、ル級の砲口から連続して光、そして炎が見えた。砲弾は加古たちが居た地点の辺りに落ち、真っ赤に染まった芸術的な造形群を作り上げた。
既に昼頃に慌ただしく基地を出撃して以来、加古たちはずっと小休止すらなく戦闘状態にある。俄に基地に迫り来た敵艦隊を押し戻しこそすれど、打ち寄せる波の如くいつまでもやって来る敵を撃退することはできず、また予備戦力との交代の機会も逸し、どの艦も――加古も例外でなく――連続する戦闘に心身共に消耗し切っていた。
既に出撃した艦隊の大半は敵の攻勢に耐えかねて例外なく潰走するか散り散りになって無力化されていた。出撃前にチューク方面ではかなりの優勢と聞いていたので、敵の最後の、まさに断末魔のような大攻勢かもしれなかったが、そんなことを考える余裕もなかった。大勢を考えるより先に、自分の生存を考えていた。弾薬も、燃料すらも底が見えてきていた。
追撃して来る敵の姿を確認しつつ、その身を水平線に沈めつつある太陽を目にした加古は、これが最後の太陽になるかもしれない、とぼんやりと思った。思っただけで、特に感慨は何もなかった。いつになく嫌に冷静で、しかも奇妙なほど客観的で、不思議な感覚だった。
果たして、基地は無事だろうか。上の空のまま、加古は考えた。
そういえば
いや、今はそんな時じゃない。加古は心中で反駁した。自分が生き残らないといけない、由良の“背中”の仲間入りは勘弁だ。ぼんやりしている暇は一寸もない。
自己暗示の効果は薄かったが、少なくとも生き残る意思は強かった。
――――――――
南十字星が見える。他にも大小様々な星が天に輝いていた。とはいえ、優雅に星の海を楽しんでいる余裕は一切ない。星空の下では今も戦闘が続いていた。
加古率いる残存艦隊の後ろでは時たま赤い炎が上がり、水平線に近い暗闇を一瞬だけ明るく照らし上げた。いくら雲一つない夜といっても、新月に近い月明かりでは加古たちをまともに視認できないはずだ。事実、敵の砲弾――すべてル級が放っていた――は至近弾にもなっていない。
半ば博打だったが、ル級の周囲を守るハ級などは積極的に追撃に出てこなかった。たまに思い出したように意味のない砲撃を行ってくるだけだった。深海棲艦にも「手負いの敵を嬲る」という概念があるのか、それともル級を孤立させることへの警戒なのかはわからなかった。
もう十分引き付けた。後はどこかで闇夜に姿をくらますことができれば、何とか朝までには味方の勢力圏に――ただし基地が無事であることを前提に――戻れるはずだったが、それはもうできなかった。
「何ノット出せる? 初霜」勿論敵には聞こえないと思ったが、幾分声を抑えつつ加古は聞いた。
「に、二八ノットが限界です……」
「三〇は無理?」
「ちょっとだけなら出せると思いますけど、その後は――」
「ボカン、だろうなあ」
初霜はゆっくりと肯いた。僅かな月明かりの下でも、初霜の顔が顔面蒼白なのはよくわかった。可哀想なくらい血の気が一切無い。二八ノットねえ、と加古は呟いた。二八ノットは今加古たちが出している速度だった。つまり、これ以上増速ができないということだった。
そして、敵のル級も同じ速度を出していた。ル級の速力は多少の差があるが、最大速力は二七ノット程度だというのが今のところの通説で、基地にある敵艦の分厚い性能資料には事実そう書かれていた。三〇ノットという話も聞いたことがあったが、少なくとも今加古たちの後ろに居るル級たちは、二八ノットを保ったまま――それが過負荷による最大速力を超えた速度かどうかはともかく――追い続けてきていた。
