【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた   作:食卓塩准将

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蠖シ譁ケ縺ョ髻ウ

 欲しかったのはハッピーエンド。

 

 手に入れた結末は、それとはあまりにもほど遠いもの。

 

 それでも、決まった結末の続きを俺は生きる。

 

 今はもう名残すらない、彼との約束があるから。

 

 何もかも無かった事にされた世界で、俺の中だけにある思い出を引きずりながら。

 

 …………幸せになるために。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「ふぅ、お腹いっぱいになっちゃった」

 

 先頭を歩いてそう語るのは、もうすぐ春も終わって初夏に差し掛かる季節にもかかわらず、首元に赤いマフラーを巻いた少女、野々原渚。

 お腹いっぱいという言葉の通り、自身の腹部を擦りつつ、満足そうな笑みを浮かべている。

 

「ふふ、そう言ってくれると僕も嬉しいよ」

 

 渚の言葉に満足そうに頷いたのは、小柄で中性的な顔立ちと声色をしたブロンドヘアの少年、綾小路悠だ。

 彼は今日、渚も含めて普段付き合いのある人たちを、自身の父が関わっているグループの系列であり、この春新たにオープンした焼き肉店に招待していた。

 

「ふん、庶民はあの程度の物で満足してあぁだこうだ騒ぐなんて、貧乏舌過ぎて憐憫(れんびん)の情すら湧いてくるわね」

 

 団らんな空気を一気にぶち壊す否定厨じみた発言をしたのは、綾小路咲夜。

 悠と同じ綾小路家の人間で、歳は渚と同じ13だが、綾小路家内の序列は悠を越えている。

 

「咲夜、また君はそういう事を言う」

「何よ、文句でも言いたいわけ?」

「招待してないのについて来た上に文句まで言うのかって話であって──」

「うるさいわねー、仮にも綾小路家内で格上のアタシを呼ばないってのがそもそも無礼千万なのよ。むしろ忙しい中わざわざ足を運んであげたアタシに感謝するべきじゃない」

 

 1つ言えば10も20も言い返してくる咲夜に、基本弁が立つ悠も辟易してしまう。

 険悪な雰囲気になりかねない会話だが、端から見れば割とよく見る光景だったため、全員立ち止まる事は無く歩みを続けている。

 

「──でも咲夜ちゃん、誰よりも目を輝かせてお肉食べてた気がするけどなぁ」

 

 ポツリと渚が呟いた言葉を、耳ざとい咲夜は聞き逃さなかった。

 

「ちょっとアナタ! 今の聴こえたからね!」

「うぇっ……地獄耳だ」

「誰がなんですって?」

「な、何でもないですー……」

 

 ずんずん詰め寄ってくる咲夜に困り眉で言う渚だったが、遂には駆け足で列の最後方──集団の中で未だに口を開かず、全員の様子を見ていた人物のものに駆け寄った。

 

「お兄ちゃん、咲夜ちゃんのことどうにかしてー!」

「あっちょっと! 庶民、アナタもさらっと庇うんじゃないわよ!」

 

 渚が助けを求め、咲夜がやり辛そうに指をさす。

 渦中の人物は急に自分に話題が振られた事に困惑しつつも、渚を庇うように2人の間に立った。

 

「咲夜嬢、あんまり妹をいじめないでくれ。別に悪い事言ったわけじゃないんだから」

「何よ縁! アタシよりも渚を庇うって言うの!?」

 

 縁──野々原縁。渚の兄であり、悠の親友であり、今年から咲夜と知り合った、今回の集まりの中心的な人物だ。

 

「渚庇うに決まってるんだろ……妹だぞ」

 

 呆れつつそう答えながら縁は、咲夜に歩み寄るとおもむろにその頭を撫でる。

 

『なっ!?』

 

 唐突に撫でられる咲夜と、撫でる兄を見る渚、共に同音の短い悲鳴を上げた。

 当然、それぞれの悲鳴に籠った意味合いは全く異なるモノではあるが。

 

「お、おぉぉお兄ちゃん! 何やってるの!?」

「アアァァァ、アナタ……あんた、頭……」

 

 背後で渚が固まってるのを察しつつ、縁は渚よりも幼い妹をあやす様な口調で言う。

 

「たくさんお肉食べるのは良い事だから、あんま怒るな。食えば食うだけ成長するし、美人さんになれるからな」

「こ、子ども扱い!? アナタ庶民の分際でこのあたしを子ども扱いするんじゃないわよ!!」

 

 顔を紅潮させながらジタバタ暴れるが、身長差があるため縁は余裕を持って頭を撫で続ける。咲夜も暴れる姿こそ見せるが、直接手を振り払うような事はしない。

 次第に暴れる力も弱々しくなり、恥ずかしさともう一つ別の感情で頭がいっぱいになっていく。すっかり真っ赤な顔になった咲夜は、辿々しく何かを呟くばかりだ。

 

「──よし、落ち着いたな」

 

 程なくして、先ほどまでの渚に対する怒りが無くなったのを確認すると、縁は手を離す。

 一瞬物寂しそうに“あっ”と小さく声を漏らしたのを隣で聞いた悠は、信じられないものを見る目で咲夜を見る。これが本当に、あの咲夜なのかと。

 

 それとは別に、全く違う理由で縁と咲夜のやり取りをジロッと見るのが渚だ。

 確かに兄に助けを求めた。兄はすぐに自分を庇ってくれた。そこは問題ない。

 だが、自分を差し置いて、まるで本当の妹を相手するように頭を撫でて(なだ)めるのは想定外過ぎた。

 

 とは言え、なまじ咲夜が怒る原因が自分にある以上、かばってくれた兄を責める資格も無い事も、渚は理解しているつもりだ。

 だが、兄を溺愛している妹としては到底見るに耐えられない。渚は相反する二つの気持ちで曇る素顔を隠す様に、兄のくれた季節外れのマラーを口元まで上げる。

 ──こんな顔、お兄ちゃんに見られたら嫌われちゃう。

 かつて、自分の手の届かない場所で失いそうになった兄を、こんな理由でまた失うような事は嫌だ。そう思って渚は視線を2人から外す。

 

 そんな妹の姿を、見逃す縁では無かった。

 

 さっきまで自分が立っていたポジションで、寂しそうな子犬のようにうな垂れている渚。

 自分が咲夜を撫でればきっと、渚はそうなるだろうと分かっていた。にも関わらず咲夜をこの手段で宥めたのは、それだけ咲夜の方が聞き分けない人間だったからだ。

 妹が嫉妬深く、それでいて我慢もする性格なのを、縁は誰よりも分かっている。

 この世界が『ヤンデレCD』の世界であり、自分もまたその登場人物である事を自覚している彼は、だからこそ、渚の心のケアも忘れない。

 

「渚」

「ん? なに──ふぇっ!?」

 

 声をかけられて、視線がパッと縁に向いたのと同時に、彼は咲夜を撫でたのと別の手で、同じように渚の頭を撫で始めた。

 ただし、込めた力は咲夜よりもやや強め──家族であり信頼できる人間相手にこそ出せる加減で。

 

「咲夜は耳が良いんだ、あまり怒るような事言っちゃダメだぞ」

 

 そう言ってワシワシ、柔らかくて暖かい渚の頭を堪能するように、縁は髪型が崩れるのも厭わず撫でる。

 

「お、お兄ちゃん、分かった! 分かったから! 頭揺らすのやめて〜!」

 

 字面こそ文句を言ってる様だが、マフラーで隠れた口元はハッキリと弧を描がき、縁の腕で綾小路家の2人は見えないが、目も嬉しそうに閉じている。

 あっという間に、渚の心に溜まりかけていた黒いモヤは雲散霧消していった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ひと騒動おさまった後、再び歩き出す4人だが、さっきまでと異なり先頭を歩くのは縁と悠の2人。

 悠が後ろで何かしら会話してる渚達をチラッと見て、次いで縁に視線を移してから言う。

 

「相変わらず、君はすごいな」

 

 その声は文字通りの尊敬と、若干の呆れが混じった声色だった。

 縁は怪訝な顔で答える。

 

「すごいって、さっきのが?」

「うん。咲夜と渚ちゃん、両方とも角が立たない様に宥めてたじゃないか」

「凄くは無いだろ。片方だけ庇うなんて事したら、後々面倒になるのは目に見えてるし」

「……そう言うところだと思うけどな、凄いのは」

「え?」

 

 親友の言わんとすることがイマイチ掴めないでいると、“そこは自覚してないんだ”と呟いて、悠はクスクスと童話の少女の様に笑う。

 

「そうやって全体を見て、先の事も考えてコミュニケーション取る事が最近増えただろう? なんだか、君だけ他の人より少し大人って立ち振る舞いに見えたのさ」

「何だよそれ、俺はお前と同い年だよ」

「それはそうなんだけど……うまく伝えにくいな。とにかく、君からはたまに一年くらい人生経験豊富て感じの雰囲気が、所々で垣間見えるのさ。良い意味で言ってるから安心してほしい」

「……老けて見えるって意味じゃないなら、別に良いや」

 

 それだけ答えて、縁は何も言わなくなった。

 否、“言えば何かボロが出そう”だから言えなくなった。

 図らずも、悠の指摘は半分近く当たっていたのだから。

 

 確かに、野々原縁の経験した人生の長さは、隣を歩く同い年の悠と異なっていた。

 野々原縁が今日、今現在この場所に存在するまでの過程で、彼は一度“巻き戻って”いる。

 この世界がヤンデレCDで描かれた世界とほぼ同じだと知り、CDの主人公と酷似してる自分が死の危険に晒されていると分かり、身の回りにいるヤンデレ化する危険を持つ女の子達に殺されないため、必死にいきてきた約8ヶ月間。

 

 その間に積み重ねてきた出会いや思い出は全て、今の彼が生きてるこの世界において無かった事になっている。

 同じ時間、同じ経験を共有出来る存在はおらず、それらを経て成長した彼の過程を知る者も当然居ない。

 だが、たとえ世界や人々の中から消えた時間だとしても、縁の中で消え去ったワケでは無い。

 それらは彼の精神、記憶の中で今も残っている。

 

 2度と、ヤンデレの女の子に殺される様な事はないように。

 絶対に、ヤンデレの女の子同士が殺し合う事が起こらないように。

 そして、自分をこの世界に送ってくれた“もう一人の自分”との約束を守るために。

 

 そのために、渚や咲夜、今日この場には居ない幼なじみの河本綾瀬の他に、同じクラスの柏木園子など、『ヤンデレCD』において自身を殺す、あるいはお互いに殺し合う関係の人々と、健全で適切な付き合いをする努力を続けている。

 

 悠が彼をたまに先輩の様に見えると語ったのも、そんな縁の姿を見てるから出た言葉だろう。

 事実、さっき渚と咲夜の些細な喧嘩の芽を紡いだ様に、消え去った8ヶ月で培った経験や、知り得た彼女らの性格に則った行動は今のところ報われていて、幸いな事にまだ誰も傷ついて居ない。

 もっとも、それは彼女達がお互いに傷つけ合わなかったという話であり、縁が全くの無傷で事なきを得たワケでは無いが。

 

 いずれにせよ,彼は今も“幸せ”になるため、生きている。

 しかし──いや、それ故に、彼はたまにこう考えてしまう。

 

『今の生き方で、俺は幸せになれるのかな』

 

 ヤンデレヒロイン達をヤンデレ化させず、殺し合いさせず、生きていく。

 それが幸せに繋がる事。そう思って日々生きてはいるが、言うなればそれは消えた8ヶ月間と何も変わらないではないか。

 

 同じ事をした8ヶ月間は、そんな努力が実を結び、恋人ができた上で誰も死ぬ事が無かった。

 これから先、みんなと楽しく幸せに生きているんじゃないか──そう思った矢先に、何もかも木っ端微塵に消え去った。

 じゃあ、自分が今焼き直しの様に生きてるこの時間も結局のところ、上手くいったところで最後は無駄に終わるんじゃないか。

 

 今の生き方は単に、自分のミスで死なないために生きてるだけ。

 幸せになるための生き方とは、違うのかもしれない。

 

 そもそも、今の自分はどんな未来を幸せだと考えているのだろう。

 幸福の定義すら曖昧なまま、漠然と消えた世界と思い出をなぞって生きてるだけ、そんな男に幸せなんて来るのだろうか。

 

 そこまで考えて、いつしか最終的に辿り着いてしまう、一つの考え。

 

『もしあの時、3年前に巻き戻るのでは無く、別の選択をしていたなら』

 

「──ッ」

「おや、舌でも噛んだかい? ずいぶん険しい顔になってるよ」

「……いや、そんな顔してたか俺?」

 

 はぐらかす様に苦笑すると、悠はやや沈黙してから“気のせいかも”とそれ以上の追求をせずに、前を向く。

 恐らく何か思うところはあったに違いないが、踏み込むタイミングではないと思ったのだろう。親友の些細な心遣いに感謝しながら、縁は軽く息を吐いた。

 

 思考はいつもあそこで遮断され、それより深い事を考える事は無い。

 当然だ、縁はあの決断をする前に多くの絶望を経験してきた。その上でなお、決断するのに苦しみ、全員が死なない未来のため、愛しい人々と思い出を生贄に捧げたのだ。

 そんな決断と、その結果勝ち得た未来──つまり今の世界を否定する様な事を、考えて良いわけがない。

 

 だがそれでも、どうしたって、人間である縁の心と頭の片隅でいつも、思ってしまうのだ。

 

『もう一度だけでも良い、あの世界のみんなに──』

 

「お兄ちゃん、これあげる」

「ん?」

 

 横断歩道手前で信号が赤になり止まってる間、渚が袋に包まれた飴玉を差し出す。

 

「お店を出る時にもらったの。とっても美味しいから、お口直しにお兄ちゃんも、ね」

 

 笑顔で手のひらに乗せた飴玉を自分に向ける渚。

 きっと、悠が気づいたのと同じ様に、縁の僅かな表情の変化を察していたのだろう。

 先ほど縁が渚の曇りかけた心中に気づいていた様に、渚もまた、兄が何か心を苛ませていると、分かったのだ。

 

 自然と、縁の心も暖かくなる。

 少なくとも、この些細な思いやりに幸せを感じるのだけは確かだった。

 

「ありがとう渚、いただくよ」

 

 受け取って、ちょうど信号が青になる。

 横断歩道をよそ見しながら歩くのを避けるため、飴玉はズボンのポケットに飴をしまった。

 万が一でも、よそ見運転で歩道に突っ込む馬鹿がいるかも分からない──消えた8ヶ月間の中で車に轢かれた経験から来る警戒心で、歩き出すより先についつい左右だけじゃなく、斜め向かいの車にも視線を向ける。

 

 側から見れば神経質にも思われそうな、忙しなく動く視線。

 すると視界の端に何か──車では無いが、意識に引っかかるモノが見えた。

 

「──は?」

 

 歩みは止めないまま、しかし視線だけは映り込んだモノに釘付けとなる。

 

 それは、白く光って見えた。

 それは、背中に天使のように翼がある様に見えた。

 それは、人の形をしていて──、

 

「なん、で?」

 

 それは、

 綾瀬に見えた。

 

「縁、どうかした?」

「お兄ちゃん?」

 

 心配する悠と渚の声も、今の縁の耳には届かない。

 視界の先にある翼を生やした綾瀬は、彼にしか見えていないのか、誰も縁が何に反応しているのか分からないでいる。

 

 幻覚を見てるに違いない。縁は客観的に自分を判断しようとするが、それ以上に、猛烈なまでの懐かしさを感じてしまう。

 綾瀬は()()()()()今日この集まりには居ないが、決して死んだワケではない。今だって家にいるか、友人と何処かで過ごしているに違いない。

 だから、こんな所にいるワケ無いし、ましてや背中に天使の様な翼を持っているなんてあり得ないのだ。

 

 だが、彼にしか見えないそれは、間違いなく綾瀬だった。

 それが縁に向ける表情が、彼女は綾瀬だと、縁に確信を抱かせるのだ。

 何故ならば、その表情は彼が消えた8ヶ月間の中で見た──、

 

 “恋人の綾瀬”が自分に向けてくれた、愛おしい笑みと同じだったのだから。

 “そう”思った瞬間、天使は縁に向かって右手を差し伸べた。

 まるで、この手を掴んで欲しいとでも言う様に。

 

 “そう”認識してしまったら最後、縁は自分の奥底から湧き出る衝動に抗う術を持てなかった。

 

 ──綾瀬!

 

 心中で彼女の名を叫び、一目散に駆け出す。

 もはや周りの目など意識の外だ。

 長めの横断歩道を突っ走り、その先で佇む天使の彼女に一歩、また一歩と近づいて──、

 

 確かに、その手を掴んだ。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「わっ、なに!?」

 

 次に縁の目に映ったのは、驚いて目をまんまるに開かせた渚と、見慣れた自室の天井だった。

 綾瀬の姿は微塵もなく、掴んだはずの手は、渚の右手を握っていた。

 

 は? え? なに? なんで渚が? あの綾瀬はどこに? 

 当惑する縁だったが、そんな彼を見て、渚は呆れた様に言う。

 

「お兄ちゃん、寝ぼけてるでしょ」

「寝ぼけて……?」

 

 あれ、じゃあさっきまで見てたのは夢? 

 咄嗟に枕元に充電しておいたスマートフォンを手に取って、画面に表示された日付や時間を見る。

 画面に表示された時刻は朝の7時半。先ほどまで縁が過ごしていた時間とは、かけ離れた時刻だった。

 それが、先ほどまで悠や咲夜達と共にいたのも含めて、全部夢だったのだと教えてくれる。

 さっきまでの出来事も、あの天使の様な綾瀬も、夢の中の出来事でしか無かったのだと。

 

「……夢? 夢見てたのか?」

「はい、夢です。どんな夢だったか知らないけど、こんな時間まで寝てるなんて、遅刻しちゃうよ?」

「う……うん、すぐに着替えるよ」

 

 そう言って身体を起こして背を伸ばす。

 渚は兄が完全に目を覚ましたと分かると、朝ごはんの準場をするために部屋を出ようとする。

 その後ろ姿を見て、縁はふと違和感を抱き──すぐその正体に気づいた。

 

「あれ、渚。今日は巻かないのか」

「巻く? 何を?」

「マフラーだよ、今日は洗濯に出したのか?」

 

 3年前に巻き戻った時に自分が買ってプレゼントしたマフラーを、渚はそれ以降季節を問わず巻き続けている。

 死にかけた時も渚の心を支えてくれたお守りの様なマフラーだが、今日は平日にも関わらず、渚は首に巻いてなかった。

 

 洗った後に忘れたのか、あるいは何かで汚してしまったのか。簡単な答えを期待してた縁だったが、渚の答えはまるで違うものだった。

 

「お兄ちゃん、今の時期に、しかも家の中でマフラーなんてするワケ無いでしょ?」

「…………は?」

 

 それはあまりにも当然の答えで、だからこそ、あり得ない答えでもあった。

 

「……もう、まだ寝ぼけてるの? ちゃんと顔洗ってね」

 

 縁がまだ夢うつつの状態にいる──本気でそうとしか思ってない渚は、その後すぐに下の階に降りていった。

 そのタタタタっと鳴る足音を耳にしつつ、縁は着替え始め、自分の心臓が早鐘のように鳴るのを感じた。

 

 おかしい、何かが、確かにおかしい、

 

 おかしさの正体が分からないまま──考えるのを無意識に避けて──縁は制服に着替えて、ゆっくりと階段を降りていく。

 そうして、リビングにまで行くと──、

 

「あ、おはよう縁。なんかずいぶんと寝ぼけてたんだって?」

「そうなんですよ綾瀬さん。お兄ちゃんったら、夢の中でまで()()()()()叫んでたんですから。本当……どんだけ綾瀬さんの事好きなの」

 

 台所で朝ごはんの用意をする、渚と綾瀬の姿があった。

 その光景があまりにも自然に見えて、縁はまだ、自分が夢の中に居るんじゃないかって気になった。

 

 だってそりゃそうだろう。俺が今生きてる世界の2人は、決してこんな風に2人並んで料理をするような関係では無いんだから。

 

「ねぇ、夢に見るまで大好きな彼女に朝から会えて嬉しいのは分かるけど、ぼーっとする位手が空いてるなら、手伝ってほしいんですけど~?」

 

 ニヤッとしながら話す綾瀬も、そんな綾瀬や縁を交互にジトっと見て“バカップル……”とため息を漏らす渚も、“今の”彼にとっては現実とかけ離れた物だったのに。

 他ならぬ自分自身の五感が、ここは夢では無く現実だと教えてくる。

 

 そんな事あるのか。縁は自分が置かれている状況を認識すればするほど、ワケが分からなくなっていく。

 

 今、彼は。

 失ったはずの時間の中にいるのだ。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「ねぇ、本当に熱とか無いの?」

 

 心配して顔を覗き込んでくる綾瀬に、縁は困り笑顔で平気だと返すが、綾瀬は全く納得する様子を見せない。

 

「平気って言われてもね、あんなに真顔で泣くような貴方、見た事ないんだから、心配なのよ。……ねぇ、本当に何もないの?」

 

 綾瀬の言う通り、縁は朝、泣こうと思う暇も無く、勝手に涙腺が崩壊したように涙をこぼした。

 自分が本来あり得ない状況に身を置かれ、あまりにも2人が自然に居て、パニックする間もなく感情すら置き去って、気が付けば泣いていたのだ。

 

 3年前に巻き戻った際も、死に別れた悠や綾瀬をみた直後に、似たような感覚を覚えたが、あの時よりも縁の心はぐちゃぐちゃになっていた。

 それもそうだろう。

 小鳥遊夢見に壊されて、自らの意思で切り捨てた、二度と戻らない日々の中に、今自分は居るのだから。

 

「もう、大丈夫だからって何度も言ってるじゃん。ホント平気だから、な?」

 

 自分たちが泣かせてしまったのかと焦った2人を誤魔化して、朝食をとって3人で登校する間もずっと心配された。

 学園に着いて渚と別れた後も、昇降口から教室に行くまでの廊下で散々気に掛けられて、教室についたって健康状態を疑われている。

 

「覚えてないけど、たぶん怖い夢を見たんだ。寝ぼけて泣いちゃっただけだからさ。安心してよ」

 

 嘘八百も良い所だが、そう言うと取り敢えず綾瀬は不承不承ながらもそれ以上詰め寄っては来なかった。

 一旦縁の席から離れて、女子たちの方に綾瀬が行った後、見計らうように悠が声をかけた。

 

「今日は朝から随分過保護気味だったね。何かあったんだ」

 

 “あったのか”という疑問形では無く、既に何かあったのだと確信している悠。

 

「ちょっとな。別に喧嘩じゃないよ」

「だろうね。それなら君はもっとこの世の終わりみたいな顔してるはずだし」

 

 その察しの良さ、発言の的中具合、いずれも本物の悠としか思えない。

 だからこそ、縁は尚更自分が置かれている状況が分からなくなってしまう。

 

 自分の家から学園までの道、そして教室についてからも、一切合切が明晰夢などで納得できるレベルを超えたリアリティに包まれていた。

 天使の姿をした綾瀬を見るまでの日々が全部嘘で、自分は長大な夢を見ていただけに過ぎない。そう納得するしか無い現実。

 

 だからこそ、どうしてもすぐに、確認すべき事がある。

 

「な、なぁ悠。一つ聞いて良いか?」

「何だい。答えられる範囲なら」

「……夢見って今どこにいるか、知ってる?」

 

 軽い言葉だが、彼にとってそれは余りにも大きな質問だった。

 当然だろう、小鳥遊夢見は彼の8ヶ月間を()()()()()()張本人とも呼べる存在。

 この世界があの日々と同じ世界であるならば、彼女が既にこの街にいるはずなのだ。

 にも関わらず、登校中縁が確認した時、彼女が暮らしていた野々原家の向かいの家には、人の気配がまるで無かった。

 渚も綾瀬にも聞いてみたが、直近では夢見と会ったことが無い様子だ。

 学園に到着してから、途中一年生のフロアに行って確かめる事も考えたが、綾瀬がいたのと、仮に居たらマトモに顔を見る事ができないだろうから、諦めた。

 

 だが渚や綾瀬とは違って、彼女の危険性を誰よりも知っていた悠ならば、夢見がこの街にいる場合、今どこにいるのか把握してるはず。

 もし彼が全く知らないと答えたならば、それは本当に小鳥遊夢見がこの街に引っ越していない事の証明になる。

 

 仮に何かしらの意図で嘘を吐いたとしたら、それこそこの世界も、嘘を吐く悠も偽物──自分の見ている夢に違いない。

 渚が綾瀬と和解して、綾瀬が恋人で、悠や園子が生きている。──どこまでも同じなのに、夢見だけが街にいないなんて、縁が何かの拍子に見ている、自分に都合の良過ぎる夢や幻覚に決まっている。

 

 

 あぁ、そう言えばお医者さんに出された薬、効果薄くなってきたもんな。

 

 縁は今、周りには隠して(家族の渚は当然把握しているが)、病院に通って軽い抗うつ薬や、抗精神薬を飲んでいる。

 きっと、それらの薬が切れて、脳が幻覚を見せてるんだろう。

 あの天使のような綾瀬だって、そうに決まってる。

 街中でおかしくなったから今頃現実では、渚達がアタフタしてるに違いない。

 困ったなぁ。隠してるのにバレたら面倒な事になる。

 次行く時はもう少し強い薬に変えてもらわないと、渚にだって迷惑かけてしまうよ。

 

 もはや答えを聞く前に結論付けた上に、次々考え込んでいる縁だが、そんな彼の心中を知る由もない悠は、縁の質問に数秒間を置いてから、

 

「縁、ちょっとこっち来て」

 

 そう言って、彼の腕を掴み廊下まで歩き始めた。

 

「うぇ、お、おいちょっと……」

 

 有無を言わせない力と勢いで引っ張られた縁は、初めからその気が無いとは言え、無抵抗で悠に連れられていく。

 朝のHRが近づきまばらになった廊下の奥、誰もいない空き教室の前まで歩いてからやっと止まった悠は、周囲に自分達しか居ないのを確認してから、険しい顔になって縁に問いかけた。

 

「君、さっきの質問はどう言う意味かな」

「え、いや、言葉通りなんだけど……?」

「彼女をどこに埋葬したのかって意味なら、聞きたくもないと言ったのは他ならぬ君だろう? 今更どうしてそんな事聞くのさ」

「──は???」

 

 それは、あまりにも予想していない、そしてこの世界があの8ヶ月と違う世界だと言うのを証明する言葉だった。

 思い切り背中を伸ばした時に起こる、きゅうくらりんとした目眩に似た感覚が縁を襲う。

 

「なぁ、悠……変な事を聞くけど、頼むから何を思ってもただ答えるだけにして欲しい」

「……うん、なに?」

 

