【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた   作:食卓塩准将

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君の知らない物語-5

 月曜日。オレの意識が表に出る様になって一週間が経った事になる。

 七宮神社へ足を運ぶのは一日ぶりだ。しかし、先週ほぼ毎日通った長い石段はたった一日で様変わりしていた。

 鳥居まで長々と提灯が吊るされ、石段の両端にも置物型の提灯が点々と設置されている。

 

 たった一日でここまで変わるかと驚きつつ、オレは今日も今日とて神社までの道を登っていく。

 祭りの装飾がされてるからか、単に慣れたからか、不思議と足取りは軽く、いつもは登り終える頃に肩で息をしてたのも、今日は平気だった。

 

「──あれ、今日は居ないのか」

 

 ここ最近は登った先の鳥居でオレを待ってくれてた伊織さんの姿は、今日は無かった。

 すぐに昨日の戦果をお伝え出来るかと思ってたのでやや拍子抜けだが、別にこの後すぐ会えるし、何より健康的にもその方が俺も安心するから問題無い。

 鳥居の下で挨拶がてら頭を軽く下げてから、オレは神社の敷地内に足を進めた。

 

「おー、ここも変わってる」

 

 広々としていた空間は、石段と同じ様に祭りの装飾や屋台が設置され始めている。奥には他より頭一つ高い舞台の様な物が建てられており、恐らく伊織さんはこの舞台の上で演舞を披露するのだろう。

 お世辞にも交通の弁が良いとは言えない山の上の神社に、こんなに多くの屋台が来るなんて、正直予想外だった。

 こりゃあいよいよ、たくさん人を呼び込まないとだな。

 

「さて、祭りの準備は良いとして……どこだ?」

 

 肝心の伊織さんの姿がまだ見つからない。時間は間違って居ないはずなのに、どうしたものか。

 

「うーん……お! いたいた」

 

 よく辺りを見回したら、オレ達がよく会話する時のベンチに伊織さんは居た、屋台の影に隠れる形になってすぐ目に映らなかった。

 

「伊織さーん、おはようございます、聞いてくださいよ。昨日何と……伊織さん?」

 

 声を掛けながら近寄ると、異常さがすぐに分かった。

 目の下のクマが酷い。表情も一昨日より更に弱々しく、まるで彼女の周囲だけこってりと深い闇の様だった。

 一昨日は何でも無いと誤魔化されたが、今回はそうもいかない。絶対に何かあった。しかもかなり良く無い事が。

 

「伊織さん。大丈夫ですか?」

 

 はやる気持ちを抑えながら、膝立ちになってベンチに座る彼女の彼女の肩を優しく揺する。するとゆっくり顔を上げながら、彼女の目は視界にオレを捉える。

 

「あ──縁、さん……?」

 

 自分の中に封じ込めていた彼女の意識が、ようやくオレを認識した。

 

「はい、オレです。縁です。凄くやつれてるじゃないですか。熱中症とかじゃ無いですよね、その様子だと」

「……っ!!」

「──うぉっ、い、お?」

 

 いきなり伊織さんがオレに抱きついて来た。

 急な事なので、女の子に抱きつかれたって驚きよりも、姿勢が崩れて後ろに倒れそうなのを堪える方に意識を持っていかれる。

 

「危ないですよ、本当に何が──っ!」

 

 どうにか倒れる事なく受け止めると、先日とは真逆に伊織さんはオレの胸に顔を埋めながら、小さく震えていた。

 瞬間、あらゆるネガティブな単語が頭の中を駆け巡っていく。年頃の女性が震えてしまう様な出来事なんて、幾らでも想定出来る。まさかSNSで人の目につく様になったせいで、誰かに酷い事をされたのでは無いか。

 そんな最悪のシチュエーションが頭に浮かんだ直後、伊織さんの震える口から言葉が漏れ出た。

 

「──い、の」

「はい? 何ですか?」

「きこえ、無いの」

「聞こえない? 何が──いや、もしかして」

 

 すぐに、先日伊織さんが言った言葉を思い出す。同時に、堰を切ったように悲痛な声で彼女は叫んだ。

 

「何も聴こえなくなったの! 何度声を掛けても、意識を向けても、急に何も……こんな事、今まで一回も無かったのに、どうして……どうして!!」

「伊織さん……」

 

 伊織さんは神社の巫女として生きていて、幼い頃から『神の声』を聴いて来た。

 たとえ周りから不気味がられようが、そんな事を気にしないでいられたのは、文字通り神様から見守って貰ってる事を実感出来てたからだ。

 それが急に聴こえなくなって、彼女の心の支柱が崩れてしまった。それがどれ程の混乱と恐怖を生み出したのか、オレには想像すら出来ない。

 

「私──私、どうすれば良いの? 何を間違えたの? 分からない、分からない、分からない分からない分からない!!」

「──くそっ」

 

 ここまで取り乱す人間を相手にした事なんて無い。

 彼女にしか認知し得ない世界で起きた事象に対して、掛けられる言葉も持ち合わせていなかった。

 オレがどうしようも無かった時に、彼女は手を差し伸べてくれたのに、彼女がオレに苦しみを吐露してる今、何も出来ない自分が恨めしい。

 何も言えないオレは、その代わり幾らでも彼女の涙と叫びを受け入れるつもりで、強く強く、伊織さんの体を抱きしめるばかりだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……落ち着きましたか?」

「……えぇ」

 

 幾らか落ち着いた伊織さんが、オレからおずおずと離れてベンチに戻る。

 

「服、汚してごめんなさい……」

「いや、良いですよ」

 

 それよりも、改めて何が起きたのか整理する必要がある。

 

「神様の声ってのが、聴こえなくなったんですね」

「そう、なの……」

「一応聞きますが、いつからかは分かります? 原因が何か分かればどうにかなるかもしれません」

「分からないの、昨日初めて気づいて……こんなの、家族には絶対言えない、私が何か間違えたから声が聴こえなくなった……神に見捨てられたのよ、見捨てられて……」

「伊織さん、大丈夫、大丈夫です。深呼吸」

「っ……」

 

 また錯乱しそうな彼女の手を握り、なるべく優しく声を掛ける。もっとも、オレなんて長年彼女を支えて来た『神の声』にはとても及ばないだろうが。

 それでも、先ほどかなり泣き叫んだのがガス抜きになってたのか、それとも声だけじゃなく手を握ってるからか、伊織さんがまた取り乱す事は無かった。

 

「とにかく、今は落ち着く所から始めましょう。何が理由で聴こえなくなったのか、理由を判明させるのはその後で、ね?」

「……ありがとう、手を握ってくれて」

「滅相もないです」

 

 それにしても、だ。

 オレ自身でさえ野々原縁の意識の覚醒と、一昨日から起きてる記憶の短期的忘却っていう二つの問題があるのに、今度は伊織さんにまで問題が発生するとは。

 すぐにでも原因を究明したいが、本人にも皆目検討が付かないとあれば、オレに分かるわけもない。そうなると後は、この前塚本くんがした様に神社の資料に手掛かりがないか調べるくらいしか手が無いぞ。

 まずは塚本くんが来たら、彼に聞いてみるとしよう。既にオレが知りたい情報をホームページ改装する際に読んでたかも知れない。

 

「取り敢えず、まずは塚本くんが来るのを待ちましょう」

「……? 塚本さんが来てからどうするの?」

「彼がこの前読んだ七宮神社(ここ)の歴史書に、書いてるかもしれませんから、その──」

 

 その、から先の言葉を言おうとして、はたとオレの口は止まってしまった。

 瞬間、息が詰まる。また“あれ”が始まるのをつぶさに理解したが、抗う術も無いまま目の前が白くなって──、

 

「……縁さん、縁さん? 急にどうしたの?」

 

 ──思いっきり背伸びをした時に起こる貧血の様に、ちょっとでも気を緩んだら何もかも崩れてしまいそうな意識をどうにか留める。

 気がつけば、両膝をついて肩で大きく息をしていた。真夏日なのに腰から上の半身が冷えきって、だんだんと引いていた血が通い出すのが分かる。

 

「ヨスガさん、ヨスガさん!? 大丈夫? しっかりして!」

 

 視界がボヤけているが、恐らく隣にいる女の子が、必死の剣幕で俺の肩を揺すりながら心配してくれてる。揺すり過ぎて肩が少し痛いが、こうやって心配して貰えるのは助かる。

 一体何が起きたってんだ、こんな現象今まで起きた事が無い。強いて言うなら、今年の四月に俺が頸城縁の記憶を思い出した時に似た様な目眩があった気もするが……。

 

「うっ……クッソ、マジで何なんだよ」

 

 だいぶ楽になったが、まだ脳に酸素が足りて無い気がする。

 おぼつかない脳みそが脱水症状を懸念しているが、ここに来るまでに一度水分は補給してる……あれ、してたっけ? 

 

「凄い汗……はい、これで拭いたら一回ベンチに横になって、すぐに水持ってくるから」

 

 さっきから凄く心配してくれてるが、これ以上お世話になるのも悪い。何より、見知らぬ女の子と一緒に居るのを綾瀬や渚に知られたら何が起きるか分かったもんじゃ無い。

 僅かなリスクも背負うものじゃ無いし、ここはいち早くこの場を立ち去る事にしよう。

 

「いや、大丈夫だよ。すぐに帰るから」

「──えっ?」

 

 帰ると言った瞬間、女の子は信じられないものを見る様な目で俺を凝視する。

 確かにさっきまでの様子を見た後なら『何言ってんだお前』と思うのも仕方ない。だが、この子の目はそんな怪訝な物を見るものではなく、とんでもないものを見ている人の様な感じで、どうもそれが気に掛かった。

 

「いや、体調も治って来たしさっさと帰るから……あ、え、ん?」

 

 ──そういや、そもそも何で俺はこんな所にいるんだ。

 朝からわざわざ、自分から。こんな見知らぬ場所に居て……今俺を心配してくれてる女の子にしたって、彼女はどうして俺に親しく接してくれてた? 

