【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた   作:食卓塩准将

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第3章 河本綾瀬編 最終話です。
楽しんでいただければ幸いです。


最終病 恋獄

 これ程までに起きるのが億劫な朝があっただろうかと、綾瀬は思った。

 

 ()()()が来た時だって、ここまで酷くはない。

 いっそこのまま消えてしまえばいいのに──そんな気持ちと、今日もまた学園で縁に会わなければならないという気持ちが交錯して、『縁と会う事』をいつの間にか嫌なイベント扱いしてしまってる自分に気づき、最終的にはやはり自己嫌悪で完結する。

 

 ──本当、死んでしまいたい。

 

 そう思いながらもできないのは、綾瀬が俗にいう構ってちゃんなメンヘラだからではなく。

 ここで死んだらまた、『今度は死んで自分を見て貰いたがってる最低な女』と言われそうなのが嫌だったからだ。

 誰に? もちろん、野々原渚に。

 

 想い人の妹、そして恋敵。

 縁とは別の意味で、綾瀬をよく知る人間。

 縁が自分の善い面を見てくれる人間だとすれば、渚は綾瀬の負の側面を見る人間だ。

 縁には見られたくない自身の一面、渚はそこばかりを的確に見てくる。縁と会話する時、常に縁のそばにいる渚の事が、綾瀬は心底苦手だった。

 

 そんな渚が、縁と喧嘩する時があった。

 今年の5月の出来事である。

 

 複雑な理由があったが、あんなに慕っていた兄を真っ向から否定する渚と、それを受けて同じくらいに渚に怒りを向ける縁に、綾瀬は初めてこの2人にも『絶対』は無いのだと理解する。

 血のつながり、両親の不在が多い環境で、この兄妹には揺るがない絆があると思っていた。でも、目の前で互いが互いを否定し合うのを見て、この2人の間にも譲れるものとそうじゃないものがあると知った。

 その瞬間、あんなに苦手意識を持っていた渚に対して、縁に詰め寄られて涙を流す渚に対して、綾瀬は否定以外の気持ちを持ったのだった。

 

 もしかすれば、それは単なる同情だったのかもしれない。

 憐れんだ上から目線の見下しがなせる行為かもしれない。

 でも、その時の綾瀬には、渚は『関わりを持ちたくない女』ではなく、『自分と同じ男に恋をする、自分と同じ人間』に見えてしまい──、

 気が付けば、渚をかばって兄妹の喧嘩を止めた。

 

 渚は綾瀬が自分を庇ったという事実に心底驚いていたが、同じかそれ以上に内心困惑しているのは綾瀬の方だったに違いない。

 とにかく、その日以降、綾瀬と渚の関係は精神的冷戦状況から、互いにほんの少しは歩み寄る関係へと変わった。

 どういう時にどんな事を思うのか、話すのか、反応するのか……一緒にいた時間は長かったハズなのに、5月からの数か月間で初めて知った事は多かった。

 

 だからこそ、綾瀬には分かる。

 

『綾瀬さん、今日、夕方にお話しできませんか?』

 

『学校を休んで』

 

『私、今日はずっと家にいますので』

 

『16時くらいに。待ってますね』

 

 ──今朝、渚から届いたメッセージ、この文章を送った渚の考えが。

 

 きっと、いや間違いなく、渚は『終わらせよう』としている。互いの関係を。

 おもむろにベッドから立ち上がり、いったん部屋を出る。

 母親には嘘の理由で休む旨を伝え、風呂場で顔を洗い、そのまま部屋に戻るのではなく──物置にしている一室に立ち寄る。

 普段、両親がDIYなどで工具を取り出す時くらいしか使われることが無く、薄暗い部屋の奥には、ある物がひっそりとしまってあった。

 

 一か月以上も前──自分の人間関係の失敗に縁が巻き込まれ、綾瀬を妬んでいた卑しいメス豚があてつけに縁を誘惑しようとした際に、脅迫のために使ったもの。

 学園の工具室から拝借した五寸釘、それとこの家に元からあった金槌があった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……まぁ、間に合うわけ、無いよね」

 

 縁との電話を終えた渚は、そんな独り言をこぼしつつ時計を見る。

 時刻は、夕方の15時53分。もうすぐ時間だ。

 

「……緊張してるのかな、私」

 

 妙に心臓の鼓動が強く感じられて、柄にもなく緊張している事に気づく。

 しかし、当然の話でもある。これから自身が行おうとする行為は、自分か綾瀬、どちらかの命が無くなる可能性が大いにあるのだから。

 

「さっきの会話が、お兄ちゃんとの最後の会話だったら嫌だな……」

 

 あんな電話の終わり方で、恐らく愛する兄は今全力で家に向かっているに違いない。そんな兄が家に戻って自分の死体なんて見た日には……。

 

「──や、やっぱりもう一回電話しようかな」

 

 せめて今までの感謝を伝えるくらいは──そんな、ますます死亡フラグにあてはまる行動に走りかけた時、客人の訪れを告げるチャイムが鳴った。

 

「……時間より早い。5分前行動ってこと?」

 

 誰が来たのかなんて考えるまでもない。タイミングが良いのか悪いのか分からない来訪者を迎えるべく、渚はトタトタと玄関に向かう。

 扉を開けた先にいるのはやはり、そして想定以上に険しい顔をする、綾瀬だった。

 

「こんにちはー、綾瀬さん。すみません、わざわざ来てもらって」

「ううん……こっちこそ、少し早く来ちゃったけど、大丈夫だった?」

「大丈夫です。ささ、どうぞ上がってください」

「……ええ。お邪魔するわね」

 

 互いに()()()()()の態度で会話をしつつ、渚は一足早く奥に戻りキッチンに、綾瀬はリビングにそれぞれ足を運ぶ。

 リビングにあるソファに座ろうとする途中、リビングとつながるキッチンの様子が見えた。

 まな板には包丁と野菜、コンロには鍋が乗っており、今日の夕飯の準備が粛々と進められていたことが伺える。

 

 渚は綾瀬がソファに座らずにキッチンの様子を見ている事に気づくと、ジャガイモの皮をピーラーで剥ぎつつ言った。

 

「今日はカレーなんです。最近食べてなかったので」

「そうなんだ、カレー。縁も好きだものね」

「はい。本当は綾瀬さんが来る前に下ごしらえを終わらせたかったのに、すみません。ちょっと待ってて貰えますか?」

「良いけど、どうせならアタシも手伝うわよ、その方が早いでしょ?」

 

