艦娘哀歌   作:絶命火力

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あの僚艦もあの戦友(とも)も 壮烈海に散ったのに
不覚や(あたし)はまだ生き延びて 椰子の葉陰で月に泣く 戦友(とも)よ偲べよこの心
敵は幾万どこからも 砲撃雷撃雨あられ
命を的に戦う我は これが我らの務めとぞ 単身吶喊殴り込み


――南洋のとある基地で歌われた『海鷲だより』(製作年、作詞作曲者不詳)の替え歌から一部抜粋


由良篇
COG.1 -「『海鷲だより』」


 どこか、不穏な空気が、不吉な予感が一歩ずつ、取り囲むように迫ってきている気がする。

 

 男がそれを感じたのは、今日三度目の任務へと赴き、任務を終えて帰還しつつあるヘリコプター――内地のそれとは違って濃紺に塗られた救難ヘリコプターであるUH-60J――を見上げた時だった。男は溜息を吐く。今日に限って、と。男は救難員の取材を予定していたのだった。

 朝から昼にかけて二度、そして昼を過ぎてからもう一度。前者は近辺で貨物船を護衛していた別の基地の艦隊が潜水艦から襲撃を受けて負傷し、その収容にヘリコプターが向かった。それだけであればまだ取材は続行できた。

 ところが、その後に再度襲撃を――なんと水上艦に――受けて貨物船も航行不能になり、乗員の救出に別のヘリコプターが向かったのだった。貨物船からの人員救助ということで、大規模な救助活動になったためか、他の基地からも救助が向かったようだった。

 当然、こんな緊急事態では取材どころではない。ヘリコプターに同乗するわけにもいかず、とりあえず貨物船襲撃危難についての一報だけまず契約社に送り――どうせ大した扱いにはならないとは思いつつ――貨物船の情報といった細々とした続報をまとめて送ってからは、こうして空を眺めることしかできなかった。救出された船員はより設備の整った基地に送られていたので、それ相手の取材、というわけにもいかなかったのだった。事実、続報の要請は来なかった。来たところでどうしようもなかった。

 

 その時点でかなり通常とは異なる異常事態だった。水上艦による補給線の襲撃は滅多にないことだ、と酒保を飛び出して慌ただしく出撃準備に向かった――襲撃の一報が入った時点で呼び出されることを読んでいた――第四艦隊の面々は口々にそう言っていた。そして、今まさに着陸態勢に入ったヘリコプターに乗せられているのは、予想通りその後の敵艦隊捜索に非番返上で駆り出された第四艦隊のうち、大きな傷を受けた誰かのはずであった。

 黒潮に続いて日を空けずにに誰かが重傷を負う、というのはここが前線に近いことを引いても不吉に感じないわけがなかった。かつては激戦地だった、という由良や川内、響の言葉が今更現実のように感じられた。

 男は酒保のベンチから腰を上げると、ヘリポートの方へと向かった。一体誰なのか、それが気になった。

 

 ヘリポートでは既に救急車が待機していた。ストレッチャーがないということは、自力では歩けるということらしい。

 やがて着陸したヘリコプターのサイドドアが開く。救難員の支えを借りつつ降りてきたのは一番艦の軽巡洋艦由良だった。一番目立つ負傷はは右腕で、丸ごと吹き飛ばされていた。顔には砲弾が掠ったのか、痛々しい傷が頬にいくつも走っている。特徴的な亜麻色の髪も一緒に吹き飛ばされたのか、解けた髪は腰より少し上の程度の長さになってしまっていた。制服は真っ赤に染まっているが、血は止まっているようだった。

 重心のバランスが変化したことに対応できていないのか、由良は少しふらつきながら救急車へと向かう。意識ははっきりとしているのか、歩み自体はしっかりとしていた。顔を顰めているが、それが痛みから来るものなのかどうかはわからなかった。医官と看護官が駆け寄り、救護員から由良を引き取る。そのまま由良は二、三言葉を医官と交わすと、そのまま救急車へと自ら乗り込んでいった。

 