 

「君は……」

「──っ!」

 

 “君は”──その後に続く言葉が何であるかを察した彼女が、酷く哀しそうな表情を浮かべる。

 それを目の当たりにして──刹那に“あの日”の瑠衣を思い出して──言おうとしていた言葉を口に出し切る前に、思い切り自分の右頬をぶん殴った。

 

「──誰じゃない!!!!!!!」

 

 そうだ、“誰か”なんて聞くまでも無い、彼女は七宮伊織、この七宮神社の巫女で、オレのために力を貸してくれて、オレの過去を受け入れてくれて、オレ自身気づいてなかった心の声に気づかせてくれて──決して、オレの口から誰ですかなんて言っていい存在じゃ無い! 

 

「ああクソ! クソクソクソクソ! まただ、また、昨日は大丈夫だったのに! 何で……クソォ!」

 

 最低最悪な言葉を半分でも口にした自分が許せず、石砂利の地面に額を打ちつける。当然頭が眉間を走るが、その痛みでこのふざけた忘却が収まるなら安い物だ。

 

「縁さん──縁、やめて……良いから、もう、やめてっ!」

「……伊織、さん。ごめんなさい」

 

 何度も地面に頭をぶつけようとするオレを、伊織さんが後ろから羽交い締めの要領で止めた。

 振り払う様な事が出来るはずもなく、額から僅かに流れる自分の血の感覚が、僅かに冷静さを取り戻させてくれた。

 

「ごめんなさい、伊織さん、今……今オレ、完全にあなたの事が分からなくなってた」

 

 それだけじゃ無い。

 

「あなたの事だけじゃ無い、ここがどこか、なんでここにいるのか、何もかも分からなくなってて……一昨日からこうなんです、すぐに思い出すけど今みたいに、少しの間全部忘れてしまうんです……すみません」

 

 伊織さんだって、昨日からずっと苦しんでいるのに、更に余計な負担を押し付けてしまう様で、本当の本当に最低な気持ちになる。

 羽交い締めされて逆に良かった。ただでさえ今さっき伊織さんの悲しむ顔を見たばかりなのに、こんな事を真正面から目を見て言える勇気なんて、持ち合わせて居ない。

 

 果たして伊織さんはオレの言葉を受けて、どう思っているのだろうか。

 そう思った矢先、彼女がぽつりと口にした言葉を、オレは確かに捕らえた。

 

「やっぱり、本当の事なの……」

「本当の事? 何がですか?」

「え──いや、えっと……」

 

 恐らく、伊織さんは無意識に言葉にしてたと思う。オレに聞かれて咄嗟に腕を離して、距離を取ろうとしたのが分かったから。

 すかさず伊織さんの方へ体の向きを変え、逃さない様に今度はオレが彼女の両肩を掴む。さっきまで見られなかった顔も、彼女がオレの間に起きてる現象について何か知ってるかもと思ったら、真っ直ぐ見据えられた。

 

「伊織さん、何を知ってるんですか。オレがさっきみたいに全部分からなくなる原因に、思い当たる事があるんですよね?」

「……っ」

 

 伊織さんはオレから目を逸らす。

 間違いない、この反応は何かを隠してる人のソレだ。

 伊織さんは今、オレが抱えてる問題の原因を知ってて、それを黙っているんだ。

 意地悪や嫌がらせなんて理由でそんな事する人じゃないのは充分知ってる。きっと何か理由があるに違いないが、今はその理由すら知りたい。もう二度と恩のある人を前にして『君は誰だ』なんて言いたくない。

 

「お願いです、教えてください伊織さん」

「……嫌、言いたくない」

「どうしてです、オレはもうあなたや塚本くんを忘れたくないんです!」

「──だって、だって! どうしたって貴方は忘れる、私の事を、忘れちゃうもの!」

「!?」

 

 “どうしたって忘れる”

 その言葉の意味がすぐには理解出来ず、オレは続けて彼女の言葉の真意を問う事が出来なかった。

 いや、正しくは、伊織さんの言葉を受けて“もしかしたら”と頭の中に浮かんだ仮説を確実な物にしたく無いから、自分からそれ以上聞こうとしなかったのかもしれない。

 

 オレは掴んでいた肩から手を離して、だらんと重力に委ねた。

 伊織さんは自分を抱きしめる様に、掴まれてた両肩に手を添えて、ぎゅっと唇を結んで自分の足元だけに視線を向けている。

 まるで全身が鎖で拘束された様に、オレ達は固まっている。もうお互いに何も言えない。何も動けない。永遠にそんな時間が続く様な錯覚すらして──、

 

「──今の言葉、聞き捨てなりませんね」

 

 それはやはり錯覚なのだと、否応がなしに現実を突きつける第三者──塚本くんの言葉が再びこの場を動かした。

 

「話は途中からですが──まぁ正しくは、七宮さんが彼を後ろから止めてる所位から聞いてましたが」

 

 そこそこ中盤から見て居た様だ。

 

「君の記憶が消えてしまうという、通常なら健忘症やアルツハイマーを疑うべき深刻な事態について、七宮さんは何か決定的な情報を持っている。そうとしか見えませんが」

「それは……その……」

 

 塚本くんからの問い掛けに、答えあぐねてしまう伊織さん。その歯切れの悪さは、もはや全面的に彼の発言を肯定してるのと変わらない。

 しかし明確にイエスと返事が来るまで質問を止める気は無いのか、塚本くんは続けて挑発的な言葉を口にした。

 

「もしかして、七宮さんが彼をそうする様に仕向けているんですか?」

「お、おい何言ってるんだ」

「言葉通りですが。一番単純かつ幼稚なロジックです。君の記憶障害──仮に記憶障害と呼称しますが、その原因を作ってるのが七宮さんなら、彼女が原因を知ってるのも、先ほど発言した『結局全て忘れる』と言う発言も頷ける。何故なら全部自分でそう仕組んでるのだから」

「ち、違います! 私はそんな事しない!」

「じゃあ──ああおっと、君はどうか手を出さないで、悪意は無いですよ。七宮さんに優しい君の代わりに言ってるんだから」

 

 オレがすぐにでも彼の口を黙らせようとしたのを、気配で察知して釘を刺して来た。

 オレが伊織さんに強く言えないのを分かった上で、敢えて彼がこんな尋問じみた物言いをしている。文句があるなら自分で聞いてみろ、自分の事だろう──言外にそう言った意味も込められていた。

 

「じゃあ──もし自分が関与してないと言うなら、貴女は彼に証明するべきでは? 彼を大事に思っていて、彼にあらぬ疑いをかけられたく無いなら、自分の知る事を素直に明かすべきだと、思いますよ」

「……」

「──まぁ、ここまで言っておいて何ですが、貴女なりに言えない理由があるんでしょう。ですが、それならそれで理由がある事だけは明言すべきです。彼だって根掘り葉掘り聞こうとはしない筈ですよ、ね?」

 

 それが塚本くんの妥協点、と言う事だろうか。

 ある程度黙秘する事を肯定しつつ、適度に罪悪感を与えて終わりにする。参考にはしたく無いが、ここまでこじれた状態で現状維持を続けるにはこれしか無いという判断だ。

 

 嫌らしい話の畳み方だが、もうこれ以上話したく無い伊織さんを無理に話させないで済むなら、乗るしかない。そう思って彼の言葉を肯定しようとした、その矢先に。

 

「──わかった」

 

 伊織さんが意を決した様に硬い声で言った。

 

「書庫に来て……見せなきゃいけないものがあるから」

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「これ、読んで。ここに今のあなたに起きてる現象の理由が書いてる、から」

 

 書庫に来て伊織さんが本棚と壁の隙間から取り出した、一冊の手記。

 そんな所に手記を隠してた事に驚くオレと、『どうりで残り冊数の割に見つからないわけだ』と納得する塚本くん、二者二様の反応を見せてから、すぐに内容の把握に移った。

 ──そして、すぐに全ての理由が判明した。

 

「……肉体の本来の持ち主が意識を取り戻す代わりに、その間の記憶を全て忘れてしまう」

「ふむ……記憶喪失の人間でそういった事例がありますが、前世の人格や意識が途絶えた場合も似た様な事が起きるとは……学者に言えば鼻で笑われる事ですが、興味深い記述である事は違いないですね」

 

 これまた、全く異なる反応を示すオレと塚本くん。

 ただし、これについてはオレの反応が奇異なだけで普通は塚本くんの抱く感想の方があるべきものだが。

 

 手記には、神社でお世話になった男が三ヶ月七宮神社に住み込みとして働き、その間に起きた出来事や、人間関係について記されて居た。

 三ヶ月の間に、当初は状況に戸惑ってばかりだった男も徐々に適応していき、今より多く来て居た参拝客らとも交友を深めていく中で、生前とは異なる新たな人間関係築いていく。

 しかしある日、何の前触れもなく肉体の本来の意識が表出する。

 本来の意識を取り戻した男は、始めて神社に来た様に自分が何故ここに居るのかを尋ねた。神主は丁寧に状況を全て細かく説明したが、男は聞いた話を一切記憶していなかった。

 

 まるで幻の様に、男の中にあった“前世の人格”とそれが紡いだ時間は、本来の意識が目覚めると同時に消滅したのだ。

 

 つまり、つまりだ。

 ここに書かれた事と同じ事が、今のオレに起きようとしていると、伊織さんは考えている。

 伊織さんが頑なに言いたくなかった理由が分かった途端、急に怖くなってしまった。

 

「問題はです、これを七宮さんが見せたくなかった理由何ですが……」

 

 塚本くんがオレと伊織さんを交互に見ながら、オレの持つ手記を指差して言う。

 

「彼は“友人の頼み”で前世の記憶について調べてたんですね? であれば隠す必要なんて皆無で、むしろ率先して見せるべきだ。──もし、その話が本当であればね」

「……塚本くん、それについては、オレが言うよ」

 

 塚本くんにとってのもう一つの疑問には、オレが答えるべきだ。

 到底信じて貰えない事を分かった上で、オレは本当の事を──死者の意識であるオレが野々原縁の意識を起こすために動いてた事を明かした。

 

「──馬鹿にしてます?」

 

 全て聴き終えた後の第一声がそれだった。

 あんまりな発言ではあるが、今まで野々原縁が打ち明けた相手や、伊織さんが特別理解のある人だっただけで、彼の反応こそが本来多数派である。

 

「証拠は無い、だから信じて貰うしかなくて……でも、あり得ないと思うよな」

「正直、頭の病院をオススメしたい所ですが──いや、それならあれにも説明はつくか……他にも……」

 

