Во всём враждебны мы.
За свет и мир мы боремся,
Они — за царство тьмы.
天と地の如く
我らと奴らはあらゆる所で対峙する
我らが戦うは平和の光を取り戻さんが為
奴らが戦うは世界を闇の中に包まんが為
――『Священная война(聖戦)』(一九四一年、ヴァシーリ・イヴァーノヴィチ・レベジェフ=クマチ作詞、アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・アレクサンドロフ作曲)の一節
COG.1 -「『聖戦』」
異国の青空の下、これまた別の異国の言葉の歌が流れてゆく。
全く意味はわからないが、おそらくそれはそれは勇猛果敢な歌詞なのだろう。
男は目の前で歌う駆逐艦響の歌声――所々音が突飛な外れ方をしたことを除けば、見た目に反してかなりの低音が効いた声だった――を聴きつつ、そんな思いを抱いた。
歌い終えた響は間髪入れずに、歌っている間ですら左手から放さなかった瓶ををぐい、と煽り、中の液体を口に流し込んだ。響の白い顔に紅味が差しているように見えるのは男の見間違いではなかった。瓶のラベルの文字はキリル文字でなくラテン文字だったが、英語ではないようで、男には読めなかった。
「それで? 貴重な貴重な兵士の休日に、わざわざ最近噂の御仁が何だい?」
貴重な、という言葉を殊更強調するように、更には二回も重ねて響は言った。
「噂の通りですよ」
へえ、と響が嘲るように口を釣り上げた。「こんな酒浸りの
「よろしいですか?」
「ご覧の通りやることもないとはいえ、私の休日を占領するのかい? まあ、多少ならいいよ」
ご覧の通り、と響は言ったが、確かに響の座るベンチには何本かの銘柄の違う酒瓶に加えて、お決まりとなりつつある煙草が――こちらは男も知っているパッケージのものもあったが、キリル文字の見知らぬパッケージのものもあった――これまた何箱か無造作に置いてあるだけで他には何もなかった。
「今日はここで何を?」
「何をするでもないよ。ただ、戦時中でもきっちりと労働者を守ってくれるありがたい労働規則に基づいて与えられた、労働者の為のすばらしい休日を無為に費消してるだけさ」
「何かなされないんですか?」
「『なにもしないこと』ことに忙しいんだ。多くの
ニヤリ、と響は笑う。
「本当はすることが無いわけじゃない。立場上色々としなければならないことも多い。いくつか書いていない報告書や申請書は部屋の机に放置されたままなんだ、しかも早く出せと経理や総務からせっつかれている。だが、今日は休日、仕事をすべき日じゃない。休日は休日らしくあるべきなのさ。こうして大枚叩いて、その上何ヶ月も待たされた上で手に入れた命の水を楽しむことの方が優先されるし、そうあるべきだ」
そう自説を展開すると、響は再び幸せそうに酒瓶を煽った。既に小さくはない酒瓶からは半分以上の酒が消えていた。
慣れたとはいえ、見た目だけだとこの上なく退廃的な光景だ、特にこれは、と男は思わずにはいられなかった。禁酒団体や児童愛護を己の使命とする活動家にはおよそ見せられない代物だった。
「ところで、先ほどの歌は何ですか? ロシア語でしょうか? 私にはよくわからないのですが」
「乾杯の歌さ、こうして今日も酒が飲める奇跡的な幸運に乾杯してね。
「てっきり何かの軍歌かと」
「勿論そっちだって歌うさ、好きだから。だがそうじゃない歌も歌う、それだけさ。私たちだって心の底まで軍に捧げている訳じゃない、休日は一労働者なりに過ごすものさ」
響は再び瓶を口元に持って行きかけて、ふとその手を戻した。思うところがあったのか、瓶に蓋をして傍に置き、煙草を――キリル文字のパッケージの方を――取り出した。癖の強い甘い香りが漂ってきた。
「今は総力戦じゃないんだ、全てを戦いに捧げなくたっていいだろう? さっきも言ったけど、今日は休日なんだから、休日は休日らしく、そして戦場では戦場らしく。分別こそが長生きの秘訣、『常に我が心は戦場にあり』というわけじゃない」
それで、と響は煙草を手に男に尋ねた。「何を聞きたいんだい? そうだね……ここにある煙草を全部開けるまでなら、付き合ってもいいよ。そこからは私の休日にさせてもらいたい。まあ、座りなよ」
傍に散らばっていた煙草の箱をや酒瓶を無造作に片手で引き寄せ、響は笑った。挑戦的な笑みに男には見えた。
――――――――
どんどんと男が話していくごとに、響の口が笑みを作っていく。
「ほう……隼鷹がそんなことを言ってたのかい」
「隼鷹さんだけでなく、他の方からも同じようなことを聞きました」
「なるほど……ふむ……」
