とある魔術の員数外   作:竜華零

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第5話:「夜と幻想と出会いと」

 ――――片栗ナズナ。

 年齢不詳、おそらく12、13歳前後、出身国も不明、おそらく日本。

 身長148cm、体重42kg、身体のサイズは上から73・49・77。

 ネットワークを通じて、御坂妹が得た予測情報である。

 

 

 そこには当然、能力の特性も入る。

 彼女は能力の中身だけでなく、その弱点についても予測できていた。

 たとえば。

 

 

「片栗ナズナ本人も、能力者であるということ……と、ミサカは重要な予測を指摘します」

 

 

 超能力者(レベル5)クラスの能力を持ちながら、ナズナの能力が完成「し得ない」――皮肉にも、それは彼女の「開発」が凍結された理由と重なる――完成「出来るはずがない」理由。

 それは彼女自身が、「回路」を持つ能力者であることに終始する。

 

 

 周囲の能力者を無力化すると同時に、能力が発動すると冷静な判断力を失ってしまうこと!

 その、頭痛によって。

 そして頭痛の規模は距離に依存する、近ければ近い程に「回路」への負荷が強くなると考えられるからだ。

 すなわち、実はナズナこそが最も自身の能力によって最も深いダメージを受けているのだ。

 

 

「……どうすりゃ良いんだ!? あのチョーカーをつければ良いのか!?」

「いえ、おそらくあのチョーカーには何の効果も無いはずです、とミサカは分析の結果を告げます」

 

 

 そう、おそらくナズナがしきりに触れていた錠前のチョーカーには、科学的な効果は何一つ存在しない。

 AIMジャマーのように能力を抑制する装置が無いことも無いのだが、しかし小型化と実用化の面でまだ目処が立っておらず、存在しない。

 

 

 上条はナズナを見た、首のチョーカーを失った彼女を見る。

 紫に輝く黒い瞳を持つ少女からは、変わらないプレッシャーを感じる。

 無能力者(レベル0)であっても、脳の「回路」が存在しないわけではないからだ。

 頭蓋骨が軋むような違和感に、上条は眉を顰める。

 

 

「アレは、やはり予測ですが自己暗示の意味があるのだと思います」

「自己暗示って……そんなもんで能力を抑えられるものなのか?」

「自己暗示を馬鹿にしちゃいけないんだよ、とーま!」

 

 

 未だ事情は飲み込めていないものの、離れた位置からインデックスが告げる。

 

 

「自己暗示も、立派な魔術の一つなんだよ。そもそも自己暗示そのものを魔術の基礎と考える流れもあって、無意識を固定化して有意識化することで現実に変化を生じさせ、魔術の効果そのものに影響を与えると言う基礎修行の一環としても重要視」

「あー、わかった。とりあえずわかった」

 

 

 とーまー!? と憤るインデックスはとりあえず置くとして、上条は改めてナズナを見る。

 すると、ナズナ自身にも変化が生じ始めていることに気付いた。

 無表情、そして憤怒に染まっていた表情が、次第に力を緩めてきたのだ。

 そしてその緩め方は、歓迎すべきでない方向のものだった。

 

 

「…………ッ」

 

 

 眉の間に皺が寄り始める、それが表すのはたった一つだ。

 ――――痛み。

 痛覚を刺激されているが故の表情の変化が、そこにあった。

 

 

 それを見た瞬間、上条は躊躇せずに駆け出した。

 そこにあるのは怒りか苛立ちか、それも無いとは言わない、同情か憐憫か、それも無いとは言わない。

 だがそれ以上の感情が、上条を突き動かしていた。

 

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉっっ!!」

 

 

 インデックスと御坂妹は、その時の上条の瞳を知っていた。

 ただ、目の前で苦しんでいる誰かを助けたいと願い。

 そんな、物語の主人公のような彼を――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ナズナは、自分の方へと駆けてくる上条を知覚していた。

 しかし知覚しているからと言って、行動に移せるとは限らない。

 彼女はあくまでも、「能力者に対抗する能力者」なのである。

 そう言う意味でも、やはり彼女は不完全だった。

 

 

 脳の回路が開いていても、それが小さく細く、ほとんど何の意味も成さないような無能力者(レベル0)には、彼女の能力は最低限しか効果を及ぼさない。

 また仮に、及ぼせたとしても。

 自らの頭に右手を押し付けながら駆ける彼には、『幻想殺し《イマジンブレイカー》』には、やはり効果が無かっただろう――――。 

 

