【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた   作:食卓塩准将

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仕事が修羅場になり、前回の更新から3ヶ月ほど空いてしまいました。
1章とは大きくテイストの変わった2章もいよいよ大詰めです。どうか最後までお付き合い頂ければ幸いです。


第拾弐病「好きだから」

 我ながら、一体何をやってるんだと呆れる。

 不良漫画でもないのに、たくさんの生徒が見ている前で殴り合いの喧嘩なんて、本当に馬鹿げている。

 この後は絶対教師達にしこたま指導されるだろうし、生徒達からの評判だって悪くなる、ロクな未来が無い。

 

 それを十分に理解しても尚、俺はもちろんのこと、悠も互いに止まる気はなかった。

 もう既に何発か良いのを貰ってだいぶ体のあちこちが痛いが、気分は萎えるどころじゃない。

 

「温室育ちの坊ちゃんのくせに、よく動くじゃないか」

「育ちが違うんだよ」

 

 こちらの挑発に対して、同じ様に返してくる悠。

 思えば、こうやってアイツと真っ向から対立するなんて事、今日が初めてだ。これまで多少の意見の食い違いはあったにせよ、アイツと『友達』になってからはここまで感情をぶつけ合うなんて事は無かった。

 

 そんな事を考えてると、不意に後ろから声を掛けられた。

 

「な、なにしてるのよアンタ、急に殴り合いなんて始めて」

「ん……」

 

 声の出所は、ほんのさっきまで園芸部の存続を掛けて対立していた綾小路家咲夜だった。

 目を丸々にしながら、殴り合いを始めた俺達を信じられないもの見てる様な表情を浮かべている。

 

「アンタ、悠夜(アイツ)のために私と対立したんじゃないの? それがどうして今度は急にアイツと喧嘩になるのよ!」

 

 それは現状を見てる人なら誰しもが思う事だろう。査問委員会や咲夜に真っ向から対立してまで園芸部や悠のことを守ろうとした俺が、なんでこんな事……俺が見てる側の人間だったら絶対そう思う。

 実を言えば俺だって本当は、こんな事するつもりは無かった。今度アイツの顔を見た時にはきっと、再会できた喜びと安堵で顔が綻ぶものだとばかり思っていた。

 

 けど、いざアイツのツラを拝んだ時、胸中に生まれた感情は全く別のものだった。

 

「だからだよ」

「え?」

 

 咲夜に顔を向けて、俺は答える。

 

「悠を、園芸部を守りたいと思ってたからこそ、アイツを殴らなきゃ気が済まない事に気づいたってこと」

「な、なんでよ。ますます意味不明よ」

「それは」

「よそ見してるなよ!」

 

 咲夜との会話に意識を向けてる間に、悠が拳を握り締めながら一気に間合いを詰めてきた。咄嗟に顔をガードしたが、

 

「うぐっ!」

 

 殴ろうとする拳はフェイントで、悠は走り込みながら姿勢を低くして、ガラ空きになった俺の胴に目掛けてタックルをしてきた。

 幾ら悠が華奢な身体だとしても、全力で走って来た人間のタックルを受けて平気でいられるわけが無い。

 そのまま体勢を崩してしまい、講堂の床に倒れてしまう。

 

 逆に馬乗りの体勢になった悠は、容赦なく拳を振り下ろしてきた。

 

「この、この、この!!」

 

 腕でガードしながら耐えるが、このままではジリ貧だ。かと言って、腕を解けば顔面をタコ殴りにされるのがオチだろう。

 だから、口を動かす事にした。

 

「随分と、怒ってるじゃないか……何がそんなに気に入らないんだよ」

「何が……何がだって!?」

「俺がお前に怒るのはともかく、お前が俺に怒る筋合いなんて、ないだろ」

「──ッ!」

 

 拳が、止まった。

 

「僕がどんな気持ちで、諦めたと思ってるんだ」

「……何を」

「僕がどんな気持ちで! 君達と一緒に過ごす時間を諦めたと思ってるんだって言ってるんだよ!」

 

