私たちが行ったのは日本海だ、というのはさっき言ったね。日本海と聞くとだいたいは舞鶴か、大目に見て大湊だと思うのが普通だ。私たちもそうだと思ってた……そう、そうじゃなかったのさ。
ではどこか? 日本海一の大都市、新潟さ。
まだあの頃は大混乱の爪痕がそこら中に残っている時期でね、特に港湾なんかはかなり打撃を食らったまま放置されていたんだ。重要港湾の新潟港も最低限の復旧だけで、そこからの工事には手を付けられていなかった。そこで、港湾再整備と基地整備を一緒にやってしまおう、ということになったのさ。流通と沿岸地域の再興、それとその護衛をセットにしてしまおう、というまあ一石二鳥の魂胆、いや利害の一致があったらしい、予算の都合というものなのかな? まあ、停滞気味の深海棲艦撃滅の一手としての面も多分にあったと思うよ。元々基地自体はあったから、それの拡充という形で大きくしたらしい。
そして、重要な事に、新潟からは……そう、かつてウラジヴォストーク行きの船や飛行機が出ていた。勿論その当時は取り止めになっていたけどね。祖国の人々を迎える玄関口、そんな新潟はベドーヴイにとってはまさにうってつけの場所だった。新潟にはかつては日本に取り残されたロシア人たちのコミュニティもあったようだしね。まあ、大半は朝鮮半島経由で帰国してしまっていたようだし、私たちは生憎と娑婆には出れないから関係ないと言えばそうなってしまうけども。それでも、同胞がどこかにいるというのは心強いものさ。
私たちはあの島から船でパラオを経由してダバオまで行って、そこから輸送機に詰め込まれて内地に行った。艤装は誰も彼も損傷が激しくて、新しいのを受領することになったから、身一つで送られた。ダバオ、東京、そして新潟と飛ぶように移動して、あっという間に新天地さ。なんという短さ、世界は狭かったのか、と当時は思った。
基地はまあ、島よりはマシ、という程度だった。当たり前といえばそうなるさ、計画が承認されて工事が始まったからって、一日二日で出来上がる代物じゃない。それでも、
さて、基地に到着してすぐに出撃、という訳にはいかない。基地司令や艦隊司令を始めとした基地要員、それに他の基地から来た艦――どれもクセの強い連中だった――との顔合わせ、港湾の地理や航行規定の把握や艦隊の編成、無線規則や符号の再設定といった事務的なことや、受領した艤装の調整まで色々とやることはある。とても忙しかった。何しろ私たちは栄えある“先遣隊”で、人がロクにいないものだから
ここで一つ面白いエピソードがある。ベドーヴイにも関わる話さ。艤装の話になる。
私たちはただ、『新しく艤装を支給する』としか聞いていなかった。ここに一つ落とし穴があった。いや、官僚的語法と言うべきか……新規、というよりは裏ルートの新古だった、ということさ。確かに、書類上は新規の艤装とされているのが、戦傷や職務期間満了で無事に退役した艦の艤装のレストア品だったりすることはそう珍しくない、それなら何の問題なかった。
だけど、私たちに支給された艤装、それは艤装の着用者が様々な理由で艤装を残して
どうしてか? 沈んだ仲間の艤装を使うならまだしも、顔も名前も――いや、名前はわかるのかな――知らない
何故知ってるのか? ドジな司令部要員がポロッと漏らしてしまったのさ、ベドーヴイに。どうしてか彼女はそういうのに長けていたんだ。そして、私はそれをベドーヴイから聞かされたんだ、別に言ってくれなくたってよかったのに!
確かに、秘密も“共有”して然るべきだけども、すべきものとすべきでないものがある。当然だろう?
