【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた   作:食卓塩准将

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第弐病・アイゾウ

 綾小路咲夜が転校してきた。

 その事実が、今後俺の―――俺達の学生生活に、どれだけの影響を与える事になるのか、正直な所まだハッキリ予想がついていない。 だが、前期に綾小路の本家筋……つまり咲夜の父方の息が掛かった人間を、園子と園芸部の為に悠と一緒に学園から追放させた事が原因にあるだろう事は、簡単に理解できた。 やり過ぎたとは思っていないし、間違った行動だったとも……思いたくはない。

 とにかく、現状俺は綾小路咲夜について、悠と互いの親が対立している事と、昨日一緒に街を回った時の印象くらいしか情報が無い。 昨日の言動や先程の始業式で全校生徒を前にした時の高飛車を飛び越えた傲慢ちきな物言いから、既に性格は把握できているが、だからと言ってそれで何もかもが予測できるのなら、俺はエスパーかなにかの類いだろう。

 とにかく、悠としっかり話をする必要がある。

 

 

 ―――の、だけれども。

 

「綾瀬、悠は何処行った?」

 

 うちの学園は始業式が終わったらその日はもうおしまい。 部活も委員会も一切の活動が無く、野球部を筆頭に運動部の幾つかが許可を得て活動するだけで、実質夏休みのオフタイムのような物になっている。

 園芸部もその例に倣い、今日はこのまま各自解散の流れになるのだと、先程廊下から俺を呼んだ園子に言われた。

 だから、これから悠と話をしようと思っていたのに、園子と話していた僅かな間に、いつの間にか消えていた。 教室に残っていた綾瀬なら悠の姿を見ていたろうと、声をかけたのだが、

 

「…………」

 

 綾瀬の方はと言うと、普段はあまり目にしない険しい表情で、何か思索しているようだった。 当然、俺の言葉なんて耳に入っているわけも無く。

 ただ、『声をかけられた』事には気付いたのか、パッと弾く様に俺の方へと顔を向けて、

 

「あ、ごめんなさい……。 ちょっとボーッとしてて聞いてなかった。 夏休みボケかな……はは」

 

 と、誤摩化す様に苦笑いを浮かべた。

 何を考えていたのか、追求する事は簡単だ。 でも、今はあえてそれをしない事にした。 悠の事を早く聞きたいのもあるが、それ以上に、綾瀬の誤摩化したいという気持ちを尊重しておきたい。

 綾瀬は、俺が理由で思い悩む時は割とはっきりと、すぐ問いつめて来る性格だ。 その綾瀬が誤摩化すのだから、きっと理由は俺以外にあって、しかも余り話したくない物なんだろう。

 なら、今は良い。 そのうち目に余るようなら、その時に無理にでも聞き出すだけだ。

 

「悠がいないんだけど。 教室出る所見た?」

「綾小路君? ごめん、私も見てないかな……」

「そっか。 家の用事で早く帰ったのかな。 綾小路咲夜が転校してきたし……」

「確か、今日転校してきたあの子と綾小路君の家って、跡目争いしてるんだよね? 難しい話は良く分からないけど、今朝の彼の様子から見ても、急な出来事だったんじゃないかなあ」

「やっぱそう思う? 今後どうなるかについても話しておきたかったんだけど……居ないんじゃあ仕方ないよな。 俺らも帰るか」

 

 明日また、改めて話をすれば良い。 流石にそれくらいの猶予は普通にあるだろうと思い直し、帰る事に決めた。 だけど、

 

「ごめんね……私も一緒に帰りたいんだけど、今日これからちょっと用事が入ってて……。 悪いけど、貴方だけ先に帰ってて」

「用事? なんの―――いや、分かった。 気をつけてな」

「ありがとう、貴方もね。 夏休み気分が抜けないままで途中事故にあったりしないでよ?」

「はいはい」

 

 そう、軽口を交わし合い、俺は一人教室を抜けた。

 『用事』が何なのかは知らないけど、それが先程難しい顔で考えていた物なんだと察しはついた。 なら下手に追求しないで素直に去った方が、多分、今の綾瀬には良い筈。

 渚を誘うかも迷ったが、渚は渚で友達と帰るだろうし、わざわざ妹を誘いに一年のフロアに行くのも憚られたので、結局素直に帰ることにした。

 

「ねえ」

 

 いや、少し急げば先に帰ってる七宮達の集団に追いつけるかも?

 最近は園芸部やら何やらで悠達以外の友人とあまり関わってないが、今年のや夏休みには七宮の親戚とひょんなコトがきっかけで知り合ったりもしたし、それについて話もしてみたい。

 たぶん連中は素直に帰るなんて事はしないで、間違いなく近くの店に立ち寄るだろうし、久々に道草を食うのも悪く無いだろう。

 

「ねえったら」

 

 ああでも、冷蔵庫に食材残ってたっけ? もしかしたら明日以降の分を買いに行く必要があるかもしれない。 行きつけのスーパーであるナイス・ボートはお昼から一時間セールをするから、今家に帰れば間に合う。

 夕方のセールに向かうのもアリっちゃあアリだけど、買い物を早く済ませるに越した事は無い。 友人とのコミュニケーションを取るか、家庭の事情を取るか……悩みどころだなー。

 

「ねえ聞いてるの? 聞こえてるでしょ?」

 

 うーん、親が居ないから家で自由奔放に出来る分、こういう時に行動に制約がかかるのは、我が家庭の事情故の所か。 自由に責任は付き物だけど、責任が付くってそれもう自由じゃなくね?  とか思ってしまう―――、

 

「ねえったら! さっきから無視するとかどういうつもりなの!?」

「―――えうおわ!?」

 

 甲高い声と共にいきなり腕を引っ張られて、驚きながら振り向くと、そこには少し前まで俺の脳内会議で新たな議題となって居た渦中の人物がいた。

 今日会うのは二度目。 と言っても一度目は始業式だから、正しくはこれが本日最初の出会いになるわけだが。

 

「綾小路咲夜……」

「へぇ、ちゃんと名前は覚えていたのね。 庶民の脳みそにしては上出来ね。 まぁ? 私の名前を忘れるなんて、万に一つであってもあり得ないのだけど」

 

 名前一つ言っただけでこの発言である。いや本当、昨日も思ったけど『御嬢様』そのものって感じだな、この子。

 問題の人物がこうして下駄箱近くで、しかも向こうから姿を見せてきた事には驚いたが、それだけでたじろぐ程今の自分はヤワではない。

 