 ガードの姿勢を解いて、腕の隙間から悠の顔を見上げる。キッと睨むその眼には、僅かながら涙が浮かんでいる様に見えた。

 

「僕じゃ咲夜には敵わない。みんなと一緒に……君と一緒に卒業まで過ごしたいけど、それが無理だと思ったから諦めたんだぞ! なのに君は、自分がどんなに馬鹿なことをしたと思ってるんだ!」

「諦めた? そんなのお前が勝手に決めた事だろ、それで俺に怒るのかよ」

「そうじゃないとみんなに迷惑が掛かるのは、君も充分理解しただろ!」

 

 ああその通りだ。咲夜に逆らえば逆らうほど、どんどん追い詰められていくのを、俺も散々思い知らされた。後にも先にも、ストレスで嘔吐するなんて経験は今回が初めてだったのだから。

 俺だけじゃなく渚や綾瀬、園子も同じ目に遭うのが分かっているから、本当は嫌だけど学園から去る決意をしたんだろう。

 

 それを理解した上で、俺は悠に言った。

 

「それが気に入らないんだよ」

「な……!」

「だいたい、今更それを言ってどうするんだよ。もう咲夜と査問委員会とは決着ついたんだよ。失敗したならともかく成功した俺に怒る権利なんて、それこそ無いだろ」

 

 真っ向から、見上げる姿勢のまま上から目線で悠を否定する

 

「ふざけるなよ!」

 

 当然の様に悠の怒りは再燃し、右手を振り下ろそうとしたが、

 

「いつまでも人の上に乗ってるんじゃねえよ!」

 

 それより早く上半身を起き上がらせて、その勢いのまま悠の顔面めがけて頭突きする。

 声にならない声を上げつつ転げ落ちた悠を追いかけて、俺は痛がる悠の首元を掴む。

 

「どうにかしよう、諦めないで考えようってしてた矢先にアッサリ諦めた、それが気に入らないって言うんだよ!」

 

 悠の顔を見た時、安堵や嬉しさ湧くものだと俺は思っていた。でもいざその時が来たら、俺の中に今日までの記憶がスパークする様に溢れ出た。

 素直に喜ぼうとした自分を、今日この瞬間まで踏ん張ってきた自分自身が止めた。『俺がここまで現状を打破しようと動いたのに、当の本人は何をしていた?』そんな言葉が自分の中で生まれた途端、もう落ち着いて悠の顔を見ることは出来なくなった。だってそうだろう? アイツはアッサリと咲夜に抗うことを放棄した。園芸部のみんなと──俺と一緒に生きる選択肢を投げ捨てたんだ。

 それが──それが何より、一番許せない! 

 

「俺達の関係はそんな簡単に捨てても良いくらい安かったのか? ああダメだ諦めようって思えるちっぽけな繋がりだったのかよ? 確かに、俺たちが出会ってまだ三年しか経ってねえ、片手で数えきれる年数しか一緒に居なかったよ、でもな!」

 

 たとえ一緒に過ごした時間が三年だけと言おうとも、その中身は、時間の濃さは、決して片手で収まりきるモノじゃ無いはずだ。

 

「俺はお前と一緒に過ごした時間が、凄く大事だったんだ。大事だったし、これから先だって続けて行きたいと思ってる。今回の事でお前が俺の前から居なくなるかもしれないと思った時、死にたくなるほど苦しくなった。絶対に嫌だと思った、お前もそう思ってると信じてたから絶対に咲夜に負けないでどうにかならないか考えようとしてた」

 

 話すうちに、どんどん感情が昂ってしまう。

 

「なのに! なんでお前はあんなにアッサリ俺を切り捨てたんだ! 親友だと思ってたのは俺だけで、お前にとっては表面上の付き合いだったのかよ?」

 

 そこまで言った直後、なすがままになっていた悠が同じ様に俺の首元を掴む。グイッと顔を近づけて、ツバが飛ぶのも構わずに言い返してきた。

 