 男は目を疑った。見間違いかと思った。自分の見たものは何かの間違いでは、とも思った。

 しかし、現実としてそこに男の見たものは存在していた。見間違いでも、白昼夢でもなかった。

 男が見たもの、それは破損した由良の制服越しに見えた背中一面に彫られた刺青だった。距離が遠かったので詳細は見えなかったものの、由良の背中には確実に彫り物がされていた。

 なぜ、あんな刺青が。医務室のある庁舎へと向かう救急車を見送りつつ、男はただ首を傾げるばかりだった。同時に、何かがありそうだ、という予感――それは取りも直さず期待でもあった――を心の裡に抱いた。沸々と、興味が湧き上がる音が聞こえるようであった。

 

 

――――――――

 

 

「それで……見せろ、と? 随分と破廉恥で不躾なことを聞きますね」

 

 薄く開いた冷ややかな目で男を見つつ、由良は男を半ば詰るようにそう言った。とんでもない、と男は心底心外だというような表情と作る。慌てたように手を左右に振った。

 

「いえいえ、見せろだなんていくら何でも失礼すぎますよ。まあこれは話の“掴み”みたいなものです。基地の生き字引と聞く由良さんには一度こうしてお話を伺いたいと思っていまして」

「何度かお話したことはあると思いますけども」

「こうして腰を据えてしっかりと。そして『由良さんのお話』を聞く、という機会は初めてですよ」

「……本当に、デリカシーというのがありませんね」

「ホンマや、いっこもあらへんもんなあ」

 

 それまで隣のベッドの上で胡座をかいて黙々と本を読んでいた黒潮が、横から皮肉った口を挟む。とはいえ顔は本に向いたままだ。

 男は黒潮に苦笑を向ける。黒潮の両足はくるぶし辺りまで回復してきていた。

 

「せやけど、ウチも気にはなるわ。興味があらへん、て()うたら()()嘘になる。何せそないな立派な彫り(モン)やもの、持つな、ちゅう方が酷やっちゅうもんや」

 

 そう言って本を閉じると、黒潮は胡座を崩しベッドの縁から足を下ろした。由良の方へ身を乗り出す。興味あり、という顔だった。

 

「由良。ウチにもその話、聞かしてぇな」

「私、まだ話すとは一言も言ってないんだけど」

 

 冷ややか、というよりは呆れた顔で由良は黒潮に言った。

 

「では、間を取って……まずは『戦友』のお話をお聞きしてもいいですか?」

「どこが『間』なんですか、それ。……それよりも、『戦友』については以前お話しませんでしたっけ?」

「あれは概略程度のものでしたから……できれば当時の基地の状況とか、そういうのも交えて再度お聞かせ願えればな、と」

 

 男の言葉に、少し由良は黙り込んだ。

 

「……()()『戦友』には私はそこまで関わってないんですよ、本当に。だから、あれ以上のことはないんです、私に言えることは。私も驚いたんです、『戦友』に。あの頃ここに居た艦はほとんど沈むか、除隊したかでもう居ないんです。勿論、『戦友』を持って帰ってきた艦も。生き残りも他の基地に移って以来沙汰無しです。生きているのか、死んでいるのかすらわかりません」

()()……? 他にも『戦友』があったんですか?」

 

 ゆっくりと由良は肯く。「ええ、あったんです。殆ど知られてはいませんでしたけど、既に」

 黒潮が目を丸くして言った。「ほぉ……そら初耳やな、そんな話は知らんかったわ」

 

「今まで言ってなかったもの」

 

 当然、という風に由良は答えた。このご時世に情報公開がなっとらへんな、と黒潮は笑った。軍機よ、と素っ気なく由良は返した。

 

「では、その『戦友』のお話を――」

 

 男がそう言いかけたところで、由良は首を振った。「この話だけじゃ、済まないんです」

 

「この話をするなら、この話もしないといけないんです」

 

 由良は左腕を動かし、右肩越しに背中に手を置いた。点滴チューブがピンと引っ張られ、点滴器具が耳障りな金属音を立てた。

 どこか物悲しげな表情で由良は繰り返した。「この話を」

 

「……点滴、倒れるで」

 