 疑っていた塚本くんの言葉がだんだんと小さくなっていく。果てには考え込む様に黙ってしまった。

 恐らく、先ほどの手記の内容とオレが一昨日彼に『誰だ』と聴いた事を結び付けているんだろう。

 僅か間だが、彼の中で常識と現実がせめぎ合いが起きた結果、彼が選んだのは現実の方だった。

 

「──納得しました、理解は出来ませんが、今の君は野々原縁ではなく、頸城縁だと言う認識で、これからは接しますよ」

「……そうしてくれると助かる」

「──であれば、というか、そうならそうでやっぱり不可解ですよ、七宮さん」

 

 塚本くんの追求は止むどころか、改めて伊織さんへ向けられた。

 

「何故、彼にこの内容を見せたくなかったのですか。貴女が頸城さんの協力をしてるのなら、嘘の理由以上に見せてあげるべきでは?」

 

 確かに、その言葉は的を得ている。

 これが野々原縁の意識が目覚めかけてる前触れだとすれば、オレの本来の目的達成に大きく近づく事となるのだから。

 もうこれ以上調べる必要もない。野々原縁の意識が目覚めるまで、残り僅かな時間を静かに過ごせば、万事解決ハッピーエンドだ。

 

 ……そのはず、なのだが。

 

「彼がここ数日の記憶を失うのは、確かに寂しいですがそれは野々原縁さんには無関係な事。こちらは彼の状況が良くなっていると喜ぶべきでは? 違いますか?」

「それは……そうですけど、でも、だけど……」

「……要領を得ませんね。頸城さん、貴方はどう思ってるんです、自分がこのまま野々原縁さんの体を使い続けるのと、本来の意識が目覚めるの、どちらが望ましいです?」

 

 追求に答えられないでいる伊織さんの姿を見て、塚本くんが同意を求める様にオレに尋ねる。

 伊織さんはどこか縋るような目でオレを見る。そんな伊織さんの視線を受けながら、オレはここ数日の出来事を思い返した。

 

 初めて伊織さんと出会った日の事。

 伊織さんと書庫で談笑しながら手掛かりを探した時間。

 祭りを盛り上げるために塚本くんも交えて過ごした時間。

 そして何よりも──夜の神社で交わした会話と、優しく抱きしめてくれた温かさ。

 

「オレは……」

 

 忘れたくない。それは紛れもない本心だ。

 たとえ野々原縁の意識を目覚めさせる過程で生まれた時間と、気持ちだったとしても。

 この気持ちと、記憶を、忘れたく無い。

 

 そう、口にしようとした瞬間に──、

 

『僕も早くヨスガに会いたいからね、出来るだけ早く起こしてくれると嬉しい』

 

 昨日出会った、綾小路悠の言葉が脳裏を駆けた。

 続けて、電話越しに聴いた野々原渚や、その両親。

 それだけじゃ無い、オレは会ってないが、幼なじみの河本綾瀬や、園芸部の柏木園子……オレが“ヤンデレCDのキャラクター”と認識しているが、野々原縁にとっては掛け替えの無い存在たちの姿。

 

 ……あぁ、そうだ、そうだったな。

 オレにとってここ数日の思い出が大事な様に。

 瑠衣や堀内との思い出が無二の宝である様に。

 野々原縁にとっても、野々原渚や綾小路悠達と生きてる時間は替え難い人生なのだ。

 それを、たとえ野々原縁の前世の人間だとしても──死んだ人間の未練で消し去ってはいけない。

 今年の六月、瑞無の町で“この世界”の瑠衣達に、野々原縁が別れの言葉を告げた時と同じだ。何よりも優先すべきは、今現在この世界に生きている人間。そこに死者が足を引っ張ってはダメなんだ。

 

 ──オレは、消えなくちゃいけないのだ。

 

「オレは──オレも、塚本くんと同じ意見だ」

「──そん、な……」

 

 裏切られた、そう思っているのだろうか。

 何故伊織さんがそんなにまでオレの記憶が消えるのを嫌がるのか、その理由をちゃんと聴きたい。

 でも、それ以上にオレは野々原縁を優先しなきゃいけないんだ。伊織さんを忘れたく無い、一緒に居たいと叫ぶ自分を殺してでも──。

 だから、自分自身に言い聞かせる意味でも、オレははっきりと口にした。

 

「この体の本当あの主人は、あくまでも野々原縁だ。オレじゃ無い……だから、記憶を失っても、仕方ないと思う」

 

 それでも、たとえそうでも──そう言葉を続けようとしたが、それは出来なかった。

 

「帰って!!!」

 

 伊織さんが、悲痛な叫びを書庫の中に響かせる。

 

「伊織さん、オレは──」

「嫌! もう貴方の言葉なんて聴きたくない!」

「──っ」

「帰ってったら!」

 

 髪を振り乱し、目を硬く閉じて、伊織さんは拒絶の言葉をぶつけてくる。

 

「──頸城さん、ここは素直に聴きましょう」

 

 これ以上何を言っても火に油です。そう小声で注釈を入れて、オレの腕を軽く掴む。

 

「……はい」

 

 それに抗わず、オレは忸怩たる思いで書庫を──七宮神社を初めて日の登る時間に後にしたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──すみません、今更過ぎますが、彼女を追い込んでしまって」

「……本当だよ」

 

 帰り道、並んで歩きながら、先ほどの事を振り返る。

 塚本くんはすぐに自分が言い過ぎた事を謝罪したが、オレが彼の発言について批判する資格は無い。

 結局、最後彼女をああもさせたのは、同意したオレなんだから。

 

「──大丈夫かな、伊織さん」

「不味いと思いますよ」

「そんなアッサリと言うかな、君」

「サバサバ系なので」

「サバサバ系自称する女って大抵ジメジメしてるよね」

「ノーコメント、口は災いの元ですよ、頸城さん」

 

 どの口でそれを言うか、そう内心で思いつつ、オレはこれから自分がどうするかを考える。

 不思議と、何の根拠もないが、自分が置かれてる状況を理解したら、記憶が唐突に消える事への恐怖感は消えた気がする。伊織さんを傷つける言葉にはなったが、オレが野々原縁の意識の覚醒を待ってるのは本心だからだ。

 

 だけど、それでもう“野々原縁が目覚めるまで家で寝てる”なんて行動を取るつもりは無い。

 伊織さんが口にした、神社に人がたくさんいる姿を見たいと言う、ささやかな願い。──それを現実にしたい、いいやそれだけじゃない。

 

 野々原縁が目覚めるのは良い、だけどまだ、今はダメだ。

 たとえ、その過程で生まれた副産物の様な思い出だとしても、そこで生まれたモノを、オレは蔑ろにしたくない。

 だから、まだ忘れてちゃいけない。忘れちゃダメなんだ。

 

 何故伊織さんがあそこまでオレが忘れる事を嫌がったのか。

 オレがさっき言いそびれた言葉。

 それらをちゃんと話さないと──伊織さんがオレに向けてくれる真摯な想いに応えないと、オレはまた瑠衣の時と同じ過ちをしたまま終わってしまう。

 

 それだけは、絶対に──死んでも嫌だから。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 縁達を追い出した後、伊織はもう何度目かになる、神の声を聴くための儀式を行い──そして、やはり何も聴こえなかった。

 あれから時間が経ち、とうに夜中を迎えているにも関わらず昨日からずっと聴こえないまま、理由は分からない。

 

「──なんで、どうしてのっ!」

 

 神前でありながら、誰もいない空間で声を荒げる伊織。

 昨日から分からない事ばかりが、延々と自分の頭の中を駆け巡り続けている。

 

 神の声が聴こえない理由だけでは無い。

 頸城縁、彼の記憶が消えてしまう事への強烈な拒否感もまた、伊織は理由を自覚出来ないまま持て余している感情だった。

 

 今日、塚本から言われた言葉は全て正論であると、伊織自身も分かってはいた。

 嘘の理由でも、本来の理由でも、自分があの手記を見つけた時すぐに、縁に教えるべきだった。

 それをせずにどうして、自分は隠してしまったのか。

 そして今も、徐々に彼が消えて野々原縁が目覚めようとしてる事が受け入れられ無いのか。

 

 自分は何のために彼に協力していたのか。

 ここまでの行動と、今の感情が完全に食い違っていて、もう自分じゃどうしたいのか分からない。

 だから神に教えて欲しいのに、その神からも見放されてしまった。

 

「私は──私は、どうすれば良いの……どうしたいのよ」

 

 もはや、誰に問い掛けても返ってこない言葉を空に投げる。

 

 ──が、しかし。

 

「答えに気づかないフリをするのはやめたらどうですか?」

 

 その言葉に返事を返す存在が、不意に現れた。

 

「誰っ!」

 

 ここは神社の本殿、しかも御神体を祀っている前だ。

 そこに加えて夜遅く。ただでさえ無関係な人間が入らない場所に、人が立ち歩かない時間帯。

 伊織は瞬時に心を切り替えて、罰当たりな侵入者への警戒心を剥き出しにしつつ、御神体のそばに掛けてあった御幣を手に取った。

 

「……すみません、罰当たりなのは自覚してますが──生憎と、こちらの信仰対象は“情報”なので」

「──塚本、さん?」

 

 暗闇から姿を見せた声の主人は、まさかの塚本千里だった。

 何故彼がここに、そんな驚きが瞬く間に警戒心を弛ませる。

 塚本は普段通りの柔和な笑顔のまま、そんな伊織に言った。

 

「認めたら楽になりますよ、貴女が必死に目を逸らしてる本心を」

 

 その言葉で、弛みかけてた警戒心を再度絞らせる。

 そう、彼は神職しか踏み入ってはならない神前に音もなく忍び寄ったのだ。たとえ知ってる人間でも、危険人物である事は間違いない。

 初めて会った時から尋常では無い気配を感じていたが、それがたった今確信に変わる。

 何よりも、彼の言葉がまた自分を掻き乱そうとしてる事が、伊織には耐え難かった。

 

「──何を言ってるか、全く分からないわ」

「あ、ようやく、敬語やめてくれましたね。距離感が縮まった錯覚がして嬉しさと虚しさがダブルで来ました」

「ふざけないで!」

 

 本当に、昼間の彼と同じ人間なのか。伊織は訝しんだ。

 佇まいや発言の雰囲気は同じ。しかし、纏っている雰囲気……邪気は、昼間も含めた今まで見てきた彼には全く無かった。

 

「──歴史書に書いてましたが」

 

 そんな伊織の警戒心も意に介さず、塚本は言葉を続ける。

 

「貴女達七宮の巫女は皆──、神に自身の意識と精神、そして人生を全て集中して、声を聴くらしいですね」

「……それが、なに」

 

 そんな事はとうの昔に知っている。まさに釈迦に説法……新色が使う例えとして適切かはともかく、伊織にとっては知り尽くした話題だ。

 

「──まだ分かりませんか?」

 

 いい加減、伊織も我慢の限界が近くなってきた。

 この男はどこまで、人の精神を逆撫でする話し方をすれば気に済むのだろうか。

 

「ああもう、その御幣の中身()を見せるのはやめてくださいよ? 分からないなら全部言いますが、よろしいですね?」

「──っ!」

 

 こちらの手の内を分かりきった上で、塚本は自分を挑発──否、まさかと思うが、アドバイスをしている? 