 綾瀬の提案に、渚は一瞬ぽかんとした後、すぐに調子を取り戻して慌てつつ答える。

 

「そんな、悪いですよ!」

「気にしないで、アタシも何もしないままってのは手持ち無沙汰だし。渚ちゃんとの()だって、しながらすればいいと思うし」

「……そう、かもしれませんね」

「でしょ? じゃあほら、アタシは何からすればいい?」

「えーっと、それじゃあ──」

 

 そこからは、2人並んで、キッチンでカレーの準備をする時間になった。

 昨夜の出来事なんて無かったかのように、幼いころからの知己である2人は、はたから見ればそれこそ姉妹の様に見えただろう。

 もしかすれば、当人同士である渚は『自分にもし、姉が居れば……』、綾瀬は『妹がいるとしたらこんな……』なんて事をお互い思ったかもしれない。

 嵐の前のような静かで穏やかな時間。しかし、それは文字通り嵐の前なのだ。すなわち、必ず嵐はやってくる。

 そして、それを引き起こしたのは、綾瀬の方からだった。

 

「──ところで、渚ちゃん」

 

 渚から代わってジャガイモの洗いや根菜の皮むきを全て終えた綾瀬が、土の付着した手を洗いつつ言う。

 

「今朝、言ってた話って何?」

 

 綾瀬が用意した野菜──今はジャガイモだ──を包丁で切っていた渚は、横目で一瞬綾瀬を見やった後に、質問に答えた。

 

「いくつかあります、まずは昨日の事……言いすぎました、ごめんなさい」

「……謝るんだ、どうして?」

 

 驚いたふりではなく、本当に意外な言葉が出てきた。

 

「あの後、私が綾瀬さんの立場ならどうするんだろうって考えたんです。私も、あまり変わらない事するって……思ったんです」

「……」

 

 包丁を動かす手を止めて、顔をこちらに向けながら、渚は言った。

 

「お兄ちゃんの事が好きなら、あの場ではきっとああするんだろうなって自分でも気づいたから、綾瀬さんの事最低なんて言う資格ありませんでした。本当にごめんなさい」

「……いいわよ、そんなの」

 

 やや間を開けた後、綾瀬はまた手洗いを再開しつつそう答える。

 ──正直、渚の言葉が本当か嘘かは分からない。しかし、あの渚が『逆の立場ならどうしたか』なんて形で自分に寄り添おうとした、という事実に、綾瀬は先ほどより更に強い驚きを受けた。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。長く信じていた根底にひびが入る気分だった。

 嫌いだったはずの人間にも考えを巡らすほど、渚は成長しているのだと理解した。

『お兄ちゃん』だけを見ていた渚の視界は以前とは比較にならないほど広く、深くなった。きっと、それが縁への深い理解にも繋がっているのだろう。

 こうして横に並んで接すると、納得せざるを得ない。『お兄ちゃんをこの世で一番理解しているのは自分だ』と断言できるだけの資格が、今の渚にはあった。

 

 同時に、綾瀬は思い知らされる。

 自分がいかに停滞していたのかを。渚と違って等身大の縁を見ていたのに、彼の幼なじみとして横に居る事が当たり前になっていて、彼の一番になろうとする気さえ起きていなかった。

 何度も心の中で思ってはかき消していた事実が、渚という人の形を持って目の前に現れた。そんな気さえ、今の綾瀬はしていた。

 ──もっとも、そういう心がマイナスな時は自己嫌悪に耽りがちという点においては、縁とよく似ているという事に、今の綾瀬は気付いてない。

 そういう節々で愛する兄と似た部分を見せる──兄の人格形成に影響を与えた綾瀬に、渚が密かに嫉妬してた事だって当然、知る由もない。

 

 話は続く。

 

「──他には?」

「はい、その前に──ごめんなさい、もっと早く言おうと思ったんですけど、ポケットの物、あっちのテーブルに置いてくれますか?」

「──っ!?」

 

 あまりにも、あまりにも自然な流れで、渚は綾瀬が忍ばせていた五寸釘と金槌(凶器)の存在を言い当てた。

 これにはさすがに動揺を隠しきれず、洗う手も止まって硬直した顔のまま渚を見つめるしかできなかった。

 対して、渚は笑顔を浮かべる──包丁を握ったまま。

 

「やっぱり、何か持ってきたんですね、綾瀬さん」

「……カマをかけたの?」

「半分は。でもやっぱり()()()()()()()()()()()()()()()って思っ──」

「やめてよ、それ」

 

 本当に渚は自分を理解しているのだと、またも思い知らされる。

 何もかもを掌握されているような気持ち悪さが、凶器を言い当てられた事よりも先行した。

 

「──私、告白したんです、昨日」

「えっ……え?」

 

 心が乱れ始めた綾瀬に追い打ちをかけるように、渚が言葉を続ける。

 

「好きだって、家族じゃなく異性として、綾瀬さんよりも私を見てって……でも駄目でした。フラれちゃったんです私」

「……だから、アタシを殺そうって言うわけ!?」

「くく……あはは、そんなワケないじゃないですか」

 

 包丁は離さないまま、渚は綾瀬の言葉を受けてケタケタと笑う。

 その笑顔があんまりにも自然すぎたから、綾瀬はいよいよ持って、渚の考えが分からなくなった。

 

「何が……何が言いたいの? 昨日の事謝って、フラれた話して、アタシにそんな事話してどうしたいのよ!」

「そんな事って酷いじゃないですか。全部綾瀬さんに関わる話なのに」

「それが意味分からないから言ってるんでしょ?」

「なんでアンタお兄ちゃんと向き合おうとしないのよ」

「──っ!!」

 

 唐突に、全てが反転する。

 先ほどまでまな板に向いていたハズの体は綾瀬の方へと向いて。

 口調も、態度も、目つきも雰囲気も何もかも──まるで最初からハイドがジキルの演技をしていたかの如く、渚は表皮の裏に隠し続けていた怒りを一気に面に出した。

 

「お兄ちゃんが好きなら、なんで柏木さんと付き合ってると思ったその時に問い詰めなかったのよ」

「それは──」

「保健室で私に言われた言葉があったから? 私なんかの言葉でおずおずと引き下がる程度の気持ちだったわけ?」

「違う! そんな事ないわよ! ……でも、縁のためにアタシができる事なんて」

「お兄ちゃんにとっては綾瀬、あんたがただ隣に居てくれるだけで十分幸せだったのよ」

「──えっ」

 

