艦娘哀歌   作:絶命火力

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COG.5 -「『Священная война』」

 私たちに課せられた任務、それは有り体に言えば囮だった。

 軍令部(彼ら)も必死だったのさ。日本海の完全な“浄化”にね。それで、ちょっと無茶な――私たちにとって無茶なだけで、軍令部(彼ら)としては何の問題もない――手段に出た。

 “巣”の炙り出しをやろうとしたんだ。どこが“巣穴”かは、大凡の位置は特定していたらしい。情報分析官の苦労が偲ばれるね。

 その“巣穴”に、私たちをぶつける。私たちが走り回って、連中を刺激する。するとどうなるか?

 勿論、敵がわんさかと出てくる。そりゃそうさ、“巣”を守らなきゃならない。そうして、どこから連中が出てくるか確認したら……秘密兵器のお出ましさ。

 ああ、秘密さ。自分で調べるといい。そいつで“巣”ごと敵を一網打尽にしてやろう、って魂胆だったのさ。地上ではどうしょうもなくとも、水中なら色々とやりようがあるからね。

 そして、その企みは上手く行った。目的は達され、日本海は“浄化”された。

 

 じゃあ、私たちはどうなったのか? 大丈夫、私は亡霊じゃない、ちゃんと生きて――果たして生きていると言えるかどうか別だけども――こうして君にポロポロと機密を垂れ流している。

 だけど、まあ……言わずともわかるだろう、私以外は皆死んだ。……いや、逆かな。皆死ぬはずが、私だけ生き残ってしまった。

 そう、ベドーヴイも逝ってしまったんだ。祖国を前にして、祖国をあれほど願ったベドーヴイが!

 酷なものだよ、ロシアに唯一関わりがなかった私だけが生き残って、ベドーヴイが、そして曲がりなりにも祖国への希望を抱いていた彼女たちが召された。この世に神様(イスス・ハリストス)なんていないのさ。仏様もいないだろうけども。

 

 ……煙草が切れたね。いや、それは断る。それ(ピース)は好きじゃないんだ。

 いいよ、もう、私の話も終りが近い。すべての始まり、なんて大それたことを言ったけども、元々そこまで語るようなことはないよ。私の命はあの日、日本海に置いてきたんだ。そこからの私は、何もない、ただの酒浸りの共産主義者(アカ)被れ、戯れと感傷で知りもしない歌を口ずさむ壊れた機械だよ。

 

 

――――――――

 

 

 もう何度目か何十度目かになる悪罵を誰かが――誰なのかはわからなかった――口走った。響にはその意味するところはわからなかったが、ともかく何かしら天なり運なり敵なり軍令部なりを呪う言葉なのだろうというのはわかった。

 あまりよくロシア語をわかっていない響を考慮してか、それとも実は一部ロシアではなくウクライナが祖国の艦娘がいたためか、今のところ全艦日本語を使っていた。とはいえ咄嗟に出てくる言葉に祖国の言葉が混ざり始めていた。ベドーヴイだけでなく、他の艦娘もそうだった。

 

Дерьмо(クソッ)! 前からも後ろからも……一体どれだけ湧いてくるのさ!」

 

 敷波の声だった。誰に言うでもなく、ただ大声で忌々しさを余すこと無く伝えていた。

 既に味方の半分が沈み、いつしか艦隊はベドーヴイを先頭とする単縦陣のみになっていた。

 最初は穏やかだった海も次第に風が吹き、そして波が立ち、いつしか艦を丸ごと飲み込まんとばかりの波浪、そして暴風が猛り狂っていた。そんな戦闘もままならないような海で響たちはただ只管、作戦に従って航行し続けていた。ただ、空の心配をする必要がないことは幸運だった。

 間隔を置くこと無く次々と四方八方から砲弾の雨が降ってくる。ある砲弾はすぐ真横に落ちて艦隊に横殴りの波を浴びせ、ある砲弾は遥か前方に落ちて徒花を咲かせ、またある砲弾は波間にスッポリと飲み込まれるように消えた。

 