――――――――
「それは……何だい?」
「ペンキだよ、艦艇に使う塗料らしいよ。倉庫に転がってたのを拾ってきたんだ」
いや、と響は首を振る。ただ、目線はベドーヴイが持っているモノに釘付けだった。「『それが何か』ではなく、『どうしてそれを今ここで持ってるのか』ということなんけども」
非番の日の夕方、工廠横にある艤装装備区画の隅で、響とベドーヴイは各々の艤装を前に立っていた。ベドーヴイが「重要な話がある」と言って響を連れ出したのだった。そして、ベドーヴイはペンキの入った缶を片手に持っていた。乱雑に持ってきたのか、少々缶からペンキがはみ出し、今にも垂れそうになっていた。
「響、ボクはね、考えることにしたんだ。……確かにこれは、かつては誰かの艤装だったかもしれない。誰かがこれを使って戦い、そして死んだんだと思う」
響の質問には答えず、ペンキを傍に置くとベドーヴイは艤装に向かいながら響に対し語り始めた。
「そうらしいね、君が言うには」
「だが、今はボクの艤装だ。だから――」
ベドーヴイはもう片方の手に持っていた小さい刷毛をペンキに突っ込んだ。
「ベドーヴイ、まさか君は」
「別にダメ、という規定はないだろう? 小銃のアクセサリーと同じだよ」
そうニッコリと響に笑いかけると、ベドーヴイは鼻歌を歌いながら艤装にペンキで大きく字を描き始めた。響は、見てられない、という風に顔を顰めてそれを眺めていた。
鼻歌が二、三曲演奏されたところで、ベドーヴイは描き終え、刷毛を持つ手を下ろした。自分が描いた字を眺め、満足だ、という風に笑った。白い歯と、黒鉄の艤装に描かれた真っ白な
スローガンは艤装の煙突の左側面から中央にかけて、そこそこ読みやすい書体で斜めに走るようにいくつか描かれていた。
「『
響は呆れたように言った、私はどうなっても知らないぞ、という風に両手を上にしていた。
「そうだよ、戦車さ。ボクたちは海を進む鉄の怪物でしょ? 丁度いいと思ったんだ。……こうすれば、もう誰もボクのじゃないなんて言えやしない。これはもう、ボクのものだ。誰のものでもない」
「いい、スローガンだね。うん、とても……とても、君らしい」
響はそのまま顎に口を当てて、何か考え込むように、小さな声で何か呟いていた。
「ベドーヴイ」
「何?」
ベドーヴイは振り向く。再びペンキに刷毛を突っ込み、次は煙突の右側面に何かを描こうとしていたところだった。
「私の艤装にも、それをお願いしていいかい? 見てて止めなかったんだ、君が責められるなら私もだろう? こうなれば一蓮托生さ、何か、いいスローガンを描いてほしい」
ベドーヴイはしてやったり、という風な笑顔を見せた。「もっちろん! 任せてよ!」
――――――――
「『
煙を吐きつつ、響はボソッとそう言った。男は理解できない難解な音の並びに盛大に首を傾げた。
「どういった意味なんです?」
「『無慈悲な』という意味だったかな。私の艤装の煙突の左から右へかけて、これでもかと大きく描かれたよ」
「形容詞とはまた面白いチョイスですね」
「何か理由があって……そう、確か大きな武功を上げた戦車に描かれたスローガンだったらしい。それにあやかってほしい、なんて言ってたっけ。ただ――」
響はバツの悪い表情になった。
「ソヴィエトでは駆逐艦に形容詞由来の艦名をつけるんだ。ベドーヴイはあの時忘れてたかもしれないけどね。実際、この名前も古い駆逐艦の名前の一つさ。確かに、ベドーヴイの気持ちは嬉しかった。だけど……もう少し違ったもののほうが、よかったかな」
「船の名前は嫌、ということですか」
うーん、と響は唸る。暫く煙草を咥えたまま、考え込むように腕組みをしていた。
「嫌ではないけども、何というか……既に“響”という艦名がある以上は、“名前”に近いものはつけるべきじゃない、と私は思うんだ。スローガンなら問題ない、『深海棲艦に死を!』だとか『勝利を我が手に!』とかね」
「名前といえば、先程も仰ってましたね。名前というのは人を