 返す言葉に詰まる綾瀬。

 その顔を見て渚の怒りが更に激しく燃え上がる。──()()()()()()()()()()()()()()と。

 

「呆れた、あんたお兄ちゃんの事なんて何も見ていなかったのね。お兄ちゃんがいつもどんなにあんたを大事に思ってたか……好きなんて感情通り越して、女神様みたいに大事にしてたのか、全然気づいてなかったんでしょ」

「……うるさい、やめてよ」

「自分が何もできないですって? 存在してるだけで意味を持ってるくせに──好きだって思ってもらうための努力なんて何もしなくていい『幼なじみ』のくせにふざけた事言うんじゃないわよ!」

「やめてって言ってるでしょ!」

「そうやって都合の悪い事言われたらまた大きな声だして誤魔化すの? 自分からは何もしないくせにそれを指摘されたら怒る? あんたに1個だって怒れる資格なんて無いわよ!」

「──いい加減にしなさいよ!」

 

 言ってしまえば、当然の流れだった。

 言葉で渚に勝つ術を綾瀬は持っていない。渚は綾瀬を糾弾する口を止める気が無い。

 綾瀬は凶器を持っていて、それが届く範囲に渚が立っている。

 そして何より、綾瀬は渚に嫉妬している。

 ──左ポケットにしまってあった五寸釘を渚に刺そうとするのは、至極、当然の流れであったのだ。

 

 鉄と刃物がこすれ合う、鈍い音が室内に重く響く。

 綾瀬の五寸釘は、渚の首まであとすんでのところで、渚が手に持った包丁によって止められた。

 

「……これが、あんたの本性ってわけね」

「何もかも分かったような口するんじゃないわよ……アンタなんか、ただの妹のくせに!」

「ただの妹にも分かるくらい薄っぺらだって言ってるのよ」

「妹のくせに兄に恋とか気持ち悪いのよ! 近親相姦は犯罪だって知らないの!?」

「幼なじみって立場に依存してた女に言われたくないわよ!」

 

 どちらからともなく、2人は空いてる方の手で互いを掴み合う。

 

「……っ」

 

 力は綾瀬の方が上なため、渚を床に倒そうとする力に押し負けそうになる。

 

「──このっ!」

「きゃっ!?」

 

 しかし、家の造りは当然家主の渚の方がよく知っている。

 倒れこむ前にまな板の取っ手部分を掴み、乗っていた野菜を綾瀬の顔に叩きつけた。

 予想外の方向からの痛みで、自分を掴んでいた手と五寸釘から距離を取る事に成功する渚。

 体勢を立て直して、ひるんでいる綾瀬にぶつかっていく。タックルのような姿勢で突っ込んできた渚に対応できず、綾瀬は背中から倒れこんでしまう。

 

「──このっ!」

 

 馬乗りになった渚が、左手で綾瀬の右腕を抑えつつ、右手に持った包丁を綾瀬の顔に向けて振り下ろす。

 五寸釘で防ぐ事は無理だと判断した綾瀬は、とっさに握ってた五寸釘を左手から離し、そのまま渚の右手首を抑える。

 今度は体勢が有利な分、渚が力負けする状況にはならず、膠着状態に陥る2人。

 

「……ずっと、あんたが嫌いだった」

 

 余裕ができたからだろうか、渚は綾瀬を見下ろしながらここまで言えなかった言葉を口にする。

 

「ただの他人が、幼なじみってだけで、お兄ちゃんの心を掴んで……ずっと気に入らなくて、納得できなくて、許せなくて……殺してやりたいって思った!」

「そんなの、アタシだってそうよ! いつもいつも縁の隣に引っ付いて、アタシと縁の邪魔ばっかして鬱陶しい! しかも縁を寂しさを紛らわすための存在にしか思ってなかった最低女じゃない!」

「……そうよ、私はお兄ちゃんをちゃんと見てなかった」

 

 一瞬、渚の力が弛んだ気がした。

 

「私はお兄ちゃんが自分の思うようにならない事が許せなくて、お兄ちゃんを否定した。お兄ちゃんもそんな私に怒って……本当ならもう今頃、とっくに私とお兄ちゃんの関係は壊れてた」

「……渚?」

「それが……なんであんたなのよ!」

「──っ!!」

 

 綾瀬の右腕を抑えていた手を離し、両手で包丁を持ち力を込めてくる渚。

 同じく自由になった手も使って、文字通り必死に渚の手を抑える綾瀬。

 しかし、いくら両手が自由になっても体勢の不利は変わらない。このままでは眼前の包丁が確実に刺さってしまう、そんな焦りが心を覆いつくしてしまいそうになった、その時。

 

 ──ポタっと、何かが頬に落ちたのを綾瀬は感じた。

 それが何なのか、ものの数秒もかからずに綾瀬は理解する事になる。

 

「なんで……なんで、あんたなんかに助けられないと、アタシはお兄ちゃんとやり直せなかったのよ……」

 

 それは、綾瀬を見下ろす渚の涙だった。

 渚は泣いていた。今まさに綾瀬と殺し合いをしているこの瞬間に、大粒の雫を落としている。

 だがそれは、殺し合いという命のかかった行動による恐怖からの涙ではない。

 もっと別の、殺し合いとか殺意とか、そういうのとは異なる感情の潮流がもたらす涙だった。

 

「あんたなんて大嫌いなのに……綾瀬が居なきゃ、アタシはお兄ちゃんを本当の意味で好きになれなかった……」

「……」

「なのになんでお兄ちゃんの気持ちに応えようとしないの? 綾瀬、あんたは最初からちゃんとお兄ちゃんが好きだったんでしょ!?」

「渚、あんた……」

「お兄ちゃんだってずっと綾瀬が好きで……なんであんたみたいな女が、お兄ちゃんの一番なの!? どうしてアタシはお兄ちゃんの妹なのよ、あんたが居なきゃ本当の意味でお兄ちゃんを好きになる事すら出来なかったの!? なんで? ねぇなんで!?」

 

 慟哭。もはや渚の感情は誰に向けたものであるのか、その方向さえ分からなくなる程の、激しい感情のうねり。

 

「答えて、答えてよ! 答えなさいよ!!」

 

