――――学園都市。
東京都の3分の1を占める外界と隔絶された閉鎖空間、人口の8割を学生が占める「学生の街」である。
そして集積する教育機関や科学機関が最先端技術の実験場であり、外界と隔絶されたこの都市の技術レベルは外界と比べて20年以上先を行っているとすら言われている「科学者の街」でもある。
230万人もの人口を抱える巨大な「科学の実験場」、それが学園都市。
そしてこの学園都市は、単なる最先端科学の実験場では無い。
ある目的のために子供達に特別な
――――『超能力者』の「開発」!
それこそが学園都市の存在理由であり、目的であり、通過点であり、手段なのである。
数多行われる実験は成果と同時に
少年少女の織り成すそうした物語は、学園都市と言うタペストリーの一部を彩っていった。
そしてこの学生と科学者の街、「学園都市」において。
まるで科学の歴史と言う名のタペストリーに、新たな絵柄を織り込むかのように。
今、新たな実験が行われようとしていた――――。
◆ ◆ ◆
学園都市第七学区は、全二三区ある学園都市の区画の中でも比較的大きい学区だ。
その理由は多くの高校、中学校や学生寮が集中して立地しているためであって、それに伴って人口が集中しているのならば存在するだろう物も整えられている。
ファミリーレストランも、その内の一つだろう。
その第七学区のファミレスの一角、4人掛けの窓際の席はある一段によって独占されている。
どれほど客が混もうが、誰が何を言おうが、店側もその座席にはある4人以外は絶対に座らせない。
そう言う座席に座る彼女達は、まさにその「4人組」であった。
注文する品は常にドリンクバーのみ、たまにスイーツ……しかし多くの場合、各々が持ち寄ったコンビニ弁当やら缶詰やらお菓子やらを食べ散らかすのである。
「と言うか正直、今回の仕事って他人の尻拭いっぽかった。なんで、実はあんまり機嫌良くない、私」
店側に多大な迷惑をかけつつも平然とそんなことをの言うのは、
一流の美容院でセットしたらしい綺麗に染め上げられた茶色の髪、それを秋物でありながら薄い生地の長袖シャツの背中に流した女だ。
不機嫌さを隠すでも無く唇を尖らせ、ぴっちりとしたパンツで覆った長い足を組んだ。
「まー、私らの仕事って大体、誰かの尻拭いみたいなもんじゃん?」
「尻拭いの種類にもよるのよ」
その麦野に意見して即座に切り返されているのは、窓際に座る麦野の隣、つまり通路側に座る少女だ。
名前はフレンダ・セイヴェルン、金髪碧眼の小柄な少女で、どこか西洋人形めいた印象を受ける。
衣替え直後らしい長袖のブレザーをきっちりと着こなしているあたり、己の外見に気を遣うタイプらしい。
そんな彼女の言葉に苛立ったのか、麦野は頭痛を堪える様にこめかみに指を当てている。
「終わった仕事の内容よりも、私としては今度の新作のハンドクリームの方が超気になるのですが」
そのどちらにも無関係の話題、もとより視線を手元の雑誌から上げずに言葉を作るのは
年齢は他の3人よりも幼そうだ、茶色のショートヘアを流すようにセットし、ショートワンピースに縞々のハイソックスを合わせるというファッションに身を包んでいる。
そして最後の1人が
自分の高校の体操着らしい半袖シャツとジャージ、実に楽そうなスタイルである。
肩のあたりまで伸びた黒髪は艶やかな美しさを放って入るが、ファッションによって全てが台無しになっているようにも見える。
それでも脱力系独特の愛嬌を感じるあたり、彼女の魅力を表していると言えるだろう。
「つーかさー、アンタ達はもう少し自分達の価値について考えようとか思わないわけ?」
この4人は、『アイテム』というチームを組んでいる。
