【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた 作:食卓塩准将
それでは、始まりはじまり
柏木園子が学園を欠席した。
その事実を知ったのは、未だに熱が引かない渚を寝かしつけて、昨日より早く教室に着いた後……ではなく、朝のホームルームが終わった後。 一時限目が始まるまでの十分間の業間休みの時だった。
俺にその事実を教えたのは、今日も今日とて頭のリボンが可愛らしい幼馴染では無く、人間百科事典とも言える情報量を誇る親友でも無かった。
そもそも、いつもは俺よりずっと前から教室に居て、俺に挨拶をしてくる親友は、今日珍しく俺よりずっと遅く、朝のチャイムが鳴る寸前に教室に入って来た。 生真面目とまでは行かないものの、基本校則に従順な人間だけあって、俺だけじゃなく、他のクラスメイトも珍しがる事だった。 そんな親友に対して俺は、ホームルームが終わった後、昨日手に入れた柏木絡みの情報を伝える為に、そして遅刻しそうになった理由を尋ねる為に、幼馴染──河本綾瀬と共に親友のもとへ向かった。 そんな俺達に、親友──綾小路悠はこう言った。
『今日の昼休みに、二人に言わなければならない事があるんだ、空き教室に集まってくれるかな』
空き教室とは、以前俺が柏木いじめの主犯──そうと決まったわけでは無いが、とりあえず主犯っぽい女子生徒、早坂真弓に呼び出された無人の教室の事だ。 突然の申し出に、首を傾げた俺達であったが、話の内容はその時に話すと言うとそれっきり黙ってしまい、どこか話しかけにくい雰囲気だった為に、遅れた理由を聞くのも止めて悠の言う通りにする事にした。
それが、今からちょうど一分二十六秒ほど前の事である。
じゃあ今俺は何をしているのかと言うと、なんと悠との約束より早く、別の要件で空き教室にいた。 そして、そこに俺を呼び出した人物から、柏木園子が休んだ事を知らされたのであった。
その人物は他でもない、早坂真弓だった。 先にも名前を挙げた、柏木いじめの主犯から直接柏木の欠席を教えられた事になる。 何故わざわざそんな事を俺に話したのか、当然疑問に感じたが、それを追及するまでも無く、本人の口から理由は説明された。
曰く、今まで何をされても決して学園を休む事が無かった柏木が、今日初めて休んだので、俺が何か余計な事を言って自分たちを嵌めようと、画策してるのではないかと探りに来た、らしい。 今まで散々──自覚の有る無しに関わらず、学園を休んでもおかしくない事し続けていた筈なのに、よくそんな事を人に聞けるもんだ。 『自分ではそんなつもりは無かった』、これはどのいじめをする人間も思っている、共通の言葉のようだ。
「ちょっと、黙ってないで何か言いなさいよ」
「……ん? あぁ、スマンスマン」
いけない、まだ聞かれた質問に対して返答をしていなかった。 あんまりにもあんまりな質問だったから、答える事すら躊躇われてしまった。 正直な話、こんなバカみたいな話にいちいち付き合う義理は無い、その気になれば黙って自分の教室に戻る事だって出来る。 だが、せっかくこうして柏木問題の中心人物が目の前にいるのだから、ここは少し踏み込んで、『いじめをしている側』の主張も聞いてみるとしよう……胸糞悪くなる事は避けられないだろうがな。
「俺が何か言ったんじゃないか、そう言う質問だったな?」
「さっきからずっとそう言ってるでしょ? 何、アンタ耳悪いの?」
「いちいち悪口挟むなよ、舌打ちしたくなるだろ。 ……で、お前の言う『何か』ってのは、具体的にどういう事だよ」
「ハァ? 言ってる意味がわかんないんですケド? 日本語で話してくんない?」
だからその最後の一言がいちいち気に障るから止めろって言うんだよ、言葉の最後に相手を貶さないと死ぬ病気でも患ってんのかお前は。 売り言葉に買い言葉で口にしたくなる衝動を抑えながら、俺は用意した言葉を、努めて冷静に早坂へ投げかけた。
「じゃあ分かりやすく言うよ。 お前らにとって俺に言われたら困る言葉って、どんな内容なんだよ。 どんな言葉を言われたらお前ら三人組は困るんだ?」
「益々意味わかんないし。 馬鹿なの?」
「こっちこそ、柏木に何か言ったんじゃないかって言う質問自体、俺に聞いてどうすんの、馬鹿じゃねえのって言いたいんだが」
あ、言っちゃった。 けどまぁいいや、言ってもどうせ大した事じゃないし。 渚は家にいるから何かされる必要も無いし。
「あ、ひょっとしてアレか?」
「アレって何よ」
「自分たちのしている行動が、他人に知られたらマズい行為だって、分かってるのか」
「何それ……さっきからウザいんだけど」
ウザいんならわざわざ呼び出すなよ早坂。 こっちだってお前なんかと朝っぱらから会話なんてしたくないんだからさ。
言葉こそ強気な物だが、今の早坂は明らかに態度に変化が生じている。 まるで図星を突かれた時の動揺に似ているが、この場合においての『図星』は『自分たちがいじめを行っている事』だから、あくまでもいじめはしてないと考えているコイツにとっては、図星を突かれたというのは間違いかもしれない。
「というかお前、さっきからハァだのウザいしか言ってないけど、本当に日本語理解出来てないの、お前なんじゃね?」
わなわな、という表現がとても似合う仕草をしながら、早坂の顔が段々と熟れた歯肉のように赤くなっていく。
まあ流石にここまでコケにされたら頭に来るだろうさ。 直後、苛立ちを隠す事も無く早坂が怒鳴った。
「さっきから生意気なのよアンタ、シスコンの変態なくせして!」
「シスコンでも無ければ変態でも無い、同級生だから年齢も同じ、どこに生意気なんて要素があるんだ? 一度単語の意味を調べた方が良いぞ」
「その一言が余計だって言ってんのよ、アンタ、自分の妹がどうなっても良いの?」
「一言が余計だと言うのは、今のお前に見事なまでにブーメランしているんだが? 渚はまぁ、現在風邪で絶賛自宅療養中だから暴行脅迫その他諸々やれるもんならやってみな、どうぞ。 幾らでもご自由に」
「……ッチ!」
ことごとく自分の言葉や脅しが躱されて、遂には舌打ちまでする始末。 整った顔立ちが台無しだと言いたくなったが、半分以上自業自得だし、煽ってる俺に言われてもかえって逆効果にしかならないのでやめた。 というより俺が舌打ちしたいくらいなんだから、お前も我慢しろよ。 俺の質問にだって論点すり替えて答えないし、まあ質問に質問で返した俺も悪いかもしれんが。
「と言うか、たった一日来なくなっただけでそんな焦るくらいなら、始めから柏木に何もしなけりゃいいだろ」
「何、あたしらが悪いって言いたいわけ?」
──来た、この言葉が欲しかったんだ。 今の一言は自分たちに非が有ると思っている人間には決して口に出せない言葉だ。 ここから早坂の考えている事、主張を聞き出そう。
「違うのか? というか、お前らは自分のしている行動に疑問を持っていないのか」
「はぁ? あたし達が園子にしている事のどこに、疑問を挟む余地があんのよ」
「無いと言うのか? まるっきり悪くないと?」
「そうよ」
「悪いのは一切合財が柏木だけで、自分たちは常に正しいと?」
「しつこい、さっきからそう言ってるじゃない!」
こいつは……。 本当に去年、園芸部の顧問が学園を去ったのは柏木が何かしたせいだと信じているのか。 ここまで念を押されて尚、ハッキリ言い切るぐらいだ、よほど自分の考えに自信があるんだろう。
「だが、実際問題、お前らがしてきた事が原因で、今日柏木は休んだんだろ?」
「知らないわよそんなの、あんたが余計な事吹き込んだか、アイツが勝手に休んだかってだけじゃない、何でアタシらのせいになんのよ」
「自分たちに非が有ると思っていたからこそ、俺が何か余計な事を吹っ掛けたんじゃないかと思って、聞きに来たんじゃないのか?」
「……ッ、それは……」
再び言葉に詰まる早坂。 だが先程ほど時間が掛からない内に、早坂がもう話は終わりだと言うように言い放つ。
「ふざけないで……悪いのは、被害者ぶったアイツの方なんだから!!」
「あ、おい……、行きやがった」
捨て台詞を残して、早坂は逃げるように空き教室を出て行った。 いや、『ように』では無くまんま逃げか。 時間的にもあと数分で一時限目が始まるから、まぁちょうど良かったのではあるが……。
それに、最後の最後にようやっと、アイツの本当の主張を聞く事も出来た、試みは成功したと言えるだろう。 当然、予想した通りに胸糞悪い気分にはなったが。
「悪いのは、被害者ぶったアイツ、か……」
悪い事をしているのは、というより、先に悪い事をしたのは相手の方だ。 だから自分たちが今している事は、その悪い事に対しての罰である。 決して自分たちに非が生じるような事では無い、非があってはならない、もうここまで来たらそう信じるしかない。 きっと、それが早坂達の考えている事なのだろう。
今の言葉の応酬の中で、早坂に本当の事を言おうと思わなかったワケでは無い。 もし俺が真実を早坂に話して、早坂がそれを信じれば、それだけでこの件は解決したかもしれないのだから。 だが、俺はそうしなかった、『真実を話す』という選択肢を、俺は選ばなかった。
何故なら、たとえ言っても、こちらにはそれを裏付けさせる程の確たる証拠がまだ無いから。 早坂が園芸部の顧問に直接尋ねれば信じるだろうが、それはあり得ない事。 今は何を言っても無駄……そう思ってはいるのだが。
「……やっぱ、言えば良かったかもしれないなぁ」
もし、今の俺の立場に立って物を視る事が出来る──例えば、俺を中心とした物語があって、俺の行動や、周りの物事を客観的に観ている/読んでいる人がいたら、今の俺をどう評価するのだろうか? 共感するか、完全に納得は出来なくても納得するか、もしくは非難するか……益体の無い考えではあるが、俺には最後の評価をする人が多い様な気がした。
「……そうはいっても仕方がないよな、それが俺の決めたやり方なんだから」
頭の中でアイススケートのようにクルクル踊る、『偽善者』という単語を意識から追い出しながら、俺は自分の教室に戻った。
「──あ、縁!」
教室に戻ると、俺を待っていたのか、綾瀬がすぐさま駆け寄ってきた。
「大丈夫だった? さっきの、早坂さんだったでしょ、何言われたの?」
「うん、柏木が今日、学校を休んだらしい」
「え!?」
「で、俺が何か入れ知恵したんじゃないかって探ってきた」
「そうだったんだ……まあ、あながち間違いでも無いけど……」
「……まぁね」
今更ながら早坂のしてきた質問に対する答えを言うと、俺の回答は『そうとも言える』だ。 なんとも日本人らしい、曖昧で奥深い言葉だろうか。
別に柏木に『学園を休め』だとか、『早坂達に復讐しろ』だの唆してはいない。 だが、確実に柏木の心情に変化を与える行為をした事は否めない。
『どうして、園芸部には柏木さんしかいないのか、その理由をだよ』
『そして分かったよ、どうしてあいつらがあんたをいじめるのかも』