 

「あ……っ」

 

 

 ズキンッ、と脳の中枢を押されるかのような痛みに、ナズナが片目を閉じる。

 上条は閉ざされた視界の側に身を飛び込ませた、狭い部屋を大きく使って、三角跳びのように壁を蹴ってナズナの後ろ、もやし炒めの乗ったテーブルの上に着地する。

 ナズナは片目を閉じつつもその動きを追おうと、身体をくるりと回した。

 

 

「……自分の、世界(げんそう)に」

「こ、の……っ」

「逃げんな……ッ!!」

 

 

 上条の右拳に、柔らかくも鈍い、そして固い感触が伝わってきた。

 その右拳は、上条を追って振り向いたナズナの右頬のあたりに突き刺さっている。

 ナズナの軽い身体が拳の衝撃を受けて浮くのと、御坂妹が脳に受けていた負担を失ったのはほぼ同時だった。

 

 

 上条がナズナを殴ったのは、別に倒すことが目的ではない。

 もちろんそれもあるが、能力の中和が主目的である。

 上条の右手の力がナズナの脳に作用し、彼女の能力を一時的に打ち消したのである。

 ナズナの身が床にぶつかり、1度だけ跳ねて、御坂妹の足元にまで転がって動かなくなった。

 

 

「とうま!? えっと……まず、女の子を殴った所を怒っても良い?」

「何でだよ!? いや、わかる気もするけど」

 

 

 駆け寄ってきたインデックスにそう返す上条、そんな2人を御坂妹は見つめていた。

 そしてサブマシンガンを手にしたまま、自分の前に倒れ伏しているナズナを見る。

 超能力者(レベル5)クラスの能力者を、彼が倒すのは2度目……いや、3度目か(オリジナルである美琴とのじゃれ合いを含めればだが)。

 

 

 無能力者(レベル0)でありながら、これは驚異的なことだった。

 しかも今回の相手は、彼と同じように超能力者(レベル5)を倒すために生み出されたような能力を持っていたというのに。

 いや、今回は逆にそれが上手く作用したと言うべきだろうか……。

 

 

「御坂妹!」

 

 

 考えに没頭していたのが不味かったのだろうか、御坂妹は自身が隙だらけであることに気付いた。

 それを気付かせた声が耳に届いた時には、彼女の視界は掌で覆われていた。

 小さな小さな、女の子の手だった。

 言うまでもなく、ナズナの手である。

 

 

「――――!?」

 

 

 ビリリ、と、電流が流れたかのような激痛が一瞬だけ脳を揺らした。

 ネットワークとの接続は続いていたはずだが、それでも受け止め切れなかった。

 それまで無差別に放射されていたものを集中させたかのようなそれは、『幻想殺し(イマジンブレイカー)』の効果による副産物なのかもしれない。

 

 

「御坂妹!?」

 

 

 上条が駆け寄って、崩れるように倒れた御坂妹の身体を抱きとめた。

 少女の柔らかな身体を抱きとめると同時に、けたたましい音が上条家の玄関から響く。

 上条がそちらを見れば、そこにはよほど強い力で開け放たれたのだろう、上が半分外れかかった状態で揺れるドアがあった。

 

 

 軋むような音を立てて揺れるそれを、上条は悔しげに睨んだ。

 能力を一時的に打ち消しただけで、どうやら意識を飛ばせる程ではなかったらしい。

 もしかしたら、無意識の内に手加減してしまっていたのかもしれない。

 

 

「ナズナ……」

 

 

 哀しげに呟くインデックスは、頼りなく揺れるドアに手をかけながら呟かれたものだ。

 見慣れた廊下には、もはやどこにも黒髪の少女の姿は無い。

 ただ、夜の冷たい空気が流れるばかりだった。

 

 

「……くそっ!」

 

 

 盛大な愚痴を叫んで、上条は御坂妹をその場に横たえた。

 見たところは外傷は無い、ナズナの乱れた能力の余波で意識を飛ばされただけだろう。

 後ろ髪を引かれる思いはあるものの、しかしだからと言ってナズナを放置も出来なかった。

 どれだけ不幸なんだとさらに胸の内で愚痴りつつ、彼は立ち上がって、そして駆け出した。

 

 

「インデックス、御坂妹を頼む!」

「ふぇ!? とーま!? 結局私事情がわかってないんだけど―――――!?」

「たぶん他の部屋の連中の件で救急車とか来るだろ! もしヤバそうならそっちでいろいろよろしく!」

「いろいろって、何!?」

 