「そう言うお前の方はどうなんだよ、俺の名前、覚えてるのか?」

「はぁ? 当たり前じゃないの、私はあなた達凡百の庶民とは違うのよ。 忘れるわけが無いじゃない。 ―――野々原縁、此処に来る前から話は聞いてたからとっくに知ってたわ」

「え」

「それよりあんたに頼―――特別に! して欲し……じゃなくて、私の為に働かせてあげる」

「はい?」

 

 言ってる意味がイマイチわからない。 そんな事より本家の人間が俺の名前を口にしていた件について問い詰めたい。

 

「……言ってる意味がわからないって顔してるわね」

「そりゃそうだ、なんだその『働かせてあげる』って。俺はもうこれから帰るとこなんだが」

「―――はぁ、これだから庶民は。 良いわ、私も些か唐突だった事は否めないし、分かるように説明してあげる」

 

 ため息まじりに自分のなっがい髪を一度、手で梳きながら、綾小路咲夜が言った。

 

「やる事は昨日と同じ、いや、昨日より簡単よ。 私にこの学園を案内しなさい」

「断る、じゃあな」

「そう、素直に言う通りに―――って、なんでよ!」

 

 自分の頼み事が断られるとは微塵も思ってなかった綾小路が、さながらノリツッコミの要領で俺に食ってかかる。断りの言葉と共に咲夜の横を通り過ぎたのに、小走りで俺の前に立ち塞がってきた。

 

「そこでどうして断るのよ! 昨日は快く引き受けたじゃない!」

「快く!???!? 半ば強制的に連れ回したの間違いだろう」

「この私が、直々にお願いしてるのに、どうして断るのよ!?」

「わざわざ俺が案内する必要も無いだろ普通に考えて。 お前には転入した先にクラスメイトが居るんだから、そいつらに頼めよ」

「……ふ、ふん。 あんなへっぴり腰の情けない庶民なんかに、貴族たる私の先導が務まるわけないじゃない。 私に近づく事さえ怖がる連中なのに」

「そりゃお前、転校してきた中学2年生が始業式でいきなりあんな発言したら誰だって近寄らないよ、避けるよ」

 

 暫し、沈黙。

 綾小路、途端に赤面して、

 

「さ、避けられてなんか無いわよ! 冗談じゃ無いわ! あの程度で避けるような奴ら、こっちから願い下げなんだから!」

「別に避けられてる事に殊更反応しなくても……ああ良いや」

 

 さしもの御嬢様も、自分の言動が原因で避けられてる自覚はあったのか。 恥ずかしさと気まずさを誤魔化すように声を荒げて反論してきた。

 しかし参った、確かにこうなると綾小路が学内で頼れるのは悠を除けば数少ない接点持ちである俺しかいない。 普通なら手を貸しても良いが、今回は相手が綾小路咲夜だ。

 

「あー、まあ事情は大体察しついたけどさ。 やっぱあんま力は貸せないな」

「……なんでよ」

「なんでって、お前の方の家はさ……言いにくいが、悠の家と仲悪いんだろ?」

「あぁ……そういう意味ね」

 

 悠の名前を出せば、こちらの言いたいことも簡単に伝わった。

 

「つまりあんたは、あっち(・・・)側ってわけね。 だから私と一緒には居られない、と」

「そんな陣営分けしてるつもりは無いよ。ただ、あんま関わらない方が良いんじゃないかとね」

 

 実際、どういう理由か分からないけど、自分の名前が知らないところで広まってるのは怖いところがある。 頸城縁(前世)にそれがあって、しかも必ず悪評(謂れなき)だったもんだから尚更だ。

 ましてやその相手が自分の親友と家族ぐるみで仲の悪い連中と来た。そりゃ当然関わりを避けて然るべき、だと思うのだけども。

 

「ふっ、案外小さなことを気にするのね、あんたって」

 

 綾小路の方はと言うと、先程までのあたふたした態度を一変させて、場馴れした風格で俺に言った。

 

「そんな些細なことなんの問題もないわ。私も、私に従う奴らも皆、あんたの事を知っていても大して気にかけてなんか無いわ。もしかして……自意識過剰、なのかしら?」

「…………そ、そうか」

 

 この女郎、煽りやがる。

 

「これで心の檻は無くなったわね? じゃあ気分も晴れた事だし、心置きなく私を案内なさい」

 

 これで全て解決したと確信した綾小路が、今度もまた断られる可能性を微塵も考慮せず俺に案内を命じる。 その小生意気な態度を見るとやはりどうしても断りたい衝動に駆られるが、グッと抑えた。

 断る事は出来ても、ここまで来たらもう昨日のやり取りの焼き直しになるだろう。

 むしろ、此処で断るよりも潔く了承して、綾小路の性格や思考を少しでも分かるようになった方が、今後の学園生活にどれ程影響する人物なのか測れるかもしれない。

 

「分かったよ。 屈服したわけじゃないが、他に頼るあてのないお嬢様の為に力を貸すとしましょう」

「な! 言い方っていうのがあるでしょう!? 昨日から思ってたけど、あんた少し私のこと子ども扱いし過ぎじゃないかしら!! たったの3歳差なんだからね!」

「はは、まさか。 後輩として扱ってるだけさ」

 

 中学生どころか小学生を扱う気でいるだなんて、言えるわけが無かった。

 

・・・

 

 結局昨日と同じ流れになったが、難易度はだいぶ楽になった。 なんせだだっ広い街から、限られた学園と場所が狭まったからだ。

 その上校舎で案内が必要な場所なんて限られている。 誰でも分かる講堂や学食を除けば、後は科目別に使われる教室をいくつか案内する程度だ。

 だから、昨日とは違って十数分で任務は達成された。 さしもの綾小路も、今回は文句の一つも言わずに終わった。

 

「なんか呆気ないわね。 こんなものなの?」

 

 訂正。 どう転んでも文句言わなきゃ死ぬ病のようだ、こいつは。

 

「街とは違うからなー。 部室を一つ一つ巡ればまた違うけど」

「嫌よそんなの、面倒にも程があるわ」

「だろうよ。 俺も同感だから助かる」

 

 もし仮に『良いわね!案内しなさい!』とか言われてたらダッシュで逃げてたところだ。

 

「そんな所より、一つ行って見たい所があるんだけど」

「へぇ、そりゃどこで?」

「屋上」

 

 ……ほぉ。 また随分と雅な趣味を。

 

