東方紫陽花考   作:氷川蛍

13 / 21
本章3 廬山の城
攻の八卦


 喜び……この感情を深く理解する妖怪は少ない。

多くの妖怪は自分の中にある本能の延長を感情だと捉えており、わき上がる衝動の中身を吟味した事などないだろう。

 妹子はそれを思い出してもう一度身震いした。

自分が、惰性で授かった感情を超越し、人の持つ繊細な喜怒哀楽の裏側までも愛する事が出来る事に。

 

「うれしや、もそと良い声で泣いてたもれ」

 

 乞うほどに哀れで小さな物の怪の鳴き声が心を奮わし、頬が赤く成っている事に喜びの爪を這わす。

右手を前に柏扇で口元を隠すが、目に現れる浮かれを隠しきれてはいなかった。

左手は自らの頬に置き、大波小波に揺れる猫又の感情、それに熱を上げる思考を感じていた。

 風を足下と背中に纏った妹子は、研ぎ澄ました五感を哀に落ちるネコに集中して目を細めていた。

下では衣類を引きはがされ、抵抗が空回りを始めたネコが、それでも抱きしめていた子猫たちを郷人の足の間をくぐらせ逃がした所。

後は自らが残され惨めに散らされるのみになっている。

 

「離せ!! 離せよぉぉぉ!!」

 

 袖口を引っかけられ、上着をはぎ取られた橙は腹に抱えていた子猫たちを逃がしきって反抗に転じようとしていたが、すでに押されに押された後……いくら子供の形に大人以上の力を持っていても多数に無勢が痛みも感じぬ夢遊の状態で雪崩のようにかかってくるのを抑えられる術がなかった。

 木の衝立が布団の雪崩に押しつぶされ折れるように、後ろから覆い被さった人の重みに耐えきれず、顔面を土に打ち付けていた。

 

「やめろー!!はな……はがっ……」

 

 土と砂利を喰う程、強い力で頭を押さえつけられた橙。

背中に乗っかった男は勢いよく上着と被っていたマフラーを引きはがした。

それこそ自身がひっくり返ってしまう程の力で、脱がすというよりも破り捨て、中につめてあった木の葉が紫の夜と、月の森の中に舞い散る勢い。

素肌では寒い寒気より、荒々しい男達の手に叩かれ掴まれ真っ赤になった橙は涙の目で吠えた。

 

「私が……私が何したっていうの!! 離して!!」

 

 声色には震えが混じり、最早怒りなど顔に出せる状態になかった。

心には化け猫になった初めての時が思い出されて、手に込めるべき力を過去の傷が奪い始めていた。

 追っかけ回され、蹴られ、殴られ、火をかけられた……あの日。

あの日の夕刻に母に出会い助けられた。

今はいない母の姿が思い出の中で滲む。

 

「お母さん……お母さん……助けてよ……」

 

 肌身に残った唯一の装飾である青石を、伸ばした爪の手の中に抱いて体を丸めた。

逃げられない、手も足も掴まれ体を広げられたら腹を刺されるかもしれない。

過去の傷が振り返るように痛みを教える。

恐ろしい力の郷人達を視界から消すように橙は目を閉じて、懸命に願っていた。

石の力が働いて自分を逃がしてくれる事を、小さく足をたたみ込むように丸くなって、石を抱き込もうとした橙の耳に、最初に転移を阻んだ声が聞こえた。

 

「ならん、それでは楽しゅうない……奪え、石を」

 

 たたみ込もうとした手足を押さえる男達の力に、抱いた青石はあっという間に奪い取られていた。

抑えられる形になって空に頭が向いた橙は、初めて声の主である妹子の姿を見ていた。

 取られた石を妹子に向かって放り投げる郷人の手を追った先に、空に浮く嬉し目と涙の目が顔を合わせていた。

唐模様を施した袋に収まった青石を確認するように見ていた妖怪に、苦痛の声がポッカリと漏れる。

 