 

 上条はインデックスに御坂妹を任せて、ナズナの後を追った。

 どうするかは決めていない、だが放置できないのは確かだった。

 今日も徹夜になりそうだと、上条は思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 警備員(アンチスキル)、学園都市の治安を担う二本柱の一角である。

 学園都市は現在、学区ごとに区切られて彼らの監視下にあった。

 特に第七学区に重点的に人員が配置されているのは、件の能力者襲撃事件が第七学区で集中的に起こっているためだ。

 だからこそ、学園の治安を担う警備員(アンチスキル)が駆り出されているのであるから。

 

 

 とはいえ、彼らが必ずしも正確な情報を与えられているかと言えば、そうとは言えない。

 むしろ彼らにはほとんど情報が与えられていない、せいぜい、超能力者(レベル5)の第三位御坂美琴を襲撃したらしい少女の特徴くらいなものだ。

 それが第七学区各所で起こっている事件の首謀者なのかは依然として判然としなかったし、何よりその少女の情報も「小柄で黒髪、黒尽くめ」と言う一般的な特徴くらいな物だった。

 

 

「まったく、衛星の映像も無いなんて……」

「そうボヤくなよ、能力者関連の犯罪なんていつもそんなもんだろ」

「そうだけどさ……」

 

 

 頭部と顔をメットとゴーグルで覆い、身体に無骨な黒の防護服を纏った男が2人、第七学区のある路地を歩いていた。

 能力者対策を施された彼らは極めて重武装であり、手にはサブマシンガンを抱えている。

 時折外を出歩いている不良もどきの学生も、彼らと遭遇すればそそくさと帰路につく程だ。

 

 

 そんな光景を見にする度に、彼らはゴーグルの奥で微妙な表情を浮かべる。

 抑止が効いていると言えば聞こえは良いが、だからと言ってあからさまに怖がられるのも気分の良い話でもなかった。

 警備員(アンチスキル)は普段は各々の学校で教師をしているため、余計に堪えるのだった。

 

 

「つーか、こういう日にどうして出歩こうって思うのかね」

「まぁ、そう言うなよ。俺らも若い頃はあんな感じで向こう見ずだったじゃないか。それにあんなのは可愛いもんだよ」

「可愛くないのって、どういうのだよ」

「そりゃ、路地裏の奥でタムロってる極潰しみたいな連中とか、後は……」

 

 

 その時、彼らは不意に足を止めた。

 特に1人は耳と口元についている通信機に片手で触れていて、すぐにも応援を呼べる体勢になった。

 そうしなかったのは、彼らの視界に入ったのが小さな少女であったからだ。

 黒髪、小柄……しかし、纏っている衣服は黒ではなくどこかの学校の体操着のようだが、サイズが合っていないのかブカブカだった。

 

 

 彼女は路地の向こう側から駆けて来た様子だったが、よほど体力的に限界だったのか、街頭の一つに手をかけて立ち止まった。

 片手を膝に置き、肩で息を吐きながら呼吸を整えている。

 他の不良もどきとは明らかに様子が違う、妖しいと言えば妖しい。

 少なくとも、今まで見てきた者達とは違う。

 

 

「おい……」

「……ああ」

 

 

 そうでなかったとしても、事情くらいは聞いておいた方が良いかもしれない。

 彼らがそう判断するのは無理からぬことであって、実際、それは行動に移されようとしていた。

 それが実行されなかったのは、少女の登場の直後にもう1人の登場があったからである。

 ツンツンした黒髪の少年が、顔を真っ赤にして全力で走ってきたからだ。

 彼は、相当に慌てた様子だった。

 

 

 それはどうやら学園の学生のようで、どうやら少女を追ってきたらしい。

 少女は少年を見ると僅かに身じろぎしたようだが、よほど疲れているのか具合でも悪いのか、そこから移動するようなことはしなかった。

 そんな少女に対して少年は口から唾を飛ばす勢いで何事かを話しかけ、身振り手振りも交えて、挙句の果てには何故か土下座までして、最終的には少女の手を引いて逆方向へと歩いていった。

 

 

「……さっきの話だがな、可愛くない方の事態のもう一つ」

「え、あ、ああ……」

「痴話喧嘩だよ、ありゃ関わるだけ時間の無駄ってもんだ」

 

 