 黒潮がぼそり、と言った。由良は腕を戻す。

 

「本当に、聞きたいですか? 聞いたって、いいことなんて、何もないですよ。何も、本当、本当に。それよりか、聞かなければ、知らなければと思うかもしれない。聞いたら、そこが最後ですよ。貴方だけでなく、黒潮もよ」

 

 それでも、聞きますか、と由良は言った。物悲しさを感じさせる表情に、覚悟を問うものがあった。

 今度は男が黙り込む番だった。黒潮も気圧されたように黙っていた。

 

「それでも、聞きます。お話いただけるのであれば、私は聞きます。どんなことでも」

 

 男はゆっくりと、一言一言を由良の目を真っ直ぐ見つつ言った。黒潮はそれを聞いて安心したように、少しだけ張り詰めていた表情を緩める。

 

「ここで尻尾巻いたら(フネ)の名が泣くわ。一蓮托生や、ウチも聞く。最初(アタマ)から最後(ケツ)までな。聞き通すわ」

 

 由良はそんな男と黒潮の顔を交互にじっと見た。明るいブラウンの瞳には胡乱げな色も冷ややかな色もなかった。

 ひとしきりそうして見ていたが、やがて由良は目を瞑った。再び開けた目には、どこか安心したような、穏やかさを帯びているように男には見えた。

 

「その言葉、信じますよ」

「二言はあらへん、せやのお?」

「ええ、勿論」

 

 黒潮が男の方に顔を向けつつ言う。黒潮は笑顔だった。その言葉に男は肯いた。

 

「わかりました。少し……後ろを向いていてもらえますか? 黒潮、ちょっと手伝って」

「ん、了解や。ほな、ちょいとこっち来てもろてええか。まだ足がこないなことになっとるさかい、そっち行かれへん」

 

 黒潮は足をぶらつかせ、手で叩いた。由良はベッドから立ち上がり、点滴器具を持つと、隣にある壁際の黒潮のベッドの方へと座り直した。

 男は言われた通りに後ろを向いた。その間際にふと、由良のベッドのサイドボードに目が行った。洋酒らしきものが置いてある。同じ第四艦隊の隼鷹の見舞いの品だろうか、と衣擦れの音を後ろで聞きつつ男はそんなことを考えていた。

 

「何遍見ても立派なモンやな……ホンマに」

 

 溜息にも似た、黒潮の驚嘆の声が漏れる。

 

「そこまで言う?」

「そこまで、や。ホンマにな、こないなモン……よっしゃ、ええで」

 

 黒潮が男に向かって声をかけた。

 

「いいですか?」

 

 どうぞ、と由良の声が促す。男は俯きつつパイプ椅子をガタガタと向き直し、ゆっくりと顔を上げた。

 

 

――――――――

 

 

 まず最初に目に入ったのは、こちらを睨む大きな顔だった。

 鬼のような真っ赤な顔色、顔に刻まれた深い皺、顔を覆う山男のような髭、こちらを射竦めるように、罪を見通すように見開かれた目、罪を咎めるように、また(ただ)すように大きく開かれ釣り上がった口、そして『王』と記された古風で格式高い、巨大な冠……それは冥界の王、閻魔に間違いなかった。

 そして、閻魔の周囲にはこれまた真っ赤な炎が閻魔を覆うように燃え上がっている。地獄の業火のような、そんな印象を感じさせるものだった。

 

 次に目に入ったのは龍だった。

 閻魔の左右にはそれぞれ龍が――所謂昇り龍に分類される龍が――閻魔を取り囲むように配置されていた。腰の下、臀部に近い場所を起点として、肩甲骨に至るまで波のようにうねっている。水墨画のように黒一色で描かれた龍は閻魔の頭上で互いに顔を向き合わせていた。

 

 そして最後に目に入ったのは『桜に錨』だった。閻魔と龍に目を奪われて、男は最初それに気付かなかった。

 銘の代わりなのだろうか、それとも作品の一部なのだろうか、右側の龍の右下に、目立たないように控え目に描かれていた。

 

