艦娘哀歌   作:絶命火力

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COG.2 -「誓いの島」

 ベドーヴイは宣言通り、敵の攻撃の中をくぐり抜け、見事生き抜いて見せた。対する私といえばその背中を文字通り追うのに必死で、殆ど何も覚えていない。多分、何度か危ないところをベドーヴイに救ってもらっていると思うのだけど、気付けば既に朝だった。兎にも角にも、そうして私とベドーヴイはその日を切り抜け、無事に――傷だらけだったけども――朝を迎えた。どう見たって、私が生きて朝を迎えたのはベドーヴイのお蔭さ。

 朝日を見ながら、ベドーヴイはずっと笑っていたよ。よっぽど嬉しかったのかもしれない……少し不気味にも感じたが、頼もしさが、そして僅かな憧れがそれを大きく上回った。その日から、私たちは戦友(とも)となったんだ。

 

 その後も何度かあった敵の攻撃を切り抜け、無事に、いや無事とは言えないけども、何とか『一回目の金曜日』を迎えた。そう、私たちがここに飛ばされたのが金曜日、そして遂に同じ曜日を――同じく島に来た半数が迎えることのなかった日を――迎えることができたということさ。その日、私たちは本部からベドーヴイが()()()()()酒を飲み交わして誓ったんだ。『生き抜く』とね。ベドーヴイは祖国へ帰るため、私は……特に理由はなかった。とりあえずは、ベドーヴイと共に行けるなら何だってよかった。その後のことは何も考えていなかった。まあ、ちょっとベドーヴイに依存していたとも言えるかもしれない。でも、戦友なんてそういうものだろう? 互いの肩で互いを支え合うのさ。私の方が支えられっぱなし? そうかもしれない。

 

 そして幾度となく金曜日を迎えた。周囲の人も艦も沈むなり死ぬなりで消え、新しいのが絶えず送り込まれてきていた。顔を覚える間もなく死んでいったのも多かった。状況は悪化もしなければ好転もしなかった。敵はいつでもどこからでも――真っ昼間だろうと、真夜中だろうと、晴天だろうと、荒天だろうとね――やって来たし、私たちは圧倒的に不利だった。糧秣も装備も欠乏とまではいかなかったけども、慢性的に不足していた。早々に沈んだ艦の余剰装備を()()したことも多かった。たまに海に出た時なんかは網を用意して爆雷を放り投げて、潜水艦狩り(ハンティング)の“猟”ではなく爆雷漁法(フィッシング)の“漁”をすることもあった。勿論今はそんなことをすれば五分後には海保と警務隊が一緒にすっ飛んで来て両手から手錠がぶら下がることになるけども、最前線の孤島にはいなかったからね。背に腹は代えられない。食料はあるに越したことはない。

 

 そんな中、だいたい三回目、つまり飛ばされてから三週間を過ぎた頃だったと思う。私が歌を教えてほしいと言ったんだ。ベドーヴイはとても喜んでくれた。そのまま飛び上がって浮くんじゃないかってくらいににね。

 ああ、色々と理由はあるんだ。まず、ベドーヴイは信心深かった。……何で突然信仰の話なんだって? それは話していけばわかるさ……。それでね、ベドーヴイは出会った時も『神様が守ってくれる』と言ってたし、なんとどこから手に入れたのか、小さな聖書まで持っていたんだ。それに、彼女はよくロシア語で何か呟きつつ、祈っていた。それは食前、私の隣だったり、戦闘後誰もいない時だったりと様々だけど、祈らない日は私の知る限り殆ど全くなかった。彼女が祈っている姿は……何というか、神聖さを感じるものだった。僅かに生き残っていた他の仲間も、誰も茶化そうとはしなかった。それくらい真剣で、真摯なものだった。

 

 そして、どことなくその“教え”を私にも伝えようとしている節があった。言葉には出さなかったが、何となくそう感じることがあったんだ。私と“共有”したかったのだと思う。いや、具体的に何か言葉にできるようなものじゃないと思う。心の奥底に通じる何か、かな。信仰というのはそういったものだろうと私なりに理解している。

 だが……私はその気にはなれなかった。私は『建造』された方だから、どうにも神の恩寵というか、神の祝福というか、そういったものを受けられるとは思えなくてね。でも、ベドーヴイの好意は純粋に嬉しかった。本当にね。だから、別の形で好意に応えようと思った。それで、歌を教えてもらおうと思ったんだ。これも“共有”できるから。しかも何より、簡単だ。