 そこには、先日からずっと見せつけられてきた、()()()()()姿()なんてものはまるで無かった。

 自分への絶望と、綾瀬への怒り、嫉妬、助けられたという否定しようがない事実への葛藤、それら全てに呑まれた少女の姿しかなかった。

 そんな感情をぶつけられて、思わず綾瀬は渚の手首を抑える力を弱めてしまう。そうなれば、たとえ感情が爆発したとしても、その隙を逃す渚では無い。

 

「あんたなんて──綾瀬なんて、死んじゃえっ!!!」

 

 すぐに両手を頭上に掲げなおし、先ほどより勢いよく、包丁を綾瀬の顔めがけて振り落とそうとする。

 だが、渾身の力であるがゆえにその動きは大きく、素人の綾瀬でも渚がどこを狙っているか、どこに刺そうとするか、その軌道まで容易に分かった。

 馬乗りになっても何とか動かせる上半身の一部ごと、顔を思い切り右に捻り、ギリギリのところで包丁を躱す。振り下ろし切った包丁は刃先が床に突き刺さり、すぐに抜く事はできなかった。

 綾瀬は戻る力を利用しながら、隙だらけになった渚の頬に思いっきりビンタを叩きつける。

 

 動ける部分のみとは言え、全体重の乗った平手をまともにくらった渚が平気でいられるハズなく、ゴロゴロとリビングの方まで吹っ飛ばされてしまう。

 

「はぁ……はぁ……」

「ぅ、ぅ……」

 

 息も絶え絶えの綾瀬、叩き飛ばされた衝撃で床に頭を打ったのか、意識がもうろうとしている渚。

 どちらが有利かなんて、もはや考えるまでも無い。

 綾瀬は先ほど渚が床に突き刺してしまった包丁を難なく抜き取り、呼吸を整えながら渚の前まで立つ。

 渚にとっては絶体絶命と言える状況だが、受けたダメージがでかく、未だ抵抗もできない状況。

 ──勝敗は決した。殺す側と、殺される側が決まったのだ。

 

「……ぶざまね、ほんと」

 

 そう呟きながら、綾瀬は先ほどの意趣返しの様に渚の上に馬乗りになる。

 もはや抗う意思も失せたのか、自分を冷たく見下ろす綾瀬に、おぼろげな瞳を向けるだけだった。

 

「アタシ、これでもうアンタ殺せるわよ……何か、言いなさいよ」

「……さいしょに、うるさいって言ったのは綾瀬でしょ」

「そう……そうね。そうだった」

 

 包丁を構える。間違いの無いよう、多少躱されても致命傷になりやすい胴体を狙う。

 

「──アタシだって、アンタみたいに、縁の事全部分かるようになりたかったわよ」

 

 最後に、それだけ呟いて。

 

 

「やめろぉぉぉぉぉぉー!!!」

 

 縁がリビングに入ってそう叫ぶのと、綾瀬が振り下ろすのは同時だった。

 声は届いても届くだけ。声には物理的に人を止められる力はない。

 だから、もしこの状況であとコンマ数秒後、仮に渚の命が消えなかったとするならば、それが起こりうる条件は1つしかない。

 それは──、

 

「……っ」

 

 それは──綾瀬自身が、包丁をすんでのところで止める事。

 

「え──綾瀬?」

「なに……してるの?」

 

 野々原兄妹の問いは同じものだ。

 綾瀬は、もう少しで渚の心臓に刺さるであろう包丁を、刃先が服に当たるかどうかの所で止めたのだ。

 何故止めたのか、縁が来たからではない。では、何故か。

 

「綾瀬……あんた、泣いてるの?」

 

 理由は、綾瀬自身に最初からその気がなかったからだ。

 先ほどの渚と同じく、綾瀬は馬乗りの姿勢になったまま、渚を見下しつつも瞳に涙をためていた。

 その様子を、渚も縁も、ただ茫然と見つめる事しかできなかった。

 

「殺せない……殺せるわけない」

 

 憎しみしか向けられていないと思っていた、あの生死の境目で。

 渚は、綾瀬が居なければ自分は兄を本当の意味で好きになれなかったと言った。

 渚自身にその気があったかは分からないが、それはつまり、婉曲で歪ではあるが、渚が今の渚になれたのは、綾瀬のおかげだという事。

 あれだけ渚の成長にコンプレックスを抱き、無力だと自己嫌悪した自分が居なければ、渚は成長しなかったのだ。

 それをハッキリと言われて、自分が憎しみ以外の感情を渚に持たれていると分かってしまったら最後、もう綾瀬に渚を殺せる理由が無くなってしまった。

 

「ここで殺しちゃったら、もうアタシ、何がしたいのか、本当にわけわかんなくなる……。縁にだって2度と向き合えない、好きだって言ってもらえなくなる……そんなの、絶対に嫌……嫌よ」

「……はぁ、だったら、それを最初からちゃんとお兄ちゃんに伝えたら良かったんじゃないですか?」

 

 いつもの口調に戻った渚が、トンっと綾瀬を突き飛ばす。

 もはや力のない綾瀬はそのまま後ろに軽く転がり、偶然直線状に立っていた縁の足にぶつかって止まった。

 また急な展開になり涙目のまま、きょとんと渚を見つめる綾瀬を、呆れ顔のまま見返しつつ、渚はゆっくり立ち上がり……、

 

「ほんと、最悪な気分。これで綾瀬さんに殺されたら、お兄ちゃんは一生綾瀬さんを許さないし、私はずっとお兄ちゃんの心の中に居られた……お兄ちゃんの一番になれると思ったのに、何最後の最後で日和ってるのよ」

 

 どこまでが本当の話なのか、あるいは全部本当か。

 そんな恐ろしい事を口にした後、縁に笑顔を向けた。

 

「お兄ちゃん、本当に間に合って良かったね!」

「間に合った……のか? これ」

「うん。間に合ったよ。私も綾瀬さんも死んでない。でも……」

 

 兄の足元にたたずむ綾瀬をもう一度見やり、渚は言葉を続ける。

 

「そこにいる綾瀬さんは、だいぶ駄目になってるからお兄ちゃん、ちゃんと見てあげて?」

「な──っ」

「もう逃げる、なんてことしないでくださいね、綾瀬さん?」

 

 笑顔でそう話す渚。しかし、その圧は先ほどの殺し合いの中ですら見せないほどの、有無を言わせないものだった。

 