 縁が尋常な状態では無い事を、理解できない悠ではない。

 きっと何か──縁にしか知り得ない大きな事が今朝から続いてるのだと、彼は察して……だからこそ、縁の頼みに応じた。

 そんな親友の言葉と表情を見て安堵しつつ、縁は聞いた。

 

「俺達、どうやって夢見を止めたっけ?」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……はぁ」

 

 時は変わり、夜8時の自室。

 人生において最も長い間留まる場所であり、自我のリスポーン地点とも言えるベッドの上に寝転びながら、縁は今自分がどうなっているのかを、改めて考える。

 

 悠は答えた。

 

『君が急に夢見がこの街に来るから、その前に殺したいって頼んだ』

『本気で彼女を殺そうとしていたから、僕は止めようとした』

『それでも君は頑なに意思を変えようとしなかったから、再三覚悟を確かめた後に、力を貸した』

『引っ越してくる前夜、彼女の住んでいた家に夜中忍び込んで誘拐した後、山奥の廃工場に連れて行った』

『そこで彼女の視覚と嗅覚と聴覚を潰してから、怨嗟の声を吐き出す口に拳銃を突きつけて』

『僕たち2人で、引き金を引いたんだよ』

 

「……ははっ、はははは」

 

 理解した。

 そして納得もした。

 

「そりゃそうだ。殺したくもなるさ。それをするには悠に頼むのが1番手っ取り早い」

 

 縁の知らない場所で、誰よりも早く夢見の危険性を知っていた悠に──彼が死ぬ前の時間に巻き戻れば、夢見がこの街に来て凶行を働くより先に、殺す事ができる。

 縁と同じ回数の繰り返しを経た『取り返しのつかない小鳥遊夢見』に変貌する前の彼女を、綾小路家の力を借りれば封じ込められたのだ。

 

 分かっていた。それが1番楽な方法だった事くらい。

 それが1番、()()()()()()()()()()()だったくらい。

 

 だが縁がその道を選ばなかったのは、ひとえにそれが()()()()()()()()()()()()では無かったからだ。

 

 でも、この世界の縁はそのセオリーをぶち壊した。

 どんな事を考えたのか、あるいは考える事を放棄したのか。

 いずれにせよ、結果としてこの世界は小鳥遊夢見の死をもって、甘いハッピーエンドになった。

 

『もしもあの時、3年前に巻き戻るのでは無く、別の選択をしていたなら』

 

 何度も考えて、その度に思考を遮断していた『もしも』。

 それが、この世界の正体だったのだ。

 

 ここでは、猟奇的な殺人鬼に殺される人間は誰も居ない。

 ただ、理不尽な運命と環境に歪まされて、殺人鬼に成って果てた少女が救われないまま、無様に朽ちただけ。

 本来の縁(あえてそう呼称する)が、決して切り捨てようとしなかった、たった1人を見放して生まれた結果が、これなのだ。

 

 だが、それが縁の心を蝕むかと言えば──確かにその通りだ。

 しかし、それが罪悪感となって彼の心を苦しめるかと言えば──必ずしもそうでは無かった。

 

 今日、縁は楽しかった。

 夢見の死の上で成り立っている世界だと分かっていて、その上で楽しいと感じてしまった。

 

 朝に渚に起こされ、

 綾瀬に揶揄(からか)われ、

 3人で登校して、悠もいる教室で授業を受けて、

 放課後に園子や咲夜がいる園芸部で活動をした。

 

 ヤンデレの女の子を警戒する必要が一切無い、彼が8ヶ月の努力の先で本来得ていたはずの時間を、満遍なく過ごしたのだ。

 

 奇しくもそれは彼が今、定義すら分からないまま見つけようとしていた、“幸福”そのものに違いなかった。

 

「……はぁ」

 

 だからこそ、今の彼は落ち着かない。

 この状況を甘んじて受け入れたまま、身も心も意識も、何もかもを委ねてしまう事が、怖かった。

 

 自分がこの世界に移動した理由が分からないまま、もしこのまま寝たら、次に目を覚ました時には元の世界に戻ってるかもしれない。

 

 それが怖くて──怖いと思う自分が、既にこの世界を受け入れ始めてる事に気づいて、それが無性に気持ち悪くて、居ても立ってもいられなくなった。

 

「……散歩でもするか」

 

 わざわざ声に出して耳に聞かせる事で、それを行動開始のトリガーにする。

 部屋着を脱いで、クローゼットからテーラードジャケットとスキニーパンツ──無意識か意図したものか、それはみんなで焼肉屋に行った時と同じ服装だ──に着替えて、縁は渚にコンビニ行ってくるとスマートフォンでメッセージを送ってから、夜の街を歩き出した。

 

 特に目的地もなく、本当にコンビニに寄りもしたが特別何か買う事もせず、最終的に行き着いたのは、彼の人生において何かと()のある、家から近い公園だった。

 外灯に照らされたベンチに座り、中途半端に明るい地上のせいでろくに星の見えない夜空を見上げる。

 初夏の夜は真夏ほどの暑苦しさはなく、たまにそよぐ風やささやかな虫の音が、少しずつではあるが、ザワついていた縁の心を落ち着かせていく。

 

 そう言えば、この世界に来てから、全く心や頭がざわつかない。

 薬を全く飲む事無く(そもそも薬が家に無かった)、精神が健常な物になっている事に、縁は遅まきながら気づいた。

 

 元の世界に戻ったらどうなってしまうのか。

 その不安こそあるが、薬に頼らないまま、ここまで落ち着いてる自分になるのも久しぶりだった。

 

 とは言え、分かったのは自分の精神状態のみであり、それ以上の気づきや閃きなどは、その後10分近く経っても出てこない。

 

「……そろそろ、帰るか」

 

 これ以上ここに居ても仕方ない。そう思ってベンチから立ち上がると、縁はポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認しようとした。

 

 その時だ。

 スマートフォンの入ったズボンの右ポケットの底に、何か入ってるのに気づいた。

 

「ん?」

 

 部屋を出る前にこのズボンに着替えて、外をぶらついて公園に着くまでの間、縁はスマートフォン以外の物をポケットには入れてない。

 着替える前……クローゼットの中にしまってた時既に入っていた物だろうか、気になってポケットから取り出した。

 

「これって……」

 

 可愛らしくシンプルな柄の袋に包まれた、見覚えのある形状。

 間違いない、渚が──あの世界の渚が縁に手渡した飴玉だった。

 

 どうしてこの世界にこれが? 当然湧き出る疑問に頭を巡らそうとした矢先、公園の奥から、何かが軋む音がした。

 

 パッと音の鳴る方へ視線を向けると、それがシーソーの動く音だというのが分かった。

 だがそれを見て『なんだ、シーソーが動いてるだけか』なんて呑気な事を考えるワケも無い。

 わざわざ夜の公園に来て、物思いに耽る縁の様な人間はそう多くない。ましてや遊具で遊ぶような人間など、まず居ないはず。

 

 風が強ければ動く事もあり得るだろうが、それほどの強風が吹いてたなら、シーソーだけじゃ無く他の遊具も、何なら縁だって風の影響を受けるはずだ。

 強い風も無いのに勝手に動き始めたのなら、ホラー映画や番組で見るような心霊現象が起きてる事になる。

 生半可な幽霊よりも余程恐ろしい目に遭ってきた縁だが、それにしたって呪いや怪現象は恐いだろう。

 

 しかし幸いな事に、シーソーにはちゃんと片方ずつ人が乗っていた。

 そしてだからこそ、縁はシーソーに乗ってる人間が、普通では無いと判断して──すぐに誰か分かってしまい、背中に寒気が走った。

 

 街灯の灯りがわずかしか届かず、月明かりも雲のせいでまばらな公園の奥においてもなお、その2人の格好は余りにも特徴的だった。

 そして何より縁は、シーソーに乗る2人が時折出す笑い声に、余りにも聞き覚えがあった。

 

「何で、ここにいるんだ……」

 

 思わずそう呟いてしまった、その瞬間。

 シーソーが止まった。

 

「──っ!?」

 

 薄暗いから見えるはずのない2人の顔。その瞳がこちらを向いて、口元はニヤリと笑ったように感じた。

 

 ダメだ、すぐに逃げないと。

 そう頭が理解する時にはもう、手遅れだった。

 

「見つかっちゃったわね、ノノ」

「見つかっちゃったねぇ、ナナ」

 

 残念そうな言葉とは裏腹に、2人は楽しそうに会話しながら、シーソーを降りる。

 そうして、ゆっくりと縁に歩み寄り──遂に街灯の真下に現れて、ゴシックロリータの服装に身を包んだその姿を露わにした。

 

「……嘘だろ」

 

 見間違えなどでは無かった。気のせいでも無かった。

 ましてやこの後に及んで他人の空似なんて事もあり得ない。

 間違いなく、そこにいるのはナナとノノ。

 巻き戻る前の世界で出会っていた、咲夜に雇われた双子の少女達だ。

 

「お久しぶりね、お兄ちゃん。怖いハサミのお姉ちゃんを捕まえて以来かしら」

「また会えて嬉しいなあ! ねぇねぇ、ノノ達に会えてお兄ちゃんは嬉しい?」

「……何だって?」

 

 今、2人はなんて言った? 

 久しぶり? 会えて嬉しい? 

 そう言ったのか、俺に? 

 

 恐怖心を塗り潰す勢いで、困惑が脳みそのシワを埋め尽くしていく。

 無理もない。縁がこの2人に出会ったのは、夢見が手始めに悠を殺して、身の危険を感じた咲夜がボディガードとして雇ったからだ。

 

 すなわち、事前に夢見を殺して悠の死が回避された結果であるこの世界においては、縁がナナとノノに出会うキッカケすら無い。

 当然、双子が夢見に出会う事も無いのだ。

 

 しかし、双子はどちらも縁を既に知っている。

 それどころか、この世界でも縁しか知らないはずの、夢見が捕まった時の事すら分かっている口ぶりだった。

 

 おかしい。それでは辻褄が合わない。

 だってこの世界は、惨劇が起こらなかった世界のハズじゃ──、

 

「そんな都合の良い展開、本当にあると思ってるんですか?」

「──ッ!?!?」

 

 またも聞き慣れた人の声が、ねっとりと耳元で囁く。

 驚いて後ろを振り返ると、そこに立っていたのは見知らぬ制服を着た黒髪の少年──のように見える、胡散臭い男。

 

「塚本、お前まで……」

「ハイ、お元気そうで何よりです、野々原縁さん」

 

 親しげに名前を呼ばれたのに、ここまで嬉しくない人間はそうそう居ないだろう。

 縁は前方にナナとノノが居て近づいてきてる事よりも、背後に塚本がいる事の方が不快極まりなかった。

 前方の虎、後方の狼……狼というより蛇蝎の類ではあるが、どちらも出会いたくない人間である事には変わらない。

 そんな2人に挟まれてしまった今、縁に出来る行動は限られている。

 会話が通じる気のしない双子と、会話すらしたくない男から急いで逃げる事だ。

 

 幸い、辺りに家が多い場所だ。大きな声を出せば不審に思った住人が警察に通報してくれる可能性がある。

 それじゃなくてもこの辺りは入り組んでいて、勝手知ったる縁にとって逃げるのに適している場所だ。

 躊躇う理由なんて無いとばかりに、縁は利き足にしてる右に力を入れて、すぐに走り出そうとした。しかし、

 

「死にたいんですか、あなた」

「……っ」

 

 普段とまるで同じ口調──しかし、明らかに言葉の重みが異なる塚本に、あっという間に行動を封じ込められた。

 

「今この場を離れたらどうなると思うんです。そこの双子は鬼ごっこが始まったと思って、喜び勇んであなたを追いかけますよ。ただ追いかけるだけならまだしも、ナイフやら斧やら品のない物を、的当てのように投げ飛ばして、楽しむでしょうね」

「あっ……」

 

 言われて確かにその通りだと、縁は納得してしまった。

 そして指摘は正しかったらしく、せっかくあと数秒で遊びが始まると思っていたのに邪魔された双子は、頬を膨らませながら塚本に抗議し出した。

 

「むー! せっかくお兄ちゃんと遊べると思ったのに、なんて無粋な人なのかしら」

「こーいう人、動画だと出てきただけで、画面が真っ赤なアンチコメントで埋め尽くされちゃうタイプだよナナ」

「あら、変な事に詳しいのね。ノノったらいつのまにそんな事覚えたの?」

「へへー凄いでしょ」

「凄いのかは分からないけど、普段は何もしないけど本当は何でも出来るって思い込んでる痛い人っぽいとは思うわ、この人」

「あっ分かる。そーいうの、オタクって人たちが憧れてるんだってー。グンシ? とかサンボー? とか」

 

 好き勝手言いまくるナナとノノ。

 それを聞いて内心深く同意してしまう縁。

 一方、急に直球どストレートでヘイトスピーチを浴びる形になった塚本は、普段通りの笑みを浮かべて、右手で前髪をかきあげつつ言った。

 

「ふ、ふふ……好き勝手言いなさる。弐双の劣化品風情が」

 

 口調はやはりいつも通り。しかし今まで散々、聞きたくないのに塚本の声を聞かされてきた縁には分かった。

 声が若干怒りで震えている。どうやらこの男も、人並みの感情はあったらしい。

 

「と言うよりも、野々原さん。曲がりなりにあなたの自滅行為を止めたのに、庇うそぶりすら見せないの酷すぎませんかね」

「いや……それはほら、日頃の行い……」

「……はぁ、もう良いです」

 

 自身が孤立無縁だと分かった塚本は、短く大きなため息を吐くと、気を取りなおすように咳払いをしてから、縁に右手の人差し指を向ける。

 

「今あなたが置かれている状況について、もう少し真剣に考える事を強くお勧めします」

「……それは、分かってるよ」

「いいえ、きっと間違いなくあなたは自分に都合の良い解釈に逃げようとしている。私やそこの劣化品がこの場に──野々原さんの目の前に現れた事の意味をちゃんと考えるべきです」

 

 そう言うと、踵を返して縁の返答も待たずに公園の外へと歩き出す。

 おい待て、幾ら何でも抽象的過ぎだろ。せめてヒントになるような事でも言えよ! そう言おうと口を開こうとしたが、

 

「じゃあまたね、お兄ちゃん!」

「すぐに会えるわ。その時は遊びましょうね、フフッ」

 

 塚本の後を追うように、縁の両脇をノノとナナが風を切って過ぎ去り。

 

「……何なんだよ、もう」

 

 驚いたので一瞬深く瞬きした後、既に縁の周りには誰の影も形も無かったのだった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日。

 お昼ご飯を綾瀬達と一緒にした後、1人だけ高等部校舎の屋上に来た縁は、塚本の語った言葉の意味をひたすら思い返していた。

 

『きっと間違いなくあなたは自分に都合の良い解釈に逃げようとしている』

 

 なんて容赦の無い、目を背けたくても出来ない言い回しをしてくれたのだろう。

 お陰できっと塚本の狙い通り、縁は朝起きてからずっと考え込んでしまい、満足に渚や綾瀬達との時間を楽しむ事が出来ずに居た。

 

 この世界は縁が本来選ばなかった選択によって出来た、縁の望んだ物に満ちた世界だと思っていた。

 だが、昨日彼が遭遇してしまった3人の内、少なくともナナとノノは、縁しか知り得ないハズの情報を知っていた。

 

 あの双子が特別な存在だから、という可能性はゼロではない。

 例えば七宮伊織という、最後まで理由は分からないままだが、縁が死んだ時何度も縁の意識を過去に巻き戻してくれた巫女がいた。

 また縁自身、特異な存在だった時期があったし、その頃の名残が今も残っている身だ。

 

 超常的な現象や、そういった事を可能にする力を持つ存在が、この世界には少し居る事を、縁は身をもって体感している。

 

 だが、不思議とあのナナとノノにはその手の力がある感じはしなかった。

 と言うのも、双子の言葉からは実際に経験した事を語る時の様な、実感が備わっていたからだ。

 

 どんなに知恵や情報を蓄えて詳しい人間でも、実際に体験していない事柄について語る際、どうしても僅かに『自分自身』と語る『出来事』との間に隔絶が生まれてしまう。

 息遣いや肌感、空気の流れ……その瞬間、その場に居るからこそ語りで再現できる雰囲気というものがある。

 わずかな言及とは言え、双子からはそれが強く感じられたのだ。

 

 そんな主観に依存しきったものを、参考にするなど間違ってる!

 第三者ならそう思うだろうが、縁は一歩間違えればヤンデレの女の子に殺されるかもしれない環境の中、何度も人の顔色や声色、語勢や雰囲気を伺い、失敗と成功を重ねて来た人間だ。

 少なくとも彼は、この手の感覚だけは、外さない自信をこれまでに培っていた。

 

 だからこそ強い言葉で断言する。

 あのナナとノノは、間違いなく巻き戻る前に縁が出会ったナナとノノと同一人物だと。

 

 つまり、縁が思っていた『本来選ばなかった選択によって出来た世界』では絶対存在するハズが無い人物。

 なのに、あの双子は確かに存在して、縁の前に現れた。

 

 この矛盾が指し示す答えは、すなわちこうだ。

 

「ここは、俺の妄想や夢の様な世界なのか」

「やっと能天気なアナタでも分かったみたいね」

 

 縁のポツリと漏らした残酷な独白に、何者かが即座に答えた。

 何者か、と考えたのは1秒足らずで、すぐに誰の声なのか分かったが。

 

「……咲夜嬢か」

「何よ、その呼び方。アナタ“向こう”ではアタシの事そう呼んでるの?」

 

 綾小路咲夜、昨日も放課後の部活中に会った、悠の従妹。

 昨日の時点では全くそんな素振りも無かったが、口ぶりから彼女もまた、ナナやノノ、それに塚本達と同じ枠の存在だったらしい。

 そして、この場に姿を見せたのは咲夜だけでは無かった。

 

「こんにちはお兄ちゃん!!」

「やっぱりすぐ会えたわね。ごきげんよう、お兄ちゃん」

 

 咲夜の後ろからぴょこっとノノ、ナナが姿を見せる。

 昨日はビビり散らかした縁も、既に2人に恐怖や驚愕の類を抱く事は無い。

 むしろ、居て当たり前だという気持ちすら彼の中にはできていた。

 

 想い起すのは巻き戻る前の、中等部の屋上の記憶。

 全ての元凶が夢見だと分かった──真実に至った時と、校舎の違いこそあれど、屋上という環境と人間が一致している。

 

 偶然では無いだろう。

 つまり、自分の考えに対する答え合わせのために用意されたシチュエーションなのだと、縁は解釈する。

 全くオカルトじみた解釈だが、ここはそう言う世界なのだ。そう思う事にした。

 

「咲夜、教えてくれるか。ここは一体何なんだ」

「今アナタが独り言で口にした通りよ。この街はアナタの強烈な想いがキッカケで生まれた、本物みたいな偽物。明晰夢よりも明晰な夢みたいなものね」

「……そっか」

 

 偽物。

 偽物か。

 

 そうだと考えていたが、いざ言われたら、哀しくなるのは我ながら勝手な生き物だと縁は思う。

 今朝も感じた渚や綾瀬、悠や園子、皆の言葉や温かさが全部、縁の頭の中だけの偽物なのだから。

 

「強烈な想いって言うけど、俺そんなの覚えがないよ」

「分からない? この世界も、今こうして話してるアタシも全部、アナタが作ってる様な物なのに、本当に思い浮かばないの?」

「……分かってたら聞かないだろ」

 

 幾許かイラつき──咲夜では無く分からない自分自身への──を込めて、縁は吐き捨てる。

 

「まぁ、その通りね」

 

 あの咲夜にしては珍しく、縁の弱々しい発言を責める事も無いまま肯定する。

 

「特別に教えてあげても良いけど、聞きたい? 知りたい? この世界の──アナタの根幹にある気持ち」

 

 もったいぶる様に問いかける咲夜。

 ナナとノノもそんな彼女の真似をしてか、縁の前まで詰め寄ってニヤニヤと笑いながら。

 

「お兄ちゃん、そんなつまらない事、知らない方が幸せだと思うよ!」

「知ったって楽しくないもの。知らないままの方が幸せよ?」

 

 昨夜に塚本を揶揄った時と同じ口調で話す双子だが、縁に不快な感情は生まれない。

 基本何も考えて無い(あるいは楽しいと感じる事にしか興味が無い)ナナとノノだが、不思議と今の言葉からは、本当に忠告してくれてる様なニュアンスを感じたのだ。

 

 この双子もまた、縁の意識が生み出した存在だとすれば、つまり自分自身、知りたくないと思っているのではないか。

 

「あれ、お兄ちゃん急に黙っちゃった。どうし──あぅ」

 

 無反応なのをつまらなそうにしていたノノの頭を、縁は愛犬の頭をそうするように、唐突に撫でる。

 巻き戻る前の世界では怖い想いを沢山されたが、同時に助けてくれた存在でもある。

 切羽詰まっていた当時は全く意に介する暇も無かったが、こうして平時に会話をするだけなら、愛らしさを持つただの子どもだ。

 

 ましてや、彼女なりに自分を案じてくれてるのなら。

 

「心配してくれてありがとう、でも知りたいんだ」

「あはははっ、お兄ちゃんくすぐったいよ!」

 

 多少乱暴なくらいの撫で方だが、ノノは不快どころか逆に喜ぶ反応を見せる。

 そうなると今度、隣にいるナナも黙ってはいない。

 

「お兄ちゃん、ノノばかり構って不公平じゃないかしら」

 

 空いてる方の腕を掴んで、眉を寄せながらナナが言う。

 それに応える様に、縁はもう片方の手で、お望み通りにナナの頭も撫で始めた。

 

「な、何してんのよアンタ達!?」

 

 唐突に始まった脈絡もへったくれも無い出来事を前に、情報量でマウントを取っていたつもりの咲夜は困惑した。

 この後、必死に知りたがる縁を少しだけいじわるして、可愛い──困った顔を見て楽しむつもりだったのに。

 さながら散歩中に出会った人に、愛犬2匹が目の前で撫でられてる所を見てる飼い主。当事者なのに蚊帳の外だ。

 

 会話の主導権を握ってるはずが、蔑ろにされている事に耐えられない咲夜は自身も縁の前に詰め寄る。

 

「ちょっとアンタね! 自分が今どんな状況にいるのか分かってるワケ!? このアタシを差し置いてこんな子ども2人と和んでるんじゃ無いわよ!」

「あら、貴女だって十分子どもだと思うけど」

「胸だって咲夜の方が小さいんじゃないかな」

「ちょっと黙ってなさい!」

 

 銀髪の双子の間でキーキー騒ぐ金髪少女。

 見た目的にも聴覚的にも華やかで喧しくなってきた所で、縁はおもむろに双子の頭から手を離し、代わりに咲夜の両手を包む様に握り始めた。

 

「なっ、何──」

 

 またも急な出来事、しかも今度はちゃんと当事者の立場になった咲夜が、たちまちパニックになりかける。

 その前に、縁はジッと咲夜の目を見て、真剣な面持ちで言った。

 

「頼む咲夜、君の知ってる事を教えて欲しい。話してくれ」

 

 恋の告白をする月曜9時ドラマの主役の様に、緊迫感と答えを言うまでこの手を離さないと言った雰囲気を醸し出す。

 咲夜は気を許した相手から、真剣な思いを突きつけられると弱い。

 現実の世界で咲夜と触れる機会が増えたからこそ縁が知った、彼女の性格を突いた行動だ。

 俗に『チョロい』という単語でくくれる性格だが、咲夜の場合は気を許してもらえるまでのハードルが特殊なので、決して彼女がチョロいワケではない。

 

「あ、あぁ……ぁぁぁ」

「あはは、咲夜タコみたいに真っ赤っかだー!」

「カニみたいに赤いわね。蟹味噌はそんなに無さそうだけど」

 

 口をパクパクして思考がショート気味の咲夜の頬を、左右から指で突っつくナナとノノ。

 

「──ハッ!?」

 

 その僅かな刺激でようやく意識が戻ったのか、正気に戻った咲夜。

 

「話すから、離しなさぁぁぁーい!!!」

 

 キッと縁を睨むと、一際大きな声で叫んだ。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「もう、信じられない! 庶民如きがアタシの手を握って……あんな、情熱的に、ぁぉぉぁ」

「咲夜ー、話が進まないよー」

「──っ、とにかく! 次あんな事したらタダじゃおかないわよ! 分かった!?」

「はい」

 

 そう短く答える縁の左頬には、咲夜から喰らったビンタの跡がくっきり付いていた。

 めんどくさいモードに入っていた咲夜から、迅速に情報を引き出そうとした結果、無駄にダメージを受ける事になった。自業自得といえばそれまでだ。

 

「それで結局、答えは何なんだ。教えてくださいな」

「もう……分かったわよ」

 

 縁がイマイチ反省してる様に感じられないが、これ以上は言っても仕方ないと、咲夜はため息混じりに気を取り直してから、縁の心臓辺りに人差し指を向けて言った。

 

「“未練”よ」

「……未練って、俺の?」

「バカなの? 理解力ゼロなの? ここまでの話の流れでアンタ以外誰がいるのよ」

 

 確かにその通りではある。

 あるが故に、素直に言われた事を受け入れたく無いという気持ちがあった。

 だが尋常ではないほどの『納得』が、彼の胸の中を満たしているのも事実。

 その通りだと、もはや認める他に無いほどに。

 

「そっか……未練か。俺そんなに未練がましい性格じゃないと思ってたけどな」

「嘘ね」

 

 その通り、嘘だ。

 現実の中で何度、縁が失った8ヶ月を想った事か。

 何度想い返して、喪失感に苛まれて、あの日々の続きを、虚しさと隣り合わせで考えてきたか。

 

 未練がましくて当然だ、その気持ちがこの世界を作り出して、その中に自分がいるのだとすれば、これ程までに納得出来る話は無い。

 

「現実の俺は、どうなってるんだろうな」

「さぁ、知らないわよ」

「そうだよな……その通りだ」

 

 未練と対極に位置する世界──現実の事なんて、ここに居る誰も知りはしない。

 それを知るためには、縁がこの世界から消えるしかないのだから。

 

「とにかくっ! アナタは何を未練に思ってるのか、それをハッキリさせるコトね! そうしないといつまでもこの世界から出られないんだから」

「……心配してくれてるのか?」

「ば、バカ言ってんじゃ無いわよ! アナタの心配なんてするわけないでしょ! 自分の事なのに何にも分かってないから、教えてあげてるだけなんだから!」

「ノノ、こーいうのをツンデレって言うのよね?」

「うん、他にも『てんぷれ』って言うんだって」

「うっさいのよアンタ達ー!」

 

 

 屋上での一騒ぎは、5限開始10分前を告げる学園のチャイムで一度お開きとなった。

 最後まで顔を真っ赤にしていた咲夜と、そんな咲夜を揶揄う双子は屋上から去り、残った縁も、新しく得た情報を頭の中で整理してから教室に向かう事にした。

 