「そりゃそうさ! ボクらがどこに向かってるか考えれば当たり前だよ!」

「方角の確認なんかいらないね! 敵が沢山出てくる方向に行きゃいいんだからさ!」

 

 波の音、風の音、砲弾の飛翔音、主機の音、全てが混ざり合って鼓膜を震わせる。無線なしの艦隊行動が常だったとはいっても、お互い意思疎通が取れているのかは最早わからなかった。ただ、先を進む艦娘の背中を追って進むだけだった。

 口を開けて毒づく余裕すらない、現にまともに文章として言葉を喋っているのはベドーヴイと敷波だけだった。響を含めて、他はただ黙々と――時たま「了解(да)」や「畜生(Чёрт)」と言う程度で――砲弾の雨に恐怖しつつ進んでいた。

 

「前方敵艦! 戦艦! 数は十二! うぇ……他にも沢山だ! 全艦散開して!」

 

 ベドーヴイが叫ぶ。先程とは違い、かなり焦りの入った、上ずった声だった。もしかしたら滅多に見れない慌てた表情をしてるのかもしれない、と半ば場違いな思いを響は脳の片隅に抱き、無意識に笑った。

 

 言うが早いか、ベドーヴイは大きく回頭し、それを機に艦隊が散り散りになる。波間から横並びに、まるで此処から先は通さないとばかりに戦艦が――ル級戦艦の中でも装備の違いから上位個体や改修型と言われている戦艦――気味の悪い笑みのような表情を張り付かせ、迫ってきているのが見えた。後ろから続々と重巡洋艦や駆逐艦が現れる。いつの間にかかなり接近していたようだった。

 

 陣形が変わってもそのまま殿だった響が動き出したのは、全艦が散らばったのを確認してからだった。

 もう既にル級とは目と鼻の距離だった。そうはいっても戦艦と駆逐艦では砲戦ではどう頑張ろうと太刀打ちできない。響の持つ一二.七センチ連装砲では、たとえ接射しようと戦艦の装甲を、もっと言えば重巡洋艦の装甲ですら抜くことはできなかった。しかも大荒れの海では一発逆転の魚雷も使えない、そもそも作戦に当たって魚雷が支給されていなかった。心許ない砲弾と一抹の慈悲の心なのか少なくとも往復分以上はあるだろう燃料、そして作戦の確実性確保のために用意されたビーコンと発信機、ただそれだけだった。

 勿論、抜け道はあった。敵も人型なのだから、首から上――『艦橋』と冗談めかして言われていた――を、特に目を狙えば少なくとも行動を封じる事はできた。上手く行けば目を潰し、そうでなくとも人型の本能なのか顔を庇い、攻撃に隙が生まれた。その隙に遁走し、速力で荒波の中を突っ切り、その場を離れる――それがここまで響たちがある意味愚直に、何度も何度も行ってきたことだった。そして、これに失敗した艦娘は波間の泡と消えていっていた。最初は上手く行っていた手法、最大戦速で突っ込んでそのまま敵艦隊の脇を通り過ぎて突き放す、という芸当も、敵艦隊の艦数が増えた今ではもう通じなかった。

 

 段々と不利な状況へ向かって行くように感じられた、それはまるで猟犬に囲まれ、今か今かと猟銃を構える猟師の前へ追い立てられている獲物の気分だった。単純に計算しても一艦で二個艦隊以上の数の艦を相手にしないといけないのだ、響は恐怖を半ば無理矢理抑え、一二.七センチ連装砲を構えた。一六インチ砲を自分に向けつつあるル級の笑みが一段と不快に感じた。

 

 

――――――――

 

 

