「おもしろい服だなー」
心身凍結の惨状から解放された橙は、にとりから借りた服を興味深く味わいながら二人の後を歩いていた。
借りた服……それは今まで見た事のない構造だった。
上下が繋がっている、まるで赤子が着る袋のような構造のものに手足がくっついているという寸法。
全身肉襦袢みたいな不格好なものだが、手も足も全部服の中に入るという特異な作りはラッキーだった。
服はあっても靴はない。
この吹雪の中を素足で歩くのは化け猫とはいえ相当しんどい、詰め所に行くまで裸足なのかと泣きそうだったが、この服は足も全部カバーしている、靴底も着袋の中に装着されていて肌が出ないという優れものにひたすら感激していた。
「ラオ、熱くなっちゃった?」
体を覆う大きな寝袋的服の中は歩く橙の熱を篭もらせており、顔を出したラオの背中、隙間から白い湯気を出していた。
中は相当に暖かい様子、寝ている子猫たちを抱えて橙は機嫌良く、凍っていた喉も溶け出すように良い音を鳴らす。
「……どこまで行くんだろう……」
首筋の隙間から顔を出したラオの頭を顎で押しながら橙はラオに聞いた。
勿論返事があるわけではないが、用事があるとやってきた青服の妖怪にとりは椛とずっと話しをしている。
橙も椛に、取られた青石の件で協力して欲しいと思い立ってここまでやって来たわけだが、まさかの行水、真冬の水入り、本物の魂の洗濯・選択を受けて出遅れていた。
取りあえず最初の難であった寒さを凌ぐのに、服をくれたにとりを立てて、二人の話し合いが終わるのを待つ事にした。
それに用件は急ぎだが、初めて見る山の中に驚きの連続で興味に対して色々と見回しながら後を歩いた。
最初の驚きは椛の詰め所が滝の裏側にあった事。
さういう場所にいるというのは聞いていたが……見るのは本当に驚きだった。
光を遮るカーテンのように降る水の奥に整然と組まれた部屋。
滝のある方は壁が無く、解放されているためしぶきも少々あるが、雪が入ってくる事も吹雪が奥まで押す事もない。
晴れているならば、太陽の光を浴び七色の簾となる、椛はポカンと口を開けていた橙に自慢気に教えた。
奥続く部屋にはきちんと板張りの廊下が組まれ、台座が少し高めに作ってある政所造り、ただし天井がそのまま洞窟になっているため屋根はなく、雨漏りを防ぐ平板でふさがれている。
回廊と部屋が段差で区切られているもので、どの部屋からも滝の側が見える。
二つめの部屋までに太刀や盾を置く部屋があり、その奥が詰め所の集合室で……たくさん並んだ将棋盤にまた驚いていた。
なんで将棋なのかは聞く間がなかったが、惚けた面のまま山道を歩き出してまたも少しの驚きを味わっていた。
二百メートル間隔ぐらいに、小さな石盆が壁に半分掘った形で作られている。
簡素なものだが、その中には銀の皿があり、上に水というには鈍い輝き、反射の中に虹を見せる液体が注がれている。
その上に茎が立てられ、小さな炎が道標として燃えている。
夜目の利く化け猫とはいえ、ここまで暗いと足下も覚束ない道だが、灯りが少し見えるだけでも気持ちも楽になるというもの。
後ろに聞こえる吹雪の声に、緩く踊る炎の皿。
外に吹雪き出した雪が容易に止まない猛威の音を、洞の奥まで響かせている。
耳にかかる温い風を縫って、橙は些細な事でも聞きたい気持ちで二人の話に耳を立てていた。
にとりは、華道士というのに頼まれてここまで来たらしい。
口を尖らせて何度も椛に肩をぶつけている。
「道士に頼まれたんだよ……早く白狼を送ってくれよ。郷の子供一緒なんだよ」
「そんな事を言われても……他所との繋ぎが付けられなければ工兵は出せないし、詰め所に誰もいないじゃ話しにならないだろ」