「そんなわけが無いだろ! 極端な事言うなよ! 僕だって君を大事な親友だと思ってる、今だって! 三年『しか』って君は言ったけど君に会ってからの三年間はそれまでの僕の人生全てと天秤に測ったって負けない時間なんだ! だからこそ、咲夜からみんなを──君を守りたくて、それで諦めたんじゃないか!」

 

 ここまで来て、やっと悠は自分の気持ちを言葉に出し始めた。

 

「君が電話を掛けてくれたあの時、君がいつになく意気消沈してるのが分かった、絶対咲夜が何かしたんだって……咲夜を殺したいとすら思ったよ。でも僕が身を引けば、君が僕を見限ってくれたら、それでもう君が苦しむことは無かったんだ。あの時電話を切った僕が淡白に薄情に君の電話を切ったと思うのか!? どれだけ泣きたいのを耐えたと思ってるんだ、どんなに……切りたくないと叫びたかったか、分かるのかよ!」

 

 いつしか涙を流しながら、悠が言葉を弾き出す。

 生徒や教師たちがいる事なんてもう意識の範疇には無い。俺の眼には悠が、悠の眼には俺しか映っていない。

 あの日の電話から途切れていた俺たちの時間の穴を、感情のすれ違いを、世界が急いで修正しようとしてる様な錯覚を覚えた。

 

「お前の気持ちがどうだったのかなんて……分かるかよ」

「な……!」

「だってそうだろ、お前だって俺がこんな事すると思ってなかったんだ、お前が俺の気持ちが分からなかったのに、俺だけ都合良くお前の気持ちを理解なんて出来るわけねぇだろ、だから金持ちのボンボンなんだよお前は!」

「そ……そのボンボンの力を借りなきゃ柏木さんの事だって解決出来なかったのが君じゃないか! 都合いい時ばかり頼るな!」

「自分じゃ足りない所を親友の力に頼って何が悪いんだよ!」

 

 あぁ、もうこんなの開き直りだ。

 そんな事百も承知で口は回る。

 

「だから今回はお前の力は諦めて動いたんだろうが! むしろ褒めろよ! 結局お前怒るんじゃねえか、理不尽なのは咲夜と変わんねえなぁ流石綾小路家だよ。そもそも今回の騒動や園子の時だって大元は、俺も含めた殆どの生徒が関係ないお前ら綾小路家の問題が理由だろ? それを巻き込まれた俺が解決しようとして何が悪いんだよ!」

「それは……確かにそうだけど、でも今回は君の理想通りに事が進んだから良かっただけだ。失敗したらどうなるか考えなかった?」

 

 それは今日に至るまでに何度も考えた事だ。失敗すれば俺一人が咲夜に潰されるだけじゃない。園芸部の全員が等しく咲夜に潰される。それに、

 

「みんなの家族だってタダじゃすまない。何人の人生が君の行動に左右されていたと思ってる! 何も考えてないからそんな事が出来るんだ、これからも君はそうやって自分の気に入らない事について、何人も何人も巻き込んで後先考えず突っ込んでいくのかい!?」

 

 辛辣だが、どれも正論だった。

 そして同時に、俺にそこまで言ってくれる(…………)人間はこの世で悠だけだ。

 渚や園子は俺の気持ちを汲んで背中を押してくれた。綾瀬だってもし俺のやろうとする事を聞いたら、多少止めはしても力を貸してくれるだろう。

 同性の親友だからこそ、真正面からここまで言ってくれる。言葉は厳しいけど、悠が俺を本当に大事に思ってくれてるのは痛いほど分かった。

 だからこそ俺──もハッキリとここは言い返す。ロジカルとは程遠いけれど、悠と同じくらい真正面から。

 

「俺が何を考えて、こんな事したのかって聞いたよな? だったら嫌でも分かる様にハッキリと言うよ、お前が好きだからさ!」

「好きって──えぇええええ!?」

「好きだからこんな事出来るんだろうが、お前と離れたく無いから何でもかんでも手を尽くしたんだ、文句あるか!」

 

 全て言い切った俺は、悠の首元を掴んでいた手を離す。

 すると、悠も俺の首元を掴んだ手を離して、しかもその場にペタンと座り込んでしまった。

 どこかぽぉっとした表情で俺を見上げて、すっかり何も言わなくなる。

 

