艦娘哀歌   作:絶命火力

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COG.4 -「スラブ娘たち」

 あの時もベドーヴイが歌っていたのは『Священная война(聖なる戦い)』だった。ベドーヴイの大のお気に入りだった。私も好きだった。酒が手に入った時なんかはよく一緒に歌ったものさ。『За свет и мир мы боремся!(我らが戦うは平和の光を取り戻さんが為!)』とベドーヴイが言えば、『Они — за царство тьмы!(奴らが戦うは世界を闇の中に包まんが為!)』と私が返すのがいつもだった。

 暗い海の底からやってくる闇の軍勢、それはファシストなんかよりももっと強大で、恐ろしい敵だ。私たちの戦いはまさに『聖戦』なのさ。比喩でなく、本物の化け物から人々を守る。世界を闇で包まれないように、私たちは戦っている。今までも、そして多分、これからも……。

 

 さて、まだもう少し話は続くんだ、まだ煙草は……ちょっと心許ないかな? まあ大丈夫さ、きっと。

 

 新潟での日々は、あの島よりも――いや、この島なのだけどもね――戦いの連続だった。

 言った通りさ。能動的に自分たちから動いて、敵を発見しに行く。ひたすら受動的な戦いだった――そして多少は休息のあった――島での日々とは真反対。探せば敵はどこにだっていた。艦隊を組むもの、はぐれたのか単独で航行するもの、立ち止まっているもの、何を思ったか全速力で陸地に向かって行っているもの……色々だ。

 

 深海棲艦の討伐は想像以上に進んでいなかった。いや、進んではいてもそれ以上に敵が数を増していた、と言うべきかな。どこかに大きな“巣”がある、なんてことを言うのもいた。

 確かにそう考えざるを得ないほどだった。対馬、津軽、宗谷。少なくともこの海峡については戦争が始まってからあの時にには既に封鎖されていたからね、鼠一匹、とはいかないけども少なくとも大規模な部隊の侵入はほぼあり得なかった。かつて封鎖が完了した時はそれはもう万歳三唱、これで一段落、という雰囲気だったらしい、ベドーヴイ曰くね。日本海側はこれから安全になる、と。日本海は孤立した、後は敵を削っていけばいい……はずだった。

 うん? 間宮海峡? 知らないのかい、あの海峡は驚くほど浅いんだ、加えて狭い。それに一年の大半は氷漬けになっている。深海棲艦はおろか私たちも通るのは難しい。

 

 まあ結果のところは……そこから多少の数は減り、少し勢力圏は回復したものの、結局戦争が始まった頃とやってることは一緒さ。敵を見つける、敵を倒す、たまに倒され、沈む。私たちが新潟に来ても、実際のところは何も変わりはしなかった。統計に、敵の撃沈数、それに多少の味方の轟沈が加算されただけだ。実のところは、私たちが来てから、勢力圏がほんの僅かに拡大したらしい。とはいっても、実感は一つもなかった。多分、戦況を良く見せるための数字の魔術か、何かの計算違いだったんだろうさ。

 

 ほぼ毎日、私たちは弾薬のある限り敵を見つけ、そして倒して回った。領海を出て、接続水域や果てはEEZ(排他的経済水域)の方まで行って、敵を倒して、そしてまた帰る。一応、領海内ではほぼ敵はいなかったからね。だからこそ内航船を運行でき、ギリギリのラインで何とか経済を保つことができたからね。まあ、たまに襲われることもあったけども。

 『モグラ叩き』といえば皆南洋の戦いばかり言うけども、私たちだって大いにモグラ叩きをやっていたんだ。こっちで倒せばあっちで敵が出る、あっちへ向かって何も出ない、そっちへ行けば背中から敵が襲ってくる……そんな毎日さ。

 

 そんな毎日も、ベドーヴイは倦まずに過ごしていた。仲間を率い、敵を倒して回る。常に先頭を行き、(さきがけ)として敵陣に切り込む。窮地に陥った味方がいれば、どんな状況でも助けに行く。ついでに言えば……どこからともなく、嗜好品を手に入れてくる。君は笑うだろうが、これも大切な、とても大切なことだ。一番大切だと言ってもいい。

 