 閻魔と龍、そして『桜に錨』。それが由良の背中に彫られていたものだった。

 そして、そのどれもが傷ついていた。大小様々な傷が閻魔の顔に、龍の鱗に、錨の錨腕(アーム)に走っている。特に『桜に錨』は傷に掻き消されそうな程だった。戦闘の負傷によるものなのだろう。事実、真新しい傷が右肩周辺の龍の角にかかっている。今回の負傷、右腕を吹き飛ばされた時に負った傷のようだった。

 よく見れば、刺青に傷がついたのではなく、かなり古い傷跡の上に彫ったと思しき形跡もある。傷と元々の図案が相俟って、閻魔の顔に凄みが増し、また龍も古強者のような印象を抱かせるものとなっていた。

 

「おお……」

 

 ただただ、男は感嘆の唸り声を上げるばかりだった。美しい、それ以外の言葉は出てこなかった。

 しかし、そんな中でただ一つ、男に強烈な違和感を感じさせるものがそこにはあった。二頭の龍には尾がない。その二頭の龍の起点、尾があるべき場所には、明らかに肌や刺青には不似合いな、鈍色に光る無骨で無機質な丸い金属部品があった。まるで、その部品の下で二頭の龍が繋がっているような、実のところは二頭の龍は一頭であるかのような、そんな印象を男は受けた。

 

「外部接続式の艤装なんて、こんなん()()()時代遅れ(ロートル)や。大昔の代物(しろもん)やで。整備がごっつい大変やろなあ」

 

 男の邪魔にならないよう、ベッドの端に座り、壁にもたれている黒潮がポツリと言った。目はやはり由良の背中に釘付けになっている。

 どうやらかなり古い形式の艤装を接続させる取付部のようなものらしい。見れば確かにその部品には円形の筋が刻まれている。艤装を接続させる時にはあの形に沿って凹み、はまり込むのだろうか、と男はようやく頭を働かせ始めた。

 

「せやけど――」

「これがなかったら、画竜点睛を欠く、よ」

 

 背中を向けたまま由良は呟く。黒潮はその背中に向かって肯いた。「せやな」

 

「見えへんからこそ、やな。これは」

 

 由良の言う通りだった。確かに、この部品を取り除いてしまうと、そこで龍が途切れてしまう。おそらくは下に刺青は入れられていないのだろう。見えないことにより、龍は一つになっていた。画竜点睛と言うからには、その龍には何か重要な意味があるのかもしれなかった。

 

「そろそろ、よろしいですか?」

 

 もう十分はそうして眺めていただろうか。由良が聞いてこなければずっと眺めていたかもしれない、男はそう思った。そう思わせるほど魅力のあるものだった。

 完全に魅せられとるな、と黒潮がそんな男を見て笑った。その通りだった。

 

「ええ……ありがとうございます。とても、素晴らしい、素晴らしいものでした」

 

 由良は無言でそれに答えた。黒潮が由良の頭に手を伸ばし、それまで背中が見えるようにヘアゴムで結っていた髪を解いた。

 

「ほな、もう一遍後ろ向いてや」

 

 

――――――――

 

 

「どこから、お話しましょうか」

 

 再び病衣を来て、自分のベッドに戻った由良が尋ねた。

 

「どこからでも結構ですよ、話したくないことはお話いただかなくても構いません」

 

 うーん、と唸りつつ由良は唇に指を当てて悩む。「そうですね。……では、昔話からしましょうか」

 

「昔話?」

「ええ、この基地の昔話から。基地の()の昔話はもう既にご存知でしょう?」

 

 にこりと由良は笑う。男は頭を掻いた。「これはいやはや、何でもお見通しですか」

 

「何やらあったかよう知らんけど、由良は情報通やからなあ。隠し立てできひんで」

 

 黒潮が由良と男を見比べつつ言った。「尻の黒子の数やかてお見通しやで」

 由良は笑った。男は肩を竦める。「どうやらその通りのようですね」

 

「では、その昔話をお願いしてもよろしいですか?」

「ええ」

 

 由良は肯く。

 

「じゃあまず最初に……実は、私は『由良』じゃないんですよ」

「『由良』じゃない?」

「『由良』やなかったら、何やったんや」

 