「お、おい……どうした」

「……っ」

 

 さっきまでの勢いが嘘の様な悠に面食らってると、後ろからポンと肩を掴む感覚があった。振り返ると、園芸部顧問の幹本先生だった。

 

「君たち……二人だけの世界を作るのは学生らしくて素敵だけど、そろそろ現実見渡しましょう?」

「──あ」

 

 俺と悠の間にあった溝を修正し終えた世界は、手のひらを返すように俺に現実を認識させた。つまりは、俺と悠のやりとりの一部始終を見た生徒・教師たちの視線である。

 

「〜〜〜!!!!」

 

 当然、みっちりしこたま怒られた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

「痛っ……」

「ほら、我慢するっ」

 

 案の定生徒指導の先生からタップリとお灸を据えられた俺と悠(不思議とやり玉に上がったのは喧嘩の部分だけで、俺と咲夜の件についてはノータッチだった。ありがたいが)。その後、悠は俺に何か言うことも無いまま、そそくさと帰ってしまった。

 俺もさっさと教室に戻って帰宅しようとしたが、先生から『顔の傷だけでも消毒してこい』と言われてしまい、強制的に保健室に行く事となった。

 

 治療を強要したくせに肝心の保健室には誰もおらず、仕方ないから自分で処置しようとしたところに、俺のかばんを持った綾瀬がやってきた。

 ちょうど消毒液をひたしたコットンを顔につけようとして所だった俺を止めて、自分がやると言い出し、断る理由もない(断ると後が怖そう)ので、素直に任せる事にした。

 

「思ったより、結構あちこち痛いな……唇も切れてたかあ」

「当然よ、あなた凄い綾小路くんに殴られてたんだから。……ほら、首動かさない」

「んぃててて! アゴ掴まないでくれ、そこも痛いんだ結構地味にマジで」

「自業自得。だいたい、いい歳してあんな小学生みたいな喧嘩なんて……最近のあなたはずいぶん大人になってきたなって思ったのに、本当にもう馬鹿なんだから」

「それについては……何も言い返せない」

「それに、あの綾小路さんに向かって急にあんなドラマや映画みたいな事するなんて、私何も聞いてなかった。結果的にはうまく行ったから良かったけど、彼も言った通り凄い怖い事してたって、自覚してる?」

「……ごめん」

 

 今回の俺の行動については、綾瀬には何も知らせずに全て事を進めていた。

 綾瀬が今日まで学園を休んで居なかった事も理由の一つだが、話せば絶対に止められると思ったからと言うのが一番の理由だったからだ。

 

「まぁ、私もずっとここ何日か休んでたから、あなたが言い出すタイミングが無かったのもあると思うけど……園子だって知ってたのに、私は何も知らないでたなんて」

「そ、園子には裏工作に協力してもらったからさ。それに園芸部の部長だし、園子自身も今回の騒動に間接的とは言え一番関わりあったし、だから別に綾瀬を除け者にしたって事は」

「無理に理由並べ立てなくて良いから……あなたはそう言う事しないって分かってるから」

「ん……」

 

 ぴしゃりと言う綾瀬の口調は、咎めるようなものではないとすぐに分かったが、依然として綾瀬自身の雰囲気から剣呑なモノを感じるのは気のせいだろうか。

 こういう時、サラッと原因に気づければ良いのだろうけど、生憎今の俺は心身共に疲れ切ったのもあってその手の思考がダメになっている。だからと言うのもあって、直接聞く事にした。

 

「えーとさ、綾瀬」

「ん、なに?」

「まだ他にも何か、怒ってたりする? いや、してます?」

「別に、怒ってないわよ」

「それ絶対怒ってる時に言う言葉だよね」

「怒ってないったら。なんでそう思うのよ」

「いや、だってこう、何となく綾瀬からそういうオーラが感じるっていうか、その」

 

 小学生の頃、俺がやらかしたイタズラに対して怒る直前の綾瀬がよく見せていた表情や雰囲気とよく似てるから、そう話すと綾瀬はやや間を置いてから言った。

 