「でもさー、石が落っこちてるからこんな事になってるんだろ? 山の線引きが壊れたからこうなったって……道士が言うんだよ。とにかく事は急を要してるからこうしてやってきたんだ」
「……稜線岩が落ちているなんて事があれば、大天狗様達が黙ってはいないよ。それにそんな事があれば、小うるさい射命丸さんだってすぐに飛んでくるだろうに……」
そばだてた耳に届いた大天狗の言葉、橙は走って二人の前に飛び出した。
大天狗、それは自分の大切な青石を奪っていた者に違いないという直感で、椛の姿より遙かに大きかった存在を思い出すと肩を抑えて言った。
「椛、大天狗ってヤツにあわせてくれよ!! そいつが……」
次の瞬間、飛び上がって振りかぶった椛の拳に橙は問答無用で潰されていた。
拳というより手の縦にした唐竹割りで、額から頭を地面に突き落とすほどの勢いで、思わず舌を噛んでしまいそうな状態で転んだ橙に椛は怒鳴った。
「言葉に気をつけろ!! 様をつけろ!!! 野良猫の分際で!!」
「痛いよぉぉ!!……そんな事ぐらいで」
「橙、お前がいかに世間知らずなのかはよくわかったが、ここでは山の掟が全てだ!! 山を統括する階位にある大天狗様に口の聞き方も知らぬ者を合わせられるか!! まずは礼儀を知れ!!」
下から仰ぎ見る椛の目が、本気で怒っている事に橙は口答えできなかった。
そもそも武具を持ち、警のマークを袖に付けた者。
牙を見せた顔を見て、橙はしょんぼりと座り込んだ。その前を足音も荒く進む椛。
「たはー、怖いな椛……ほらいくぞー」
座り込んで耳を下げた橙の手を引いたのは、にとりだった。
後ろで聞いていた時自分達の事を川辺にすむ河童だと言っていた彼女に引っ張られ起き上がったが、椛からは随分と離れた歩く橙。
すっかり怯えたのか? 警戒した橙に、にとりは話し懸けた。
「見た感じからして本当に世間知らずなんだな、あんた。変な妖怪だ」
「橙……あんたは……にとりね。橙でいいから私は……山の事を知らないだけだよ」
トーンの低い返事、郷は長いが山は知らないと言いたかったが、そこまでの言葉も出で来ない程消沈の橙に、にとりはペロッと舌を出すと自分にくっついて歩けと肩を近づけた。
「はいはい、よろしく橙、だけど椛が怒るのは仕方ない事さ、ここは天狗達が仕切る山なんだからさー、本来だったらお前さんのようなよそ者は会合堂までだって入れないんだよ。自分の身の程を考えて口きかないとさ」
「だからって……殴らなたっていいじゃん」
「それも仕方ないさ、いつどこで……射命丸……とかが聞いてるかわからないし。山の中で大天狗様を呼び捨てにするなんて正気じゃないよ」
理解出来ず痛みに頭を抑えて着いて来る橙に、にとりは割と気さくに話しを続けた。知らないにら教えるしかない、そんな感じで。
「山はなー、厳しい規則や階位あるんだよ。天狗は特に。椛の上には大天狗様、その上には天魔様って具合に、ちゃんと位が決まってる」
「位? 何それ?」
切り返しの声に、橙が本当に何も知らずにここまでやって来たことを笑うと、にとりは小声で妖怪の山の事を教え続けた。
一緒に会合堂に行く身としての予防線でもあるが、この礼儀知らずなネコのせいで自分が変な事に巻き込まれるのはおもしろく無い。
それに暗く長い道のりを過ごすには調度いい話し相手にもなる、軽い気持ちながらも大事な所を抑えて話した。
厳格な山の階位。
妖怪の山は一つの大きな町として存在し、その中に数多の妖怪が住んでいるが、山の支配階級は天狗族その中で山の管理並びに四神方陣の識者として大天狗という上位者が存在し、それら大天狗より上に立つ頂上者として天魔がいるという事。
