「ぞんがいに、楽しかった」
博麗の巫女との会話に出かけた紫が、襖の奥襟を切る闇からスルリと足を下ろした時に、笑みと言葉は滞らぬままに零れた。
空に突如現れる切れ目と、それを止める共綱の向こうには、異なる世界の目が見える。
裏も表もない、場所に、急に開かれた場所から紫はいつでもどこでも出向くが、屋敷に帰る時は必ず掛け軸の間に降りる。
藍のいない場所に降りると、話すべき言葉を闇に投げるという癖があるらしく、藍もまた戻りの声を頭に聞けば掛け軸の間に参ずるとしている。
金色の柔らかな髪を編み上げ、後ろに纏め大きめの帽子を被った紫は、扇子で口元を隠しながら進む、後ろを藍も続く。
「代替わりが無事でまことなにより、今の巫女も強い力を持っているが……きっと次の巫女はもっと強ようなることだろう」
「それはよろしい事でしょうか?」
屋敷にいる時、藍は帽子を被っていない。耳に現れる感情を主に隠さないためにそうしているのだが、その耳、金色の毛で覆われた耳は今少しだけ右に傾いでいた。
隠さない機微。
そんな見える態度など紫の前では無意味と理解しているが、知っていても見透かし、声をかけずに微笑むだけという態度を取られてしまったら話が続かない。
藍は、法衣を脱いで空に消し、寝殿の間で寛ごうとする主を見つめた。
「そうよな、悪うはない事よ。巫女に力があるという事は……良き事だとしておきましょうや」
母屋の仕切りを御簾に入れ替えた、壇上に座った主の顔は、確かに口元に福ような笑みを持っていたが、目には虚空を映す曇りが見えた。
自分の思う不安を軽くあしらった返事。
紫の不可思議に付いて話を続けるには時間も必要である。その事は藍も良く知っている。
手元に用意した酒を、三方に乗せて差し出すと
「何ぞ、郷に良く無い事がある……またはありうるという事でありましょうか? 」
「そうよなぁ、まだ今ではないが……いずれ、必ず」
「今のうちに仕度せよ、そういう事でありましょう」
「そうではない、いずれというのは必ずなのだ。必ずそうなってしまうのならば、それを含めた枠を作ろうしかない。押さえ込むだけでは息が出来ぬ故な」
流麗な滑舌で言葉は流れる。
紫の悪戯な目が、自分の深慮を追う藍の目と合う。
「そう怖い顔をするものではない」
柔らかく扇を煽る、まるで自分と藍の間にある猜疑の靄を払うようにして酒を呑む。
幻想の郷を囲う結界を作った主は気まぐれだ、結界のあり方に細心の注意を働かせているかと思えば、自ら穴を作ってみたりと、不完全を呼び起こす。
大抵は後に必要な事だったと解るのだが、わからない内は不安にしかならない。
そんな思い出を幾度も味わった藍の目が、糸目のまま少しつり上がっていた事を紫は差すと。
「大事ない、むしろ良い事もある」
「では、私はどうしたらよろしいのでしょうか?」
法衣の袖に両手を隠して、姿勢を正す。
紫の言う事が解らないのならば、いたずらに話を楽しむものではないと腹を括る。
温い風、雨の香りと土の匂い。
少しの間に見える情緒と時。
「必要な事を受け入れるだけ。そう畏まるな、これは何処にでも誰にでも起こる事、そして宝が輝きを失わぬための決起でもある」
「郷にも人にも、という事ですか? 」
「郷にも人にも……そう、あらゆる物に、必要とされる流れなのだ。藍、お前は庭の水を流しているだろう、あれと同じよ」
扇子の手が差す、中庭の泉。
紅梅と白梅を挟んだ甲に作られた泉は、釣殿と繋がるそり橋の間に島を持つ。
平安の寝殿が作る小さな世界に注ぐ水の流れ、水面に映される幻想の郷。
「つまり流れるままに受け入れつつ、郷を繁栄させよ……そういう事でありましょうか? 」
「繁栄?ふふふ」
返す手で口元を隠して笑う紫。
「まあそうよ、色々とよ」
「そうはぐらかさずに、教えては頂けないものでしょうか?それが巫女の成長にも関係しているのでありましょうか?」