 そのタイミングを見計らう様に、ポケットにしまっていた彼のスマートフォンが小さく揺れた。

 取り出して見ると、知らない番号からの着信だった。

 不審に思いながらも、これまでの出来事を踏まえると、決してこの電話がどっかの営業や間違い電話の類ではない事を確信する。

 いや、それ以上に誰からの電話なのかすら、うっすら予想できていた。

 

「……もしもし、どなたですか」

『綾小路咲夜から、話は聞けましたか』

「やっぱか……お前だと思ったよ」

 

 予想的中、と素直に喜べる縁では無い。

 ましてや相手が塚本であるなら、尚更だ。

 

「色々教えてもらったよ。確かにお前の言う通り、ここは俺が思ってた様な世界とは違ってた」

『はい、その通りです。ここは貴方にとって夢の様な世界……色んな意味でそう呼べますね』

「その割には、皆の言動がずいぶんと本物みたいだけどな。お前も含めて」

『本物ですからね』

「は?」

 

 電話しながら思わず、首を傾げてしまう縁。

 どう言う意味だ? 縁の未練から作り出された世界だと言うのなら、登場人物は全て縁の想像ないし妄想に過ぎないはずだ。

 それを本物だと断言する塚本の言葉は、間違いなく矛盾している。

 

『電話したのはこれが理由です。綾小路咲夜からの説明だけでは、不十分ですからね』

「……話してくれ」

『はい。端的に申し上げれば、この世界は野々原さん1人の未練で作られた世界では無い、と言う事です』

「……じゃあ、他にも俺と同じ様に、未練を感じた奴がいるのか」

『他にもいる、と言うよりも、あなたが関わってる人全員がそうじゃないかと』

「はぁ!?」

 

 流石にこれは予想外で、縁は素っ頓狂な声を出してしまう。

 

「ぜ、全員って、誰も彼もって意味か!?」

『はい。と言っても先生だったり、道ゆく人たちだったり、あなたと関わりの薄い人達までは関与していないでしょうが、少なくとも……』

「渚や綾瀬達は、本人達って事か?」

『より細かく言うと、本人達の未練、ないし意識のかけらでしょう』

「渚や、綾瀬達の未練……」

 

 縁が巻き戻る前の世界を惜しむ様に。

 あの世界に取り残された人々の意識が、縁を惜しんでいたのだろうか。

 

『あくまでもこの世界を成り立たせてるのはあなたの未練ですが、その世界で役割を与えられた、“あの8ヶ月間”の、特にあなたと繋がりの深かった方々は、本物と何ら遜色無いと言えますね』

「その、役割って言うのは?」

『基本的にはあなたと日常を過ごす役割です。この世界に来てまだ日は短いですが、あなたは基本、平和な日々を過ごして来たでしょう?』

「あぁ、そうだけど……それが、役割って事か」

『はい。もっとも、周りがそれを自覚してるかは不明ですが。あとそれに加えて、あなたをこの世界に留める役割、もしくはあなたが未練を断ち切って現実の世界に戻る手伝いをする役割。このどちらかに属していると思われます』

 

 頭がパンクしてしまいそうなのを、縁はどうにか抑える。

 落ち着け。こんな事、夢見に監禁されてた時に比べればなんて事無いだろう。……いや、起きてる事の質が違うが。

 

『妹さんや河本綾瀬さん、それに恐らく綾小路幽夜さん達は前者の役割を担ってるでしょう』

「それなら、咲夜や双子、それにお前は後者の役割ってことか」

『ご明察です。更に言えば、何度も言う通りこの世界の根幹はあなたの未練。つまり、前者の方々はあなたの中にある“この世界に居続けたい”という気持ちの為に居ます』

 

 縁が愛した人々はみんな、縁にとって都合の良いこの世界を守り、縁がこの世界で生きていく事を望んでいる。

 

『後者は“この世界から出なければならない”という、あなたに取って優しくない気持ち、理性とも呼べる物に与しています』

 

 それが出来るのは彼との繋がりを持つが、敵としての振る舞いが出来る人達。つまり彼の記憶の中で、何かしら強烈なストレスや不快感、恐怖を与えた事のある存在だけ。

 

 渚や綾瀬、悠や園子。縁を大切に思っている人達はそれ故に、縁を傷つけるかもしれない、厳しい選択を選ぶ側には寄り添わない。

 

「……なるほどな」

 

 理屈を理解するのは無理だが、少なくとも役割分担の理由については、飲み込めた。

 咲夜が後者の役割を担ってるのは意外だったが、自分からは絶対関わりたく無いと考えていた塚本が、詳しく説明出来るレベルなのは納得だ。

 

 であれば、次に知りたい事は当然、どうすればこの世界から出られるのかだ。

 咲夜や塚本が縁の理性側として存在してるなら、必然的にこの世界は脱出する方法が用意されているはず。

 それをきっと、塚本は知っているに違いない。

 

「元の世界に戻るには、どうしたら良い?」

『戻りたいんですか?』

「……そう言う問答は今したくない」

 

 塚本は縁が『出なければならない』と考えていると言った。

 あくまでも義務や責任から生まれる『出なければならない』であり、『出たい』という願いでは無い、と。

 であれば、彼自身の本音は──そこを考えるのは嫌だった。

 

「良いから、知ってる事だけ話してくれ」

『分かりました。方法はシンプルです、“未練の正体”を見つけて、それを断ち切る。それだけです』

「正体……」

『失われた8ヶ月の続きとも言えるこの世界に来た理由を、見つけてください。幽霊が成仏できない理由を見つける様にね。そうしなければあなたはきっと、いつまでもこの世界から出られません』

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 電話の最後に、塚本は言った。

 

『気をつけてください』

 

 何を気をつけろと言うのか、尋ねる間を与えずに言葉は続く。

 

『あなたをこの世界に留めたい人達は、皆んな等しく“野々原縁と一緒にいたい”という未練を持ってるはず。あなたがこのまま普通に生活する限りは、特に何も無いでしょうが──』

 

 もし、縁の意思が代わった場合。

 

『──あなたがここを出ようと行動すれば恐らく、あなたの敵になります』

 

 締めの言葉がどうにも頭から離れなくて、縁は午後の授業もろくに頭に入ってこなかった。

 ホラー映画や心霊写真は好きな部類だが、ヒトコワ系は話が別だった。

 一歩間違えれば、慣れ親しんだ人が豹変するかもしれない。そんな怖い事を言われてしまったら、未練の大元を探すなんて行動も簡単に出来やしない。

 

「どっちにしろ、そもそも何をすれば良いかわかんねぇけどさ」

 

 放課後の園芸部。

 敷地内の花壇の植え替えをしながら、縁は愚痴る。

 

「分かんないって、何が?」

 

 グループになって同じ作業をしていた渚が、ジャージ姿で土の袋を持ちながら尋ねてきた。

 塚本の言葉が本当なら、詳しい説明をするわけにはいかない(そもそも言えるわけない話だ)が、今の言葉だけなら幾らでも誤魔化しがきくので、特に慌てる事もなく縁は答えた。

 

「んー、課題があってな。どこから手をつければ良いかわからないんだ」

 

 本当の事を情報量削って説明しているだけなので、嘘では無い。

 嘘を嫌う渚に言いにくい事を話すために習得した処世術であり、事実、兄の言葉から嘘をついた雰囲気を感じない渚は、『そっか、やっぱり高校生は大変だね』とすんなり受け入れた。

 

 縁の隣に座り、彼がしてるのと同じ様に、沢山ある植え替え待ちの鉢をひっくり返して、新しい鉢に植え替え始める。

 

「そんなに複雑な内容なんだ、お兄ちゃんの課題」

「うん。道徳みたいな内容でさ、思い切りぼんやりしてる」

「ヒントとかは無いの?」

「あるにはあるけど、当たり前って言うか、普遍的過ぎて、何がどう答えに繋がってるのかわからないんだ」

 

 縁が抱いてる未練。

 その正体を見つけなければならないが、この世界そのものが縁の未練から生まれてるなら、もう世界を破壊する位しか答えが無い気がした。

 

 あるいは、今こうして園子が部長をしてる園芸部員の一員として、渚や綾瀬達とも一緒に活動してる時間は、現実の縁にはもう無いものだが。

 これこそが未練の正体だと言われれば、納得できてしまう。

 仮にそれが正解だとしても、じゃあ今度そこから何をしろと言うのか。部活を辞めるだけで良いのか、サボって終わりなのか、あるいは廃部か。

 

 違うだろう、きっとこれだけの世界を作ってしまう自分の未練は、もっと分かりやすくかつ、解決法も明確なものであるはず。

 それが分からないから、こうして悩んでいるのだが。

 

「うーん、(あたし)にはよく分からないけど……たぶんお兄ちゃんでもすぐに思いつかない事なら、無理に見つけようとしなくて良いんじゃ無いかな」

「え?」

 

 植え替えする手はそのままに、渚は話を続ける。

 

「“見つけなくちゃいけないんだー”って思いながら考えてたら、きっと間違ってる答えになると思うんだ。お兄ちゃんってただでさえ変な所で真面目だから、無理やりこぎつけて考えそうだし」

「そうかな……でも、渚が言うなら本当なんだろうな」

 

 事実、今の縁は責任感の様な気持ちで答えを求めている。

 それでは、正しい“未練の正体”を見つけられないかもしれない。

 まずは素直にこの世界で生活して、自分の中でこれだと思う事が出てくるのを待ってみよう。

 縁の中でそんな考えが大きくなった。

 

「焦らないで、ゆっくり探して見るかな」

「それが良いよ。ただでさえお兄ちゃん、今までたーっくさん我慢して、みんなのために頑張ってきてんだもん」

「ははは、そんな事ないよ」

「あるよ。私はそう思ってる」

「……渚?」

 

 縁に語りかける渚の声が、いつもより心なしか真剣な雰囲気だったのに気づいた縁は、作業する手を止めて渚の方を見た。

 それに合わせて渚も手を止めて、兄の方へ視線を向ける。

 

「柏木さんの事、悠さんの事、私と綾瀬さんの事……お兄ちゃんはずぅっと周りの人のために頑張ってきたんだよ? だから、これからは自分のために時間を使わなきゃダメだよ」

 

 そんな事を渚が言うとは微塵も考えて居なかった。

 確かに今思えば、綾瀬と付き合った日から夢見が現れるまでの僅かな期間しか、周りを気にせず自分のしたい事をする時間は無かった。

 あるいは、それこそが縁の未練だったのかもしれないが、そう結論付けるのも、今じゃ無くていい。

 

「……っ」

 

 しかし、渚からそんな大人びた事を言われるとは思わなかった。

 もしかして、縁の未練が渚に言わせてるのだろうか。

 あるいは、渚の未練? 

 

「な、なーんて! 綾瀬さんと喧嘩して迷惑かけた本人が言っても、説得力無いよね、アハハッ!」

 

 気にはなったが、お互いに黙って見つめ合う時間に、先に耐えられなくなった渚が誤魔化すように笑いながらそう言ったので、あやふやなまま縁も作業を再開するしか無くなった。

 

「ねぇお兄ちゃん。私たち、毎日こうして園芸部で一緒に色々して来たよね」

「そうだな。花は華やかだけど、活動内容は思ったより力仕事が多かったり、地味な活動の積み重ねだったり」

「お兄ちゃんも私も、植物育てるのは素人だから、何回か枯らしちゃった事もあったよね」

「そうそう。水やりすぎたら根腐れとか、マジかって思ったし」

 

 地味な作業を今まさに行いながら、気を取り直して2人はこれまでの活動を振り返っていく。

 

「今更だけど……私、こういうのあんまり好きじゃなかったんだ。土臭いし、疲れるし、あんまり可愛くない事もやらなきゃだし。……意外だった?」

「知ってたよ」

「だよね」

 

 クスっと笑って、渚は小さく肩をすくませる。

 

「本当、最初はお兄ちゃんが綾瀬さんと放課後も一緒に居るのが許せなくて入っただけだったもん」

「でも育てるのは俺より上手だったよな。渚の方が素質あったんだよ」

「…………」

「……渚?」

「うん。私の方が()()()()()()()

「──? あぁ、ガーデニングがどっちかというと女性寄りの趣味扱いなのも、何となく納得しちゃったよ」

「うーん、お兄ちゃんがガサツなだけかもよ?」

「それは言いっこなしでしょ」

「あははは!」

 

 あぁ。

 静かだ。

 兄妹以外、何もない。

 

 現実では絶対に感じられない心の平穏──何を言っても渚が病む事は無い、という安心感から生まれる会話の弾みが、縁を満たしている。

 考えてみれば、巻き戻る前にこうして、渚と今までを振り返る様な会話を一回もしなかったかもしれない。

 

「お兄ちゃん。お兄ちゃんは園芸部、()()()()()?」

()()()()()()。途中咲夜に苦しめられた事もあったけどさ。失いたくないと思うから苦しむワケだし、そのくらい園芸部は大切だっ──大切だよ」

「そっか。よかった」

 

 何でそんな事を聞いてくるのか、理由が気にはなったが。

 よかったと喜ぶ渚の横顔が、あんまりにも嬉しそうだったから。

 なんだか満足してしまったのだった。

 

「──よし、俺はこれで終わりだな」

「私もこれで終わり! 思ったより早く終わったね」

 

 植え替え作業が全部終わったが、渚が言う通り集合時間よりも30分ほど早く終わった。

 ジャージと手袋に付いた土埃を払い、制服に着替えてから兄妹揃って部室に戻ったが、まだ誰も居なかった。

 仕方ないので部屋の椅子に座り、他の部員が戻ってくるのを待つ中、渚がポツリと言った。

 

「……さっきの話なんだけど」

「さっきのって、園芸部が楽しかったって話か?」

「その前。お兄ちゃんの課題」

「あー……うん、なんだ」

「課題の期限って、近いの?」

 

 実際、どうなのだろうと縁は考えた。

 この世界に自分が居る間、果たして現実の自分はどうなっているのか。

 この世界で過ごす1日が、もし現実において数か月も経つのだとしたら、1日だって待っていられない。

 しかし、実際に現実の縁がどんな状況になっているのかは、縁自身にさえ知りようがない。ひょっとしたら何年も経ってるかもしれないし、逆に全く時間が経っていない可能性もある。

 つまりは、何も分からないのだ。判断材料が皆無なのだから仕方がない。

 

「いやぁ、近くは無いかな」

 

 それゆえに、曖昧な返事しかできなかった。

 

「だったらさ」

 

 心なしか声を綻ばせながら、渚が言う。

 

「やっぱり、答えはゆっくりでいいと思うな」

 

 

 

「お兄ちゃんがやりたい事、たくさんしてから探そうよ」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「決めた」

 

 渚と綾瀬と一緒に帰る途中、縁は唐突にそう言った。

 

「どうしたの急に。決めたって何を?」

 

 右隣を歩く綾瀬がキョトンとした顔で尋ねると、縁は左手の指を2本立てて答えた。

 

「今日は渚と2人で晩御飯作る」

「え、(あたし)?」

 

 いきなり話題の当事者にされて、縁の左隣に並んでた渚が驚いた。

 

「えっと、2人は普段、当番で交代してるわよね?」

「そう。それを今日は一緒に作る、てか作りたい」

「お兄ちゃんがそうしたいなら全然良いけど、どうして急にそんな事決めたの?」

 

 当然浮上する疑問、縁は左隣に並ぶ渚に答える。

 

「今朝、渚と綾瀬がキッチンに並んでたろ?」

「同じ事をあなたもしたくなったのね」

「さっすが綾瀬、正解です」

 

 実際にはもうひとつ理由がある。

 縁は巻き戻る前の8ヶ月間で、渚と並んで料理する事がついぞ無かった。

 やりたい事をたくさんしようと渚に言われて、考えてみたら『そう言えばした事なかった』と思い至った。

 これもまた未練と呼べるのかもしれないが、たとえ“未練の正体”では無かったとしても、この世界だからこそ出来る事には変わらない。

 

「色々作ろう。オムライス、トンテキ、八宝菜……後は」

「家の冷蔵庫、今そんなに食材無いよ?」

「そういや確かに。じゃあ今から買い物に行こう」

「落ち着いて、お兄ちゃん。生活費のお財布は家にあるんだから、帰らないと」

「おっと、ごめんごめん。ちょっと気が逸ってたな。ありがとう渚」

「もう、お兄ちゃんったら慌てん坊なんだから」

 

 そう言って笑い合う2人。側から見れば仲睦まじい兄妹として映るだろう。

 しかし、すぐそばにヤンデレ適正の高い彼女が居るのを、忘れてはいけない。

 

「ちょっと、隣の恋人を蚊帳の外にし過ぎじゃない?」

「いででででっ──ヒェッ!?」

 

 綾瀬は耳を掴むと、爪を立てながら引っ張り、渚に向けていた顔を無理やり自分の方へ振り向かせた。

 文句を言おうとしたが、夕陽を浴びてるはずの綾瀬から、瞳のコントラストが消えていて思わずビビる縁。

 

「綾瀬さん、こんなの兄妹がするごく自然な会話ですよ? この程度で嫉妬してるくらいじゃ、余裕無さすぎませんか?」

 

 ごく自然に煽る渚。縁の耳を掴んでる指の力が強くなっていく。

 

「千切れる! 耳朶が千切れます綾瀬さん!」

「安心して? たとえ耳なし芳一みたいになっても、あなたの事は好きだから」

「その告白は嬉しくない──いだだだだっ! そういう意味じゃないから! 許して!!」

「ちょ、ちょっと綾瀬さん、爪食い込みすぎですから!」

 

 その後、多少力を弛めはしたが家に着くまでずっと、綾瀬は縁の耳を離さなかった。

 

「ひぃ……凹んでる」

 

 家の前でようやく解放されて耳たぶを確認すると、綾瀬の爪の形がくっきりと残っている。

 

「大袈裟なんだから。本当に千切ったりなんてしないわよ」

「でもさっきまでの綾瀬さん、目が本気にしか見えなかったけど……」

「なぁに、渚ちゃん?」

「いえ、何でもないです」

 

 さしもの渚もこれ以上は危ないと、口をつぐんだ。

 

「でも良いなぁ、私も一緒にご飯作るんじゃダメ?」

「3人並んだら流石に渋滞起こるよ」

 

 凹みが治るように耳をさすりながら縁は言うが、綾瀬はまだ少し諦めたくない様子だ。

 

「でもでも、八宝菜作るなら渚ちゃんより私の方が上手だし、その時だけでも」

「私とお兄ちゃんは家族だけど、綾瀬さんはまだ河本家ですから、自分の家でご飯食べてくださいね」

「うぅ、渚ちゃんの意地悪……いつか覚えてなさいよ」

「不穏な影を落とすな!!」

 

 なかなか諦めない綾瀬をどうにか宥めて、ようやっと家の中に入ると、渚は生活費の財布を取るためリビングの奥の棚へ、縁は何があるのか確認するため冷蔵庫へ、それぞれ向かう。

 それぞれ一分も掛からない事なのですぐに買い物に行く用意はできたが、渚の『せっかくだから着替えて行こう』と言う提案に乗って、2人は制服から私服に着替えてから買い物に向かった。

 

 スーパーは複数あるが、2人は自分達の徒歩圏内で1番遠いが、最も品揃えが豊富な店を選んだ。

 肉、野菜、海鮮、調味料……縁が作りたいと思った料理に使う物を手当たり次第にカゴに入れていき、買い物はつつがなく完了した。

 両手に品物が詰まったレジ袋を持ちながら兄妹は2度目の帰宅をして、早速料理を始める。

 

 縁がジャガイモの土汚れを洗って、洗い終わった物から渚が皮を剥く。

 渚がイカの下ごしらえをして、縁は八宝菜に使わないイカのワタを塩辛にする。

 鳥のもも肉を煮込んでアクを取ってる間、野菜を一口大に切り揃える。

 オムライスを作る時には、卵をクルンと包む行程をお互いにやってみたが、渚が綺麗に出来たのに対して、縁は所々破れてしまった。

 

 かちゃかちゃ、ぐつぐつ、ジュージュー。キッチンは2人が作る音と、時折交わされる会話、笑い声で満ちている。

 やがて全部の料理が出来上がって、それらを皿や容器に乗せて、テーブルいっぱいに配膳すると、渚がやり切った笑顔で縁に言った。

 

「お兄ちゃんの思いつきで始めたけど、楽しかったよ」

「本当にな。何でもっと早くやらなかったんだろうって後悔してるよ」

 

 どれも上手くいったので(漬ける必要がある塩辛は別だが)、達成感もひとしおだ。

 

「それで、お兄ちゃん。この後だけど」

「うん、言いたい事分かるよ」

 

 笑顔のままなのは変わらないが、こめかみの辺りから、ツーッと汗が流れる2人。

 渚は今一度テーブルに置かれた料理達を見て言った。

 

「……この量、2人で全部消費するの?」

「そう言うことに、なるなぁ」

 

 既に何度も言う通り、テーブルいっぱいに料理は置かれている。

 当然、その量も、いかに育ち盛りの兄妹が暮らす家とは言え多過ぎる。

 

「作るの楽しすぎて、量とか考えないで作っちゃったぜ」

「うん、私も結構夢中になってて……どうしよう、食べきれないのは冷凍するしかないよね」

「まあ、この量なら3日は困らないし、作り置きしたと思う事に──」

 

 今後のことを考えて少し頭を悩ませていると、玄関のチャイムが鳴った。

 

「誰だろう、この時間に」

「モニター見てみるね」

 

 渚がリビングにある来客を確認できるモニターに向かうので、縁もその後ろを付いていく。

 

「はい、誰で──えっ」

 

 画面を見るとすぐに渚が露骨に嫌な反応を見せるので、気になった縁も見てみると、そこに映っていたのは、

 

「綾瀬? こんな時間にどうした?」

 

 先ほど──料理で1時間半掛かっていたのでもはや2時間以上も前だが、帰宅したハズの綾瀬が立っていた。

 

『あ、2人とも? ごめんね、こんな時間に』

 

 マイク越しに綾瀬の気恥ずかしそうな声が届く。

 

『あのー、実は今日って私の親、どっちも仕事遅くなっちゃって。ご飯作ろうにも冷蔵庫空っぽでさ……その、もし良かったら何だけど……』

 

 綾瀬の言わんとする事が分かった2人は、互いに顔を見合わせる。

 “お兄ちゃんの彼女でしょ、何とかしなさいよ”と言いたげにジロッと睨む渚と、“許せ渚”と苦笑する縁。

 どちらも軽いため息を吐いてから、クスッと笑い合った。

 

「綾瀬さん、お兄ちゃんのご飯食べたいからって無理やりそんな嘘付けなくても良いんじゃないですか?」

『嘘じゃないって!? それは確かに、縁のご飯って食べた事なかったなぁとか、2人並んで料理って夫婦みたいで羨ましいなぁとかは考えたけど、親が残業で帰ってこないのは本当なの! 信じてぇ……』

「……ふふっ、分かってますよ。待っててください、今鍵開けますから」

 

 モニターの電源を落とすと、後ろで見てた兄に顔を向けて言った。

 

「さ、お兄ちゃん。開けにいってあげて?」

「うん。……でも、良かったのか? 綾瀬も一緒で」

「せっかく作った料理だもん。残して冷蔵庫に入れちゃうよりも、全部食べたいから」

「……分かった」

 

 その日の夕食は、普段よりもずっと賑やかな物だった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日、金曜日。

 この日も異常事態は皆無のまま授業を終え、部活動が始まったのだが。

 メンバーが全員部室に揃うと、園子は何やら見慣れない透明なチャック付き袋を手に取り、部員達に見せた。

 

「みなさん、これが何か分かりますか」

 

 袋の中には種が入っていた。

 つまり、何かしら植物の種なのは間違いない。

 恐らく園子が聞いてるのは、何の植物なのかだ。

 

「うーん、流石に種の形だけで種類を当てるのは……」

「あら悠、アンタこんなのも分からないワケ?」

「むっ、なら咲夜はどれが何か全部分かるのかな?」

「当たり前じゃない、本物の貴族なら当然の嗜みね。……まぁ、支流のアンタには分からなくても仕方ないかもしれないけど?」

「なんだとぉ……」

 

 綾小路家の醜い争いが密かに始まろうとしてるのを見て苦笑いしつつ、園子が言う。

 

「今回、私だけじゃどうしても手に入らない種類の物を何個か咲夜さんに手配して頂いたんです」

「ちょっとソノコ! 何余計な事言ってるのよ!」

「ふん、通りでおかしいと思ったら。本流のマウントの取り方は流石だねぇ」

「なんですってぇ……っ!?」

「お前らいい加減にしろ、部長の話が進まないだろ」

 

 放っておくといつまでも続きそうな貴族の戯れを、庶民代表として縁が止める。

 ようやく場が落ち着いたので、園子は改めて話を再開した。

 

「これ、実は皆さんの誕生日に合わせた花の種なんです」

「へぇー! 誕生花って言うんだっけ。わざわざ私たち全員の用意してくれたんだ!」

「聞いたことあるけど、そう言えば(あたし)の誕生花って何だろ」

「渚さんは1月11日なので、花も幾つかあるんですよ。セリ、ミスミソウ、それに白い梅やピンクカーネーションもです」

「4つも? 一つの誕生日に一つの花ってわけでは無いんですね」

「はい。それに色が数種類ある花だと、色ごとに違う誕生日って場合もあるんです」

 

 新しい知識に、思わず素直に感心してしまう渚。

 

「それで今回は皆さんに、それぞれ自分の誕生花を植えてもらおうと思ったんですが、ただ渡すのも味気ないと思ったので、クイズも用意してみました!」

 

 そう言って、自分の鞄からA3サイズのパネルを何枚か取り出した園子。

 パネルにはピンク色の花の写真が貼られてあった。

 

「これは先ほども話した、渚さんのピンクカーネーションです。種も同じですね」

 

 園芸品種の王道な上に、ピンク色をしてるだけあって、可愛らしい花。

 渚にピッタリな誕生花だと、縁は内心思った。

 口に出さなかったのは、綾瀬がヤキモチを妬く可能性があるからだ。

 

「そこで問題です!」

「急に始まったわね……」

「おっ、何だなんだ?」

「このピンクカーネーションの花言葉は何でしょう? 当ててみてください」

 

 なるほど、そう来たか。

 園子にしては珍しくテンション高めなのもあって、面白くなってきたと、縁の口角がニヤッと上がる。

 

「ふふふふっ、本流のお嬢様。今こそ支流の私めに本流の教養の高さをご披露なさる機会では?」

「ウッサイわねぇ……何よ、花言葉なんて見た目っぽい言葉を言えば大抵当たるんだから」

「では咲夜さん、回答をどうぞ」

「……か、可愛いとかでしょ、どうせ」

 