『だけど、一つだけ分からない。 どうして、あんたは本当の事を早坂達に言わないんだ? 何で悪いのは自分だなんて言うんだ?』
以上のように捲し立てて、俺にずっと自分の胸の内にしまっていた事を次々と明け透けにされてしまったんだ。 聞いた本人が言うのもなんだが、確かにショックで学園を休んでもおかしくは無いかもしれない。 それにしても、学園を休む理由がいじめを受けるのが嫌だからでは無く、俺に会いたくないからってのも酷い話だとは思うが。
「何で、そこまで頑なに話そうとしないのかなぁ、柏木は。 同じ女子視点で見て、何か思い浮かばないか?」
「う~ん。 そう言われても……私と柏木さんじゃ、性格も考え方も全然違いそうだし」
「だよ、なぁ。 柏木の方がずっと静かで大人しいだろうし」
同じなのはヤンデレ属性の資質が有る事くらいか、なんてこった。
「あ〜、その言い方。 縁は大人しい方が良いの?」
「……別に。 ピャーピャー騒いでる奴よりは、静かな方が良いってだけ。 早坂みたいなのと話した後だと、余計にそう感じるだけ。 別段静かな女性がタイプってワケじゃないよ」
「そ、そっか。 良かった……」
そこで安心するな、そこで。 こっちはこっちで別の意味で安心したけど。
「でも、そうなるとこれからどうするの? 聞き出せる情報は全部分かったみたいだし、もうこれ以上は誰に聞いても新しい事は分からないんじゃない?」
「そうなんだよな、だから後は柏木本人からしか聞く事が無かったってのに……」
「その柏木さんが、休んじゃったからねぇ……」
「悠が昼休みに話す内容が、俺達の知らない情報である事を祈るばかりだな」
「そうね……。 その綾小路君だけど、随分と落ち込んでるみたい」
「本当だよ……いつもの調子と全く違う」
遠目で悠の席を見ると、普段の明朗快活さが嘘のように塞ぎ込んでいる。 艶のある筈の金髪も萎びかかっているみたいで、今の悠は枯れかけの向日葵の様だった。
本当、昨日何があったのだろうか、放課後までは元気だったのに。 たしか『僕は今日、家でもう少し深くこの件について調べてみるつもりだけど』と言ってたが、その後に何か、落ち込むような事実でも分かったのだろうか。
「なんにせよ、昼休みまで待つ他に、どうしようも無いか」
「……はぁ」
朝から心に靄が掛かったような気分だったが、そんな俺達の心情などお構いなしにチャイムが鳴り、一時限目が始まった。 チャイムの音を聞きながら、俺達は互いにため息を吐きながら、それぞれ自分の席に戻っていった。
……
普段は大して気にもしないのに、いざと言う時になると、異様に時間の流れが遅く感じると言う経験は、俺だけじゃなく多くの現代人が体験した事があるだろう。
お湯を入れたカップラーメンが出来上がるのを待つ時、遅刻しそうな時に乗ったバスが信号で止まった時、踏切が鳴り終わるまで待つ時、その他諸々。 普段は大した事無い筈の、たかが数分や数十秒が、その時だけ何故か長く感じてしまう。
勿論それは自分が勝手に感じているだけで、時間は常に同じリズムで平等に時を刻んでいる。 そうだと分かっていてもやはり、人間は主観で幾らでも時間を長くしたり短くしたりする生き物なのだ。 本人の意思に関係なく、という言葉が付くが。
そして今回も、昼休みに話すと言う悠の話の内容が気になると言うのに、図ったみたいに時間の経過が酷く遅く感じた。 普段は授業の息抜きをするための時間である業間ですらも、この時に限ってはひたすら邪魔でしかなかった。 その逸る気持ちが表に出ていたのか、悠以外の友人や、授業中の教師にまでわざわざ声を掛けられて心配されてしまった、大変恥ずかしい。 そうやって、イタい思いをしながら授業と業間をやり過ごし、ようやっと昼休みが訪れた。
「さてと、話してもらうぜ、悠」
朝の約束通り、空き教室に集まってから、俺は悠にそう言った。 言葉に頷いた後、悠が『その前に』と、俺と綾瀬に問いかけてくる。
「まず、二人が昨日どこまで分かったのか、話してくれるかな」
「? ……おう、分かった」
俺は綾瀬と昨日分かった事──園芸部顧問が起こした問題、理事長による学園の生徒に対する事実の黙秘、柏木園子本人やその家族の不可解な行動、そこから生じた園芸部員の不和と、いじめの原因、知り得た全てを話した。
話の間、悠は何度か痛々しい表情になり、全て聞き終えた後は、腐ったリンゴのように憔悴した、何かを諦めるような雰囲気になっていた。
「そう……か、本当に、全部分かったんだね」
「ああ、思ったより早く事の全貌が掴めた、これもお前のおかげだよ」
「どうして理事長や柏木さんが事実を隠してるのかは、分からないままなんだけどね……。 肝心の柏木さんも、今日は休んで居ないみたいだし」
それに、と綾瀬は首を傾げながら言葉を続けた。
「昨日帰ってから考えたんだけど、やっぱり変よね。 学園の先生や柏木さんのご両親が何もしなかったのって」
「ああ、そうだよな。 たとえ理事長が口止めさせたからって、内容が内容だし、絶対に内部告発とかあってもおかしくないのに」
「それに、柏木さんのご両親は始めは学園に抗議してたんでしょ? それなのに、急に何も言わなくなって……これって不自然よね?」
改めて浮上した不可解な出来事に、互いに疑問をぶつけあう俺と綾瀬。 その会話を聞きながら、悠が手を細かく震わせながら、口を開いた。
「──その事に、ついてなんだけど」
いや、手だけでは無い。 声もまた、先程までよりなお暗く、萎びれた稲穂の様に震えていた。 その様子にすぐさま尋常では無い物を感じ取ったが、直後の言葉でそれは確信に変わった。
「……今回の件。 その事実の隠ぺいも含めて、僕の家……綾小路家が関わっていたんだ」
「は……はい?」
「綾小路君の家が? どういう事?」
「……うん。 長くなるけど、聞いて欲しい──」
今までわざわざ話すような事でも無いし、トラブルを招く恐れもあったからと悠は他言しなかったらしいが、悠の生家である綾小路家は、俺たちが在籍しているこの良舟学園の設立時からの関係者であり、同時に一番の出資者だったようだ。
出だしの一発、この事実だけで大したものではあるが、元々悠の家が大金持ちだった事は俺も綾瀬も知っていたので、何も感じないという訳では無いにしても、それ程驚くような内容でも無かった。
だが問題はここからで、この綾小路家という一族は現在一枚岩ではなく、現在綾小路家を取り仕切っている悠の祖父が過去に複数の女性との間に子を作った事で、それぞれ母親の違う四人の子供が生まれ、今その内の長男と、悠の父親である二男との間で、対立があるらしい。
理由はあまり言いたくないからと簡単に説明されたが、綾小路家は代々家督は一族の第一子、それも男子に継がせるという習わしがあり、当然異母四兄弟の中でも、自然に長男へ家督相続権が行く筈だった。 しかし、その長男の方には娘しか生まれず、現在のところ、綾小路家で最も若い男子が悠という状況だった。 それが家督相続の争いに繋がっているらしい。
「本家のさく……従妹と僕は、生まれた年も同じだった。 習わしを変えて女にも家督を継がせるようにしたい叔父と、僕を利用して家督を手に入れようとする父で、対立が出来てしまったんだ。 ……まだ、僕も従妹もお腹の中にいた時からね、馬鹿げているだろう?」
しかしやはりそんな状況を快くないと思っている者も少なくない数いて、そんな人たちからの声を無くす為に、両家の共同出資という形で表面上は和解した姿を見せるという目的で出来たのが、他でもないこの良舟学園だった。 この学園が設立してまだそれほど経ってないのは分かっていたが、思わぬ形で自分の母校が建てられた理由を知って、正直この時点でお腹一杯な状態だった。 だが、一番大変なのはこの話の後にあった。
さて、パンフレット等では『子ども達の可能性を広げる為の~』などと書かれておいて、実際は大人の事情がたっぷりな理由で生まれたこの学園。 表面上の和解とは言え、二つの綾小路家が出資者になっており(金額は本家の方が僅かに多いらしい、とても幾らかなんて聞けないが)、更には去年からは対立の切っ掛けで、家督相続のカギともなっている悠が在籍する事になり、嵐の前の静寂の如く、両家の間に不安定な状況が続いていた。
そんな一触即発な所に、両家共に看過できない、とんでもない事態が発生した。 そう、俺達が解決させようとしている、柏木園子の事件だ。
自分たちが出資している学園で、未遂とは言え教師が生徒に対して性的な暴行を行い、更にその他にも余罪があった。 それが広く社会に広まったら、綾小路家の名に泥を付けてしまう所か、どんな事態に発展してしまうかも分からない。 最悪の場合どちらにも家督相続の権利が無くなってしまうかもしれないのだ。 『お金で買えないモノは無い』が座右の銘である綾小路家にとって、その程度毒にも薬にもならないスキャンダルなのかもしれないが、家督相続権が消えてしまう可能性を孕むこの事件を、素直に社会に広めるワケにはいかなかった。
その結果、二人は初めて本当の意味で結託し、当主である自分たちの父すら騙し、互いのコネクションを使って、事件を迅速かつ丁寧に『無かった事』にした。 悠曰く、『ギリギリ法に触れない、黒に近い白のような行為』を行ったらしい。
両家が協力して行った隠蔽工作のお陰で、事件は事件では無くなり、事実を知るのは、綾小路家の息がたっぷりと掛かった理事長その他、学園で重要な位置にいる人物数人と、実際に事件の場所に居合わせた、幹谷先生のようなごく僅かの教師だけになった。 そのごく僅かな教師達の中でも、隠蔽に対して反対した者は悉く社会的に抹殺され、真実を叫ぶ者はいなくなってしまった。 昨日俺達に幹谷先生が話してくれたのは、本当に危ない事だったのだと分かる。
学生たちには、ホームルームの時に教師が一人辞めたという、嘘では無いにしても決して真実ではない事のみを伝え、抗議を起こした柏木の両親にも、綾小路家が二人が勤めている会社に関わりのある会社や人物などに手を回して、間接的に封殺させた。
見事に、そして完璧に、真実は花壇に埋めた生首の如く、見えなくなってしまったのである。
さて、そうなった結果、事実を知らない園芸部では何が起きたのか。 突如理由も分からずに学園を去った、人柄の良く、一見問題が起こりそうも無い顧問。 様子のおかしい柏木園子。 そういえば、柏木が残った日を最後に、顧問は学園から去って行った、それはつまりあの日柏木が……。 正直、短絡的にも程があるが、柏木自身何も言わなかった事が手伝って、今の様に早坂達の中で顧問が辞めたのは、柏木が何かやったのだと言う構図が出来上がってしまったのだろう。 高校一年生とは言え去年までは中学生だった者達だ、まだ理性的な考えが出来なくてもおかしくないのかもしれないが……。 早坂達の行動に馬鹿々々しさばかり感じてしまうのは、こうして全部の事実を知っているからこそできる思考なのだろうか?