と言って、学生らしいサークル活動では無い。
むしろそんな平和なイメージからはかけ離れた、良く言って殺伐とした小組織なのである。
学園都市の「暗部」、その深みに関わる真っ黒な4人組だ。
「――――特に、学園最高峰の
学園都市は超能力者を生み出す都市であり、所属する学生のほとんどは超能力に目覚めている。
しかしその中にあって『超能力者』と呼ばれる人間はたったの7人、6段階ある超能力者のカテゴリーの頂点、230万分の7の確率で出現する超能力の申し子。
麦野沈利は、その中の1人であり――――序列として、学園第四位の地位を有しているのである。
それはすなわち、世界で四番目の超能力者であるという意味をも持っている。
どうやらそんな彼女にとって、今日の午後に『アイテム』の仕事が自分の格に合わない仕事だったと感じているらしい。
不機嫌の理由はそのあたりにあるようだったが、他の3人はあまり興味が無い様子だった。
麦野はそれに軽く頬を膨らませると、ぶすっとした表情のまま腕を組んで窓の外へと視線を向けた。
すでに夜中のためか、内側の照明のおかげで鏡のように麦野の綺麗な顔立ちが映り込んでいる。
「まぁ、でも第一位が
こめかみを指先で弄りながら、麦野がそんなことを言う。
彼女が第四位である以上、その上には序列上3人存在することになる。
しかしその内の1人、それも最高位の第一位が格下に潰されたと言う情報もあって、彼女は。
「麦野さん、超頭痛いですか?」
「へ? 麦野、頭痛止めとか必要な感じ? パシリは勘弁なんだけど」
「はぁ? 別に頭痛なんてしてないわよ」
フレンダと絹旗の言葉に鬱陶しげな顔をして、吐き捨てるように応じる。
指摘した2人はしかし、麦野の言葉の棘も気にした風も無く、それぞれ指で麦野の頭を示して。
「じゃあ、何でずっと頭押さえてんの?」
「はぁ? って……」
その時、気付いた。
確かに麦野の左手の指は、つねに彼女のこめかみに当てられていた。
見るからに頭痛を堪えているような仕草であって、実際、気が付いてみれば麦野はチリチリとした痛みを自覚することが出来た。
そして次の瞬間、さらなる異変が彼女達を襲った。
それは麦野の前、つまり滝壺に対して起こった。
彼女が突然、ドリンクを飲み切った空のコップを倒して中身の氷をテーブルの上に撒き散らしたのである。
テーブルの上に、顔面から倒れるという行為でもって。
「……ガッ……グ、ゥ……ッ、ェア……ッ……!」
可憐な唇から漏れるのはくぐもった声と唾液、ビクビクと大きく跳ねる身体は、見るからに異常を起こしているとわかる。
今にも泡を吹いて卒倒しそうな顔色だが、意識はあるのか見開いた瞳からは涙を零している。
表情として浮かぶのは、痛みへの忌避だった。
そして、残念ながら周囲の3人にも彼女を気遣う余裕は無かった。
「――――――――ッッ!?」
「……超、痛……ッ!?」
テーブルに両手をつき、声すら漏らさずにガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンとテーブルに叩きつけ続けているのはフレンダだ。
先程までの軽い雰囲気はどこにも無く、突如訪れた痛みを逸らそうと必死の様子だった。
テーブルに刻まれた爪跡が、襲い来る痛みのレベルを示しているように見えた。
一方で絹旗も無事とはいえない、両手で頭を抱えて身を縮めた拍子に、椅子から通路へと落ちてしまったためだ。
こちらは悶えることも出来ない、辛うじて声は出せるようだが意味を成さない。
通路の床の上で身を丸くし、胎児のような体勢で動けなくなる。
(……っ、ただの頭痛じゃ、無い……!?)