「そうさ、まあ言うなれば……そうだね、言霊、というやつかな。“艦の名前”をつけることで、“名前”を奪う。まずは形から、という訳さ。『建造』ならその過程を飛ばして“艦名”から始まるからもっと簡易になるね」
男は合点がいかないという顔をする。あまりにもわかりやすい、そして喜劇的な――本人は全く意識していないが――表情だった。
「その、名付けと言いましょうか、それは必要なんですか?」
男の表情に響は思わず笑う。咥えていた煙草を落としそうになり、すんでのところで指先に持ち替えた。
「必要だよ。儀式、通過儀礼のようなものさ、欠かすことはできない。
「……それは、何か、どなたからかお聞きになったことなんですか?」
「いや、ただの私の戯れ言、気にしないでほしい。それに、最近だと色々手順が違うらしいからね、あくまで……古い話さ。老いぼれの独り善がりな解釈だから、まかり間違えても文字にはしないでくれよ?」
響は男に向かって笑いかけ、首を傾げた。
「さて、まだこの話には続きがあるんだ」
「ここで終わり、という訳ではないと」
「そうさ、大切なオチがまだ待っている。まず、結論から言えば、お咎めはなかった。というよりは半ば諦められていたようにも見える。翌日、出撃時に様子を見に来た司令の顔は忘れられない。何度も目を擦っては、まじまじと私たちの方を見て、終いには顔を手で覆ってしまったんだ。営倉入りも覚悟したけど、意外にも呼び出しすらなかった」
響はその時に司令がやったのであろう動作を可笑しげに演じた。男は思わずにやけた。響も笑った。
ちょうど煙草が終わりを迎え、新しく響は煙草を取り出した。既に傍らには吸い殻の山と空になったパッケージが積み上がっている。笑顔のまま響は続ける。
「そして、もう一つ。それを見た他の艦が『描いてほしい』とベドーヴイに言ってきたり、自分で色々と描くようになった。最終的には基地の艦全てが何かしら艤装に字なり絵を描き込んでいるという事態にまでなってしまった。さっき言ったスローガンも他の艦が艤装に描き殴ったものなんだ」
当時を思い出してか、響は目を細めた。
「他にも色々あった、『潜水艦殺し一号』なんて――これは確か四号まであった――自称や、『国有財産』、『
まあ、戦場のちょっとしたジョークのようなものさ、と響は微笑んだ。
「まあ、内容も数も含めて少しやりすぎだった。お蔭で他の基地の艦からは顰蹙を買って、『赤軍』だの、口さがない艦からはそれこそ『
響は得意気にニヤリ、とした。まるで悪戯っ子のような顔だった。
「……結果、短いながら私たちは小さな自由と勝利を得たのさ」
結局は塗り潰しを命じられた上に罰として全員食事の配給を減らされてしまったけど、勝利の味は美味だった、と言うと響は味わうように、深くゆっくりと煙草を吸った。楽しい思い出なのか、その後もクスクスと笑い、その度に鼻から煙が漏れた。
「気になっていたんですが、本当に規則にはなかったんですか?」
「実を言うと、あった。艤装の取扱い規則には、『不可逆的な艤装への改造行為は、これを禁ずる』という規定があったんだ、何しろあまり意識はしていないけども、一応は官給品だからね。ペンキでスローガンを描くのも、おそらくはダメだったんじゃないかと思う。ベドーヴイは『それって、違法改造みたいなものでしょ? これは全然違うよ、上に塗るだけだからね!』なんて嘯いていたけども」
「中々、剛毅ですね」
男は軽く笑った。響は男の言葉に肯く。
「そうさ、彼女は肝が据わっている。
――――――――
ゴウン、とも、ガウン、ともいえるような、そこそこ大きな砲撃音が聞こえる。少し曇りがちの空の下、視界が悪く姿は見えないが、おそらくは別の艦隊が敵と交戦しているのだろう。
そんな砲撃音にかき消されつつも、バシュッ、という魚雷の発射音、そしてボチャンという魚雷の着水音が連続する。発射された魚雷が白い尾を引いて、遠くまだ点のようにしか見えない正面の敵に向かってゆくのが見えた。
隣を見ると、ベドーヴイが正面に向かって魚雷を発射していた。“合図”だった。響はベドーヴイの顔を見て、アイコンタクトを交わし、頷きあった。
「さあ、行くよ! 突撃!