しかし、ここまで聞くと確かに、悠が誰もいない空き教室で話したいと言うワケだ、こんな話、教室で気軽に話せる内容じゃない。 ここまで聞いてきた俺や綾瀬だって、質の濃い話を聞かされて、正直頭がいっぱいいっぱいなのだから。 だがようやっと、悠がどうして俺達に朝から顔を合わせられなかったのかが分かった。 つまるところ、だ。
「今回の件、ありとあらゆる面で、綾小路家が原因になっている。 柏木さんが苛められているのも、縁や河本さんが解決のために苦悩しているのも、全部僕たち綾小路家のせいなんだ……本当に、ごめん」
『…………』
全てを話し終えた後、空き教室には沈黙だけが続いた。
──綾小路家の不和
──学園設立の理由
──事件の裏で起きていた事実
いずれもが、ただの一学生にしか過ぎない俺と綾瀬にとって、重すぎる話だった。
正直なところ、話の内容を十全に理解しているかと聞かれたら、半分も理解出来ていないとしか言う他無いだろう。
だが、それでは駄目なのだ。 理解しなければ。 悠が恐らく腹を括って話してくれたこの事実は、今回の件を解決させるにおいて非常に重要な情報なのだから。 十全が無理でも、せめて八分目ぐらいは理解しておく必要がある。 そして、問題はそれだけでは無い。
全ての元凶ともいえる綾小路家。 その人間であり、俺や綾瀬の友人でもある綾小路悠。 彼に対して、俺は何か言わなければならない。 謝罪されたのだ、それに対して返事をする義務があるだろう。
隣の綾瀬に視線を向ける、すると目が合った。 その綾瀬の視線が、言葉にしなくとも何を伝えたいのか、俺は然程労せずに理解出来た、『目は口ほどにものをいう』とはこの事を言うのだろう。
『貴方の、思うように、任せる』
聞きようによっては薄情だと言えるかもしれないが、柏木の件に首を突っ込んだのはあくまでも俺だ。 綾瀬は俺の行動に納得はしたがあくまでも俺の付添いでしか無く、俺がこれを機に事件への関わりを止めると言えばそれに従うし、なお解決に向けて行動すると言えば、やはりそれに付き合うだけなのだ。
そしてこれは非常に嫌な言い方ではあるが、俺と綾瀬は幼馴染、俺と悠は親友と言う関係があるが、綾瀬と悠の関係は、あくまでも俺と言う共通項を介した関係でしか無く、そこまで深い関わりが無い。 その証拠に、二人は今まで互いに苗字と『さん』『君』付で呼び合い、親しい会話をした事が無い。
そんな関係の中、俺がここで悠に対して縁を切ると言えば、恐らく綾瀬も、思うところは合っても素直に俺に倣って悠との関係を断つと思う。 おこがましい考えかもしれないが、きっと悠もそれが分かっているからこそ、ずっと陰鬱とした雰囲気で、俺と綾瀬に話したのだろう。
ふざける事は許されない。 ここで悠を突き放すのも、変わらず友人としてあり続けるのも、この後の自分に掛かっている。 それならば、自分の今抱いている気持ちを素直に言う事にしよう。
「……悠、お前の言いたい事は分かった」
「……うん」
「それでな……」
ぎゅっと、悠の拳が強く握られる。 拒絶か許容か、次に発せられる俺の言葉に悠が全神経を向けているのが分かった。 ……だからこそ、恐らく次に悠が浮かべるであろう表情も、簡単に予測する事が出来た。
「そんな話された後に謝られても、正直困る」
「……え?」
ほら、やっぱりきょとんとした顔になった。
「いや、お前としてはきっとここで『お前には失望した』とか、『そんな事言うな、俺達友達だろ!』みたいなセリフが来るもんだと思ってたかもしれないが、今言った通りに、俺にとってはただただ困るだけなんだよ」
きょとんとした顔が発展して、困惑しだす悠。 綾瀬はというと、俺が何を言い出すのかと、半分興味深そうにしながら俺の話を黙って聞いている。
「だってそうだろ? お前のご家族の対立とか、学園が出来た理由とか聞かれても『大変だな』とか『そうだったのか』ぐらいしか言えないし、事件を
実際にはそんな事無いのだが、ここは敢えてそう言わせて貰う事にした。 実際、綾小路家がどれ程の影響力を持つのかが分からなくても、悠の家が大金持ちだと言う事は広く知れ渡っている筈。 その悠が直接さっきの話をすれば、それだけで十分早坂達を納得させられる可能性はあるのだから。
「それに、そんな話を今さらされても、綾瀬はともかく俺には何一つお前を責める資格がないんだよ」
「……どうして、だい?」
悠がようやっと俺の言葉に対してまともな言語で反応してくれた。 さあここからだ、焦る事でも無いが、俺の正直な気持ちをしっかり悠に伝えなければ。
「だって、今日まで柏木の問題についてここまで情報を得る事が出来たのは、全部お前のおかげなんだから」
そう、俺が柏木の問題を解決させると心に決めた日の夜に悠に電話してから、すぐに悠は情報を集めてくれた。 それこそ、俺が何日掛けても集めようがない様な細かい情報までしっかりだ。 本来ずっと時間が掛かりそうだった事を、悠はその何倍もの速さで成してくれた、他ならぬ俺なんかの為に、だ。
「そんなお前の家族が実は黒幕でしたって言われても、俺は今日までその黒幕の力に甘えていたんだから、何も言う権利が無いんだよ。 そりゃあ、綾小路家に対して何も思わなかったわけじゃないぜ? でも、それはあくまで隠ぺいをしたお前の父親や叔父さん相手にでしか無くて、それにしたって証拠なんか無いに決まってるんだから、結局恨みつらみとか考えるだけ無駄ってこと」
困惑から驚きの表情へと、悠が変わっていく。 ここまで来てようやく俺が悠に対して悪い感情を懐いていない事を察したらしい。 全く、普段の異様なまでの洞察力の高さはどこに言ってたのやら。
「長くなったが、つまり俺が言いたいのは、俺にはお前を許す事も許さない事も、始めから出来ないから、謝るなって事。 それだけだ、OK?」
「…………」
俺が言い終わると、再び沈黙が場を支配する。 しかし、今の沈黙は先ほどまでの鬱屈とした沈黙では無く、どこかほわほわとした、軽い雰囲気の沈黙だった。
どのくらい続いただろうか、体感でも然程長くない程度の間を開けて、悠が口を開いた。
「……参ったなぁ」
言葉の覇気こそ先程までと同じ弱々しい物であったが、その言葉を話す口元や雰囲気は、明らかに昨日までの、『普段通り』の悠のそれであった。
「君にそう言われたら、僕はもう、他に言いようが無いや。 あるとすれば、意地でも物的証拠を掻き集めて、早坂さん達に証明する事や、柏木さんに謝るしかないよ」
「十分あるじゃねぇか」
「うん……そうだね、十分過ぎるぐらいにだ」
「それが分かってるんなら結構。 じゃあ後はどうする?」
俺がそう言うと、悠は『ははは……』と小さくではあるが今日初めて笑った後、両頬を掌で軽くたたいた。
「うん、手間を取らせたね……。 こんな所で時間を潰す余裕は無かったよ」
そう言い切った顔と声は、もはや直前までの陰鬱としたものでは無く、完全に普段通りの、皆が知る、満開の向日葵のような綾小路悠だった。
それと同時に、もう悠の話は終わった。 まどろっこしい会話は終わり、ようやっと柏木の件について話しをする事が出来るようになった。 昼休みはあと三十分あるが、今まで話し合えなかった分を埋める為に全て使った方が良いだろう……。 そう思っていた矢先に、今まで黙秘を続けてきた綾瀬が話し掛けて来た。
「二人とも、仲直りしてくれたのは良いんだけど、今日柏木さんがいなくて、もう分かる情報は全部分かったけど、これからどうするつもり?」
『…………』
そうだ、すっかり頭から消えていたが、今日柏木は欠席しているのだった。 綾瀬の言う通りもう知り得る情報は全て知り得た今、出来る事は柏木本人から話を聞く事だけなのに、肝心の柏木がいなけりゃ、何の意味も無いじゃないか!