 咲夜が答えると、一瞬で部室内が沈黙に染まった。

 どちらかと言えば顔を赤らめながら答えた咲夜の方が可愛かったなんて事は、縁は口が裂けても言えなかった。

 言えばむしろ口を裂かれるからだ。

 

「違いますね」

 

 園子の容赦ない答えが、沈黙を破壊する。

 

「──な、何でよ!」

「ふぅん、咲夜きみ、あの花に『可愛い』なんて思うくらいには素直な乙女心あったんだね、くくっ……くくく」

「悠、アンタ殺すわ。絶対殺す。骨まで砕いてやるんだから」

「他に回答したい人は居ますか?」

「はいはい!」

 

 矢継ぎ早に手を挙げたのは綾瀬だ。

 普段から快活な彼女だが、普段以上に自信ありげな表情をしている。

 

「それでは綾瀬さん、答えをどうぞ」

「“愛”ね!」

「正解です。ピンク色の場合は特に“女性の愛”や“熱愛”と言う意味になります」

「綾瀬さん、知ってたんですか?」

 

 一発で当てて見せた綾瀬に、渚が感心しながら聞くと、綾瀬は照れくさそうに頬を掻いた。

 

「カーネーションの花言葉だけはね。でもピンクだとそう言う意味になるんだ……ふぅん」

 

 そう言って、渚を見る綾瀬。

 急に自分をジロジロ見始めた綾瀬に怪訝な表情を見せる渚だが、そんなのお構い無しに綾瀬は笑った。

 

「あははっ、確かに渚ちゃんにはピッタリね、納得したわ」

「……はぁ、そうですか」

 

 言い方に引っかかるところはあるが、確かに渚は兄に尋常では無い深い愛を持っている。その事を指したのだと分かったので、それ以上何か言い返す気にはならなかった。

 

「それではどうぞ、渚さん。育て方は後で説明しますね」

「はい、ありがとうございます」

 

 園子から種の入った袋をもらうと、少しそれを眺めてから、小さく微笑む渚だった。

 

「それでは次、これは悠さんの誕生花ですが──」

 

 

 その後も誕生花の花言葉当てクイズは盛り上がりを見せ、全員の問題が出た後はそれを小さな鉢に植えて、園芸部の活動としては珍しく全く外に出ないまま活動時間が終わった。

 下校を促す放送とチャイムが鳴って、全員が帰る用意をした時。

 

「あっ……!」

 

 何かマズい事を思い出した時の人間が出す声色と表情で、園子が短く小さな叫び声をあげる。

 

「え、何。どうしたよ」

 

 いちばん近い距離にいた縁が咄嗟に聞くと、園子は心底申し訳なさそうな顔を浮かべて言った。

 

「この前頼んだ腐葉土と軽石が届く予定だったんです……搬入口に業者の方が置くので、今日倉庫に運ぶつもりだったのに……忘れてました」

「あちゃー……それって量多いのか?」

「はい。昨日学校中の植え替えに使ったので、その補充もかねて多めに頼んでいて」

「あー、じゃあ結構あるな。土だけでも10袋は頼んだでしょ?」

 

 昨日の植え替えで10キロ入りの土袋をだいぶ消費してしまったので、その補充も兼ねてるなら恐らくそれ以上が届いてるに違いない。

 古い土も枯葉や根っこ等を掃除して消毒した後、リサイクルして使いまわしてはいるが、消毒には2週間程度時間が居る。

 

「土日ずっと置きっぱなしにするワケにもいかないな。絶対怒られる」

「はい……すっかり忘れてました。迂闊です」

 

 学校の搬入口には荷物を仮置きできるスペースがあるが、基本的に荷物が届いた当日か、遅くとも翌日までに移動させるルールになっている。

 今日は金曜日なので月曜日に移動させれば良いかもしれないが、学園は生徒が休みなだけで基本的には土日も何かしら動いてる。

 そうなれば当然何かしらの資材搬入はあり得るので、本来当日中に動かす約束の荷物を──それも大きく場所を取る土や軽石を置きっぱなしには出来ない。

 

 そうなると、縁が予想する次の園子の発言は、

 

「皆さんは気にしないでください、私が──」

「自分だけ残って片づけるからって言いたいんだろ? そりゃダメでしょ」

 

 予想的中。縁の思った通りに、園子は1人で全部運び出すつもりでいる。

 以前、咲夜が転校してきた頃にも同じように一人で全部やろうとした事があったため、今回も同じ事をするんじゃないかと思ったらその通りだった。

 

「──えっ、でも」

「断る理由は無いだろ? そういう力仕事は男の出番だし」

 

 そう言うと、縁は座っていた椅子からスクっと立ち上がると、手をパンパンと叩いて場の空気を動かす様に言った。

 

「渚と綾瀬、悪いけど先に帰っててくれ。俺は園子とパパって運び出してから帰るから。美味しいご飯作っといてくれ、頼むぜ渚」

「……うん。重い物運ぶんだから、気を付けてね」

「帰りは道草食うんじゃないのよ?」

 

 こうなった縁は絶対に譲らない。それが分かってるからこそ、2人とも下手に言い返すような事はしない。

 

「というわけで、さっさと行こうや園子さん」

「……本当に、こういう時は強引なんですから」

 

 ありがたさと申し訳なさが交互に入り混じるが、素直に助かる提案だった。

 

「綾瀬さん、それに渚さんも。縁君少しだけお借りしますね」

「いーの、しっかり扱き使っちゃって」

「怪我だけは気を付けてくださいね」

 

 渚が心配してくれているのに対して、綾瀬がさっきから自分に対してだけヤケに冷たくないかと思ったが、胸の中にしまっておく。

 綾小路家の2人についても、咲夜はそもそも手伝うワケが無く、悠も協力したいが用事があったため、最終的に2人で職員室に行き、顧問の幹谷先生に了承をもらった。

 

 袋に入ってるとは言え汚れる事は確実だったので、2人はジャージに着替えてから搬入口に向かうと、やはり仮置き場には土と軽石の袋、それと栄養剤など細かな道具がびっしり置かれていた。

 これを全部運びきるには、真っ当に──1回の運び出しで1袋ずつ持ち運ぶようでは30分近くかかってしまうだろう。

 

「時間かかりそうだなぁ。園子は軽石の袋とか軽いのを持ってくれ。土の方は俺が持っていくから」

「分かりました、気を付けてくださいね」

「了解、よっと……」

 

 心配してくれる園子に軽快な返事をしてから、土袋を2つ重ねて持ち上げる。

 思ったより重かったので一瞬ヒヤッとしたが、部室棟近くの倉庫までの距離を持ち運べないほどでは無かったので、そのままギックリ腰にだけ警戒しながら歩き出す。

 途中、足元が見えにくい事もあって転びそうになった時もあったが、段々慣れてきて土を持ち上げて運ぶ足取りも軽快になっていく。

 

 そうして15分ほど経つと、仮置き場を埋め尽くしていた土袋は半分近くが倉庫に運ばれた。

 予想よりも早く事が進み、ペースを上げようと縁が思っていると、軽石の袋を倉庫に運んでいた園子が言った。

 

「縁君、軽石は全部運び終わったので、私も土運びます」

「え、大丈夫か? 重いぞ」

「ふふっ、平気です。力は男の子の縁君よりは無いですが、私の方が慣れてるんですから」

「それもそうか。じゃあお願いしますわ」

 

 2人で運べば効率も上がって、10分もかからず終わるだろう。

 引き続き縁は2つ重ねて、園子は1袋持って共に倉庫まで歩く。

 

 長いとも短いとも言えない倉庫までの道は、縁と園子の足音以外は一切の音が消えていた。

 

「改めてありがとうございます。私のミスなのに、時間を取っていただいて」

「別にミスってワケでも無いでしょ。園子は俺らの部長なんだから、この位の力仕事やって当然だって」

「……そうだとしても、嬉しいです」

 

 そう言ってはにかむ園子の横顔を、縁は横目で見る。

 初めて出会った頃と比べて、園子の表情は明るくなった。

 いじめが無くなったのだから当然ともいえるが、園芸部という空間の中で縁や綾瀬、悠と言った同学年の友人ができた事が、彼女を成長させただろう。

 本来の──ヤンデレCDの登場人物としての『柏木園子』では絶対にこうはならなった。

 

 現実の、今の縁が生きてる世界の園子は、目の前に居る彼女ほどの笑顔を見せない。

 

「私、綾瀬さんが羨ましいです」

「……どうした、急に」

「だって、縁君が恋人なんですから。部員だからって理由でこんな時間まで助けてくれる縁君です、きっと綾瀬さんの為ならどんな事だってするんだろうなぁって思ったら……羨ましくなっちゃいました」

「そんな事ないさ、出来る事しか出来ないよ」

 

 そうだ、たとえ恋人の為だとしても、ヒーローの様には出来ない。

 何度巻き戻っても、夢見から守る事は出来なかったのだから。

 

「でも、どんなに無理な事だと分かってても、頑張れちゃうのが縁君ですよね」

 

 そう語る園子の瞳は、一切の疑いが無い。

 あまりにも純粋に信じているものだから、縁は否定の言葉を口に出来なくなった。

 

「……そうありたいとは、思ってるよ」

「ですよねっ! あぁ、やっぱり綾瀬さんが羨ましいです」

 

 そう言うと、園子は少しだけ歩くペースを早くして、縁の前に立った。

 

「あの、縁君。1つだけ聞いても良いですか」

「ど、どうした?」

「私ずっと心の中で思ってる事があるんです。あの日──縁君が急いで家に帰ろうとした時」

 

 それは園子が縁に咄嗟の告白をして、恋を手放してしまった時の事だ。

 

「あの時は、“今言わないと一生あなたに好きだと伝える事も出来なくなる”、そう思って告白したんです。それ自体は後悔していませんが、どうしても考えちゃうんです。もし違う状況で、しっかりと告白できていれば、私は縁君の恋人になれたのかって」

「…………」

 

 今、縁は柏木園子というひとりの少女が抱いていた未練を聴いている。

 あの日の告白と縁の答えは、終わった出来事では無く、今もなお彼女の中で渦となっていた。

 

「もし、私が勇気を出して、縁君の事を誰よりも愛していて、誰にも渡したく無い綾瀬さんと殺し合う事も覚悟していたら──縁君にちゃんと告白できていたら、私を恋人にしてくれましたか?」

 

 これは彼女の、2度目の告白。

 叶わない恋を、そうだと判った上で、敢えて口にした。

 であれば、縁もその想いに真正面から向き合う他ない。

 

「──いいや、俺は綾瀬が好きだ。だから、園子とは付き合えない」

 

 あの日、園子の想いを拒絶した時と同じ言葉。

 

「……はい。きっと、縁君ならそう言うと思っていました」

 

 振られたにもかかわらず、園子は演技ではない本当の笑みを見せる。

 

「やっと私、縁君にちゃんと振られました」

 

 それこそが、彼女の未練の正体。根幹だったのだろう。

 

「園子、俺──うげぇっ!?」

 

 何か言葉を掛けようとした縁だったが、それを許さないように、園子は縁が持っている袋の上に、自分の分を乗せた。

 

「ちょ、園子!? 流石に3つは重いって!」

「知りません。女の子の告白を2回も振ったんです。その位持って行ってください」

「……りょうかい」

 

 前かがみに倒れそうだった体にグッと力を入れ直して、顔の高さまで積み重なった土袋を持ち上げた。

 

「ふふっ、頑張ってくださいね」

 

 視界を埋める土袋越しに、園子は楽しそうに笑った。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 全部運び終えて、園子と別れた縁が校門を抜けると、思わぬ人物の姿があった。

 

「綾瀬、えっどうした?」

 

 校門を出てすぐの所にある自販機に、綾瀬が寄りかかって居た。

 縁が声を聴くと、綾瀬は表情も無くスタスタ縁の隣に来てから、短く端的に言った。

 

「帰りましょ」

「? お、おう……」

 

 有無を言わせない謎の圧力を感じつつも、縁は綾瀬と並んで家路を歩き出す。

 

「……待ってくれたんだ。ありがとな」

「ねぇ。園子とどんな話をしたの?」

 

 あぁ、()()が目的か。縁は内心密かに警戒レベルを上げる。

 怒っているわけでは無いだろうが、綾瀬が嫉妬しやすい性格なのは今に始まった事では無い。恋人関係になった後はそれに拍車が掛かった気もするが、とにかく、今綾瀬は縁が園子と2人きりで何かあったんじゃないかと心配している。

 

「普通の会話だよ。今日の部活はどうだったーとか、昔の事とか、綾瀬が心配するような事は無いから、安心して」

「……本当?」

「もちろん」

 

 嘘だ。

 

 嘘だが、たとえ綾瀬を騙す事になるとしても、園子が自分だけに向けてくれた想いと言葉を、縁は他人に伝播したくなかった。

 

「……そっか、じゃあ分かった」

 

 本当に納得してるのかは分からないが、綾瀬はそれ以上追及する事は無かった。

 その代わり、という事では無いが、縁の腕に自分の腕を絡め、くっ付いて歩く。

 先ほどまで出ていた威圧感はあっという間に消えて、恋人に甘える女の子に戻った。

 

「ごめんね、いちいちこんな事聞いたりして」

「良いよ、心配してくれてる内が何事も華だからね」

「それって、私が嫉妬深い女だって諦めてない?」

「実際、そうじゃん?」

「そうだけどー! もっと何か優しいこと言ってくれても良いじゃない」

 

 上目づかいで可愛く睨む綾瀬。そんな恋人の愛しい仕草を見ながら、縁は自分が今、間違いなく幸せだと感じている事を自覚する。

 あの現実で手に入れようと奮起して、結局手に入れられないままでいる、幸せがこの世界ではあまりにもあっさりと、向こうから寄ってくる。

 

 これが自分と、自分が関わった人達の未練で作られた世界で。

 どうしようもなく、自分にとって都合のいい世界だと分かっていても。

 考えてはいけない事が、願ってはならない想いが、頭の片隅から理性を崩そうとする。

 

「……私だって、ただ嫉妬してるだけじゃ無いんだから」

「ん?」

 

 先ほどと少し声色が変わったのを感じて、縁は意識を綾瀬だけに集中させる。

 

「心配してるの。昨日何も無いのに急に泣き出したりするし」

「あれは、その……」

 

 どう誤魔化せばいいか、出す言葉に困ってしまう。

 

「今まで、あなたが大変な時にいつも、私は何も出来なかったでしょう? 渚ちゃんも、園子も、悠君も、みんな大変な時あなたの助けになってたのに、私だけいつも……」

「そんな事無いって! 綾瀬が居るから俺は──」

「居るだけで良いなんて存在じゃ嫌なの。私はあなたの彼女なのよ? だから、これからはもう同じ事はしたくない、あなたが辛い時に誰よりも早く助けてあげられる様になりたいの」

「……綾瀬」

 

 この綾瀬の言葉は、本人が本当に思っている事なのか。

 あるいは、縁の願望が言わせているだけなのか。

 もし、仮にこれが綾瀬の本当の気持ちで、縁と付き合ってからずっとそう思い続けてたのだとしたら。

 

『ごめんね、わたし……のせい、で……いっぱい、くるしめちゃった』

 

 あの日、夢見に殺される寸前、縁にそう語りかけた綾瀬は、どんな気持ちだったのだろうか。

 そう思うだけで、また涙が出てきそうになって、縁はぐっとそれを堪えた。

 

「綾瀬、明日は時間空いてるか?」

「えっうん。開いてるけど?」

「じゃあさ、デートしよう。行きたい場所、どこでもいいから」

「本当!? うんっ!」

 

 重暗い空気がパッと晴れていくように、綾瀬の表情が華やいだ。

 

「あなたの方からそうやって誘ってくれるの初めてじゃない? 嬉しいなぁ」

 

 もし綾瀬に耳と尻尾があれば、間違いなくフリフリと揺れているだろう。

 それを狙っていったわけでは無いが、嬉しさを隠す事無く全面に出していく恋人を見て、自然と縁の心も温かくなる。

 

 あの時、あと数秒で自分の命が奪われると分かっている中、それでもなお縁の事だけを想い、悔恨と共に死んでいった綾瀬。

 その時の綾瀬と、今自分の腕を抱いている綾瀬は完全には同じではない。

 だが、それでも、

 

「どこに行こうかな、映画も良いけど買い物も行きたいし、ちょっと遠出して遊園地なんてのもアリかも! うーん悩むぅ……」

 

 今、目の前に確かに存在している綾瀬が幸せであることで、死んでいった彼女が少しでも報われるなら。

 

 いつか必ず、現実に戻らなくちゃ行けないと分かっていても。

 

 今だけは。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「いらっしゃい! さぁ、入って入って!」

 

 チャイムを押すと勢いよく玄関から出てきた綾瀬に腕を取られながら、縁は河本家にお邪魔する。

 昨日の帰り道に縁が提案したデートだが、さんざん悩んだ結果、綾瀬が選んだのは自分の家だった。

 “一回やってみたかったの、お家デート! ”とは綾瀬の談。

 

 先に座って待ってて、と言われて通された綾瀬の部屋。

 昔は何度も出入りしていたが、恋人同士になってからは一度も入った事は無く、部屋に置かれた電子ピアノや本棚の位置が昔のままなのに、初めて来た場所の様に心がそわそわしてしまう。

 

 取り敢えず立ったままだと変に思われるので、縁は部屋の丸テーブルの椅子に腰掛けて綾瀬を待つことにした。

 それでも、ちょっとしたら落ち着かなくなったので、スクっと立ち上がって今度は電子ピアノまで行き、無意味に鍵盤を軽く叩いてみたりする。

 電源の入らない鍵盤からは無機質な音が僅かにするだけで、すぐに関心が薄くなった縁は、次に本棚を見てみた。

 

 ちょっと悪い気もしたが、恋人が今どんな本を読んでるのか、気になったのだ。

 4段ある本棚には、文庫本やファッション誌、料理本や参考書など、多様なジャンルの本がキレイに整って並ばれていた。

 その中に、幾つか気になる背表紙を見つけると縁はそれらに関心が向いた。

 

『好きな彼に振り向いて貰うための方法』

『恋人関係を進展させる24のアピール』

『恋敵を排除する手段・後始末』

 

 付き合う前の綾瀬の苦労や努力や、恐ろしさが垣間見えるタイトル。

 前2つはともかく、3つ目の本の内容が活かされる機会が無くて良かったと、心から安堵するのだった。

 

 そうこうしている内に、部屋のドアがトントンとノック音を鳴らした。

 リビングで飲み物やお菓子を持ってきた綾瀬が戻ってきたのだろう。すぐにドアノブを回して開けると、やはりトレーを持った綾瀬がそこに居た。

 

「ありがとねっ、缶のジュースしか無かったから、好きなの飲んじゃって」

「あぁ。それじゃソーダ貰うよ」

 

 テーブルにトレーを置くと、綾瀬はすぐには座らずに机まで向かった。

 一番下の引き出しを開いて、中から大小の本の様な物──アルバムブックを持ってくる。

 

「最近部屋の片づけしたら、昔のアルバム見つけたの。一緒に見ましょ!」

 

 どうやら、部屋デートを提案したのはそれが理由だったらしい。

 可愛らしい理由と、懐かしい思い出に触れる良い機会だったので、縁も俄然乗り気になった。

 

「恥ずかしい写真とか無きゃ良いけどな」

「大丈夫じゃない? たぶん」

「たぶんじゃ分かんないなぁ」

 

 期待と若干の不安を抱きつつ、2人は小さなアルバムから開いていく。

 

 珍しく雪が降り積もった時に2人で作った雪だるまの前で撮った写真。

 夏にタイムカプセルを埋めた事もある自然公園で、虫取り網を持ってはしゃぐ縁と、若干暑さにやられてそうな綾瀬を遠巻きに写した写真。

 桜の花びらが舞い散る中、渚やお互いの両親なども交えた集合写真

 小中の校外学習で、記念に撮った写真などもあった。

 

「うっわぁ、懐かし過ぎるなこれ! いつ撮ったんだっけ?」

「小5くらいかなぁ、あなたこの時からプロレス好きになって、着てるシャツが好きなレスラーのグッズでしょ?」

「本当だ、へぇー、俺この時から好きだったか」

「何で自分の事なのに忘れてるのよ、もう」

 

 写真に映る自分達がこの時、何を思っていたか。どこを見ていたか。どんな会話をしていたか。

 ページをめくればめくるほど、本人達さえ忘れかけていた出来事が鮮明に思い出される。

 

「この時は、あなたとこういう関係になれるとは思ってなかったなぁ」

 

 小学6年生の修学旅行で撮った2人の写真を見ながら、綾瀬は当時と今、時間の流れを噛み締める様に呟く。

 

「──あっ」

 

 綾瀬が持って来たオヤツやジュースが殆ど無くなり、アルバムも半分以上を読み切った頃、綾瀬が何かを見つけて、今日初めて聞くような甲高い声を上げる。

 

「どした……おい、何を隠した?」

 

 写真から綾瀬に目線を向けると、咄嗟に何かを後ろに隠したのが見えた。

 アルバムの中から一冊抜き取った様だが、何か不都合な物でもあったのだろうか。

 

「綾瀬、今何を」

「ききっ、気にしないで!? 間違って混ざってただけだから!」

「いや、だから、何が混ざって」

「あー、お菓子なくなってるわね! 待ってて今新しいの持ってくるから──きゃっ!」

「うおっと!?」

 

 あからさまに動揺しつつ、露骨な誤魔化しで空になったトレーを手に取り立ちあがろうとした綾瀬だが、足をつまづかせてしまい、ぐらりと倒れた。

 床に落ちる前に縁が慌てながらも、綾瀬を受け止める事には成功したが、姿勢が悪かったためバランスを崩す。

 そのまま、綾瀬を抱きしめる形で後ろに倒れてしまった。

 バタン、と椅子が倒れる音がした後に、綾瀬がおずおずと尋ねる。

 

「うぅっ……、大丈夫、平気?」

「……」

 

 綾瀬は完全に縁に守られる形で、つまづかせた足以外は何も無い。

 縁は後頭部を打つ事にはなったが、床にはフローリングの上に柔らかいマットが敷かれていたから、特に痛みが走る事も無かった。

 だから怪我も痛みも無い。その代わり、受け止めて倒れる際に、綾瀬の胸が縁の顔面に乗り掛かる状態になり──端的に言えば、豊満な胸が縁の呼吸を遮っていた。

 およそ5秒ほどしてから、自分が縁を押しつぶしてる事に、やっと気づいた綾瀬が慌てて身体を立ち上がらせる。

 

「わ、ごめんなさい! 苦しかったよね!?」

「いや、苦しいっていうか……」

「……?」

 

 曖昧な返答をする縁。対して綾瀬は別の懸念を抱き始める。

 

「……まさか、重かったとか思ってないでしょうね?」

「うーん、重いと言いますか、柔らかいと言うか……」

「はい?」

「──はっ、いやそれより、綾瀬一旦どいてくれ、立ち上がれない」

 

 今、自分達が凄い体勢になってる事を、思春期全開の男子故に気づいた縁。

 相手は彼女なのでむしろ万々歳な状況だが、先ほどまで顔面を支配していた服越しの柔らかさや良い匂い、更には馬乗りになってるからギリギリ見えそうな綾瀬のスカートの内側など、刺激が強過ぎる。

 

「綾瀬、すぐに降りるんだ。良いから早く」

「ちょっと待って。私最近むしろ痩せてるんだからね? 太ってる様な言い方されるのは心外なんだから!」

「分かった! 分かったから頼む!」

「分かってなーい!」

 

 自分の体重を押し付ける様に、グイグイと縁のお腹の上で不満をぶつける綾瀬。

 

「馬乗り! 馬乗りになってるから!」

「う、馬!? 馬並みに重いって言いたいわけぇ!?」

「うぅーん、国語力ゼロかなぁ???」

 

 動くたびに目の前で上下に小さく揺れる大きな胸や、スカート越しに感じる綾瀬の下半身の熱が、猛烈な速さで縁の理性を溶かしてくる。

 

 というか、無意識でそんな事してんの!? エロい事嫌でも連想してる俺が猿なだけ!? 