「ふーん……そう言えば、昔はあなたから色々イタズラされてたわね。アタシのヘアリボンにあなたの名前書かれたり、教科書こっそり取り替えてたり」

「あははは……すみません」

 

 墓穴を掘ってしまった。かえって過去の行いを責められるハメに。

 そう言えば教科書については当時、怒られはしたけれども俺が取った綾瀬の教科書を返す事は無く、そのままお互いの教科書で一年間すごしたっけ。

 

「そう言うイタズラ、綾小路くんにはしなかったの?」

「へ、悠に? いや、やらないよ流石に」

 

 あれは好意の裏返し的行動というか、まだそう言う感情を自覚したり表現するのが出来なかったのが理由だったわけだし、中学生にもなって同じような事を、しかも同性相手にするわけが無い。

 それくらいの事は流石に綾瀬だって分かるものだと思うが。

 

「ふぅん、彼にはそう言う事はなかったんだ。やっぱり『好きな人』は特別って事ね」

「は……えぇ!?」

 

 まさかとは思うが、綾瀬は俺が喧嘩の最後で悠に言った言葉について、先ほどからずっと怒ってたのか? 

 はぁぁ嘘だろ!? 相手は男だぞ!? そりゃ悠の見た目が本人がちょっと本気出せば俗に言う『男の娘』に慣れるくらいの容姿とは言えども、あの時の『好き』は絶対に『親友として』の言葉だと分かるものだろ。

 

「あ、綾瀬さん……言うまでも無いが俺は男友達として好きって言っただけで、決して綾瀬が思う様な意味では無いんですよ?」

「ふーん……」

「…………」

「…………」

「〜〜っっ」

 

 勘弁して欲しい。

 修羅場に相対する時の心構えはある程度付いてきたが、こういう詰られ方にはまだ全然耐性が無い。

 流石にここから血飛沫が舞う展開は無いと思うし、無言でジト目のままこちらを睨む綾瀬の顔はそれはそれで可愛いけれど。

 

「──ぷっ、あはは!」

 

 とか悩んでたら、急に笑いを噴き出す綾瀬。

 

「あはははは! あなた今、怒られてる時の子犬みたい」

「なっ、あーやーせー! からかったな!」

「だって、困ってるあなたの顔可愛いんだもん、つい、ね?」

「ね? じゃねえよ……もう本当、咲夜相手にするよりもキツかったぞ」

「それはオーバーじゃない?」

「ちっとも」

 

 演技だと分かって安堵する。

 

「でも、アタシだけ何も知らなかったのは、やっぱり寂しかったかな」

「??」

 

 綾瀬が呟いた言葉がちゃんと聞き取れなかった。

 何を言ったのか聞こうとしたが、右頬から痛みが走って言葉をうまく出せなかった。

 

「まだ痛むところあるの?」

 

 心配した綾瀬がグイッと俺の顔を掴んで覗き込んでくる。

 

「やっぱり、口の中も切ってるじゃない。ほら、もっとちゃんと口開けて」

「あ、綾瀬……ちょっと」

「もう、何? 喋るとどこが切れてるか分からな……っ!」

 

 口の中まで見ようとするから、当然顔が近くなる。息が当たるんじゃないかってくらいお互いの距離が近い事に気付いた綾瀬が、瞬間沸騰湯沸かし器もかくやという勢いで赤面する。

 

「ご、ごめんなさい!!」

「いや、謝んなくていい……」

「……」

「……」

 

 先程とはまた違う意味での沈黙が漂う。

 気恥ずかしさから、次の言葉が喉から上に出てこない。

 またしても、この沈黙を破ったのは綾瀬の方からだった。

 

「よ、縁!」

「はい!?」

 

 急に大きな声で名前を呼ばれたから、驚きつつ答えると、綾瀬は自分の膝の辺りをポンっと叩きながら言った。

 

「あ、頭……ここに置いて? 膝枕してあげるから」

「はあ? 急にどうした!?」

 

 恥ずかしさで判断力が落ちたのだろうか。

 

