郷に降りた藍は指先でふれる空間のひずみを追っていた。
秋口、紫が眠りの中に戻ってからしばらくした頃に、今日と同じような出来事を目にしていた。
春が迫る三月、秋口に起こった怪異がまた耳に入った。
それを追って今日は郷に来ていた。
青の法衣に白の下衣は変わらないが、九つの尾は綺麗に消し隠し、片手に油揚の入った袋をぶら下げての調査。
踵のある靴のせいもあり背筋も正しく着付けよい服装は、郷人の目にある種の不安を湧かせ感じ取れる程。
「妖怪が来た……」という目と口元の動きを
だが騒ぎ立てはしない。妖怪も悪さをしなければ郷に入る事もできる。
金銭の数えは無理でも、物々のやり取りが出来る知識を身につけ、節度のある態度で接すれば不思議な事に郷人は、客として同じように物の交換に応じる。
むしろ口出しをして妖怪の機嫌を損ねないようにしているのかもしれないが、調査をして要を見て回る藍にとっては程度の距離があり、面倒も少ないので調度良い。
「ここにもある……」
古町に続く街道の裏手は、狭い小道になっており、石畳の無い砂利を晒した通りで基本的は郷にすむ商い人が母屋から裏手に繋がる宿に使うものだ。
昼間は人通りの少ない日陰みちの軒には、感想させた大根や干し物の魚があったりする。
この所それを狙った泥棒が頻発している。
別に、人の間で起こる窃盗に首を突っ込み、解決の沙汰を下そうという気はなかったが、藍の糸目はある解れを見つけていた。
今日それを指で触れて実感していた。
空し間の中を無理矢理引き延ばしたように開けた穴。
空間を切る主紫が使う技に似たそれは不気味だと直感していた。
物取りのたぐいが空間に穴を開けるなど、どういう理由なのかという疑問。
これを使う者は人なのか? または魔法使いなのか? だとして何故食い物を盗る?
目にすること少ない方術は、いとも簡単に展開されている事にも気を泡立てた。
簡単というよりも、不作法に……むしろ無闇に道を開けるようなこの穴に底知れぬ脅威を感じていた。
「何故だ……何故、方陣もなく、力の痕跡を現すこともなく穴を開ける……何かよからぬ者、いや妖が郷にいるとでもいうのか? 出入りに何があったか? 」
小声の自問。
問題を頭の中だけで考えると、深慮の枠を狭める。
自分の世界観だけで物事を考える者の悪い癖だと、紫が笑った時から、藍は小さく自分に問うという方法で物事を見つめてきた。
薄暗い小道、軒と軒があと少し張り出せば草木の葉と同じように影を重ねてしまう程狭い、こんな道を好んで逃げるのは人は少ない。
指で触れていた空間に方陣の円を描き、次に繋がる時のための糸を付ける。
次にこの穴を使えば相手と繋がる糸を持つために、相手がもし高等術者だと糸は逆手に取られる心配もあったが、自分の手前にある二つの身代わり倒して追うのは術達者でも難しいだろうという予想に基づき、今できることの下準備をして町を回り続けた。
要。
この仕様を作ったのは屋敷を造り直した時だった。
幻想の郷は外輪を覆う大結界があるが、郷の大きさを考えると対した事でもない、しかし質量にして考えると膨大で巨大な結界である。
結界外殻、外側については最早知りようもなく、おそらく主紫が何らかの処方をしていると考えているが、内側については休み間の見回りを藍がするように細かな問題がある。
だが、前序のように張るという結界を薄ペラな糸のように考えるのは浅はかな事だ。
そこにある生活を維持するための質量が、同じ世界にありながら別の者たちに与えられるために発動しなくてはならない。
それも多種多様な者達のために、それを細かく見張る、妖の力が思わぬ発動をしてもすぐに対処するための警備の目として藍は要を張っていた。
もちろんそれだけが要石の役目ではないのだが、今日に限って言えば警邏眼を注視して藍は仕事を続けていた。
要石は郷の区分けに添い、角に小さく作られている。
台座も表石も山から掘り出した物で、見た目は見窄らしい苔むすものだが、中身は石目を極めた作りになっている。
一つ一つ、郷の角の石に手を翳し、ここ数日の記録を見ていく。
藍の手を翳した石は、丸い頭の頂点を開き、円陣を見せる。この円の中が郷の一区画になる。
空中で青い線を引いた丸い地図は、積層化されており、時間と日時、移動した者と物と妖の影と重さを示す。
区切られた陣の中で、特異な力が走れば、方陣の中にかけられている術を壊す事になるのでそこが外圧で作られた穴という事になる。
「おかしい、変化がない……」
先ほど見つけた穴、ここはその区画の要。
穴の形跡は方陣の間を綺麗に割っている。
「大きいな……それとも鋭利なのか? 」
図面に見えるのは少しのひずみで、穴の様相からすると柔らかな対応すぎる。
大きいとすれば、この要を覆ってしまう程の力で、要石の持つ機能を一時的に奪われたが故に方陣は壊れず、穴だけが残る?