 仲間が肩を竦めてそんなことを言うのを、警備員(アンチスキル)の男は首を傾げて見ていた。

 それから、連れ立って歩く少年と少女の背中を遠く見つめて、自身も肩を竦めた。

 そして、彼ら2人は再び表側の路地のパトロールへと戻って行ったのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――危なかった、物凄く危なかった。

 ナズナの手を引きながら、上条は心の中で顔を引き攣らせていた。

 と言うか、いったい自分は何をしているのだろうと思わないでもない。

 

 

 表通りを歩くとさっきのように警備員(アンチスキル)に見つかる可能性が高いので――警備員(アンチスキル)から身を隠すと言うのは、一般学生の上条からすると微妙だが――裏路地に入る、それにここを抜けた方が早い。

 ……いやいや、自分は何を逃げる算段をしているのかと。

 

 

「……っ!」

「おわっ、な、何だよ?」

 

 

 何だよも何も無い、自分の手を振り払ってそんな視線を見上げてくるのはナズナだった。

 自分が貸した体操着のままなので、昨夜に出会った時のような妙な迫力は無かった。

 頬が微かに赤いのは羞恥ではなく怒りでもなく、単に身体が熱を持っているからである、

 その頬も、片方は殴打された痕が見えるのだが……。

 

 

「……何の……つもり」

「いや、だってお前、たぶん学園都市のパーソナルデータ持ってないだろ」

 

 

 パーソナル・データ、要するに書類上の身分である。

 免許証や住民IDなどがそれで、学園都市に正規の手段で入った者――正規の手段で存在する者――はすべからくそうした書類上の身分を付与されている。

 おそらく、ナズナにはそう言うものが無い。

 なので、警備員(アンチスキル)に見つかるわけには……。

 

 

「……っていやいや、だから何で上条さんがそんな犯罪者ちっくなことを考えんきゃならんのか! インデックスの件で妙な慣れを感じてるのか……!?」

 

 

 なお、インデックスにもそうしたパーソナルデータが無い。

 そうした意味では、インデックスとナズナは似ていると言えるのかもしれない。

 魔術と科学の違いがあるが、そう言う意味では。

 さっき殴ったばかりの相手に何をしているのかと、もう1人自分がいれば何をやっているんだお前と突っ込みを入れることだろう。

 

 

「……って、あ、オイ!」

 

 

 上条がそんなことを考えて悶々としている時間で、ナズナが身を翻した。

 そのまま路地裏へと姿を消していく、上条は慌てた。

 ここで見失ったら、諸々の行動の意味がなくなる。

 被害者の美琴には別口で謝るとして、ビリビリはしてほしくないが、とにかくするとして。

 上条は、即座にナズナを追いかけた。

 

 

「オ……イ?」

 

 

 角を曲がった所に、ナズナはいた。

 背中が見える、低い位置だ、どうやら尻餅をついている様子だった。

 何故かといえば、そのまま視線を上げれば答えがそこにはあった。

 

 

「んぁあ? 何だぁてめぇら」

「おーいちちち、急にぶつかってきたから肩の骨ぇ折れちまったぜぇ」

「おいおいマジかよ、じゃあ治療費貰わぇといけねぇなぁ」

 

 

 ……筋肉質で身体中にピアスや刺青をした、見るからにヤバそうな方々の姿が。

 上条は、表情を笑顔にした。

 しかし、内心は笑顔とは程遠かった。

 それを言葉にすると、このような形になっていた。

 

 

(うえええええええええええええぇぇぇマジですかあああああああああああぁぁぁ)

 

 

 ――――不幸、である。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「ここにいろ!!」

 

 

 そう言って、不思議な右手を持つ少年にビルの裏手のダストボックスの中に押し込められた。

 中には幸い何も無かったが、しかし匂いはキツかった。

 ガコンッ、と頭上で音が響き、暗闇が訪れる。

 

 

 そしてダストボックスの外側が一瞬だけ騒がしくなり、少年の声が遠ざかるのと同時に低い男達の声がいくつもそれに連なっていくことがわかった。

 状況的に、助けられたことになるのだろうか。

 あのゴロツキ達は見たところ無能力者(レベル0)だ、ナズナの能力が最も効果を及ばさないタイプの人間達である。

 

 

「……………………」

 

 

 はぁ、と熱のこもった吐息を漏らす。

 呼吸が浅いのは、ダストボックスの匂いのせいか、それとも体調のせいか。

 不意に左肘に微かに鋭い痛みを覚えて、霞みかけた視界がはっきりとする。

 痛みの正体はともかくとして、それでナズナの思考は瞬間的に正常に戻った。

 まぁ、元々の思考がはたしてまともだったかと言う議論はあるだろうが。

 