「い、良いから! 言い合いとか殴り合いとか疲れてるでしょ? 膝枕してあげるから!」

「今までの流れとの繋がりがなさ過ぎて意味がわからな──」

「あぁもう、良いから!」

「ぐぇっ──」

 

 肩を掴まれ、無理やり体を引っ張られる。強制的に膝枕の姿勢にされた。

 あまりにも急な展開に頭が『?』で埋め尽くされているが、確かに今日はずっと動きっぱなしだったのもあり、脱力して横になれるのはありがたかった。

 綾瀬の膝……というか太もも辺りだが、高さも柔らかさもちょうど良いから、油断してるとさっきまで張り詰めていた分の緊張がほぐれて、あっという間に眠くなりそう。うん、というかこれはまずい。

 

「あー……綾瀬、もう」

「ねぇ、教えて? アタシが学園を休んでる間、あなたがどう過ごしてきたのか。今日までにどんな事があったのか」

 

 膝枕を終わらせようと提案する前に、綾瀬が質問を投げかけて来た。

 先週綾瀬が学園に来なくなってからの日々について、どうやら綾瀬はこの状態で話を進めたがっているらしい。

 なら仕方ない。物凄く恥ずかしいけど、話すとしよう。

 

 俺は決して綾瀬に顔を向ける事はせず、横になったまま、今日までの出来事を大まかに話した。

 咲夜に聞かされた綾小路家内の対立。俺に託された悠を見捨てるか否かの選択。心が折れかけて咲夜の殺害まで考えていた事と、そんな俺を助けてくれた渚について。

 塚本の事も詳しいやり取りは省いて説明した。あまりアイツの話は振り返りたく無いし、万が一詳しく話した事で何か起きたら嫌だから。

 

 綾瀬は聴きながら合間合間で一つ二つ質問を挟みつつも、最後まで静かに話を聴いていた。そうして、一通り今日までの経緯を話し合えると、

 

「……お疲れ様。本当に、頑張ったのね」

 

 そう言いながら、子どもをあやす親のように俺の頭を撫で始めた。当然恥ずかしさが爆発してすぐにでも止めて欲しかったが、同時に言っても止まないだろうという確信もあり、いっそ気が済むまでされるままでいようと決めた。

 もっとも、このタイミングで渚に来られたら最悪だが。

 

「今日、綾小路咲夜さんの秘密をバラしたのは、渚ちゃんの提案した作戦だったのね」

「うん。俺たちみんな、悠の口から聞いた話でしか咲夜を知らなかった。だから咲夜の事を深く知れば、『何も知らない状態』よりも、現状を打破できるアイデアが見つかるんじゃないかって」

「そう……渚ちゃんがそういうの思いつくんだ。ちょっと意外だったかも」

「そうか?」

「うん、だってあの子、いつもあなたの事しか考えて無さそうだし。他の人を、ましてや女の子を理解すればなんて提案、考えつくと思わなかった」

「言われてみれば、確かにそうかもな」

「でも」

 

 一呼吸おいて、綾瀬は言葉を続けた。

 

「あなたが辛そうにしてるから、渚ちゃんも頑張って考えたんだろうなぁ。本当は嫌なの我慢して、あなたが他の女の子の事を深く知るように促して」

 

 アルバムを開いて当時を思い起こすように、穏やかな口調で話す綾瀬。その言葉は俺に聞かせているというよりも、自分自身に言い聞かせてるようにも感じた。

 

「もし、私が渚ちゃんの立場に居たら、私も同じ事をあなたに言えたのかな……」

「綾瀬……」

「気付いてる? 渚ちゃんね、前にあなたと喧嘩してから、凄く周りを見るようになった。あなたの事はもちろん、あなたの周りの人間関係も全部」

「うん……そうだな」

 

『自分』と『兄』という狭い世界しか見なかった渚では、心が潰れかけていた俺を助けてくれなかった。綾瀬の言う通り、渚が『自分に都合のいい世界』を見なくなったからこそだと思う。

 