「直にわかる。それに、こはそれ程に問題ではない。もし事が起これば私がそれを許さない、私の手の中にある事象は問題ではないのだ。巫女は、後二代下れる頃にはもっとも力を持った者となろう」
巫女の話にはどこか嬉しそうな顔を見せる紫。
藍は酌をしながら、頭の中、知識の棚をひっくり返す勢いで主の問う物の本質を探していた。
雨の続く季節、これが過ぎれば夏が来て、強気な太陽の日々を過ごし、秋になれば実りを楽しむ。
それにしても主がここに居るのは長くて四月、郷に不安の影があるのならばそれを知りたいが、曰く煩わしきも手の内と言われたのでは返す言葉もない。
割り座に足を崩し、脇息にもたれた紫は簡単に答えを教えてくれる程生易しい妖怪ではない。
全ての境界、稜線を手のものにしている妖。
不安と安心の境界を取り除くなど造作もない事だろう。藍は諦めた、問い詰めて聞くのは不作法であると紫に叱りを受けたこともある。
来る時は紫の言葉を借りるのならば、博麗の巫女が今の代より少なくとも二代下がり新しい巫女が成立するまではある。
流れや算学、自分に与えられた宿題は成果を出すのに急かされてはいない。
そう読んだ藍は質問の先を変えた。
姿勢も直し、目と耳の機微に注意を払らうと、自らも盃を頂き、主には酌をしながら問うた。
「何故に巫女の力は強くなっているのでしょうか? 」
「何。簡単な事。巫女はここより出られぬ、故にその血はこの郷によって濃くなる。代重ね、血に宿る力を蓄える。限られた社故に信仰は変わらぬが、それだけでは郷を見て回るには不十分。故に生きている内に次代へと力を重ねる……人とはいえなかなかに奇妙であり、良く出来ておる。今代の巫女はとても賢い」
紫は巫女の話が好きだ。
大いなる妖として名を轟かす身なのに、限界すれば必ず巫女のところに一度は足を運ぶ、縁なのか?友好なのか?
今までも何代かの巫女と顔を合わせた事はあるが、藍にとってはそれ程に脅威を感じる人ではなかった。
だが、そういう方法を持って力を強めるのかと少し関心を持った。
「なるほど人の血によって、その力を伝播していくというものですか」
「まあそんな程度、ちょっと前に結界を作ったであろう。ほれ四百年ぐらいだったか? 」
「ええ四百二十八年前ですね」
「そうそう、あの頃から幻を呼び込み、人を喰らった。ただ、結界を保たせるには人の側の力も必要、故に博麗がいるわけだが妖が集まればそれに準ずる力も付与されるというもの……」
どうにも言葉尻が濁る紫。
この辺りの仕組みについては知らない事が多い藍は、一度は問いただして聞き込みたいと考えている。
しかし言葉は曇っても顔は穏やかで、流麗な眉と、二重瞼の大きな目は変わらずに美しい。
そういう急かせる態度は耳に出ていたようだ。
扇子を仰ぎ、視線を掃くような仕草はゆっくりと語った。
「慌てるな、時は必ず来る。お前にも良い時が来ると良いな。藍よ、私の可愛い式よ、お前のその目が開ける日が来ると良いな。そう良き揺らぎが来る事を私は望んでおる」
「揺らぎ……」
秋分を待ち、豊穣の実を楽しんだ後、紫はまた掛け軸の中へと姿を消していった。
秋雨は、あの日ここに戻った主を送るために、わざわざ滴を運んできたかのようにも感じた。
消えた紫の影を掛け軸に見ながら藍は、青の法衣の襟を正した。
「目が開く……そんな事はありませんよ」
糸目の輪郭を指でさする。
青い縁取り、下に見える文殊。
人を破滅に落とすために身についてしまった術。
「さあ、要の修復に少し歩いて見ようか」
去った主の後、郷のための仕事は変わらずある。
藍は立ち上がると、速やかに与えられた仕事に戻って行った。
そして時はまた流れる、一つの出会いのために、多くの必要のために。
色々とご指導頂けた事に感謝。
少しずつでも改善していきます、がんばります。