 つまり、ベドーヴイは優秀な兵士であり、部隊長でもあった。基地の誰もが艤装に描かれた()()()スローガンを――かつて白いペンキで塗られたあのスローガンたちさ――見れば安堵した。ベドーヴイがいれば大丈夫だ、と。英雄がついている、と。

 

 そう、英雄。

 

 新潟に来てから、ベドーヴイはまさにそんな活躍振りだった。それこそ、勲章なんてすっ飛ばして“連邦英雄”になれただろう。それくらい、ベドーヴイは敵を倒し、味方を救い、船を、人々を守った。祖国へ帰る、ひたむきに、ただそれだけを目指して。ベドーヴイにそのつもりはなかっただろう、だが、その活躍はベドーヴイを“英雄”へと押し上げていった。

 

 ところで、英雄というのは、その死をもって英雄として完成されると私は思うんだ。誰も英雄として死のうなんて思っちゃいない、ただ、死んでから様々な理由をもって英雄になるだけ。生きながら英雄となる者は一握りだけ。英雄とは、尾鰭の付いたイメージが伝説となって作られる……そうは思わないかい? 実際“連邦英雄”を授与されるのは死後であることも多々ある。“連邦英雄”だけじゃない、名誉勲章(メダル・オブ・オナー)だってそうだし、ウチの“特別武功勲章(遠山の金さん)”だってそうさ。死者に、名誉を。そういうものさ。

 

 何か疑問かい? ……ああ、“遠山の金さん”ってのは特別武功勲章の渾名のこと。どんな勲章かは知ってるだろう? 海上戦闘で特に武勲があった時に贈られる、波をモチーフにした青地に金色の『桜に錨』が載せられた楕円の勲章。青地に桜だから、誰が言ったかそういう通称になってるのさ。まあ、豆知識みたいなものだね。

 

 英雄について、もう一つ思っていることがあるんだ。英雄は死なない、と。なぜなら英雄は死者から生み出される伝説だから。伝説は記録に残され、語り継がれ、再生され続ける。

 英雄譚が伝えるのはその活躍だけだ。それ以外の情報は伝説には無駄だからね。だけど、少し寂しいと思わないかい?

 “英雄”ベドーヴイは伝説として生きる。じゃあ、“英雄”でない、“兵士”いや“(フネ)”としてのベドーヴイは……どうなるだろう? 記録に残らない無名兵士は、どうだろうか?

 

 

――――――――

 

 

 響は絶句した。

 酒が入って多少紅潮していた顔も、今は冬を先取りしたかのように真っ白になっていた。

 少し顔を引き攣らせて、頬や眉を一通り痙攣させてから、ようやく小さく口を開いた。途切れ途切れに、言葉を綴る。

 

「ベドーヴイ……君、本気なのかい、それは」

「本気だよ、もう決めたことなんだ」

 

 ベドーヴイはキッパリと言い切った。

 意志の固さを物語るような、光に満ちた双眸が響の目を真っ直ぐ見つめた。

 響は頭を振る。激情に駆られて心が昂ぶらないよう、あくまで冷静に、落ち着くように心掛けつつ話を続ける。

 

「間違いなく、死ぬよ。自殺的すぎる……そんなの海上特攻と何が違うと言うんだい。そんなに事態は逼迫しているかい? 私はしていないと思う、そんな必要はない。少なくとも、君がその人身御供になる必要は」

「ボクはもう……待てない。対馬を渡って、釜山の港を前にしながら、日本へと戻ったあの日から、ボクはもう随分と待ったんだ」

 

 ベドーヴイは溜息を吐きつつ、遠い過去を想うように、目を暫く細めていた。

 

「あれからもう何年も経った……遠い遠い南の島で来る日も来る日も待ち続けた。必ずいつか、きっと戻れる、と。そして、今ようやく、開始地点に戻ってきたんだ。まだ、開始地点なんだよ? それなのに、一歩も動けてない。一歩も……。気付いてたさ、強がり言ってても、気付いてたんだ」

 

 今にも泣き出しそうな顔で、ベドーヴイは響に訴えかけた。それでも、響の表情は硬い。

 

「あまりにも、残酷だよ……。一体、ボクはいつまで待てばいいのかな? ボクは精一杯やってる。それこそ“英雄”になるくらいに、でも、何も進んじゃいない。もう、その事実から目を背けることはできない」