 男と黒潮は同時に首を傾げた。『由良』でないとは、どういうことなのか。

 直後、何か思い当たるものがあったのか、黒潮は「もしかして、()()か」と言った。その指示代名詞は由良に通じたのか、由良は肯く。

 

「私は『加古』だったんですよ、昔はね」

 

 加古。それはたしか古鷹型重巡洋艦の二番艦の名称のはずだ。川内のかつての相棒、それが加古だった。まさかその加古なのか。一瞬だけ、それを疑った。

 そんな邪推に近い思いが表情に出たのか、由良が眉根を下げる。

 

「あー……多分、お思いのものとは違いますよ」

「艦種転換、かいな。昔はようあった、ちゅう聞くけども」

「正解、よく覚えてるわね。最近じゃ知らないのも多いのに」

「前に居った基地で(おんな)じ奴がおったんや。逆やけどな、駆逐から軽巡になった奴がおったんや、かなりの古株やった。せやけど……逆、重巡から軽巡ちゅうのはちょっと珍しいなあ、聞いたことあらへんわ」

「あの、その『艦種転換』というのは?」

 

 由良と黒潮の会話に男が質問に入った。由良と黒潮は顔を見合わせ、アイコンタクトを取った。由良が口を開く。

 

「そのままの意味です。自分の艦種を変えるんですよ。今黒潮が言ったように、駆逐艦から軽巡洋艦、軽巡洋艦から重巡洋艦、という風に。他にも、睦月型から特型へ、天龍型から球磨型へ、という風に同じ艦種の中で型を変えることもありました」

「今は行われていないんですか?」

「昔の『志願』の時代は多少の艦の適合の悪さには目を瞑っていたんです。適合ってふわふわしたもので、水物らしくて、たまに別の艦の適合が……そうですね、『発現』というか、そういう感じで出たりするんです。今の『建造』はその辺りはかなり厳密なので、そういうことはほぼないらしいですね。又聞きですけど」

「せやな、ウチは最初っから『黒潮』やな。多分、他はあらへんと思う」

「えーと、その『適合』というのは……?」

 

 あら、と意外そうに由良は声を出した。「ご存知なかったんですか」

 お恥ずかしながら、と男は言った。「全く」

 

「確かに、だいたい何の説明もなく艤装を受領するだけですしね……。見ようによっては単なる数の巡り合わせにしか見えないかもしれません。『適合』というのもそのままの意味です。(フネ)にも適不適が――何しろ“名前”を背負うものですからね――あるんです、特に『志願』の場合は」

「すると由良さんは『志願』ですか」

「いえ、ここがまた面倒なところなんですけど、初期の『建造』にも同じ傾向があるんですよ。とは言っても私は『志願』の方ですけども」

 

 男はふと、以前川内が言いかけていた言葉を思い出した。『志願』の話をした時に川内は「ここにも」と言っていたのだった。続く言葉は「いる」だったのだろうか。それは由良の事だったのだろうか。由良の言葉を聞いて男はそんなことを考えていた。

 

「それでは、由良さんは『志願』して『加古』となった、と」

「その通りです」

「では、いつ『由良』に?」

「十二年前のちょうどこの時期です、私の記憶が嘘をついていないのなら」

「それから今までずっと『由良』として生きてきた」

「ええ」

 

 淀みなく由良は答える。男の方は眉間の皺が深くなった。ふむ、と一人唸った。

 

「どうして重巡から軽巡へと、それに、どうして『由良』のままなんです? 『加古』に戻ることはできたのでは?」

「質問が多すぎやで」

 

 横から黒潮が突っ込みを入れた。確かにその通りだった。由良は穏やかに笑う。

 

「いいですよ。一つ目は、その時のここの状況のせいです。一時は制海権も制空権も掌握してましたが、あの当時は再び敵の反攻で苦しい状況だったんです。そんな中で『加古(わたし)』の艤装が大破して、その上運の無いことに予備の艤装が切れた上に、誤配や輸送船の喪失で届かなかった。そこにちょうどよく『由良』の――というよりは後期長良型の――艤装があった。以前から『由良』への適合はあったので、応急的に『由良』としての転換処置を受けたんです。戦力は一艦でもあればなおよし、という状況でしたから」