この階級は絶対であり、これらに言い逆らう事は山で生きる事を放棄するに等しいという事を。
「まーでも、愚痴りたい時もあるだろうし……そういう時はこっそりいえよ。間違って椛の前で言うなよ、今度こそ斬られるぞ」
「つまり……力の強いヤツがいるって事」
「そうそう、それイコール偉いヤツって事。椛がお前を叱らなかったら、お前は偉いさんに殺される可能性もあったって事だよ。側耳立てられたら事だからさ、だから感謝しろ」
悪戯な目で注意をくれたにとりだが、橙は良くわからないという顔で椛の背中を追った。
きちんと話せばいいなら話そうという気持ちで、口を少し尖らせたまま、今度は前には出ずに背中に話し懸けた。
「……椛、私はさ……」
「黙ってろ、自分達は耳も良いんだ……聞こえてるぞ、にとり」
「わかってるさ、だけどちゃんと注意はしたって事を聞いておいて貰わないと私が困るだろ」
「抜け目のないヤツだ」
「予防だよ、私は弱者なんだ」
棘の多い返事に、平気で話すにとり。
二人は付き合いも長いし、将棋の相手でもある。そういう仲間意識が会話を成立させている事を橙はなんとなく理解した。
自分が妖怪達からも外れた物の怪である事を……階位も力関係も知らない、ただ妖怪というだけの自分がどうやってこの山の偉様である大天狗から石を返して貰えるのか……悲しくて俯いてしまった。
「用件はなんだ、橙」
歩みを止めた立ち尽くした橙に、椛は不機嫌な顔を向けて聞いた。
「会合堂で変な事を口走られては困る。今ここでお前の用件を言え、それを自分が吟味する」
予防。
にとりの一言で椛は自分もそれが必要だと思ったらしい。
会合堂まで用件も知らずに連れてきて、いきなり無礼を口に出されたのでは堪らない。
知っておいて、必要ならば秩序のために伝え、無駄口なら黙らせる。
これも警備の仕事と思い直したからだ。
睨む椛の前で、橙は小さくなって口ごもってみせた。
「……」
「早く言えよ、まだ先は長いんだぞ」
「言いなよ、お願いがあったんだろ」
迷う、偉いヤツに石を盗られたと言ったら……椛はまた怒るかも知れないという怯えで、目は横に顔を合わせないように逃げようとしていた。
「ナー」
「ラオ、何?」
逃げる橙の顎にぶつかるラオの鼻、小さな皿の火に反応して光る目が橙を見つめていた。
「あのさ、私が大事にしていた石。私のお母さんの形見の石を……大天狗様の一人が持って行ってしまったんだ。私の大切な物なんだ。返して欲しいんだ」
「大天狗様が石を……」
さすがに盗ったとは言わなかった事が功を奏したのか、椛は顎に手を当てて聞き返した。というか忘れていた何か、頭の隅を塗りつぶしていた闇が崩れるように最初に橙に出会った時の事を思い出していた。
橙の胸にかけられていた青い石……
『さがしてこい……』の言葉。
「石って、石……あれ? 石ってあの青い石か」
「そうだよ!! 石を持って山に帰ってしまったんだ」
「どうして大天狗様だと? 天狗だと言い切れる」
「だって椛よりも私よりも大きくて、扇を持っていて、似た格好だった」
椛はピンと来ていた。
自分より大きな身丈。天狗は総じて背丈が小さい、鳥の名残と飛ぶ者故の身体を持っているのがために小さい。
橙より大きな身丈を持つ者は少ない、大天狗は外を簡単に出歩かないと考えれば、最近この辺りを飛び回っていたのは……
それは……多分鴉天狗の妹子。
自分達に「何かを見つけてこい」と、どやしつけていたキンキン声を思い出して耳をさする。
もし、そうだとして橙から石を取ったとするならば、これにともなう表裏は……裏ならばまごうことなく天狗の名誉を穢している。