初霜の主機は当初は問題なかったが、つい一時間程前に不調に見舞われ、最大速力まで出せなくなってしまっていた。戦闘での様々な損傷の蓄積や、あまりに長時間に渡って主機の出力を増大して航行し続けたことのツケがいよいよ回ってきたのだった。偶然それが初霜だっただけで、いつ加古や他の艦の主機が悲鳴を上げてもおかしくはなかった。現に、加古は主機の感覚に僅かながら違和感を覚えつつあった。違和感は時と共にじわじわと大きくなっていっていた。
ともかく当座の問題は、増速して敵艦から逃げることができない、ということだった。
「あっちの主機が突然爆発でもしないかなあ、ボーン、ボン、ってね。そうすりゃ後は残りをぶん殴って脱出さ」
加古は軽い冗談を飛ばした。誰も笑わなかった。主機が限界に来ているのはどちらかと言えば加古たちの方だった。
当の加古も一切笑わなかった。誰もがこのままでは二進も三進もいかないことを理解していた。
――――――――
『――り返す。本通信は当基地所属の全艦に対し基地無線系全チャンネルで送信を行っている。現在のところ敵の多くは撃滅され、一部は撤退しつつある、基地は守られた。作戦行動中の艦は全艦基地へ帰還せよ。行動不能の場合はこちらから救出部隊を送る。また、現在複数の偵察機、また捜索救難部隊を派遣中である。基地への通信が可能な場合は以下の専用回線で行われたし。周波数――』
突然、酷いノイズと共に耳をつんざくような割れた音声が聞こえた。あまりの大音量に加古は反射的に目を瞑り、思わず耳を抑えた――実際のところは意味がない行為だった――程だった。どうやら知らず知らずの内に無線の音量を最大にしていたらしかった。いや、そんなことは気にしていられなかった。
もう完全に壊れたものだと思っていた無線機が突如として通信を行ってきた。無線機は生きていたのだった。そして流してきたのは吉報だった。
加古は雰囲気の変化を感じて後ろを振り向いた。どうやら無線は他の艦にも届いたらしい。加古の幻聴ではなかった。艦隊内での通信も本当に無線機が壊れていた艦以外は回復したことを確認できた。迷わず加古は周波数を調整すると、無線機の送信ボタンを押した。その指は少しだけ震えていた。
『あー、ハツシバよりロッテ。ハツシバよりロッテ。応答願う。感明送れ』
『――ロッテよりハツシバ。通信確認。感明良し。感明送れ』
『ハツシバよりロッテ。感明頗る良好。一字一句聞き取れる』
『ロッテ了解。ご無事で何より……HQより連絡を受けているが、もう一度そちらの構成を送られたし。送レ』
『ハツシバは重巡加古を旗艦とし、重巡青葉、駆逐初霜、夕立、山風、五月雨、朧、雷、狭霧の計九艦。全艦小破
『ロッテ了解。現在の位置及び状況を知らせられたし。送レ』
『現在針路
『了解。現在ロッテより水偵による偵察を実施中。当該海域へ送る』
『夜間飛行による支援、深く感謝する。……ありがとう、由良』
『生きて、加古。助けるから。……終ワリ』
『ロッテよりHQ。海域
『HQよりロッテ。現在救難機は全機出動中につき派遣不能。現在そちらに哨戒艇“あいらい”を派遣している。
『ロッテ了解。これより速力二五ノットで方位
『HQ了解。敵艦は未だ多数当該海域に存すると思われる、注意せよ』
『ロッテ了解。終ワリ』
『HQよりロッテ。“あいらい”が敵残存艦の攻撃を受け損傷、基地へ後退した。そちらへ派遣できない。ヤップより救難機を送る。RVは変わらず。
『ロッテ了解。全艦の収容は可能なるか。送レ』
『ハツシバのみ収容可能。ハツシバの収容後ロッテは海路にて帰還せよ。救難機からの指示を待て』
『ロッテ了解。……“あいらい”は無事なるか』
『砲撃により艦尾が大破したが乗員に死傷者は無い。心配に及ばず』
『ロッテ了解。終ワリ』
『HQよりロッテ。ヤップの救難機が事故により不時着水した。そちらへは向かえない。現在出動中の救難機が帰還次第そちらへ派遣する。可能な限り基地方面へ後退せよ』
