【完結】ヤンデレの女の子に死ぬほど愛されて眠れない兄になって死にたくなってきた 作:食卓塩准将
ごちうさやのんのんびより見る感覚でお楽しみください
私はどっちも見てません、がっこうぐらし!難民です
第壱病・ツキナミ
思えば、自分の高校二年生はかなり波乱な幕開けであった。
『前世の記憶を思い出す』なんていう馬鹿みたいな出来事から始まり、自分の周りの人物が、前世では『創作の世界の住人』で、しかも『下手な行動をとったら殺されるヤンデレ』ばかりだと判明し、ただ悠々と青春を過ごすだけで良かっただけな筈の俺の人生は、一瞬にして胃薬が必要な人生に豹変した。
俺がこんな世界の人間になってしまった理由は分からないまま。 しかも前世の自分が知っている創作の世界と異なり、向こうでは『現実』の人間だった筈の
そういう、色々とワケの分からない世界の中で、最初は創作の世界と重ねて周囲を見ていた俺も、修羅場をくぐり抜けたり、コミュニケーションを交わすうちに、次第にこの世界とそこに生きる人達をハッキリと、『今を生きる人間』だと認識する様になって行った。 結構、この辺の葛藤もあった気がする。 たった数ヶ月の間の話なのに、もう3、4年も経った様な懐かしさを覚えるから不思議だ。
さて、冒頭からへんてこな話をしてしまったが、続けて改めて自己紹介をしたいと思う。
俺の名前は野々原縁、仕事で何ヶ月かに一回しか帰って来ない子供不幸者な両親の建てた家に、妹の野々原渚と2人で暮らしている。 家事は分担で、月水金が俺、火木土は渚、日曜は2人で……という塩梅だ。 先述したが前世の自分、頸城縁の人生の記憶を思い出した事が切っ掛けで結構大変な思いをしたが、夏休みを経てだいぶ落ち着きを取り戻し、今ではそこそこ快適な人間関係を築ける様になった……と、思っている。 あくまで主観だが。
「あ、お兄ちゃん、おはよう。 今日はいつもより早く起きたね」
「おはよ。 まあ、始業式だからな。 こういう日くらいはしっかりしなきゃ。 というか、今日の朝食担当は俺なんだし、渚こそもうちょっと寝てても良いんだぞ」
「
「うっ、朝っぱらから耳が痛い……」
早朝からありがたいお言葉を耳朶にぶつけてくれたのが、妹の野々原渚。 俺に似ないで華奢で可愛らしく、今日も日光に照らされた亜麻色の髪と薄ピンクのリボンが愛らしい。 兄妹仲は悪くなく、数ヶ月前も本音で語り合いをしたくらいだ。 頸城縁の記憶では創作上の人物として、兄を刺し殺すヤンデレとして描かれていたが、俺の妹の渚は今の所そんな雰囲気はない。 今でもたまに包丁握ってる姿に背筋がひやっとするのは内緒の話だ。
「下ごしらえは昨日のうちにしてたけど、少し時間掛かるし、それまでテレビでも見てなよ〜」
「ううん、お兄ちゃんが料理してる所見てるからいいよ」
「いや、そんな所見たって何も面白くないでしょ君……」
「そんなことないもーん。 朝料理してるお兄ちゃんの背中を見られるのは、渚だけの特権だし」
「あーー……はい。 うん、そうですか」
可愛い事言いやがって、この妹め。
今の様に、渚はあの日―――俺と渚の間にあった確執が消えた日を境に、こんな風にハッキリと好意を示す様になって来た。 いや、好意を示すと言うよりも、ハッキリと思っている事を口にする様になった、と言う方が正しいか。
それまでも渚は俺に対して好意的な態度だったけれども、それまでは薄皮一枚分あった壁が取り払われて、より遠慮が消えたと言うか、俺に『野々原渚はどういう人間なのか』を見せる様になった。 その変化を見て思い起こされるのは、渚が園芸部に入部する事を決めた時に、俺に言った言葉だ。
『こ、これから……お兄ちゃんの事、お兄ちゃんがどんな人なのか知っていくから……だから、私の事も近くでみてね……