 体感時間で言えばもう何時間と戦闘を続けているように感じられた。実際のところは僅か十数分だというのはわかってはいたが、それでも()()感じずにはいられなかった。

 砲弾を避け、何とか自分が倒せる駆逐艦と軽巡洋艦をいくつも沈め、重巡洋艦と戦艦を相手に逃げまわり、意表を突いて攻撃を敢行する。既にリ級重巡洋艦は幸運にも砲弾が目を抜き抜けて脳天を砕き、一部を行動不能にしていた。それでもしつこくル級二艦が響を捕捉し、隙あらば一六インチ砲を放たんとしていた。その度に響は増速して旋回半径から逃げ出し、また同士討ちを誘発する状況へ持っていくことで砲撃を断念させ、致死的な砲撃から身を躱していた。至近距離に撃たれれば、響のような駆逐艦ではたとえ直撃せずとも命はない、それが戦艦の巨砲だった。生き残るためには避けるよりも砲撃させないことが最重要だった。

 

 あまり時間をかけることは得策ではなかった。倒した分、敵が増えてくることが既にわかっていたからだった。既にル級と()()()()()()をしている中でも、新たに駆逐艦や軽巡洋艦が戦場に現れていた。その度に響はそれらを倒し、ル級を相手に戦いを続けていた。気力と体力、それに弾薬がジリジリと削られていった。

 

Соси хуй(くたばりやがれ)!」

 

 千日手に入りそうだ、という嫌な予感を抱きはじめた頃に、突然そんな声が聞こえた。直後、視界の端にいた片方のル級の近くで何か動き、爆ぜた。そのままル級は崩れ落ちるように沈む。ほぼ同時に、同じようにル級の近くに爆炎が上がり、ル級は動きを止める。よく見ると、どちらも顔面に大穴が開いていた。口だけは相変わらず釣り上がっていて、やはり気味が悪かった。

 響は呆気にとられ、呆けた顔のまま沈むル級をただ眺めていた。それぞれの後ろからベドーヴイと敷波が現れても、すぐにはその表情は戻らなかった。

 

「ぼやぼやしてられないよ、さあ早く」

 

 置いていくぞ、と言わんばかりにベドーヴイは響と合流するとすぐに前進を始めた。慌てて響もそれに続く。再び、艦隊は進む。

 

「助かった、ありがとう……顔面に捩じ込んだのかい?」

「どういたしまして。ああすればボクらの主砲でも倒せるからね、かなり引きつけてくれてたから簡単だったよ」

「ベドーヴイから聞いた時は気が狂ってるんじゃないかと思ったけど、何とかなったね」

 

 ふと、響は周囲を見回す。今いるのは、響、ベドーヴイ、そして敷波だけだった。

 

「……沈んだんだね」

 

 ベドーヴイは無言で響に腕を突き出した。手に艦札が二枚、握られていた。

 

「これは……()()、回収したのかい」

「そ、()()。全く……響はよくこんな無茶苦茶なのに付き合って来れたね、アタシはびっくりの連続だよ」

 

 敷波が参った、という風に両手を上げて肩を竦めた。

 

「これは彼女たちの唯一の生きた証だから。何としてでも残しておかないといけない」

 

 艦札を首に掛けながらベドーヴイは応じた。既にいくつもの艦札がベドーヴイの首に掛かっていてた。

 そんなベドーヴイをちらりと見て、敷波は首を振る。呆れ果てた、と表情が物語っていた。

 

「どうせ沈むってのに?」

「沈まないよ」

 

 ベドーヴイが敷波を見る。睨むでもなく、ただ見ていた。そのまま再び同じ言葉を言った。「沈まない」

 敷波は少しだけ表情を歪めた。ベドーヴイから顔を逸らし、フン、と鼻を鳴らした。「どうだか……」

 

「それに、もうそろそろゴールだよ。終わりは近い」

「それって、勘?」

「主の導き」

 

 ベドーヴイは真顔で言った。敷波は吹き出し、ケラケラと笑った。

 

Подумаешь(大したこった)!」

 

 

――――――――

 

 

 “主の導き”が正しいかはどうかとして、実際にベドーヴイの言う通りになった。それもまあ最悪の方向で。

 私たちは“巣”の奥に辿り着いたんだ。そこには盛大なお出迎えが待っていたよ。戦艦から駆逐艦まで勢揃い、更には恐らくは“女王”のような、見たこともない敵が出てきた。高々駆逐艦三艦には過ぎた歓待さ。

