【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた 作:食卓塩准将
駆け抜けていく背中が、遠ざかっていくと共に薄らいでいく。
何の躊躇いも迷いもなく、振り向く事なく走り抜けて──やがてその姿は完全に消えていき、芒洋とした空間には頸城縁1人だけになった。
「はぁ……行ったか」
浅く、長いため息をこぼす縁。
その表情は肩の荷が降りた様な、安堵に満ちている。
一緒に生きた時間は1年にも満たないが、まるで10年以上共に過ごした様な相棒は、本来在るべき場所に帰っていった。
「……にしても、本当これからどうなるんだろうなアイツ」
野々原渚も、河本綾瀬も、0から相手するにはあまりにも大変な存在なのは今更言うまでもなく、この先が波乱に満ちたものであるのは容易に想像できる。
「柏木園子を見捨てれば、だいぶ楽にはなるんだろうけど……無理だろうなぁ」
野々原縁はいい加減なところや流されやすい所もあるが、こと恋愛に絡みさえしなければ善良で優しい心を持ち合わせている。
たとえ巻き戻る前の日々が無くなったとしても、野々原縁の思い出は無かったことにならない。きっとまたいじめから助けようとするだろう。そうなれば必然的に渚や綾瀬を納得させる必要が出て来て、よほどうまく立ち回らなければ渚との大喧嘩の再演も避けられない。
逆光物と似たようなシチュエーションが待っているのにも関わらず、全く楽になってるとは思えない彼の状況を鑑みて縁は苦笑する。
全く、笑えるほど平穏とは縁の無い人生だ。
それでも頸城縁として、彼が野々原縁に出来る事は全て果たした。今から新たに出来る事は何も無く、彼自身やろうとも思わない。
精々、野々原縁の未来に幸が在らんことを祈る、それだけ。
「さて……どうしようか」
残る問題はただ一つ、自分自身のこの後。
野々原縁は生者故に、生きとし生けるものの世界へ帰った。
では、死んだ頸城縁は何処へと向かうのか。これが分からない。
「神も仏も天使もへったくれもねぇしなあ。誰か迎えに来るわけでもねえし、三途の川すらありゃしない」
仮にこの後自分に死後の世界が用意されていて、そこに神様と呼べる存在が居るならば、自分の運命を散々なものにしてくれた“お礼”をしたいと思っている縁だったが、生憎その手の物が待ち受けてる気配も感じない。
「もしかしたら、永遠にこのままってオチはねえだろうな。実はここが狭間とかじゃなくて、正真正銘のあの世でした、とか」
だとすれば、間違いなくここは地獄の類だろう。仏教や西洋の宗教で描かれている様な身体に苦痛を伴う物では無いものの、何もない空間で孤独な時間を過ごすのは、いずれ精神を苦しめるものに違いないのだから。
「そういえば一応、初瀬川とか殺してるんだっけ俺……殺す気で叩きのめしたけど、動かなくなっただけで死亡確認してねえからなあ、死んだのかなアレ。それなら地獄行きもやむなしか」
過去の行いを想起して、どうせ誰も聞いていないのだからと独り言を延々と続ける縁。
事実、ここは足音すらしない無に満ちた誰も居ない世界。
いや、世界と呼べるかも分からない
そんなところで何を言おうが構いやしない。
むしろ、文句を言える奴がいるなら出て来てみろ。
そんな気持ちで、彼は言葉を続ける。
「それにしたってさ、もったいねえよな。あーんなに頑張ってさぁ、誰も死なせないで河本綾瀬と付き合う所まで行きつけたのに、それがぜーんぶリセットって。今までの時間が全部無駄になってるような物じゃん」
野々原縁と同化してる間は口にできない事を、もはや当事者では無くなった故に、心の底から言い放つ。
しかしそれは、単なる暴言ではない。かつて当事者であり、そして誰よりも傍で野々原縁の行動を見てきた視聴者/読者であった彼にしか言えない言葉でもある。
「あぁ、本当に惜しい、口惜しいよ。よくアイツは小鳥遊夢見を助けようなんて思ったもんだ。俺だったら──」
俺だったら、その先の言葉が喉から先まで出かけたが、すんでの所で押しとどめた。
「……そうだよな。それが出来るから、アイツはきっと最後には幸せを掴めるんだ」