きっと渚はこの言葉を実行しているんだ。 何故なら、俺と渚は互いに認識のズレがあった事が切っ掛けで衝突してしまったから。
俺は渚に『寂しい思いをさせなければ何も起きない』と思い込み、渚は自分の理想的な『お兄ちゃん』を押し付けた。 きっと互いに深く踏み込んでしまったら、その思い込みと押しつけの上に生まれていた調和が崩れてしまうと分かっていた。 薄皮一枚分の壁とは、すなわちそう言う事だ。
だけどそんな欺瞞の上で出来た関係なんて、いつか絶対に崩れてしまう。 それは前世で聞いたCDだろうと、この現実だろうと同じ事だ。 そしてその通り、俺と渚は主張の対立を引き起こし、あわや……という事態にまでなった。
あの時は綾瀬が居たから何とかなったが、俺も渚も、もう二度とあんな事態は避けたい筈だ。 だから自分の考えや主張を、俺にしっかりと明かす様になったんだろう。
でもそれは同時に、俺の事もしっかり『視ている』という事になるワケで。 当然、俺も渚に対してはこれまで以上に誠心誠意……いや違うな、取り繕ったり誤摩化したりせず、『今の野々原縁』を見せて行く事を心がけている。
たぶん俺と渚は、少し前まで『兄妹』という土台の上にあぐらをかいている、何か別の関係だった。
きっと今は、俺達が改めて『兄』と『妹』としての関係を構築させて行く……そんな時間なのだと、勝手に考えている。
・・・
「そういえば、お兄ちゃん。 ずっと気になってる事があるんだけど」
朝食の用意を終えて、2人で向かい合わせに食事をとっていると、思い出したかの様に渚が俺に問いかけた。
「昨日は結局、1日何してたの?」
「……」
「……お兄ちゃん?」
「……ふぅ」
実はまだ一回も飲んでないけれど、いい加減常備しようかな、胃薬。
どうしてこの妹はいつもいつも、答えにくい事をいきなりぶっ込んで来るのだろうか。 誰に似た。
「そっか。 やっぱり女の人と一緒に居たんだね」
「あ、察しつきました?」
「
「そんな事ないよ。 でも、なんで分かった?」
「どうせお兄ちゃんの事だもん、また柏木さんの時みたいに自分から面倒事に関わったんでしょ?」
手にあごを乗せてやれやれと言った口調で話す渚に、俺は内心かなり驚いた。
俺が園子の件にどうして関わる事になったのかは過去に説明していたから、その話を渚が口にする事自体は驚く程のモノではない。
じゃあ何に驚いたのかと言うと、渚がまだ経緯を聞いて無いのに、俺が善意で人(しかも女の子)に関わろうとしたと確信している上に、その行動を否定していない事についてだ。
何も知らない人がそれを聞いても『だからなんだ』と首を傾げるだろう。 だが俺にとっては違う。 だって、先述した渚との喧嘩の際に、渚は俺にこういったのだから。
『あなたは、お兄ちゃんじゃない』
『お兄ちゃんは、率先して赤の他人の為に動くなんて面倒な事はしなかった』
『お兄ちゃんは、私の気持ちを慮ったり気を揉んだりする事なんてなかった』
『面倒な事には自ら手を伸ばさず、他人の気持ちに疎い』。 それが、渚が肯定する『兄』の姿であった。 それが人から見てどのように映るかなどは問題ではなく、渚にとって『自分の兄』とは『こういう人間でなければならない』という不文律だった。 そこから逸脱した俺を、渚は兄では無い赤の他人だと、かつて断言した。
俺が先程渚に昨日は何をしていたのか? と問われて答えに窮した最大の理由がそれだ。 別にやましい事は全くしていないのだから、昨日女子と一緒に行動していたという事実を話す事は躊躇わない。 けれども、出会う過程が、以前渚が俺を否定した理由に完全に合致する。 あの時から何ヶ月も経っているこそいるが、やはり渚にまた拒絶や否定をされないかと、心の中で竦んでしまった。
でも、渚はそんな俺の不安を一蹴する様に、かつてとは真逆の態度を見せた。 俺が『他人の為』に『面倒な事態に進んで関わる』事を詰りながらも、『