ベドーヴイが一際大きい――轟音の中、意外なほどよく通る――掛け声と共に右手を上げ、右舷方向へ舵を切った。ベドーヴイの後ろに続く艦娘も「
ベドーヴイと同時に響も左手を上げ、左舷方向へ向かう。ちらりと後ろを確認すると、味方の艦娘が続いているのが見える。主機の音と波を切る音も聞こえた。既にベドーヴイが率いる部隊はかなり前の方へ突出しようとしていた。各艦の艤装には所々に灰色の“文字”が走っていた。
響はそのまま左手を後ろに回してハンドサインを作る。『各艦、合図の後、左側面から砲撃。駆逐艦を優先的に攻撃。以上』
後ろから了解、という声が聞こえる。響はそれを確認すると、声を張り上げた。
「
後ろから同じような上がる声を聞きつつ、響は内心苦笑した。毎度ながら、これでは“本当に”赤軍だ。掛け声としては最良なのだ、と言い訳した。
向かう方向で、ベドーヴイの放った魚雷がいくつか敵に突き刺さり、派手に敵が爆沈するのが見えた。それを合図にするかのように、それまで遠くから砲撃を繰り返していたベドーヴイの部隊が敵中に突っ込む。響は驚いて目を見開いた。慌てて追加のハンドサインを後ろに送る。『砲撃後、足を止めず敵艦隊中央に突入。そのまま突っ切る、私の背中を追え』
どうやら先行して行われた雷撃には敵は気付かなかったようで、突然の吶喊も相俟って酷く混乱しているのが手に取るようにわかった。艦隊行動はとうの昔に消え去り、今や敵艦は各自自由な――統率の取れていない――行動を行っていた。
吶喊自体はすぐに終わり、ベドーヴイたちは再び右側面に抜けてゆく、敵の注意は完全にベドーヴイたちの方に向いていた。
「
響の合図と共に射撃が開始される。行足を止めてベドーヴイの方へ向いて砲撃を行っていた敵の背中に、一二.七センチ連装砲と一二センチ単装砲から放たれる砲弾が突き刺さり、爆炎を上げる。
既に陣形もバラバラになっていた敵艦は各個撃破されるような形になっていた。特に図体の大きい駆逐艦は響たちの攻撃に反撃することもままならないまま沈んでゆく。軽巡洋艦も回頭が遅れ、弱点が満載の背面に響たちの砲撃を一方的に浴びせられていた。唯一、重巡洋艦であるリ級のみがすぐさま反撃を行い、響たちに二〇.三センチ連装砲を向けた。
それに気付いた響はすかさずリ級に砲撃を浴びせる。一二.七センチ砲弾は二つとも手前に着弾し、水柱をリ級に振り撒いた。リ級の照準が狂い、砲撃が逸れる。とはいえ二〇.三センチの威力は大きく、響たちからそう遠くない場所に着弾した砲弾が生む水中の衝撃波は、少なからず響たちの航行を阻害するものだった。
「リ級相手は厳しいな、潮時だね。行くよ!」
そうしてある程度敵に損害を与えたのを確認すると、そのまま響たちは増速し、敵艦隊の中を突っ切り、ちょうどベドーヴイたちが抜けた方向へと向かった。抜け出た先で、正面からベドーヴイたちがやってくるのが見える。横一列に広がっていた。
響たちは反転し、そのまま横列に加わった。
「お疲れ! どんな感じ?」
「イ級は三分の二は撃破できた、ホ級は半分くらいだと思う。やっぱり、リ級相手は厳しい」
「まあ、上々だね……よし、全艦雷撃準備!」
ガコン、という音と共に一斉に魚雷発射管が雷撃態勢に入る。ベドーヴイも既に魚雷の再装填を終え、雷撃準備に加わっていた。
正面からは先程突っ切ってきた敵艦隊が、今度は多少陣形を整え、止まることなく自分たちの方面に向かってくるのが見える。
「雷撃開始!