 

 それが私の歌のはじまり。なかなか打算的だろう? そういう訳で、実は、ロシア語は殆どできないんだ。いや、単語は多少はわかるし、キリル文字も一応読める、発音もまあ何とかなる。でも、格変化とか文法なんかは本当に壊滅的で、母国語話者と会話なんてさせたら向こうが音を上げるだろうし、ちゃんとした字も書けない。歌でしか言えない、という訳さ。何しろ、歌しか教わってなかったからね。実を言うと歌詞の内容もベドーヴイからの受け売りなんだ。

 言ってしまえば、意味もわからず、ただ“音”として歌っているに過ぎない。何度か腰を据えてきちんとやってみようと思ったのだけど、どうにも意欲が湧かなくてね、結局わからず仕舞いさ。

 

 どうも皆は私がロシア語を話せると思い込んでいるようで、できない、と言うとよく驚かれる。君も同じクチかな? どうさ、驚いただろう? そういう反応は久々だ。ちょっとした楽しみなんだ。

 

 

――――――――

 

 

「歌かい……? いいけど、どうして?」

 

 ベドーヴイが食事をする手を止めて、首を傾げ、隣に座る響を見つめた。響とベドーヴイは配給された食料を手に、瓦礫に――正確に言えば敵の砲弾が直撃し、吹き飛ばされてバラバラになったコンクリート造りの建物の一部に――座っていた。

 

「君がいつも歌っているのを見て、興味が湧いたんだ。君の祖国の歌というものに……おかしいかい?」

 

 響の言葉に、ベドーヴイの顔がたちまち明るくなった。響が出会った時に見た、晴れやかな笑みと同じくらいの笑顔だった。

 

「全然! いいよ、何でも聞いて! ……とても、とっても嬉しいよ、響。ありがとう」

「そうだね……じゃあ、あの歌にしよう。私が君と初めて会ったあの夜に、君が歌っていた歌を教えてほしいな」

「えーっと、あの時に歌ってたのは……確か『Священная война』だね」

「どういう意味なんだい?」

「日本語で言えば、神聖な戦い、って意味かな」

 

 なるほど、と響は微笑んだ。

 

「私たちにはピッタリだ。ところで、この歌は好きなのかい? あの後もよく歌ってたのを聞いたけども」

「ボクの祖父は大祖国戦争の、あ、かつての大戦の英雄でね、よく戦勝記念の行事に呼ばれたり、旧い戦友と会合したりした時に、この曲をよく歌ってたんだ。多分、お気に入りだったんだと思う。それで、ボクはお祖父ちゃん子でね、よくそれに付いて行っては聞いて覚えたんだ。だから、一番よく覚えてるし、一番好きかな。国歌より覚えるのが早かったと思うよ」

 

 笑顔で言いながら、ベドーヴイの目がじわりと濡れたのが響から見えた。

 

「……すまない、聞くべきではなかったね。余計だった」

 

 響は俯き、ベドーヴイから顔を逸らした。ベドーヴイが目元を手で拭うのが視界の端で見えた。

 

「いや、別にいいよ。気にしないで。久々に祖父のことを思い出して、ちょっと懐かしいと思っただけだから。……こう見ると何だか運命的だね。祖父は大戦の英雄。ボクはその英雄を生んだ国がかつて大戦の時代に戦った国にいて、何の因果かその国のために戦ってる。とても、面白いね」

 

 笑顔を崩さずにベドーヴイは言った。最後には少し皮肉ったような、それでいてどこか淋しげな笑顔をしていた。響は申し訳なさそうに再びベドーヴイに顔を向けた。沈黙が覆い、どことなく、湿っぽい雰囲気が漂ってくるように感じられた。

 そんな雰囲気の影を吹き飛ばすかのように、ところでさ、と努めて明るくベドーヴイが言った。顎に手を当て、何か考えているような表情をしていた。

 

「歌を教えるなら、まずは言葉からいかないとダメだと思うんだけど……どうしようかなあ?」

「難しいのかい?」

「多分……? イチからやるのは、もしかしたら厳しいかも」

「なら、歌だけにしてほしい。私は別に意味はわからなくたって、それでもいい。君がわかってくれれば、それでいい」

「ボクは構わないけど、君は本当にそれでいいの?」

 

 心配そうにベドーヴイが尋ねる。そんなベドーヴイの顔を見て思わず響は笑った。

 