 いよいよ持って彼の本心が分からなくなった伊織は、続く塚本の言葉を──聞いてはいけない言葉を耳に入れてしまった。

 

「声が聴こえないというのはつまり──単に、神様よりも意識してる人が、神に集中できない……神より大事な存在が居るからでは?」

「……なんですって」

 

 反応は静かだが、まるで爆弾でも投げ込まれた様な衝撃が、彼女の内を襲った。

 気がつけば伊織は塚本から目を逸らし、握っていた御幣を落として自分の顔を手で覆い隠す。

 

 まるで食中毒でもかかった様に、脳が咀嚼して飲み込んでから、じわじわと──そして瞬く間に、塚本の言葉が全身に満ちていった。

 

 自分に、神以上に意識してる存在が居る。

 そんな馬鹿な、あり得ない。全ては塚本の妄言だ──そう意を唱える声は自分の中に全く居なかった。

 信じられない事に、塚本の言葉を受けて最初に伊織が受けた感情は、怒りでも困惑でも動揺でも無い──納得だった。

 そう、伊織は瞬間に納得したのだ。塚本の言葉を全面的に肯定した……神に全てを捧げるべきである自分の中に、神より大事な人間──頸城縁を想っている事に。

 

「あ……あぁ……」

 

 そうだ、分かっていた。分かっていたのだ。塚本の言う通り。

 

「ああぁ……」

 

 自分がいつからか──頸城縁に恋をしていた事など、わざわざ言われるまでも無く、自覚していた恋心なのだから。

 

 しかし、これを認めるわけにはいかなかった。

 巫女だから? ……それもある。いや本来であればそれが全ての理由であるべきだが、今の伊織にとってそれはもはや一番の理由では無い。

 

 では、何が彼女に自身の恋心を見て見ぬ振りさせたのか。

 それは、縁が今もなお、消えつつある存在である事。

 頸城縁は本来の体の主人である野々原縁の中に溶けつつあり、彼が自分と過ごした時間が、幻の如く消え去ろうとしている事。

 ──自分を、忘れ去られてしまう事。

 

「あああぁ……っ!!!」

 

 だから、この恋は認めてはいけなかった。

 だって、それは認めたら最後、恋では無く呪いに変わる。

 生まれて初めて懐いた他者への恋心、しかしその想い人は消え去りつつある、叶わない恋。

 

 だが、諦められない。一度認めてしまえば最後、もう彼を失ってしまう事が、彼の中から自分が消える事が耐えられない。

 

 つまりは、それが彼の願い──野々原縁の目覚めに拒否感を覚えた理由なのだ。

 本来の目的とあまりに対極に位置する、自身の欲望。矛盾したエゴは、恋という(かたち)を自覚して、瞬く間に膨れあがろうとしていた。

 

「──ダメ!!」

 

 伊織は手を払う。

 まるで最後の防衛ラインを死守するかの様に、自分自身へ(くびき)を打つ様に。

 ──既に、塚本千里の姿はどこにも居なかった。

 

「ダメ、ダメ、ダメダメダメダメ……絶対に、ダメなんだから!」

 

 この恋心は、彼の望みを叶えない。

 彼の事が好きならば、自分はこの恋を永遠に封じ込めなければならない。

 であるならば、今日彼を追い出したのは正解だった。

 きっともう、彼は二度とここには来ないだろう。拒絶した自分を避けて、彼が二度とあの石段を登って自分に笑顔を見せてくれる事は無い。自分を、笑顔にさせてくれる事も無い。

 

 自分を──、

 

「駄目……なのに……」

 

 自分と、ずっと一緒にいて欲しい。

 二度と、来て欲しくない。

 

 相反する二つの心に押し潰されそうになりながらこの日、七宮伊織は初めて恋の苦しみに泣いた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 翌日……正しくは翌日の夕方六時。

 オレは、七宮神社にまた戻って来た。

 この時間まで掛かったのは、単にオレの覚悟不足からだ。

 ここに来る事は昨日から決めていたが、いざ足を運ぶにあたって“本当に良いのか”という疑問が足を引き留めた。

 オレが今から伊織さんに言う言葉は、どこまでも自分勝手なお願いだから。それが伊織さんを苦しめてしまう事だと分かった上で、敢えてそれを口にしようとするのに、どうしても躊躇いが生じてしまった。

 

 だが、それもこうして鳥居の下までくれば、完全に消え去っている。

 この先、オレがどうなるかなんてのはもう、勘定の外だ。覚悟を決めて、境内を進む。

 昨日よりも更に祭りの装飾と屋台が増えた敷地内は、既にいつでも祭りを行える様相だ。

 その中でも一際目立つ演舞舞台。そこに、彼女は居た。

 

 一心不乱に、演舞で用いる御幣を手に演舞の練習をしている姿は、夕方の仄かな明るさと闇の中で一際存在感を放っている。

 あぁ、綺麗だな。素直にそう想った。思えば七宮伊織と言う個人との関わりは多くあったが、巫女としての彼女の姿を見たのはほんの僅かだったと思う。凛とした佇まいで、刀の様に鋭い気配を放つ彼女の姿は、普段オレの前で見せた朗らかな物とは一線を画していた。

 

 その彼女に、オレは言葉を掛ける。

 

「──伊織さん、こんばんは」

 

 演舞の動きがパタっと止まり、まるで錆びついたぜんまい仕掛けの様にゆっくりと、伊織さんはオレを舞台の上から見据えた。

 

「……なんで、来たの」

「来ると思いませんでしたか?」

「……っ」

「話がしたいんです。たとえ忘れるとしても、あなたと」

 

 そう言うと、伊織さんはオレに背を向けて、やや間を置いてから、

 

「──少し、待って」

 

 そう言って舞台から降りて、一度本殿の方へ戻った。

 

「……ふう」

 

 まずは門前払いされずに済んだ事にだけ安堵する。

 伊織さんは舞台の照明に当たってたから、恐らく着替えか汗を拭きに戻ったのだと思う。であればオレは素直に彼女がまた姿を見せるのを待つだけだ。

 

 その後、五分ほど待って──体感ではそれ以上だったが──伊織さんがまたオレの前に姿を見せる。

 

「伊織さん、オレはあなたに──っ!」

 

 先手必勝、とばかりにオレから話を振ろうとした矢先、急に猛烈な目眩が襲った。

 まさか、ここに来てまたアレが来たのか? そう想ったが、そう考えられている時点でこの目眩が今までと異なる物だと言う事に、すぐ気が付いた。

 

 目眩だけじゃ無く、全身が長時間正座した後に来る痺れの様な感覚に包まれる。猛烈な違和感に嘔吐しそうになりながらも、もう一つ普段と違う事に気がつく。

 ──伊織さんが心配する様子を全く見せていない。今まで必ず駆け寄って心配してくれた彼女が、まるで何事もないかの様にその場に佇み、それどころか、

 

「いおり、さん……!」

 

 今まで見せた事の無い、暗澹とした笑顔を浮かべていたのだから。

 最後に、ふと嗅いだ事の無い香が鼻腔をくすぐって、オレは意識を手放した。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 バチバチと何かが小さく弾ける音で目が覚めた。

 

「んぅ……ん、ん?」

 

 オレはいつの間にか見知らぬ部屋で、冷たい木の床に足をだらんと伸ばしながら、壁に背中をぐったりと預ける姿勢で座っていた。

 部屋の右手奥には、何かを祀るために置かれた立派な神棚があり、神棚の両脇には焚き火台がある。先ほどから聞こえるバチバチという音は、焚き火のものだった。

 どうやらさっき目眩で倒れた後、ここまで運ばれたらしい。

 部屋の中は気を失う直前に嗅いだ物と同じ香に満ちていた。

 

「……目が覚めた?」

「伊織さん……」

 

 部屋の左手奥から、ゆらりと、さながら幽鬼じみた足取りで彼女は姿を見せた。

 それは舞台の上にいた時とはまるで異なり、オレはここに来て人間がここまで違う姿を見せられるのかと、見当違いなところに驚いた。

 

「さっきはごめんなさい、手荒なマネをしてしまって」

「一体,何をしたんですか」

 

 先ほど、彼女は身じろぎもせずにオレを気絶させた。

 そして今も、手足にかけて重石でも乗せられてる様な感覚が残っている。

 その時嗅いだ香がこの部屋にも充満しているが、何か関係があるのだろうか。

 幾つもの疑問が頭の中をぐるぐる回る中、伊織さんから来た解答は思いもよらないものだった。

 

「さっき貴方の身に起きたのは私が施した術式、簡易的な封印よ」

「じゅ……なんですって?」

 

 急にぶっ込まれたワードに思わず面食らう。

 伊織さんはオレが困惑するのを分かってた様で、露骨に疑問を抱いてるオレの顔を見てクスクスと笑い、眼前まですっと近づいて説明した。

 

「信じられないわよね、仕方ないわ。今まで一度も話した事無かったから」

 

 そう言って、自分の手をオレの足へと伸ばし、ずっと指を這わせる。脛から膝、そして太ももまで滑らせて、更にその先──自分では気づかなかったが、太ももの裏に貼られていた紙を剥がして、オレの前に見せた。

 

 伊織さんが剥がしたのは一枚の長方形の薄紙。どちらが表裏なのか分からないが、どちらにも墨でびっしりと何かしらの文字が書かれてあり……一目で『呪符』だと理解出来た。

 オレの反応を把握して、伊織さんの言葉が続く。

 