「残念だがそこは無理だよ。 屋上は何年か前に飛び降り自殺した生徒がいたせいで閉鎖されてる」

 

 噂の域を出てないが、俺が入学した時既に施錠されていた。 今では密かに鍵を持つ悪童か、こっそり喫煙を目論む教師くらいしか屋上には行けないだろう。

 

「そ。 なら教師に開けるよう指示すれば良いのね。 職員室は何処だったかしら」

「おいおいマジで言ってるのか」

「本気よ。 こんな事で嘘ついてどうするの」

 

 たかが一学生が言ったところで屋上が開放されるはずもない。 だが、綾小路はいわばこのわ学園のスポンサーの孫娘。 邪険に扱えるはずもなく、恐らくは施錠も解かれるかもしれない。

 だけどそうなったら教師のヘイトは間違いなく、綾小路を連れてきた俺に向けられるんだよなー。 そんなの最悪でしかないのだけど。

 

「ん? もしかして今度は教師に睨まれるのを気にしてるの?」

「え、分かるのか?」

「私をなめないで頂戴。 貴族たるもの、庶民が何を考えてるのか位、簡単に把握出来て当然でしょう? やっぱりあなたってどーでも良い細かい事をやけに気にするのね。 生き辛くない?」

「……よけーなおせわだ」

 

 綾瀬や悠、渚。

 俺の周りには察しの良いというか、相手をよく見る力に長けた人が揃っているが。

 

 ―――正直、綾小路の『ヒトを視る眼』は苦手だと、この時思い始めた。

 

・・・

 

「はぁー……、風通しが思ったより良いわね」

「そりゃー屋上だからなー、風しか通らねえよ」

 

 思ったよりも簡単に、屋上の鍵は開放された。

 今まで鍵がかかっていた理由が安全管理のためとかじゃなく、単に何年か前に夜屋上の鍵をかけた警備員が、その鍵を無くして開かなくなったから。 という理由だったのには呆れたものだった。

 今まであまり屋上開放を強く要望する声が無かったから、どさくさ紛れにそのままにしていたが、綾小路の要望をキッカケに無理やり鍵が壊され、晴れて数年ぶりに屋上が開放された。

 今までここを密かに使う人が居たかは定かではないが、もうこれで秘密基地は無くなったわけだ、南無。

 

「それで、どうだ? お望みの屋上は」

「微妙ね」

 

 即答かよ。

 

「時間帯もあるかもだけど、全然面白くない。 箱庭より狭く感じるわ、ここから見える景色」

「そうか? 俺は新鮮味があって悪くないけどな、ここから街を眺めるのは初めてだし」

「これだから物を知らない庶民は……って言いたい所だけど、多分これはあなたが物好きなだけって事でしょうね」

「というと?」

「あなた、日常の、普段人が目にも止めないささやかなもので幸せとか感じちゃうタイプでしょ」

「……っ!」

 

 確信する、俺はこいつの視る眼が苦手だ。

 あって2日しか経ってないのに、こいつは俺の性格をもののズバリと当てやがった。

 

「なんで、そう思ったよ」

「色々よ。 例えばこの学園の案内の時、教室のカーテンが外れかけてて風が吹くとカーテンが変な膨らみ方するとか、ロッカーの扉が壊れてて閉めても五分に一度開くとか……そんな普段から意識しなきゃ口に出ない事を話してたでしょう、あなた」

 

 確かに、俺は教室を案内する際に、そんな感じの事を退屈凌ぎになるかと思い口にした。 どれもくだらないの一言で流されていたと思ったが、まさかそれが俺の性格を図る材料になっていたとは。

 

「まあ、一番は昨日あなたが私に見せたものよね」

「見せたって……景色か? 夕方の」

「そ。 あんなの、普段から月並みな幸せで満足しちゃうような人間じゃなきゃ人に見せようなんて思わないわよ。 この消費社会であんな情緒的な物を見せてくるなんて、ね」

 

 クスクス、と笑いながら綾小路は言う。

 反面、俺は多分あまり良い顔をしてなかった。

 だって、俺は今回綾小路の性格を知る為に一緒に居たのに、逆に俺の方が完全に性格を看破されたのだから。

 そんな俺の様子が楽しいのか、綾小路は最後まで笑顔の上機嫌で、最後に、

 

「ふふ、なんだかんだで今日もそこそこ楽しめたわ。 じゃあね、また明日」

 

 そう言い捨てて、先に屋内に戻って行った。

 

 それを横目に、俺は。

 

「わざわざ屋上から景色を見ようとする辺り、よほど昨日の景色が気に入ったんだな」

 

 言われっぱなしは癪だったので、イタチの最後っ屁と言うものをかましたのだった。

 

「―――べ、べつに気に入ってなんかないわよ!」

 

 そんな声が聴こえたのは、多分気のせいではない。

 

・・・

 

 さて、綾小路は最後赤面して去って行ったが。 まだ俺は屋上に残って居た。

 理由は当然、先ほどまでのやり取りから、綾小路の人となりを考察する為である。

 

 取り敢えず、子供のような身体つきと態度だが、能力は間違いなく悠に並ぶスペックだと言うのは分かった。

 ワガママで傲慢ちき、他人を庶民と見下し自身を貴族と傲るが、人を見る目は確か。 間違いなく、頭もキレる。

 

「……あれ、普通にRPGじゃラスボスなれるんじゃねこれ」

 

 誰も居ない空間で一人、ポツリと零す言葉は簡単に屋上を吹きすさぶ風に乗って消えていく。

 とにかく、今回俺が得た教訓は、綾小路咲夜という人間が、金の力を抜きにしても敵に回った場合厄介極まりない人間だと言う事だった。

 よくよく考えてみれば、これは至極当然な事だったかもしれない。 単純に本家のボンボンってだけなら、転校したってあの悠がぐったりしてる筈もないのだから。 悠を持ってしても厄介となる相手に、俺一人で何か出来るわけもない。

 

「はぁ……別に勝負してるわけじゃないが、なんか果てし無く咬ませ犬ポジで負けた気分」

 

 やめやめ、こんなネガティブな事考えてたら、せっかくの1日が腐っていく。 もうこれ以上綾小路について思考を割くのはやめて、今日この後どうするかを考えよう。

 とは言えども、流石に当初考えて居た案のうち、七宮達に追いつくのは無理な話になった。 となれば後は買い物か、今からでも走って帰ればセールには間に合うかな。

 