「すごろくは、進める目は決まってるんだ、ベドーヴイ。突然ゴールへ行けるルートが出てくることなんて、ありえない。サイコロを振って、辛抱強く進むしかないんだ、たとえそれが『一』の連続だとしてもね。君も、わかってるだろう?」

「『一』ならまだいいよ、でも最近は『〇』や『マイナス』ばかりだ、そう思うでしょ? ジリ貧だ、って」

「……確かに、そうだ。それは……間違いない。だからこそ、それが自殺的だと言ってるんだ。そんなのは博打ですらないんだ」

「わかってる、わかってるんだ……! でも、それでも!」

 

 涙が一滴、ポトリとベドーヴイの目から零れ落ちた。ベドーヴイは言葉を詰まらせる。響には後の言葉は言わずともわかった。

 響は傍らに座るベドーヴイを抱き寄せた。ベドーヴイは響の肩に顔を埋めた。小刻みに、ベドーヴイは震える。響はその背中を軽く撫でた。

 

「ベドーヴイ……君は、もう……」

 

 響は目を瞑る。考える。ベドーヴイのこと、自分のことを。

 熟慮、というほどの時間はかからなかった。決心し、目を開けた。

 わかった、と響は言った。それは自身の決意の確認であり、ベドーヴイの決心への自分なりの“答え”だった。

 

「それでも、それでも君が行くというなら……私も行く。君と、共に。……君の神様というのを、少しだけ信じてみよう。最初で、最後に」

 

 ベドーヴイの耳元で、響は小さく、そう呟いた。

 思いがけない響の言葉に、ベドーヴイの震えが止まる。おもむろに顔を上げ、響を見た。

 響の言葉の意味を理解したベドーヴイの顔色が変わる。表情が強張る。

 ベドーヴイが口を開けた――おそらくは猛反対するために――その時、響は一瞬だけ微笑み、ゆっくりと歌い始めた。

 

Вставай(立ち上がれ), страна огромная(広大なる祖国よ)

 

 ベドーヴイは涙を拭いながら、呆気にとられたかのように口を開けたままぽかんとした。

 

Вставай(立ち上がれ) на смертный бой(生死を賭けた戦いへ)

 

 響は歌い続ける。やがて、ベドーヴイも困惑しつつもそれに続いた。

 

С чудовищем силой тёмною(暗黒の怪物の力に立ち向かい), С проклятою ордой(呪われた敵に抗うのだ)――』

 

 そのまま、歌は続く。いつになく、響は真剣な顔で歌っていた。

 

『――Идёт война народная(人民の戦いへ身を投じるのだ), Священная война!(聖なる戦いへと!)

 

 最後まで歌うと、響はベドーヴイに笑顔を見せた。

 

「……ありがとう、響。本当に、本当にありがとう。君には……助けられっぱなしだね、何から、何まで」

 

 俯きがちにそう言ったベドーヴイの表情はまだ暗かった。

 

「いいさ、私が決めたことだ、君が気にすることはない。……私こそ、君がいなければあの島で野垂れ死んでたさ。ベドーヴイ、全て、君のお陰さ」

 

 少し、しんみりとした空気が漂う。響もベドーヴイもお互い黙ってしまった。

 その沈黙を破るように、響は傍らに置いていた酒瓶を再び持ち、これみよがしに高く掲げた。ベドーヴイに向かってニヤリ、と笑う。

 

「もう決めたことなんだ、辛気臭いのはよそう。さあ、呑み直しだ。今度は本場のヴォートカで、私たちの決意と未来に……乾杯だ」

 

 

――――――――

 

 

 唸り声を上げるガスタービンエンジン――ゼネラル()エレクトリック()製LM500-G07型ガスタービンエンジン、それをIHI(石川島播磨重工業)でライセンス生産した品――の特徴的な高音は船体内の食堂兼待機室によく響いていてきていた。

 海は荒れているのか時折派手に船体が上下する。確かにシートベルトが無いと、この速度――おそらくは40ノットを超える速度――では壁や天井と勢い良く挨拶することになる、と響は思った。