「構わないさ。君が歌を楽しめれば、君が祖国を少しでも近くに感じることができれば、そして少しでもそれを私が感じることができれば、それで十分さ。それ以上の理由なんていらない」

「響、君ってヤツは……本当に……」

 

 ベドーヴイがはにかんだ笑顔になった。持っていた食器を置くと、響を勢いよく抱擁した。がっしりとした、固い抱擁だった。

 

「ありがとう、本当に、本っ当にありがとう」

 

 ベドーヴイは響の耳元で何度もそう囁いた。

 突然の抱擁に響は面食らい、暫く目を大きく開けて微動だにしなかったが、同じく――食器は持ったままだったが――抱擁を返した。包み込むような、柔らかい抱擁だった。

 

「感謝されるようなことでもないさ、私の方こそ君には……。ところで、まだ食べ終わってないんだが……いや、気にしないでくれ、うん」

 

 水滴が首筋を流れて行くのを感じつつ、響はそのままベドーヴイを抱擁し続けた。

 

 

――――――――

 

 

 それから、暇を見ては歌を練習した。ある時は夜の監視哨で、またある時は戦闘後の僅かな休息の時間に。テープレコーダーも、楽譜も何もないから何もかもがベドーヴイからの口伝えさ。まるで叙事詩の伝承みたいだろう? それもまた、楽しかった。とにかく、歌というのがとても楽しかった。異国の言葉で、その意味がわからなかったとしても、何故だか楽しかったんだ。

 

 不思議なものさ。最初はベドーヴイのため、と思って教わり始めた歌も、次第に歌そのものが楽しくなって、その楽しさが目的になってきたんだ。もともとまともな『音楽』といえば基地で――飛ばされる前にいたところさ――聞くラッパか、それか国歌くらいしかなかった。後は時たま酒保のテレビから流れる音楽や、別の艦が歌う鼻歌くらいさ。どれも、私の心には――今はその実存は措いてほしいな――響くものではなかった。

 

 でも、ベドーヴイの歌う歌は違った。ベドーヴイの口から奏でられるあの音は、何か私の心を……そう、震えさせるもの、訴えかけるものが確かにあった。具体的に“何”とは言えないけど、何か、私を惹き付けるものが。もしかしたら、最初にベドーヴイに声をかけたのもそれが理由かもしれない、まだ、意識していなかったけどね。それをいつ意識したかは覚えていない。気付いたら、私はベドーヴイの歌の虜になり、それを楽しんでいた。他を知らない井の中の蛙と笑われるかもしれない。でも、私にとってはベドーヴイの歌は全てのはじまりであり、そして私の全てなんだ。他の何にも変え難いものだ。

 

 歌を教わり始めてから、より『生きる』ということを意識するようになった。言ってしまえば、『生きたい』と思うようになった。遅れて湧いてきた生への渇望さ。その頃には何とか戦闘の中を自力で渡り歩くことができるようになってきていたのもあるし、ベドーヴイと交わした誓いのこともあったからね。先に沈んで、ベドーヴイを悲しませるようなことはしたくなかった。それに、さっきも言ったように歌が楽しかった。もっと知りたい、もっと歌いたい、もっとベドーヴイの――“心”に近付きたい。そう思った。

 

 生きたい! 本当にそう願った。そのためなら、たとえ信じていなくても神に祈ったってよかった。

 生きた先に何があるのか、それはまだわからなかった。でも、ベドーヴイがいてくれたら、いつまでも生きていける気がしたんだ。そうして何ヶ月か経って、祈りが通じでもしたのか、やっと状況が好転し始めた。遂にこの孤島の周辺まで味方の勢力圏が拡大し、アウトポストは晴れて基地に昇格したんだ。まともな補充が、輸送船が、装備がやって来た。まあ、私たちの扱いは相変わらずだったけども。そして、更なる幸運が舞い込んだ。

 

 遂に軍令部(彼ら)も音を上げたのさ。もしかしたら、方針を変更してベドーヴイを兵士として使い倒してやろうなんて思ったのかもしれない。なんと、ベドーヴイに話が来た。日本海へ行け、とね。『行かないか』という誘いじゃない、『行け』という命令さ。

 