「さっさと行かなきゃ―――ん?」

 

 時間に余裕も無くなってるので、とっとと屋上を去る為に踵を返そうとした俺の視界の隅に、あるモノが映った。

 屋上からは校庭は勿論、校舎と屋外を隔てる壁の間など、普段足を運ばず人目にもつかない空間も見下ろす事が出来る。 そこに、見覚えのあるリボンを頭に付けた後ろ姿があったのだ。

 雑草が生い茂った、こんな時間でも陽の当たらない一画。 普通なら誰もいる筈の無い空間に、河本綾瀬が居る。

 

「何やってるんだあいつ……誰かと話してる?」

 

 それほど遠くから見てるわけでもないが、何せ後ろ姿なのでどんな会話をしてるのか、表情で察する事も出来ない。 ただ、綾瀬の前方には女子がもう一人いて、何となく平穏な雰囲気を感じない。

 もしかしたら綾瀬の言う用事とは、あの女子と話をする事だったのだろうか。 それにしても、わざわざ何故こんな場所で? よほど人に聞かれたくない話でもしていたのだろうか。

 というか、綾瀬の悩みの種って絶対に人間トラブルだよな? 綾瀬の性格からしてあんまり人と問題起こしそうにないけども、男子と女子では人間関係の起こり方って異なるし、結構めんどうで複雑な関係になってるのか?

 

「―――え?」

 

 何が起きてるのか把握できないままで居た俺の目に、衝撃的な映像が映る。

 綾瀬と話していた相手が、屋上にも届く程の高い声で何かを怒鳴った後に、綾瀬を突き飛ばしたのだ。 しかも倒れた綾瀬に目もくれず、走ってその場を去って行った。

 走り去る生徒の姿を上から目で追う事も出来たが、今はそれ以上に尻餅をついた綾瀬の方が心配だ。 急いで屋上を離れて、綾瀬の場所に向かう。 この際上から見ていた事がバレようが構うもんか。 上履きのまま校舎を出て、コンクリと砂利の床を蹴り、鬱蒼とした地面を踏みならす。 目的地に着くと、そこには未だに倒れたままの姿勢で、顔をうつむかせた綾瀬の姿があった。

 

「綾瀬!」

 

 俺の言葉を耳にした綾瀬が、教室の時のようにぱっとこちらに顔を向けて、次いでその顔を驚きに染めた。

 

「縁!? ど、どうして貴方がここに居るの? もう帰ったんじゃ」

「野暮用で野良猫に噛まれてたんだ。 そっちこそ何があったんだよ、女子と話してたみたいだけど」

「ちょっと待って。 なんで貴方がその事を知ってるの? 何処で見たの? 盗み聞きしてたの? どうして」

「違う、屋上でたまたまお前と女子が言い合いしてるのを目にしたんだよ、そしたらお前が突き飛ばされたから急いできたんだ!」

「お、屋上? あそこって閉鎖されてたんじゃ……」

 

 ああもうじれったい! こうなったら簡単に何があったか説明してやる。 そうしたら綾瀬だって何があったか話すだろうさ。

 

「野暮用ってのはさっきまで綾小路咲夜に捕まって学園の案内をさせられてたんだよ! それであいつが屋上行きたいって言ったら簡単に解放されて、それで偶然見つけた! 納得したか!?」

「え、えぇ……それは分かった、けど……」

 

 やや迫真に言い過ぎたか、綾瀬は直前までの逆切れ一歩手前の様な態度は一蹴され、気圧されている様におとなしくなった。

 

「分かってくれて何より。 それで? さっきは誰と話してたんだ。 見た所仲のいい友人なんかじゃ無いみたいだけど」

「さ、さっき話してたのは前期まで私がいた委員会で一緒だった子……」

「委員会の? どうしてもう関係無い筈の奴がお前と喧嘩なんか」

「け、喧嘩ってワケじゃないの。 ただ、私が急に委員会を辞めたから、それであの子に仕事が回って、その文句があったって言うか……だから、別に喧嘩やトラブルがあるって事じゃ」

「でも、事実お前はそうやって突き飛ばされてるじゃないか。 それが喧嘩やトラブルじゃなかったら何なんだよ」

「……」

 

 俺の指摘に対して、綾瀬は珍しく押し黙る事しかしない。 きっと綾瀬本人もこれ以上否定するのが無理だと分かっているからだ。 理由は分からないけども、今回綾瀬が絡んでいる問題には、どうしても俺を関わらせたくないらしい。 いや、それとも、

 

「……男女間の違い。 か」

「え?」

「何でも無い。 取りあえず、一旦ここを離れよう。 いつまでもこんな場所にいたらカビが生えそうだ。 ほらっ起きて」

「う、うん……ありがとう」

 

 俺が差し伸べた手を素直に掴んで綾瀬が立ち上がる、服についた土や草を手で払うと、気恥ずかしそうに言った。

 

「ごめんね……普段はこういう隠し事って私の方が嫌がるのに、こういう時だけ……都合良くて」

「ホントだよ。 もう相手が誰とか何があったとか聞かないけどさ、お前一人で解決できそうなのか?」

「うん。 向こうは少し誤解してるだけだって分かったから、きちんと話せばすぐに終わるから」

「そっか。 なら、良いけどさ……」

「それより、あなた、上履きのままここにきたの?」

 

 今頃になって、俺が上履きのままであることに気づいた綾瀬。

 

「そんなに、心配してくれたんだ……」

 

 呆れられるかと思いきや、なんかすごく嬉しそうにそう呟くものだから、ただでさえ恥ずかしいのに上乗せされて背中が痒くなってきた。 帰ろう、もう帰ろう。

 

「……まあ、綾瀬が一人で解決できるなら、それで良いや。 先帰るわ、うん」

 

 これ以上このむず痒さに耐えられる気がしないので、踵を返して足早に下駄箱に戻ろうとする。 そんな俺に、綾瀬が慌てて追いかけてきた。

 

「あ、待ってよ。 一緒に帰ろ」

「用事あるんじゃなかったのか」

「もう終わったの、分かるでしょ」

「……鞄とかまだ教室だよな」

「うん」

「先に校門で待ってる」

「うん」

 

 この後普通に帰宅した。 当然のように、お昼のセールには間に合わなかった。

 買い物は結局夕方の、一番割引されるがライバルの主婦が多い時間帯になり、綾小路や綾瀬の事に思考を割く余裕なんて到底なかったのは、語るまでもない。

 