「やっべ……柏木の家知ってそうな奴って誰だろ」
「僕も、柏木さんの家がどこにあるのかは詳しく調べて無かった……失敗した」
情けない話だが、二人して詰んでしまった。
「悠、今すぐに柏木の家を見つけるって、出来る?」
「流石にそれは……」
「だよな……まぁ、出来ても頼むつもりないけどさ」
聞いといてなんだが、さっき綾小路家の黒い話を聞いたばかりなのに、すぐにその力にあやかる気にはならない。
「じゃあ、明日土曜日だし、その時に柏木の家探すか?」
「縁、それは無理だよ」
「え? 明日何かあったっけ?」
明日は土曜日だ、特に何も無いはずだが……そう思っていると、悠が残念そうに言った。
「忘れたのかい? 明日は登校日だよ」
「……あ、ああっ! そういえばそうだった!」
トンと忘れてた。 この学園は二年生になると、毎月第二土曜日と第四土曜日は、祝日じゃない限り基本的に登校しなければいけないのだ。 この状況下では非常に厄介な校則だと思わざるを得ない。
「じゃあ後はもう、今日の放課後に探すしか無いか……。 部活とかの大義名分も無いのに、第三者から見て何の関わりも無いように見える俺達が、柏木の住所聞くワケにもいかないからな」
「そうだね……、昨日縁が聞いたっていう顧問の先生にも聞き出すのは厳しいと思う。 簡単に生徒のプライバシーを教えると、今はうるさいし、何よりも──」
「あんまり柏木に関する行動を教師達に知られるのも良く無いってか」
「うん、ご明察」
悠の話から、教師も今や信用出来ない対象になってしまった。 下手すれば俺たちにも口止めがかかるかもしれない、例えばありもしない事をでっち上げて生活指導とか……考えるだけでウンザリだ。
万事休す……とまでは言わないが、それに近い空気が俺と悠の間に立ちこもる。 勿論手の施しようはあるのだが、渚の熱の事もある。 早急に問題を解決させたいと言う気持ちと、今は放課後に遅くまで家を空けたままにしたくない、と言う気持ちがせめぎ合ってハッキリとした答えを出せない。
そんなお通夜もかくや、というような雰囲気の中、綾瀬が躊躇いがちに言った。
「えっと……私、多分分かるかも。 柏木さんの、住んでる家」
「──え?」
綾瀬の言葉に、一瞬思考が止まる俺と悠。 そうして、たっぷり二秒思考停止した後、先に活動を再開したのは悠の方だった。
「それは本当? 河本さん」
「う、うん。 ハッキリ分かるワケじゃないけど、大体の場所なら」
次いで、脳の活動が再開した俺が綾瀬に聞いた。
「どうして知ってるんだ? お前と柏木は無関係だったんだろ?」
「うん。 そうなんだけど、前に一回だけ、柏木さんが帰ってる姿を見た事があるの」
「帰ってる姿を?」
「去年の冬くらいかな、家族と一緒に隣町のレストランに行った帰りの車の窓から、柏木さんが外灯の照らしてる道を一人で歩いてて、一軒家に入る所をみたの。 その時はそれが誰か分からなかったんだけど、一緒に見てたお母さんが『危ないね、こんな時間に』って言ってたのを何となく覚えてて」
そうだったのか。 てことはその時綾瀬の乗ってた車が走った場所を歩いて行けば、柏木の家に辿り着けるって事だな。
「グッジョブだ綾瀬! これで一気に道が開いた」
「で、でも、もう何か月も前の事だし、あの時は夜で暗かったから、私の見間違いかもしれないよ? あんまり正確じゃないかも……」
「いや、こんなタイミングで思い出したんだ、きっと合ってる筈だ、どっちにしろ今は他にやりようも無いんだし、俺は綾瀬の記憶を信じるよ」
「うん。 僕も同意見だ。 だけど問題は、河本さんの話だと柏木さんの家は隣町だって事だね」
隣町って言うと、
「ちなみに綾瀬、その車の中で柏木を見つけてから家に着くまで、何分くらい掛かった?」
「え? うーん……曖昧だけど、大体三十分くらい、かな」
「車で三十分か……遠いのは確定だな」
車で約三十分も掛かる距離、ましてや不確かな場所を行くのだから、まず柏木の家に到達するのでも一時間は優に超えるだろう。 当てずっぽうで動くより帰りは早くなると思うが、そこまで長い間渚を家に一人きりにさせて置きたくない。 アイツの事だから風邪なのにどっかに出掛けたりはしないだろうが、少し体調が良くなったからと一人で夕飯を作りかねない。 柏木の事も大切だが、やはり最優先は家族だ。
すると悠が、あっけらかんとした口調で、思い切ったアイデアを言って来た。
「こうなったらこれしかない。 二人とも、今日は早退しよう」
『ええ!?』
そのある種ぶっ飛んだ、悠らしくない案に、俺と綾瀬の反応が重なる。 そんな俺達に構いもせず、悠は言葉を続ける。
「先生には僕が話を付けておくから、二人は今日早退して、その足で柏木さんの家にまで行くんだ。 そうすれば早い内から柏木さんの家に着く事も出来る」
「い、いや、確かにそれは手っ取り早い考えではあるが、流石にそれは……」
「サボりは、ちょっと気が引けるというか……」
渋る俺たちに、悠が眉を僅かにひそめながら、さながら生徒に説教をかます先生のように言った。
「じゃあ、この問題を先延ばしにして良いのかい?」
「うっ、それは……嫌だけど」
「だろう? こんな事、僕が言うのおかしいかもしれないけど、縁は今、渚ちゃんの心配もしている筈だよね? それなら、さっさと心配事を減らす事を優先するべきじゃないかな」
「…………」
そう、だよな……。 サボるのは気が引けるが、それより早急にいじめを解決させる方が先決だ。 サボった分の授業は取り返せるが、いじめはそうはいかないのだし。 それに、悠の言う通り渚の事もある、何とかすると言ってるし、ここは親友の言葉を信じる事にしよう。
「分かった、その代わり上手い言い訳を頼むぜ、悠」
「うん、任せといて」
「……まあ、こうなるのは分かってたけど」
俺がサボる事を了承したと分かると、綾瀬もため息を吐きながらも納得してくれた。 もっとも、綾瀬の案内が無ければそもそもどうにもならないので、是が非でもサボってもらう事になるのであるが。
「そうと決まったらさっさと二人は教室に行って、荷物を整理してくれ」
「おう、了解した! 急ごう綾瀬、出来るだけ具合の悪さを印象付けながらな」
「ふふ、これでもかって位に矛盾してるわね、それ」
いざサボると決心すると、不安感と共に変な高揚感が湧いて来た。 普段しない、しちゃいけないと教えられている事をする時は何故か興奮する物だ、幼い時に悪戯する時など、まさにそうだろう。
やや早歩きで教室の前まで行き、即座に気怠そうな足取りを意識しながら、自分の席まで戻り、無言でカバンに荷物を詰め始める。 綾瀬もまた、素のままではあるがカバンに帰りの用意をし始めた。
「なんだ、お前帰るのか?」
クラスメイトの七宮が、帰り支度をする俺に話しかけてくる、流石に気になるか。
「まぁな。 午前中は我慢出来たんだが、午後は無理そうだ」
「ふぅん、なんか河本も帰るみたいだけど?」
「そうだな」
「……そういや、ここ最近お前と綾小路、前よりずっとつるんでるよな」
「え、そりゃあね、あいつとは中学から一緒だし」
「まあ
「……っ、まあ、確かにそうだけど」
「綾小路だけならともかく、女子の河本まで一緒ってのは絶対に何かあるだろ、放課後何してんのさ、楽しそうな事してんなら言えよ、ん〜?」
「じ、女子って言ってもあや──河本も悠と同じ昔なじみだし、俺が部活に入るから、何に入るか相談に乗ってくれてるだけだよ」
「ああ聞いてる聞いてる、確か河本とは『幼なじみ』なんだろ?」
七宮の発言に追随して、更に他のクラスメイトまでもが俺に茶々を入れた。 お前らさっさと解放しやがれ。
「小学生からの幼なじみだろ? しかも仲が良くて家が近い……かぁ〜お前はギャルゲの主人公か? 羨ましいィ!」
「…………ギャルゲの世界だったらどんなに良かっただろうな、いや本当に」
「……野々原?」
……
七宮らのくだらない尋問から開放され、ようやっと校門に辿り着いた。 綾瀬は既に着いて待っており、俺の姿を見つけて安堵するような表情を浮かべていた。
「悪い、七宮達に捕まってた」
「うん、私も聞いてたから……その、ご愁傷様」
「はぁ……。 まあいいや、さっさと柏木の自宅へ行こう」
「うん。 でも、本当に綾小路君は先生にうまく説明出来てるのかな……」
「それはあいつに賭けるしか──」
話してる途中に、マナーモードにしておいたケータイがプルプルと震え出した、取り出すとディスプレイには『メールを受信しました』の文字、どうやら悠からのようだ。
噂をすればなんとやら、図ったようなタイミングで届いたメールをすぐさま開いて読んでみた。
『任務完了、先生への説明は滞りなく済んだよ、心置き無く探しに行ってくれ。頑張ってね』
マジかよ、空き教室から出てまだ十分かそこらしか経ってないぞ、一体どんな魔法の言葉を使ったら簡単に教師を納得させられるんだよ。
「今のメール彼から?」
「ああ、上手く行ったって。 我が友ながら恐ろしい手早さだ」
「綾小路家だから、先生方も余り口出せないのかもね」
「ああ〜それありそうだな」
そうだとしたら、俺はまた綾小路家の力を借りた事になってしまうのだが。 間接的かつやむを得ないとはいえ、本来忌むべき対象の力ばかり借りてしまうというのは、かなり情けないのではないだろうか。