 

 そう叫びたい気持ちを必死に堪えつつ、いよいよ抑えるのも無理になって来た時。

 ぱさり、と静かに本が落ちる音が、救済のように部屋の中に響いた。

 

 音のする方を見ると、一冊のノート……恐らく綾瀬が隠そうとしていたそれが、縁が倒れてるすぐそばで、開いて落ちていた。

 瞬間、パッと手に取り、顔の前まで持ってくる縁。

 

「あっ待って──!」

 

 綾瀬の静止も虚しく、縁にまざまざと開かれているページを見られた綾瀬。

 

「……綾瀬、これって」

 

 そう言って、罰が悪そうに自分が読んでたページを綾瀬に向けて、言葉を続けた。

 ページには、真ん中で横に線が引かれてちょうど4等分にされた枠の中びっしりに書かれた文字と、チョコンと少女漫画のタッチで挿絵が挿入されている。

 書かれているのは、一人称で綴れてる日記……と言うよりも、小説の様な物に見えた。

 

 つまり、これは昔綾瀬かが書いた──、

 

「──自作の、恋愛小説?」

「────ッッ!!」

 

 次の瞬間、形容し難い乙女の悲鳴が、ピアノ用に防音がされた室内に可愛く響いた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「あの、綾瀬さん……」

「…………」

 

 ベッドの上で壁に背をつけて三角座りになり、膝に顔を埋めている綾瀬は、縁の声掛けに全く反応を示さない。

 真っ正面から見たらそれこそショーツが見えてしまいそうだったので、ベッドの端から何度も機嫌を伺ったが、反応は芳しくなかった。

 

 綾瀬が小学生の時に書いていた、ノートいっぱいの恋愛小説。

 恐らく、綾瀬が当時自分にとって理想の恋愛を想像して、アウトプットした物に違いない。

 かつて縁がタイムカプセルに入れた『婚姻届』と似た様な物で、彼にとっては微笑ましい物だが、綾瀬自身にとっては絶対に知られたくない過去だった。

 

 それを、成り行きとはいえ本人の目の前で、きっと本人にとって1番隠しておきたかった筈の相手に、明け透けにされてしまった。

 恋人の乙女心が今どんな情緒になってるのか、140文字以内で書きなさいと言う問題を仮に出されたら、国語の成績に自信のある縁でも上手く書けないだろう。

 

 それでも、何もしないと言うわけにはいかない。

 声をかけても頑として無視するが、掛けないでいたら10秒も経たずに涙を浮かべて赤らんだ目でチラッと睨んでくるのだから。

 

「なぁ綾瀬さん、俺が悪かったのは間違いないけど、無視されるのも悲しくなるから、そろそろ反応くらいして欲しいんだけど……だめ?」

「……ふん、あなたなんて知らない。ばか」

「あぁよかった、返事くれた」

「ばか、ばーか、ばかよすが。シスコン」

「シスコンは今余計だよね?」

「人たらし、さっきから私の胸とスカートばかり見てる、えっち」

「見てないよ今は! 流石に弁えてるからね!?」

「綾瀬さんってさっきから呼ぶのは、こんなの書いてる私に引いてるからでしょ? ……嫌われたんだ私、ううっ」

「違うって……」

 

 ダメだ、羞恥心のせいで幼児退行している。

 完全に拗ねてしまった。取り敢えず呼び方は元に戻そう。

 

「知られたくなかったのに。私が死ぬまで墓場に持っていくつもりだったのに……」

「そ、そのレベル秘密だったのな……ごめんなさい本当に」

「……こうなったら、もうあなたを殺して私も死ぬしか」

「そんな理由で心中を図って欲しく無いかな……」

「うぅ……数分前にタイムスリップして全力でなかった事にしたい」

 

 再び膝に顔を埋めてさめざめと嘆く綾瀬。これはもう埒があかないと思って、縁は言い出せずにいた話をする事に決めた。

 

「あの、実はね。綾瀬がそういうの書いてた事は、俺知ってたんだ」

「……しってた?」

 

 ポカンとした顔で、綾瀬が縁を見る。

 

「小5か、6の時か? たまたま綾瀬のノート見ちゃった時があって。さっきのとは別のノートだったけど、小説書いてるのは知ってた」

「……読んでたの?」

「ちょっとだけ」

「知ってたのに、知らないフリしてたの?」

「……ちょっと過激な内容だったからな。少女漫画とかも恋愛描写は大人びてるもん、そう言うの書けちゃうよな、あはは……はは」

「〜っ!!! 嘘でしょぉー!」

 

 今日1番の悲鳴をあげてから、綾瀬がドタドタとベッドの上を四つ足で動き、端にいる縁の元まで詰め寄る。

 

「何で見たの!? 机からわざわざ取ったの!? 最低!」

「ち、違うんだって! マジで本当に偶然! 運命の悪戯的なのだから!」

「じゃあ、私があなたのこと好きだってその時もう分かってたんじゃない!? なんで普通に友達感覚で接して来たの? 全然意識してなかったわけ??」

「いや、むしろ『友達の距離感が正しいんだな』とか思ってたかも」

「どうしてそうなるの!?」

「小説の男が凄え大人びてて、当時‟綾瀬の好きな人がこの人なんだ”と思って……綾瀬と恋人なるの逆に諦めてた」

「え……嘘……えぇ……?」

「中学生になった頃には、もうノートの事や今言った事も忘れちゃっててさ……正直、今このタイミングで思い出したレベル……はい」

 

 目をまんまるに大きく開かせて驚く綾瀬。恋愛小説がバレた事よりも、縁にそんな勘違いされていた事の方がショックが大きかったらしい。

 恋愛感情を自覚してから、小中高の10年近く、綾瀬をモヤモヤさせていた縁との距離感。

 友達以上恋人未満の関係が長く続いた理由が、まさかの勘違いやすれ違いだった……その事実に、ぐらっと目眩を感じた。

 

「そんなカミングアウト、今日はいらなかった……私てっきりあなたが……ううん、もう良いけど、でもそんなのって……」

「まあ、その、両片思いだったからセーフって事で?」

「ならない!」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ひとしきり騒いである程度は落ち着いた綾瀬だが、まだベッドから降りるつもりは無いらしく、縁から離れたらまた三角座りしてしまった。

 これは今日のうちにどうにかしないと後々に響くな。そう確信する縁は、思い切って動く事に決める。

 

「隣いくよ、ベッド上がっても良いか?」

「……好きにしたら」

「じゃ、遠慮なく」

 

 言葉通り躊躇いなくベッドに上がって、綾瀬の右隣に同じように三角座りする。

 綾瀬の息遣いや体温が感じられそうなくらいに寄り添って、少しだけ黙り込む。

 そうすると、最初は縁が何か話すのだと思ってた綾瀬が、ソワソワして始める。

 それでも、あと少しだけ喋るのを我慢して、いよいよお互いに何か話した方がいいかな、そんな雰囲気が流れ出した所を見計らって、閉ざしてた口を動かした。

 

「小説について、いっこだけ聞いて良い?」

「っ、な、何……?」

「昔綾瀬が理想像として書いた小説の男の人って、昔の俺をモデルにしてくれてた……んだよな?」

「そんなの、あなたに決まってるでしょ。ずっとあなたの事だけが好きだったんだから」

「本当? 良かった……もし別にモデル居たら嫌だったから」

 

 本当はもっとドス黒くてネットリした独占欲の様な物が這いずり回りそうになるのだが、それを決して悟られまいと意識しつつ、縁は安堵のため息を大きく吐いた。

 

「そうやって誤魔化そうとしてるでしょ」

「いや、そう言うわけじゃ無いって」

「そもそも、私は勝手に勘違いして、私を好きになるの諦めてた誰かとは違うの」

「うっ、それは本当に若さゆえの過ちというもので……」

「私が逆の立場だったら、絶対に諦めない。どんな事でもして、相手を自分に振り向かせるもの」

 

 それが誇張でもビッグマウスでも無い事を、縁は理解している。

 綾瀬は恋した人と恋をするために、恋し合う人と恋し続けるために、躊躇う事を知らない人間だ。

 だから渚を殺せなかったし、だから自分の命すら厭わずに、夢見の凶刃から文字通り身を呈して縁を守ったのだから。

 一歩間違えれば恋敵を全員殺し、恋した相手を磔にしてしまう危うさと表裏一体ではあるが、いずれにせよ彼女が縁以外を好きになる可能性など、たとえ小学生の時だろうとあり得なかったのだ。

 

 それを、当時の縁に理解しろと言うのは無理がある話ではあるが。

 そもそも、“彼”の記憶と魂が無ければ、縁もヤンデレCDの主人公と同じ末路を辿っていたハズの人間なのだから。

 言うなれば今の状況は、そんな“本来死ぬはずの男”がしでかした出来事のツケ──つまり結局は自業自得だ。

 

「私はそのくらいあなたが好きだったのに、あなたは簡単に諦める程度でしか、私の事好きで居てくれなかったんだ。渚ちゃんの事はいっつも大事にしてたけど」

「渚は妹だからね? 好きって意味でも質が違うっていうの、分かるだろ?」

「私、本当にショックなんだから。そんな理由でずっとあなたと恋人になれなかったなんて」

「だ、だよな……。しかも勘違いしてる事すら忘れてたし……信用失ったよな……」

 

 全くそんなつもりは無かった。むしろ秘密がバレて羞恥心に悶えてる綾瀬の気を紛らわそうと、自身の恥ずべき過去を明かしたのに。

 結局それが、綾瀬にとっては縁が向ける好意への疑惑に繋がってしまった。

 

「秘密バレて恥ずかしかった。勘違いされて傷ついた。もう何言われてもあなたの“好き”なんて信じられないんだから」

 

 子どもの様に拗ねる──いや、まさに子どもなのだ、綾瀬はまだ17なのだから。

 それに、縁は分かっている。

 こんな事を言っても五寸釘で磔にしようとしない時点で、綾瀬は本当に縁に対して愛想が尽きたワケでは無い。

 甘えている、そして求めているのだ──言葉以上を。

 

「……好きって言葉だけじゃ、足りない?」

「聞かなきゃ分からないの?」

 

 体育座りして別方向を向いていた2人の視線が、近距離で交じり合う。

 

「……言葉以上で伝えれば、証明できるかな」

「知らない……」

 

 突き放す様な言葉を言ってるが、綾瀬の右手は膝から離れて、縁の左手に伸び、指を絡める様にして握る。

 

「……証明、してみて」

 

 握った手から伝わる綾瀬の体温と、僅かな震え。そして自分を見つめる綾瀬の期待と不安、熱を燈した瞳に縁はまたも思い知らされる。

 あの日、いじめられていた自分を守ってくれた時と同じ、優しく暖かく、美しいその瞳に、ずっと自分は心を──全てを奪われていたのだと。

 

「分かった」

 

 短く端的──何かを決意した時にする答えを返して、縁は綾瀬の手を握り返した。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌週の月曜日は、職員の会議があるとかで午前授業だけになり、部活動も無かった。

 いつも通り綾瀬や渚と帰ってから、縁は私服に着替えて街の中央まで自転車で向かい、駅前通りにある喫茶店に入る。

 店員に名前を告げると、店の1番奥に隠れた様にある席へと案内された。

 

「やっと来た。遅いのよ」

「お疲れ様です、野々原さん」

『お兄ちゃーん、こっちこっち!』

 

 そこには今日縁が連絡を入れていた2人──咲夜と塚本が先に居た。

 この時点で縁は苦笑いになる。おかしい、今日は咲夜と塚本だけを呼んだはずなのに。

 

「咲夜、何故ナナとノノが居る?」

「知らないわよ、アタシが来る途中に勝手について来ただけだもの」

「退屈してた所で、咲夜とばったり会ったの」

「そしたらお兄ちゃんと待ち合わせだって言うから来ちゃった」

「そー言うことよ。コイツら一度決めたら言う事聞かないし、しょうがないじゃない」

 

 そう言われると確かに、と縁は納得するしかない。

 幸いにも、この双子もこの世界の仕組みを認知して、現実に戻るのをサポートしてくれる側(のはず)だ。話を聞くだけなら居ても問題は無い無い(と思いたい)。

 

「それよりアナタ、こんなに待たせといて謝らないつもり?」

「いやそれは悪かった、向かってる途中自転車の空気入れたりして遅くなっ……ちょい待て、待ち合わせ時間10分前だぞ、全然遅く無いじゃん」

 

 途中トラブルがありはしたが、店内に掛けられた時計を見たら全く遅刻では無かっので、縁はすぐさま謝罪を取り消した。

 

「このアタシを待たせてる事そのものが間違いなの。本当にアナタって言わないと分からないのね」

「ちなみに彼女は30分前には付いてました。途中入念に鏡の前でチェックしたり、香水を掛けてあなたに会う準備を──」

「ちょっと千里塚! アンタ誰からもお金貰ってないのにベラベラと人の事言うんじゃないわよ!」

「このくらいはサービスですよぉ」

「いい迷惑の間違いでしょ!」

 

 中々の声量で咲夜が話すから、周りの客から見られてないか気が気でなかったが、幸いにも午後の混み時で他の店員もワイワイ話しており、店内BGMも流れてるので、心配する様な事は無かった。

 

「ねぇお兄ちゃん、照れ隠しで当たり散らかしてる咲夜なんか良いから、席に座りましょう?」

「そうだよ、みんなお兄ちゃんが来るの待ってたんだ。そろそろメニュー頼みたいし!」

「んぉ、おう、そうだな」

 

 通路に座るノノが縁の腕を引っ張り急かすので、促されるままに、ナナとノノの真ん中に座る。

 その後、おしぼりを持って来た店員にコーヒーを頼んだ。他の4人も各々決めていた物を頼み、全員の分が運ばれて来た後に、自分のコーヒーに砂糖とミルクを入れながら、縁は話を始めた。

 

「2人を呼んだのは、報告したい事があるからなんだ」

「でしょうね」

「それ以外で呼ばないでしょ、あたしだけならまだしも、この男まで」

 

 ましてや今は縁と綾瀬が恋人関係。2人がくっ付くまでにどんな過程があったのか見て来た咲夜は、縁が浮ついた理由で自分を呼ぶワケが無いことを知っている。

 

「それで、何を伝えに来たの? 未練の正体でも掴めた?」

「うん」

「そう、良かったわね」

「お疲れ様です、案外早かったですね」

 

 あれ? 縁は訝しんだ。

 今、自分はそんなサラッと流される様な話題を口にしていただろうか。

 パンケーキを楽しんでる両隣の双子はともかく、自分にこの世界のあらましを説明してくれた咲夜と塚本が、あまりにも淡白な反応だったので拍子抜けになってしまった。

 そんな縁の気持ちがよほど顔に出ていたのだろうか、咲夜はクスッと笑って、自分が頼んだカフェオレをスプーンでかき回す。

 

「アナタが自分の未練の正体を見つけるのなんて、当たり前の話なんだから驚くわけないわよ。やって当然の事をしただけなんだから」

「右に同じくです。さっき言いましたが、思ったよりも早かったのだけは驚きましたが」

「そ、そっか……」

 

 別に派手なリアクションを求めていたワケでは無い。

 無いのだが、こうも自然に返されると、多少もったいぶってここまで引っ張って来た自分を滑稽に感じてしまった。

 

「あれ? お兄ちゃん顔赤くなってるよ? 熱でもあるのかな」

「本当ね、何かあったのかしら」

「気にしなくていいよ〜。心配してくれてありがとね」

 

 無邪気か、分かっててワザとなのかは分からないが、絶妙なタイミングで茶々を入れてくる双子を丁寧に宥めると、塚本の方から話を続けた。

 

「問題はです、野々原さん。原因が分かったのに何故、貴方がここに居るのかと言う事です」

「コイツが言ってる意味、分かるわよね?」

「意味って分かる? ナナ」

「いいえノノ、全然分からないわ」

「アンタ達には聞いてないわよ! 次余計な口挟んだら、頼んだ分は自分で払いなさいよ」

『はーい』

 

 どうやら咲夜は勝手についてこられた上に、喫茶店のお金も負担しているらしい。人は平気で殺せるくせに、無銭飲食は嫌なのか、言われた通りに食事に集中し始める2人。

 

 一方で縁の表情は穏やかでは無かった。

 話題が自身にとって突かれたくない──しかし、この2人と会話するならば高確率で指摘されるだろう内容にシフトしたからだ。

 

 確かに、縁の目的はこの世界から抜け出し、現実に戻る事。

 それは誰かと一緒にやる事ではなく、自分1人だけが成せばいい事なのだ。

 つまり、本来は原因──縁の中にある“8ヶ月”の未練が分かったその時、さっさとソレを無くせばいいだけ。

 この時間の様に、わざわざ報告する意味なんて無い。

 にも関わらず、こうして喫茶店にいる事それ自体が、咲夜と塚本にとってはおかしな事に映るのだろう。

 

「未練の対象は、妹さん、または彼女さんですか?」

「……綾瀬の方だ」

「なるほど。では彼女にまつわる何かが未練の正体として、その未練を打ち消す為の行動は、野々原さん1人では困難な物で?」

「それは……無い。俺1人で出来る事だ」

「何よそれ、だったら尚更躊躇う意味があるわけ? 一体何なのよ未練って」

「……っ」

 

 言葉が止まった。

 言えないのか、言いたくないのか、言ってはいけないのか。

 いずれにせよ、縁は未練の対象は明かしても、何をすれば未練が無くなるのかまでは話す気がない様だ。

 

「……アナタ、まさかとは思うけど」

 

 そんな縁を見て、咲夜はすぐさま一つの可能性に行き着いた。

 

「ここから離れたく無いとか、思ってる?」

「──ッ」

 

 縁の口元がキュッと歪むのを、2人は──いや、両脇でワチャワチャしてたはずのナナとノノも、見逃さなかった。

 空気が一気に凝り固まり、冷たくなっていく気がした。

 何を思ってるのか素直に吐け。誰ともなくそう言われてる気がしながら、縁は口を開いた。

 

「……咲夜の言う通りだよ」

「やっぱりね」

「お兄ちゃん、戻りたく無いんだ?」

現実(むこう)は楽しくないのかもしれないわね」

「ナナ違うよ。そんな事は無いんだ」

 

 そう。確かに現実は辛くて大変な事が多いが、決してそれだけでは無い。楽しい事だって確かにあるのだ。

 それでも、現実には無くてこの世界にはある物が、致命的な違いが1つだけある。

 

“幸せ”

 

 現実で縁が今必死に手に入れようとしているもの。

 どうすれば手に入るのか分からないでいるもの。

 消えた“8か月”で一度は確かに手に入れていたはずのもの。

 消さざるを得なかった“8か月”と共に失ってしまったもの。

 

 それがこの世界では、それこそもう泣いてしまいたくなる位、そっくりそのまま残っている。

 頑張って現実(むこう)で幸せになるんだという、幸福の定義すら覆されそうになる。

 

「でも、アナタだって分かってるでしょ? ここで幸せになっても意味なんか──」

「やめろ! やめて……くれ」

 

 その先の言葉を聞きたく無くて、縁は声を荒げて遮った。

 どんなに正しくても、非の打ち所がない正論だったとしても、それは耳に入れたくなかった。

 

 全くその通りだ。何も間違ってないし、間違っているのは自分だけだ。

 でもしょうがないじゃないか! 俺だって思いたく無かったさ、さっさと戻るべきだと分かってるのに! 

 

「もうちょっと居たいなって、思ったんだよ」

 

 限界まで絞り切った雑巾を、それでも更に捩じったらようやく垂れ落ちた水滴の様に、その言葉は乾ききっている。

 どれだけ愚かな考えだとしたって、一回でもそう思ってしまえば、止める事が出来なかった。

 

「……そう思っても、仕方ないでしょう」

 

 こくっと飲んだカップを口から離して、胸のあたりで揺らしながら塚本がため息交じりに言う。

 

「こればかりは、野々原さんにしか分からない感情です。理性のアバターとしての役割を担ってる立場としてはいただけない主張ですが」

「……まぁ、それもそうね」

 

 塚本の言葉で多少は納得したのか、咲夜も肩をすくめながらではあるが、縁の主張を残っていたカップの中身と一緒に飲み込んだ。

 

「んーと、つまりお兄ちゃんはここに一生残る事にしたの?」

「違うわノノ、答えを先送りしたのよ。大人のよくやる事ね」

「ケント―って言うのだ!」

 

 無邪気(だと思う事にする、煽りなら中々に遠回しかつ厭味ったらしい)に話すナナとノノの言葉が、この場では一種の緩衝材として働いた。

 

「取り敢えず、野々原さんが次にするべきなのは、踏ん切りをつける事でしょう」

「踏ん切り……この世界との」

「もっと言えば、この世界に留まりたいというあなた自身とのね。全くお笑いですよ、未練で生まれた世界の中で新しく未練を作るなんて。野々原さんは物事を厄介にさせる才能があるのかもしれませんね」

「……そうかもな」

 

 初めて会った頃を思い出す様な容赦のない塚本の言葉だが、今だけはそのまま素直に受け取るしかなかった。

 

 これ以上はもう話す事も無いので、5人は喫茶店を出て解散する事になった。

 

 ナナとノノはあの会話の中に居たにもかかわらず、最初と変わらないペースのまま、縁に“また会いましょう(会おう)ね”と元気に手を振り群衆の中に消えていった。

 咲夜は迎えの車に乗り、不機嫌そうに縁をひと睨みしてからドアを閉めたが、発進する前に窓を開けて顔だけ覗かせて言った。

 

「縁。アナタが何を思っていても、まだここにアタシ達が居る時点で、アナタの“本心”はどっちを選んでるのかは決まってるんだからね」

 

 “アタシ達が居る”事の意味──縁の心から“この世界から出なければならない”と思う心が、仮に少数派ないし消えてしまってたなら、咲夜も塚本も、とっくに消えているのだと、咲夜は言っている。

 

 ましてやナナ&ノノは『3年前に巻き戻る以外の選択を選んだ世界』というカタチを成しているこの世界において本来登場するワケの無い存在。

 縁が“もうちょっと居たい”と思ってるのは事実に違いないが、あの双子が居る事がつまり、縁が何を望んでいるのかを示しているのだ。

 

「こんな事聴きたくないでしょうけど、敢えて言ってあげる。夢は終わりにしなさい」

 

 そう言い捨てて、咲夜は車を発進させた。

 

「ははは、相変わらず彼女はアナタ思いですね」

 

 残った最後の理性役。塚本が咲夜の乗っていった車を見ながら笑う。

 これも縁はその通りだと思って、だから反応しなかった。

 咲夜は敢えてと前もって言った通り、縁のためにこそ嫌われるかもしれない言葉を平然とぶつけていた。

 次に会えたら──会う機会が自分に用意されていたとしたら、しっかりお礼を言わなくちゃな。心の中で縁は思った。

 

「さて、それじゃあさようならをする前に、一個だけ野々原さんに、今までと全く無関係な事を聞いても良いでしょうか」

「え? 無関係? ……良いけど、何だ?」

 

 無関係な内容というのも気になったが、それ以上に“なんでも知ってる”の擬人化みたいな男が、質問してくるという状況が珍しかった。

 

「ありがとうございます。それでは質問ですが、野々原さんはこの世界で一回でも、七宮伊織さんに会いましたか?」

「七宮さん? 七宮神社の?」

「──っ、はい。その()()()()です」

 

 そう言えば、七宮伊織と塚本せんりは何かしら繋がりがある気がした。

 塚本が初めて縁の前に現れたのは七宮神社だし、縁が病院で夢見に殺される前に塚本と会話した時に、七宮を指すような発言をしていた。

 また、あの不可思議な七宮神社で出会った七宮も、塚本の事を間接的に言及していた。

 きっと間違いなく、彼女と塚本は何かしらの(えん)があるのだろう。それが何かまでは、流石に縁の知る由も無いが。

 

「いいや、会ってないよ」

 

 端的に答えるたが、余りにもきっぱりとした言い方をしてしまったので、続けて何か聞かれるかもしれない。

 縁のそんな予想とは裏腹に、塚本は数秒だけ考える様に押し黙った後、

 

「そうですか。分かりました」

 

 縁に負けず劣らず端的に納得したのだった。

 え、もうそれで良いの? と何故か縁の方が思ってしまったが、こちらとしては本当に会ってないので、下手に追及されるよりはまだ良いと考え直した。

 

「それではまた。……良い選択が出来る事を祈ってますよ」

 

 良い選択の意味を縁の想像に任せて、塚本も雑踏の中に消えていく。

 本当の意味で1人残った縁は、スマートフォンで時刻を確認して、まだ16時になったばかりなのを確認してから。

 

「……さて、どうしようか」

 

 空を見上げて、呟いた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「何してんだろうなぁ、俺」

 

 素直に帰る気分にもならず、駅前のカラオケ店で1時間ヒトカラをした。

 気分転換と今後自分がどうすべきかを考える時間にしたかったが、咲夜に言われた言葉がどうしても頭から離れず、無駄に時間を浪費しただけで、虚しさだけが残る羽目に。

 その後も、いまいち自転車に乗る気にもなれず、手で押しながらダラダラと街を歩き、気が付けば学園の前に来ていた。

 

 茜色だった空も、日が沈みブルーモーメントに染まっている。

 校舎というのは、学生が最も脳を使い、問いに対して解を見出す機会が多い場所だ。

 意識せずにここまで来てしまったのも、ひょっとしたら自分がどうしたいのか解を見出いしたいと思う縁の心が無意識に足を運んでしまった結果かもしれない。

 無論、学園に来ただけで答えが見つかるなら、これほど楽な話は無いだろう。しかし生憎、縁の悩みはそれほど簡単に解決できる安い悩みではない。

 

 すっかり影が差して暗くなった学園を眺めるが、それもすぐに飽きて、縁は今が何時か確認しようと、スマートフォンを取り出そうとする。

 

「……あれ?」

 

 しまっていたはずのアウターのポケットには何も入っていない。

 ズボンの方のポケットだっけ? そう思いつつ両方のポケットに手を入れると、幸いな事に右ポケットから触り慣れた物の感触があった。

 どこかに落としたのかと一瞬焦ったのが杞憂になり、安堵するのも束の間。左ポケットの方にも何かが入っているのに気づく。

 

 両方とも取り出してみると、右手にはスマートフォン。そして、

 

「なんであるんだ、これ」

 

 左手には、この世界で唯一現実と繋がりを持つ、渚が縁に手渡したあの飴玉があった。

 この世界に来た日の夜にも、飴は縁のポケットに勝手に入ってあったが、今日彼が履いてるのはカーゴパンツだ。

 全く違う物を履いてるのに何故、そもそも何時ポケットに入ってたのか。

 もっと言えばあの夜も、塚本や双子が出て来てから、飴をどこにしまったのか。

 

 疑問は尽きないが、それら一切を思考の隅に追いやって縁が思う事はただの一つだった。

 

 このまま自分がこの世界に留まれば、自分にこの飴をくれた、現実の渚を悲しませる事になる。

 

 既に何度か考えていたが、この瞬間──縁の中で“この世界に留まりたい”という気持ちが強まった今だからこそ、その言葉に強烈な()()()が帯びた。

 

 渚だけではない。綾瀬、悠、咲夜、それに縁の両親──現実世界で今の彼に行為や親しみを持っている全員との繋がりを、この世界に居る限り縁は失うと同時に、奪う事になってしまう。

 自分だけが幸せで居られる代わりに、自分に関わる人たち全員を不幸にしてしまうのだ。

 

 唐突にこの世界に来てしまい、どうすれば戻れるのか模索する時とはもはや違う。

 今の縁は、この世界に居ればいるほど、不幸を与える加害者だ。

 

「……駄目だ、それだけは」

 

 そうだ、思い出せ。どうしてお前はあの日々を失う事になってまで3年前に巻き戻り、全部をリセットさせたのかを。

 渚を、綾瀬を、悠を、園子を──夢見すらも。自分と繋がりを持つ人が誰一人不幸にならず、不幸を呼ぶ存在にもならないために、その選択をしたんじゃないか。

 それなのに、自分が全員を不幸にさせるのでは、まるで馬鹿みたいな話だ。

 

 この世界は確かに、縁と、縁の記憶だけに存在する皆の未練から構成されている世界なだけあって彼に優しい。

 自分の恋人になっている綾瀬。綾瀬と和解している渚。園芸部という居場所を持つ園子。誰かに殺される事も無く、咲夜と年相応の言い合いをしている悠。

 どれもこれも、縁が頑張った結果の延長線だろう。それは間違いない。

 

 だからこそ忘れてはいけない。

 それらはもう、過去()()()()()のだ。

 

 過去に縋るのは分かる。人間誰だって一度ならず何度でも、今と過去を比較して楽しかった頃を懐かしむもの。ある程度の理解は出来る。

 しかし、過去ですら無くなったモノに縋るのは──ましてやそれが自ら手放したモノだったというならば、それは理解を得られる行為ではない。

 眠って見た夢があまりにも素晴らしいから、夢から目覚めたくないと駄々をこねるのと同じだ。過去に縋る人間は居ても、夢に縋る人間はただの愚か者でしかないのだから。

 

 夢は縋るモノでは無い。現実を生きる人間が、未来へ進む原動力にするためのモノだ。

 たとえ現実と著しく乖離していようと、自分の理想そのものだろうと、だからこそ、前に進む力になるのが夢。

 もし夢と現実の差異に心を苛まれてしまうようでは、それはもう夢とは言わない。呪いだ。

 

 そこまで考えが届いて、ようやく縁は自覚した。

 今の自分がしている事が、どういう行為なのかを。

 

 こんな世界を作ってしまうほどに、愛した“8ヶ月間”。

 そして何よりも──、

 

『どんなに辛くても、逃げていいから死ぬ方向に考えを向けるな。ちゃんと生きて、生きて生きて──幸せになれ』

 

 その日々を自分と一緒に駆け抜けた唯一無二の存在だった男、頸城縁との約束。

 それら全てを、呪いにしてしまう所だった。

 

「ああもう、ホントに居なくなってからもお前にはお世話になりっぱなしだな」

 

 乾いた笑いを発しながら、手のひらの飴玉を優しく握りしめる。

 もしこの場に彼がいたなら、思い切り容赦なく自分の頬を殴り飛ばしていたに違いない。

 当然だ。今の現実は野々原縁1人で辿り着いたものでは無い。彼が居なければ、3年前に夢見の家で死んでいたのだから。

 縁は自分だけのために幸せを目指しているのではない。彼との約束を果たすために、彼が出来なかった“幸福な人生”を生きるために、目指しているのだから。

 

 ──それを、決して呪いなんかにして良いわけが無いんだ。

 

『じゃあな、野々原縁。心置きなくヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない日々を過ごせ!』

 

 ああ、分かってるよ。お前の分までたっぷりしっかり、前を向いて生きてやる。

 だから、お前や、お前と一緒に駆け抜いた日々をこれからも俺の心のエンジンにさせてくれ。

 そのためにも──、

 

 飴玉とスマートフォンをポケットにしまい、サドルに跨る。

 もう縁の瞳には、躊躇いは消えていた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「やぁ、縁」

 

 普段は歩いて帰る通学路を自転車で走り、家まで向かう途中。

 不意に、愛すべき友の声がした。

 

「……悠?」

 

 そう口にした矢先、縁の前方約10m先の位置。

 人も車も通る気配がしない通路の真ん中に、季節外れのロングコートを身に纏った綾小路悠が居た。

 その姿を認識した瞬間、縁は急ブレーキをかけて自転車を止める。

 

 親友とのエンカウントに、普段なら顔を明るくするシチュエーションだったが、今の縁の表情はとても険しい。

 

 それも仕方ない話だ。

 何故なら彼の背後に、彼と同じ様なコートを着て、金属質なフルフェイスのマスクを被る不気味な様相をした大人が十数人も居たからだ。

 通路の街頭に照らされ、不気味な雰囲気を出している。

 この明らかに異常な状況に際して、たとえ親友だろうと、警戒心を持たない浅慮な縁では無かった。

 

「どうしたんだ悠? 随分、その……大所帯じゃないか」

「うん。緊急事態でさ。人手が要る事態があってね」

 

 縁にそう言葉を返す悠からは、普段感じられる温かみなど微塵も感じない。

 

「へぇ、こんな時間に? 大変だな」

 

 能天気を装いつつ答えながら、縁は脳裏で、塚本の言葉を思い出した。

 

『気をつけてください』

『あなたをこの世界に留めたい人達は、細かい内容はともかく、皆んな等しく“あなたと一緒にいたい”という類の未練を持っています。あなたが普通に生活する限りは、特に何も無いでしょうが──』

 

『──あなたがここを出ようと行動すれば、きっと、あなたの敵になります』 

 

 まさに今がそれだと縁は理解して、同時にこめかみに一滴の汗を流す。

 

 ──なんてこった! 