だからそれは、かつて渚の中で渚を完全に満たしていた『お兄ちゃん』という理想を『兄』とするのではなく、今目の前に居る俺を『兄』と受け入れてくれたって事になる。
正直に言って嬉しい、本当に嬉しい! まだどの位かは分からないけれども、少なくともあのときよりは俺を兄だと認めてくれているんだから。 こんなの他所の家庭からしたら『当たり前の事』だろうけど、それでも俺は嬉しいんだ。
「えっと、お兄ちゃん? 急に驚いた顔になったり嬉しそうな顔になったり、忙しそうに表情変えてるけど、まだ昨日何があったのか何も聞いてないんだけど……?」
よほど俺の気持ちが顔に表れていたのか、渚は珍しく怪訝な目で俺を見やった。 いけない、と気を取り直して渚に昨日起こった事のあらましを説明した。
夏休み最後の日を惜しんで普段歩かない道を通ったところ、そこで不審な男に詰め寄られてる少女を見つけて、少女のお願いを聞き入れた俺が少女を連れてその場を離れた事。
少女はこの日初めてこの街に来て右も左も分からないので、仕方なく。 本っ当に仕方なく、街を案内した事。
最後に俺が案内した場所にどこからか少女の迎えが飛んで来て、その中に親友の悠が居た事。
そして―――、少女の正体が悠のイトコで綾小路本家の長女、『綾小路咲夜』だった事。
たった1日の、特に大きな出来事でもなかったが、渚は俺が話す事に逐一相づちをして返した。 そうして最後までしっかりと聞いてから、渚はジト目になりながら言った。
「……ほんっとうに、お兄ちゃんって余計な事に関わるよね。 その上流されやすいって所は変わらないままだし、なんでそこだけはしっかりと昔のままなの?」
「うっ、しょ、しょうがないだろ。 面と向かってお願いなんてされたら簡単に断れないのが―――」
「だいたい、一緒に居る時間が短くなかったのに悠さんの親戚だって分かったのが別れる直前ってどういう事? もっと早くに聞いて分かっていたら、さっさと悠さんに電話して終わりだったじゃない」
「そうは言ってもな、あいつかなり高圧的で名前聞いても教えなかったんだぞ?」
「それならそれで街案内までしなくても良かったよね。 なんだかんだ言ってお兄ちゃん、女の子と街を歩き回る事が楽しみだったんじゃないの?」
「そんな恐い事誰が楽しめるか!?」
「でも結果的には同じ事だよね?」
「……出来れば、結果ではなく過程の方を評価していただきたい」
怒っている様子ではないが、こういう風に冷静な口調でじわじわと問いつめられるのも結構キツい。 真綿で首を絞められるとはまさにこの事か。
とは言っても、繰り返すが渚は別に怒っては居ない。 呆れているだけだ。 だからこれ以上の追求をする事は無く、ただため息を1つこぼして、最後に、
「お兄ちゃんが昔からそう言う人なのは分かってるけど……そうやって後先考えないで行動してると、いつか取り返しのつかない事になっちゃうよ?」
そう言って、うなだれる俺の顔に右手を伸ばし、額を指で軽く突っついた。
地味に今の一言は心を抉ったが、ぷにぷにと額を押す指の感触が割と心地いいので甘んじてその言葉と共に受け入れる事にした。
「……まぁ、―――」
まぁ に続けて小声で何かを呟いていたが、それが何かは聞かず、俺はその後淡々と朝食を口に運ぶ事にしたのだった。
・・・
食事を終えて食器を洗っている俺の背中に、布巾でテーブルを拭いている渚からの言葉が当たった。
「あ! ちょっと待って! 駄目だよ! お兄ちゃんに一番聞かなきゃいけない事がまだ残ってるの思い出した!」
「えっ、まだ何か?」
もうだいたいは話終えたと思ったが、何か残っていただろうか? そんな気持ちを包み隠さず言葉に乗せて返した俺に、渚は『充分あるよ!』と言い返しながら、玄関の方へぱたぱたと何かを取りに向かった。