「私はね、古くからこの神社に伝わってきた特別な力を扱う事が出来るの。秘術とか、呪術とか、呼び方は何でも良い……その中の一つを貴方に使った。意識と体の自由を奪う術式をね」

「……マジですか」

 

 信じられないが、嘘だと否定出来る立場では無い。

 元よりオレの存在だって他人から見れば充分あり得ないモノだし、何より実際にこの身でその“術式”というのを受けてしまえば、信じるより他は無い。

 

「すぐに楽になるから、安心して」

 

 そう言って、呪符を手に持ったまま、またオレから離れる伊織さん。

 そして今度は神棚の前に掛けてあった御幣──先ほど、演舞の練習に用いてた物よりも一回り大きくて長い──を手に取る。

 

 一方でオレも、さっきまで思いもよらない展開に頭が持っていかれたが、ようやく現状に対しての心構えが出来上がってきた。

 とにかくオレは、伊織さんに術式を掛けられて、恐らく神社の最奥部──関係者しか足を踏み入れない本殿などに運ばれた。

 それをしたのは全部伊織さんの意思であり、今もなお彼女は何かをしようと動いている。

 流石にそろそろ、彼女の本意を聞かなきゃいけないだろう。

 何故オレにこんなマネをしてまで、無理やり連れて来たのか。そして今から、何をしようとしてるのか。

 

「伊織さん、何でこんな事するんですか」

「貴方が悪いのよ。貴方がここに来てしまったから」

 

 わずかな間もなくオレが悪いと、彼女は言い切った。

 

「もう来ないと思ってたのに、来なければ諦められた、諦めようとしてたのに──でも、貴方は来てしまった。だったらもう、こうするしかないわ」

 

 そう言って、彼女は手に持っていた御幣をまるで刀の様に構え直し──ゆっくりと鈍色の刃を抜き出した。

 

「……嘘だろ」

 

 かなり大きいと思ってたが、まさか御幣だと思ってたものが日本刀だとは、流石に予想外だった。

 

「美しい刀身……あなたもそう思うでしょう?」

 

 焚き火の明かりに照らされた刀身を見ながら,彼女はゆったりとした口調で言う。

 生憎、刀身の美しさを感じる余裕なんて無い。オレが感じるのは、凶器としての恐ろしさだけ。

 その刃がオレの首をはねようとすれば、アッサリとお陀仏するだろう。明確な死をもたらす武器が目の前にあって、平静を保ってるだけで自分を褒めたくなる。

 

「……私が神の声を聴けなくなったって、昨日言ったわよね」

 

 伊織さんが引き続き刀を見ながら言う。

 

「……はい、理由は分からないままだけど」

「私ね、分かったの。理由が」

「──それが、この状況と関係してるんですか」

「…………そうね」

 

 何故かこの質問に対しては、かなりの間を置いて答えた。

 そこに引っ掛かりを感じたが、追及する間も無く伊織さんは言葉を続ける。

 

「私は、幼い時からずっと、身も心も神に捧げるために生きてきた。神の声を聴いて、神の事だけを考えて……そうやってずっと生きてきたの」

「それは、以前も聞きました」

 

 だから、周りからどう思われようと構わず、世間の事なんて何も気にせず、信仰し続けていたと。

 そんな彼女の人生の大半を支え続けたアイデンティティーとも言える、神との繋がり──繋がりを感じられる“声”が聴こえなくなった事が、彼女に大きな衝撃を与えた。

 今彼女がこんな事してるのも、間違いなくそれが理由の一つになっては居るんだろうが……因果関係がハッキリと結び付かない。

 

「……だから、私は恋なんて絶対しない、自分の人生には縁が無いと思ってた」

「……」

「そう思ってたのに」

 

 そこで一度言葉を止めて、彼女はオレを真っ直ぐ見つめて言った。

 

「私は、貴方に恋をしてしまった。神だけを信じてた私が、いつの間にか貴方の事を考えて、貴方の声を聴きたくなっていた。神への信仰よりも貴方を想う事の方が大事になってたの」

 

 それは、あまりにも悲痛な告白だった。

 

「神の声が聴こえなくなったのもそれが理由。私が神と貴方を天秤に掛けて、無自覚のまま貴方を優先したから、神との繋がりを絶ったのは、神を裏切ったのは、私なの」

「……だから、オレを殺すんですか?」

「──いいえ、違うわ」

 

 オレの問いに、一瞬瞳を泳がせながら彼女は答えた。

 その一瞬の仕草に、まだ何か彼女の中で迷いがあるのが伺えた。

 

「私は今まで、誰かを愛する事なんて無かった。初恋なの」

「……それは、光栄です」

「ふふっ、こんな状況でも貴方は、そんな風に言葉を返してくれるのね。ありがとう、好きよ」

「──っ」

 

 こんな歪な状況で無ければ、どんなに心が弾む言葉だろう。

 彼女に好意を持たれる事が、好意を伝えられるなんて、嬉しいに決まってる。

 でも、この状況がそれを許さない。

 

「私は、貴方を失いたく無いからここに連れてきたの」

「どういう意味ですか。監禁なんてしても、オレはもうじき──」

「そう……そうよ! 貴方は消える。貴方は貴方じゃなくなって、私の前から居なくなる!」

「っ!」

「私は生まれて初めて誰かを好きになった。一度自覚したらもう、この気持ちを抑える事なんて出来ない。なのに貴方は消えてしまう、私の事を……私と過ごした時間を全部忘れて──それが、私には許せない!!」

 

 自分の胸に手を当てながら、彼女は叫ぶ。

 

「貴方を失いたく無い、消えて欲しくない、忘れないで欲しい、これからもずっと……祭りが終わったって神社に人が来なくたって、貴方にだけはそばに居て欲しい」

 

 でも、それは叶わない願いだ。

 だって──、

 

「でもそれは、貴方の望みとは相反するモノ。貴方の望みと私の願いは交わらない……だから、もし貴方がまたここに来る事が無ければ、諦めようと思った。そう決めたのに……」

「そういう、事ですか」

 

 だから最初にオレを見た時に言ったのか、何で来たのって。

 

「貴方は来てしまった……ならもう、我慢なんて出来ない」

 

 そう言って、次に刀の切先をオレに向ける。

 

「これは七宮神社に代々伝わる神剣、黄泉比良坂(よもつひらさか)。この刀は斬った者の命をあの世では無く、神の元へと連れて行く……この刀で貴方をその体から解き放つの」

「……本気で言ってるんですか?」

「ええ。それ以外に貴方を残す方法が無いもの……貴方をこの世から切り離して、神の元へ送る。……私も一緒に」

「ちょっと待ってください! それって、貴方も死ぬって事ですか!?」

「死じゃ無いわ……でもその方が貴方に伝わりやすいなら、いまはそれで良い。そうよ、貴方を斬った後は私もすぐに後を追う。そうすればずっと、私は貴方のそばに居られる」

「そんな、考え直してください伊織さん! そんな事しちゃダメです! 間違ってますよ!」

 

 貴方を殺して私も死ぬ、なんて言葉はフィクションの中だけだと思ってたのに、よりによってそれを伊織さんの口から聞く事になるなんて思わなかった。

 彼女の言葉をまとめたらまさにそう言う事だが、つまりはオレのせいで伊織さんが死ぬって意味だ。

 野々原縁を死なせるワケにいかないのは当然の事だが、伊織さんが死ぬのも絶対にダメだ。

 

「考え直してください、あなたが死ぬ必要なんてありません! オレの事を思ってくれてるのは嬉しいですが、こんなの間違ってます!」

「そうかもしれない……私もね、まさか自分がこんな事考えつくなんて思ってなかった。こんな自分勝手な理由で誰かを──それも好きな人と一緒に、なんて」

「だったら──」

「でも、しょうがないじゃない!!」

 

 説得しようとする口が止まる。

 

「それ位、貴方を失いたく無い……貴方がいなくなった後の世界を、生きて行くなんて考えるだけで死にたくなる、貴方と一緒に居られるなら何しても良い──そんな風に考えるくらい、縁くん、私は貴方が好きなの!」

「……」

 

 黒く澱んでいてもなお、真っ直ぐで純粋な想い。

 全身全霊の言葉を前に、もうオレが返せる言葉は無かった。

 

 一歩、また一歩と、伊織さんが歩みを進める。

 オレは身一つ動かさずに、ただ目を閉じて、今日までの日々を反芻する。

 伊織さんと交わした言葉、触れた時の手や体の温度、その積み重ねの行き着く先が今だとすれば、それは仕方ないのかもしれない。

 

 伊織さんの歩く音が目の前で止まった。恐らく、今目を開ければ眼前に彼女が居るんだろう。

 その気配だけを感じて、オレは最後の数瞬を待つ。

 

「それじゃあ、おやすみなさい──またすぐに会いましょう」

 

 刀を構える音が聴こえる。だけどその前に一つだけ、彼女に言わなきゃいけない事がある。

 

「伊織さん、一つだけ、お願いがあります」

「……なに?」

「オレをその刀で斬ったら、神様の所にオレは行くんですよね?」

「えぇ、そうよ」

「それなら、伊織さんはどうかすぐ死んだりしないでください」

「──っ」

 

 それだけが言いたかった。

 オレが彼女の手で死ぬ事を、もう今更どうこう言ったりはしない。

 でも、彼女が後を追うのだけはやめて欲しい。

 

「伊織さんはこれからも生きてください。病気とか事故とかは出来るだけならない様にして、最後まで健康で、楽しい事六割、嫌な事四割な人生を寿命が尽きる日まで、どうか生きてください」

「…………」

「いつか会えるなら、伊織さんにはこの世界で味わえる楽しさをたくさん経験して欲しい」

 

 二十歳を過ぎれば、お酒が飲める。

 社会人になれば、自分の責任で好きな事が出来る。

 十代の人生では想像も出来ない事に、生きていれば必ず巡り会える。

 

「知らない街や遠い国、初めて見る動物や珍しい食べ物、趣味や人との出会い──この先、伊織さんの心を惹きつける何かが絶対待ってます。生きていれば、必ず」

 

 だって、本来死んでるオレが、未来の無くなったはずのオレが、伊織さんと出会えたんだから。

 今を生きてる彼女に、何も起きないワケがない。

 

「この世界は確かに、伊織さんから見たら汚いものが多いかもしれません。神を信仰するあなたにとって邪魔なものが目につくと思います。でもきっと、それだけじゃ無いです」

 

 だから、伊織さんにはこれからも生きて、素晴らしい未来の何かと出会って欲しい。

 

「オレのところに来るのは、その後でも充分です。神様のところがどんな場所か見当もつきませんが、オレは待ってますから。あと、見た目が変わってると思うので、気をつけてください」

 

 最後にちょっと余計な事も言ったが、これでとうとう言う事も尽きた。

 

「以上です──さぁ、どうぞ」

 

 我ながら、もう少し命乞いとかしてみたらどうだ。

 言い切ってから、内心で少しだけ笑った。

 

「──えぇ」

 

 刀が振るわれて空気を斬る音が、鼓膜に届く。

 刹那、冷たく鋭い刃がオレの首に触れた。

 

 ごめんな、野々原縁。

 巻き込んじゃって。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……」

 

 静寂と、時折挟み込む焚き火の音がオレを包む。

 まぶたは閉じたままだが、周囲が何か変わった様な気配は感じない。

 死後の世界がどんなものか分からないが、ひょっとしてこれがそうなのだろうか? 