 綾瀬の前では納得した風に見せたが、包み隠さず言わせて貰えば、当然まだ気になっている。 綾瀬が誰かに恨みを持たれてる所なんて今まで一回も見た事ないし、結局何が理由かもわからないままだから、仕方ない。

 でも、一度分かったと言ってしまったのだから、今更また根掘り葉掘りほじくり返すわけにも行かない。

 園子の時と重ねて考える自分が居るが、今回は園子の時ほど重い内容では無いだろうし、何より昔から一緒の綾瀬の事なんだ。

 軽く扱ってるからではなく、信頼してるからこそ、敢えて綾瀬の意思を尊重する。 言い訳にも聞こえるかもだが、ね。

 

 ―――そんな風に自分を納得させて、静観を決め込んだ俺だったが。 そう言う時に限って、事態は向こうから迫って来るものだった。

 

・・・

 

 翌日。

 

「咲夜に学園を案内したって?」

 

 昼休みになって早々、俺は昨日綾小路に連れ回された事を悠に報告した。

 

「一体何を考えてるんだ、アレは……」

 

 はぁーーーっと深いため息を吐いて、悠が椅子の背もたれに体をグダりと預けて天井を仰ぐ。

 こう言ったら悪いが、普段中々お目にかかれない姿だから少し面白い。

 

「屋上が開放された事がにわかに話題なってて、どうしたのかと思ってたけど、そんな事があったなんて」

「まあ、そういう事があってさ。 俺も昨日は真面目に綾小路に接してみたが、中々敵に回したくない人間なんだな、お前のイトコ」

「うん。 綾小路の人間は皆多かれ少なかれ、何処かしら思考や倫理観が常識を蔑ろにした物だったりするけど、彼女の場合、一番厄介なのが拝金主義というか、金があれば不可能なんて無いって思想でね……」

「そういえば前も似たような事言ってたな。 『お金で買えない物は無い』だっけ?」

「それだよ。 懐かしいね、まだ部活動何処に入るのか決めかねてた時だったっけ。 あの頃はまだ平和だったなあ」

 

 身内の恥を晒しての羞恥心か、頬を紅潮させて苦笑いしながら頬を軽く掻きながら、悠は続けて言う。

 

「とにかく、金で何でも言うこと聞かせるって考え方なのに、そのくせ人を見極める目もある。 大抵の人間は札束叩いて黙らせるけど、中にはそれに屈しない人もいるだろう。 その手の相手には周りの人を潰して孤立させるって手段を簡単に取れるのが咲夜だ」

 

 親戚の話なのに一切の容赦なくそう言いきってみせる悠。 恐らく今まで何度も、俺の知らない世界で衝突してたんだろうなと思わせる言葉だ。

 

「でも、安心してくれ。 確かに咲夜は油断できない相手だけど、すぐ僕達に何かアクションを起こすって事も無い筈だから」

「そうなのか?」

「うん。 そもそも何で咲夜が家族と離れて使用人だけ連れて、この街に来たのか―――その理由さえ明らかになってないのだけど。 この学園は以前話した様に、僕の家と咲夜の家の共同出費で建てられたような物だ。 言うならば中立地帯。 いくら綾小路家の人間だからってそう簡単に好き勝手出来ない筈さ」

 

 確固たる確信、とまでは言えない物の、かなりの自信を持って悠は言った。 かつて園子の過去を調べる際に、成り行きでこの学園が建てられた経緯を知ったのでその言葉に疑問は持たなかった。 かつて本家側の人間として園子にアカハラをしていた校長も、既にいないのだから。

 

「そうと分かったらだいぶ安心したよ。 綾小路家が生半可な豪族じゃないってのは、俺でも分かる事だったから」

「ああでも、本当に油断だけはしないでね。 何もしないのは『家の都合』ってだけであって、『咲夜が我慢できなくなった時』に何をしでかすかは分からないから」

「……なるほど。 しびれを切らしたら何かしらの強硬手段を取るかもってか。 そもそも何するのかさえ全く分からないけど」

「ひょっとしたら、伯父様はそれを狙って咲夜を単身こちらに送ったのかもしれないからね。 彼らが直接動けばすぐに問題になるし対応されるけど、『子供の勝手な行動』なら予測がつかないし、言い訳がしやすいから」

 

 あーーー、本当にドロドロしてるんだなあ、綾小路家の事情は。

 

「あ、ごめん縁。 ちょっとトイレ行って来るよ」

「ん? 良いよ別に。 というか俺も行くわ」

「あ、そう?」

「うん、連れションだな」

 

 いかにも男子学生らしい行動だ。 頸城縁にはそんな事する相手一人しか居なかったが。

 

「い、いちいち言わなくても良いよ。 ……恥ずかしいから」

「っつぁ、何年の付き合いだと思ってんのさ。 今更言うなって」

「……もう」

 

 先程までの真面目一辺倒な話題から一転、年相応の軽い会話に自然と移る。 これだから男の子ってのは気楽で良いね、なんて唐突に思ってしまった。

 そうして2人で揃って教室を出て、トイレまでの僅かな距離を、悠の少し後ろについて歩いて行くと、

 

「―――え?」

 

 ―――不意に、後ろから誰かに腕を取られた。

 

「な、だ、誰ってか危ない―――うわわっ」

 

 そのまま、振り返る暇すら与えられず凄い勢いで後ろの方へと引っ張られていく。 腕力そのものはたいした事無いと言うか、後ろを振り向けないけど視界に女子の制服が見えてるので、間違いなく女子の仕業なのは分かるんだが、何せ不意をつかれた勢いが強い。 何事かと俺と俺を引っ張る何者かを奇異の視線で見やる生徒の視線も痛い。

 

「ちょっと、一体何のつもりだよ!」

「ウルサい。 いいから黙って着いて来て」

 

 !?

 俺の知ってる女子の声じゃない。 綾小路がまた奇襲を決めてきたのかとも思ったが、そうでもないとなると本当に誰なんだこの女子は!