唯一、麦野だけが精神力で――まさに
脳の中に直接指を入れて引っ掻き回されていかのような凶悪な痛みだ、堪えるだけでも辛い。
実際、麦野と言えどもこの状態で動けと言われれば無理と答えざるを得ない。
しかしこの頭痛、普通ではない。
見れば他の客の中にも同じような症状を訴えている人間が見える、自分達だけではない。
(余所のクソの攻撃……でも、無い……?)
ならばこれは、彼女達『アイテム』を狙った攻撃ではないのか。
学園都市上層部と繋がるエリート部隊『アイテム』、それでなくとも敵は多い。
中には他者を巻き込んででも……という輩もいるだろうが、このタイミングで手を出してくるとは思えない。
ならば、何か?
「……ッ!?」
他の3人が周囲の客と同じように強烈な頭痛で動けない中で、麦野だけがそれに気付いた。
窓の外、往来の道、そこに……麦野達の座席の目の前、さっき見た時には存在しなかったものに。
そこに立っているのは、人間だった。
黒髪、黒の服――――夜の闇を引き連れているのでは無いかと勘違いしてしまう程、真っ黒な。
……少女、だ。
その少女が自分達を、否、自分を見ていることに気付いた麦野は、見る者がそれだけで総毛立つだろう程に凶悪な視線をその少女へと向けた。
「テ、メ……ェッ!」
徐々に痛みを増していく頭に、脳に唸り声を上げながら、麦野は見た。
窓の外の少女が、店の飾りの茂みを乗り越えて、そっと手を伸ばすのを。
麦野が目を見開く中、その少女が自分の掌を窓にゆっくりと押し付けた途端。
学園都市第四位の
――――――――悲鳴を、上げた。
◆ ◆ ◆
上条当麻は、不幸な少年である。
ツンツンした短めの黒髪、意思の強そうな黒い瞳、オレンジのTシャツを下に着込んだ白シャツに黒のパンツの学生服姿、どこにでもいる一見普通の少年である。
今は第七学区、つまり自分の住む学生寮に向けてトボトボと夜の鉄橋を歩いている所だった。
「――――不幸だ」
そう呟く上条は、溜息を吐きながら今日という一日を振り返った。
朝は登校に使用した電車が事故だかで止まり――校則で電車通学は禁止されているため、遅延届けによる遅刻処理も出来ない――昼食に使用した購買では自分の目の前で売り切れを宣告され――今日まで一度たりとも売り切れたことなど無いのに――午後の小テストでは解答欄が一個ずつズレたために0点を記録し――
そして帰りの今、財布を落としたらしく無一文で電車にも乗れず徒歩で帰宅。
凄まじいまでの不幸っぷりに、さしもの上条もグロッキー状態であった。
普段はここまでではないのだが、今日は群を抜いて不幸だった。
というか、購買の段階ではあった財布はどこに消えたのか、流石にATMのカードは銀行に連絡して止めてもらったが。
「まさか、口座がすでに空になってます~なんてことは、無いですよね~」
誰に言っているのか、そんなことを言いつつ歩く上条。
幸い、体力にだけは自信がある。
それにこの鉄橋を渡れば、上条がある少女と同居している学生寮まで目と鼻の先だ。
……少女と同居と言えばリア充のように聞こえるかもしれないが、実際はそんなに良い事でもないと上条は思っている。
「「「――――!」」」
「おぁ? どわったぁっ!?」
前方から複数の男らしきくぐもった声が響いたかと思うと、上条の傍の手すりから夜の空間を引き裂くように紫電が迸った。
当然、上条としては鉄製の手すりから漏れ伝わってきた紫電から咄嗟に跳び退くことになる。
それでとりあえずの危機は回避できたのだが、彼としては今以上の不幸を回避すべく声のした方を見た。
そして、そこに存在していた惨状を見て彼は表情を引き攣らせることになる。
何故なら彼の視線の先、鉄橋の歩道の真ん中に広がっていた惨状がそれ程の物だったからだ。
そこにいるのは複数の男と1人の少女、普通なら少女の方が被害者にも見えるかもしれない。