険しくなった表情から、自分の前で石の返還を願う橙に椛は返事した。
「わかった。その用件、預からせて貰う」
「知ってる人なの?」
「だから、預かるって言っている。心配するな、ちゃんと合議にかけられるようにしてやる。急ぎだとは思うが時間がかかるのは理解してくれ」
冷静に相手の意見をちゃんと頂くと答えた椛だったが、橙の方は気が気ではなかった。
石が無ければ捕り物に入れないし、もしもの時に自分達を守る術がない、危機から逃げるために何度となく頼った石の力は橙にとって生き死にに関わる程の存在となっていた。
「……時間……かかるの? その間私達はどうしていたらいいの……」
「どこか仲間の所に身を寄せろ」
用件を聞き背中を向けた椛の簡素な返事に、橙は首を振った。
「どこに? 仲間なんて……いないのに……」
「そうなの? 仲間ってこのネコたちだけなの? 友達とかいないの?」
「……それはいるよ、八雲藍ってのが」
「八雲……」
つい出た言葉、友達がいないと信じて貰えない。
そのためもしもの時は言おうとしていた名前が出てしまった。
ここに来る前に石の処遇でもめたのに、藍の名前に縋っていた事を恥ずかしく思い顔を赤くした。
一方でにとりは、聞くに恐ろしい八雲の名前に硬直していた。
「八雲藍って、あの狐の事かよ……知り合いなの?」
「いや、あの相談したんだ。石が無くなったから……」
後ずさりしたにとりを捕まえる。急に離れられるのは寂しい。
そんな態度を見せられると、青石絡みで八雲藍共々自分達は天狗に酷い目に合わされた事を説明できない。
言葉に気をつけるというのを、危ういことは言わないというレベルにまで勘違いして慌てる橙に、目を尖らせた椛。
「……橙、八雲藍に相談したのか?」
「いや……えーっと、言っただけ……、でもダメだったよ、私の宝だって言ってるのに、結局よこせとかって話しになって……まー、石の代わりに住む所を保証するとかもいってくれたけど……、うんダメさー、ダメだよ。ていうかそれだけだよ」
「八雲の加護が貰えたのに……もったいないなー」
「何それ? そんなのわからないじゃん……」
考え込む椛をよそに、深刻と遠い余計な話題には触れたいにとり。
この幻想郷で名の知れ渡る八雲の狐が、石と交換に居住を示してくれたなんて羨ましいと口をとがらす。
「私達はさー、ずっと山の近くに住んでるから居に困った事はないけど、ここに来て住処を貰えるなんて凄くラッキーだと思うよ。それに八雲の狐は小さい者を虐めない。まー相手にならないってのもあるんだろうけどさー」
「そんなの宛にならないよ、自分達だけ居た方が良いかも……」
「ここで暮らすんだろ、何か宛てになる者がいた方がいいよ。同族の妖怪もいない世間知らずのお前に居を与えてくれるっていうんだ。色々相談にも乗ってくれるんじゃないんかい? それこそ知らなかったから無礼を働いたなんてここじゃ通じないんだよ、郷の事も教えて貰ったらいいじゃないか」
ふさぎ込んだ椛をよそに、橙はにとりの言葉に悶々と想いを改めていた。
藍は確かに住処を与えると言ってくれた。
聞けば郷や妖怪の間でも有名で有力な妖怪だったという事が、藍の言葉に真実みを与えて、橙の心はひたすらに焦っていた。
ずっと……ここで生きていく。暮らしていく。
母の石が示したこの場所に仲間達と共に。
鼻っ柱がツンとする。
辛苦の道の果てにやってきた、ここに行くようにと示し続けた石は幻想郷に着いてからは行く先を示さなくなっていた。
役割は終わったからなのかも知れない。
それがわかっていても橙は割り切れなかった。
母の唯一の形見……それと安住を引き替えに?