一斉に魚雷が放たれ、敵艦に向かって一直線に進んでゆく。戦果を確認することなく、そのままベドーヴイたちは回頭し、複縦陣を作って敵艦に背を向け離脱する。暫くすると轟音が後ろから聞こえてきた。
振り向くと、遠くの方で水柱が一際高く上がるのが見えた。響はベドーヴイや他の艦隊員とハイタッチを交わした。
ベドーヴイはにこやかな顔をしていたが、突然水を打ったかのようにその顔が真面目なものに戻る。響を筆頭に全員が訝しげな顔をした。
ベドーヴイは艤装から無線機を引っ張り出し、何やら交信を始めた。どうやら
『艦は?』『位置は?』『敵艦は?』『他の連中は?』といった質問をベドーヴイは挟む。やがて、『了解』と言うと交信を終え、響たちに顔を向けた。少し浮かない顔をしていた。
「今日はこれでお終いかと思ったんだけどね……舞鶴の艦隊がこの辺りで敵に襲われてるみたい。ボクらがどうやら一番位置的に近いみたい。皆、もう一仕事と行くよ。全艦、魚雷を再装填。砲弾の残弾を確認。……と、響、予備の魚雷をもらえるかな? さっきので切らしちゃったんだ」
――――――――
ザアザア、と外で雨が地面を打つ音が響く。詰所の電灯と、外で立番をする艦娘が持つ赤色の合図灯以外は明かりもなく真っ暗な中、雨音と壁に引っ掛けた濡れたレインコート、そして今もじんわりと水気を含む自分の髪だけが雨の存在を意識させた。
灰皿代わりの空き缶には既に大量の吸い殻が収められていた。詰所のカウンターには煙草のパッケージがいくつも転がっている。響とベドーヴイは立番が終わり詰所に戻ってから、黙々と煙草を吸い殻にし続けていた。
「ベドーヴイ」
もうそろそろ共に一箱を空ける、というところで響がベドーヴイに話し掛けた。
「何、どうしたの?」
「もう少し……君は自分の身体を、いや命を大事にすべきだ」
「どうしたの? 藪から棒に」
ベドーヴイは大きく首を傾げる。
「最近の君を見ていると不安になってくるんだ。確かに、君は名前の通りだ。
「ボクが、綱渡り?」
吸い殻を空き缶に放り込むと、ベドーヴイは椅子を引き、響に向き合った。
「そうさ、今日だって、あの吶喊は少々強引だった。一歩間違えればリ級か、それかホ級の弾を喰らっていたはずだ、首から下がなくなっていたかもしれない」
「あれは明らかに敵が混乱していたから、それに乗じて引き付けに行ったんだ。そっちの方が有効だと思ってね。リ級の至近の艦に魚雷が入ったのも見えたし」
「それでも、危険過ぎる。あまりにも。……今日はちょっと、いやかなり慌てた、何をやるつもりかはすぐにわかったけども」
「大丈夫さ」
ベドーヴイは微笑む。
「祖国に帰るまでは、沈まないよ」
「いくら君の言う
呆れたような、そして悲しそうな顔で響は諭すように言った。
「早く祖国へ。その為には多少の無茶も許してくれるよ」
「ベドーヴイ、君は焦り過ぎなんだ。確かにロシアは海の向こうにある。だけど……まだ遠い、そして、この遠さは私たちだけじゃどうにもできない。私たちは所詮ただの一兵士だ。戦況は動かせない」
「できるよ」
ベドーヴイの口振りは、簡単なことだ、と言わんばかりの素っ気なさだった。
「できる? どうやって?」
「強くなればいい。臆することなく、敵に向かう。そうすれば、すぐに敵はいなくなるよ」
「確かに皆が皆、君みたいに強い信念を持って、勇敢で、向こう見ずなら、この戦いはすぐに終わるだろう……だが、そうはいかないんだ。君は、とてつもない英雄なんだ」
最後には消え入りそうな調子で、響が少し皮肉を混ぜて返す。少し、沈黙が流れる。気まずさを感じてか、それとも口が寂しくなってか、響とベドーヴイは殆ど同時に煙草を取り出し、吸おうとした。
あまりにもそのタイミングが一緒で、響とベドーヴイは互いを見て笑った。咥えた煙草に、互いのライターで火をつけ合った。
「……ベドーヴイ。君には沈んでほしくない」
「ボクもだよ、響」
「どうか、命を粗末にはしないでほしい、お願いだ。英雄になる必要なんてないんだ。このままいけばいつかは帰れる……それじゃダメなのかい?」
「英雄になるつもりなんて毛頭ないよ。ただ、帰りたい。帰りたい! その心がボクを突き動かすんだ。これは……もう、ボクの
力なくベドーヴイは笑った。響の顔は暗く、制帽が落とす影がそれを更に深くしていた。
「そんなに悲しそうな顔をしないで、響。大丈夫だから、きっと」
ベドーヴイは響の右肩をポンポンと軽く叩いた。響が顔を上げて何か言いかけたその瞬間、腹に響くような重低音がそれを遮った。
「おっと……さあ、ボクらの命の源が来たよ、歓迎しなきゃ。ほら、もっと明るい顔でね?」
重低音はどんどん近付いてくる。二条の光が前方から差し込んできた。闇の中を一台、大型の業務トラックがやってきていた。立番の艦娘が合図灯を振る。
「さあ、行こう」
一足先にレインコートを着込んだベドーヴイが、響にレインコートを渡しつつ言った。
レインコートを渡すと、ベドーヴイは鼻歌交じりに懐中電灯を持って詰所を出て、トラックの方へ向かって行った。