我が家の玄関には、メモ帳代わりの小さいホワイトボードが掛けてあって、ミニ磁石で何かを貼付けたり、マジックペンで何か書いたり出来る。 だがその気になれば携帯端末で簡単にメッセージを送り合える現代社会、玄関のホワイトボードはもはや単なる装飾品でしか無い筈なのだが、いったい渚は何をしに―――、
「―――あっ」
そこまで思想してから、ようやく俺はある事を思い出した。 そもそも渚は昨日の夜、結局遅くまで友人の家で宿題の処理に追われて(後半は主に友人の手伝いだったそうだが)、帰って来たのが夜遅くだった。 送り迎えは向こうのご両親が親切でやってくれるとの事だったから、俺は帰宅して上記の内容を電話で渚から聞いた後、粛々と夕食を済ませて眠った。
だがこの日、俺は咲夜から別れ際に『あるモノ』を、街案内の謝礼として貰っていたのだが、それを部屋に持ち込む気分になれず、かといっていい加減な場所に置き捨てるわけにもいかず、珍しくホワイトボードに磁石で貼付けていたのだ。
「やっば……すっかり頭の中で無かった事にしてた」
俺が思い出したのと同時に、玄関からそれを回収した渚が、俺にやや震える手で見せながら言った。
「こ、この一千万って書かれてる小切手、どうしたの!??!?!?」
「……本当、なんなんだろうねえ、それ」
渚が俺に提示したのは、昨日俺が手渡された一千万円分の小切手。 一応少し調べたが、どうやら本物らしい。 信じられないが、俺は昨日女の子1人を街案内しただけで一千万を手に入れてしまったのだ。 とは言っても一介の学生にそんな大金が扱える筈もなし、正直持ってるだけで頭がどうにかなりそうな気がしたから、見えない所に置いたのだが……。
やっぱり、逃げずに直面しないと駄目だよね。 これ……。
「だいたい察しが付くと思うけど、昨日別れ際に渡された。 謝礼……なんだろうね、案内した」
「そ、そんな事だけでこんな大金ポンッて渡すの? お兄ちゃんのお友達の親戚だから、余り言いたくないけど……綾小路家って、色々ズレてる様な……」
「ストップ、その先の言葉は俺がかつて悠と交友関係持ち始めて、一ヶ月の間に抱いた感想だ。 言ってはいけない」
「う、うん……でも、本当にどうしよう、これ」
「そうだなあ……」
小切手は直接現金にするか、自分の口座に直接お金を振り込んでもらうかの二択がある。 両親が作った俺と渚の生活費用の口座があるが、「はいはーい」と振り込むわけにもいかない。 当たり前の話だが、一回は両親に話をしなきゃいけないのだが。
「父さん達はまだ、仕事で話せないよな……?」
「うん。 夏休みの時に向こう三ヶ月は連絡も厳しいって言ってた……」
「参ったな……しょうがない。 今日の夜当たりに一応俺から連絡入れてみるから、取りあえずその見るだけで疲れそうな紙は片付けておこう」
以前俺が部活動に入りたい事を両親に伝えようとした時、駄目元で電話したら上手く繋がった。 今回もそうなる事を願いながら俺が言うと、一応納得した渚は、おぼつかない返事をして小切手をリビングにある引き出しにしまい込んだ。
こうして、昨日のへんちきな出会いから始まった騒動は、ようやっと収まったのであった。 本当、どうして俺は朝っぱらこんなに疲れなきゃいけないのだろうか。 出来れば今日はもうこれ以上、疲れる様な出来事は起きない事を願うばかりだ。
「植物の様な人生……とまでは言わないけど、もう少し落ち着いた生活を過ごしたい」
―――そんなふうに、俺が心からの言葉を漏らしてから、はや4分。 2人で一緒に学校に行く為に家を出た直後だ。
「おはよう縁、渚ちゃんも。 制服姿を見るのは久しぶりね!」
家の敷地のすぐ外に、大っきな目立つヘアリボンをした、幼なじみの河本綾瀬が立っていた。
「お、おはよう綾瀬。 今日は早いな?」
「綾瀬さん? なんで……?」