 

「転びそうだから! 俺今凄い勢いで後ろ歩き中なんだけど! 逃げたりしないからせめて前向いて歩かせてくれ! 頼むから!」

「―――チッ」

 

 舌打ちされたが、懇願が相手の耳に届いたのか、歩みが止まって手も離してくれた。

 ほっと息をつきながら、俺はようやくいきなり自分を引っ張り回した相手の顔を見やった。

 

「ったく、一対何の用で―――君は」

「話は後。 さっさとついて来て」

 

 相手が何者かが分かった俺は驚きの声を漏らしたが、それに対して特に反応するそぶりもなく、勝手に進んで行く。

 文句を口に出したいのはやまやまだったが、僅かな間に随分と悠や教室のある場所から離れてしまったので、観念して後ろをついて行く事にする。

 廊下を進み、階段を上って―――後ろ歩きで階段上らせる気だったのかこの人は―――、特定の科目でしか使われない教室が並ぶフロアへとやって来た。

 この時点で正直引き返したかったが、それを許さないとばかりに、普段は使われない空き教室の前に立った女子生徒が、初めてこっちを振り向いて言った。

 

「入って、そっちから」

「……マジ?」

「さっさとしろ」

「はいはい。分かったからそんな威圧的になるなよ……昔何か悪い事君にしたっけ俺」

 

 軽口を叩いてこそ居るが、本音をいうとそんな余裕全くない。 相手は腕力で言えば負ける気こそしないが、それだけで安心できる程俺の心臓は剛毛ではない。

 ましてや相手が―――昨日、屋上で見た綾瀬と対峙していた女子なのだから。

 

「あんた、河本と普段から一緒に居る奴だよね」

 

 俺が教室の真ん中くらいまで入ったのを見てから、おもむろに女子も教室の中に入って来た。 しかも、何処から持って来たのか、鍵を取り出して内側から施錠までして。

 

「そうだけど……君は? あや―――河本の友達?」

「はあ? 友達? アタシが、河本の? 笑えない冗談はやめてよ。 あんなのと友達なるくらいならキモオタとシた方がまだ少しマシだっての」

「……随分な言い草だな。 俺が河本の友達だって分かってるのに」

「本当それね!」

 

 何が面白いのか、女子生徒がこっちを馬鹿にする様に鼻で笑う。 多分俺がむっとしてるのが滑稽なのだろうけど。 控えめに言って不愉快だ。

 

「で? わざわざ俺をここに連れて来て、何の用なんだよ。 まさか俺の前でひたすら河本の悪口言いたいだけか? そう言うのはSNSで勝手にしてろ」

「あんたさ、アイツと付き合ってんでしょ?」

 

 咳嗽。

 

「―――けほっ、いったい、いきなり、何言ってんだよお前」

「付き合ってないの? しょっちゅう一緒に居るって噂じゃん」

「誰が流した噂か知らないけど止めてくれ、渚―――妹の耳に届いたら俺が死ぬ」

「……本当に付き合ってないの?」

 

 予測が外れて拍子抜け、みたいな顔をされる。 まったく持って事態の把握には至らないが、とにかく今回の発端が俺と綾瀬の関係に関わっているのなら、さっさと説明すれば済むかもしれない。

 

「俺と綾瀬は幼なじみだけど、そう言う関係じゃない。 それに一緒に居るのも園芸部だからってのが理由だよ。 分かった?」

「へーー、本当は河本じゃなく綾瀬って呼んでるんだ。 幼なじみってのも今知ったけど、そう言うコト」

「……納得したか? ならさっさとここから出してほしんだけどな」

 

 余計な事を勢い余って言ってしまったと内心下打ちしながら、俺は事態の収束に向けて動く。

 しかし、相手はまだ何かあるらしいのか、いっこうに鍵を開ける気配もそぶりも見せず―――逆に、ニタリと笑ってこちらを見た。

 

「あんたさあ、もっかい聞くけど、アイツの恋人でもなんでもないんだよね? ただの幼なじみ、そうだよね?」

「……だから? 同じ事何回も言いたくないんだけど、オウムじゃあるまいし」

「だったらさ……アタシと、今ここでシてよ」

「は?」

 

 急な発言に、呆然とした俺の前で、なんと未だに名前も把握できてない女子生徒がおもむろに服に手をかけ始めた―――って、はあああ!? 何言ってんのこいつ!? 何おっぱじめる気ナノ!?

 

「ちょっとお前! はあ!? 意味湧かんねえよ!」

「大声出さないでよ、一応人気は無いけど万が一があるんだから」

「だからそうじゃなくて、何でいきなりそんな事になるんだ、ワケが分からないっての!」

「別にいいじゃん、この程度でうろたえ過ぎ。 童貞なの?」

 

 童貞で悪いか! と言い返す前に、相手はポスッとスカートを床に落とした。

 下着を危うく直視しそうになり、性欲より先に生命の危機を感じた俺はとっさに後ろを向く事で既成事実を避けた。

 

「ほんと何考えてんだよお前、第一名前も知らない、今日初めてマトモに会話した相手とそんなのするわけ」

「名前は本条。 河本とは委員会が同じだった。 はいこれで知り合い同士ね」

 

 委員会が同じなのは昨日綾瀬から聞いてるよ! というかやっぱり委員会絡みで綾瀬と問題こじらせてるのか? でもだからって何で矛先が俺にくるんだよ、ワケ湧かんねえ!

 

「本条、綾瀬と委員会で何かあったのかもしれないけど、当てつけでこんな事するのは止めろ、マジで。 お互いのためにならないから」

「あ、少しは知ってるんだ。 アイツから教えてもらったの? やっぱ付き合ってなくても関係深いじゃん、セフレだったりしないの?」

「いい加減にしろよ、俺だっていつまでも言われるがままで済む程フェミでもな―――!!???!?!!??!?」

「済む程、なに?」

 

 言葉はのど元で止まってしまった。

 何故って、いつの間にか脱ぎ終えた本条が、(恐らくほぼ全裸に近い姿で)俺に後ろから抱きついて来たからだ。 背中に制服越しに伝わって来る熱っぽくやけに柔らかい感触と、普段嗅ぐ事の無い甘ったるい匂いが思考と肉体を硬直させて行く。

 後ろからのびる手は俺の胸筋辺りをぺたぺたと触れ、なでる様にくっつける。 背中に冷たい物が一滴走る感触を覚えると、耳元から本条の、熱のこもった声がした。

 

「良いじゃん、別に理由なんてどうでも……それこそ、セフレでもなんでもさ」

「ば、馬鹿じゃねえの……そんな事したら殺されるっての」

「くすっ、童貞のくせにやけにやせ我慢するんだ。 キモイけド面白っ。 ……ね、アタシそんなに魅力無い? 一応胸は平均より大きいんだケド」

「魅力以前の問題だろうが……っ! 性格云々の前にこのシチュエーションが理解不能だ!」

「はぁ。 もうめんどくさ」

「な、なに―――うわぁ!」

 