 日本海。当時まだあの海にはまだかなりの数の敵が蔓延っていて、その撃滅が急がれていたようだけど、どうも進捗は芳しくなかったらしい。まあ、そっちの方面から飛ばされてきた艦から聞いた話さ。その艦は三日後に沈んでしまったけどね……ちょっとした余談さ。そんな話を聞いてたから、おそらくはそれに投入されるんだろうと思った。防戦続きのこの島よりも、きっと厳しい戦いになるのだろう、とね。だが、何よりも――本当に、何よりも――重要な事には、日本海の向こうにはベドーヴイの祖国があるということだった。もしかしたら、もしかしたら海を渡り、祖国に戻れるのではないか……そう期待したって、何らおかしくはない。軍令部(彼ら)もそれを承知の上だっただろう。

 

 その話をベドーヴイから直接聞いた時、まず最初に思ったのは、ああ、これでお別れか、ということだった。思いの外、早く来てしまった、と。勿論、一緒に島を出るなんてことまでは期待してなかったし、そんな都合のいいことなんて起こりっこないのはわかっていた。だけど、変な話、もう少しベドーヴイと一緒の時間を過ごせたら、と思わずにはいられなかった。確かに、とてもではないけどこの島は環境としてはいいなんて言えない。多少はマシになったとはいえ、敵は頻繁に来る、補給はすぐ途絶える、周囲は敵味方の死体の山、上官はすぐに首が挿げ替わって顔を覚える暇もない……でも、ベドーヴイがいればそんな中でも希望を持てた。希望がね。

 

 別れは悲しい。だが、私たちは兵士で、艦である以上、命令には従わなければならない。それが仕来りだからね。悲しいかな、私たちには抗命権はないものだから。

 ベドーヴイは嬉々としていた。確かに、私との別れと祖国への帰還の可能性を――たとえ万に一つ程度のものであったとしても――天秤にかければ、後者の方に傾くことなんて自明だった。それはわかっていた。それでも、私は悲しかった。悲しみに襲われ、悲しみに暮れた、本来なら戦友の幸運を祝福し、更なる幸運を祈るべきだというのに。別れは悲しいものだ、特に親愛なる者との別れは否応なく心を傷めつける。だから……私は一つ、ベドーヴイの言葉を聞き落としてしまっていたんだ。

 

 私にも――もっと言えば、その時生き残っていた艦の大半に――その命令が出された、ということをね。

 全く! 戦場でもそうでなくとも、伝言ゲームは本当に危険だよ。命令を出す時は口頭で直接にするか、文書にしないといけない。当然のことだろう?

 

 

――――――――

 

 

 島が遠く離れてゆく。

 貨物船のデッキから見た島は小さく平らで、まるで海にへばりついているように見えて、いかにも頼りがないように感じられた。そんな島に向かって設置された揚陸用の仮設桟橋から次々と重機が島へと上陸するのが見える。資材運搬用のヘリコプターも先程からひっきりなしに飛び交い、四方にその轟音を飛ばしていた。目を別の方向へ向ければ、調査船らしき船が浅瀬に陣取り、船尾から何かを投下していた。何の為にそれを行っているのかは、響はわからなかった。知ろうとも思わなかった。

 

「響」

 

 呼ぶ声に振り向くと、ベドーヴイが立っていた。厳密に言うと、()()()立っていた。

 何、と言いかけたところで響はその状態――片手に既に空になりかけの大きな酒瓶を持っていた――に気付き、呆気にとられたように口を開けてベドーヴイを見つめた。そんな響のことが見えているのか見えていないのか、ベドーヴイは楽しげに響に話しかけた。

 

「何してるのさ」

「何って、この通り、島を見てるんだよ。……君こそ、何をしているんだい?」

 

 ベドーヴイの顔から酒瓶に目線を落として、響は言った。多分に呆れが含まれていた。

 

「ボクらの島からの脱出(イスホート)の祝杯さ、さっきから向こうで皆とやってるところなんだ、来るかい?」

 

 響の視線に気付いたベドーヴイは、酒瓶を掲げて顔に寄せ、ウィンクした。

 

「いや、もう少しここで眺めさせてもらうよ。後で行く」

「そう言うと思った」

 

 ベドーヴイはニヤリ、と笑うと背中に回していたもう片方の手を前に出した。手には二本の小瓶が握られていて、カラン、と小気味よい音を立てた。響はほう、と感心したように声を上げた。

 

「全く……君はどこからそういうのを手に入れて来るんだい?」

 