「臨時の処置ですか」

「ええ、言ってしまえば現地改造のようなものです……本来なら」

 

 本来ならね、と由良は呟いた。

 

「でも、見ての通り私はこうして今も『由良』のままです。勿論、今も『加古』に戻ろうと思えば戻れますよ。申請書と提督さん、それに造修隊長の判子があればね。でも、私はしません」

 

 スッとそれまで由良の顔にあった笑みが消える。顔からも、目からも感情が失われたようにも見えた。

 

()()()は殺したんです、『由良』を。だから、アタシが『由良』にならないといけないんです、これからも、いつまでも」

 

 

――――――――

 

 

『あーのりょーうかんもーお、あーのとーもーもぉ、そぉーれぇつうーみーにぃ、ちぃったのーにー』

 

 沈みゆく夕陽が染める茜空に歌声が響く。その歌声は明るかったが、歌詞の内容は歌声とは随分と乖離していた。声も、無理に明るくしているようにも、今にも泣き出しそうにも聞こえた。そこに別の歌声が入る。

 

『ふーかぁくーやーわーたーしーは、まぁーだいきのびてー、やぁーしのこかげぇでつきになく』

 

 地面に座って歌っていた艦娘――軽巡洋艦由良――は驚き、思わず振り返る。そこには重巡洋艦加古が笑って立っていた。由良に手を振る。そのまま近寄り、由良の隣に座った。

 

「大方ここだろうと思ったら、やっぱりビンゴだった」

「加古、驚かさないでよ。心臓が飛び出るかと思ったじゃない」

「ゴメンゴメン、驚かすつもりはなかったんだけどさ」

 

 右手を顔の前に持ってきて謝りつつ、加古は笑う。瞬間、加古は真面目な顔つきで由良に言った。

 

「その分だと、やっぱり気にしてるみたいだね」

「何が?」

「今日のこと、それに昨日や一昨日もかな」

 

 加古の言葉に、由良の表情が曇る。「大丈夫よ、もうだいぶ慣れた。大丈夫」

 それのどこがさ、と加古は呆れたように肩を竦める。「そんなの歌ってる時点でバレバレだって」

 痛いところを突かれたのか、由良は黙ってしまった。

 

「……よく、歌詞がわかったわね」

「門前の小僧何とやら、ってね。そりゃアタシが一番付き合い長いんだからさ、覚えたくなくても覚えるってもんだよ。だいぶ、意味は変わっちゃったけどね」

 

 由良は再び押し黙る。言葉や行動を急かすわけでもなく、ただ加古は由良を見守るように見つめていた。

 やがて、由良は口を開け、重苦しい声で言った、

 

「気にしていない、なんてこと言えない」

「だろうね」

 

 でも、と加古は反駁する。「受け入れなきゃいけない。もうあいつらはいないんだ」

 由良は俯いたまま、消え入るような声で答える。「わかってる、そんなことは。わかってるわ、十分……」

 

「由良は優しすぎんだよ。まあ、こればっかりは生来のものだから仕方ないけどさ……」

 

 加古は呟くように言った。勿論、由良には聞こえているだろう。それでも由良は黙ったまま、何も返さなかった。

 そんな由良の様子を見て、加古は溜息を吐いた。「歌いなよ、それで済むなら」

 

「私は別に――」

「でも、さっきは歌おうとしてた。つまりさ、そういうことだろう? もうちょっと自分に正直になりなよ、由良。どうせ周りには誰もいないさ、アタシだけ。そんで、歌ったら、戻ろう。そろそろ夕食の時間だから。遅れたら飯抜きだよ」

「……わかったわ」

 

 夕陽に溶け込むように歌声が再び響く。声は途中で詰まり、後には嗚咽の声が空に流れていった。

 空が茜から群青へと変わる頃、嗚咽も止み、後には遠くさざ波の音だけが残った。弓張月が太陽に代わり辺りを照らそうとしていた。


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