 いまいち実感が湧かないけれども、瞼を開けば違う景色が映ってるのかもしれない。

 せめて、大っ嫌いな雨模様の天気だけは無い事を願いつつ、オレはゆっくりと目を開いた。

 

「……あれ?」

 

 視界には喉元まで迫った黄泉比良坂の刃と、前傾姿勢で刀を持った姿勢のまま止まってる伊織さんが映っていた。

 これらの視覚情報から得られる結果は一つ。

 伊織さんが首を刎ねる寸前で手を止めて、まだおれが生きているという事。

 

「……斬らないの?」

 

 自分から死を乞うつもりは毛頭無いが、黙ってるワケにもいかない。

 伊織さんは顔を俯かせて表情を見せないまま、震える声でオレに言葉を返した。

 

「──どうして」

 

 ぽたり、木の床に何かが滴り落ちる音がした。

 ゆっくりと、伊織さんが顔を上げる。

 

「どうしてあなたは──そんなに優しいの」

 

 両眼から涙をこぼしながら、彼女は言った。

 

「あなたが優しい人だからです、オレは人によって態度変える性格なので」

「優しくなんて無い、私は理不尽な理由であなたを殺そうとしたのよ? その気になれば逃げられたのに」

 

 体中を支配してた重さは、さっき伊織さんが呪符を剥がした時にすっかり消えていた。

 確かに、オレは逃げようと思えば逃げられたのだ。

 

「逃げて欲しかった、怖がって気味悪がって、頭のおかしい女だと思って私を嫌って欲しかったのに……なのに逃げないどころかあんな言葉まで言われて──そんな貴方を斬るなんて、出来るわけない!」

 

 がしゃん、と黄泉比良坂を手からこぼす。

 神剣を握っていた両の手はそのまま、オレの服の襟を掴んだ。

 

「どうして……どうして貴方は逃げないの!? どうして私の前にまた姿を見せたの!? 貴方は消えるのに、私を忘れて居なくなるのに、そうやって最後まで私の好きな貴方で居続けるのよ!」

「伊織さん……」

「酷いわよ、貴方は……嫌われて終わりたかったのに、最後まで優しくて、最後まで残酷で……」

「──ごめんなさい」

 

 本当にオレと言う人間は、死んでも変わらない。

 自分を想ってくれてる人を、泣かせてばかりだ。

 

「オレ、伊織さんに感謝してるんです」

「──え?」

 

『たくさん泣いて、たくさん哀しんで、そしてたくさん、瑠衣さんと過ごした時間を想ってあげて』

『ほんの僅かな時間だったとしても、どんなに苦しくても、その苦しみや辛さは全部、貴方にとって瑠衣さんがどれだけ大切な人だったかを証明する物だから』

 

「否定するばかりだった自分の過去を、あなたから貰った言葉で初めて、ちゃんと受け入れる事が出来ました」

 

 だから、この恩を必ず返したいと思った。

 そのために祭りの準備にも協力した。

 

「それに決めたんです。もう二度と、自分を真剣に想ってくれる人から逃げない。瑠衣を死なせた日と同じ過ちは繰り返さないって」

 

 だから、伊織さんの刃から逃げると言う発想は無かった。

 だから、伊織さんには死ぬまで生きて欲しかった。

 それに──、

 

「それに、オレが逃げたら伊織さんの中に延々に罪悪感が生まれるでしょう? それだけは、死んでも嫌だったからさ」

 

 これまでの会話でもさり気なく繰り出したジョークを言いながら、オレは笑って言った。

 伊織さんは涙を流しながらもオレの言葉を聴いて、最後に初めてクスッと小さく頬を綻ばせた。

 

「──もう死んでるのに、今更何言ってるのよ」

「あ、初めて指摘してくれましたね。死ぬまで触れられないと思ってました」

「だから──もう……」

「伊織さん」

「なに? ──きゃっ!」

 

 ようやく緊張の糸が緩んだ伊織さんの手を掴み、そのままオレの方へと引き寄せた。

 当然、引っ張られた伊織さんは前のめりに倒れ込み、全身でオレに抱きつく姿勢になる。

 そのまま彼女の背中に腕を回す。急な事にフリーズしてる伊織さんの頭を撫でながら、オレは言った。

 

「伊織さん」

「な、なに?」

「オレを好きになってくれて、ありがとうございます」

「──うん」

「オレも──オレも、あなたが好きです」

 

 一緒に過ごした時間は、とても短い。

 でも、生きてた頃も死んでからも、散々言われた言葉だ。

 

『時間なんて関係ない』

 

 だから、その僅かな時間で自分の中に生まれた気持ちの全てを今ここで、曝け出した。

 

「オレを見つけてくれたあなたが好きです」

「焦って平手打ちするあなたが好きです」

「微笑んでるあなたが好きです」

「真剣な表情で手記を読む時のあなたが好きです」

「暑いのに鳥居の下でオレを待ってるあなたが好きです」

「麦茶の豆知識を披露してるあなたが好きです」

「塚本くんがホームページを見て唸ってたのを見て焦ってるあなたが好きです」

「大笑いしそうなのを我慢してるあなたが好きです」

「演舞の練習をしてるあなたが好きです」

「オレのために泣いて、叫んで、怒ってくれるあなたが好きです」

 

「そんなあなたの事が、好きです」

 

 だから、これは本当に残酷で、伊織さんに負けないくらい自分勝手なお願いだと思うけど。

 

「最後まで、あなたと一緒にいたい。野々原縁の意識が目覚めて、オレが消えるその直前まで、あなたと一緒に生きたいんです。──だめ、ですか?」

 

 伊織さんの腕が、オレを抱きしめる。

 互いに抱き合いながら、彼女は答えた。

 

「だめなんて──言えるわけ無いじゃない」

「うん」

「本当に、残酷な人なんだから」

「ごめん」

「謝らないで……もっと泣きたくなる」

「さっきたくさん好きって言った後に何だけど、泣いてる伊織さんは哀しくなるから困るな」

「あなたが好きだから泣くの、好きだから勝手に涙が出るの」

「──ありがとう。あなたに会えて本当に良かった」

「えぇ。私もよ、あなたと会えて──あなたを好きになれて良かった」

 

 そうやってお互いに想いを交換し合い、小さく笑って──オレ達は、最後の時まで一緒に居ると決めた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 それからの日々は、穏やかに過ぎて行った。

 配り終えたチラシをまた印刷して、七宮神社の周りや、全然違う町まで配った。

 SNSも炎上や身バレに気をつけながら、少しでも遠くの人にも来てもらえる様に更新した。

 もはや必要の無くなった書庫の手記整理も、最後までやり終えた。

 

 途中、塚本くんが来た時に伊織さんとの間に固い空気が流れた時は少し焦ったが、すぐに伊織さんから『あの日はありがとうございます。お陰で気づけました』と頭を下げて、事なきを得た。

 塚本くんにとってそれは想定外だった様で、面食らっていたが、すぐにオレ達の関係が変わったのを察して、小さく微笑みながら『こちらこそ、出過ぎた真似を謝罪します』と謝った。

 

 あの二人の間に何があったのか、気にならないと言えば嘘になるが、殊更知る必要も無いと思ってる。

 塚本くんは後でこっそり『何があったか気にならないんですか?』と尋ねてきたが、『何もかも知れば良いワケでも無い』と断った。

 その時、彼は今まで見せた事も無い、形容し難い表情でオレをしばらく凝視したが、程なく『そう言うのも、アリですね』と返すのみだった。

 

 オレの方はどうかと言えば、不思議とあの夜からは、突発的に記憶が忘却する事は無くなった。

 その代わり、徐々に──しかし確実に、自分の存在が塵の様に薄くなっていく感覚が強くなっていった。

 恐らく、渚達が帰ってくる頃にはもう、オレと言う存在は野々原縁の中に溶けて消えているだろう。

 

 前触れもなくふっと消えるのと、日々自分が消える感覚を自覚するのと、どちらが残酷かと言えば判断が難しい所だが、最後まで伊織さんを伊織さんだと分かって、オレがオレだと分かったまま消える事が出来るなら、オレはそっちの方が良かった。

 

 すっきり出来る事を尽くして、オレは最後の日を迎えた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 けたたましく鳴り響くセミの声。

 

 それを全身に浴びながら、オレは境内の外れにある、ちょこんと伸びている、人一人座れる程度の大きさの石に腰掛けていた。

 普段使っていたベンチは、屋台の人が荷物置き場に使って座れないからだ。

 

 時刻は18時を過ぎていて、夜が顔を覗かせている。

 だが真夏の太陽は沈んでもなお、その面影を大きく残してオレたちの頭上にまだ若干の青空を残していた。

 

 騒がしいのはセミだけじゃない。

 

 境内には屋台が並び、焼きそばとかお好み焼きとか、綿飴とかを買うお客がわいのわいのとはしゃいでるし、あちこちで子供も大人も関係なく、今この瞬間を惜しみなく楽しんでいる。

 

 祭り。

 祭りなのだ、今日は。

 

 七宮神社に老若男女が集まり、その誰もが笑顔を浮かべている。

 伊織さんが見たかった光景が、たった今現実になっていた。

 そんな喜ばしい瞬間を生み出す一助になれたことを、この先の『俺』は覚えていないだろうが、今この瞬間ここに居るオレは、絶対に忘れない。

 