 恥ずかしながら棒立ちになっていた俺を、本条が押し倒して来た。 受け身を取って顔をぶつける事は無かったが、今度は床に倒れた俺の上を覆う様に、本条がかぶさって来た。

 地面に倒れている俺と、得物を補食するかの様に俺の上に覆い被さる本条。 普通なら男女逆の体勢だが、今は間違いなく俺が襲われている立場なので適切だ。

 

「ねえ、しっかりアタシの事みなよ」

「―――っ」

 

 真っ正面を見ると、下着姿の本条をまじまじと見てしまうので、俺はまたとっさに横を見る事で理性を保たせる。

 ハッキリ言おう、確かに俺は童貞も良い所だが、今この瞬間、俺の脳を占拠しているのはもはや本条への動揺や性欲ではなく、『この場面を綾瀬や渚に見られたら人生が終わる』という恐怖心であった。

 だからまだ下着姿さえ見なけりゃ下半身が生理的反応を示す事も無いし、ギリギリまで思考を冷静に持っていける。

 このまま一線を越えないで、5時限目のチャイムが鳴るまで耐えれば、流石に本条も諦める筈だ。 ―――そう思っていた俺に、本条は新たな爆弾を放り投げて来た。

 

「あのさあ、今ここで何もしなくたって、もうアンタ詰んでるんだけど。 分かってる?」

「は、はあ? 何をデタラメ―――あ、やべえ」

 

 そう、決して手を出さなきゃ良いってワケではないのだ。

 今、本条は下着姿、そんな状態でもしこのまま教室を出て誰かの前に出てみろ。

 俺は問答無用でレイプ未遂の糞野郎のレッテルを貼られてしまうだろう! 何せ向こうがあられもない姿なのに対してこっちはばっちり着こなした状態。 ましてや男女での体格の差は歴然。

 つまり……今の俺には、もう何もあらがう手段が残されていない?

 

「さ、最低だぞお前……痴漢冤罪と何ら変わらねえじゃねえか」

「残念だけど、今の時代女の子が泣けばそれだけで男なんて終わりだから。 今のアンタがそうなってるみたいに、ね」

「本条……」

「どう転んでもアンタに出来る事なんて無いんだから。 さ。 ……それなら、お互い気持ち良くなった方がマシじゃない?」

 

 そう言って、子供をあやす母親の様に、そっぽ向いていた俺の顔を無理矢理正面に向ける。

 とうとう、本条の姿をはっきりと目にしてしまったが、性欲が理性を溶かす事は無かった。

 今この瞬間、俺が考えていた事は、たとえ退学―――最悪警察沙汰になるとしても、この場で本条を徹底的に叩きのめして、病院送りにしてやろうか。 と言う物騒極まりない物だった。

 野々原縁だけの思考回路ならそうはならなかった筈だが、生憎と今の俺は前世の記憶と意識(頸城縁)入りだ。 その手の暴力沙汰にも抵抗は些か無い!

 

「もういい加減観念した? じゃあ、お互い楽になろ」

「……」

 

 拳に力を込めて、いつでも殴りつける準備に入る。

 最後に一回だけ、そもそも何故こんな事になったのか、原因を考察する事にした。

 幾ら綾瀬と関係がこじれているからって、直接俺を標的にする理由は無いだろう。 それなら、第三者の入れ知恵で俺を嵌める様に言われたのかもしれない。

 その考えに至った時、先程悠が言った言葉が、脳裏を駆け巡った。

 

『とにかく、金で何でも言うこと聞かせるって考え方なのに、そのくせ人を見極める目もある。 大抵の人間は札束叩いて黙らせるけど、中にはそれに屈しない人もいるだろう。 その手の相手には周りの人を潰して孤立させるって手段を簡単に取れるのが咲夜だ』

 

 ―――まさか、昨日と一昨日のやり取りで俺を完全な悠派の人間だと決めた綾小路が、悠を潰す為にまず俺から落とす算段で、本条にけしかけたんじゃないか!?

 そうだとすれば説明が行く! 俺がこのまま何をしたって、悠は強姦魔か暴力男の友人ってレッテルを貼られてしまう。 そうなりゃ学園内での立場も一気に危うくなる。

 いや、悠に限らず綾瀬や渚、園子にだって被害が行くだろう。 警察沙汰なっても良いから殴るだって? 冗談じゃない! 俺の行動一つで皆の将来が壊れるじゃないか!

 

「このまま、お前の言う通りにすれば、何も騒ぎは起こさないか」

「ん? んーまあ当分はね。 アンタが素直なうちは、だけど」

「……分かったよ」

 

 皆の将来や立場を殺すくらいなら、あとで殺された方がマシだ。

 

「それじゃ、いくよー」

 

 せめてもの抵抗として、目を閉じる。

 ここから起きる一切を、俺は脳に映像として残さない。 それだけが、大切な皆に出来る唯一の誠意だった。

 

 本条の手が、俺の服に触れるのが分かる。 そのまま、脱がそうと掛かった、その瞬間。

 

 ―――ガァァァァン!!!!!!

 

『!!??』

 

 物凄い音で扉が叩き付けられた。 続いて、先程よりも更に大きい音がしたと思ったら、扉の吹っ飛ぶ音が聴こえた。

 

「な、なに……なんなのいったい」

「誰か来た……?」

 

 目を開き、とっさに上半身だけ起き上げて、俺は扉の方へと視界を向ける。 本条が押し飛ばされてしまったがそんなのどうでも良い。

 施錠されていた扉を(たぶん蹴り)飛ばして、突如この場に現れた人物、それは―――、

 

「こ、河本?」

「綾瀬……!」

 

 そう、先程まで扉があった場所に立っているのは、河本綾瀬だった。 綾瀬に、見られたのだ。 この場面を。

 

 さよなら、俺の人生。

 

「―――なにやってるの」

「な、どうしてアンタがここに居るんだよ! さっき工具室に行く様にメールしたろ!」

「うん。 だから?」

「だからって―――なんで、アンタが今ここに居るのか聞いてんでしょうが」

「やだなあ、聞いてるのは私の方だよ。 ねえ縁」

「……ん」

「したの?」

「いや」

「そう。 そっか。 分かった」

 

 いつもと変わらない語調。

 いつもと変わらない雰囲気。

 いつもと変わらない明るい笑顔。

 