ところがどっこい、この場合、少女こそが加害者なのであった。
「……まだいたか!」
「え、ちょ、ちょっと――――!?」
こちらに背中だけ見せている少女、その足元には衣服を焦げ付かせてピクピク痙攣しながら倒れる「いかにも」な軽そうな男が何人か倒れている。
少女は半袖白シャツの上にベストを重ね、生地の良さそうなミニスカート、白のルーズソックスにローファーを履いた女学生だ。
そしてその少女は、この学園にごまんといる超能力者の1人のようだった。
少女の身体が青白く輝いたかと思えば、それは細かな帯電現象を引き起こし、視界に青白い炎を焼き付けながら雷を放出した。
円形に身を包んだそれの一部が、具体的には少女の後頭部あたりから一発の槍の如く飛び出した。
それは真っ直ぐに上条に向かい、そこらに転がる男達のように彼を成す術も無く薙ぎ倒す――――はず、だった。
「……え?」
驚いたのは、雷の槍を放った少女本人だった。
後ろから聞こえるべき衝撃音が聞こえず、不思議に思う……というよりは、見知った感覚に戸惑い、不味いことをしたかもしれないという後悔の色を顔に浮かべ、おそるおそる後ろを振り向いた。
そして。
「オイコラそこのビリビリ中学生、何があったかは大体わかるけれども! それでも撃つ相手は確認してから撃ってくれないと上条さん焼肉になっちゃう所でしたよ!?」
「誰がビリビリよ! 私には御坂美琴って名前があるってアンタもう知ってんでしょうが!」
「んまっ、言い返す前に謝罪があっても不思議は無い状況だと上条さん思います!」
「気色悪い声出すな! 悪かったわよチンピラと間違えて!」
常人では受け止めきれないはずの雷を受けて、平然と右手を掲げた体勢で文句をいう上条。
そしてそれに対し一瞬ほっとした表情を浮かべたものの、その後の上条の言葉に激昂したように叫び返す少女……
学園都市第三位、世界に7人しかいない
◆ ◆ ◆
「んで、お前こんなトコで何やってんだよ、門限とか大丈夫か?」
「う、うっさいわね、大丈夫よ」
衣服を焦がした――手加減するだけの良識はあったらしい――チンピラ達が何やら喚きながら去るのを哀れむような視線で見送りながら、上条は美琴に対してそう問いかけた。
問われた美琴は、何故か頬を赤くしつつそっぽを向いた。
怒らせたかと内心でかなりビビる上条だが、幸い雷は飛んでこなかった。
何しろこの少女、肩を過ぎたあたりまで伸ばしたストレートの茶髪と細い肢体、街頭の光を返すような白い肌と、なかなかの美少女であり、学園都市で五指に入る名門校「常盤台中学」に通うお嬢様である。
そしてその真の姿は先程見たように雷を操る――――学園都市最強の
見た目通りに接すれば、先程のチンピラ達のように文字通り火傷することになる。
「それと、き、今日はたまたまこっちの方に来ただけで、別にアンタと鉢合わせることなんてまるで期待なんてしてなかったんだからね!?」
「は? そんなの当たり前だろ、そりゃここは俺とお前が前に喧嘩したとこだけど、だからってそう都合よく……って、どうしましたかコンニャクのようにプルプル震えて、健康器具の真似か?」
「――――違うわよ、もう!」
ビリビリビリィッ、と空気を裂くように青白いスパークが走って上条は「うおお」と仰け反る。
それを見て、ますますもって美琴が不機嫌そうな表情を浮かべる。
「……悪かったわよ、でもアンタの能力なら大丈夫でしょ」
「レベル0の無能力者を捕まえて何を仰います、三二万八五七一分の一の天才サマには遠く及びません」
「その口調ムカつくわね……というか、二三〇万分の一の才能を持ってるアンタが言うとすごく嫌味なんだけど。その……」
呆れたような声を作って、美琴は上条の右手へと視線を向ける。
10億ボルトの高圧電流を誇る彼女の超能力による攻撃を受けてなお、上条の身を無傷で守ったそれに対して。