 

 ナズナは、狭苦しいダストボックスの中で首を左右に動かした。

 周りを見るための行動であって、しかしそれで確認できるのはダストボックスの狭さと暗さくらいのものだった。

 ぶるるっ……と身体を震わせたのは、ナズナの奥底の記憶を刺激したからだろう。

 

 

「……こえ……」

 

 

 声がほしいと、ナズナは思った。

 暗く狭い空間に1人でいると、そう思ってしまうのだ。

 それは感情と言うよりも、本能と言って差し支えない反応だった。

 

 

「…………」

 

 

 だから彼女は、自分をダストボックスに押し込めた上条の言葉に従うこともなく、と言うか覚えてもおらず……そのため、何のためらいも無く頭上の蓋に両手を押し当てた。

 そしてゆっくりと、だが確実に蓋を開けて外へと出る。

 もはや夜も深い、そんな空間が視界に広がる。

 

 

 周囲には誰もいない、声すらどこからも聞こえてこない。

 高低差のあるダストボックスから降りるのは思いの外手間取ったが、最終的には転がるように地面に落下することで外に出ることが出来た。

 地面に身体を打ち付けた痛みを気にした風もなく、ナズナはその場に立ち上がった。

 

 

「……………………」

 

 

 そして、誰かの名前らしきものを呟いた。

 かつて、自分に声をかけてくれた誰かの名前を。

 苗字が二文字で名前が三文字、ありふれた、しかしたった一つのその名前を。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「うぅ、不幸だ……」

 

 

 上条がゴロツキ達との問題を解決して、ナズナを押し込めたダストボックスの所に戻ってきたのは随分と時間が経過した後だった。

 その時の彼は随分とボロボロで、ツンツンにセットした黒髪も半分ほどがへにゃっとしている。

 しかしそれでも、彼は逃げ切り、やり遂げたのだった。

 

 

「ま、まぁ、実はまだ何も解決してないんだけどな……」

 

 

 むしろ本番はこれからと言える、上条はそれについては何の解決策も思いついていなかった。

 とはいえ放置もできないと言う、漠然としたそれだけが決まっていた。

 とにかく上条は命からがらゴロツキ達から逃げ切って、ダストボックスの蓋を開けた。

 一応謝りながら開けたのだが、しかし……。

 

 

 そこには、誰もいなかった。

 

 

 は? と間抜けな顔をする上条。

 周囲を見渡して場所を間違えていないことを確認すると、もう一度ダストボックスの中を見る。

 中身は無いが匂いはあるそこには、隅々まで確認しても誰もいなかった。

 ……つまり、中にいたはずの人間はどこかに消えたと言うわけだ。

 よって、今の今までの頑張りの意味が。

 

 

「ふ……不幸だああああああああぁぁぁっ!!」

 

 

 この後、彼は朝になるまでナズナを捜索することになる。

 しかしそれは徒労に終わることになった、何故ならその時、彼女はすでに……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――走る、黒髪の少女が走る。

 スピードは速くない、足を縺れさせながら駆けていた。

 右手で左肘を押さえながら、とある高校の男子用体操着姿で夜の道を駆けている。

 都市側の施策の結果か、人通りは少ない。

 

 

 どこかに引っ掛けたのか、左肘から指先に赤い血が流れていた。

 転んだのか、剥き出しの足も所々を擦り剥いており、深く抉れた部分からはやはり流血している。

 小さな唇から漏れるのは、熱に浮かされたような乱れた吐息だ。

 

 

 右の頬には殴られたような痣が出来ていて、唇も切れている。

 特徴的なのは、首と胸の間、鎖骨の中間あたりに出来た掻き毟りの傷だろうか。

 自分自身の爪先でついた細かな切り傷は、まるで何かが無いことに対する代償行為の結果のようにも見える。

 

 

 もはやどこを走っているのかもわからない、そんな様子で黒髪の少女は走る。

 実際、彼女は自分の足がどちらに向いているのかもわかっていない。

 ただ、第七学区の中を夢中で駆けている。

 それだけだった。

 

 

 どれくらい、走り続けていたのだろうか。

 10分か、1時間か、迷子の幼子のようにただ走り続けた。

 そして、辿り着いた。

 無自覚に駆けたにも関わらず、少女の足が向いた先は――――。

 

 

「――――なンだァ、お前」

 


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