 普段と何ら変わらない綾瀬のまま―――それ自体が既に異常である事を理解して―――綾瀬はすたすたと俺達の方へと近づく。 そして―――、

 

「―――っごぉ」

 

 普通なら絶対発しない呻き声が上がった。 ―――俺ではなく、本条から。

 

「―――え?」

 

 今日だけで何度目かになる茫然自失。 完全に自分がやられると思っていた俺は、綾瀬に顔面を蹴り飛ばされ、コロコロと壁まで転がって行く本条と、変わらずすたすた歩み寄る綾瀬の姿を、まるで映画でも見てるかの様な気分で眺めるしか無かった。

 

「あ、あんた、いきなりナにすん―――」

「黙って」

 

 激昂する本条に構わず、綾瀬はポケットから何かを取り出した。 それを見て、本条は言われた言葉通りに沈黙してしまう。

 綾瀬が取り出したもの、それは俺もよく知っている。 ―――五寸釘だった。

 なる程、本条は先程綾瀬を工具室におびき寄せたと言っていた。 そこは一階の外れにあり、確かにそこなら五寸釘も見つかるだろう。 だけど、何でよりによって、頸城縁がCDの『河本綾瀬』でよく見た五寸釘を選んでしまったんだ。

 

「そ、それで……なにする、つもり」

「うん? 分かるでしょう? そんなにあなたはぼけてるとは思えないけど」

「ひっ……、待って、待ってよ、悪かった、謝るって。 だから……」

「謝るとか謝らないとか、そう言う話じゃないの。 分からない? 分からないのかなあ……」

「ま、マダなにもしてないから! アイツもずっと抵抗してたし! だから許してよ! アたしが悪かったからさ!」

「だからぁ……」

 

 涙すら浮かべて懇願する本条の言葉を一切無視して、

 

「そう言う問題じゃあ無いって、言ってるでしょ!」

 

 五寸釘を、振り下ろした。

 

「―――ねえ、本庄さん」

「あなたが委員会の御手洗君の事好きなのは分かってた」

「それで、御手洗君が私に好意持ってた事はあなたから昨日聞いた」

「私が急に委員会を辞めたせいであなたに仕事が増えた事は謝るわ」

「私が止めて御手洗君も辞めようとしてて、あなたの恋が散りそうなのも分かった」

「逆恨みとも思ったけど、私にも責任の一端はあると思ったから、昨日は黙って話を聞いたの」

「でも、それがいけなかったみたいね」

「あなた、調子乗りすぎた」

「幾ら自暴自棄だからって、幾らあなたがビッチだからって」

 

「わたしの縁に手を出していい理由にはならないでしょ」

 

「今回は、特別だから」

「縁が私の事を考えて、あえて何もしなかったから、許すの。 ううん、許さないけど。 でも見逃して上げるから」

「だから」

「もう二度と、こんな事しないでね」

「勘違いしておかしい事はしないでね」

 

「―――ブスが調子のるな」

 

・・・

 

 五寸釘は、本条の顔のすぐ側、壁を深々と貫いただけに終わった。

 綾瀬の淡々とした言葉全てにうなづきながら、いそいそと服を着直した本条は、そのまま弾くように教室から出て行った。

 その後、俺は綾瀬に何かされる事も無く、その代わり、事の顛末を事細かく語った。

 

 綾瀬が以前所属していた委員会には、御手洗と言う後輩が居たらしい。 彼は綾瀬に好意を持っていて、御手洗が好きだった本条に以前から睨まれていたらしい。

 そんな中、綾瀬は園芸部に入る為に委員会を辞めた。 そして、何処からか俺と付き合っているという噂を聞きつけ、失意の中委員会を辞める事にしたとか。

 綾瀬のせいで仕事が増えて、アタックする機会も失った本条は完全に綾瀬に憎悪を燃やし、腹いせに俺とヤることで既成事実をつくり、同じ様に綾瀬の恋を潰してやるつもりだった。

 

 ―――以上が、今回の話の流れの全部だ。

 まったく、俺からすれば迷惑も良い所だった。

 

「ごめんね。 昨日私が正直に話していたら、貴方にあんな恐い重いさせなくて済んだのに」

「いいよ、別に。 最後は事なきを得たから。 それより―――」

「ありがとう……やっぱりあなたはやさしいね。 昔と同じ」

「そんな事無いって。 でも―――」

「でも、なんか少し嬉しかったかな。 いつの間にか身長も超されて、私があなたを守る事なんて無くなったから。 少しだけ、昔に戻った気分」

「あの……綾瀬」

「ん? なに?」

 

 柔らかい日差しのような笑顔で、俺を()()()()()()

 

「いい加減、離れてくれ」

「やだ」

 

 俺の懇願虚しく、俺に真っ正面からぎゅーっと抱きついていた綾瀬は、更にキツく抱きしめてくる。

 本条なんか比べ物にならない胸の感触と良いニオイが、今度こそ俺の理性を蝕み始めている。 いけない、イメージしろ縁、目のハイライトが消えた渚を。

 

「いい加減、五限目も近いし、な?」

「じゃあ、せめてそれまで。 じゃないと、あの女のニオイが残ったままになるから」

「……はあ。 せめて、予鈴で離してくれよな」

 

 

 そう言えば、そうだった。

 綾瀬は、CDの『河本綾瀬』は、始めから俺に手を出す事は無かった。

 原因がありはした物の、出来る限り命を取る事はしなかった。 というか三人の中で唯一『主人公』は死ななかったのが『河本綾瀬』編だ。

 でもその代わり、近づく女を容赦なく追いつめる。

 五寸釘を手に、何度も何度もさし貫いて、殺す。

 

 独占欲の、かたまり。

 それが、綾瀬だったのだ。

 

「ねえ、縁」

「―――ん?」

「もしあのまま、私が間に合わなかったら、どうしてた」

「……舌を噛み切って自殺してたよ」

「ん……そっか。 ()()()()。 ちゃんと間に合って」

 

 そう言って、胸板に顔を埋める綾瀬。 そのよかったは、どんな意味なのか。 それを尋ねる勇気は、俺には無かった。

 

 ただ、このあとの長い学生生活で、もう二度と綾瀬の手に五寸釘が握られることが無い様、祈る様に天井を仰ぐ事しか、今の俺に出来る事は、もう何も無かった。

 

 

 

―――続く―――




このあと縁は臭い消しのために放課後ホースで全身を濡らし、ジャージに着替えて部室に行きました

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