目を細めて何かを考えるような、そんな顔で。
「……アンタの、能力ならさ」
そんな美琴の表情を見て、上条はツンツンした自分の髪の中にその右手を隠すように突っ込んだ。
頭を掻いて、間をもたせる。
そして思う、やれやれ、まったくもって買い被られたものだと。
この右手の能力を除いてしまえば、自分は学園都市の最底辺である
◆ ◆ ◆
無能力者、と呼ばれる存在がいる。
その数、実に学園都市に存在する能力者の人口のおよそ6割。
超能力者開発機関である学園都市は、生徒と言う「被験者」を親元から離して学生寮と言う「檻」に入れた上で
まぁ、人体実験とは言っても、薬学や大脳生理学、脳医学などの科学的技術に基づいたもの。
半数近くの人間はそれぞれの学校で行われる授業・実験を経て、能力者としての力に目覚めるのだが……それでも、6割の人間は使えない
「と言うか何度見ても理解できないんだけど、その右手」
「いや、まぁ……実は俺にも良くわかって無いんだけどな」
「何ソレ、自分の能力の詳細もわからないとか、馬鹿じゃないの?」
「しょーがねーだろ、学園都市の計測装置でも普通に
血液に薬品を流し込み、脳に電極を刺し、教師達から最新の科学的知識を習って。
そこまでされて、何の
そんな視線で見られるのが
しかし、上条は違った。
彼は
右手で触れさえすればありとあらゆる異能の力を消し去る力、『
「ん……」
不意に、美琴が眉を顰めて右の人差し指と中指でこめかみを押さえた。
こめかみにグリグリと指を押し付け、何かを堪えるように「んっ」と息を詰まらせる。
「……? どうかしたのか?」
「ううん、ちょっと……」
ぐっ、とさらに指でこめかみを押さえながら、美琴が言葉を詰まらせる。
彼女自身、不意に生まれた偏頭痛に戸惑いを覚えているのだ。
まぁ、偏頭痛程度ならば特に問題は無いだろうが、それでも鬱陶しいことには違いない。
しかしそんな彼女の様子を見て、上条はピンと来たと言うような表情を浮かべた。
彼は自分が気の利く人間であると自負している、何しろ不幸体質だからだ。
己のあらゆる不幸によるダメージを軽減すべく様々な準備をしているのだ、頭痛薬もその一つ。
ここは気の利く先輩として――上条は高校1年生で美琴は中学2年生――行動するのも吝かではあるまい……と、思ったのだが。
「あれ? 確かここに……って、箱が開いてる? 鞄に穴が!?」
見れば彼が持つ学生鞄の500円玉台の穴が開いていて、しかも鞄の中でいつの間にかぶちまけられていたらしい頭痛薬、ついでに風邪薬と痛み止めまでバラけていて、どれがどれだかわからない状態になっていた。
後ろを見れば、ヘンゼルとグレーテルよろしく錠剤がバラまかれていることだろう。
「ふ、不幸だ……」
天井知らずの不幸に上条は嘆く、何なのだいったい。
しかしそれも、すぐ前で少女が地面に膝をついたことで終わりを告げた。
ただならぬその様子に、上条は学生鞄をその場に捨てた。
「御坂! おい、マジで大丈夫か!? オイッ!」
「と、とう、ぜ……ッ!?」
「無理して喋んな馬鹿!」
美琴は膝とお腹を折り、前髪を地面に触れさせながら、両手で頭を押さえている。
上条の声に何か答えようとした彼女は、しかしかなり痛むのだろう、両手の手指を自らに頭に食い込ませる勢いで頭を抱え、ギリギリと音を立てる寸前にまで歯を食い縛っていた。
額には脂汗が滲み、明らかに普通ではない状態にあることがわかる。
「クソッ、どうする、動かさない方が良いよな……!?」
美琴の薄い肩に手を置きながら、彼女自身の呻き声を聞きながら上条はポケットを探る。
携帯電話を取り出し、救急車を呼ぶべく番号をプッシュしようとした。
そのために顔を上げた時、彼は見た。
鉄橋を渡った先、人も車も通らない、誰もいない歩道の先、その上に立つ誰かを。
髪も衣服も、何もかも「黒い」。