すぐには答えの出ない想いを抱えて、歩き出した二人の後を追った。
一方先を進む椛は頭を痛めていた。
下階級の妖怪から天狗が窃盗など考えるのもいやだった。
人から何かを奪うのは別にどうでも良いことだが、よりによって山近くにすむ妖怪から奪い取ったとなれば、これは場合によっては名誉の問題にもなる。
自分達が物取りに出るのとは違うのは、妹子の後ろには金子という大天狗がいた事も……
その上橙がこのことで八雲の狐と相談していた事がわかり、余計に嫌な思いで頭を抱えていた。
「こんな事で狐は……八雲は出張ってはこないだろうけど……あー、もー、急ごう」
とにかく一歩でも早く会合堂に行く事に専念して走り出した。
「やあ、起きたみたいだね」
傷の修復を知らせる体内結界の響きから目を覚ました八雲藍の前にいたのは、道士服を着た女だった。
髪隠しに小さめの頭巾を二つ着け、暗めの朱色を付けた服、棘の文様と幾重にも巻いた包帯の片腕。
「なんだ、妖怪か」
「そこは小さく言って欲しい」
自分と似た服装の彼女は、焚いた火に縋るように手をあぶっている二人の郷の子を見せて微笑んだ。
見回す、目覚めた感覚で自分の周りをより深く調べる。
ここは屋敷ではなく、雪を固めて作った洞であるという事。大木を壁に半分を雪で山を作って堀抜いた簡易避難所。
「貴様は?」
「私は茨木華扇。貴女は……有名な八雲藍さんだよね、ここから上にある岩室に落ちてたから私が運んだ。あっちいる子達は遭難なんだけど……貴女も?」
「ここはどこだ?」
「ここは妖怪の山の正門から八分目下った所。道が良いからこの子達もつい彷徨ってね、ほらフキノトウが多くあるので……」
「そんな事は聞いていない、何故こんなところに……私が居たのは南の裾野、郷に続く街道寄りの所だったはず、ここは西だ」
相手の質問に答えず頭を働かせる。
自分が橙を訪ねた場所とは明らかに離れたところにいる理由を探して頭を振った。
物理の攻撃を受けた憶えはなかったが……
「でもそこにいたよ」
黙り額を抑えていた藍に、華扇は笑顔を絶やさず接して耳打ちした。
「怖い事は言わないで下さいね。子供がいますから、私とお話するならこちらで聞きますよ」
「妖が子守りでこんなところまで来たのか?」
「まさか、あの子達が山に踏み込んでしまったので追い返そうと、そしたら山が揺れて大惨事、気が付いて子供を抱えて山を下りようとしたらこの吹雪。で今に至るわけで」
表情豊かで柔らかい滑舌。
悪意のない語りだが、その辺にいるような安い妖気ではない。
強者特有の余裕ある笑み。
お互い様という顔合わせをした藍は、状況をより明確に知る為に華扇と話しをする事にした。
「吹雪が止まないので河童に頼んで白狼の工兵を呼んでもらいに」
「……お前ほどの力持ちならば山を下った方が早いだろうに」
心眼で物を見る藍に華扇は苦笑いを浮かべると、小さな声で袖を引いた。
「それがですね……」
外に響く轟音、吹雪というより大寒波の衝撃波。
雪山を力業で固めて作った洞は、氷の壁になっており簡単に倒壊はなさそうだが、子供達は身を寄せ合って激しい風音に怯えている。
華扇は自分の手を藍の方に伸ばした。目で手に触れてくれという合図をして。
風で会話の声が大きくなっては子供達を怯えさせるという配慮からの直接念話に藍も静かに応じた。
『ご理解ありがたいです』
『何か問題があるようだな』
『ええ、ここから二分下がると郷への道に出られるのですが、通れなくなってるんですよ』
『どうして?』
『稜線のところで弾き返されるんです。越えると回って現に戻る。迷いの回廊になってるみたいで、貴女がそれを直しにいらっしゃったのかと思ったんだけれど』
答えを望む華扇の瞳に、藍は自分の耳に触れた。
帽子を無くしてしまったため修復が成されなかった耳の痛み……自分の鼓膜を破壊した者が言った言葉を思い出した。
『升を仕切った……今、山は幻想郷から隔離された状態にある。稜線がその反発結界として使われている』
『直せます?』
『こんな大がかりな結界が持ちこたえられるのは明日までぐらいだろう。余程に特別な力が働かない限りな』
『明日には、と』
そこまで聞いた華扇は、振り向くと自分達二人の背中を心配そうに見ていた子供に手を振った。
「明日には止むって、今日はここでゆっくりして帰ろうね」
細かな配慮、石で組んだ炉端で不安な顔を見せている子供に、明るい笑顔を見せる。
そうしながらも頭で華扇は聞き続けた。
『……で、だとしてこんな事しでかした者は……まあ誰かは聞きませんけど、一日程度で終わってしまうのに何でこんな事をしたかったのかは知りたいですね』
脳に痺れる意見だった。
藍の見立ては正確ではなかったが、外れでもない。
妖怪の山は本山から裾野までを入れれば幻想郷の半分弱をしめる巨大な領域。
これを時間にしてどのくらい囲えるのか?