「集客大成功でしたね」

 

 頭にヒーローのお面、両手にはたこ焼きと広島で作られるタイプのお好み焼きの容器、右手の中指には水ヨーヨーをぶら下げた塚本くんが満面の笑みで姿を見せた。

 ドン引きする程の祭りエンジョイフォームだが、着てる服はいつも通り──毎回違う──どっかの学生服だった。

 

「イヤそこまで楽しんでるなら浴衣着ようや!」

「ははは、元気そうで何よりです」

 

 そう言いながら、彼はオレの真横に立った。

 さっきまでのオレと同じ様に、祭りを楽しむ人達を見ながら、話を続ける。

 

「……今日で、君とこうやって会話できるのも最後ですか」

「ん──そうだな。寂しいか?」

「えぇ、とっても」

 

 意外に素直な答えが返ってきたから、驚いて彼の顔を見たら、塚本くんも同じ様にオレを見ていた。

 

「偶然とは言え、君とこうして出会って、過ごした時間は思ったより楽しかったです。それが今日で終わると思えば、寂しく無いと言える程淡白な人間性では無いですよ」

「難しい言い方するなよ」

 

 相変わらず、変な奴だなと笑いながら、オレも素直に言った。

 

「オレも寂しいよ、せっかく出来た友達とサヨナラするのは」

「友達? ……君とは出会って二週間もしないのに、そんな風に言ってくれて良いんですか?」

「お前が言ったんだろ? “時間は関係ない”って」

「……はは」

 

 “そうでしたね”と、彼は薄く微笑んだ。

 

「一つ、お願いしたい事があるんです」

「なんだ?」

「貴方のスマートフォンにある、“塚本千里との連絡履歴”を、全て消してください」

「分かった」

「理由は聞かないんですか?」

「どうせオレが消えたら、野々原縁にとっては謎の人物とのやり取りになって混乱するだろうし、良いよ」

 

 それに、と一度呼吸を置いてから、

 

「前も言ったろ? 何でもかんでも知れば良いワケじゃない」

「そう──そうでしたね、君はそんな哲学の持ち主でした」

「そんな立派なもんじゃないよ」

「……ですが、今回ばかりはそうも言えない。友達と言ってくれた君への、僅かばかりの誠意と思って聞いて欲しい」

 

 真剣な声色で、塚本くんは言った。

 

「塚本千里……君に言ったこの名前は、偽名です」

「……そうなのか」

「本当の名前は明かせませんが──実は日本の裏社会で凄く暗躍してる人達の一人なんですよ、驚きました?」

「いや、別に」

 

 むしろ、今まで感じてた不思議な人って感覚が間違ってないのが分かった。

 

「えー……もっとこう、ビビったり訝しんだりしないの?」

「急に口調変えた方に驚いたよ。あんな速読したりする人間が普通の人なワケないと思ってたし、妥当でしょ」

「うーん……千里塚インフォメーションの凄さをもっと伝えるべき? 嫌でもあまり話し過ぎてもし少しでも記憶に残ったら……七罪位は言ってもワンチャン?」

「おーい、すっかり自分の世界に篭ってキャラ崩壊起こすな」

 

 脛を軽く小突いてこっちの世界に戻した。

 

「ん──失礼しました」

 

 軽く咳払いをして、塚本くん(仮称)は話を続ける。

 

「とにかく、一般人が今後も千里塚インフォメーションとコネクションを持ってたら、回り回って君──と言うより、野々原縁氏が困るかも知れませんからね」

「オッケー」

 

 そう返事して、自分のスマートフォンから彼との通話やSMSの履歴を消していった。その後、消した証拠を見せると、次に彼はこう言った。

 

「ありがとうございます。お礼と言ったら何ですが──一つだけ、貴方の知りたい事を何でも教えてあげますよ」

「え、急に言われてもなぁ……」

「そう言わずに。ただで七罪の力を使える機会なんて今後無いですよ」

「その“ナナツミ”とやらがよく分からないんだが……うーん、そうだなぁ」

 

 国家機密でも何でもどうぞ、と自信たっぷりに息巻いてるが、どうせ何を知ったところで持ち越せないならなぁ……。

 少しだけ考えて、良い考えを思いついた。

 

「それじゃあ、一つ頼めるか?」

「はい、何でしょう」

「オレが消えて、野々原縁が目覚めてからさ……アイツが大変な事になったら、助けてくれないか」

「……さっきの言葉、忘れましたか?」

「まぁそう言わずに、な。オレの記憶やら何やら引き継いでるせいか、野々原縁も大概苦労人だからさ。頼むよ」

 

 そう言いながら、久しぶりにお願いポーズを取る。

 塚本くんは少しだけ考える素振りを見せた後、観念する様に小さくため息をついた。

 

「分かりました、これから先野々原縁さんに何かあれば、力になると約束します」

「ありがとう、無理言って悪い」

「構いませんよ……まぁ、野々原縁さんとは君みたいにソリが合うか分かりませんけど」

「くくっ、メチャクチャ嫌われそうだな、君って距離感の取り方とか雰囲気とか変わってるから」

「確かに。君みたいな歯に衣着せぬ性格な人じゃ無いと駄目かもですね」

「自覚してるなら治そうや」

「嫌です」

「だめだこりゃ」

 

 そう言ってお互い笑い合う。

 

「……さて、そろそろ帰ります」

「そっか……早いね」

「仕事があるのでね。口惜しいですが、七宮さんによろしくお伝えください」

「じゃあしょうがないか……分かった」

「それじゃあ、今生の別れです。さようなら、頸城縁さん。もう一度言うけど、君と過ごした時間は楽しかった」

「あぁ、さようなら塚本千里くん」

 

 そう言って互いに別れを告げた後、彼はゆったりとした足取りで、祭りを楽しむ人達の中に消えて行った。

 

 

「──縁くん」

 

 後ろから優しく語りかけてくる声。

 誰の声かなんて、考えるまでもない。

 確かな確信を持って振り返ると、期待を裏切る事なく彼女──七宮伊織がいた。

 

 見慣れた巫女服も、今日はいつもよりずっと気品高く、清純に見える。

 

「塚本くんがさっきまでいたよ、よろしくだって」

「そう……もう帰ったの?」

「仕事あるってさ。タイミング悪い」

「もしかしたら、気を遣ってくれたのかも」

 

 その可能性は考えていなかった。

 本当に、最後まで読めない奴だったな。彼は。

 

「──今更だけど、アイツって男なんだよな」

「……さぁ?」

 

 もしかしたら、これをアイツに聞けば良かったか? 

 そんな些細な疑問を浮かばせて、すぐに消し飛ばす。

 ここからは、伊織さんとの時間に集中しよう。

 

「演舞は何時からだっけ?」

「七時半よ。だから……」

「今からざっと、一時間くらいは一緒に遊べるって事だ」

「ええ。そうね」

 

 そう言いながら朗らかに笑みを浮かべる。つられてオレも笑顔になる。

 

「それじゃあ、行こっか」

 

 手を差し伸べると、彼女はまだ気恥ずかしそうにしながらも、手を握ってくれた。

 

「行きましょう、縁くん」

「うん」

 

 そう言って、オレ達は二人で賑わう人々の中に混じっていく。

 これからの一時間が、オレにとって彼女と過ごす最後のひと時になる。

 だから悔いのないように、たとえこの身体から記憶が消えても、世界にオレと彼女が過ごした時を刻むため、最高の一時間にしようと決めた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「──すっかり、静かになったね」

「えぇ。祭りの後の静寂ってちょっと寂しいのね」

 

 時刻は九時過ぎ。もう祭りも終わり、人々はそれぞれの家に帰って行った。

 オレと伊織さんは、一番多く共に時間を過ごした書庫の中で、部屋の隅に腰掛けながら祭りの余韻に浸っていた。

 

「──それにしても、伊織さんがあんなに型抜き上手いとは思わなかった」

「ふふっ。集中してやる事が得意なのかも」

 

 型抜きの中で一番難しいのに挑戦したら、オレはものの数分でリタイアしたのに対して、伊織さんは見事にクリアしてみせた。

 周りで見ていた人達よりも、店主が一番驚いてたのが面白かった。

 

「あなたも、輪投げであんなに決めるなんて。私より倍は点数取ってた」

「オレも驚いたよ。……でもまぁ、景品譲ったのは惜しかったかな」

「もう、まだ言うんだから」

「冗談ですよ」

 

 型抜きで負けたが、輪投げは子どもの頃に瑠衣と何度も遊んでた経験を活かして、伊織さんよりダブルスコア以上点数を獲得して見せた。

 だが景品のぬいぐるみは隣でやってた女の子が狙ってた様で、オレがゲットしたのを見て泣き出してしまい、伊織さんが譲ってあげてと言うので渡した、

 惜しい気持ちもあったが、渡した時に満面の笑みでお礼を言われたので、悪い気はしない。

 

 それ以外にも、塚本くんもやってた水ヨーヨーに挑戦してお互いに獲得数ゼロで終わったり、輪投げのリベンジと伊織さんが息巻いた射的やダーツでしのぎを削りあったり、どっちの方が運が良いかの勝負でおみくじを買って爆死したり──とにかく、時間の許す限り屋台を回った。

 途中、SNSの情報から来てくれた人が伊織さんに声を掛けて、隣にいるオレを指して“恋人同士なの? ”と聞く人達が居たり、熱心な神社愛好家がいつか資料を見せて欲しいとお願いしたり、予想外の出来事もあった。

 

 そして奉納演舞では、七宮神社の巫女として、伊織さんが見事な演舞を観客全員に披露し、大きな拍手を生んだ。

 

 どこまでも楽しく、笑顔に満ちた時間だった。

 その最後を、こうして伊織さんと二人きりで締め括る事が出来る。

 本当に……本当に、これがオレの最後の時間で良かったと思う。

 

「──どう?」

「もう、だいぶ薄いです……軽いって言った方が合ってるのかな?」

「──そう」

 

 意識はハッキリしているが、まるで寝落ちする直前の様な、ふとした拍子に消えてしまいそうな感覚がある。

 どうやら、ここまでの様だ。

 

「伊織さん──手を繋いでて良いかな」

「もちろん……はい」

 