 そして“巣”の奥に辿り着いて、しかも“女王”まで出てきたとなると……そう、作戦はとっくに完了していた。戦う必要はない、後は逃げるだけだった。勿論、敵もハイどうぞとは逃がしてくれない。でも、逃げないと敵と一緒に吹き飛ばされるのは明らかだった。これまた、都合の悪いことに――軍令部(彼ら)からすれば都合のいいことに――風が止んだ。敵機が来るのは目に見えていた。ついでに雷撃もできるようになってしまった。

 

 正直に言うとね、遠くからとはいえ姿を見た瞬間から気分が悪くて仕方なかった。まだ小粒のような大きさでしかない、表情も見えない。でも、()()は私たちがどうこうできる代物じゃない、というのが本能的にわかった。圧倒的な力で圧し潰すしかない、それ以外ではどうにもならない、そう思った。だから迷わずビーコンを起動させた。ベドーヴイも敷波も同じだった。直前になって上空に偵察機が見えたし、発信機もきちんと作動していたはずだから、既に発見していたとは思うけども、それでも押さずにはいられなかった。「これは君たちに任せる」という意思表明だ。勿論軍令部(彼ら)はそのつもりだったろうけどね。

 

 勿論、敵に見つかっている以上は砲撃も飛んでくるし雷撃も艦載機も飛んで来る。幸いにして“女王”はこちらに動いては来なかったけども、敵の大群が向かってきた。勿論、後ろからも追いかけてきている。進むも退くも向かう所鬼だらけさ。そして、進むしかなかった。不快感を抑えて、“女王”の方へ。戦うためでなく、逃げるために。

 

 砲撃を掻い潜って、“女王”に近付くにつれて気分は最低になっていった。何というか……言葉では言えない。胸にどす黒い何かを無理矢理押し込められるような、息が詰まるような気分だった。()()は……いや、やっぱりよくわからない。今でも。

 

 勿論そんな至近距離まで近付いた訳じゃない。結構離れていた。それでもそんな気分になったんだ。……不思議なことに、“女王”それ自体はこちらに何か攻撃を仕掛けてくるでもなく、ただ私たちが逃げ去るのを見ていた。何となく……笑っていなんじゃないかと思う。いや、表情なんて見てない、ただ、雰囲気でそう感じただけさ。

 

 時間的余裕は一切なかった。既に主機の規定出力はかなりオーバーしていて、いつ火を吹いてもおかしくなかった。それでも壊れないように出力を落とす、なんて考えはなかった。あったのは、このまま逃げて、祖国(ロシア)に行く、それだけだった。勿論基地に戻ることもできたけど、ベドーヴイは欠片もそんなこと考えなかっただろうね、勿論敷波も。

 

 私たちはただただ進み続けた。水上艦は何とかなる、砲撃も何とか避けることができる。問題は……敵機だった。これまたとんでもない数の攻撃機や爆撃機が襲ってきた。その度に行足を止められ、砲撃が迫り、また逃げる……そして、あの時を迎えた。

 

 最初に、ジェットエンジンの轟音が聞こえた。それからすぐに、衝撃波がやって来て……私たちはそれに飲み込まれた。まさに天の怒りだった。物凄い勢いで吹き飛ばされて、そして叩きつけられて、意識を失った。最後に見たのは、天高く上がる海水の球だった。つまりは……私たちは間に合わなかったんだ。そして、それが最期になると思った。

 

 実際のところ、気を失っていたいた時間はそう長くはなかったと思う。一番最初に意識を取り戻したのは私だった。

 辺りに誰もいなかった、ベドーヴイも、敷波も。まさか沈んだか。最初はそう思った。とりあえず、敵もいなかった。夕暮れが近いのか、妙に空が赤くて、そして海は死んだように静かだった。気を失っている内に主砲はどこかへ飛んでいったのか、持っていなかった。艤装もパーツが殆ど吹き飛んでいたけども、主機そのものはなんとか無事だったようで、とりあえず動きまわって探すことにした。どちらにせよ、方向を完全に失っていたからね、どこにも行けなかった。