「また考え事してる……何について考えてるかは分からなくないけど、せっかく綾小路君が作ってくれたチャンスなんだから、さっさと行きましょう!」
「ん、お、おう。 そうだな、案内頼むぞ綾瀬!」
「えぇ。 自信は無いけど、任せて」
「くく、エラく矛盾してるな、それ」
「いいから!」
……
綾瀬の記憶する方向に向かって歩き始めて、約一時間が経とうとしていた、学園は今頃六時限目の授業が始まっている頃だろう。 もうすぐ今日の学校の時間が終わるという希望と、まだあと一つ授業が残っているという絶望の板挟みになっている時間帯だ。 それでもまだハッキリと終わりが見えている分楽だと俺は思う。
一方、俺たちの方はと言うと──。
「……ここね」
見事、学校の授業よりも先に目標に達成していた。
「案外、あっさりと見つかったもんだな。 綾瀬の記憶力に感謝」
やや閑静な住宅街の中にある、国道に面した二階建ての一軒家、玄関にある表札にもハッキリと『柏木』と書かれてあった。 俺や綾瀬の家よりかは少し立派な造りで、柏木の家の経済事情が窺い知れる。 もちろん良い意味で。
「ここに、柏木がいるんだよな」
「この表札にある柏木が別の人のじゃ無ければな」
「ちょ、ちょっと、ここに来てそんな不安になるような事言わないでよ」
「ごめんごめん……それじゃ、インターホン押すぞ」
「うん……」
固唾をのんで見守る綾瀬の視線を受けながら、俺はインターホンを押した。
直後、よく耳にする客人を知らせるチャイムが鳴った事を玄関越しに確認する。 いよいよ柏木と対面するのか、もし出て来たのが柏木の親だとしたらどう話を切り出せばいいのか、来るまでに幾らでも考えられたはずの事が今更になって頭の中で駆け巡るのを感じながら、俺は玄関がガチャリと開き、中から人が現れるのを待っていた……のだが。
「……反応無い、わね?」
「ああ……無い、な?」
押してから一分近く経ったが、玄関が開くどころか家の中から物音ひとつ、何かが動くような気配すらしない。 まるでもぬけの殻のようだ。
「柏木、いないのかな?」
「寝てる……のかも?」
念のため、もう一回だけインターホンを押してみる。 しかし、やはり結果は同じく何の反応も無い、流石にこうなると心に焦りが生じてくる。 大丈夫だと思いながらも、改めて表札を確認したり、他の家にも柏木性が無いか見て回ったりしたが、やはり辺りで柏木の表札が確認できるのはこの家だけだ。となると、やはり今日学園にいない柏木が家の中に居る筈なのだが。
「もしかして出かけてるのか? 今日休んだのは単純に休まざるを得ない事情があったからだけとか?」
「それならただの骨折り損で終わるけど、もしかしたら、居留守だったりして」
「それありそうだな……」
もしそうだとしたら、後はどうしようも無くなる。 家の外から大声で柏木を呼べば出てくるかもしれないが、その前に近所の人達に通報されかねない。 まだ授業している時間帯に制服のままここまで来たから、不審に見えてもおかしくないだろう。
「どうしよう、この状況」
「諦めた方が良いのかも。 本当に休む理由があって休んでるなら会えそうに無いし、居留守なら尚更よ」
「……じゃあ──」
最後に一回外から柏木を呼んでみるか、半分自棄になってそんな事を口走ろうとした瞬間、俺たちの背後から第三者の声が聞こえてきた。
「君達、柏木さんの玄関に立ってどうしたの?」
『!?』
声のした方を向くと、そこには買い物帰りなのか、エコバック片手にこちらを訝しるように見る女性の姿があった。 ヤバいな……懸念していた事が現実になってしまった。 きっとあの女性には今の俺達がまだ明るい時間帯に制服着た男女が人の家の玄関前に怪しく
今この場で学園側に俺達の事を知らされる事は絶対に避けねばならない、かと言って今この場から逃走したとしても、俺達の特徴を教師に伝えられれば、遅くない内に身元が割れてしまうだろう。 綾瀬はトレードマークにもなっている大きなヘアリボンをしているし、俺自身だって、今まで言及してこなかったが渚の実兄なだけあって、髪の色が染めてもいないのに渚と同じ淡いクリーム色だ、クソ! 前世ではあくまでもフィクションだったのが現実になるとこういう弊害が出て来るなんて、こうなるなら黒く染めればよかった!
「君らの制服、確か良舟学園のよね? まだこの時間は授業中なんじゃないかしら?」
最ッ悪だ、どこの学園の生徒なのかどころか、本来ならまだ授業中だって事まで把握されている。 益々女性の表情は怪訝な物になっていき、いつ携帯電話を手に取って俺達を学園側に通報してもおかしくない雰囲気になっている。
「──はい、そうです! 私は河本綾瀬、彼は野々原縁で、良舟学園の二年生です」
そこにいきなり綾瀬が、まるで先制を切るかのように自ら学園と学年、更には本名まで女性に申告し出した。 っていやいや! 何やってんだ綾瀬、学年までバラすとか、自殺行為どころか自爆テロ並みの愚行だろ! たとえ話すとしても、一年生や三年生とかワザと誤った情報を言うか、存在しない名前を出して制服着た不審者を装って、少しでも自分の身元を誤魔化すようにするべきだろうに!
「ぉ、おい綾瀬、何を──」
「いいから、私に任せて」
小声で綾瀬を制しようと声を掛けると、同じく小声で、しかし俺よりはるかに力強く綾瀬が俺の言葉を封殺した。
……何をするつもりなのかは知らないが、どうやら綾瀬なりに考えがあるようだ、『私に任せて』、その言葉を信じてみる事にしよう、どうせもう俺には打つ手が無いのだし。
「やっぱり、何でこんな時間に、しかも柏木さんの家に──」
「私達は、その、柏木さんの友達なんです!」
「……え? 園子ちゃんの?」
女性の表情が驚きの物に一転する。
「そうなんです! 柏木さんとはお互い二年生になってから知り合ったんですけど、この数日様子がおかしくて、今日学園を休んだので、何かあったんじゃないかと来たんです!」
相手に話す隙を与えないように瞬く間に喋る綾瀬。 そして女性の方はと言うと──、
「……そうだったの、君達は、園子ちゃんのお友達」
見事に綾瀬の言葉を信じて、怪訝どころか感心した顔になっていた。 ……成る程な、これは単純に自分たちが怪しい人物ではない事を示すだけじゃない。 わざと
「それで、なんですが。 貴女はこの付近にお住いの方ですか?」
「ええそうよ。 というより、柏木さんの隣の家」
そう言って、女性は言葉通り柏木の右隣にある家を指さした、柏木の家より敷地が広く、庭には名前こそすぐ出てこない物の、色とりどりの花が綺麗に咲いている。 それを聞いて益々綾瀬が勢いづいて女性に詰め寄り、今度は俺からでも僅かにしか聞こえない程の声の大きさで女性に言った。
「それなら一つ質問があるのですが、今日は柏木さんは家族とどこかに出かけたりはしませんでしたか」
「いえ、そんな様子は見られなかったわよ?」
「じゃあ、柏木さん一人でどこかに出かけたりは」
「私もしょっちゅう見てるワケじゃないからハッキリ言えないけど、午前中は庭の手入れをしてたから、少なくともとも午前中は、柏木さんの玄関から誰かが出たってのは見なかったわね」
「誰も? その、柏木さんのご両親は」
「柏木さん、去年の暮れからかしらね、ただでさえ忙しかったのに、急にもっと忙しくなっちゃって、最近は殆ど家に居ないのよ」
「そう、ですか……。 なら、昨日から何か柏木さんについて変わった事はありませんでしたか」
「何か変わった事? そうね……あ、でもそういえば」
「そういえば、なんですか?」
「今日ってこの地区はゴミの日なのね。 それで、いつもは朝ゴミを出す時に、いつも必ず学校に行く園子ちゃんとすれ違うのよ、軽い挨拶を交わす程度なんだけど。 でも今日は珍しく会わなかったわ」
「……分かりました。 ありがとうございます」
一通りの審問染みた会話が収まると、綾瀬は横目でチラと俺を見た、すぐに頷いて返事をする。 ……あぁ、もう意図は伝わっているよ、綾瀬。 今のあえて小声でした会話は、確実に居留守を使って家の中に居るであろう柏木に聞こえさせない為の行動だ。 そして質問の内容は、今日綾瀬が学園を休んだのがやむを得ない事情からでは無く、単純にずる休みをしたのだと言う確証を得る為のモノ。
家族と出かけたワケでは無く、個人でどこかに行ったという形跡は最低でも午前中は無い。 そもそも普段は登校途中に会う筈がそれも無い。 これだけ揃えば今日柏木がずっと家にこもっている事は明白だ。
「……おみごと、綾瀬」
思わずため息が零れてしまった。 最悪の事態を避けるのみならず、ここまで聞き出すなんて……うん、後で綾瀬に何か奢らなきゃな。
しかし、だ。 逆にこれで柏木が今徹底的に他者の存在を否定していると言う事も分かってしまった。 まだ俺達だと分からないうえでも居留守を使ったんだ、綾瀬が俺達の存在を知ったであろう今なら尚更、柏木は出てこないかもしれない、その点だけは褒められる事じゃなかったな、かえって逆効果だった。
「あ、そうだ。 他にもう一つあったわ、変わった事」
「それは何ですか?」
不意打ちの様に女性が自分から口を開く。 今度は何だろうか?