そんな、夜を引き連れて歩いているかのような。
「――――!」
そんな、「黒い少女」が向けてきた瞳に。
上条当麻は、背筋に冷たい何かが走るのを感じた。
◆ ◆ ◆
それは、見るからに「黒い」少女だった。
膝裏まで伸びた髪は
髪の間から見える瞳も黒で、長い前髪の間からチラチラと見えるそれはどこか虚ろだった。
12、13歳くらいだろうか、150センチ程度の小柄な身体に漆黒のドレスのような衣服を纏っている。
黒いワンピースの上に上着を重ねており、ワンピース自体の丈は太腿の半分までと極端のミニで、そして膝上までの黒のサイハイソックスとの間で僅かに白い肌色が覗き、胸の上で肩紐が交差している。
付け袖とオーバースカートが一体化した珍しいデザインの上着は前を除く膝下までを覆い、お腹の前で黒い二重の紐を蝶々結びにして留めていた。
加えて黒の編み上げショートブーツ、そして……。
「うぁ……っ」
上条ははっとした、何を通りがかりの少女などに目を奪われているのか。
見れば頭の痛みが増したのか、美琴が右手で上条のシャツを掴んでいた。
シャツが皺になるくらいは構わないが、どう考えても以上だ。
――――カツン。
その時、反響でもしたかのように靴音が響いた。
靴音、それに反応するように美琴が呻き声を上げる。
それも一度ではなく、二度三度と足音に怯えでもするかのように。
「く、は……っ、ぁ、あ……ひ、ぁ……っ!」
「……オイッ、マジでやばそうじゃねぇかよ!?」
ただの頭痛ではない、と言って脳溢血や脳梗塞のような急な頭痛を伴う病とも様子が違う気がする。
まぁ、それでも専門家では無い上条には判断がつかないので油断は出来ないが。
とにかく、救急車を。
そう思い左手で携帯電話のボタンをプッシュし終えた――のは良いが、不幸なことに取り落とした。
コールがスタートした携帯電話を慌てて拾おうとした、まさにその時。
「――――第三位、御坂美琴」
グシャリ、と、その携帯電話が踏み潰されてしまった。
部品や液晶を派手に飛び散らせたのは、黒のショートブーツである。
そのヒールが携帯電話を踏み砕いたのを視界に入れていた上条は、その視界をゆっくりと上げた。
携帯を破壊されたことに対して抗議するため――――では、無く。
知らず、頬を汗が伝う。
地面に膝をついている今、いくら小柄な少女とは言え見下ろされる位置にある。
助けを求める? それは出来なかった。
前髪の間から覗く虚ろな瞳が、それを許さなかった。
「うあああぁぁ……っ!?」
「……てめぇ、まさか!」
――――能力者。
彼は過去にも――褒められたことでは無いが――他の能力者や、それとは違うが異能の力を持つ者と戦闘した経験がある。
少女が近付く度に痛みを増す美琴、ここまで来れば偶然で済ませられる物ではない。
「お前が、コイツに何かしてるのか!?」
「していない」
端的に、少女は応じた。
「『わたしは、なにもしていない』」
黒い衣装と白い肌、烏の濡れ羽色の髪と目線をチラチラと隠す前髪、少女と女性の中間線のような危うい均衡の上に醸し出される、天使のようでも悪魔のようでもある雰囲気の少女。
何もしていないと言いながら、彼女が視線を美琴へと向ければ悲鳴が上がる。
身体の内側から来る、激痛の悲鳴だ。
それを見た瞬間、上条は己の中で何かが沸騰するのを感じた。
「――――やめろ!!」
右手を突き出し飛び出して、少女の身に触れようとする上条。
しかしその指先から髪先が擦り抜けて、ふわりと少女が舞う。
夜の闇の中、光の無い瞳の少女は鉄橋の手すりに着地した。
上条が跳ね上げるように顔を上げれば、少女が自らの首に何かを着けている所だった。
ネックレス――否、黒いチョーカーのようだった。
革ベルト状の、首輪を思わせるチョーカーで……黒い少女の衣装の中で唯一、銀色に輝くアクセサリーが付属している。
(錠前……?)