こんな大型結界を維持するのに必要な力をどこから供給するのか? 例の石からという考えもあったが、そこまで巨大な力を持っていれば術者の方が保たないという危険な要素は否めない。
必要とされる術式構築とかかる力を計算するに保ったとして一日、または二日程度と計算していた。
大きすぎる結界の限界というライン。金子という大天狗は術達者として、今日この日までにたくさんの準備はしてきたのだろう。だからこそ結界を一度で張るのに成功し、浸食を同時に使う事が出来た。
それでも中身の質量維持しか囲う事は出来なかった。
証拠はこの吹雪だった。
内外を区切っても幻想郷の天気は外と同じように過ぎる。
だが金子の仕切った結界は、外に誰も出さなくするという特長が故に、山の天気を包括した形で結界を成立させてしまった。
これは誤算だったのかもしれないし、ここまでの術式だったのかもしれない。
とにかく、この枠のせいで山は吹き下ろす風を囲われた中で循環させる事となり、この大吹雪を起こしている。
狭まった分だけ、風は激しく巻き返しを起こしているという状態。
戯れにも外に出られない缶詰状態を術式成功とは言い難いし、嵐という膨大な自然の力が循環し続けるのを見るに、やはりこの大結界が長期間耐えられるとは考えられなかった。
「家に帰れますか? お狐様」
火から背中を向けて思案にくれていた藍の袖を郷の子供が引っ張った。
顔をのぞき込んで。
「……ああ、大丈夫帰れるよ。ここには道士もいるから心配しなくて良い」
郷に帰る力として自分を頼られても困る。
顔を見る大きな眼に、手を翳して藍は答えた。
「……お狐様、目に怪我したの? どうして閉じてるの」
「怪我ではない、目を開けなくてもお前達の事は見えている。そんな事よりどうしてこんな所まで……朝早くから山に入ろうなんて考えたのだ。危ないじゃないか」
「だって、フキノトウを取りたかったの」
「そうか、しかし危険な事だから次からは……」
「いやなの、お父やお母に持っていきたかったの……たくさん取りたかったの」
口を膨らました子供は、おそらく先に華扇に叱られたのだろう。
フキノトウぐらいで命に関わる事をしてはいけないぐらい、この説教得意の道士の意気揚々とした話しの後では子供うんざりして注意を聞かないというものだろうと。
「道士にも同じ事を言われたのだろう。だったら……」
「いやなの!! フキノトウ取りに来ただけだもん!!」
「それはわかったが、命も大事だろう。すこしは反省するんだ」
「ご飯が大事だよ、反省したってお腹はふくれないよ」
「死んだら元も子もないだろう……私の言う事を聞いて理解を……」
「もーうー!! 道士様と同じ事言わないでよ!!」
藍は絶句した。
この吹雪に襲われて怯えていたはずの子供に、こんなにも自分が言い込められようとするなど考えた子ともなかったが、付き合うのも無駄と背を向けた。
「これだから子供は嫌いだ。我が儘ばかりで少しも人の言う事を聞かない」
「そんな連れない事を、お狐様ともあろう方が。子供が我が儘なのは世界が小さいから、仕方のない事ですよ」
立腹というより自分の気を抑えて座る藍の肩に、華扇はやはり柔らかい笑みで言った。
藍は我が儘という言葉に、橙を思い出していた。
どれ程好条件を並べても、反発した小さなネコの事を。
「世界が小さいとなんで我が儘になるんだ」
「見えないからですよ、自分以外の者・物というのが。まー修行の身である私が言うのもあれですがね、だんだん見えてきて自分だけではどうにもならない事を憶えるんですよ。だから今日はこの子達を叱らないで、私がきちんと言っておきますから」