考えに首をひねる、それはないという感覚。
大きな力が働けば郷の全体に置かれて居る中型の要石に反応がある。
それは郷の中にある極小の石とは違い全体の管理にあるものだ。
この方陣に変化はなかった……
鋭利なのか?それはわからない、宝剣、霊剣、のたぐいであるとするならば余程の達人で無ければこんな規模では済まないし、かけられた術が見えても理解が無ければ解けない。
首を傾げ、時間の層をたぐる。
夕刻に入る前の時間、ここに表れたのは誰?
残念な事に姿がそのまま投影される事はないので、時間ごとに細かく動く質量を追っていくしかない。
それはたいくつでくたびれる話しだと藍はため息を落とした。
小さいとはいえ人の住む場所は色々な物が動く、動物だっている。それを追う量を考えるのは面倒である。
油揚の入った手提げを見て
「枯れてしまう前に食べたい……やはり鮮度は大切だし……」
好物が色あせるのはもっとも嫌な事と、袂から小石を出した。
記録を小石に写して持って帰るという手もあるし、何より自分の時間は長いと。
秋口に起こった事件が未開のまま冬を越したと思えば、それ程重大な事でないのかもしれない。
藍はもう一度手提げの中を見る。
好物の油揚、これを作る者が郷にいた事に小さな感謝をすると舌をペロリとだし、記録持ち帰ろうと小石をかざした。
そんな収束の考えに鞭打つような怒声は間髪おかずに響いていた。
「泥棒!! 泥棒ネコが!! 」
この狭い路地には不必要な大きさの声、石を割った濁音の声に追われる側の者は路地の向こうから飛びだしてきた。
小さな影、汚れきったぼろを身に纏い、両手に開きの魚を溢れる程抱いて必死に走る。
その前を走る黒いネコ、そして被るフードの下に見えた縦長の瞳孔。
丸い目は藍の姿に気が付くと、一歩前にでた足で急停止しその足を軸に身を返した。
「やばい!! 妖怪!! 」
対面する妖気に、相手の持つ不可思議な力を敏感に感じ、危険と察知。
勢いで回した体のまま、さらに細かい板塀の間に走り込んだ。
一瞬だったが、藍の閉じた糸目の奥にもそれは感じ取れていた。
微弱だが妖怪。それを人が追っている。
どうやら乾物を盗って逃げている様子である事、怒声の主は腹回りのふくよかさに貫禄のでたハゲ坊主で、前掛けに○魚とある。
逃げた相手の香りを藍は鼻で追い、先に回ろうとした所で棍棒を片手に追いついた坊主に捕まった。
隙間を行った泥棒の影を睨むと。
「仲間か? ああっ!!」
話を聞かない声の大きさで問いかけた。
「しらぬ、声が大きいぞお前」
「なんだとー!! 妖しいヤツめ!!」
郷の中で争うのは法度だ。相手が人間ならばもちろん本気でやるような事はないが、やんわりとした返事に対して棍棒も向ける者を許すほど寛容でもない。
藍の顎を突かんばかりに押した棍棒を手を払うと、坊主はより怒った。
すました顔で緩く避けられたことに対する怒りというよりも、大切な商品を盗られたという思いが大きかった。とはいえ不作法。
『黙れ』
肩を透かすように相手の面前に、整えられた指は迫ると額を押した。
一瞬火花を咲かす円陣に、画角の文字が浮かぶ『封言ノ霊・返』と。
すぐにそれは爪に集中すると、ハゲの額を貫くように入り込む。
頭一つ、藍より大きな男は固まったまま目をピタリと動きを止めた。
「なにもない、なにも気にする事なく、行け」
抑揚のない命令は、出されていた右手で帰り道を指す
「行くんだ」
「はい、わかりまひぃた」
痺れた口から崩れた言葉。
頭の中にある、糸を軽く緩めると人はこうなる。緊迫というものが解ける一瞬で暗示は簡単に入り込む。
藍の差すままに坊主はヨロヨロと表の道に向かって歩き出した。
「追わねば……」
去った坊主に目もくれず藍は着ている服からは考えられない身軽さで走っていた。
辻の角、体を回すように滑らかに走る。
屋根の下、斜めにかかる支え木をうまく、そして軽く蹴って最短の道を行く。
先ほど見た妖の匂い、細い糸を追って。
その後ろを複数のカラスが追っている事に気がつかず、逃げた縦目を一心に追った。