Level.00 プロローグ
不変を信じるのは、愚かなことだったのだろうか。
「私、好きな人ができたの。だから、ごめんなさい」
平成のホームズ、日本警察の救世主などと呼ばれる高校生探偵工藤新一が、幼馴染みとデートで行った遊園地で目撃した、黒づくめの男たちによる怪しげな取引現場。見るのに夢中になるあまり、忍び寄る彼らの仲間に気付かず背後から襲われ、口封じにと飲まされた毒薬。本来なら死へと誘うはずだったそれは、高校生の体を小学一年生へと退行させた。
――生きていることが知られれば、今度こそ殺されてしまう。
周囲を巻き込まないよう仮の姿『江戸川コナン』として、父親が探偵をしている幼馴染の家に転がり込み彼女の父親を名探偵へと仕立て上げながら、毒薬を飲まされた男たち――通称『黒の組織』に対抗すべく仲間を増やしていき、早半年。
ようやく組織を壊滅させる目処が立ち、その準備に取り掛かっている時だった。
何よりも大切な幼馴染に呼び出されたのは。
幼馴染の毛利蘭は、保育園からの付き合いであり、初めて出会った時から好きだった女の子である。
体が退行してコナンになってから、彼女にいくら望まれても本当の姿で会いに行けない歯がゆさに、何度も絶望した。電話だけでは寂しいと、望むときに会えないことに泣く彼女に何度も正体を明かそうとし、しかし巻き込んではいけないと思いとどまった。
何度か仮の解毒剤で元の姿に戻り会いに行ったが、限られた時間は益々彼女に寂しさを募らせた。ロンドンで成り行き上とは言え告白し、正式な返事は貰えていないが、彼女と両想いであることは知っていた。コナンに彼女が自分の気持ちを打ち明けたこと、まだ幼馴染という関係でしかないにも関わらず、勘違いとはいえ女の影がちらつけば激しい嫉妬を見せ、怒りを顕わにしていたのだから。
「――何が何でも絶対に来て、来ないと許さないんだから」
否定を許さない強い口調に、告白の返事だろうと当たりをつけたコナンは、同じ薬を飲み退行した体で組織から逃げ出してきた、薬の制作者であり今は共犯者として共に動いている灰原哀――本名宮野志保に拝み倒し、一時的に元に戻る解毒剤を飲んだ。激痛に必死に耐え、久しぶりの『工藤新一』の姿で毛利蘭の元を訪れ――予想通り告白の返事をされた。
「ごめんね、新一。これからも幼馴染でいようね」
予感はしていた。
前々から交流があった日本警察やFBIのみならず、国の中枢機関や他国の警察組織とも連携を取り合い、それらをまとめるブレーンとして『江戸川コナン』としても『工藤新一』としても慌ただしく暗躍し、ろくに幼馴染と連絡をとっていなかった。否、『江戸川コナン』として毛利家に居候しているので顔は合わせていたのだが、忙しさ故彼女の周囲の変化に気付くのが遅くなってしまった。
気付いた時にはすでに、蘭は一人の男と親しくするようになっていた。名前は覚えていない、覚えることを脳が拒絶した。因みに顔にもモザイクがかかっている。
二人の親しげな様子に嫉妬しつつも、手が離せない状況に唇を噛み締め黙ってみていた。
心のどこかで思っていたのかもしれない、蘭なら大丈夫だと。
きっとあの男は単なる友達で、危惧するような関係ではなくて。
彼女の心は、変わることはないと。
何もすることなく、馬鹿みたいにただ不変を信じて。
気付けばもう蘭の姿はなかった。あの男の元に向かったのだろうか。
心臓が焼けるように痛い。体中が悲鳴を上げている。
それは、再び仮の姿に戻ろうとしているからか。
「新一は、私を置いていくから。だからもう、待たないことにしたの」
それとも失われた未来への悲しみからか。
胸が痛い。心が痛い。
それでも涙は流れなかった。
建物の崩壊する音が響き渡る。唸るような音は炎の波が押し寄せているからか。
床を揺るがす振動。機械を通して呼びかけられる己の名前。
ここまでか、と呟き、こみ上げてくる衝動に笑みを浮かべた。
元の姿に戻りたい一番の理由を失った己を、世界は慰めてくれなかった。仮の姿に戻って直ぐ敵側の状勢が一変し、否応なく戦場に引きずり出された。個人の感情は不必要。ただひたすらそれぞれが信じる正義を貫き、勝者と敗者を生み出していく。