 

 よりによって悠が──縁の人生で一番頼れる、最愛の親友が、この世界からの脱出を果たそうとしている縁の“敵”として、現れるなんて。

 周りの男たちはさながら、確実に縁を止めるための兵隊だろうか。

 悠含めて全員が着ているロングコートの下に、何を忍ばせているか分かったものではない。

 

「まいったな、これは……」

 

 数が多い、たかが高校生男子1人を捕まえるのにはあまりにも過剰な人数が今、縁の眼前に居る。

 まだ本人から何も聞いてないが、既に“絶対に逃がさない”という決意を、縁は否応なく肌身で感じた。

 

 今縁が居るのは、両端にブロック塀がある、車2台すれ違う程度の幅しか無い通路。

 広すぎず、狭くも無いが、必要最低限のスペースしか無い空間だ。

 そんな場所に目算で20人近くもいる大人たちを、自転車で無理やり通り抜けるのは不可能に近い。

 必然的に、この状況から逃げるなら反対方向へ走るしかない。だが、そうなると当然、(きびす)を返して悠に背中を見せながらペダルを漕ぐ事になる。

 

 そこで問題となるのが、縁の乗っている自転車だ。

 縁が乗っているのは大きなタイヤが特徴のファットタイヤタイプ。

 これは悪路を走破するのにはこの上ないパフォーマンスを発揮する代物だが、トップスピードを出すまでに幾許かの時間が求められる。

 そうなると自転車が速くなるまでに2~5秒も、悠とその取り巻き相手に背中を向ける事になってしまう。

 

 10mなど、仮にアスリートレベルの走者が悠の取り巻きに居ればあっという間に詰められる距離だ。

 簡単に捕まるのが容易に想像できるのに、最大5秒も無防備に背中を晒すのがこの上なく恐ろしい。

 

 万が一にでも悠達がコートの中に拳銃の類でも忍ばせていれば、もれなく縁は射的の得物と化すだろう。

 幾ら何でもそこまでは──と思いたいが、かつて小鳥遊夢見という化物に散々殺されてきた経験上、何があってもおかしくない。

 ましてや金で国家権力すら黙らせられる綾小路家の人間が相手なら、尚更だ。

 

 この時ばかりは、ロードタイプを推しておくべきだったと心底後悔した。

 

 正面突破も後方への逃走も、非常に困難な状況。

 ならば、説得でどうにかなるだろうか。

 否だ。悠に対しては、縁の言葉なんて一切通じないだろう。

 親友だからこそ、発言の狙いや言葉の裏にある意図を容易に察して、聞く耳を持とうとすらしない。

 

 ──さて、これは何をするのが正解なんだ? 

 

 いっそのこと、塀をよじ登ってよそ様の敷地に入ってしまおうか──半ば自棄になっていると、縁の焦りを察した悠が言った。

 

「縁、僕が何でここにいるのか、もう分かっているんだろ?」

 

 分かってなかったとしても、今の悠の発言で否応なく察してしまうだろう。

 

「あー……まぁ、ね」

「なら良いんだ。それじゃあ僕から提案──というよりも、頼みがあるんだ」

「……なにさ。藪から棒に」

「今君がやろうとしている事を、考え直して欲しい」

 

 数的有利という状況下だからこそ生まれる余裕を持った提案、しかしその声には確かな必死さが滲み出ていた。

 もしかしたら、可能性は低くても、説得のやり方次第で悠は自分を見逃してくれるかもしれない。

 そんな頭の片隅にほんの少しだけ残っていた楽観的希望が、この瞬間消え失せた。

 

「手荒な真似はしたく無いんだ。考えを改めてくれるなら、僕は君が帰るのを邪魔しない」

「もし、俺が頑固者だったら?」

「……マインドコントロールは貴族の嗜みって、知ってたかい」

「はははっ、親友に言う言葉じゃねえ」

 

 強気に笑って見せるが、喉はとっくにカラカラで、笑い声も若干震えている。

 

 縁の人生においてここまで圧のある提案を受けた事が、今まであっただろうか。

 というよりも、これはもはや脅迫そのものだ。

 恐らく縁が意地を張ったり、嘘をついて通り抜けようとすれば、悠はすぐに見抜いて縁を捕まえて、無理矢理にでも考えを改めさせるだろう。

 それこそ、口にした通りのマインドコントロールだって辞さないはずだ。

 

「君は彼処に戻るべきじゃ無い。此処にいて何か問題でもあるかい? 無いだろう、君は此処に居続けた方が良い、そうするべきだ」

「それを決めるのは俺だろ。悠じゃない」

「でも君自身、此処にいた方が幸せだと分かってるだろう?」

「それは……」

「此処には君の恋人としての綾瀬さんがいる。失恋を経て成長した渚ちゃんがいる。いじめが解決してみんなと楽しんでる園子さんも、他人に心を開いてきた咲夜も、僕だっている。それは彼処には居ない人達だ、そうだろう?」

 

 その通りだ。何も間違っていない。

 だからこそ──、

 

「俺は捨てなきゃいけないんだよ。振り払わなきゃダメなんだよ。思い出はたまに振り返って懐かしむだけの物だろ? 思い出に縋り続けて停滞してるんじゃ、話にならない」

「じゃあ君はまた彼処に……君にとって何も優しくない場所に戻るのが正しいと思ってるのか? 死ぬかもしれないのに」

「世界が俺に優しかった時なんて一瞬でもあったかよ。俺もお前も夢見に殺されたんだぜ」

「……それでも、彼処の綾瀬さんは君の恋人では無いんだ。その事実に君は耐えられるか。此処と彼処の綾瀬さんを比べる事無く、何も無かったかのように振る舞えるのかい?」

「……努力するさ」

 

 痛いところを突かれた。素直にそう思った。

 悠の指摘は正しい。今の綾瀬や渚を、思い出の中の彼女と比べてしまい、その度に自分を戒めてきた事は何度もあった。

 現実に戻ってから、また同じように比べてしまう可能性は否めない。

 

「“努力する”ぅ? 無理だね。君は必ず比較する。比較して、現実に戻るんじゃ無かったと後悔するに違いな──」

「それは違うぞ」

 

 悠の言葉を、縁は遮った。

 

「悠、確かに俺は現実に戻っても綾瀬達を比較するかもしれない。この世界と、“8ヶ月間”を何度も思い出す事もあるだろうな」

 

 そればかりは、仕方ない。

 それくらい、大切な日々だったのだから。

 

「だけど、後悔だけは絶対にしない」

「……なんでそう言い切れるのさ。君は未練があったから、今此処に居るんじゃないか!」

「そうだ、未練があったさ! でもな、お前の言う通り此処とは違うけど、渚に綾瀬、園子に咲夜、それに──お前だって現実(あっち)には居るんだよ」

「それは此処だって同じ──」

「同じじゃない! あいつらも俺も、現実で生きてるんだ、5年先も10年先も、大人になって成長して行くんだよ。この世界よりもずっと幸せな未来になる可能性があるんだ」

「そんな有るかどうかも分からない幸せが何だっていうんだ……、目の前に確実にある幸せの方が大事じゃないか」

「俺はそう思わないって事だよ! 価値観の相違だな親友!」

「だいたい、君だってどうせ彼処でどう生きれば幸せになれるのか、分かりっこ無いに決まってるんだ。じゃなきゃ此処に来るはずがない」

「──っ」

 

 悠の指摘は、何から何まで嫌になるくらい縁の図星を突いてくる。

 縁自身、結局その悩みについての答えを見出せないまま、この世界から抜け出そうとしているし、答えが現実で見つかるかも分からない。

 

「どうせ君はそのまま幸せになる方法も見出せず、時間と命を浪費して生きていくしかないんだ。一生当たりの出ないスロットマシーンの前でジャックポットを期待してるだけの人生にこだわる理由が何処にある?」

 

 図星を突くし、正論しか言い。

 恐らく、もはや縁に悠を納得させるだけの言葉は無いだろう。

 そもそも縁より地頭が良くて、弁も立つ悠を論破なんて出来るわけがないのだ。

 

 ──だが、そもそもの話。

 ──縁は最初から悠とディベートも議論も、していない。

 

「五月蝿えんだよ言い過ぎだろテメェこの野郎!?」

「──ッ!?」

 

 そもそもの話、縁はこの世界から抜け出したくて、悠はその邪魔をしているに過ぎない。

 最初から縁がやりたいのは悠を論破する事ではなく、前方の邪魔者連中を突破する事だ。

 親友の悠だから聞く耳を持ったが、そもそも彼の言葉を耳に入れて足を止める必要が、縁には無かったのだ。

 

「あー頭きた! さっきから好き放題言ってくれてさ! 黙って聞いてりゃあ、絶対に俺が人生失敗するって断言かよ。あー良いよ良いですよ、こうなりゃ絶対幸せになってやる、あの“8ヶ月間”でもこの世界でも、絶対に到達出来ないようなハッピーエンドになってやるわ」

 

 皮肉というべきか、縁を止めようとした悠の容赦ない言葉の花束が、縁に残っていた最後の躊躇いを木っ端みじんに消滅させてしまった。

 現実でどう生きたら幸せになれるのか、そもそも本当になれるのか、分からないままではあっても、この世界しか縁に幸せは無いと言われたら、腹に据えかねる。

 つまり縁が幾ら頑張っても頑張っても、得られる幸福の上限は()()()()()と言われてるのと同じなのだから。

 

「冗談じゃねえ、俺は()()()との約束もあるんだ、ここが俺の幸せの終着点だなんて認めるもんか」

「……なんで、そういう考えになるんだ君は」

「さっきも言ったろ親友、価値観の相違だよ」

「どうかしてるよ、自分から不幸になろうとするなんて」

「だから、人の未来を勝手に不幸だと断言するなっての」

 

 会話は完全に平行線。

 縁の瞳と言葉に、先ほどまで無かった固い決意が宿ってしまったのを感じた悠は、それを引き起こしたトリガーが自分の言葉だと理解し、苦虫を嚙み潰したように表情を歪ませる。

 そうして、もはや自分の言葉ではどうあっても縁を自主的に納得させる事は無理だと、理解した。

 

「……そうかい。君は、僕が思ってたよりもだいぶ馬鹿なんだな。理解したよ」

 

 “気づくの遅すぎないか”そう言い返そうとした縁だったが、喉から出かけたところで言葉が止まってしまう。

 

「僕は言ったよね、手荒な真似はしたくないって」

 

 そう言って悠がコートの内側から取り出したのは、縁が万が一と懸念していた物──即ち銃だ。

 しかも悠が持っているものは一般的に『拳銃』と聴いて連想される、映画やドラマで警察が使う様な物と違い、バレル部が細長い、あまり見ない種類だ。

 

 モーゼルM712、旧ドイツ帝国で開発された自動拳銃。

 モデルガンでしか見ないような骨董品レベルの実銃を改造して、特徴的なバレル部を更に長くしたものを使っている。

 

 もっとも、銃の知識なんてものはゲームでかじった程度の縁から見ればそんなこだわりなど知った事では無く、単純に銃が出てきたという事実が恐ろしい。

 

「ライン越えてないかね、悠さん……」

「君が悪いんだよ。僕に引き金を引かせるのも全部、君が悪いんだ」

 

 そんなテンプレみたいなヤンデレのセリフを、よりにもよって悠の口から聴きたくなかった。

 

「安心してくれ。殺したりなんてしないからさ。痛みは伴うけど、次に君が目を覚ます時は、もう此処から出て行こうなんて考えもしないだろうから」

 

 黒く澱んだ瞳を細めて、ニッコリと微笑みながら悠はモーゼルの銃口を縁に向ける。

 いよいよ持って打つ手が無い、億が一銃弾を外してしまう可能性に賭けて今からでも自転車を走らせて逃げようか──そう縁が思ったその時。

 

 突如、縁の後方から強烈な光と轟音を鳴らしながら、何かが猛スピードで近づいてきた。

 縁は自分が銃口を向けられている事も忘れて、音と光のなる方へ振り返ってしまい、それが何なのかを理解する。

 乗用車──それも一台ではなく何台も──が、縁目がけて突っ走って来てるのだ。

 

「ちょ、嘘だろおいおいおい!!!」

 

 思い出すのは、車に轢かれた時の記憶。

 まっすぐ向かってくる鉄の塊には流石に対処しようが無く、咄嗟に出来たのはその場で身を屈めるという無意味な行為くらい。

 

「──まさかっ!?」

 

 パニックに陥り思考が止まった縁と対照的に、悠はあと数秒で自分たちの所まで到達する車の群れの狙いに気づいた。

 

「くっ!」

 

 悠が急いで照準を縁に向き直して引き金を引いたのと、車が縁を通り越しながらドリフトして、2人を遮るようにして止まったのは全くの同時だった。

 銃口から吐き出される銃弾は車のサイドドアに命中し、発砲音と衝突音が夕暮れの街に鳴り響く。

 しかし、本来ならハチの巣になっているはずの車体は僅かな凹みを見せるだけで、まるでダメージが無い。

 

「やっぱり防弾仕様か!」

 

 舌打ちしたい気持ちを抑えつつ、悠はモーゼルから空になった()()()のマガジンを取り出し、実弾が入った物に再装填する。

 その間にも後続の車がドンドンと押し寄せて、縁を守る壁の様に立ち塞がっていく。

 

「……へ?」

 

 完全に轢かれたと思っていた縁は、目に涙を浮かべながら自分の周りを見渡した。

 車が来たのと同時に悠が発砲したのは分かったので、自分を守ってくれた事だけは辛うじて理解できたが、何故そんな事をしてくれたのかは分からないでいると、最後にゆっくりと走って縁の前で停車した車から、見知った人間が姿を見せて言った。

 

「なんて顔してるのよ、アナタ」

 

 高飛車な声、ツンとした瞳、車のヘッドライトを後光の様に輝かせて立つのは間違いなく、綾小路咲夜。

 

「……えっと、さっきぶり」

「最初に出る言葉がそれ? 感謝の言葉は無いのかしら」

「そ、そうだった。ごめん、助かった、ありがとう」

 

 辺りを見渡し、縁は自分が咲夜の用意した車に囲われて、悠から守られているのを理解する。

 

「助けてくれたんだな。嬉しいよ。俺1人じゃどうにもならなかった」

「どうせアイツに上手い事言いくるめられると思ってたから、特別に来てあげたのよ。……でもまぁ」

 

 縁の顔をまじまじと見つめて、咲夜は少しだけ柔らかく微笑む。

 

「……喫茶店の時とは、もう違うみたいね。少しは良い顔になってるもの」

「あぁ。もうここに残りたいなんて言わない、俺はここから旅立つよ」

「最初からそう言いなさいよ、もう……」

 

 形勢逆転の雰囲気が立ち込める中、悠は想定外な邪魔者の妨害にハッキリと苛立ちながら、車体越しにいる2人に届く様に声高に言った。

 

「咲夜! 出しゃばるなよ、僕と縁の問題だ!」

 

 名指しで批判を受けた咲夜だが、待ってましたとばかりに口角を上げて、同じくらい大きな声量で言い返す。

 

「出しゃばってるのはそっちじゃない! 縁がやろうとしてる事に野暮な真似してるんじゃないわよ!」

「縁を不幸にしたいのか!? ずっと幸せに暮らせるのは君だって分かるだろ!」

「知らないわよそんなの!」

 

 言いながら、咲夜は敢えて車の陰から身を出して、悠を視界に入れる。

 モーゼルを握ったままの悠を恐れる素振りも無く、右手で指差しながら、

 

「見損なったわ、日頃あんなに親友ヅラしてるのに、こういう時には縁をまるで信じようともしないのね。それで友達なの?」

「──な、何をっ」

 

 露骨に狼狽し出す悠の心の隙を見逃さないように、咲夜は立て続けに言った。

 

「この街にアタシが来た時も、小鳥遊夢見が来た時も、何の役にも立たないで縁が苦しむのを眺めてたダケの癖に、最後の最後で邪魔するとか、馬鹿じゃない? こういう時くらい素直に見送るぐらいしなさいよ!」

 

 すぐ側で聞いている縁も思わず“いや言い過ぎだろ”と思ってしまう程、咲夜の言葉は容赦が無かった。

 後者はともかく前者の件については、完全に咲夜が当事者なので自分を棚に上げてるにも程がある。

 そして当然、咲夜の言った事は当人にとって1番気にしていた内容でもある。

 言われたくない事を、ここまでハッキリと言われて、頭に来ない人間などこの世に居るだろうか。

 

「──咲夜ァァッ!!」

 

 怒り──では無く、殺意の込められた咆哮と共に、悠は躊躇いなど一切なく咲夜に向けてモーゼルの引き金を引く。

 10mの距離などものともせずに、実弾は轟音と共に発射され、まっすぐ咲夜の眉間に向かう。

 

 そのまま棒立ちしていたら、絶命は避けられない。

 しかし咲夜の表情は、眉ひとつピクリともしなかった。

 瞬間、咲夜が立っているすぐ隣の車のドアが開き、盾のように咲夜を守る。

 

 全弾撃ち尽くしてもなお、車体にのみダメージがあるばかりで、咲夜は髪の毛一本すら傷つかない。

 

「撃ったわね。アンタの方から」

 

 そう話す咲夜の声は、僅かに震えていた。

 だが決して、実弾を撃たれた恐怖による物ではない。

 思った通りの展開に興奮した、歓喜による物だった。

 

「これで正当防衛が成り立つわね! 堂々とアンタを痛めつけられるわ!」

 

 そう言い放ち、咲夜が指を鳴らすと、それが合図となって一気に車の中から咲夜の部下たちが現れる。

 悠の引きつれた私兵と違いスーツ姿だが、人数は倍近くいる上に全員拳銃を手に持ち、武装している。

 最初から咲夜は戦争する(その)つもりで、縁の下に駆けつけていたのだ。

 

「過剰防衛も銃刀法違反も知らないのか! ……いや、それは僕も言えたものじゃ無いが!」

 

 咲夜と自分両方にツッコミを入れながら、悠も背後の男達に合図をすると、彼らもコートを脱ぎ捨てる。

 季節外れの分厚いコートの下には、漫画でしか見た事の無いようなメタリックなアーマーと、小サイズの盾。

 更に悠の改造品とは違い正規のサイズのモーゼルを、全員が手に持っていた。

 

「何よ、アンタもすっかりそのつもりだったんじゃない」

「念には念をと思って用意してたけど、正解だったようだね」

 

 一触即発の空気。

 睨み合う2人が指示を出すのは全くの同時だった。

 

「やりなさい!」

「撃て!」

 

 それらの言葉と同時に、平和な街の通学路は抗争の舞台と化した。

 悠と咲夜は共に後方に引き、互いの部下達が引き金を引く。

 激しい銃撃戦の音に耳を痛めてる縁に、咲夜が言った。

 

「今のうちよ、アナタは違う道から行って!」

「大丈夫なのか!? 他にも悠の部下が」

「良いから! 気にしないでやる事やりなさい」

「──分かった!」

 

 咲夜の言葉を信じて、すぐにここを離れる事にする縁。

 流れ弾に当たらないのを祈りつつ、自転車を押して車から離れてから、サドルに跨る。

 そうして、ペダルに足をかけてすぐにでも漕げる様にしてから、最後に縁は咲夜に言った。

 

「本当に今までありがとう咲夜! 夢見の時も、今も、凄い助けられた!」

「当たり前でしょ! アタシは綾小路家の本流なの、あっちでヒスッてるアナタの親友とは違うんだから!」

 

 腕を組み、ツンとした言動は、背後で派手な銃声音がしてる中でも変わらない。

 だが、ほんの僅かに、咲夜はその頬を赤くしつつ、縁に別れの言葉を告げる。

 

「本当は……本当はアタシ、もう少し別の形でアナタと仲良くなりたかった。この街に来た時はもうそれが出来なかったけど……でも、アナタと一緒に居て、たの……たの──つまらなくも無かったわよ!」

「…………っ!」

 

 思いもよらない咲夜の本心。

 それがギリギリまで言えなかった彼女の心からの言葉──あるいは言えなかった未練の結晶なのだと理解した縁は、2秒とも時間を取らずに、

 

「あぁ! 俺も楽しかったよ! また現実(あっち)で会おうな!」

 

 笑顔でそう言って、自転車を走らせた。

 

「──あと、全校生徒の前でパンツの色バラしたのもごめんなさい!」

「最後の最後で何言ってんのよこのバカ! あとそれだけは本当に反省しなさいよ!?」

 

 

 あっという間に遠くなっていく背中を見ながら、咲夜は誰に言うでもなく、ポツリと優しく呟いた。

 

「頑張りなさいよ、バカ縁。それと……向こうのアタシとは、もっとちゃんと仲良くしてよね」

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 情報化社会極まり、あらゆる疑問や問題がネットで解決できる時代。

 生まれ育った街の土地勘ほど、検索に頼らずに済むモノは無い──少なくと今この瞬間だけは、縁はそう確信しながら、自転車のペダルを必死に漕ぐ。

 

 咲夜は問題ないと言っていたが、不安はどうしても残るため、覚えてる限り最も遠回りかつ、地元民しか知り得ない道を通りながら家まで突き進む。

 最終的には悠に邪魔された道と真逆の方角までぐるりと回って、反対方向から家まで向かう事にした。

 

 本来より20分以上掛かる遠回りをした甲斐もあってか、道中で悠の追手らしき人間とは全く遭遇しなかった。

 不安と警戒で角張っていた心も少しだけ和らぎ、この角を曲がればいよいよ目的地まで一本道という通路に差し掛かった、その時。

 

「──え?」

 

 パァン、という空気が漏れた音が縁の耳に届くのと共に、急激に自転車がガタつき始め、瞬く間にまともな走行が不可能になった。

 前後のタイヤが一瞬で駄目になり、自転車がぐわんぐわんと左右に大きく揺れる。

 あわや転倒しそうになるのをどうにか堪えて降りると、縁は自分が過ぎ去った道を振り返って、この異常の原因が何かをすぐに理解した。

 

 今しがた自分が曲がった角に、びっしりと何かが敷き詰められている。

 自転車のタイヤにも無数に突き刺さっているそれを一個抜くと、漫画や映画でしか見ない、いわゆる『まきびし』と非常に酷似していた。

 そんな物騒なものが都合よく撒き散らされているワケも無い。すなわちコレがあるという事は──既に数十分も自転車を漕いで汗だくの縁の背中に、全く違う質の汗が流れる。

 

「──ターゲットを発見。想定通り反対側の通路から来た」

 

 最悪の予想通り。縁の背後から悠の部下と思われる男が5人、連絡を入れながら姿を見せた。

 

 連絡をするためにフルフェイスマスクを外していた男と、その後ろに4人。武装した出で立ちであり、縁に勝てるはずも無い。

 かと言って逃げようにも、自転車が使い物にならなくなった今、それも難しいだろう。

 一周回って自転車を武器に使うプランが頭に浮かぶほど追い詰められる中、いよいよ先頭を歩く男が残り2m程まで詰め寄ってきて、縁を捕まえようと右手を伸ばしてくる。

 

 ──その、瞬間だった。

 

 何か──黒っぽい塊が縁の目の前を横切ったと思った直後、男の右手が宙をくるくる舞っていた。

 瞬き一回分程度のタイムラグの後、地面に何かが突き刺さる音が耳朶に響く。

 

 視線だけ音のした方へ向けると、そこには地面に深々と埋まった、嫌な意味で()()()()()があった。

 

「──ぐぁあああああ!?」

 

 肘から先を切断された男が絶叫するのと同時に、後ろの男たちが周囲を見渡して警戒態勢に入る。

 その直後、音もなく飛び出した5本のナイフが、男達の眉間に吸い寄せられるように真っ直ぐと向かい、深々と突き刺さっていった。

 一瞬の出来事過ぎて断末魔の叫びどころか、自分が死んだという認識を持つ暇すら無く、悠の部下達は絶命して崩れ落ちる。

 