 ふと、斜め前で同じように座っているベドーヴイの動きが目に入った。他の艦娘がじっと静かにその時を待つ中で、ベドーヴイが身体を動かしたのが目立ったのだった。

 ベドーヴイは制服のポケットに手を突っ込むと、煙草を取り出した。響の表情が一瞬固まり、呆れ果てたという風に手で額を覆った。

 そんな響のことはお構いなしに、ベドーヴイは隣の艦娘に煙草を差し出す。相手は受け取り、これまたベドーヴイが差し出したライターで火をつけた。あまり広くはない部屋、蛍光灯の明かりのみが頼りのその空間に薄い煙が漂う。その様子は他の艦娘の注目を集めたが、幸運にもそれに文句を言う艦娘はいなかった。

 

「君、出身は?」

 

 ベドーヴイが尋ねる。初めて、この部屋でガスタービンエンジンの轟音以外の音が聞こえた。

 対する艦娘――特型駆逐艦、その中でⅢ型とも暁型とも言われる艦種の一番艦である暁――は怪訝な顔になる。

 

「……ナホートカ、あなたは?」

「ウラジヴォストーク」

 

 あら、と暁が意外だという風に声を上げた。

 

「同じ極東出身なのね」

「だろうと思った」

「どうして?」

「同胞の匂いを感じたから」

 

 暁は笑った。

 

「ナホートカとウラジヴォストークじゃかなり差があるわ」

「ボクは鼻が効くからね。それくらい問題ないのさ」

 

 そこに嘲るような声が入る。別の艦娘の声だった。

 

「全く、こんな時だってのに暢気ね」

 

 そう言ったのは響の二つ隣に座る、駆逐艦叢雲だった。勝ち気そうな顔は呆れと怒りが織り交ざったような表情だった。

 そんな様子も気に留めず、ベドーヴイは叢雲にも尋ねる。

 

「叢雲、君はどこ出身なの?」

「もうあと僅かな命だって言うのに、そんなの言ってもしょうがないじゃない」

「そうかな? 上手く行けば生きて辿り着けると思うけど」

「ありえないわ。そんなのゼロよ、Ноль целых и хуй десятых(全くのゼロ)

 

 忌々しげに、叢雲は特に最後の部分を強調して言った。

 ベドーヴイは叢雲の言葉に反応し、クスリと笑った。「久々に聞いたよ、その言葉」

 叢雲は「何か文句でも?」と言いたげな顔をした。

 

「別に使ったっていいでしょ? どうせわかる連中しかいなんだから。……よくもまあ、こんなに生き残ってたものね」

 

 そう言うと叢雲は周囲を眺めた。誰かが、フン、と鼻で笑った。

 

「生き残ってたから、在庫処分するのさ……ねえ、それアタシにも一本貰えない?」

 

 叢雲の呟きに、その内の一艦、駆逐艦敷波が吐き捨てるように言った。

 ベドーヴイは煙草のパッケージを投げて寄越した。「みんなも吸いなよ」

 生憎喫煙者じゃないのよ、と叢雲は応えた。

 

「所詮アタシらは員数外の存在、何の因果か生き残っちゃって持て余されてるだけだもん。あの時期の人権侵害でも一番デリケートなのの生き字引きなんて、そりゃ丸ごと沈めるに限るよ、アタシだってそう思う」

 

 火をつけつつ、敷波は言う。どことなく諦観のようなものが言葉の中に感じられた。

 

「じゃあ、賭けをしよう」

「賭け? 何を賭けるっての?」

「そりゃ、この作戦の成功だよ」

「“作戦”ね……。でもその賭け、成り立たないんじゃないの」

 

 敷波は苦笑しながら言った。ベドーヴイは首を傾げる。

 

「もしアンタが勝ったとして、アタシから何を持ってこうっていうの? そもそも、乗ると思う?」

 

 あ、とベドーヴイは今更気付いたかのように声を漏らす。周囲から笑いが漏れた。

 

「うーん……それじゃあこうしよう。作戦が成功したら、ボクの祖父の別荘(ダーチャ)の権利をあげる、みんなにね……どう?」

 

 複数の失笑が流れる。ダーチャじゃねえ……、という声や、質による、という声が聞こえた。

 

「質は悪くないよ。ウラジヴォストークから車で北に一時間半、駅から徒歩一五分、水も電気も来てる、広さはそこそこ、畑は広々、その気になれば暮らせるよ」

「まあ聞く限りじゃ悪く無いじゃん……ただ、暮らすのは勘弁かな」

 