「少し前から、夜遅くに園子ちゃんが家から出たのを見た事あったわ。 散歩に行ったようだけど、もう辺りは寝てる時間帯だから、危ないと思ったのよねぇ。 最近様子がおかしいって言ってたけど、ひょっとしてそれが関係してるんじゃないかしら」
「そうかもしれませんね……、わざわざそこまで詳しく教えていただき、ありがとうございました」
「まあいいわこのくらい。 学園からここまで、それなりに遠いのにお疲れ様」
ぺこりと頭を下げて礼をする綾瀬にそう言って、女性は自分の家に帰ろうと歩き始めた。 ……と思った直後、くるっと俺の方を向いて来た。
「君も、園子ちゃんのお友達?」
「え……まぁ、はい。 あや──河本よりは親しくないですが」
「ふうん……」
そう呟くと、女性はどこか品定めをするように俺をジイッと見る。 もしかしてウソがバレたのか? と僅かに心の中に焦りが生じた瞬間、まるでそれを見透かしたように女性はニカッと笑い、こう言った。
「いきなり男友達なんてと思ったけど、わざわざ心配してくるなんて、今時優しいのね」
「いや、そんな事は無いですよ、本当に」
「ううん、そんな事無いわ。 ねえ、野々原君、だっけ?」
「はい、なんでしょう?」
俺の名前を確認するように言ってから、女性はまるで懇願するように俺に言った。
「今まで、所詮お隣さんだけど、ずっと園子ちゃんを見てて、君たちみたいな『お友達』がこうして園子ちゃんの所に現れる事は無かったわ。 だから──」
「どうか、あの子の良いお友達になってあげてね?」
……
女性が家に帰った後、俺達はこれ以上この場に残って本当に怪しまれるのを避ける為に、口惜しいが一度柏木の家を離れて、元来た道を引き返す事にした、つまりは帰宅だ。
昨日と同じ二人っきりでの帰宅だが、俺と綾瀬の間にはラブコメな雰囲気はひとかけらも無く、逆に鉛の雲のような重苦しい空気が漂っていた。
「……思いっ切りバレてたな、俺達の事」
「そうね……、上手くいったと思ったんだけど」
さっきの俺に向けて言った言葉、あれは間違いなく俺と綾瀬が本物の友人では無い事を看破しての発言だったろう、綾瀬の言い方が悪かったのか俺の反応がいけなかったのか、もしくは初めから全部お見通しだったか、個人的には三つ目が一番それらしいが仮にそうでなかったとしても残る理由は俺のせいだろう、間違っても綾瀬の説明が下手だったからではない。
オマケになんだ、なんとなく昨日の幹谷先生にも同じような言葉で話の〆になった気がする。 まさかとはおもうが、幹谷先生にもバレてたりするのか? ……いや、大丈夫だよな、きっと。
「それはそうと、これからどうするの? 肝心の柏木さんは引きこもって見る事すら出来ないし、明日登校するかも分からないのに」
「あ、それに関してはもう考えてる」
「えっ、そうなの!?」
予想外だったのか、直前までの重苦しい空気が無かったかのように素直に驚く綾瀬。 その切り替えに小さく感謝しながら、俺も出来るだけ陽気に話す事を意識して話す事にした。 正直なところ、これから俺がやろうとしている事はあまり気が進まないからだ。
「あの人、夜に柏木が出歩いてたって言ってたろ? それに賭けてみる」
「つまり、貴方も遅い時間にまた柏木さんの家に行くって事?」
「ああ。 でも流石に夜遅くに見知らぬ男が住宅街に一人、個人宅の前で待ち伏せするのは昼間より危ない、だから」
「だから?」
そこまで言って、俺は一度深呼吸して、自分の今の気持ちを固めてから、改めて口に出した。
「今日、柏木が向かうであろう場所で、柏木と話を付ける」
「向かう場所って……そんなのどうやって分かるの?」
「さっきケータイでこの辺りのマップを見たんだが、柏木の家から少しした所に公園がある、きっと柏木は夜そこにいるだろう、そこで柏木と会う」
「うーん。 本当にそれで会えると思う?」
「勿論確証は無いさ、でも夜じゃなくても人は散歩するなら、ある程度行く場所は決めてるもんだ、近くに公園があるのなら、そこを目的地にしていてもおかしくないだろ?」
「まあ、そう言えなくも無いけど……」
「もし会えなかったら、その時はその時、明日柏木が登校する事を願うさ」
「……分かった、風邪ひかないのと、危ない人に遭わないように気を付けてね? 縁」
「おう、分かったよ」
嘘だ。 確証が無いなどというのは嘘だ。 俺にはハッキリと今日の夜柏木に会える自信と、その根拠がある。 そのいずれもが、俺個人と、しいて言うならば渚にしか理解し得ない物だが。
つまり、俺は柏木が夜に家の近くの公園に行くことを俺は知っているのだ。 何故か? それは勿論、ヤンデレCDでの柏木園子がそのような行動を取っていたからだ。
CDの『柏木園子』はいじめを受けて夜の公園で泣いていた所を、主人公に見られたところから二人の出会いが始まっていた。 柏木も、最近夜に一人で出歩いていると言うし、となればまず間違いなく公園に居る筈だ、 確実に会える。
だがしかし、本来なら接触を避け、死亡フラグを生まないために活用すべきである知識を、まさかこんな方法で使う事になるとは……。 苛めに関わる時に覚悟していたとはいえ、トホホと嘆かずにはいられない。 そんな心の声が顔に表れてしまったのか、綾瀬が横から俺の顔を窺ってきた。
「ねえ、本当に大丈夫なの? 無理してない?」
「無理はしてない、無茶はしてるかもだが」
「うん、それは知ってる」
「そうかよ」
小さく笑う綾瀬の顔と言葉で、気休めかもしれないが少し心の重しが軽くなった気がした、ありがとな。
……
「お兄ちゃん……その手、どうしたの?」
帰宅した後、今日も今日とて風邪の渚の代わりに夜ご飯を作り、渚の部屋に持ってきて、そのままそこで食事をしていると、ふと俺の手のひらに貼られてあった絆創膏を見つけた渚が、心配そうに問い掛けて来た。
「ん……、あぁこれか」
昨日はまだ熱が高くて、俺の手の傷に気付く事が無かったが、多少は体調が良くなったので気付いたのだろう。 さて、この傷をどう説明すればいい物か。
今日まで俺は、柏木の件について、一度も渚に話をした事が無い。 そもそも俺が柏木の件に関わり始めたのと、渚が風邪で寝込む事になったのがほぼ同時期であり、話す機会というか、タイミングのようなモノが無かった。 ……建前はそうなのだが。
実際の理由はと言うと、あまり渚に俺が女子の為に動いているという情報を与えたくなかった、というのが理由としては遙かに大きい。 ヤンデレCDのヒロイン達が暴走するきっかけの中で、唯一渚だけが純粋なジェラシーから凶行に走るという事を知っているので、出来るだけ渚を刺激しかねない情報は渚の耳に入れさせたくは無かった。 少し姑息かもしれないが、命を脅かす危険はなにも柏木園子の件だけでは無い。 日常の些細な仕草から延々と連なって、いきなり襲ってくるモノなのだから、これも必要な事だ。
もっとも、そこまで警戒するくらいならばさっさとこの街から一人出て行けば良いだろう、という話になるが、これに関しては以前にも心に決めたように、渚や綾瀬たちに対してマイナスの感情ばかりを抱いているワケでは無い、確かに恐れる感情はあっても、それ以上にプラスの想いを、俺は持っている。
それは家族としての愛情であったり、幼馴染としての親愛であったり、友人としての友情であったりなど言葉は様々だが、紛れもなく綾瀬や渚に対しての感情なのだ。
何よりも、たとえ一人でこの街を去ったとしても、綾瀬はまだ分からないが、渚からは絶対に逃げられない気がする。 何というかもう、その気になれば地の果てまでも追いかけてくるような、変に絶対的な確信を感じられるのだ。
おっと、ついまたいつもの癖で余計な方向に話が進んでしまった。 今は渚に手の怪我について説明しなければならないのに。 俺は手を開いたり握ったりを繰り返して、出来る限り大した事が無いように見せながら言った。
「昨日、学校で割れた花瓶片付ける時に、間違って手を切っちゃったんだ。 面倒だからって片付ける時に箒使わないで、素手でやったのが間違いだったな。 大きい欠片掴んだ時に痛ッてなっちまった」
今までにも何度か用いた、『全てでは無いが、事実を話す』言い方をした。 以前にも言ったが、これは自分が自分が話したく無いを言わなければいけない時や、相手から極力追求を避ける時に非常に有効な手段だ。 嘘をつく事なく、それでいながら自身に都合の悪くない箇所だけを抽出して話せば良いのだから。 勿論どこを抽出して話すかは自分で考える必要があるし、この方法を使えば絶対に誤魔化せるというわけでも無いので、使い所は考えなければならないが……、
「そうだったんだ……災難だったね」
とまぁこの通り、しっかりと相手を納得させる事が出来る。 彼女に浮気を疑われた時は是非使ってみよう、俺は絶対に使わないけど、そもそも浮気以前に恋人居ないし。 浮気したら死ぬ世界だし。
「……あ、そうだ。 熱は今どのくらいだ? 計った?」
「うぅん、まだ」
「そか、じゃあ体温計で計ってくれ」
「うん」
俺が体温計を渡すと、渚がパジャマのボタンを取ってゆっくりと体温計を脇に挟む。
「…………」
「どうしたの?」
「いんや、何にも」
「? そう」
年頃の女の子が、下着を着てるとはいえ無造作に胸元を開いたというのに、何の色気も感じなかった自分に色んな意味で感心していたなんて、言える筈が無い。
つか、膨らみは僅かに確認出来たが、本当にその、なんだ、『平和』だな。 何処がとは言わないが、もし今さっきの仕草を綾瀬がしていたら、俺は思わず目を逸らしたに違いない。
「……なんかお兄ちゃん、今凄く失礼な事考えてる?」
「そんな、まさか。 自分から死にに逝く様な事考えるかよ、ハハハ」
「死ぬって……もう」
そんな取り留めの無い会話をしている内に、ピピピっと軽快な電子音が部屋に鳴り響き、渚の体温計がその仕事を果たした事を伝える。
「温度分かったか、何度だ?」
「えっとね……はぁ」
渚が温度計を取り、そこに映っている自身の体温の数値を見ると、すぐさま表情に暗いモノが出ると同時に、ため息を吐く。 体温計を受け取って俺も何度になってるかを見てみると、