「あははははは! やったぁペンタキル! 見たナナ? かんぺきだったよね」

「久しぶりだから腕が鈍ってると思ったけれど、そんな事無かったわね。お人形さんみたいに倒れちゃったわ」

 

 背後から聴こえる無邪気な──それでいて悍ましい会話。

 人の死ぬ瞬間を久方ぶりに目の当たりにした縁は、これら一連の見事なまでの殺人が誰の仕業なのかを、すぐさま理解した。

 

「……相変わらず、命中率が半端ないな」

 

 関心と呆れ、恐怖と安堵がない交ぜになった縁の言葉は、死んだ悠の部下達ではなく、これら一連の芸術的ともいえる殺人を完遂した2人へ向けたモノだった。

 

「えへへへ! やったぁ、お兄ちゃんに褒められた!」

「ありがとうお兄ちゃん……でも、正直物足りないの。美味しいところを全部ノノに取られちゃったから」

 

 ナナ、そしてノノ。

 縁が出会った人間の中で数少ない、人殺しを厭わないどころか娯楽にすら感じている、殺し屋の双子。

 たった今、5人の命を終わらせたとは思えないほどに、無邪気な声と笑顔で縁の前に姿を見せた。

 

「さっきぶりだねお兄ちゃん、高そうな自転車はダメそう?」

「やあノノ。……そうだね、ご覧の通りだよ」

「わぁ本当だ、タイヤがふにゃふにゃだ」

 

 後輪を指で突っつきながら笑うノノ。

 人を殺した後に出来る言動では無いと心中でツッコミつつも口には出さず、縁は自分の窮地を救ってくれた双子に頭を下げた。

 

「危ないところだったよ、助かった……ここには咲夜が来るように言ったのかな?」

「正解っ! “アイツは真反対の道から家に行こうとするだろうから、アナタ達先に行って待ってなさい”って言われて来たの。待ってる間はちょっと退屈だったし、来なかったらどうしようと思ってたけど、お兄ちゃんが本当に来てくれたから良かったわ」

 

 咲夜の声マネをしながら説明を入れるナナに、縁はこんな状況だがクスっと笑ってしまった。

 そんな縁に、ノノが先を急ぐように言った。

 

「ほらお兄ちゃん! 早く行かなきゃ、さっき人呼んでたし、どんどん怖いお兄さん達がここにやってきちゃうよ〜?」

「それとも、お兄ちゃんも一緒に()りたい? 斧なら貸すわよ? うふふっ」

 

 冗談とも本気とも言えない、怪しい笑みを浮かべながら話すナナ。

 ノノの言う通り、これ以上縁がここに止まっても、リスクが増えるだけだ。

 

「急いで行きます!」

 

 本当に斧を寄越されて戦う羽目になるワケにはいないので、慌てて自転車を道の端に置いて、縁は家に続く道へと走り出す。

 そんな彼の背中に、ナナとノノが言った。

 

「じゃあね、お兄ちゃん! 他の人より変わってるから、面白かったよ、本当はもっと一緒に遊びたかったよ!」

現実(むこう)ではもう会えないでしょうけど、もし会えたなら、その時はたくさん遊びましょうね、お兄ちゃん」

 

 もちろん、会うか会わないかなら圧倒的に後者を選ぶ相手だ。

 言霊というのもあるから、下手な口約束などしない方が良い。

 それでも、ここで明確に拒絶の言葉を吐けるほど、薄情な人間でも無い。

 足を止めて振り返り、苦笑いを浮かべながら縁は応えた。

 

「あぁ、また会おう──武器を持ってなかったらな!!」

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 咲夜とナナ&ノノのお陰で、更なる追っ手が出てくる事は無くなり、遂に家まで数分の所まで来た。

 ここまでずっと自転車と足で走り通しだったため、足は溜まった乳酸のせいで重りでも付けたように重く、痛みすら発している。

 それでも家に着くまで歩みを止める気の無かった縁だったが、強制的に足を止めざるを得ない状況がまたも出てきた。

 

 縁の前方に、金色に塗装された馬鹿みたいに厳つい見た目と大きさをしたバイクが、立ち塞がるように立っている。

 車やバイクについて、ほとんど知識が無い縁だが、いま眼前にある車体についてだけは、それが何なのかハッキリと分かった。

 

 ゴールドウィングA・Y・CUSTOM(綾小路悠家出仕様)

 

 かつて、殺し合い寸前の渚と綾瀬を止めるために、今日と同じように必死に家まで帰ろうとした縁が乗った、思い入れのあるバイク。

 当時は頼もしさしか無い鉄の獣だったが、今は淡々とこちらを狙う怪物のようだと、縁は思った。

 

 そしてもちろん、そのバイクが目の前にあると言うことは、乗り手も居ると言う事。

 

「またかよ、もう」

 

 ゴールドウイングに跨っている悠を見て、縁は普段なら絶対に親友相手に出さない声色と顔になった。

 そんな縁を見て何を思ったのか、悠の表情からは伺えないが、少なくとも声だけは普段の調子のまま、バイクからゆっくりと降りて言った。

 

「他の人は居ない。みんな()()()よ」

「……そうかい」

「さっきは済まなかった。僕は君に、言ってはならない事を口にしたと思う。本当に、ごめん」

「お……おう?」

 

 普段の悠と異なり、目を伏せて縁に表情を見せないまま話す悠。

 さっきまで見せていた苛烈な姿と、大きく様変わりしている。

 

「分かっているつもりだし、言われる筋合いも無い筈なのに、アイツに──咲夜に言われたら、初めて指摘された様に動揺してしまった。僕は君の力になろうと思ってるのと比べて、その実君を苦しめるばかりだったって」

「いや、そんなわけ──」

「分かってたんだ。僕だけじゃ咲夜を止められなかったとしても、やり方次第で君が苦しむ時間や過程を無くす事は出来たはずだった。小鳥遊夢見がこの街に来た直後、すぐに彼女を監視するなり対策を取れば、凶行を止める事も出来た」

 

 悠の言葉は間違っていない。他の人に出来なくて悠なら出来る事が多くあった。

 

「でも、現実はまるで違った……僕はただただ君を苦しめたし、笑えるほどあっさり死んで……君は“8ヶ月間”を捨てる結末を選ぶしかない程追い詰められた」

「何言ってんだよ、お前は被害者だろ? どうして自分を責めるような事言うんだ」

「被害者……君はそう言ってくれるんだね。でも、僕は僕が死んだ後に何度も何度も何度も何度も殺されて苦しみ続けた君を知って、自分をそうだと思う事が出来ないんだ!」

「……っ」

 

 慟哭と共にようやく縁の目をハッキリ見つめた悠の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。

 

「分かってるさ、君は此処に居続けるべきではない事くらい! でも、2度と無いと思っていたチャンスが来たのに、君をまた辛い現実に戻さなきゃ駄目なんて、そんな残酷な事があるか!?」

 

 それは──それこそが、悠の持つ未練。

 いや、これはもう無念──それすら通り越して、怨念とすら呼べる物だった。

 

「君が完全に吹っ切れて、もう僕達のことを振り返らないなら、構わなかったさ。でも惜しんでたじゃないか、君は失った日々にずっと未練を持ってたじゃないか! だから君を現実に戻したく無かった。君が何かを失うかもしれない世界なんて、もう考えたくも無かったんだよ!」

 

 友の叫びを、縁はもう言い返す事はせずに黙って聞いた。

 悠が死後どの様に縁やみんなの死を目撃したのかは分からない。

 だが、どんなに悔やんでも時計の針は逆には動かない様に、悠は“自分があの時、こうしていれば”という後悔こそ積もれど、払拭するチャンスなど有りはしなかった。

 そのまま縁が“8ヶ月間”を無かった事にしたのと同時に、彼も消えた──ハズだったが、この世界が作られるのと同時に、彼にチャンスが訪れてしまう。

 

 きっと縁だって、幸福しか無いこの世界を選ぶハズだ。

 もう辛い事しかない現実なんて、見捨てるだろう。

 そう、思っていたのに。

 

「でも、君は現実を選んだ」

 

 渚も綾瀬も園子も、咲夜だってどうするかわからず、夢見まで生きている。

 そんな不安定で、危うくて、どうなるか分からない現実で生き続ける(to be continue)事を、決めた。

 あり得ない、あってはならない、考え直すべき。そう硬く信じて、無理矢理にでも止めようとした。だが、いざ正面切って対峙した時に、縁は悠の言葉を真っ正面から否定してみせた。

 

『あー良いよ良いですよ、こうなりゃ絶対幸せになってやる、あの“8ヶ月間”でもこの世界でも、絶対に到達出来ないようなハッピーエンドになってやるわ』

 

 売り言葉に買い言葉的な言い回し、あまりにも幼稚だし、根拠も無い杜撰な言葉。

 

 だが、そう言い切って見せた縁を見て、悠は思わずこう考えてしまった。

 “誇らしい”と。

 

 そして、そんな事を思ってしまった自分を無かった事にすべく、麻酔弾を撃ち込もうとした矢先に現れた、彼の味方(咲夜達)

 縁の危機を救う──自分が散々願った立場を、よりによって咲夜に簒奪され。

 縁の未来を阻む──自分が忌み嫌った存在に、他ならぬ自分自身がなっている事実を、思い知った。

 

「だから、もう僕は君を無理矢理止める、なんて事はしない。でも、君が現実に戻るのを見送るなんて事も、許容出来ない」

「……だったら、どうするってのさ」

「……そうだね」

 

 涙を腕で拭い、悠は縁に一歩、二歩、腕を伸ばせば届く距離にまで歩み寄る。

 そうして、コートの内側にしまっていたモーゼルを取り出して──グリップ部分を縁に向けた。

 

「殺してくれないか、君の手で」

「──ッ、馬鹿野郎! 何とんでもない事頼んで来るんだよお前は」

「嫌ならそのまま僕を無視して通り過ぎてくれ、勝手に1人で死ぬから」

「だから、その死ぬとか殺すってのをやめろっての!」

「同じ事だよ、君が現実に戻れば、此処に残ってる人々は消え去る。僕はそうやって消えたく無いだけだ。そしてどうせ消えるなら、君の手で消えたいんだよ」

「……本当に、どうしてそう極端なんだよお前」

 

 世界の消滅と共に消えるのは、縁の選択を受け入れた事と同じ。

 それだけは受け入れられない悠は、せめてもの抵抗として、世界が消えるより先に死にたい。

 悔しいが、悠の想いを、縁は理解出来てしまった。

 

 かつて夢見に監禁されて、どう足掻いても死ぬしか無い中、せめて少しでも相手の意にそぐわない事を言ってやろうと、夢見を否定する言葉を並べ立てた事があるから。

 だからこそ、悠は本気で縁に殺されたいし、それが出来なければ自殺する事も、確信出来る。

 

「……俺に爪痕残すにも、程があるだろ」

 

 そう吐き捨てて、縁はグリップを掴み、初めて持った銃の重さに戸惑いつつも、両手で構えて悠へ銃口を向けた。

 

「……ごめんね」

 

 縁が自分の願いを受け入れてくれた事。

 それが最低最悪の願いだと自覚してる事。

 これで一生縁はこの世界を捨てた選択を思い出すたび、心を痛めるだろう事。

 

「それと、ありがとう」

 

 全てが混ざり合って、悲哀と歓喜の混ざった笑顔を浮かべて、悠は笑った。

 

 そんな親友の想いを察しつつ、縁は引き金を指を掛けて。

 

「どういたしまして、バカユーヤ」

 

 今生の別れを告げた。

 その直後。

 

 ──ぱんっ。

 

 とても小さく、乾いた音が、縁の握るモーゼルとは違う所からした。

 

「……え?」

「あ……あぁ」

 

 呆然とする縁と、絶望に染まる悠。

 縁には分からなかったが、向かい合ってる悠には見えた。

 縁の後ろで、サイレンサー付きワルサーP99を構えた塚本せんりが。

 

「この──」

 

 その先の怨嗟の言葉を吐き出す前に、悠は撃ち込まれた麻酔弾によって意識を失い、縁に向かって倒れ込んだ。

 

「悠!? おい、どうした、俺撃ってねえぞ!」

 

 驚きながらも咄嗟にモーゼルを手から離して抱きかかえた事で、悠が顔面から地面に突っ伏す事は避けた。

 

「そうですよ。撃ったの、こっちでしたから」

「──塚本っ!?」

 

 塚本が言葉を発して、ようやく縁は自分の後ろに居たことに気づいた。

 続いて塚本の手が拳銃を握っているのに目が行くと、慌てて悠の身体を手当たり次第に確認する。

 縁にサプレッサーの知識が無くとも、状況から先ほどの乾いた音が塚本の銃から発せられたのは間違いない。しかし、悠の身体を手当たり次第に見ても目立った出血が見られなかった。

 

「ご安心を。麻酔銃ですから」

「……はぁ、良かった。マジで焦った……」

 

 よほど強力な物を撃ち込んだのだろう。死んだ様に眠っている悠だが、とにかく死ぬ様な事はないと分かって安堵する。

 

「今更殺す様なマネしませんよ。もしそんな事したら、こっちが君に殺されるでしょうし」

「……それについてはノーコメント」

 

 実際、塚本が実弾を撃っていたとすれば、縁は何の躊躇いも無くモーゼルを彼に向けていただろう。

 

 完全に力の抜けた悠を抱きかかえたままでは居られないので、縁は塚本に手伝う様に言ってから、微妙に嫌がる塚本と2人でゴールドウィングを道の脇に置き、そこに悠を乗せた。

 

「はぁぁ………………ちょっとだけ、休憩」

 

 本当ならそのままこの場を去りたい所だ。

 しかし、元々身体が疲れ切っていた所に、立て続けでビックリする事が起きて、いよいよ心身ともに疲労が限界を迎えた今、流石に休まないと動けなくなってしまった。

 縁は汚れる事も気にせずアスファルトの地面に座り込み、ゴールドウィングにもたれて、深く呼吸を繰り返す。

 

 そんな縁を見て、塚本は揶揄う様に笑いながら言った。

 

「しかし、彼には困りましたね。この土壇場で君に殺されたがるなんて。普段では予想もつかない行動ですよ」

「……そうだな」

「君が本当に殺してしまったら、たとえ現実の綾小路悠には無関係でも、一生残る傷になってたでしょう。それを見越してこんな事したんですから……やれやれ、呆れてものも言えません」

「もう十分に口に出してるよお前」

 

 親友を揶揄されても、疲れてる以上に自分が思ってる事をそのまま言われてるので、縁は強く否定出来なかった。

 そんな彼の具合を察してか、塚本もそれ以上は悠を責めない。

 

「それでもまぁ、彼なりの、つまり君の親友という立場なりの葛藤はあったのは確かでしょう。その上で君の未知なる可能性よりも、手堅い幸福を選んだ」

「…………そうなんだろうな」

 

 答えながら、縁はかたわらで眠る悠の顔を見る。

 麻酔が効いて眠っているその顔は、目に涙を滲ませたまま。

 

「何にせよ、もう君の邪魔をする人は居ないはずです。ここから先はどんなにゆっくり歩いても、問題はありませんよ」

「渚は、邪魔しないのか?」

「ふふっ、現実の野々原渚はともかく、()()があなたを害する存在であるはずが無いでしょう?」

「……よく分かってるじゃねえか」

「情報屋ですから」

 

 そう言えば、塚本は千里塚インフォメーションとかいう組織の人間のだったか。

 結局、千里塚とか『ナナツミ』とやらが何なのか全く分からないままだったが、もはやそれらに対して微塵も知的好奇心が働かない縁は、膝に力を入れて立ち上がり、お尻に付いた土汚れを手で払いながら、塚本に言った。

 

「それじゃあ、俺はそろそろ行くよ……悠を任せてもらえるかな?」

「はい、もちろん。と言っても向こう7時間は眠ったままでしょうが……流石にそれまでには()()()()()()()()()?」

「ああ、当然だ。……こんな別れ方でごめんな、悠」

 

 最後にもう一度、親友の顔を目に焼き付けてから縁は、少しだけ重い足を動かして、残り僅かな家までの道のりを歩き始める。

 

「それじゃあ、さよなら。向こうでは合わない事を祈ってるけど──」

 

 意味深な発言や行動ばかり目立って、気に入らない奴だった。

 だが、思い返せばいつも、助かれていたのは自分だった。

 それなら最後の最後くらい、礼を言ったって良いだろう。

 

「俺が悠を殺すのを止めてくれて、本当にありがとう」

「────っ」

「お前に会えて良かったよ。じゃあな、せんり」

 

 何だかんだ言って、きっとコイツは味方だったのだから。

 末期の刹那くらい、親愛を抱いたって、良いじゃないか。

 

 二度と無いだろう縁の言葉にしかし、塚本は最後まで何も応える事はなかった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「──驚きましたよ」

 

 彼の背中が完全に遠のいてから、せんりはかたわらで眠りかける悠にではなく、独り言としての言葉を宙に転がせる。

 

「まさか、君からそんな言葉を貰えるなんてね」

 

 最後の最後で、絶対に2度と見られない、得られない経験をした。

 それだけでも、この世界に()()()()留まり続けた甲斐があった物だ。

 

「その声で名前を呼ばれる事なんて、二度と無いと思っていました」

 

 思い返すのは、失われた“8ヶ月間”の中ですら、無かった事にされた一角の思い出。

 もはや誰1人として記憶していない日々の中で、せんりだけが知っている声とイントネーションで、自身の仮初の名前を親しげに呼んだ友人。

 それと、まんま同じ声色と質量で、最後の最後に野々原縁は自分を呼んでくれた。

 

 あぁ、もはやそれだけで、彼には充分に過ぎた。

 

「結局、君も、()()も、ここには居なかったんですね」

 

 もしかしたら。

 そんな事を考えなかったと言えば嘘になる。

 何故ならそれこそが、せんりにとっての未練だったのだから。

 

「でも、君達は此処に居なかった。それはつまり──未練など無い、終わりを迎えられたんでしょう」

 

 それが幸福な終わり方なのか、はたまた未練を抱く余地すら与えられない絶望的終焉だったのか。推し量る材料なんて無いけれど。

 知らなくても良い事だって、世の中にはあるのだ。

 

 きっと、それぞれにとってのハッピーエンドなのだと、せんりは硬く信じて──口元を柔らかく歪ませながら、瞳を閉じた。

 

()()()()が乾いた地面に音もなく落ちて弾ける頃には。

 

 その場にはもう、何も無かった。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「おかえり、お兄ちゃん」

 

 塚本の言葉の通り、もはや誰一人の妨害も無いまま、縁は自分の家にたどり着く。

 玄関を開けると、縁が帰ってくるのを分かっていたように渚が待って居た。

 

「ただいま、渚」

 

 縁は特に驚く事もなく、額の汗を拭いつつ答えると、渚はクスりと微笑む。

 

「お兄ちゃん、汗凄いよ? お風呂できてるから先に入って」

「はい、了解」

 

 ごく普通の、当たり前の様な会話を終えて、縁は着替えの服を部屋から用意した後に風呂に入った。

 

 全身と頭を洗い終えてから、渚があらかじめバスミルクを入れていた暖かい湯船に肩まで浸かり、爪先までピンと伸ばす。

 ミルクの質感を伴う心地良いお湯の感触と、とろみのある香りが体と心に染み込み、散々走り回って疲れ切った身体から、悪い物が流れ出ていく様な感覚に包まれた。

 そのまま10分ほど湯船から出ない時間が続き、ともすればこのまま寝入ってしまいそうだったので、縁は惜しむ気持ちを抑えながら身体を起こして、風呂を出た。

 

「お風呂ありがとう渚、気持ちよかったよ」

「ホント? 良かったぁ。奮発してちょっと良いの買ったの。後で(あたし)も入るの楽しみ」

「先に入っても良いんだぞ?」

「ありがとう。でもお腹空いてるから、ご飯にしよ?」

「……うん、そうだね」

 

 今日のメニューは、縁の好物のトンテキ。

 相変わらず彼好みの味付けで、風呂に入り元気と食欲が湧いてきた縁の意と心をこの上なく満足させた。

 

 だが食事の時間そのものは、普段の兄妹の時間としては珍しく無言で進んでいく。

 縁はこの後自分がどう渚に言葉を出せば良いか、分からなくなっていた。

 渚もまた、そんな縁から何かを感じてるのか、敢えて自分から声を掛けようとしない。

 

 これがこの世界の渚との最後の晩餐なのに、それが無言で終わってしまう。

 それだけは避けようと縁は、話題も思い浮かばないまま声を掛けようと口を開いた。

 

 ──そのタイミングを待っていたかの様に。

 

「ねぇ、お兄ちゃん」

 

 渚が先に、縁に言葉を掛けた。

 

「ん、んん……どした?」

「私、お兄ちゃんが凄く悩んでた事、分かってるよ」

 

 心の中を明け透けにされた様な感覚が、縁を包む。

 

「──そっか」

 

 しかし、動揺はしなかった。

 悠がそうだった様に、渚も縁の決断を悟っていた。

 その上で、普段通りの渚として、縁に接している。

 

「……止めようって、思わなかった?」

「なんで? お兄ちゃんは私に止めてほしいの?」

「いや、そういうわけじゃ無いけど」

「ふふっ、冗談だよ。そもそも、私がお兄ちゃんの嫌がる事、するわけないもん」

 

 食べる手を止めて笑いながら話す渚。

 

 塚本の言葉はここでも正しかった。

 渚は最初から縁の決断を尊重し、止める気など皆無だったのだから。

 

「いつも言ってるでしょ? お兄ちゃんの事を世界で1番理解してるのは私だって」

 

 ウインクしながら断言する渚に、異議を唱えられる人間なんて1人もいないだろう。

 

「お兄ちゃんの事だから、最初は嬉しかったよね。綾瀬さんが恋人に戻ってて、私もお兄ちゃんと綾瀬さんのお付き合いを認めてて、楽しかったから、離れたく無い・戻りたく無いって思った。でしょ?」

「……うん、正直本当、この世界に居続けたいって思いかけてた」

「……なのに、お兄ちゃんが元の世界に戻ろうって決めた理由、教えてくれる?」

「……これかな」

 

 そう言って縁がポケットから取り出して見せたのは、現実の渚がくれた飴玉。

 

「渚が……現実の渚が俺にくれた、ただの飴」

「……うん、やっぱりそうだと思ってた」

 

 飴玉を縁の手のひらからつまみ取り、宝石を眺める様に見つめる。

 

「お兄ちゃんは優しくて、カッコよくて、でもちょっと雰囲気に流されやすいけど──世界で誰よりも野々原渚(あたし)の事を大事に思ってくれてる」

 

 渚の思い上がりでは無い。かつて縁が渚にそう言った。

 渚は恋人では無いが、綾瀬よりも大事な、世界で1番大切な人だと。

 その気持ちは今も、縁の中では変わらない。

 

「だから──現実(むこう)の私を悲しませる事なんて、お兄ちゃんには出来ないもんね」

「…………うん。渚の言う通りだよ」

「良いなぁ……向こうの私は」

 

 飴玉を縁の手に返して、笑いながら言った。

 

「お兄ちゃんに、こんなに想ってもらえるなんて。羨ましいよ」

「渚、俺は──」

「良いの。お兄ちゃんはもう、現実の私(あの子)だけのお兄ちゃんだもん。当然の事だよ」

「……っ」

 

 そんな事ないと、否定するのは簡単だ。

 縁は今目の前に存在する渚を偽者だと思ったことは、一回だって無い。

 だがそれを口にして、渚が喜んだり満足したりする事はない事も、縁は分かっている。

 どう足掻いても、どんなに願っても、この渚は既に無かった過去の再現であり、現実では無いのだから。

 

 この場で渚を慰める言葉を言っても癒されるのは彼の気持ちだけであり、渚では無い。

 自分の気持ちを必死に抑えて、渚は縁を送り出そうとしているのだ。

 ならば、その気持ちにこそ、縁は応えなければいけない。

 

「……ありがとう、渚」

「……うん、どういたしまして」

 

 誰にも譲りたく無い縁の妹(野々原渚)と言う在り方を、現実の渚に返そうと決めた彼女に掛けることが許される言葉は、それだけだった。

 

 

「……じゃあ、行ってくるよ」

 

 食事を終えて、食器を洗い、縁は玄関に戻る。

 

「いってらっしゃい……あと」

「ん?」

「向こうの私のこと、大事にしてね」

「……当たり前だろ。任せろ」

 

 玄関で見送ってくれる渚にそう言ってから、踵を返して縁は玄関の扉に手を掛けた。

 この扉を開けて外に出て、扉を閉めたら、それでお終い。

 一度は縁を否定したが、その後何度も縁の心を救ってくれた最愛の妹は、思い出の中へと消えていく。

 

「……さよなら、渚」

「さよなら……お兄ちゃん」

 

 末期の会話としては、あまりにも単調。

 こんなのあんまりだ、別に映画の様な感動の別れを望んでるつもりは無いが、もう2度と会えない──自分の妹との別れの言葉としてはあまりにも相応しく無い。

 

 振り返りってもう一度、その顔を見たい。

 壊れてしまう程に抱きしめて、今までの感謝を伝えたい。

 夢見に襲われた時、助けられなかった事を謝りたい。

 もっと、もっと、もっと、ずっと一緒に生きて──、

 

 大人になった君が見たかった。

 

 そんな気持ちの全てに蓋をして必死に抑えつけながら、縁はドアノブに手を掛ける。

 ゆっくりと回して、それでも扉は開くから、出て行こうとした──その時。

 

「──待って!」

 

 叫ぶ様な声と共に、

 

「お願い……待って」

 

 渚が後ろから、縁を抱きしめた。

 

「……渚?」

「……ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 縁の耳に届いたのは、渚の嗚咽。

 兄の背中に顔を埋めて、渚は泣いていた。

 

「こんな事したらダメなの分かってるけど……けど、あたし……離れたくない! お兄ちゃんとさよならなんて嫌だよ!」

 

 理性で必死に縛り付けていた想い。

 兄を迷わせてはいけないと、ただ静かに、淡々と見送るつもりだった。

 だが、無理だった。野々原渚は、野々原渚が兄に向ける情感(おもい)は、そんな簡単に殺せる様な物であるはずが無い。

 

 たとえこの世界も、自分も、現実では無いとしても。

 現実にはちゃんと自分が居て、兄と一緒に暮らしているとしても。

 決してそれは、()()では無い。

 細胞も血液も、声も顔も、心と身体の何もかもが同じだけで、全くの別人なのだから。

 

 だが兄が居るべきはそんな別人(げんじつ)の側であり、自分(おもいで)の隣では無い。

 縁はこれから先もずっと生きていく。そうして段々と、彼の中で野々原渚という人間は、現実の彼女に染まっていくのだ。

 それと同時に、自分は確実に、縁の中で薄れていく。

 