 

 最初に見つけたのはベドーヴイだった。遠くの方で、艦札(タグ)が光ったのが見えて、それで気付いたんだ。仰向けに、目を瞑って漂っていた。艤装は全部吹き飛んでいて、しかも傷だらけで、死んでるのかと思った。恐る恐る近寄るとしっかりと息をしていた。かなり、いやとても安心した。まだ生きてる! 沸々と希望が湧いてきた。

 ただ、何度揺すっても、何をやってもベドーヴイは目を開けなかった。仕方ないから、艤装の残骸にベドーヴイを乗せて、背負うことにした。そうして敷波を探すことにしたんだ。

 

 敷波は周囲を何十分と探し回ってようやく見つけた。敷波は死んでいた。

 どうして死んでしまったかはわからないけど、目を開けて、瞳孔が固まっていたから少なくとも確実に死んでいたんだと思う。驚いて、ぽかんと口を開けた表情のまま、まるで時間が止まったみたいに死んでいた。生きてるみたいだったけど、死んでいた。首の艦札(タグ)は無事だったから、それだけ回収して、そのまま敷波とは別れた。別れ際、ゆっくりと、敷波は沈んでいった。

 

 敷波の艦札(タグ)を見て、どうしてベドーヴイが回収に拘っていたのかやっとわかった。名前が入っていたんだ。いや、艦名じゃない、正真正銘の“名前”だよ。見た時は驚いた。私のには勿論、通常の『志願』でも、まず名前が艦札(タグ)に刻まれることはない。そういう決まりだから。でも、彼女たちのには刻まれていた。ベドーヴイは知ってたんだ。だから回収した、そして、敷波もそれに付き合った。確かに、それは彼女たちの生きた証だったんだ。

 

 

――――――――

 

 

Вставай(立ち上がれ), страна огромная(広大なる祖国よ)

 

 響はベドーヴイを背負い、ゆっくりと進む。主機だけが残っている現状では、あまり速度は出せなかった。

 

Вставай(立ち上がれ) на смертный бой(生死を賭けた戦いへ)

 

 ずっと、同じ曲を歌っていた。ベドーヴイの目が開くのを待っていた。

 

С чудовищем силой тёмною(暗黒の怪物の力に立ち向かい)

 

 それでも、ベドーヴイは沈黙している。響は宛もなく進む、恐らくは祖国があるであろう方角へ。

 

С проклятою ордой(呪われた敵に抗うのだ)

 

 もう、夕暮れだった。水平線に太陽が落ちていくのが見える。

 

Пусть ярость благородная(気高き怒りを)

 

 既に息も絶え絶えだった。爆発でのダメージは少なくない。響は離れそうになる意識を、ギリギリのところで保っていた。

 

Вскипает, как волна(波浪の如く、うねり立たせよ)――』

 

 響、と耳元で声がした。響は思わず足を止め、振り返る。ベドーヴイの顔は髪に隠れて見えなかった。

 

「ベドーヴイ! やっと――」

「響」

 

 響の言葉を遮って、ベドーヴイは話す。

 

「ありがとう、ボクはとても、感謝してる。君のお陰だね」

「そんな言葉、後でいくらでも聞くよ、今はその意識を保ってほしい」

「いや、今言わなきゃいけないんだ、響」

 

 ベドーヴイの声はお世辞にもいつものような調子とは言えなかった。弱く、今にも消えそうな声だった。

 

Огромное спасибо(本当に、ありがとう)、響」

 

 遠く、前方に淡い航海灯が見えた。船だった。それを見たベドーヴイはフッと笑う。「そして――」

 

Добро пожаловать в Россию(ようこそ、ロシアへ)

 

 途切れ途切れにそう言うと、ベドーヴイは再び沈黙した。いくら響が呼びかけても意味はなかった。

 前方から船が迫る。日本のものとは大きく異なる戦闘艦だった。内火艇らしき小艇が降ろされ、こちらへ向かってくる。軍人然とした男が――水兵とは異なる制服を着ていたことから将校だと響は思った――何か話しかけてきた。響は首を振り、背負っていたベドーヴイを上げてくれ、と身振りで示した。