 敷波が笑う。「ま、私はヤラスラーヴリだから行けないけどね、いくら何でも遠すぎ」

 ヤラスラーヴリなら行けるじゃん、とベドーヴイは言った。「線路が繋がってる」

 

「アンタねえ……『ロシア』にでも乗せる気なの?」

 

 思わず叢雲が突っ込みを入れた。そうだね、というベドーヴイの言葉に再び笑い声が上がる。

 いつの間にか、場の雰囲気は当初と打って変わって明るいものとなっていた。

 それでも、ガスタービンエンジンの音は、否が応でも死地へと刻一刻と向かっていることを全員に意識させた。意識しても、尚笑い、与太話を繰り返していた。

 

 

――――――――

 

 

 気味が悪いくらいに静かだった。先刻まであれほど荒れていた海も、黒雲に近い鈍色の雲の下、今は穏やかに凪いでいた。

 

「こりゃまた」

「お誂え向きだね」

 

 自分たちを運んできたミサイル艇から降りた艦娘たちは、各々、その異常さを口々に評した。そのミサイル艇も今は水平線の向こうへと消えている。

 

「それで、どうすんのさ? ベドーヴイ?」

 

 敷波が尋ねる。殆ど何の摺り合わせもなく“作戦”に投入されたので、誰を部隊長とするか、そもそも部隊としてどうするかすら放任――つまり何も決まっていなかった。ただ、漠然とした目標と“在庫処分”の艦娘だけが集められただけだった。

 そんな状況で、自然とベドーヴイが指揮を執る、そんな流れになっていた。それは、与太話の中でベドーヴイが『ベドーヴイ』として自己紹介をしたからかもしれないし、ベドーヴイの数々の活躍を噂話として知ってる艦娘が多くいたからかもしれないし、ベドーヴイが最初に沈黙を破ったからかもしれなかった。

 

「作戦通りさ。祖国を信じて、前進あるのみ」

「それだけ?」

「それだけだよ、あ、敵が来たら倒す、ってのも追加しとこうか」

 

 楽天的な調子でベドーヴイは言う。

 

「いざとなれば何とかできるさ、今まで君たちは生き残ってきたんだから」

「何とか……ね」

「やるだけやってみるしかないでしょ? もう帰れないんだから。……誰か、異議はある?」

 

 誰も声を上げない……と思ったところで響が手を上げた。「質問、陣形は?」

 

「艦が多いからね、五艦づつの複縦陣で行こう。ボクが右舷側の先頭、左舷側は……敷波、君が一番長いんだっけ? 任せるよ」

「了解」

「他は……どうしようか、適当でいいかな。じゃあまずボクの方は叢雲、次が朧、その次に――」

 

 そうして急造の――本当に急造の――艦隊が完成した。響はベドーヴイを先頭とする艦隊の殿に配置された。

 

「よし、これで完了だね。それじゃあ……出発だ。В путь!(進め!)

 

 艦隊は一路、北へと向かう。海はやはり、凪いでいた。

 黙々と艦隊は進む。波もなく、驚くほど順調に航海は進む。沈黙の中、聞こえるのは主機の音だけだった。

 その沈黙もベドーヴイは破る。出発して一時間が経った頃、ベドーヴイは思いついた、という風に唐突に言った。「歌を歌おう」

 隣の敷波が胡乱げな目を向けた。「何? 藪から棒に」

 

「歌だよ、行軍歌。そうだね、うーん……『Священная война』なら知ってるでしょ?」

 

 どうかな、とベドーヴイは後ろを振り向く。知ってる、という声が複数上がる。そのまま敷波にも顔を向けた。敷波は不服そうな顔をしていた。

 

「……知ってるよ」

「よしきた! じゃあ……響!」

 

 ベドーヴイが響を呼ぶ、遠いので自然と大声になった。

 

「ベドーヴイ、君ってのはね! 全く……」

 

 同じく響も大声で返す。溜息を吐いたが、すぐに渋々という風に、がなるような声で歌い始めた。

 

Вставай(立ち上がれ)страна огромная(広大なる祖国よ)!――』

 

 主機の音に負けないくらいの声が海を揺らす。いくつもの艦娘が織り成す歌声は、どこまでも遠くへと響き渡るかのように思えた。


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