言葉と雰囲気こそ違うが、兄妹揃って口から出たこ言葉の意味は同じ、『何故綾瀬が此処に居る?』であった。
綾瀬は前期は俺や渚より少し早く家を出て学校に居るので、このタイミングで遭遇する事なんて一度も無かった。 だから綾瀬が今、こうして家の前で立っている事が純粋に驚きなのだ。
渚の場合はそういった理由に関係無く、純粋に『何で居るの?』というニュアンスを感じる……、正直、かなりマズいのでは無いだろうか。
「前期はまだ委員会のお仕事があって早く行かなきゃだったけど、もうその必要が無いから。 一緒に学校に行こうと思ったの。 良いわよね?」
今日の青空に匹敵する、一点の迷いも無い笑顔でそう答える綾瀬。 うん、俺こういう疑問の体を成してない疑問系って大好き。 相手を追いつめるには最適だよね、本当好き。
「あ、ああ。 俺は別に、というか全く構わないけど……」
そう、俺は構わない。 クラスでは野郎友達から色々からかわれているが、既に下校時は一緒に帰ってる事も知られている。 今更朝も一緒に登校したって、たいして問題には感じない。 そう、あくまで俺1人の問題であるならば、だ。
ここに渚が絡むと、一気に話が変わって来る。 だって渚は十中八九綾瀬の事を良く思ってないし、むしろ邪魔にすら感じているかもしれない。 そんな綾瀬が、朝の登校時間に介入して来るのだから、到底看過出来る物ではないだろう。 ひょっとしたら此処でこのまま論争なんて事態にも発展しかねない……。
そう思いながら、俺がびくびくと背後の渚に顔を向けると、そこには、
「はい、良いですよ? 行きましょうか」
綾瀬の笑顔にも負けない可愛らしい笑顔を浮かべて応える渚があった……え? 笑顔? なんで?
「もう、どうしたの、お兄ちゃん? そんな呆気にとられた様な顔して。 一緒に学校に行くってだけの事で私が反対するワケないじゃない。 あ、それともお兄ちゃんって私の事そんなに心が狭い人だと思ってたの? そうならちょっとショック……」
「いや、まさか! そんな事無いぞ! 渚もいいなら何の問題も無いんだ、一緒に行こうか綾瀬」
「うん! それにしても、相変わらず2人は仲がいいね〜」
俺が渚に狼狽する様子を見ながら、綾瀬はからかう様にそう言った。 ううん、なんというか、園子の園芸部に入ってからこっち、俺は結構綾瀬にからかわれる事が増えた気がしないでもないぞ。 不愉快ってワケでは無いが、何か引っかかる。
「あ、そうだ。 ねえお兄ちゃん」
「ん?」
「えいっ」
そんなかけ声と共に、渚は俺の腕に自分の腕を絡めて来た。
さながら、仲の良い恋人の様に、だ。
なんと、綾瀬の目の前で。
「他人同士ならちょっと恥ずかしいけど、家族だし、良いよね?」
家族なら問題ない。 そう話す渚の頬は僅かに紅潮しており、言葉とは裏腹に幾分かの羞恥心が残っている事を示している。
なれない事をして自分でも戸惑っているのだろう。 ここまで積極的な行動を渚が取るのは珍しいが、小動物を思わせる様な上目遣いでこちらを見上げる姿を前にすると、からかいの言葉も引っ込むと言う物だ。
ただし、綾瀬の目の前で。
「ど、どうしたの? ここで立ちっぱなしだと、遅刻しちゃうよ? 早くいこう?」
「あ……はい、うん。 そうダネ」
「ふふ、カタコトになってるよ? ひょっとして照れちゃってるの?」
「そ、そんなワケあるかよ。 ほら、行くぞ」
逆に渚にからかわれてしまい、つい条件反射でそう言い返してしまった。 我ながらコッテコテの初心な男子学生じみた発言だと思う。 ひょっとして俺は馬鹿なんじゃないだろうか。 綾瀬の前でこういう行動を取るのがどれだけ危険な物かを、誰よりも理解しているのは俺の筈だろうに。 それなのに渚のやるがままに身を任せるとか、それこそ地雷に自ら飛び込んで行く様なモノ。 なに、なんなの? 前期に色々修羅場経験して中毒にでもなったか?