 男は意思疎通を諦めたようで、水兵に指示を出し、ベドーヴイを小艇に引っ張り上げはじめた。

 

「いいか、よく聞いてくれ。彼女はベドーヴイ、君たちの同胞だ……どうか丁重に扱ってくれ、お願いだ。ようやく彼女は祖国に帰って来れたんだ、うんと歓迎してやってくれ……」

 

 通じないとわかっていても、響はそう言わずにはいられなかった。通じたかはわからないが、水兵たちは慎重にベドーヴイを小艇に引き上げ、ゆっくりとその床に横たえた。

 それを確認すると、糸が切れたように、響は気を失い、海面に倒れた。

 

 

――――――――

 

 

「私はそのままその艦のヘリコプターでウラジヴォストークの病院に運ばれた。ベドーヴイも一緒さ。だけど……ベドーヴイの方は担架ではなく死体袋だった」

 

 響は淡々と言った。「そう、さっき言ったように、ベドーヴイは死んでいた。死んでしまった」 

 

「いつ死んだのかは知らされなかった。もしかしたら、私はずっと彼女の死体を担いでいたのかもしれない。でも、私は声を聞いたんだ、あの声を」

 

 思い返すように、響は目を瞑る。その脳裏では、ベドーヴイの声が反響しているのだろうか、と男は思いを寄せた。

 そこまで長くは目を瞑ってはいなかった。やがて響は目を開けると、再び話を続けた。

 

「病院では根掘り葉掘り聞き出された。妙に日本語が上手な将校が――情報将校だったのだろうね――よく()()()()になってくれた。そこでベドーヴイについて知っていることを全部話して、彼に託したんだ。どうか、ベドーヴイを家族の元へ、祖国で安らかに眠らせて欲しい、そして、彼女たちの艦札(タグ)をあるべきところへ、と。彼は約束してくれた」

 

 勿論、と響は苦笑しつつ前置きした。

 

「口約束だった。それが反故にされたって、私には知り様がない。何しろ私は一週間ほどしてから日本に送還されたからね。雲の上で、何かしらの取引のようなものがあったんだと思う」

「取引、ですか」

「ああ。軍令部(彼ら)としても艦を外国に留めるのは嫌だっただろうし、何しろ私は作戦で死ぬはずだったかところを生き残ってしまったからね、是が非でも回収したかったんだろう。一ヶ月ほどは(おか)で食客暮らしかと思ったけども、案外終わりは早かった」

 

 驚くべき仕事の早さだよ、と響は皮肉るように笑った。ふと、思い出したように制帽に手を伸ばす。

 

「でも私は約束は守られたと信じている。妙な自信だと思うかい? それはね、病院で過ごす最後の日に、私は彼からプレゼントを受け取ったんだ。月の徽章をね。私を哀れんでか、それとも情報をペラペラと喋ったことのお礼か……さあ、わからないね。でも、そんなことをやってくれたんだ、約束は守ってくれた、そう信じている」

 

 響の制帽には特Ⅲ型駆逐艦を示す『Ⅲ』の徽章と睦月型駆逐艦を示す『三日月』の徽章が佩びられていた。男の視線に気付いてか、響は笑う。

 

「これは違うよ、別口で作って貰ったものさ。ベドーヴイのは保管してある。これは……そうだね、自戒さ。お前はもう死んでいるぞ、というね」

 

 響は酒瓶の封を切ると、一気に呷った。その様子に男はギョッとした。

 

「身体に障りますよ」

「知ってるさ、でも、こうすることが一番なんだよ。私の身体にはね」

 

 呆れる男を無視して、さて、と響は話を変えるように言った。濃厚なエタノールの臭みが漂ってくるような気がした。

 

「日本へ連れ戻された私はどうなったか? ……どうもなかった、特別扱いなんてないよ。横須賀の『病院』に送られて検査、そして少しだけ療養してから、また前線さ。そう、ここへ送られた。ちょうど敵が反攻に打って出てきた時期でね、やっぱり私はそういう運命だったらしい」