「三十八度、四分か……まだ全然下がらないなぁ」
「うん……もう学校休みたく無いのに」
「こればっかりは仕方がないな、来週も休みたくなかったら、今日もしっかり寝るんだぞ?」
「うん、分かってるよ……」
言い方が幼い子を相手にするようだったのが気に入らなかったのか、やや不満そうに頷いてから、食べ終わって用の無くなった食器をトレイに戻した後、渚は素直にベットに横になった。
部屋に掛けてある時計に目をやると、もうすぐ八時に回ろうとしていた。 目的地である公園までは始めタクシーを使おうと思っていたが、遅い時間に高校生がタクシーを一人で使う事を怪しまれる危険性と、単純にお金が掛かるのが嫌だという二つの理由で徒歩で向かうことにしている為に、そろそろ行かなければ昼と同じ骨折り損になってしまいかねない。 そう思って立ち上がり、トレイを持って部屋を出ようと渚に背を向けた、その直後。
「ねぇお兄ちゃん、
「っ!」
不意を突くようなその言葉に、授業中微睡んでいる時に名指しされる時のように身体が僅かにビクついてしまった。
「どうして、そう思うんだ?」
体の向きを変えず、背を向けたまま渚に問いかける。
「どうしてかな……理由はよく分からないや。 でもなんか、そんな気がしたから」
「……そうか」
「その手の怪我も、
流石妹と言うべきか、熱で弱ってても俺への観察眼はピカイチだった。 だからと言って渚に話すわけにもいかない、今といい手の怪我といい、本来安静にしているべきなのに俺の事を心配してくれる渚には心苦しいが、先ほどと同じように誤魔化す事にしよう。
「──―別に、特段話すような事は無いよ。 渚の気のせいさ」
「本当に?」
「ああ、本当に」
「……うん、分かったよ。 何も無いなら良かった、おやすみお兄ちゃん」
後ろから布団を動かす音がする。 言葉通り寝るつもりなのだろう。
「ああ、おやすみ渚」
──―結局最後まで、俺は渚に背を向けたまま部屋を出た。 その後ろめたさが、後になって自分の首を絞める事になるのを、この時の俺は分かる余地も無かった。
いや、余地はあったが、考えようとしなかった。
……
食器を洗い終えた後、二階に聞こえないように静かに家を出た俺は、夜のジョギングよろしく、小走りで目的地である公園へ向かっていた。五月の夜はまだ小寒く、冷気が顔の皮膚をじんわりと冷たくするが、走る間に段々と身体が暖まり、その寒さも気にしなくなってきた。 代わりに徐々に心拍は高くなっていき、足は乳酸が溜まり始め、呼吸が多少困難になっていく。 走るのをやめて身体を休ませたいという欲求が出てくるが、まだ目的地までは遠い、体力にも幾分かは余裕があるので、そのまま走り続けた。
走っている間、僅かでも疲労を忘れられるようにと、柏木に会ったらどう話を切り出そうか考えてみた。 昼間は向かう事ばかり考えていていざ会ったらどうするかを全く考えて無かったが、今はそこまで切羽詰まった心境では無い。
しかしいざ考えてみると、思いの外上手な話し方が思い浮かばなかった。 向こうはただでさえ他人を拒絶しているのだから、下手な応対では何も結果を得られないまま終わってしまう事だってあり得るのに、どこか『何とかなるだろう』という楽観的な考えが頭の中をよぎる。
そこから出た結論は、取り繕うことを止めるという事だった。 あらかじめ用意しておいた言葉や態度ではなく、その時その瞬間の俺で立ち向かって行く、それが一番確からしい答えだろう。
そして、外出から腕時計で確認して一時間二十二分と約四十一秒後、間に我慢出来ず何度か歩きながらではあったが目的地である公園の前まで辿り着いた。
「はぁ……はぁ、流石に、疲れた」
肩で息をしながら、初めて目にする公園の景観を眺める。 と言っても、そこまで大きな公園でも無いので、すぐにそれも終わってしまった。 そうして分かった事は、今目にしているこの公園は、『初めて』目にするものでは無かったという事だ。
「あの時に見た夢と、ウンザリするくらい一致してるな」
わざわざ口に出して確認するまでもなく、あの日、柏木の件に関わると決めた日の朝に見た、俺が柏木に殺される夢で見た公園の景色と、呆れるぐらいに合致していた。
今思えば、あれは単なる夢ではなく、未来に起きうる可能性の一つだったのだろう。 もちろん何も無い所からいきなり綾瀬の死体が出てきたりなど、あり得ない内容ではあったが、前世の記憶を思い出さず、純粋な野々原縁が柏木園子を助けた結果、野々原縁は柏木園子と恋人同士になり、その後殺されてしまうのだろう、死体はCDで聴いたのと同じように、首だけあるいは身体ごと鉢植えの中に植えられて、花の養分にされてお終いだ。
ハハッ、これだけで考えると、何で俺がそんな目に合わなくちゃいけないのかと憤慨したくなるな。 今更ながら、そんな危険な未来になりかねない事を自ら進んでやっている事に、呆れて笑ってしまいそうになる。
だがまあいいさ、上手にやろう、俺には綾瀬や悠と言う頼れる仲間がいて、その2人のおかげでここまで来れたんだ、後は俺が一人だけで、バッチリ決めれば良いだけ、死にたくなかったら死ぬ気で頑張れ、俺。
そうやって、自己啓発していると、俺の位置と反対の方角から一人、ゆっくりとした足取りで公園に入って行くのが見えた。 そいつが居る位置には外灯からの灯りがある為少し離れたここからでも見えるが、俺の位置には外灯は無いので、俺の姿が向かうからでは確認出来ないのだろう。
たとえ俺の真上に外灯があったとしても、きっと
そう、彼女──―柏木園子は、周囲を気にせず、足元だけを見ながら、ゆっくりと公園の中に入り、遊具……ブランコだろうか? ともかくそれに腰掛けた。
「マラソン選手ばりに走ってきた甲斐があったみたいだな」
そうやってまた口にしなくてもいい確認を取りながら、すぐ公園へは行かずに、そばにあった自動販売機へと向かった。 単純に俺が喉乾いたというのも理由だが、飲み物を渡せば、柏木も無闇に逃げ出さないだろうと思っての事だった。 ありのままで応対するとは言ったが、かと言って何も話せないまま逃げ出されては困るので仕方ない。 自分用の炭酸飲料と、柏木用にホットのミルクティーを購入後、今度こそ公園の敷地内へと足を踏み入れた。
……
「よう、月が綺麗だな」
「えっ!? きゃっ!」
近くまでゆっくり近づいてから声を掛けたあと、すぐさま先ほど買ったミルクティーを山なりに投げ渡した。 柏木は急に声をかけられた事、その声の主が俺だった事、更には自分の方に向かってくる缶の三段構えに驚きと困惑とを混ぜながら、しっかりと缶をキャッチした後に、俺に言った。
「ど、ど、どうして、どうして野々原君がここにいるんですか!?」
「お前こそ、どうしてこんな時間に公園にいるのさ」
「っ! だから、質問に質問で返さないでください!」
やはり急な事で驚いてるからか、今まで見てきた中でも特に今の柏木は勢いが大きい。 普段からこれくらいなら、早坂達もおとなしかったかもしれん、じゃなくて、
「まあ言いたいことはあるだろうが待て、せっかく買ったんだからそのミルクティー飲んで落ち着け」
「あっ……これ、野々原君が?」
「おう、せっかく昼に会えずしまいでやっと会えたんだから、逃げられちゃたまんないからな」
「…………そういう、事、ですか」
「うん、そういうこと」
俺がここにいる理由を察した柏木だったが、やはり渡されたミルクティーが足かせになってすぐにどこかへ行くような事は無かった。 その間にちゃっかりと柏木の隣の空いてるブランコに座り、自分の分の缶を開けて喉に液体を流し込む。 それを横目に見て、柏木も倣って仕方なしなしにミルクティーを飲み始めた。
「…………」
「…………」
缶の中身を飲み終えるまでの間、互いに一言も発さない時間が続く。 沈んだ船のように見事に黙り込む、まさしく沈黙そのものだ。
だがそんな時間は小型船が沈没するより早く崩れるモノ、やや意外だが俺より先に飲み終えた柏木の方から、口火を切った。
「……どうして、そんなに私に会いたがるんですか」
「逆に──―」
「質問で返さないで、答えてください」
「……お前が受けてる苛めを終わらせる為だよ」
「苛めなんか受けてま──―」
「もう粗方知ってる、去年の秋頃お前の身に起きた事、学園のした理不尽な処理、そして早坂達の動機も……いい加減誤魔化すのは諦めろよ、こっちは殆ど知ってて行動してんだからさ」
「……だとしても、野々原君に話す理由はありません、私は別に気にしてませんから」
「嘘付くなよ」
「嘘なんかじゃ──―」
「気にしていない人間が、こんな夜遅くに人気のない公園に来て、ブランコに座りながら涙なんか流すかよ」
「──―っ!」
そう、柏木は俺が声を掛けるまで、声にこそ出していなかったが泣いていた。 その証拠に、俺から顔を逸らすようにして俯いている柏木の横顔から覗く目には、うっすらとだが涙の跡が残っている。
「誰でもいい、誰かに今の自分の事を見て欲しい、知って欲しい、何か異常が起きているのではと察して欲しい。 そう心の中で思っているから、お前はこうして夜に一人出歩いて、こうして俺に見つかっても昨日の放課後みたいにすぐ逃げ出そうとはしないんじゃないか?」
「…………」
再び沈黙が生まれる、だがそれは先ほどの無為な沈黙とは違い、俺の言葉に対する肯定の沈黙でもあった。 意識的にしろ無意識的にしろ、たった今、柏木は自身が苛めを受けていることを、それを誰かに知ってもらいたい事を、俺に認めたのだ。 であるならば、次は俺から話しかける。
「……分からない事がある。 この苛めを完全に消す為に必要な情報、それが分からないままだ」
「……」
「なあ柏木、お前どうして、誰にも本当の事を話そうとしなかったんだ?」
「それは、その……」
言葉が途中で止まる。 仕方ないのでもう少し俺の方から話を進める事にしよう。