響は腕組みをした。ゆっくりと、頷く。
「確かに、そうかもしれない。誰も意味がわからないことをいいことによく歌ってたから」
「何時頃からなんです、歌い始めたのは」
「全ての始まりから」
一切の迷いのない、即答だった。謎めいた響きの言葉に加え、響のその態度に男は首を傾げ、思わず鸚鵡返しに聞き返した。
「全ての始まり?」
「私がこうして“
「何が始まったんです?」
「名無しの兵士のバラッドが」
響の婉曲的な、含みのある表現に男は傾げた首を元に戻せずにいた。そんな男を置いて、響は滔々と語る。
「別に私は生まれた頃からロシア語を知ってるわけじゃない、何しろ『建造』組なんでね、
響は首を傾げ、男に問いかける。男の答えなど待っていないとばかりに響はそのまま続け、再び男は置いてけぼりを食らった。
「答えは簡単、私の思想と音楽は口伝から始まったんだ。そう、原点がある――それがこの基地に最初にやってきた艦のうちの一、睦月型駆逐艦五番艦の皐月なんだ」
響の目が、遠くを見つめるように細くなった。
「
――――――――
多くの南洋の基地のように、この基地もかつては米国の小さな
それがのらりくらりと
今言ったように、この時期、戦争の最初期のアウトポストなんてのは恐ろしく危険で、絶えることのない緊張を強いられて、地味で目立たない、それでいて欠かすことのできないものなんだ。それこそ世が世なら
ここで出てくるのがそう、彼女だ。
何にせよ、黎明期というのは奇妙な、それでいて面白い――おっと、また言ってしまった――出来事が往々にして起こりうる。顔が外国人似というだけで翻訳の仕事を任された男が必死に
彼女はそう、『志願』の後、睦月型駆逐艦五番艦皐月となるはずだった艦だ。そう、
別の皐月? 皐月に別も何もないだろう? いや、君の顔はわかりやすい。他言はないよ。ただ……転職を勧めよう。今ならまだ間に合う。
さて、ひとつ、いいことを教えてあげよう。
最初期に大量の孤児が発生し、そして彼女たちの多くが『志願』した。これは既に“歴史的事実”だ。ところで、その孤児たちには、不幸にも異国の地で一人になってしまった外国人も少なからず含まれていたんだ。家族で旅行に来ていた者、両親の仕事の都合で住んでいた者、難民として流れ着いた者……色々と理由はある。そのそれぞれが、かつての大混乱の時代の波に巻き込まれ、そして多くが戦場に、祖国から遠く異国の海の露と散った。
彼女はそうした孤児の一人だった。彼女は一番目の理由。日本で輸入業を手掛ける父親の元を訪れた際に戦災に巻き込まれ、そして生き残った。生き残ってしまった。
彼女の生まれはウラジヴォストーク……そう、ロシアなんだ。世界は分断され、唯一取り残された彼女の取り得る道は『志願』の他はなかった。そして何の因果か、睦月型駆逐艦五番艦皐月という
『皐月』という名を持つ艦は実はもう一つあるんだ。かつてのロシア帝国海軍の駆逐艦
どうしてそんなまどろっこしいことをしたのか、だって? 名前というのはね、結構、いや、とても重要なんだ。
何故、そんなことが起きてしまったのか、詳しいことは言えないし、私も知らない。それを知るには様々な障害を承知の上で情報公開を請求するか、機密指定が解除されるのを――だいたい君が死ぬ頃だろう――待つしかない。『建造』にしろ『志願』にしろ大きな機密だからね。ただ、彼女は『皐月』であり『Бедовый』だった。曲げようのない真実だ。
少し話が脱線したね。ともあれ、こうした特異例に対して取られる態度というのは往々にして二つある。容認か、排除か、だ。彼女は後者だった。
まず最初に送られたのは対馬海峡だ。大陸との連絡を確保するため海路啓開が何よりも優先されたのは知っているだろう? その為にスターリングラードもびっくりの地獄のような突撃戦術が繰り返されていたんだ。全てが暗中模索の時期の“肉弾”さ。語られもしない犠牲たちさ。そんな地獄でも彼女は生き残った。どうしてかは知らない。ただ、神の思し召しではないことは確かだろう。
そこから
彼女はどんな場所でも最前線で突撃することを強いられた。たとえそれが自殺的な、破滅的なものでもね。何れの戦場も轟沈率は低くなかったし、実際に何度も負傷している。それでも、沈まなかった。
米国が管轄していた時は海兵隊がそこにいたのだけど、
少なくとも、彼女に雪ぐべき罪は何もなかった。しかし、『ベドーヴイ』という存在自体が
ここでようやく私が出てくる。私も『軍でヘマをやらかした』クチでね、ベドーヴイと同じ第一陣で飛ばされたのさ。理由? そういうのを聞くのは野暮じゃないかな……まあ、いけ好かない上官にユニークな差し歯をプレゼントしただけさ。入れ歯や人工顎じゃないだけマシだろう?