最終的に他人の不幸を望むか、助けようとするか、その違いで人間の行く末も大きく変わる。
頸城縁には他人のために最後まで何かを貫けるような気概が無かった。あらゆる理由や理屈を付けてそれらしい言い訳をこしらえても、奥底には自分が楽になる事を考えた。だから大切な人だと思っていた幼なじみを失った。
当然、そのような考え方に至るまでの人生における障害や過程は幾らでもあった。自分は不幸な人間だと言う自覚は強く持っているし、それを他人に否定される謂れは無い。
だけど、そうだとしてもきっと。
自分は世界に対する不平ばかりを訴えすぎて、人として、他者とのつながりを持つために必要な──致命的な何かを失ってしまったのだ。
「だったらやっぱり、俺にはここがお似合いかもな」
他者を拒絶してしまった者は、何もない所で永久に。
誰が決めたかは分からないが、呆れるほど有効な罰だ。
そうやって、彼が自分の在り方を受け入れたその時。
「おいおい、マジで……?」
唐突に頬に感じた、冷たい感触。
それが何なのか、縁はすぐに理解して──苦笑した。
「おいおい、死んでまで雨に濡らされるのかよ」
その言葉を肯定するかのように、音の無かった世界に、雨音が敷き詰められる。
当然、縁には傘など無い。
生前の彼にとっては不幸の前触れの様であり、死ぬ時も降った雨に、着の身着のまま死んだ後も濡らされる。
「くは、ははははは……なんだかなぁもう。こんな時までお前だけは俺に付きまとってくれるのか」
本当なら悪態をつくところだったが、
「いいさ、降り続けろよ。それで一生晴れるな。死ぬ時も死んだ後も、俺をそうやってずぅっと水浸しにすりゃあ良い」
忌々しい雨も、相応しい罰だと受け入れた。
そうだ、いっそ死んだ時と同じように大の字になって、本当に溺れてしまおうか──そんな自暴自棄な事すら思いついたその時。
耳朶に響く音が、変わった。
「……?」
最初は、何が起きたのか分からなかった。
だけど自分が濡れていない事、そして頭上でささやかだが確かに、何かが雨を弾く音がしてるのを認識して、彼は空を見上げて──言葉を失う。
視界には、色があった。
この世界を満たしていた灰色ではない、ドーム状の水玉模様。そしてそれを支えるかのように伸びた幾本の金属製の骨。
それが何なのかは分かっても、“傘”だと脳が理解するのは困難だった。
当然だ、この世界は自分しか居ないハズで、先述の通り傘なんてものは持ち合わせていない。だからここに傘があって、しかもそれが自分を雨から守ってくれているというならば。
それは誰かが、自分に傘を差し伸べてくれているからに他ならない。
そんなはずは無い。野々原縁はとっくに帰って行った。だから、この世界にはもう誰も居ない。居ないハズ。
でも、確かに今自分は誰かが持ってる傘の下に居る。
じゃあ、いったい誰が──その疑問に答える様に、優しい声が彼の耳朶に届いた。
「もう、風邪ひいちゃうよ? おにいちゃん」
あり得ない。
誰の声なのかはすぐに分かった。分かったからこそ、あり得ないという言葉しか出てこない。
だってこんな場所に、自分なんかの所に、その声の持ち主が居るわけが無いのだから。居ていいはずがないのだから。
だが、そんな否定の言葉を幾ら並び立てて城のように積み上げても、脳が聴きとって認識したその声は紛れも無く、自分が否定しようとしてる人物の声に他ならなかった。
野々原縁ではない、頸城縁である自分を“おにいちゃん”と呼ぶ人間は、後にも先にもたった一人しか居ない。すなわち──。
「……お前、なのか」
震える声で縁は問いかける。
「うん、そうだよ」
太陽のように明るい声で、彼女の声がすぐそばから聴こえる。
「何で、ここに居るんだ」
頭上を見上げた視線をそのままに、縁は尋ねた。
「ずっと待ってたから」
当然のように、彼女は答えた。
「……待っててくれたのか。俺を?」
「うん、待ってたよ」
「……どうして」
「きっと、おにいちゃんは此処に留まっちゃうと思ったから」
「あんな酷い事をしたんだぞ、俺は。お前を拒絶したのに」
「拒絶しなかったから、ずっと後悔してくれてたんでしょう?」