 オレが差し出した右手を、伊織さんが左手で優しく握る。

 指と指を絡めて、ぎゅっと強く握り合う。

 握り合う手から、お互いの熱と、存在を感じ合う。

 ──それだけでもう、二人とも充分すぎる程に幸せだった。

 

「──ねぇ、伊織さん?」

「なに?」

「──ありがとう」

「……うん、私こそありがとう。大好きよ」

 

 そう言って、お互いに笑い合い。

 ──オレは、瞼を閉じた。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「……ん、あれ?」

 

 若干の肌寒さで目が覚めた。

 瞼を閉じてた時はもちろんだが、目を覚ましても、辺りは真っ暗だった。

 それもそのはず、俺は人気の無い空間の中に一人、ポツンとベンチに座ってたのだから。

 

 季節は夏真っ盛りとは言え、流石に夜になれば少しは肌寒さも感じるものだ。

 スマートフォンで時刻を確認すると、とっくに夜の十時を迎えていた。

 それにしたって、何だって俺はこんなとこで一人寝てたんだろうか。

 確か今日は、先日から手伝いをしてた神社の祭りがあって、それで……。

 

「──ヨスガさん?」

 

 不意に、声を掛けられた。

 ちょっと驚きつつも声のした方へ顔を向けると、そこに居たのは、

 

「あぁ、七宮さん。こんばんは」

 

 この神社の巫女、七宮さんがいた。

 

「すみません、こんな遅い時間に。なんか疲れて寝ちゃってたみたいで」

「気にしないでください、ヨスガさんも連日手伝って頂いて、疲れが溜まってたんだと思います」

 

 そう言って気遣ってくれるのは、ありがたいが、普通に深夜に差し掛かる時間帯まで寝てたのは、我ながら恥ずかしい。

 確かに、ここ数日は特に祭りの準備に忙しくて、睡眠時間も足りなかったかもしれないが……まさか終わった頃に寝落ちするとは。

 

「まだまだ夏とは言え、風邪を引かない様に気をつけてくださいね」

「はい、それじゃあ目も覚めたんで、帰りますね」

 

 気恥ずかしさを誤魔化す様に頭を軽く掻きながら、俺は踵を返そうとした。──その矢先、

 

「……ヨスガさん? どうしました?」

「──え、あれ?」

 

 不意に、俺の目から涙が溢れた。

 目に何か入ったワケじゃ無い。悲しくなったわけでもない。目だけが勝手に悲しんでるかの様に、理由の分からない涙が溢れ続ける。

 

「──すみません、起きたばかりで、なんか急に涙出てきちゃいました、ははは」

「……いえ、気にしないでください」

 

 腕で涙を拭い、無理やり泣き止ませる。

 そうして、俺は見苦しいものを見せたお詫びに小さく頭を下げて、今度こそ踵を返した。

 

「──ヨスガさん!」

 

 後ろから、七宮さんの呼び止める声がする。

 すぐに足を止めて振り返ると、七宮さんは数瞬間を置いた後に、にこやかに言った。

 

「──何かあったら、相談に来てください。祭りを手伝ってくれたお礼です」

 

 それは助かる。今後渚や綾瀬の事で困った事があったら、相談に乗ってもらうのも……いやダメだな、むしろ修羅場が加速しかねない。

 渚達以外の事で何か起きたら……例えば、悠の事でとか、とにかく修羅場と縁のない案件の時に、また訪ねてみるのも良いだろう。

 

「はい! その時は是非、お世話になります。……それじゃあ!」

 

 そう言って、お互いに笑顔で小さく手を振りながら、七宮さんは社務所に、俺は住み慣れた我が家に、それぞれ別々の目的地へと足を運んでいった。

 渚は明日帰ってくる。

 久しぶりに再開する家族との時間を心待ちにして、俺は急いで自転車を走らせたのだった。

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 野々原縁が長い石段を降りて、自転車に乗り帰宅してくのを、少し離れた木陰の中から一人の人間──塚本千里と自称し、呼称されていた者は見ていた。

 歩き方や振る舞いなど、僅かな違いから、既にあの肉体は本来の持ち主である野々原縁によって動かされている事を、塚本は察した。

 

「──彼はまた、野々原縁の中に溶けましたか」

 

 誰に言うでもなく、一人そう呟く。

 そして、今から二十四時間前に、七宮伊織と交わした会話を思い出した。

 

『彼の記憶を捏造する?』

『はい、私が術式で、彼がこの約二週間、ずっと神社の祭りを手伝って来たという記憶を彼に埋め込みます』

 

 それが、野々原縁が目覚めても急な環境の変化に混乱させずに済ませる方法だと彼女は言った。

 縁はそれに反対しなかったと言う。信頼する彼女に全てを委ねたらしい。

 

『でも、それじゃあ永遠にあなたが苦しい思いをするだけですね』

『いえ……私も、彼が眠りに付いたら、同じ術式を自分に掛けるつもりです』

『──っ、忘れるつもりですか?』

 

 確かに、想い人と同じ顔と声の人を前に、平然を装うのは厳しいだろう。

 しかし、かと言った完全に記憶から消してしまうのは如何なものか。そう言おうとしたが、先にそれを伊織は制して話を続けた。

 

『違います。私は彼と過ごした時間を無かった事にはしません。……でも、これから先彼と過ごした時を思い続けて生きるのも、きっと無理です。いつか我慢が出来なくなった、私は自分の命を断つと思います』

『──では、どう言う意味です』

『この二週間の記憶を、私の心と思い出を──神に捧げます。でもそれは、ただ捧げるんじゃ無いです。もう一つ、記憶を捏造する以外に彼に掛かる術式の“代償”として、この私を捧げるんです』

『それはどんな術式か、聞いても?』

 

 伊織は頷き、まるで子を愛しむ母の様な表情で縁を想いながら、こう言った。

 

『──これから先、彼が死に瀕した時、神の守護が与えられる……神より人を選んだ私が、唯一神の御力を頂くには、供物に“今の私”を捧げるより他は無いんです』

 

 たとえ二度と彼が伊織を愛する事が無かろうと、かつて自分を愛した彼──厳密には、彼の心と記憶を取り込んだ野々原縁のために、頸城縁と過ごした自分を捧げる。

 それは、常人では到底なし得ない狂気の沙汰だ。

 しかし、それを否定できる人間なんてこの世に誰一人居ないだろう。

 ──それ程まで、七宮伊織の頸城縁へ向けた愛は深く、重く、尊い物なのだから。

 

 

「……最早、全ての真相を知るのは、一人だけと言うわけですか」

 

 きっと七宮伊織も、今はもう今日までの日々を忘却して、野々原縁に対して何か強い感情を懐く事は無いのだろう。

 あの二人の間にあった時間を、断片的にとは言え分かっているのは、この世界で塚本千里ただ一人になってしまった。

 

「これを、報告しなければ、ですが」

 

 そう言って、手に持った携帯端末──その画面に書かれた文字を見る。

 

『報告書・対象者、野々原縁』

 

 塚本千里──数時間前、頸城縁に告白した通り、日本の裏社会で大きな影響力を持つ『千里塚インフォメーション』の人間であるこの人物は、この日ただ一つだけ、頸城縁に嘘をついた。

 

 塚本千里は、偶然頸城縁に出会った。

 しかし、塚本が頸城縁の住む街に来たのは、決して慰安旅行や気まぐれの類では無い。

 仕事──野々原縁の調査のためだったのだ。

 

 今年の五月、突如彼は今までの行動パターンから逸脱した動きを取り、友人の綾小路悠の力を最大限に活かして、綾小路咲夜の家系に従属する、彼の通う学園の校長を退任に追い込んだ。

 これにより、咲夜の父方──綾小路本家の人間から、事態の経緯と原因の究明、そしてキーマンである野々原縁の調査依頼が、千里塚インフォメーションに来た。

 そのため、塚本は縁のいる町に来ていたのだが──、

 

「まさか、そこでターゲットに会うだけじゃなく、一緒に過ごして、しかもとんでもない秘密まで知っちゃうなんて、ね」

 

 彼と過ごした僅かな時間を思い出し、クックっと笑う。

 まさかターゲットと思ってた人間が、別の人格になってるなんて思いもしなかった、と。

 本当に、本当に、面白い時間だった。

 

 そんな彼に友達と言われた事も、本当に嬉しかった。

 

「──だから、約束は守りますよ、ヨスガさん」

 

 今後、野々原縁の身に、彼の力だけでは到底解決し得ない事が起きた時、力になる。

 それが、彼と最後に交わした、友達との約束だ。

 

「それに、あの二人の思い出を、無造作に知られるのは……面白く無いですからね」

 

 そう言って端末を操作し、塚本は提出しようとした報告書の中から、事前に記述していた内容の一部──頸城縁の存在と、この約二週間の日々を、削除した。

 

 これは、『野々原縁の報告書』には関係無い。

 塚本が共に過ごしたのは、頸城縁だったのだから。

 屁理屈なのは分かってる。千里塚の人間として相応しく無い行為なのも承知の上。

 

 全て分かった上で、塚本は報告書を提出し──その後、端末を地面に落として、足で粉々に打ち砕いた。

 

 これで、塚本の端末からも頸城縁と、友達と過ごした履歴は消滅した。

 

 彼の生きた証は、永遠に自分の海馬の中にのみ残る。

 彼が最後、伊織とどんな時を過ごしたのかまでは分からないが、それは別に問題では無かった。

 “何でもかんでも知れば良いワケじゃない”。彼と彼女の末期だけは、永遠に二人のみが知る世界であれば良い。

 

「だからそれ以外の全ては──ちゃんと覚え続けていくからね、頸城縁さん」

 

 そう言って、塚本は闇の中に消えて行った。

 

 これは、一夏の幻。

 これは、確かに在った恋の残滓。

 

 そして──これは、野々原縁()の知らない物語。

 

 

 

 END.




番外編、君の知らない物語 これにて終わりです。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。

第二章は既に終わってますが、この番外編をもって、真の意味で第二章は終わったと、書き終えた今は感じています。

詳しい後書きは、活動報告にてさせていただきましたので、良ければそちらも見ていただければと思います。

ここまで読んでいただき、お気に入りや評価などもいただき、誠にありがとうございました。

まだこの作品、もう少し続くので、今後ともよろしくお願い致します。

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