胸元を彩るそれは、錠前の形をしていた。
そしてそれを身に着けた途端、少女から受ける不可視の圧力が減少したような気がした。
気のせいか、苦しげに歪められていた美琴の表情も若干だが緩んだように見える。
しかしそんな美琴の様子を確認してホッとしたのも束の間、上条が次に顔を上げた時。
――――そこに、少女の姿は無かった。
息を食って手すりに駆け寄れば、やはりどこにもいない。
下を見れば妙に川の水が揺らめいていて、夜の闇に同化したかのような水の揺らめきに上条は冷たい汗を流した。
「え、まさか飛び込んだ……とか?」
空間移動系の能力でも無い限り、テレポートは出来ない。
しかし他に考えようも無く、上条は恐々とした表情で橋の下を眺めた。
だがそれも、後ろから聞こえる美琴のくぐもった声にはっとして振り返った。
そしてぐったりと倒れている彼女の下に駆け寄り、その身を抱え起こした。
「おい……っ、しっかりしろよ、オイ!」
上条のその声は、夜の空気に良く響く。
元凶の少女の背を追おうとしてもすでにおらず、腕の中には友人の少女が1人。
上条は、何が何だからわからないままに。
それでも、少女を抱えて夜の道を走る気概くらいはあるつもりだった。
――――同居人の少女には、どう伝えたものだろうか。
そんなことを考えることが出来たのは、しばらくして余裕が出来てからだった。
◆ ◆ ◆
第七学区の端、とある河原。
ばしゃっ、と水音を響かせながら岸に上がった少女は、ポタポタと滴る雫には興味が無い様子だった。
ただ、その指先で首の錠前のチョーカーを撫でるばかりだ。
「……うふふ……」
虚ろな瞳の中に危なげな光を揺らめかせて、少女が微かな笑いを漏らす。
するとそれに反応したわけでも無いだろうが、チョーカーの錠前の鍵穴の奥がチカチカと赤く明滅した。
『――――ザ……ザザ……く、やったぞ、レ……ィド! 最初の夜……第四位と第三位を行動不能に陥れるとは!』
「……はい」
『……はり、お前は最高だ……! 最高傑作だとお前は……流石は私の――――』
電波か機材か、どちらかの調子が悪いのか音声の質は必ずしも良くはない。
だがそれでも重要なことは伝わってくる、彼女に課せられた「仕事」についてだ。
砂嵐が響く中、首元の錠前のチョーカーを撫でながら少女は夜空を見上げた。
そして、そこに広がる星空に向けるように笑みを浮かべて。
「……早く会いたい、
でも、まだダメ、と呟きは続く。
何故なら、彼女はまだ「仕事中」だから。
自由の代わりに与えられた「仕事」、彼のための「仕事」。
だから、彼は最後なのだ。
何故ならば、この街には彼自身を除いて、
だから彼女は夢見るような心地で、しかし歩速は変えないままに闇の中へと消える。
底の見えない、学園都市の闇の中へと。