己もまた、走り続けた。力を貸してくれた者たちの為に、体が悲鳴を上げようとも足を止めなかった。
その結果得られたものは、己たち側の勝利。幹部とボスは捕えられ、長い戦いの幕が閉じた――かのように思われた。
『工藤君! 何をしているの、早く戻ってきなさい!』
最後の足掻きとして、戦場の舞台となった建物に仕掛けられた爆弾が爆発した。
今まで何度も経験してきたことのあるそれの威力はこれまでの比ではなく、敵味方関係なく逃げ惑う人々。これ以上誰も死なせないために己も必死で安全な場所へと誘導し、だが、ともに逃げることはしなかった。
『工藤君! 工藤君、返事をして!』
この戦いで、多くの命が奪い奪われ失われた。己が奪った命もある。守れなかった命もある。それでも、誰も死なせないという信念を曲げてでも走り続けたのは、その先に元の体に戻れるという未来があることを、信じていたから。
もう、毛利蘭の隣には帰れない。それでもずっと望み続けていた元の姿に戻りたかった。
――元の姿に戻れないと知ったのは、ボスが捕えられて直ぐだった。
予感はしていた。
己を見る人々の目がどこか同情的で、『工藤新一』ではなく『江戸川コナン』としての未来の話が度々持ち出されていたからだ。己がどれだけ元の姿に戻ることを渇望しているのか知っているにもかかわらず、『江戸川コナン』として生きることを勧めてくる周囲の人々。共犯者の灰原哀でさえ、ともにこのまま生きられたら、と仮の姿でいることを示唆するような言葉を呟いたこともあった。
最悪な状況を考えての発言だと、この時はそう思うことで不信感を押し殺した。
薬を完成させるには敵側にあるデータが必要であり、最悪入手できなかった時己が失望しないようにしているのだと、思いたかった。
「――可哀そうにな。こんなに頑張ったのに、元に戻れないなんて」
「まぁ、元から上は元の姿に戻すつもりはなかったみたいだけどな」
「解毒剤が効かなくなるまで仮のを飲んでいたんだから、自業自得だろ」
捕えたボスを連行していき、ほっと気が緩んだ部屋の隅で交わされる会話。必死で薬のデータを探す己には届かないと思ったのか、隠されていた真実を声に出す。
己はもう、元の姿には戻れない。
何度も多用してきた仮の解毒剤。そこで出来てしまった耐性。たとえ薬のデータが見つかり完成しようとも、この体に効くことはない。
一度だけでも使用するのを止めていれば、まだ間に合っていたかもしれない。
――毛利蘭の呼び出しに、応じていなければ。
ハハッと笑い声をあげる。
目の前にあるのは、一台のパソコン。画面に映るのは薬のデータ。
爆弾から逃げずに留まり、やっとのことで見つけた希望の光。あとは帰りを待つ共犯者にこれを転送すれば、薬の被害者たちが救われる――己以外の、被害者たちが。
つけているインカムのスイッチを切る。素早くパソコンを操作し、共犯者へのメールにデータを添付すれば、あとはエンターキーを押すだけだ。
人差し指で軽く触れ、ゆっくりと息を吐く。
「何してんだろうな、オレ……」
戻りたかった、幼馴染の隣に。
戻りたかった、元の姿に。
そのどちらも叶わない今、生きる意味などない。
爆発音が間近で聞こえる。じわじわと体が炎に炙られていく。
「さようなら、『江戸川コナン』……『工藤新一』」
ポチリとエンターキーを押す。
それと同時に、部屋に仕掛けられていた爆弾が爆発した。
最後に見たのは、灼熱の炎ではなく。
転送される希望の光でもなく。
闇を溶かしたような、黒だった。
☆ ☆ ☆
頬に冷たい何かが落ちる感触に、コナンはゆっくりと重たい目を開けた。
最初に飛び込んできたものは、天井でも空でもなく、鍾乳石。ツララ状に垂れ下がっているそれに、パチパチと数回瞬きをする。妙に重たい首を動かし周囲を見れば、見渡す限り石の壁。どうやら洞窟の中にいるらしい。今いるところは一つの部屋のようになっているらしく、少し離れたところに別の道らしきものがある。大分奥のほうなのだろうか、コナンが寝ている近くで焚き木が燃えており、それが洞窟内を照らしている。
状況がつかめずぼんやりしていると、ピチョンと天井から落ちてきた滴が頬に落ちてきた。冷たいそれに、じわじわと思考も覚醒していく。