「私はちょっと買い物行ってくるから、じゃあよろしくね」

「ちょ、渚……お前もしかして、最初からこうするために?」

「どうかなぁ、ふふ、お兄ちゃんの想像にまかせるね。それじゃあ行ってきまーす!」

 

 もうこれ以上この空間に居る気はない、言外にそう伝えつつ、渚は素早くリビングに()()()()()()()()()()()買い物用財布を手に取り、有無をも言わせない素早さで家を出て行ってしまった。

 

『……』

 

 後に残るのは、こじれに拗らせた2人の男女。

 言ってしまえば、縁にとってはここからが本当の頑張りどころである。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……はぁ、本当に何やってるんだろう、私」

 

 恋敵と殺し合いをした直後に、本当に間に合ったお兄ちゃんにとっさに綾瀬を押し付けて、逃げるようにリビングを後にした。

 まあ、本当に逃げたようなものだけど……でも、あのままお兄ちゃんと綾瀬さんの会話を聞くのは、さすがに死にたくなるから仕方ないよね。

 

 ……本当は、私が死ぬか綾瀬が死ぬかのどちらかだと思ってた。

 立ちあがって最初に言った言葉は嘘じゃなかった。私がお兄ちゃんの一番になるには、もうそれしか方法が無いと思ってたし、あそこで綾瀬が殺すのをやめるなんて思いもしなかった。

 

「なんか……本当に負けた気分」

 

 出来る事ならこのままどっか消えてしまいたい気持ち。でも、それは私が自分を許せなくなるからしない。

 でも、さすがにあと3,40分は家に居たくない。方便だったけど本当に買い物に行く事にしようっと。

 …………ちょうど、包丁が一本、使えなくなっちゃったし。

 

 そう思って、家の扉を開けた、その瞬間。

 私は、世にも奇妙な光景を目の当たりにした。

 

 

「いや、だから免許はあるじゃないですか、ほら」

「免許って、これ日本のじゃないだろ君!」

「これはバル・ベルデで取った免許ですよ、日本では特例でバル・ベルデの免許が通用するって知らないんですか?」

「そんな法律あるわけないだろ! いい加減にしろ!」

「せ、先輩、署長からお電話です!」

「署長? このタイミングで……はい、はい、今まさに……えっ、本当ですか!? しかし……かしこまりました」

「先輩、署長はなんと……」

「──この少年の主張は正しい、帰るぞ」

「ええ!? でもバル・ベルデなんて国、聞いたことも」

「いいから!」

「お勤めご苦労様です~」

 

 明らかに学生が乗っちゃいけないバイクに乗った悠さんを、警察が捕まえようとしたけどおずおずと帰っていく一部始終を、目の前で見せられた。

 ……これ、お兄ちゃんが突っ込み役しないと収まらないよ。

 

「──ああ、渚ちゃん。見苦しいところを見せちゃったね」

「いえ。大丈夫です」

 

 今更恥ずかしそうにする悠さんにそう答えつつ、バイクを見る。

 ……そっか、こんな怪物みたいなものに乗ってきたら、間に合うよね。つくづく、お兄ちゃんは凄い人を友人にしたと思う。

 

「その様子だよ、縁は間に合ったようだね」

「……はい。おかげさまで」

「それで、君は買い物って所かな」

「はい……家に居ても気まずいので」

 

 思わず本音を少しこぼしてしまったが、悠さん相手なら良いだろうと思う事にする。

 

「良かったら乗っていくかい? 道路交通法に則った安全な運転でお望みの店までお連れするよ?」

「い……いえ、悪いですよ」

 

 遠慮以前に、あんなのに乗ったらすぐに酔っちゃいそうで怖い。

 というよりも、あのバイクに乗ること自体がもう道路交通法違反のような……。

 

「まあそういわずに、お互い()()()()()()()()()()()()()()()

「いえ、でも──えっ?」

 

 今、悠さんはなんて言ったの? 

 同じ、失恋? 

 悠さんは綾瀬に恋をしてたって事? 

 ううん、違う。それならわざわざ『同じ』なんて言わない。私と同じ人を相手に失恋したって話じゃなきゃ日本語がおかしい。

 それって、つまり──っ!? 

 

「え、あの、悠さん……もしかして?」

 

 私の言わんとすることを察してなのか、悠さんは人差し指を口元に置いて、茶化すように言った。

 

still in your heart(内緒だよ?)

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……」

「……はぁ」

 

 渚と綾瀬が乱闘した結果であろう荒れたキッチンを片づけて、綾瀬をソファに座らせて、冷蔵庫にあった麦茶を2人分のマグカップに入れて片方を渡した後、俺は綾瀬の左隣に座ってひとまず息をついた。

 

 最悪の結果だけは回避できたと思う。俺が間に合ったのかは怪しいところだが、とにかく渚と綾瀬どちらも死ぬ事なく済んだ。済んだんだ。済んだんだよ。

 あの2人が真っ正面から対立して、包丁と五寸釘や金槌(片付けてる途中に見つけた。見つけた瞬間は本当小さな悲鳴が出た)が使われたのにも関わらず、どっちも生きてるんだ。

 

 これがどれだけ信じられない事か分かるのは、この世界じゃきっと俺だけだろう。ハッキリ言う、奇跡だ。本来あり得ない事が起きてくれた、どんな理由が偶然かは分からないが、とにかく誰も死んでない。

 さっき吐いた息は呆れとか疲れとかのため息じゃない。この世界で俺にしか出せない安堵の息さ。

 

 本当なら、今すぐにでも綾瀬に話しかけてこの空気を進める必要があるのは分かる。

 だけど、あと数秒だけでも良い。この安心感を味わっていたい。

 

「……無様だって、思ってるでしょ。アタシのこと」

 

 麦茶を一口してから、綾瀬は言った。

 

「渚ちゃんの言う事に言い返せないで、殺そうとして、でも結局あなたに嫌われるのが怖くなって何もできなった。ブスのイキり屈伸みたいでどうしようもないじゃない、アタシ」

「……」

 

 あえて、俺は口をはさむ事をしなかった。

 きっとこれは大事な時間なのだと、綾瀬の独白を静かに聞く事に決めた。

 

「あなたに自分の嫌な気持ちを話すのだって、これで何回目になるの? もういや、嫌なのよ……こんなメンドクサイ女、嫌いになってよ……」

 

 ああ……ホントにめんどくさい奴だな。

 でも、それを口にするなんて事はしないし、嫌いになる予定も無い。

 