 

 カラカラと響は笑う。

 

「だが、私はこうして生き残った。当然さ、既に私は死んでるんだから、これ以上死にようがない」

「命を置いてきた、と」

「そうさ。本当は私は死ぬはずだった、でも生き残った……ベドーヴイの言う()の導きかもしれない。それならベドーヴイを生き残らせるべきだったと私は思う。そんな神など信ずるに値しない。だから、私は無神論者なんだ。神も仏もない。ただ、私という死体があるだけだ」

「唯物論ですか」

「そんな高尚なものじゃない、不勉強でね」

 

 再び響は酒を呷る。酒瓶から透明の液体が面白いように消えていった。「さて――」

 

「これで、お終いさ」

 

 響の顔に紅味が差す。明らかに、酒によるものだった。暗に、これから先は私の時間だ、と言っているようでもあった。

 

「最後に、一つだけ、質問させていただいても?」

「いいよ」

「なぜ、今も歌を?」

「ベドーヴイに会うために」

 

 響は酔っ払っているように見えた。目が据わっていた。

 

「私にとって、歌はベドーヴイそのものなんだ。歌えば、そこにベドーヴイがやって来る。私に笑顔を見せてくれる。いや……歌だけじゃない、ベドーヴイは私そのものなんだ」

 

 私は、ベドーヴイ。制帽の『三日月』をそっとなぞり、ゆっくりと響はそう言った。

 

「貴女が、ベドーヴイ……?」

「そう、私は響であり、Беспощадный(ベスポシシャドゥヌイ)であり、そしてБедовый(ベドーヴイ)だ」

 

 男は困惑の色を隠せずにいた。

 

「私は死んでいる、けども、私の中で、ベドーヴイは生きている……」

 

 俯きながら、自分に言い聞かせるように響は言う。顔を上げ、難しいかい、と響は尋ねた。

 

「正直なところ……ええ、そうですね、その感覚はわかりません。わかることもできるかどうか」

「当たり前さ、こんなの、私だけで十分だよ。……そろそろ、私の時間を返してもらってもいいかな?」

 

 響は酒瓶を空にしつつ言った。まだ、いくつも酒瓶が残っていた。

 男は立ち上がり、深く礼をする。

 

「たいへん、ありがとうございました」

「ああ、そういえば……君に言ったの、結構機密が入っているから注意してくれ。君が縛り首になるのは見たくないからね」

 

 まあ、そんなドジは踏まないだろうけど、と響は小さく笑った。男は苦笑する。

 

「注意します。それでは……失礼します、ありがとうございました」

 

 男が背中を向け、立ち去る……と、そこに響が声をかけた。

 

「ああ、ちょっと待った……。煙草、貰えるかい? 投げてくれていいよ」

これ(ピース)、お嫌いでは?」

「たまには試してみるのも悪くない」

 

 どうぞ、と男は再び響に歩み寄り、煙草を渡した。

 

「ありがとう、それじゃあ、気をつけて。さようなら」

「ええ、ありがとうございます、それでは」

 

 そして男は立ち去った。暫くすると、調子外れの歌が聞こえて来た。

 男は振り返らなかった。

 

 

――――――――

 

 

Вставай, страна огромная,

Вставай на смертный бой

С чудовищем силой тёмною,

С проклятою ордой.

 

 

立ち上がれ、広大なる祖国よ

立ち上がれ、生死を賭けた戦いへ

暗黒の怪物の力に立ち向かい

呪われた敵に抗うのだ

 

 

Пусть ярость благородная

Вскипает, как волна, —

Идёт война народная,

Священная война!

 

 

気高き怒りを

波浪の如く、うねり立たせよ

人民の戦いへ身を投じるのだ

聖なる戦いへと!

 

 

――日本海で絶望的な戦いへ身を投じた艦娘たちが歌った『Священная война(聖戦)』(一九四一年、ヴァシーリ・イヴァーノヴィチ・レベジェフ=クマチ作詞、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・アレクサンドロフ作曲)の一節


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