「――っ、爆弾は……っ!」
肌を焼く灼熱の炎。建物中に仕掛けられた爆弾の嵐。やっとの思いで見つけたデータを転送した瞬間、爆発した部屋。
――そう、コナンは自ら爆弾に飲まれた。逃げることもできたが、生きる希望を見失い『工藤新一』とともに『江戸川コナン』を消そうとした。
勢いよく体を起こす。全身だるいが、手足は無事に残ったままだ。銃弾やナイフやらで負った怪我はあるがなぜかすべて手当てされており、爆弾によって負った物は見渡す限り見つからない。
覚えている限り、爆発した地点はコナンの直ぐ近くだった。避ける意思もなかったので直撃したはずなのだが、悪運強く爆発から免れたのだろうか――ここまでくると死神に嫌われているとしか思えない。
顎に手を当て思考に沈む。直前のことはあまり思い出せないが、爆発の衝撃が体を襲った覚えはある。その衝撃で運よく直撃を免れたのか、しかしそれではなぜ洞窟にいるのか説明がつかない。
ここに己を運んだのは一体誰なのか、日本警察、FBI、はたまた共犯者か。
グルグルと悩んでいると、カツン、と足音が耳に届いた。
ハッとして考えるのをやめて身構える。カツン、カツンと足音は徐々に近づいてくる。
コナンはキック力増強シューズに手を伸ばし――何も履いていないことに気付き舌打ちをした。先ほどは怪我ばかりに気を取られており気付かなかったが、現在身にまとっているのは下着のみ。多機能付き腕時計型麻酔銃、どこでもボール噴出ベルト、蝶ネクタイ型変声機、伸縮サスペンダー、犯人追跡メガネ、その他持っていた阿笠博士作の道具がない。これでは襲われても反撃できない。
大きくなってくる足音にコナンは息を止める。
そして、見えた姿に「へっ?」と気の抜けた声を出した。
「黒衣の騎士……?」
現れたのは、かつて帝丹高校学園祭の出し物の演劇で演じたことのある、『黒衣の騎士スペイド』だった。黒衣と名前に付くだけあり、その衣装は全身真っ黒、羽織るマントも漆黒、おまけに兜で顔を隠しているという設定だったため、文字通り頭の先からつま先まで真黒な役どころである。
その『黒衣の騎士』が、目の前にいる。ご丁寧に兜までかぶり顔が見えない。違うところをあえて挙げるとすれば、その腰に下げている剣ぐらいだろう。
一体これは何の、そして誰の冗談だと冷静になっていたはずの頭に血が上った瞬間、目の前の『黒衣の騎士』がこてりと首を傾げた。
「なぜ私の通り名を知っている? パートナーになる人間はそのような情報も得られるのか?」
「はぁっ!? 黒衣の騎士はオレが……っ!」
「……まあいい。体は動かせるか?」
一歩、『黒衣の騎士』が近づいてくる。それから逃げようにも体が動かない。
畜生、と呟き目をきつく閉じ、襲ってくるだろう衝撃に身を固める。
足音は直ぐ近くで止まり、『黒衣の騎士』が動くのを感じた。頭に何かが触れ――さわりと、優しい手つきで撫でられる。
思わぬそれに目を開けると、兜が目の前に来ていた。直接見えないが感じる視線に敵意は含まれていない。
「痛むところはないか? 一応できる限り手当てはしたのだが、何分薬草を探そうにも向こうと同じものがなくて……すまない、私に知識がないばかりに」
頭を撫でていた手が頬に滑り、傷の直ぐ近くを撫でていく。
一体この者は何を言っているのだろうか、とコナンは瞠目した。
話を聞く限り手当てをしてくれたようだが、その理由がわからない。その前になぜ『黒衣の騎士』の恰好をしているのかも不明である。
「お前は、一体……」
ごくりと息をのむ。目の前の状況を完全に把握しきれていないコナンに、『黒衣の騎士』は再び首を傾げ、ああと頷く。
「私はスペイド。本の持ち主である貴方を探していた」
「本……?」
「ああ。私は貴方がいなければ戦い抜くことができない」
頬から手が離れ、今度は手を握られる。兜越しの視線もまっすぐに向けられる。
「どうか、私とともに戦ってくれないだろうか」
その力強さは、死んだはずの『工藤新一』を引きずりだすものだった。
初めまして、初投稿となります。
好きな作品同士を組み合わせて書きたいと想い、この場をお借りすることにしました。
未熟者ですが、宜しくお願い致します。