「悪いけど、その気はないよ」

「どうしてよ……」

「惚れちゃってるから。綾瀬のそういう暗い面も含めて全部」

 

 一瞬、綾瀬が息をのむ。

 俺に言われた言葉の意味を咀嚼するように間を開けてから、こちらを見ないまま言った。

 

「……嘘よ」

「嘘じゃない」

 

 そもそもの話、ヤンデレ属性がある時点で河本綾瀬って女の子は既にもう充分すぎるくらい面倒な女なんだ。

 綾瀬がヤンデレだと認識してるのは前世の記憶があるからだが、そんなの関係なしに俺って言う人間は綾瀬が好きだ。今更めんどうな部分がひとつふたつ増えたところでなんてことも無い。

 

「綾瀬の良い部分も悪い部分も、全部ひっくるめて綾瀬の事が好きなんですよ、野々原縁さんは」

「…………好き? アタシを? ほんとに?」

「ああ好きだ、大好きだ、昨日からもうこの事だけをとにかく綾瀬に伝えたかった。俺はな、もう幼なじみって関係だけで居たくない。綾瀬と恋人になりたいんだ」

「……っ」

「もう『嘘だ』は聞きたくないからな。フラれるよりキツいぞ」

 

 綾瀬の言いそうな言葉を先読みしてつぶしながら、俺は小さく震えだした綾瀬の両肩を掴み、グッとこっちに体ごと顔を向かせた。

 とっさの事で『きゃっ』なんて可愛い小さな悲鳴を聞きつつ、ダメ押しとばかりに畳み掛けていく。

 

「嘘でも夢でもないって分かってもらうまで何回でも言うぞ。俺は河本綾瀬が好きです、付き合ってくださいお願いします!」

「…………」

 

 生まれて初めての真剣な告白。声が震えてないだろうか、変なところで嚙まなかったろうか、余計な心配が頭の中を駆け巡る。

 だがそんなものより。こうして綾瀬にはっきりと想いを伝えられた達成感の方が大きい。

 俺が園子と付き合ってない事なんて、もう今更話に出すまでも無い。俺の誤解は綾瀬の尊厳ごと昨日渚が壊してくれた。だから後は、

 

「返事を聞かせてほしい。ここで、綾瀬の気持ちを聞きたい」

 

 ここまで来て話は後日──なんて展開はやってられない。俺が綾瀬に告白するって決意するまで、告白しても死の危険が無くなるこの状況に辿り着くまで、信じられないほどの時間が掛ったんだ。もうケリをつける。

 もっとも、事ここに置いて綾瀬の気持ちを聞きたいなんて言っても、期待してる答えは1つだけ。ここで綾瀬にフラれるなんて展開はみじんも想像しちゃいない

 ていうか、今日までの日々を踏まえてフラれるなんてありえない、もし仮に万が一でもフラれたなら、俺は自分から園子の家の花の養分になってやるさ。

 

 そんな不退転の覚悟でいる俺の心中を知らないでいる綾瀬は、視線を俺に合わせたあと瞳を左右に揺らし、最後に俯いて言った。

 

「や──やっぱり信じられない! 

「ああ、ありが──ってええぇ!? 

 

 答えは予想を裏切る『No』だった。

 野々原縁、人生初の告白を盛大にフラれたのである。

 なんか思いだすな……テーマパークで衆目の前で大胆にプロポーズしたら思いっきりフラれた外人男性の動画。そう言えばあの手の大勢の前で告白って男側はロマンチックに思うけど女子は『公衆の面前で断れないから迷惑』って思うみたいな話を聞いた事あるな。

 はは、俺の告白の仕方もだいぶ迷惑な奴じゃん。ブスのイキリ屈伸よりひでぇやへへへ……。

 ──さぁてと、楽に死ねる方法を検索しようかしら。悠に安楽死できる国まで運んでもらう? 

 

「いや待て待て待て、メンをヘラさせるのはもう少し我慢しろ俺」

 

 綾瀬は『ごめんなさい』とか『無理です』とかは言ってない。あくまでも『信じられない』と言ったんだ。まだだ、まだ終わってない! 

 

「信じられないってどうして?」

「だって、あなたいつもアタシ以外の女の子と話すじゃない!」

「……ん?」

「園子や渚、咲夜とだって仲良さげだし、他のクラスメイトとも楽しそうじゃない!」

「……それが理由?」

「そうよ、おかしい!?」

「……………………はぁ」

 

 この──独占欲の塊が!! 

 ああそうだ、『殺される』って要素ばかりにずっと頭が行ってたけどヤンデレって元来物凄く、それこそ極端すぎるくらい『独占欲』がある物だった。

 今までは全員に等しく接する事で『あの人とばっかり』って思われる状況(ないしそこから生じる修羅場の可能性)を潰してきたワケだが──今こうしてただ一人だけに想いを伝えようとなると、一般女性ならともかくヤンデレ属性な綾瀬には俺が『色んな女と仲良くする浮気性な男』に映ってしまうワケだ。

 

「──日頃の、行いが……っ!」

 

 確かにヤンデレ発動させないためには有効的かつ必要な行動ばかりだったけど、事ここに至って一番足を引っ張るのが今日までの自分自身になると、誰が予想しただろうか。

 駄目だ、打ち破らないと。今までの俺がした事のない行動で綾瀬に気持ちを示さなきゃ。

 抱きしめる? それもうだいぶ前にやってる──やってるのに何で告白とかしなかった過去の俺! いやするわけないか当時は。

 殴る……お前は自分から破滅に向かいたいのか。こんなの選択肢として思い浮かべること自体あり得ないっての。

 それなら、やっぱり──正直チャラ男のやりそうな行為にも思えるけど──とにかくコレしかない! 