 いかにも呆れた、というような口調で言う、しかし口元には笑みが見られた。そんな響を見て、ベドーヴイは得意げな顔をした。

 

「ロシア人は酒の匂いには敏感なんだ。どこにあろうと、すぐに見つけられるよ」

「どうやら本当らしい……。おや、これは……ウォッカ? どうしてこんなところに」

Водка(ヴォートカ)だよ、まあアメリカ産だけど。基地を出る前、早々と本部の連中が出て行った後に見つけたんだ。どうもだいぶ前にアメリカが置いていった物資の中に入ってたみたいだね、二本だけ、ぽつんと寂しそうに倉庫に残ってた。それを拝借してきたんだ」

「それ、本当に飲める代物なのかい?」

「大丈夫さ! なにしろこれは命の水だからね! どこで作られていようと、ヴォートカはヴォートカ、飲めない筈がないよ!」

 

 既に酒が入って陽気になっているのか、ベドーヴイは底抜けの笑顔で答えた。思わず響も笑顔になる。

 

「なるほど、命の水か。じゃあ、いただくよ」

「そうこなくっちゃ」

 

 響は瓶をベドーヴイから受け取ると、ドサッ、とデッキの通路の壁を背に座り込んだ。足を投げ出し、脱力した姿勢だった。

 

「座りなよ、立ったままだと君が海に落っこちそうでとても不安になる」

「言われずとも」

 

 そうしてベドーヴイが響の隣に座ると、揃って瓶の蓋を開けた。

 

「ボクらの幸運と健康、そして友情に……乾杯」

 

 ベドーヴイが音頭を取り、瓶を高く掲げる。響も同様に瓶を掲げ、「乾杯」と言った。そして同時に瓶に口をつける。

 最初の一口が終わると、響はベドーヴイに尋ねた。「気分はどうだい?」

 

「最高だよ。やっと、やっとチャンスが回ってきた。ルーシ(ロシア)が、ボクの祖国が海の向こうに見えるところに行ける。言葉で表せないくらい、とっても嬉しい」

「それはよかった」

「それに、君も一緒にいる」

 

 響がベドーヴイの顔を見つめた。「私が?」

 ベドーヴイは空を見上げて言う。「そう、君がいることも、嬉しい。ボクにとっては同じくらい」

 そう言うと響に向かって笑顔を見せた。ベドーヴイの笑顔を前に、響は恥ずかしそうに一旦顔を逸らし、少しだけ制帽を目深に被り直した。

 

「それは……ありがたいね。私も嬉しいよ、君とまた一緒にいられて。ああ、とても嬉しい」

「お互い様だね」

 

 ベドーヴイはクスッと笑った。ふと、その表情が締まり、真面目な顔つきになる。

 

「いつか、祖国に帰った時には、君を一番最初に招待するよ。ロシア中を案内する。本場のヴォートカも浴びるように呑んで……楽しもう。約束する」

「どうしたんだい、藪から棒に」

「今の内に言っておかないと、何だか言う機会が無くなりそうだから。ボクらは、これからもっと忙しくなるだろうからね」

 

 響は沈黙し、少ししてから口を開いた。酔いが回ったのか、目が据わっているようにも見えた。

 

「じゃあ、誓おう。あの時のように」

「また唐突だね、どうしたんだい? それで……何を?」

「君と同じさ。そうだね……生きる、何があっても。これを誓おう」

「それ、前と殆ど同じじゃない? ま、いっか。……いいよ、じゃあ、このヴォートカの下に再び誓おう。『生きる、何があっても』!」

 

 ベドーヴイは声を張り上げ、乾杯の時のように瓶を――気付けば既に残りは僅かになっていた――掲げた。響もそれに応じて瓶を掲げる。「『生きる、何があっても』!」

 そして響とベドーヴイは一気に瓶の中身を飲み干した。地面に置いた瓶が触れ合い、キン、と甲高い音を出した。

 

 そのまま余韻を味わうように響とベドーヴイは鼻歌を――最初は互いに違う歌だったが、すぐに同じ曲になった――歌い、空を眺めていた。そのまま何曲か流れていたが、暫くすると、さてと、と言ってベドーヴイは立ち上がった。スカートをパンパンと軽く叩くと、まだ座っている響に手を差し伸べた。響は少しまどろんだ目でベドーヴイを見上げた。

 

「あっちに戻ろっか。まだ、宴は始まったばかりだよ? 束の間の休日、しっかりと堪能しないとね!」

 

 


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