「……だんだん見える。……見えないうちはダメって事か」
「そうですね、でもちゃんと叱ってきちんと教えれば、その事を考えますし。第三者の言葉を聞くことで知る事も出来ます」
教える。
随分と懐かしい言葉と、白い息を吐きつつ首を右に傾げた。
教える。それは得子が良く口にしていた言葉だった。
山狐たちを教えていた得子の姿が脳裏に霞む。忍耐強く子供達とよんでは手習いに来る妖達を教えた妹。
自分は子供相手に駆け引きをしようとしていた、何も教えず、叱ることもせず……そでは何も伝わらず、それを不快と感じて橙が自分の手を突っぱねたのだと理解した。
『ところで、先ほども聞いたのであれですが、この吹雪一日で止むとして、なんでこんな事をしてるんですか?』
子供達を払って後、背中を付けるようにして座った華扇の言葉に藍は我に帰った。
何故一日しか保たない結界を作っているのか?
『博麗の巫女が来るのを防いで、その間の一日で何かしたい事があるんでしょうか?』
考えに沈黙を守っていた藍にも、その答えは浮かんでいた。
一日しか保たない結界を、ただそれを張るだけを、あの大天狗金子が戯れの喜びとしたいのか?
それはとてもバカバカしい結論で、あり得ない答えだった。
金子の目は本気で遊びを呼び込もうとしていた。
『山の結界、稜線への侵入、一日の嵐……山か……要か……そのための妖取』
物事を並べた藍は最悪の事態を弾き出していた。
深く刻んだ額の亀裂を片手で隠す。
その肩を華扇がポンと押した。
『貴女が出来る事をしてください。私は子供達を守りますから』
最悪の想定が出たからと言って止まってはいられない。
押された力で藍は自分の責務を思い出して立ち上がった。
四肢の節を軽く鳴らし、体の傷は全快であるのを確認すると袖から札を二枚だした。
一枚を見送りの顔で自分を見ている華扇に、子供達の前で一枚に発動呪文を吹きかけた。
吹雪で聞こえない声から、白い息が札に触れると一瞬で小さく丸くなり手の中に収まって、次に炎に変化をして見せた。
おそらく初めて方術を見たのだろう、子供達は目を丸くして炉端に足された燃える石を見つめていた。
「明日の朝までは保つだろう、気になるようなら渡した札を使って足してくれ」
「私に使えるかな?」
子供達の肩を抱き悪戯っぽく返事する華扇に背中を向けて。
「仙道の修行しているのだろう、出来るハズだ」
笑顔だけを返事として見せる華扇。
その手の中で子供達は口々に言った。
「お狐様、気をつけてね。お帰りを待っていますから」
生意気で我が儘な子供の声に、藍は少しだけ笑った。
先に行った生意気なネコの事も少しだけ心配だと考えながらも、事態の急転を止める切っ先として雪の中を走っていった。
「無事に帰って来てくださいね。……にとりも無事だといいが」
焚きつけた炎を前に、自分達の救助を白狼に頼みに出たままであるにとりの心配を華扇はしていた。
外はもう何も見えない程の白い闇の中にあり、後は祈り待つ事しか出来ないのだと華扇は改めて感じ、子供達を励ますように抱きしめていた。
後半戦にレッツゴーです。
華扇ちゃんの服を初めて見た時
「あれ? これって八雲さんちの道士服だ」と思いました。
幻想郷における道士服はあのタイプなんだなーと。
華扇ちゃんが道士なのは、まだ仙人と言われる前の話だから。
仙人にも階級があるのを初めてしりました。
日本では行者ともいうそうです。