「あの子も成長してる。園子だって、初めて会った頃ならビクビクして何も出来なかったと思うけど、あなたを信じて力になろうとしてた」

 

 俺の頭を撫でる手が、止まった。

 

「アタシだけ、何も出来なかった。あなたに心配されて、それで喜んで……あなたが苦しんでいた時に、何も」

「それはちが──」

「違くないの」

 

 否定しようとした俺の言葉を、綾瀬がぴしゃりと止めた。俺もそれ以上綾瀬の言葉に口を挟めなくなる。

 

「実際、アタシは今回の件について何も知らないまま今日まで過ごしてたから。幼なじみなのに……ううん、幼なじみって立場に甘えてた」

 

 言葉の端から、僅かに苛立ちを感じる。

 他者に対してではなく、自分自身に対しての怒りを、綾瀬は抱いているんだ。

 今綾瀬の方を向いたら、どんな顔をしてるんだろうか……見たいとは思えなかった。

 

「今だって、あなたにわざわざこう言う事を話して、同情してもらおうとしてる。ずるいよね」

「綾瀬」

「幼なじみだからいつでもあなたの事を理解出来てる、少し話さなくても一番あなたを分かってるのは自分だ……なんて、無条件に思ってた。馬鹿みたい」

「綾瀬、そこまでだ」

 

 起き上がって、今度は迷いなく綾瀬の顔を見る。泣いては居ないが、代わりに思い切り苦いものを口にしてる様な表情を浮かべていた。

 それは自己嫌悪の顔なのだと、すぐに気づいた。今の綾瀬は自分を否定しようとしている。

 

「先に言っておくが、これは同情じゃ無い。だからちゃんと聴いてほしい」

「縁……」

「確かに今回、綾瀬は何かしたってわけじゃ無かった。でも、その代わりってわけじゃ無いが綾瀬は被害者だった。だから、綾瀬が何も出来なくたっておかしく無いんだ」

 

 仮に綾瀬が俺の心に寄り添えなかったという、俺にとっては全く問題のない事について悩んでいるのだとしても、それは仕方のない話だ。

 だって、俺自身綾瀬と連絡を取る手段はあったにも関わらず、今日の事を伝えていなかった。もう既に被害者である綾瀬に更なる心労を与えたくなかったからだ。

 何も伝えてないのだから、超能力者でもない綾瀬が俺のために何かしようなんて思いつくわけが無い。

 そんな都合よく何かを察するなんて事、あり得ないんだから。

 

「それに、何度も言うように綾瀬は俺たちの中で最初に実害を受けた人間だ。自分の事でいっぱいいっぱいの状況だったはずだ、違うか?」

「……うん」

「だったら、俺の事なんて考えなくてもそれが自然じゃないか。むしろ、あんな目に遭ったのにそれでも俺の事を優先されたら、困るよ」

 

 そう言って小さく笑ってみせると、つられて綾瀬も小さな笑みを見せてくれた。

 良かった。取り敢えずどうにか、自己嫌悪の考えは収まってくれたみたいだ。

 

「ありがとう、ごめんね、結局あなたに慰められちゃった」

「慰めてないし謝らなくてもいいよ。本当の事しか言ってないから」

 

 俺がそう言うと、綾瀬は俺をじーっと見て何秒か黙った後に、また小さく笑いながら言った。

 

「……ほんと、昔とは違うなぁ。前は泣きべそなあなたを慰めてたのに、気がついたらすっかり立場が変わっちゃった」

「だとしたら、綾瀬の教育の賜物です。俺一人で勝手に変わったわけじゃないよ」

「ふふっ、何? 教育の賜物って……お母さんじゃないんだから」

「それは確かに」

 

 そう言って、お互いにクスクスと笑い合う。

 ひとしきり笑い終えてから、綾瀬が少し真剣な表情になって言った。

 

「……アタシも、もっとあなたの助けになれる様に頑張るね」

「もう、充分色々助けられてきたよ」

「昔の事でしょ? 今のあなたの力にはなれてないから。アタシも渚ちゃんみたいに、あなたの事を理解して、それであなたの──」

 

「無理ですよ」

 

 