「あたし消えたく無い! お兄ちゃんの中から、あたしが居なくなるなんて嫌だよっ! ごめんなさい、でも忘れられたく──」

「忘れるわけ無い!!」

 

 縁は渚の言葉を断ち切った。それ以上は言わせないとばかりに。

 

 良かった──別れを惜しむ気持ちが渚の中にあると分かっていたけれど、それを渚が自分の中に留めずちゃんと口に出してくれた事が、縁は嬉しかった。

 だからこそ、少しだけ──本当にちょっぴりだけ、縁は憤った。

 

「忘れるわけ無い、俺は引き摺るよ。現実の渚と会話する時、笑顔を見た時、喧嘩した時、笑ったり泣いたりする時、絶対に()と重ねる。それが良くないことだとしたって、一生死ぬまで俺は、君を引き摺って生きてくに決まってる!」

 

 それこそ、未練がましいと誰に言われようが構わない。

 

「でもそれで良いんだ。だって俺にとって、君も正真正銘の渚なんだから」

「……嬉しいけど、そんなのお兄ちゃんが辛くなるだけだよ?」

「辛くなんて無いさ。妹の事を想って辛くなんて──もうならない」

 

 確かにこの世界に来る前まで、縁は消えた“8ヶ月間”と現実の差に心を苛む事もあった。

 きっとこれからも、悠が言った通りその“差”を比較する事は出てくるだろう。

 

 だがそれを辛いとはもう、二度と絶対、思わない。

 何故ならば──、

 

「俺は()()()()()()()だから。これからもずっと、現実もうつつも関係なく、野々原渚(いもうと)が大好きで大切なお兄ちゃんだよ」

 

 別れを惜しんでいたのが、自分だけでは無いと分かったなら。

 世界は変わっても、気持ちは交差しているのなら。

 もう、縁は現実でも1人では無い。

 縁の中に半ば呪いとして刻まれていた“8ヶ月間”と“約束”は、正真正銘彼にとっての生きる原動力として、この先の人生を支えてくれるだろう。

 

「これからも渚は俺と一緒だ。誰かの記憶や印象に溶けたり、薄まったりなんてしない。ずっと一緒にいるよ」

「……そっか。そうなんだ」

 

 呟く渚は、まだ声が震えているが。

 その声に、確かな安心が芽生えたのが分かった。

 

「それなら……うん、うん。だったら、寂しく無いよね」

「あぁ。当たり前だろ」

「……良かったぁ」

 

 妥協でも諦めでも無い、心からの納得を、渚は得た。

 だったらもう、彼との別れを哀しむ必要は無い。

 直接言葉を交わすのはこれが最期になるとしても、それが別れの言葉である必要もまた、無いのだ。

 

「ごめんね、お兄ちゃん。最後まで我儘に付き合ってくれて」

「また、いつでも付き合ってやるよ」

「……ふふっ、ありがとう」

 

 鈴を転がすように笑って、

 

「ずっと一緒に居させてね、お兄ちゃん」

 

 

 ──その言葉と共に、縁を抱きしめていた温もりと感覚は、世界から消えた。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……縁? どうしたの、こんな時間に」

 

 玄関のチャイムが鳴ったので、室内のモニターを確認した綾瀬は、来客者が自分の恋人であると分かった。

 家族が揃って家を空けているので寂しかったので、来てくれて嬉しい反面、普段と違う行動を取る事が少しだけ不思議だった。

 軽い足取りで玄関まで向かい、扉を開くとすぐに、綾瀬は恋人の異変に気づく。

 

「どうしたの、目赤いわよ?」

 

 真っ赤という程ではないが、普段の縁と違い明らかに赤らんだ瞳をしている。

 

「ちょっと目が痒くなっちゃって、擦っちゃった」

 

 聞かれた縁が、はにかみながら言った。

 

「もう、子どもみたいな事するんだから。目薬……は人に使うのはダメよね……」

「気にしなくて良いよ、もう痒くないし、痛くも無いから」

「本当? なら良いけど……取り敢えず上がって。ここで話してたら、虫が入ってきちゃう」

「うん、お邪魔するね」

 

 靴を脱いで、慣れ親しんだ彼女の部屋までまっすぐ向かう。

 綾瀬が口にした通り、今夜も彼女の両親は家を空けている。

 

「おじさんも、おばさんも、最近帰りが遅いんだな」

 

 先日も2人でアルバムを見たテーブルにつきながら、縁が尋ねる。

 綾瀬は持ってきたココアの入ったマグカップを一口してから、少しだけ寂しそうに答えた。

 

「2人とも、職場でそれぞれ問題が起きたみたい。お父さんの所は上司が病気で休んじゃって、お母さんの場合は……お客さんが増えて人手が足りなくなってるみたい」

 

 もっとも、海外に出てる縁の親とは異なり、あくまでも仕事が長引いてるだけなので、どんなに遅くとも日付が変わる前には帰ってくるだろう。

 それが分かっているから、すぐに綾瀬は小さく笑いながら続ける。

 

「お父さんとお母さん、この位仕事長い日はいつもね、終わった後に2人でご飯食べてから帰るの」

「へぇ、相変わらず夫婦仲が良いんだな」

「もうホントよ。休みの日なんて2人ともべったりなの。いまだに学生時代の恋愛が続いてるみたいで、見てる方が恥ずかしくなってきちゃって……」

 

 呆れた口調で言いつつも、同時にそれが誇らしく、また羨ましいと想っているのがよく分かる。

 ほんのり頬を紅潮させながら、再度マグカップを持つと、口元まで運んでから上目遣いになって綾瀬は言う。

 

「あたし達も、そんな風になれるかな……?」

 

 想い()の込められた視線と言葉を真っ直ぐに受けながら──ヒビ割れそうな心をそのままに、縁は応える。

 

「それなら、俺ももっと、男を磨かないとな」

「……30点、その返し」

 

 もっとロマンチックな返事を期待していた綾瀬は、少し頬を膨らませつつ、縁の右頬を優しくつねった。

 

「いてて……頬がちぎれる」

「そんな強くしてないでしょ」

「……100点満点の答えを言うには、まだ俺は足りないよ」

「そんな事無いわよ。……それに、そうだとしたって、女の子は好きな子男の子にはかっこいい事言われたいの」

「分かった、覚えとく。忘れない」

 

 頬に残る感覚、耳朶に響く言葉、向けられる想い。

 その全てを魂に刻みながら、縁は言った。

 

「……ちゃんと、覚えておいてよね」

 

 やや間を置いてからそう返す綾瀬に、縁は察する。

 綾瀬もまた、()()()()()()のだと。

 

「ねぇ、綾瀬。急な事だけど、お願いがあるんだ」

「え、なに?」

「綾瀬のピアノ、久しぶりに聴かせてくれないか」

 

 右手で部屋のピアノを指差して縁が言うと、綾瀬はすぐに笑って答えた。

 

「オーケー! ……と言っても、あたし最近弾いてないから、ちょっと上手くできるか分からないけど」

「問題無いよ、間違って弾いたって可愛いから」

「……45点」

「採点続いてるの!? 手厳しいなあ」

「そこは“きっと間違えたりなんてしない”て言って欲しかったの、もう……本当に乙女心が分からないんだから」

「な、なるほど……」

 

 複雑なのか、自分が疎いだけなのか。

 とにかく、綾瀬が満足する答えをすぐに出せる様になるには、今の彼には()()()()()時間が足りないのは間違いない。

 

「全くもう……それで、何を聴きたい?」

 

 先ほど両親の話をした時とは違い、純粋に呆れながらもピアノの電源を入れてから、気を取り直す様に綾瀬が尋ねる。

 少しだけ──この時間をほんのちょっとでも長くできる様に考えてから、縁はリクエストする。

 

「やっぱり、昔から聴いてるの、頼むよ。綾瀬の弾く曲でアレが1番好きだし」

「1番好きって言う割に曲名で答えないのね……まぁでも、分かるから良いか」

 

 そう言って、綾瀬は楽譜を思い出す様に瞳を閉じて──瞼を開いたのと同時に、指を動かし始めた。

 

 瞬間、綾瀬の奏でるピアノの音色が部屋中に広がっていく。

 防音が施された部屋は一切を外に漏らさず、綾瀬の音の一つ一つが、縁に届いた。

 

 ピアノを奏でる綾瀬の身体は僅かに揺れていて、その手は寸分の狂いもなく鍵盤を叩き、その足は適宜ペダルを踏み込み音色に彩りを与える。

 

 その姿を──その四肢を、縁は瞬きも忘れて見つめる。

 真剣に、それ以上に楽しそうにピアノを弾く綾瀬の姿は、縁の目には輝いて見えて。

 まるで、天使の様だった。

 

「そうか……俺をここに連れてきてくれたのは……」

 

 ポツリと漏らした縁の気づきは、ピアノの音の中で瞬く間に溶けて消えた。

 

 それから数分後、全くミスも無いまま曲を弾き終えた綾瀬は、少しだけ滲んだひたいの汗を手の甲で拭ってから、縁に言った。

 

「どうだった? あなたのリクエスト。久しぶりにしては、中々の物だったと思わない?」

「最高だった。本当に……ごめん、言葉が出てこないや。これじゃまた赤点かな」

「……ううん、100点満点の反応」

「そっか……はは、良かった」

 

 そう言って縁は椅子から立ち上がると、スタスタと綾瀬の隣に座る。

 恋人の急な行動に戸惑いながらも、隣り合った状態からは離れずに、そのまま聞いた。

 

「どうしたの? くっ付きたくなった?」

「それもそうだけど……ほら、俺昔この曲教えてもらったじゃん」

「あぁ……そんな事もあったわね。あなたったら、もう少しで覚えられそうな所で飽きちゃって」

「うん。だから改めて、教えて欲しいな。簡単な……連弾の引き方」

「……うん、分かった」

 

 疑問も質問も無く、綾瀬は頷いた。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 それからどのくらい経ったのか、時間の感覚溶けた2人の空間は何者の邪魔も入らずに、優しく2人を包んでいる。

 人並みの音感と、昔僅かに培った基礎を思い出しつつ綾瀬に教わった縁は、拙いながらも綾瀬と連弾できる様になった。

 

「それじゃあ、やってみる?」

「うん、行こうか」

 

 短い会話の後、今度は2人の連弾が、部屋を染めた。

 綾瀬の音に併せて、自分の音を重ねていく。

 綾瀬もまた、そんな縁の音に自分の音を織り交ぜる。

 別々の指から奏でられる旋律は、一つの音となり、2人を包み込む。

 

 まるで、2人だけの天国にいる様で。

 自然と、2人は笑った。

 

 やがて曲が終わり、2人は息を整えてから、肩を寄せ合う。

 

「……凄い良かった。こんなに楽しく弾けたの久しぶり」

「綾瀬が教えるの、上手だからだよ」

「ありがと……これで覚えたわよね、もう忘れないでしょ?」

「うん。2度と忘れない」

 

 2人で奏でた時間を。綾瀬に教えてもらった弾き方を。

 現実から手を伸ばして、この世界に連れて来てくれた彼女が、この部屋で与えてくれた全てを。

 

 未練と思い出が生み出した世界の中で、ただ一つ新しい物を、縁は現実に持ち帰るのだ。

 

「じゃあ、平気ね。これからは……あなただけで、大丈夫」

「……あぁ、もう大丈夫だ」

 

 声が震えるのを、涙が溢れるのを、縁は我慢出来るわけも無かった。

 この瞬間に至るまで、何人と別れてきたと思う。

 咲夜、ナナ、ノノ、悠、せんり──そして渚。

 積み重なった惜別の最後を前に、壊れない涙腺など縁は持ち合わせていない。

 

「……もう、またそんな風に泣いて。昔から変わんないんだから」

 

 それは偶然か、あるいは。

 あの時と同じ言葉を、綾瀬は言った。

 

「ほら、顔こっちに向けて?」

「──え?」

 

 クスッと微笑んで、綾瀬は半ば無理やり縁の顔をぐいっと引っ張ると、胸元に寄せて──そのまま抱きしめた。

 

「泣いてるあなたも好きだけど、きっとあたしが守ってあげるから安心して。何も不安になることなんて無いの」

「……っ!」

 

 あぁ、何度こうして優しい綾瀬の胸で泣けたらと、夢に思っただろう。

 最後にそんな所まで、彼女にすくわれた。

 ──だったらもう、こちらが安心させてあげなくちゃ。

 

 お別れの曲はとうに流れ終わった。

 旅立ちの時が──縁自身の未練を、消し去る時が来たのだ。

 

 綾瀬の背中に手を回し、同じ様に抱きしめる。

 それに応える様に、そして嬉しそうに、綾瀬はいっそう力を込めて、縁を優しく抱きしめる。

 

 お互いの瞳に相手の顔を写して、最後の言葉を交わし合う。

 

「ねぇ、縁──大好き」

「あぁ──綾瀬」

 

 あの時、言えなかった言葉。

 

「愛してる」

 

 もう一度だけ会って、そう言いたかった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……お兄ちゃん? どうしたの?」

 

 気がつけば、縁は交差点の──とっくに青信号になっている横断歩道の前で立ち惚けていた。

 

 右隣で心配そうに自分を眺める渚の言葉で我に返ると、取り繕う様に手振りを加えながら、縁は応える。

 

「あぁ、ごめんごめん。ちょっと考え事してた」

「信号が青になっても気づかない様な考え事? 気になるわね、言ってみなさいよ」

 

 渚と反対の左隣から、呆れた声で言うのは咲夜だ。

 

「それよりほら、渡る方が先だよみんな」

 

 急かすように手を叩きながら悠が言うと、慌てて3人も歩き出す。

 青信号が点滅し始めた所で渡りきった後、改めて咲夜が尋ねた。

 

「それで? 何考えてたの?」

「ヤケに引っかかってくるな、君……そんな気になる?」

「当たりま──じゃ無くて、いいから聞かれたことに答えなさいよね!」

 

 一つの発言の中で簡単にコロコロ表情を変える咲夜が面白くて、つい揶揄ってしまう縁だが、これ以上やると咲夜は不貞腐れるし、渚もヤキモチを焼き始めるので我慢する。

 

「受験のこと考えてた。もうすぐ夏が近いし、夏期講習とかやっとかないとなぁって」

「はぁ!? アナタまだ2年生じゃない、来年考える事でしょうそんなの」

「いやぁ、大学受験は高2の夏で差ができるって言うからさ」

「そんなの、志だけ無駄に高いの押し付けてくる自称進が言ってるだけよ。庶民らしく素直に夏を楽しむとかって考えにならない方がおかしいわ」

「……君ってタマに変な所から知識持って来るよな」

 

 まさか『自称進』なるセンシティブワードを、咲夜の口から耳にするなど、縁は思いもよらなかった。

 

「だけど、次からはそう言う言葉使うのやめような。敵しか作らないから」

「ハッ、この程度で生まれる敵なんて相手にならないわよ。それよりアナタ、ちゃんと夏は遊ぶ事を考えなさいよね! じゃなきゃ……」

「……ん?」

 

 言葉が途中で止まり不思議がって咲夜を見ると、自分の口に手を当てていた。

 何やら言ってはいけない事を口走ろうとした事に咄嗟に気づいたのか、どこと無く慌てた雰囲気を漂わせている。

 藪蛇な事も分かっていたが、気になってしまった縁はつい、先を促してみた。

 

「……じゃなきゃ〜?」

「──な、なんでも無いわよ!」

 

 案の定、顔を真っ赤にさせて騒ぐ咲夜に、縁は心底楽しそうに笑うのだった。

 

 その後、事前に綾小路家の2人が手配していた帰りの車がある場所まで辿り着いた一行は、それぞれ帰る事に。

 本来なら、焼肉を食べた店の前に手配させる事も出来たのだが、食後に少し運動するのも兼ねて、街をぶらりと散歩していたのだ。

 

「それじゃあ僕たちはこれで。ほら、咲夜も挨拶」

「ふん、知らないわよバカ。バーカ」

「あぁもう……すっかり不貞腐れて。縁も揶揄い過ぎだったよ今日は」

 

 すっかりヘソが曲がり、咲夜は迎えの車に1人先に乗り込んでしまった。

 咎めるように話す悠に苦笑いしつつ、縁は小さく頭を下げる。

 

「ごめん、反応が派手だからついつい」

「君ねぇ……あんまりそう言う事してると、渚ちゃんもヤキモチ焼くし何よりも──その内取り返しの付かない事になるかもだよ?」

「……ハイ、気をつけます。でもその時が来たら助けてな?」

「ばか。ちゃんと節度持って揶揄うコト、良いね?」

「了解、親友」

 

 サムズアップしながら答える縁に、本当に分かっているのか不安が過ぎりながらも、悠は取り敢えず今日はここまでとこれ以上の追求はやめた。

 

「それじゃあまた学園で。今日はまだ陽も長いし、楽しい休日を、親友」

「おう。……またな」

 

 グータッチの後、悠も車に乗り込み、2人を乗せた外車が遠く離れるまで見送ってから、残った兄妹も家路に向かい歩き始める。

 

「……お兄ちゃん、ちょっと良い?」

「ん? ……あぁ、今日は咲夜ばっかり相手しててごめんな。つい」

「あっううん、それは良い──ってわけでも無いけど、言いたいのはそれじゃ無くて」

「?」

 

 渚が何を聞こうとしてるのか、見当が外れた縁は下手に口を開かず、素直に続きの言葉を待った。

 

「さっき、受験のことを気にしてたって言ったけどあれ、嘘だよね?」

「あー、うん。全然違うこと考えてた」

 

 特に否定や誤魔化しをするまでも無く、縁はすんなりと認める。

 何となく、渚なら普通に気づくと思ったからだ。

 特に驚きもしなかった渚は、その後に当然続く問いを兄に向ける。

 

「じゃあ、何について考えてたの?」

「うーん……」

 

 これには、先ほどの様に即答とはいかなかった。

 どう言えば伝わるか。会話が成り立つのか……少しだけ考えて、縁は答える。

 

「色々複雑、だけどざっくり一言で表すなら」

「なら?」

「未来のことかな」

「……それって、結局夏休みの過ごし方と同じじゃない?」

 

 訝しげに縁を見る渚に、軽く笑いながら、内心確かに言ってる事同じかもと思いつつ、言葉を続けた。

 

「そんなすぐ先の話じゃなくてさ。これから一年、十年、二十年……ずっと続く人生をどうすれば、幸せに生きていけるのかなぁって。そう言うの考えてた」

「そんなスケールの広い事、考えてたの?」

「うん。今のままじゃ幸せってのもママならないからな。どんな努力が必要なのか〜とか。ほら、アニメの主題歌でもあったじゃん、努力・未来──」

「お兄ちゃん、そのアニメ3話まで見て嫌って無かった?」

「アニメはな。でも原作漫画は好きだから。主題歌も良いぞ」

「……なんかお兄ちゃん、面倒臭いオタクみたい」

「ばっか、何事も原作に勝る物はそうそう無いんだから。本当だぞ」

「ちなみに、原作より良い物ってなに?」

「うぇ!? うーん……」

 

 ある意味、先ほどの問いより更に難しい事を聞かれた縁だったが、パッと閃いたのは一つだった。

 

「実写版20世紀少年、とか?」

「……あたし、見た事ない」

「だよな! あははは!」

 

 分かりきっていた答えが返って来たのでひとしきり笑った後に、改めて縁は話を締めるように言った。

 

「とにかく、お兄ちゃんは色々これから考えていかなきゃ駄目なわけです。この先ずっと、今のままの生活なんて無理なんだから」

「でもそうなると、あたしとお兄ちゃんもいつか、離れなきゃいけなくなるんだよね」

「……どうしてそう思った?」

「だって……お兄ちゃんはいつか、この街を出ていくつもりなんでしょ? 例えば大学生になったら、東京とか」

「その可能性はあるかもな」

「だったら、そのときどう頑張ってもあたしはまだ中学生だもん。一緒には居られないもん」

 

 その通り。確かに縁が地元ではなく東京への進学を決めて、向こうで一人暮らしを決めた場合、渚は一人で暮らす他ない。

 無論、東京までついて行き、電車で通学する手段も渚は厭わないだろう。だがそんな強行軍を、両親が許すはずが無いだろう。

 早くて2年後には、渚は兄との別れを覚悟しなければならないのだ。

 

 もっとも、渚の想像通りならの話だが。

 

「別に、俺が東京に引っ越すとも限らないじゃん。そもそも東京の23区内だったら、家から電車で行ける距離ばかりだし」

「えっ、そうなの!?」

「大学って自分でどの講義受けるか決められるから、わざわざ朝イチのさえ履修しなきゃ、遅めでも構わないワケです。だから実家通いも大学次第で可能ってわけ」

「じゃあ、お兄ちゃんが卒業してもずっと一緒に居られるの!?」

「……そう言う未来も、可能性としてアリだって話」

 

 暗い未来予想図が一転、明るい希望が見えてきて、渚の顔が綻ぶ。

 

「それだったらお兄ちゃん、頑張って家から通える良い大学を目指そうね! あたし、応援するから!」

「だからまだ可能性の──まぁ、良いか」

 

 喜ぶ妹の気持ちを損なってまで、わざわざ否定する様な話でも無い。

 それに──、

 

「ずっと一緒だって、言ったもんな」

「え?」

「いいや、こっちの話」

 

 そう言って縁は、自分のポケットからあるものを取り出す。

 

「あ、さっきあたしが渡した飴。まだ食べてなかったんだ」

「うん、今食べるよ」

 

 自分をここに繋ぎ止めてくれた、妹との絆。

 特別な包装も何も無い、ありふれた飴玉を、縁はやっと口に含めた。

 

「パインドロップだ」

「お兄ちゃん、その味苦手だった?」

「いいや、慣れてないだけ。ハッサクと同じくらい好きかな」

「それ、好きなの?」

 

 柑橘系とはまた違った趣のあるすっぱさと、ほんのりとした甘い後味が口内に広がる。

 だんだんと溶けていくパインドロップが全部無くなった後、彼の未来にどんな出来事が待ち受けているのかは、誰にも分からない。

 

 幸せの定義も、どんな未来を生きたいかも、結局答えは出てこないけれど。

 まだたったの17歳に、そんな大それた事が見つかるはずもないんだから、気にするな。

 

 取り敢えず、今縁が決めるべき事は、すぐ目の前にある。

 

「まだ時間あるし、2人でどっか寄って帰るか?」

「うん、ご飯は要らないから、それ以外で行こう!」

「じゃあ服屋にしよう。渚に新しくマフラー代わりのもの買うよ。通気性の良いやつ」

「あたし、マフラー(これ)でも充分だよ」

「俺が買いたいんだ、駄目かな」

「……ううん、ありがとう。それじゃあ行こう! 善は急げだから」

 

 縁の手を掴み、急かす様に前を歩き出す渚。

 引っ張られる様に歩きながら、縁はついでとばかりに言った。

 

「あ、あとさ……良い加減綾瀬とも仲直りしたいんだけど……何か仲直りに渡すべき小物とかも、教えてくれたら嬉しい……」

「お兄ちゃん……??」

「……なんて、だめかな、ははは……はは」

 

 繋いだ手の温度が、こちらを見る渚の視線が、みるみると冷えていくのが嫌でも分かった。

 

「もしかして、そっちは本命なの……?」

「いやまさか! そんな事ないよ! ただ」

「ただ、なに?」

「俺、どうもその辺の乙女心がどうしても赤点みたいでさ……なりふり構ってられなくて」

「……はぁ、確かにお兄ちゃんは女の子の気持ち、全然分かってないね。誰がお兄ちゃんにそう言ったのかは分からないけど、気が合いそう」

「……うん、たぶん合うんじゃないかな」

「あのね、お兄ちゃん。こう言うのは物で釣る事じゃ無いの。綾瀬さんのために言いたくなんて無いけど、もし仲直りしたいなら、言葉で伝えなきゃ意味ないよ?」

「じゃ、じゃあ──直接、だよな。もちろん」

「答え言わなきゃ分からない?」

「分かります!!」

 

 あぁ、今己が身をもって、縁はよく理解した。

 彼の記憶や思考に触れない本来の野々原縁──ヤンデレCDの主人公とは、これほどまでにクソボケだったのだと。

 ヤンデレよりも最大の敵は、女心に無神経な自分自身だと言うのだからこれは、幸せな未来になる上で大きな課題だと感じた。

 

「……はぁ、しょうがないなぁ。敵に塩を送るみたいで嫌だけど、ここ最近のウジウジしてるお兄ちゃんも見てて嫌だったし、今から綾瀬さんに会いに行って、仲直りしてきたら良いよ」

「……ごめん。絶対今度埋め合わせするから、約束!」

「絶対だよ?」

「もちろん!」

「じゃあ……行ってらっしゃい、お兄ちゃん」

「あぁ、行ってきます!」

 

 野々原渚史上最大の譲歩をもらい、縁は慌てて綾瀬の家に(進路上渚も同じ道を歩くが)駆け足で向かいつつ、スマートフォンを手に、彼女の電話番号を表示する。

 通話を選べばすぐに綾瀬と連絡が取れる。

 問題は、彼の覚悟だけ。

 

 複雑な事情が拗れに拗れた結果、先日に大きな喧嘩をして以降、クラスも違う綾瀬とは、全く会話をしていなかった。

 その上で、自分から連絡を入れると言うのは、やはりそう簡単な事では無い。

 

 だけど、縁は決めたのだから。

 たとえこの先失うとしても──いいや、失わないためにこそ。

 こんなちっぽけな理由で、臆するわけにはいかない。

 

 走り続けて、後ろを振り返っても渚が見えなくなるくらい進んで、それでも走り続ける。

 その間もパインドロップは、タイムリミットの様に溶けていく。

 

 やがて綾瀬の家が見えてきた縁を止め、彼女が居るだろう2階を見上げてから。

 縁はスマートフォンに表示させていた『通話』に指を置く。

 パインドロップは──あの世界との最後の繋がりは、とっくに全て溶けていた。

 

 2コールを待たず電話は繋がり、()()()()の声がスマートフォン越しに届く。

 

『……もしもし』

 

 困惑と喜び、それらが混ぜこぜになった綾瀬の声を聴いて。

 縁は幸せな未来に進むための第一歩を、()()()()踏み出した。

 

 

 欲しかったのはハッピーエンド。

 

 手に入れた結末はまだどうなるか分からない、絶望と希望の紙一重。

 

 だからこそ、未知と可能性に溢れた世界で俺は生きていく。

 

 今際の際で交わした、約束があるから。

 

 俺の中で今も燦々と輝く、愛しい人々の思い出と共に。

 

 幸せになりたいからね。

 

「あのさ、綾瀬──」

 

 

 

 The end

 To be continued.

 However, only he knows what lies beyond.

 







活動報告にて後書きを書きました。
バイバイ

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