――――――――
木を乱雑に組んで作られたあばら屋から歌声が漏れる。高く、幼さを感じさせる声だった。
歌声はどこにも届くでもなく、ただ全てを吸い込むかのような暗さの夜の海にむなしく響いていた。
「その歌、何だい?」
響が隣で楽しそうに歌う艦娘、皐月に問いかける。目は海を、まだ見ぬ敵の姿を探していた。
「これかい? これはね、勝利の歌だよ。神聖な戦いに身を投じ、悪を倒すことを謳う歌さ」
「どこの国の言葉だい、聞いたことがないな」
「ボクの祖国さ」
響は海から目を離し、皐月の方へ顔を向ける。疑問と驚きとがないまぜになった目で皐月を見つめる。
「祖国? 皐月、君は外国人なのかい?」
「そうさ、こんなナリだけどね。ロシアから来たんだ」
「にわかには信じられないな、君の姿からも、言葉からも」
響は首を横に振り、再び海に目を戻した。皐月はそんな響の態度を気にすることなく言った。
「信じると信じないと任せるけども、紛れも無い事実だよ。それと、ボクは皐月じゃない。ベドーヴイだ」
響は「ベドーヴイ?」と語尾に疑問符をつけて首を傾げた。その意味するところを理解するのに少し時間がかかった。
「……感心しないね。艦名以外の“名前”は禁じられている、知らないのかい?」
「知ってるさ。だけど何度でも言うよ、ボクはブイヌイ級駆逐艦ベドーヴイだよ。皐月は与えられただけの名前なんだ」
皐月は憤慨するように言った。
なるほど、と響は笑った。「君が飛ばされた理由がわかったよ、とんでもない強情っ張りだ」
再び、皐月の方へ向き直る。
「いいだろう……君の意思を尊重しよう、ベドーヴイ」
「そうこなくっちゃ、話がわかる人でよかった」
皐月、いやベドーヴイは晴れやかな満面の笑顔になった。
「人じゃなくて
「
「それは光栄だね……まあ、もう二、三日もすればお別れになるだろうが」
きょとんとした顔でベドーヴイが首を傾げる。「どうしてだい?」
「ここは流刑地であり、刑場だからね」
「どうしてさ? ここなんて楽園だよ、リゾート地みたいなものじゃないか」
ベドーヴイは心の底からそう思っているようで、その言葉からは何ら皮肉めいた響きは感じられなかった。思わず響は怪訝な顔をする。
「ベドーヴイ、君、正気かい? こんな最前線の孤島が楽園? リゾート地? どうも君が飛ばされた理由は他にもありそうだね」
呆れたような声で響は言った。
「だって、楽でしょ? 敵が来るまで待って、来たら追い返せばいいんだから。こっちから飛び込まなくていいだけでも、十分さ」
あっけらかんとした態度でベドーヴイは返す。響は頭を振った。
「それができないから、ここは刑場なのさ。あの晴れ晴れとした米兵の顔を見ただろう? 十三階段を上らずに済んだ、という安堵の顔だった。まだ敵は来ていない、だがいずれは来るだろう。そして、来た時は私も君もこの世にはいない。飛ばされた時から、それはもう決まったことだ」
そう言うと話は終わり、とばかりに響は海に顔を向けようとした。その瞬間、ベドーヴイが響の両肩を掴み、響を引き寄せた。金色の双眸が近付き、響の目をじっと見つめる。真剣な眼差しだった。
「それは違うよ、とんだ悲観主義だよ、響。ボクは今までもっと酷い戦場に、何度も何度も投入され続けてきたんだ。何しろベドーヴイだからね。でも、ボクは今日まで生きてきた。神様がボクを導いてくれているんだ、祖国に帰るその日まで。だから、大丈夫。君のことも守ってくれるよ、折角ボクの名前を呼んでくれたんだからね。安心していいよ」
そう言うと、ベドーヴイは肩から両手を外し、笑った。「さあ、準備しよう。敵が来るよ」
ベドーヴイの突然の行動に固まっていた響は、手が外れた今も固まった姿勢のまま言った。
「敵? そんなのまだどこからも――」
その瞬間、遠く、おそらくは臨時に本部として設置されたバラックからけたたましいサイレン音が聞こえた。敵襲を知らせる警報だった。慌てて海を見ると、遠くから暗い影が迫ってくるのが見えた。響の顔が引き攣った。
「大丈夫」
ベドーヴイは繰り返して言った。慈母のような笑みだった。
レベジェフ=クマチの没年は1949年なので著作権的には多分大丈夫です。
訳はかなりの意訳です。本来の歌詞の成分は25%くらいでしょう。