 

「……縁、どうしたのさっきから黙って……何か言ってよ」

 

 ほんの少し考えすぎたらしい。俯いてた顔をあげて、心配そうに俺を見ている。

 ちょうどいい、肩を掴んでる手を放さずに済んだ。

 

「綾瀬」

 

 ほんと何も言わずにいきなりは嫌だったので、ことわりの意味を込めて名前を呼ぶ。そうして、

 

「なに──ん……っ!」

 

 自分と綾瀬の唇の距離をゼロにした。

 

「……」

「……」

 

 俺は動かないし、綾瀬も動かなかった。

 ただ、綾瀬の呼吸する息がそっと当たって、自分から始めたのに今している行為がどんなモノかってのを改めて自覚した。

 たっぷり10秒間くらい、もしかしたらほんの数秒だったかもしれないが、俺が自分の気持ちを示すのに適したと思うくらい経ってから、また綾瀬との距離を作る。

 

 俺は気が付くと綾瀬にも聞こえてしまうんじゃないかって程に強く鳴る心臓の鼓動に耐えながら、綾瀬に言った。

 

「いちおう、ファーストって奴だけど……これで、信じてもらえるでしょふか」

 

 駄目だ、この土壇場で噛みやがった俺。

 

「……」

 

 自分の間抜けな活舌にヘイトを生む俺とは違い、綾瀬はどこか呆然とした顔とまん丸に広げた瞳で俺を見ている。

 そうして、そっと左手の指を唇に添えた。

 

「……さいてい、アタシだって初めてだったのに」

「うっ、ごめん……」

 

 女の子のファーストキスを強引に取ってしまったという罪悪感と、綾瀬と初めてキスしたのが自分だったっていう嬉しさが同時に、悪いけど後者の方が圧倒的だが、とにかく弁明するしかない。

 

「どうしてもこれしか、綾瀬に信じてもらう方法が──」

「タイミングも急だし、なんかこれじゃあキスして誤魔化そうとしてるだけみたいよ」

「そんなつもりじゃないって!」

「だめ、やっぱ信じられない」

 

 そんな……これでも駄目なのか? 

 いよいよもって俺が強引に女の唇奪ったカス男になってしまった事に、未体験の頭痛が側頭部あたりから生まれる。

 いたたまれなくなり、綾瀬の肩を掴んでいた手を離す。

 するとその直後──、

 

「だから──」

 

 俺の手をそっと掴んで、綾瀬が言った。

 

「まだ足りないから、もう一回して」

 

 ──何も言葉が出てこなかった。

 

「ん──」

「……っ~~!」

 

 唇を合わせて、離す。

 

「……はぁ、だめ、もう一回」

 

 それが、スイッチだったのかもしれない。

 

 

「もう一回、ねぇ」

 

「……みじかい。もっと」

 

「まだやめないで、おねがい」

 

 ──ファーストキスの後、何回キスをしたのか数えるのもできないくらい、俺と綾瀬は何度も何度もキスをした。

 心臓は破裂しそうだったけど、途中からはもうそんなのどうでもよくなった。

 

「ねぇ、抱きしめて。ぎゅって」

「先に言われた」

 

 唇だけじゃ足りなくなった俺たちは抱き合って、体の距離も無になる。

 互いの身体の温度や柔らかさ、匂い、心臓の高鳴り──全部が共有の物になっていく。

『幼なじみ』の距離感じゃ一生分からなかった『綾瀬』が膨大な情報量で俺の中に入っていく。

 

「綾瀬、もう一回キスしていい?」

「ふふ、なにそれ……さっきは無理やりしたのに」

「──でもさ、なんかこう、聞きたくて」

「良いわよ。──んっ」

 

 許可をもらった直後、俺から綾瀬にキスをする。

 さっきまではするたびに目を閉じていたが、今度はちゃんと綾瀬の目を見てしたかった。

 同じことを思っていたのか、綾瀬も俺をしっかりと瞳の中に映している。

 

「……」

 

 ──が、何かを決めたように瞳をきゅっと閉じた。

 

「──!?」

 

 ゼロからマイナスに、口を通じて俺達の距離が更に狭まった。

 いきなりの事に戸惑いと喜びと興奮がないまぜになりつつ、俺も綾瀬に同じことをして応える。

 今までにない多幸感でいっきに脳が壊れてしまいそうな感覚に包まれる。が、それはあまり長く続かなかった。

 

『──ぷはっ!』

 

 お互い、息が続かなかったからだ。

 

「ふふ……舌を絡ませちゃうと、あまり呼吸できないわね」

 

 いたずらっ子の様に微笑みながらさっきまで重ねていた自分の舌に軽く触れる綾瀬。その仕草があんまりにも淫靡で、わずかに口端からこぼれている唾液に背中が浮くような感覚を覚えてしまう。

 

「アタシたち、さっきまで幼なじみだったのに……一気に進んじゃったわね」

「……ホントにな」

「ねぇ、縁」

「ん?」

「好き。アタシもあなたが好き、世界中の誰よりもあなたが大好きなの」

「──うん」

「アタシを、あなたの彼女にして」

 

 キスの後の、告白。

 

 もう少し理性が残ってれば、『順番が逆だな』なんて茶化す余裕もあったが。

 今の俺には、ただ純粋に切望していた返事が来た事への喜びしか無かった。

 

 さっきよりもっと強く、綾瀬を抱きしめる。

 それに綾瀬も応えるように、俺の背にそっと手を回し、耳元にささやいた。

 

「ねえ縁……もっと先の事も、しない?」

 

 その言葉は、俺の最後のためらいをぶっ壊すのに充分過ぎた。

 抱きしめていた手を離し、少しだけ、綾瀬との間に余計な空間を作る。

 そうして改めて向き合う形になった俺たちは、今までないほど真っ赤な顔で見つめ合い。

 

 小さく綾瀬が頷いたのを見て、ゆっくりと綾瀬の服に手を伸ばす。

 震える指先が綾瀬の服に触れる。綾瀬は潤んだ瞳でそれを見る。そして──、

 

いつまで発情してるのよアンタたち

 

 ひょっこりと現れた咲夜が、いきなりそんな事を言い出した。

 

『────っッッ!?!??!??!?!』

 

 まるで思いっきりぶん殴られた様に俺と綾瀬は互いの背後にぶっ飛び、それぞれがソファの端から転げ落ちた。

 

「な、なな、な……何で」

「ふん、なんて情けない顔。あたしの皮膚が汚れるわ、庶民が見るんじゃないわよ」

 

 懐かしい蔑称をしてくる咲夜だが、俺も綾瀬も何故このタイミングで、しかも咲夜が現れるのかが理解できずに狼狽と困惑を繰り返すばかりだった。

 

「咲夜、待てって──ああもう、やっぱりやらかした!」

 

 ついで、いつの間にか空いていたリビングの扉の先から悠が現れる。

 現状を見て何かを察したのか、来て早々頭を抱える親友。

 