『ロッテ了解。このままの針路で基地に向かう』
『HQ了解。派遣が可能になり次第RV及びETAを指示する。……ヤップの救難機の乗員は全員無事だ』
『ロッテ了解。無事でよかった。終ワリ』
由良は天を仰いだ。加古がその表情を見て顔を険しくした。由良の耳元に顔を寄せ、小声で話す。「まさか……また?」
こくり、と由良は肯いた。今度は加古が天を仰いだ。月と星が見えた。「マジかぁ」周囲に配慮して、小声だった。
加古はちらりと後ろを確認する。自分が何とかここまで率いてきた駆逐艦はどれも極度の疲労で今にも倒れんばかりという様子だった。由良と共に救出に来た駆逐艦の支えを受けて何とか前に進んでいる、という状態の艦も少なくなかった。
「どうすんの?」
「どうもこうも……このまま基地へ向かうしか、ない。運が良ければお迎えが来る、と思う」
「三度目の正直か、二度あることは三度ある、か。どっちになるやら」
「前者であることを祈りたいけど……どうかしらね」
「とりあえず……伝えないとなあ」
「……そう、ね」
加古も由良も同じように眉に皺を寄せている。とてもじゃないが、こんな状態の駆逐艦たちに――しかも半分が新入りの――対して、その期待を裏切るような、希望を奪うようなことは言いたくなかった。加古も由良も気乗りがしない。
あの、とその様子を見ていた青葉がおずおずと声を掛けた。「先程の通信は……?」
それを契機に決心したのか、由良は全艦に通信を入れた。
『ロッテ一番艦より皆、聞こえてるわね。一つ、悪いニュースが入りました。ヤップのヘリ、落ちちゃったみたい。だからヘリは来れない。そして、代わりは来ない。ごめんなさい、本当に……』
明らかに艦隊の空気が重たくなった。ざわつく程の、身体的な反応を見せる程の気力すら残されていないからか、ただただ空気が重たくなった。ただでさえ暗闇のなか航行しているが、更に闇が降りてきたように加古には感じられた。
由良の声は心底申し訳なさそうだった。哨戒艇もヘリも由良の関するところではなかったが、ただ自分の責任だと言うように、仲間に向けて謝っていた。
『全艦、このまま基地を目指します。もしかしたら、基地からヘリが来てくれるかもしれない。HQはそう言ってたわ。でもどうかはわからない。もう二度も肩透かしを食らっているものね。それでも、これだけは約束します――』
由良はそこまで言って、一息間を空けた。
『何があっても、私が貴女たちを守ります。だから、まだ諦めないで』
ゆっくりと、かつはっきりと意志の篭った声だった。
とはいえそれに対する反応は薄かった。ただ、少しだけ降りてきた闇が晴れたように感じた。
救出部隊の駆逐艦の肩にもたれかかり、首をがっくりと垂らしていた艦が――加古は顔を見て朧だと気付いた――首を上げ、じっと由良を見つめた。視線を感じてか、由良が振り向く。由良はにこり、と朧に笑みを見せた。由良が向き直ってからも、朧は少し立ち直ったように、首を上げ、まっすぐ前を見ていた。
自分じゃああはいかないな、と加古は思った。人徳、という言葉が浮かんで消えた。
――――――――
「加古」小声で由良が加古を呼んだ。
呼ばれた加古は由良の方に近寄り、顔を寄せる。「何かあった?」
「偵察機から通信が入って……どうもこっちに敵が向かってくるかもしれない、って」
「アタシらを狙って?」
「いや、海域をどこに行くでもなく彷徨ってるみたい、つまりは――」
「運悪くがちあうかもしれない、のかな」
「そういうこと」
加古は唸った。「どうするか……」無意識に艤装に触れていた。
「敵の規模は?」