先程は後ろを向くのに恐怖を覚えたが、今度は前を見るのに勇気を求められる惨状になってしまった。 だからと言ってここで何もしなければ遅刻するのは自明の理。何より、『何もしない』事が最も寿命を減らす事を、俺はこれまでの経験で骨身にしみ込ませている。 前を見るしか無い、歩き出すしか、無いのだ。
そう自分を克己させて、俺は綾瀬の方へと顔を向けた。 そこには先程の笑顔とは裏腹に、瞳の虹彩が消え失せて薄ら笑いを浮かべた綾瀬の姿が―――、
「ふふ、本っ当に2人共仲が良いよね。 知らない人が見たら恋人同士にしか見えないよ」
―――あるどころか、むしろ先程よりも微笑ましく俺達を見る綾瀬の姿があった。 って、ええ!? なんで!?
どうしてさっきから2人共俺の想像の真逆を行くリアクションを取るの? いや、修羅場にならないと言うならそれはそれで良いんだ。 良いのだけれど、何かこう、底の知れない恐さがあると言うか、この後何が起きるか予測出来ない不安が果てしないのが嫌だ。
いや、だが待て。 渚と綾瀬は園芸部と言う同じ空間で活動する様になり、俺の見ない間でも一緒に居る時間、互いを理解する時間は増えている筈だ。 それは『ヤンデレCD』では決して起こりえなかった出来事であり、つまりそこから生じる人間関係の変化を、俺は予測出来ないのもある意味では当然とも言える。
つまり、だ。 もしかしたら、もうこの2人は俺の心配とは裏腹に、とっくに仲良くなっているのではないか? だとしたら最高だ。 『ヤンデレCD』であった様な、影で行われる殺し合いなんて事も起きず、平和な学校生活を送る事が―――、
「ふふ、恋人同士に見えますか? 『幼なじみ』の綾瀬さんに言われると、本当にそうなんじゃないかって思い始めちゃいます」
「うんうん。 でもまぁ、何処まで行っても2人は『家族』で『兄』と『妹』だからね。 それ以上は何も無いって分かるから安心出来るよ」
「……ふふっ」
「……ははっ」
―――あ、はい、分かりました。
仲良くなんか、無い。
この2人、言外に牽制し合ってるだけだ。『まだそこまでじゃない』と判断してるのか、『俺の手前おとなしくしているだけ』なのか、ハッキリとは分からないが、お互いに睨み合っているのだと、今の会話だけで察しがついた。
だが、それにしてもここまで2人が互いの領域に干渉し合っている姿を見るのは初めてだ。 仲良くはなってないけども、互いの態度に変化が生じている事は間違いが無いだろう。
しかし、その結果が今の登校風景となると、今後の学生生活がどうなってしまうのか、些か以上に分からなくなって来た。 今朝だけで俺の予想を翻す出来事が連続で起きている事からも、今俺の周りで動いている『空気』というか、『人間関係』が、夏休み前とは異なっている事は嫌でも理解出来る。
これまでは『俺個人』が渚や綾瀬達との関わり方に気をつけるだけで話が済んでいたが、今後は『渚や綾瀬』が、互いにどう関わって行くのかも気にしなくては行けなくなった……のかも、しれない。
もっと分かりやすく言うならば、今までは『俺』が『地雷を踏んで』、綾瀬や渚達に『殺される』未来を避ける為に考え、行動して来たが。
これからは『渚や綾瀬達』が、『一線を越えて』、『殺し合う』未来を防ぐ為に考え、行動しなくちゃいけない、というわけだ。
どっちの方が楽かと言えば、そんな事分からない。 前者は心臓に悪く、後者は胃に悪い。 記憶を取り戻した最初の日、これは俺の生存の為の戦いだと自分に言い聞かせたが、どうやら戦いは新たなステージに移行した。
「はぁ……」
いっその事、俺が女だったなら。 こんな面倒な悩みなんて一切抱かずに済むのに。
そんな現実逃避の戯言を脳裏の片隅に思い浮かべながら、俺はその後も延々と続く2人の睦まじい会話に、耳を預けていたのであった。
・・・
「それじゃあお兄ちゃん、また後でね!」
校門前について流石に腕を絡めるのが限界に感じたのか、渚はぱっと腕を放すと、一足お先に昇降口へと駆けつけて行った。 『おう、またな』と手を振ってその姿を送った俺に、綾瀬が言う。