「何よ、やらかそうとしたのはこいつらじゃない」

「そうだけどそうじゃないだろ!」

「何よ、今から全員ここに来るのにナニしようとしたのを止めたのよ? 感謝してほしいくらいなのに」

「ナニって……何しようとしてたのさ縁!?」

「そりゃナニじゃない」

「黙ってろ咲夜!!」

 

 もう、なんだこれ。

 さっきまでと空気の高低差が酷すぎて死にそう。

 っていうか、親友と後輩に自分たちがやろうとしてた事赤裸々にされてホントに憤死しそうなんだが……綾瀬もこの世の終わりみたいな顔してるよ。

 

「──もう、2人とも騒ぎですよ。2人とも状況が分からなくて呆然としてるじゃないですか」

「いいんです、柏木さん。お兄ちゃんも綾瀬さんも、どうっせこの先人目も憚らないバカップルになるんですから。今のうちに恥を感じれば」

 

 そんな事言いながら、最後に園子と渚が、互いにスーパー『ナイスボート』のロゴがあるビニール袋を引っ提げて現れる。

 

「ごめんなさい、縁くん。さっき悠君と渚ちゃんから連絡もらって、今日はここでみんなカレーを食べようってお誘いを受けたんです」

「カレー……」

 

 ああ、そういや片づけてる時に食材やルーを見たな。

 

「どうせ2人とも痴話げんかみたいな事やってると思ったから、買い物の時間を多めにとったのに……お兄ちゃん、ほんとに流されやすいんだから」

 

 呆れた声で言う渚が指をさしたのは、リビングに掛けた時計。

 見れば、俺が急いで駆け付けた16時頃から時計の針は進み、とっくに17時半になっていた。

 え──俺ら、1時間半くらいもああやってたのか!? 

 

「か、かがぁ……ぁがぎぃ」

 

 我ながらほんとに恥ずかしくなって頭を抱えそうになるが、綾瀬はそれ以上に恥ずかしいだろうから我慢した。

 見れば、もう綾瀬は顔を覆っている。

 

 そんな俺達を見やり、渚はもう一度深いため息をこぼした後。

 一転してわが子を許す母親みたいな笑顔になった。

 

「──まぁ、でもこれで、晴れて2人とも恋人同士になったのね。……おめでとうっ、お兄ちゃん!」

 

 その言葉を皮切りに、悠たちも続いて言う。

 

「ようやく、こじれてた2人がくっ付いたか。長かったなぁ……」

「おめでとうございます、綾瀬さん。想いが叶いましたね」

「あたしは別にどうでも良いけど……あたしの見る場所でギスギスされちゃ迷惑だったから、やっとこれで静かになるわね!」

 

「みんな……咲夜は除く」

「ちょっと、なんでよ!」

 

 咲夜をからかえた。うん、心にちょっと余裕が戻ってきた。

 じゃあ、俺があとやるべき事は何かって言えば──、

 

「綾瀬、ほら立って」

「え、ええ?」

 

 顔を覆ってた指の間からみんな見てた綾瀬の手を取り、立ち上がらせる。

 そのまま有無を言わずに綾瀬の腕に自分の腕を絡めた。

 

 園子が気持ちを押し殺し、渚が場を用意してくれた。

 だから、堂々と宣言する。そして綾瀬を安心させよう。

 

「今日から、俺の彼女の綾瀬です。よろしくお願いします!」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 それから、数日が経った。

 

「ごめんね遅くなって! 今すぐ夕ご飯の準備するから、テレビでも見ながら待ってて!」

 

 トタトタと急いだ様子で、綾瀬がリビングに姿を見せた。

 今日は綾瀬が夕ご飯を作りたいとのことで、家に来る事になっていた。

 

「今日はね、八宝菜にしようと思ってるの。中華好きでしょ?」

 

 そういって、両手に持ったエコバックの中にある食材を見せる綾瀬。

 以前から見ていた仕草が、恋人になってからは一層可愛く映るから不思議なものだ。

 

「渚ちゃんは……やっぱり居ないか」

 

 八宝菜に使う白菜をザクザクと切りながら、綾瀬は少し控えめに言った。

 

「ああ。今日は園子と外で食べるってさ。なんか悠や咲夜も一緒するらしい」

「えぇー、アタシたち以外部員全員じゃない」

「な? しかも悠の奴だけ野郎だ」

「……うらやましいの?」

 

 料理の手が止まる。

 

「悠君が女の子に囲まれて、うらやましい?」

 

 じっと、肩から上だけを俺に向けて、綾瀬がまっすぐ俺を見る。

 先ほどまでの和気あいあいとした空気とは一変し、重苦しい気配が立ちこみ始める。

 

「ねえどうなの、答えて。うらやましいの? 彼女といるよりみんなと居たかった?」

「……綾瀬」

 

 質問にはすぐ答えることはせず、俺は綾瀬の前──包丁を握ったままの綾瀬の前まで近づく。

 そして──。

 

「わざと怖い声出すのやめぃ」

「──ぁは!」

 

 ていっ、と軽く頭のリボンにチョップした。

 やられた綾瀬も、期待してたとばかりに小さく笑う。

 

「この声で迫るとあなた、一気に緊張するんだもん。可愛くてついやっちゃう」

「そんなの求めなくていいから」

「彼女としては色んな顔の縁をみたいの」

「ああそうですか、じゃあ」

 

 そこで言葉をいったん止めて、綾瀬の隣……まな板の前に立ち、まだ綾瀬が手を付けていない食材を持つ。

 

「どうせ見るなら、彼女の横で料理を一緒に作る彼氏の顔を見てください」

「……あはは、台所狭くなっちゃうのにぃ」

「くっつくからいいじゃん」

「もう、そんな事言って……ねぇ」

「ん?」

「……好き」

 

 食材を思わず手からこぼしそうになったのを誤魔化して、俺も返す。

 

「ありがとう、俺も好きだよ」

「──あはっ!」

 

 頭のリボンを揺らして、はにかむ綾瀬。

 その横顔を、この幸せを、どうかこれからもかみしめて、生きていきたい。

 

 ──でも、

 

「これからも、よろしくね。縁」

 

 あまりにも幸せ過ぎて、もう死んでもいいかな。

 なんて、思っちゃったりするのだった。

 

「──あぁ。死ぬまで大好きだよ」

「そう。ならアタシの勝ちね、だって──」

 

「死んで体が滅んで、幽霊になったって……あなたを想い続けるから」

 

 

 

 

 END





第3章完です。
ご拝読いただき、ありがとうございました。
よければ感想よろしくお願いします。

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