 綾瀬の言葉を、突如現れた第三者の声が遮った。いや、誰の声かなんて考えるまでも無い。妹の渚の声だ。

 渚が、保健室の入り口に立っていた。

 

 いつからそこにいたのか、どこから話を聴いていたのか、問い詰めたい事は何個もあるが、それら一切の質問を挟ませる余地もなく、スタスタと保健室の中に進み俺達の正面にまで距離を積めた渚が、間髪入れず綾瀬に言った。

 

「幼なじみと言ってもただの他人だって、綾瀬さんも分かりましたよね? だって、昔から一緒に居て教室も同じなのに、今回お兄ちゃんのために何も出来なかったじゃないですか」

「……っ」

「今回の事で、証明出来たと思います。お兄ちゃんを理解出来るのは、同じ家族で妹の私だけです。でも、お兄ちゃんが今のお兄ちゃんになるまでに、綾瀬さんから受けた影響はたくさんありますし、これからもお兄ちゃんが楽しい学生生活を過ごすためには、綾瀬さんが必要だと思いますから──」

 

 そこまで言って、一瞬俺の方を眼だけで見てから、最後通告のように言い放った。

 

「これからも『幼なじみ』として、分を弁えてお兄ちゃんと一緒に居てください。よろしくお願いしますね?」

「渚、いくら何でも言い過ぎだ!」

 

 水を得た魚の様に綾瀬を煽る渚を、慌てて止めた。

 まるで綾瀬が『俺が楽しく学生生活を過ごすためのツール』であるかの様な言い方だ。そんな人を舞台装置の様な扱いする言葉を、看過する事は出来ない。

 何より、このままでは綾瀬が渚に対して抱く悪感情がとてつもない物になる。

 それこそ、ヤンデレCDの様に俺の見ていない所で密かに殺し合いなんて事態に発展してもおかしくない事を、渚は言ってしまったのだ。

 

「渚、いくら何でも今のは失礼だ。綾瀬に謝れ」

「謝る必要なんて無いよお兄ちゃん。だって、私が言った事を一番思ってるのは、きっと綾瀬さん自身だもん」

「そんな事は──」

「縁、良いの」

 

 綾瀬が渚ではなく、俺の言葉を遮った。

 

「良いの……渚ちゃんの言葉は、間違ってないから」

「そんな事ない! 綾瀬は俺の」

「俺の、『何』?」

「……俺の」

 

 その先が、出て来なかった。

 幼なじみでは、渚の言葉を否定出来ない。

 じゃあそれ以外の言葉で綾瀬を表すには……、覚悟が必要だ。

 そしてその覚悟を、今この場で決める事は出来なかった。

 

 それを分かっていたかの様に、綾瀬は先程までと同じ様に小さく笑って(泣くのをこらえて)

 

「……先に帰るね。じゃあね、渚ちゃんも」

「──はい、気をつけてくださいね」

「うん、ありがとう」

 

 そう言って、駆け足で保健室を去っていった。

 後に残ったのは、俺達兄妹だけ。

 

「それじゃ、私達も帰ろう、お兄ちゃん!」

 

 先程までと打って変わって、朗らかな笑顔で俺に手を差し伸べる渚。

 

「今日は大安売りの日だから一緒に買い物手伝って欲しいの。それで探してたんだ。お兄ちゃん今日までいっぱい頑張ったから、お兄ちゃんの好物いっぱい作ってあげるね!」

「……」

「お兄ちゃん?」

 

 何か、さっきまでの時間で、大きな過ちをしてしまった様な感覚が胸から離れない。

 それが何なのか、答えが見つかる事は無く。

 

「──あぁ、帰ろう」

 

 渚の手を取り、一緒に保健室を出て行く。

 

 綾小路咲夜が転校してから生まれた問題は、今日をもって解決された。

 しかし、今日を迎えるまでに生じた人間関係の『捻れ』は決して消える事なく、緩やかに、柔らかに、しかし確実に俺達に影響を与えようとしていた。

 

 

 

 ──続く

 




次回、2章綾小路編エピローグ
2日以内に更新します。

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