「──っ」
思ってもいなかった。そんな言葉を、本人から言われるだなんて。
「ずっと。ずっとずっと、後悔し続けてたんだよね。自分を責めてたんだよね……苦しめちゃったんだよね、アタシが」
「──違う!」
衝動的に声のする方へ顔を向けようとして、しかし理性がそれを拒み、縁は顔を伏せて悲痛な叫びを上げる。
「違う、お前は何も悪くない。全部俺のせいなんだ、俺がちゃんとお前と向き合う事をしなかったから、だからお前を……」
「だったら、今度はちゃんとアタシを見てくれる?」
「……っ」
そっと、自身の右手を優しく握る感触が縁に伝わる。
「おにいちゃんが自分に責任があるって、罪があるって思うのを否定しない。でも、アタシはそんなおにいちゃんでも一緒に居たい」
「……ろくでもない奴なんだぞ、俺」
「アタシはそう思わないかな」
「他の女の子に恋もしたんだぞ」
「……ちょっとイヤだったけど、いいもん。これからアタシが惚れさせて落とすから」
「そいつぁ、凄いな……」
本当に、何から何まであの時と変わらない。
自分が拒絶し、失った幸福の形がそのままで、今自分のそばに居る。
その事実が嬉しくて、ただひたすら嬉しくて、気がつけば縁の瞳には溢れるほどの涙が溜まっていた。
縁が泣いてる事に気づいてもその事には触れず、少女は言う。
「そうだよ。アタシはおにいちゃんが思ってるよりずーっと凄い女の子なんだから。だから……」
元気溌剌な声から一転、少女は懇願した。
「そろそろアタシ、ちゃんとおにいちゃんの顔みたいな」
「……ちょっと泣いてるから、不細工だぞ」
「良いの。泣いてるおにいちゃんでも」
「……分かった」
彼女が良いと言うなら、それで良い。
もう縁が彼女の願いを、言葉を、想いを拒絶する必要は無い。
とは言え、ほんのちょっぴりだけ顔を覗かせた自尊心に従い腕で軽く目元を拭ってから俯いていた顔を上げて、彼は隣に立つ少女──瑠衣を見た。
縁の瞳に映る幼なじみは、縁と同じ様に目に涙をためながら、それでも満面の──生前彼が1番好きだった笑顔を浮かべて見せた。
「お久しぶり、おにいちゃん」
そんな彼女に対して縁も、これまでの日々を経てようやく見せる事が出来た、彼なりの笑顔で返す。
「久しぶり、瑠衣」
雨は降り続いている。
灰色の世界を埋め尽くさんとするばかりに、雨は2人に降り注ぐ。
だが水玉模様の傘はしっかりと2人を覆い隠して、ただの一雫も当たる事は無い。
やがて2人は一つの傘の下、並んで歩み出す。
言葉を交わして、想いを伝え合って、笑みを見せながら、ゆっくりと歩く。
灰色の世界が何処まで続いてるかは2人にも分からない。
だけど、たとえ終わりが那由多の彼方まであったとしても、逆に目と鼻の距離だとしても、2人にとっては変わらない事だ。
生きてる時には運命の悪戯で交わる事の無かった2人の時間は、今ようやく繋がり、重なって、紡がれていくのだから。
「ねえ、おにいちゃん?」
「なんだ?」
「こうやって相合傘するの、初めてだね」
「……そうだったか?」
「そうだよ、おにいちゃんいつも恥ずかしがってたもん。アタシはいつでもしたかったのに」
「雨が嫌いだったからな。濡れるのも」
「じゃあ、今もこうして歩くのは嫌い?」
「いいや……悪く無い」
「本当?」
「雨が降る日はいつも、嫌な事ばかりあったけど、初めて良い事があったよ」
「そっか、そっか……あたしも!」
雨は降り続いている。
空白ばかりだった2人の時間を埋める様に。
離れ離れだった2人の距離を縮める様に。
「ここに来るまでの話を聞かせてよ。どんな人達と、どんな事をしたのか。おにいちゃんが好きになっちゃった人の事も」
「最後のはちょっと恥ずかしいけど……結構長いぞ、退屈しないか?」
「うん、大丈夫。聞きたい」
「オッケー。最初は4月の中頃なんだけど、俺が目を覚ましたら──」
雨は降り続いている。
2人を優しく包む様に。
2人を引き裂くものを阻む様に。
やがて雨が晴れた後、そこに2人の姿はもう見えず、てらてらと雨粒が付いて光ってる傘が、丁寧に閉じられて灰色の床の上にあるだけだった。
──もう、雨が降る事は無い。