「ねえ縁。 まさかとは思うけど……今までも朝はああやって登校してたわけ?」
「ええ!? いや、そんな事は無いぞ。 今日みたいなのは本当初めてだ」
「へぇ……そうなんだ。 今日が初めてなんだ。 ふぅん……」
意味深にそう呟きながら、渚のさった跡へ視線を向ける綾瀬。
―――って、ああ!? しまった、もしかして今の発言は綾瀬の『一線』を押しかねない発言だったのではないか!? だとしたらマズい! すぐにフォローを入れないと。
「あぁいやでも! あいつって前から俺以外にも家族の腕に引っ付く様な所あったし、今日だけが特別ってワケじゃないと思うよ?」
「……どうしたの、急に慌てた様にまくしたてて」
思ったよりもかなり冷静に返された。 いやほんと、こういう時の俺の発言て裏目に出るよな。
「―――ぷふっ、もしかして、渚ちゃんの事庇ってるの?」
「え、あ、いやあ、まあその……」
図星を突かれて言葉を窮してしまう。 そんな俺の姿が面白いのか、綾瀬は笑いながら続けて言った。
「もう、貴方は心配し過ぎだって! あのくらいの事で私がいちいち渚ちゃんに何か思うわけが無いじゃない」
「……そりゃそうだよな。 うん。 我ながら少し気にしすぎたかも」
「あ、でもそういう風に渚ちゃんの事考えてあげるのは私、良いと思うよ? もう二度と渚ちゃんに酷い事言わない様に気をつけてるって言うのが伝わるから」
「ん……ありがと」
思ったよりもずっとマトモな事を言われて、逆に俺が嗜められる始末。 俺が思ってるより、ずっと綾瀬は大人なのかもしれないな。
そんなやりとりを校門前で交わす俺達の背中に、よく知る人物の声が聴こえて来た。
「おはよう、2人共。 ここでお話しするのは仲が良くていいけど、あまり立て込んでると始業式が始まっちゃうよ? 何より、通る学生の邪魔になりかねない。 移動した方が良いんじゃないかな?」
そう話すのは今朝も話した俺の親友、綾小路悠だった。
「悠か……おはよう、昨日ぶりだな」
「おはよう綾小路君、2人は昨日も会ったの?」
「うん。 まあね。 ……実は、その事について2人にあらかじめ話しておきたい事があって―――」
あいさつもそこそこ、悠が神妙な面持ちで何かを口にしようとした瞬間、始業5分前を告げるチャイムが鳴り響いた。
「……どうやら、ぶっつけ本番になりそうだね……まあ、2人には直接関係のない話だし、良いか」
「悠?」
「どうかしたの?」
「いや、いいんだ。 それより早く教室に行こう! すぐに講堂にいく筈だし」
何か喉につっかえる雰囲気を醸し出しておきながら、結局悠は1人で納得して先に教室に向かってぱたぱたと駆けて行った。 それに倣って俺達も互いに首を傾げながら後に続く。
教室に着くと、悠の言う通りすぐに講堂に移動となり、悠の話を聞く暇はなかった。
―――そして、奇しくも悠の発言通り、『ぶっつけ本番』で、俺は悠が話そうとした事を理解した。
いつもの始業式。
中等部と高等部の学生が一度に集まるこの日。普段なら退屈なだけの時間が、今日ばかりは違った。
異変は2つ。
1つは前期まで居た教師の退任。 年齢も担当教科も、辞める理由もバラバラだが、のべ10人の教師が学園を去り、入れ替わりに同じ人数が『新しい先生』として紹介された。
そして、もう1つは『中等部の転校生』。
校長の呼びかけに応じて、傲岸不遜を擬人化させたかの様な顔付けで壇上に姿を現したその人物を見て、ある者はどよめき、ある者は黄色い声を上げた。
綾瀬は何が起きたか良く分からない顔を浮かべ、悠は苦虫を噛み潰した様な表情を見せる。 そして俺は―――『驚愕』と『納得』を同時に乗せたような、えも言われぬ顔になっていただろう。 そんな面持ちのまま視線を―――
「―――綾小路咲夜よ、私の名前を脳髄に叩き込んで、精々崇めると良いわ。 庶民ども!」
―――平穏な学生生活なんて、もう二度と送れっこ無い。
どこか、心の奥でそう確信したのを、俺はこの時自覚した。
―――続く―――