「教師達に話せない事は分かる。 でもあいつら──―早坂達には話せたんじゃないか? 学園側は去年の園芸部顧問がした犯行を封殺した。 教師が一人辞める事を告げるだけで、建前になる説明すらしなかった」
「……」
「だからこそ真実を推し量る事しか出来ない早坂達は、事件当日最後まで顧問と一緒に居たお前が何か関係しているんだと考えて、それが今の苛めに繋がってるんだろ?」
「……はい。 そうだと、思います」
肯定。 沈黙によるものでは無く、明確で正確で的確な、言語による肯定が、とうとうやっと柏木の口から直接出て来た。 話の流れが良い方向に進んでいる事を感じる。
「だったら、お前は早坂達に真実を話せばよかったんだ。 学園側が予め嘘の説明をしたならまだしも、そうじゃ無いんだから、お前の言葉をアイツらは頭ごなしに否定する筈無い、すぐに信じる信じないはともかく、軽率にお前が全部悪いと判断する事は無かったんじゃないか?」
「……。 そうかもしれません」
「そこまで分かっていて、どうしてお前はひたすら黙ってたんだよ。 『苛められる側にも理由はある』なんて危なっかしい言葉使うつもりは無いが、ここまでのお前を見てると、わざと自分からいじめられに行ってるように見えるぞ? もしかして始めから苛められたかったのか?」
「──―違います! 私は、そんなつもりじゃ……」
空き缶を握ったまま、ずっと俯いていた柏木が俺の方に顔を向けた。 ここまでハッキリと、学園で見せた建前とは違う、本当の自分の主張を示す事はきっと初めてだろう。 僅かに震えながらもしっかりと俺を捉えている柏木の目を、同じようにしっかりと見ながら、言葉を続けた。
「知ってるよ、お前はそんなつもりじゃない」
「……っ」
「だからこそ教えてくれ、お前が真実を話す事も、誰からの助けも請わない──―請えなかった理由を」
思いつく限りの言葉は言い切った、これが悠ならもっと相手の心を動かせるような言葉が言えるのだろうが、俺にはこれが今できる精一杯。 もしこれでも……いや、もう後ろ向きな事は考えないことにしよう、俺の言葉が柏木に届くのを信じよう。
何度目かの沈黙、たかが数秒でしか無い筈のそれがいやに長く感じる。 湯を入れたカップラーメンが出来上がるのを待つ時の様に、遅刻しそうな時に乗ったバスが信号で止まった時の様に、踏切が鳴り終わるまで待つ時の様に、一日千秋が一秒ごとに起きているような感覚。
だがそれは所詮ただの錯覚、だからこの沈黙も、ほんの数秒で崩れた。 柏木の言葉によって。
「…………強要、されたんです」
「強要?」
「はい……先生に『誰にも何も言うな』って。 放課後生徒指導室に呼ばれて、校長先生から直接言われました」
堰を切る様に、柏木の口から言葉が溢れだした。
「もし言ったら、園芸部を廃部にして、私も事実を知った他の生徒も退学させるって……。 自分のせいで関係ない人まで退学なんて嫌だったから、私誰にも言えなくて……」
「私だって本当はこんなの嫌です、中学まで友達と呼べるような人がいなくて、園芸部に入ってやっと早坂さん達と仲良くなれたのに、それも本当の事を言えないで痛い事ばかりされて、泣きたくても誰にも見えない所じゃないと出来ない、誰かに助けてもらう事も許されない」
「お父さんやお母さんは仕事が忙しくて、家に居ない日が多くて大変だから、これ以上負担を掛けたくなくて言えません」
「園芸部も、やっと出来た私の居場所も、このままだと無くなっちゃいます、そしたらもう本当に私、どこにも居場所が無くなってしまいます……こんなの、嫌です! 絶対に嫌です!!」
その言葉は、今まで柏木園子という少女が胸の内に込めていた思いの全てであり、
「野々原君、おねがいします……たすけてください、力を、かしてください……」
──―彼女を孤独にしていた、彼女の壁が崩れる音でもあった。
「うん。 その言葉を待ってた」
「野々原くん……」
「地雷を踏み抜く覚悟で走り続けた甲斐がようやく成った。 本当に、いや本当に」
「じ、地雷?」
「ああ、こっちの話。 至極個人的かつ他人が聞いても意味不明になること間違いなしだから気にすんな」
「はい、分かりました……?」
直前の重い空気を吹き払うようにわざと明るい声で言った後に、俺はブランコから立ち上がる。
「じゃ柏木、後は任せてくれ。 お前の
「は、はい……! ありがとうございます、本当に……私なんかの為に」
「お礼は全部終わった後に屋上とかで頼むよ」
「お、屋上ですか? でも屋上は普段施錠されてるんじゃ」
「冗談だよ、じゃあな、気を付けて帰れよ」
そう笑いながら言って、俺は柏木に背を向けて、家に帰ろうと歩みを進めた。 すると十歩もしない間に、後ろから柏木の呼び止める声が届いた。
「野々原君、一つだけ聞いても良いですか?」
俺は歩みを止めて、身体を柏木の方に向き直す。 柏木も立ち上がっていた。
「なんだ、質問されるのには慣れてるから何でも聞きな」
「あの、その……どうして野々原君は、私が野々原君に助けてと言う前から、ずっと私の力になろうとしてくれたんですか? この前までお互い名前も知らなかったのに」
「ああ、その事ね。 それはな……」
「はい……」
「前世の俺が苛めを受けてたからかな?」
「そうなんですか……えっ?」
「だから冗談だよ、今度こそじゃあな、明日はちゃんと学園に来いよ」
その言葉を最後に、踵を返して今度こそ俺は家に向かって歩みを進めた。
公園を出て、もうすっかり柏木から離れた所まで歩いてから、俺は携帯電話をポケットから取り出した。 そうして今も起きているだろう、今回の黒幕の一族でありながら、俺の最も頼れる親友である人物に電話を掛ける。 以前と同じように、きっちりコールが三回鳴った後に、相手の声が耳朶に響いた。
『はい、もしもしこんばんわ。 どうしたんだい、縁』
「ああ、こんばんわ悠。 今日はありがとうな」
『いいよそんなの、それで、彼女から話は聞けたのかい?』
「おう、それでだな──―」
さっきの柏木の言葉を受けてから、決めた事がある。
形振りは構わない、利用できるものは一切合財使って柏木の苛めを解決させてみせる。 それがたとえ黒幕の力だとしても、徹底的に利用してやる!
……
「…………やっと家に着いた」
行き帰りで合計三時間以上歩いてきたからか、もしくは柏木との会話で精神をすり減らしたからか、深夜を迎えた我が家の前に辿り着く頃には、身も心も疲れ切っていた。
あの後、悠と電話での話し合いも終わり、やれるだけの事はやり尽くした。 あとは悠が──―いや、
いずれにせよ、もう今日のうちに出来ることは無い。 腕時計を見るとあと数分で明日になる、あとは静かに家の中に入って、渚を起こさないように自分の部屋に戻ろう。
そう思いながら、眠気で重くなってきた
「……お帰りなさい、お兄ちゃん。 遅かったね」
「──―っ!?」
な、渚……!?
扉を開いた先には、夜の冷気で冷えている中、玄関の前で明かりもつけずにこちらをじっと見つめる渚が居た。
何でこんな時間に、玄関の前で立ってるんだこいつは! もう時間からしてとっくに寝ているはずなのに! さっきたまたま起きて水でも飲みに降りてきたところを遭遇しただけか? いや、それなら俺が扉を開けた時にタイミングよく玄関の前に立っている筈が無いし、何より──―
『……お帰りなさい、お兄ちゃん。
……そう、さっきまで寝ていた奴が『遅かったね』なんて言える筈が無い、俺が家を出た事を知っている奴でも無い限り、俺が遅くまで家を空けていた事が分かる筈が──―、
「まさか、お前ずっとここで俺を待ってたのか?」
「うん、そうだよお兄ちゃん」
……寒気がした。 俺が家を出た事を知られた事よりも、ここで俺を待ち続けたという事に。
「お兄ちゃん、やっぱり様子がおかしかったから、何かいつもより早く部屋を出ようとしてたし……、それで、もしかしたらと思ってこっそり部屋を出て、外に出るお兄ちゃんを見たの」
「……なんで、その時俺に声をかけるなり電話をかけるなりしなかったんだ?」
「だって、そうしたらお兄ちゃんは外でやろうと思ってた事が出来なくなっちゃうでしょ? ただでさえ風邪を引いてるのに、これ以上お兄ちゃんの邪魔なんか出来るわけ無いよ」
そう笑顔で答える渚、対して俺は、虚勢でも笑う事すら出来ないくらいに頬が引き攣っていた。 渚の言葉は続く。
「でも、やっぱり珍しいでしょ? あっ、怪しんでるんじゃないよ? でも
「……だから、なんだ?」
「ちゃんと話してくれるんだよね? 私を家に置いたまま、黙って外に出て何をしてたか、ちゃんと話してくれるんだよね?」
「……それ、は」
背中どころか全身に冷たい汗が流れる、それは皮膚どころか身体の中まで染み込んで、まるで俺の全てを凍らせるように思考を凍りつかせる。 今からでもすぐに何か、納得させられる程の嘘や誤魔化しじゃなくていいから何か口にしなければならないと分かっているのに、口が動かない。
それはまるで昨日見た柏木に殺される夢の中のようで、今この場にある全てが、渚を中心に動いているかのような錯覚を感じる。
「……どうしたの、お兄ちゃん? 私はただ外で何をしてきたのか聞いてるだけだよ? どうして何も言わないのかな?」
「……っ」
渚が一言発する度に、何か口にしろと心の中で思うが、そう焦れば焦るほど、かえって言葉が喉につっかえる。 今までに感じたことの無い焦燥感に為す術もなくなっている事だけが嫌にハッキリと認識出来る。
そうして、黙り続けている俺を見て、渚の表情が──―いや、全てが変わった。
「どうして何も言わないのかな? あ、もしかして言わないんじゃなくて、言えないのかな? そうだとしたら、お兄ちゃんはこんな夜遅くまで、どこで、誰と、私に言えない様な事をして来たのかな?」
「……ねぇ、お兄ちゃん」
「もしかしたら、女の人と一緒だったんじゃないかな?」
──to be continued
あと二話くらいで柏木編は終わります
最近二万字越えがデフォみたいになってますが、それだとまた何ヶ月もかかりそうで怖いので次は一万字程度で行きたいと思います
ではさよならさよなら