「偵察機曰く、イ級やロ級が結構集まってるみたい。数はきちんとわからないけども、多いみたいね」
「多い……かぁ」
多数の敵。加古は考え込んだ。同じように由良も黙って考え込んでいるようだった。今、その敵と遭遇すればまず命はない、それだけは間違いなかった。
由良と目が合う、同じことを考えているような気がした。
「……私が、囮になって誘導するわ」
「由良、自分が何か忘れたのか? 一番艦が艦隊を離れるのはマズいよ」
「それは承知の上。誰が他にできると思う? 私だけしかいない」
確かにその通りだった。救出部隊として由良が率いてきた駆逐艦は損傷の激しい艦の曳航――身体を支えての同航――で手が空いていない。加古や青葉が同航する役を引き受ければ手は空くが、そもそも戦闘経験が浅い艦ばかりだった。一方、加古や青葉など航行自体は自力でできる艦も、ごく短時間の戦闘行動以外は厳しかった。救出部隊と共同で追撃してきたル級をなんとか撃沈した時点で残弾はほぼカラになってしまっていたし、主機は最大速力を出せなかった。
つまりは、事実として現在のところ戦闘が可能なのは由良だけだった。加古はそれを理解していた。言い返すことができなかった。
「あの子たちを行かせるわけにはいかない、捨て石に、生贄にさせることだから。そんなことはできない」
「だからって……」
「それに、私たちは出来る限り最短距離を進まなきゃいけない、そうでしょ?」
「……そうだね」
後方の駆逐艦たちはいつ沈んでもおかしくない。否定はできない。加古は肯定せざるを得なかった。
「大丈夫よ、こっちに来ないようにするだけだから。交戦も最低限よ、弾薬は無駄にはできないもの」
由良は微笑んだ。あまりにも険しい顔をする加古を安心させるような、諭すような表情だった。それでも加古は眉を顰めている。
「……わかった。それじゃあ、任せる」
不承不承という態度がありありと出ていたが、加古は言った。
「ありがとう、加古。それじゃあこっちの指揮は任せるわ。無線もお願いね」
そう言うと由良はHQ、そして艦隊に無線を送った。加古を一番艦代理とする旨の通信だった。通信を終えると由良は艤装を軽く確認する。加古も無線機を一番艦用に調整した。どちらもすぐに終わった。
「それじゃあ、行くわ」
「無茶はしないでくれよ、本当にね」
「しないってば」
由良は苦笑した。加古は不安げな顔で由良を見つめる。
サッと右手を上げると、由良は敬礼した。加古はそれに応じる。
「艦隊、よろしくね」
「そっちこそ……無事を祈るよ」
敬礼が終わると、由良はにこりと笑い、増速しつつ艦隊の針路から離れていった。加古は後ろ姿を追わなかった。
――――――――
あの時、由良は嘘をついていたんです。大きな嘘を。嘘は二つありました。
一つは、敵が向かってくること。“こっちに向かってくるかもしれない”じゃなくて、“明確にこっちに向かってくる”敵がいたんです。私たちを追っていた訳でなく、単に針路の問題でしたけど、ちょうど追い掛けてくるような形だったんです。由良が気付いた時には遅かった。
もう一つは、敵が駆逐艦だということ。駆逐艦じゃなくて戦艦、しかも足の早いタ級でした。大勢の駆逐艦の群れでなく、戦艦を中心とした艦隊だったんです。それが向かってきていた。
そんな敵を相手に、由良は単身向かって行きました。最初から、勝ち目がないことなんてわかってたはずなのに。
私が一緒に行けば、なんとかなったかもしれません。艦隊を青葉に任せれば、私も行けました。無理ではなかったはずです。
……ええ、もし知っていれば私も行っていたと思います――いえ、行きます。間違いなく。
でも、もうどうにもならない。由良は一人で行ってしまったんです。たった一人で。
由良は、戻って来ませんでした。