「……なんで……」

 

 物の怪、空にいる人型は……人ではない、なのに人をけしかけ、大切な母の形見を奪っていた事に余計に涙がこぼれた。

 

「何故じゃと?」

 

 抑揚薄い声には優しさよりも嘲りの棘が見え隠れしていた。

不可思議な物を見るように斜に構えた目線が、いまや着る物全てを失った裸の自分を卑しい者と見下している。

当然それは機敏な耳に届き、橙は悲しみと怒りで湿った声をあげた。

 

「なんで、こんな事するぅぅ!! 返せ!! お母さんの形見……返せ!!!」

「いやじゃ、それしか答えを持たぬ……」

 

 四肢を押さえられた体で橙は吠えた。

 

「返せ!! 返せ!!」

「返さぬ……宝石の代わりにお前には……子をやろう」

 

 片口の奥に待った牙を輝かせて妹子は笑うと、右手の扇で風を凪ぐように動かし、その束に付く二つの鈴を鳴らした。

良い月に似合う八乙女の音色は、空に金色の波を小さく起こし幾重もの波紋を作って見せた。

見立ては妹子を中心に、二重の円陣が揺らぎ混ざるもの。

静かで高音の波と、重く太い音が螺旋を描く。

 

「寝目の波、良き良きかなり、良き良き日なり、そえて。 人妻に 吾も交はらむ わが妻に 人も言問いへ ……禁めぬわざぞ、禁めぬわざぞ」

 

 空でひとさしを舞う優雅な姿に、そぐわぬ牙が何度も輝く。

詠唱された言葉の意味がわからない橙はただ呆然としていたが、事態はいきなり急変していた。

自分を抑えていた男達の口から流れでる涎と、汗ばんだ手が体を支配しようと迫り、尋常成らざる状態に喚いた。

荒れた息を晒し、着物を脱ぎ捨てる郷人の目的は幼いながらに理解ができた。

自分との性交を望む野生の発情の熱。

唸りを上げようとする腹を押さえられ、足を割って体を滑り込ませようとする男達に。

 

「やめろ!! いや!!!」

 

 これは陵辱、自分という物の怪を人の手によって穢さんとする恐ろしい文言呪方に、橙は喉を割らんばかりに叫んだ。

 

「やめぇええ!!! なんで!! どうしてぇえぅ!!」

 

 助けを発した口に砂利を詰め込まれ、最後まで抵抗の声を挙げられないまま苦悶の亀裂を浮かべた額を、妹子は扇から顔を出して見て言った。

その顔は満面の笑みと、方陣を繰る手を止め魂に触れようとする指を両方で湧き合わせていた。

 

「良いではないか、そなたが孕めば新しい情が産まれよう……どうなるやを見たいのだ、自分の身から産まれるそれを……そなたはどうするかや、殺めたいと血を吐くのか? それでも愛おしいのかや? 我が示した音で新しい情がいかなものを産むのか見たいのじゃ」

 

 妖怪にないもの、人がの心に細やかな波として起こる情。

妹子はそれを欲していた。

妖怪の持つ情が、人のそれとどのように違うのか……いや、かつて自分の前で愛情を見せた唯一の物の怪のように……それを作り出せるのか?

 歪む視界で涙を流す橙を、今にも男達の贄となり果てそうな小さな物の怪を喜びで打ち震えて、絶頂を得ようと声をかけ続けた。

 

「我に見せてくりゃれ、どうぞそれを見せてたもれ、望まぬ種の果てを……」

「悪趣味な、筑波嶺の詠をそのように穢すなど下劣の極みだ」

 

 滑舌確かな声に妹子は手放していた印を結ぼうと逃げた。

地表近く、慰み者として穢されようとするネコをもっと近くに見ようとした矢先の鋭い気配は、背筋に針を遠い痛みとなって肩口に刺さる。

真っ直ぐに放たれた指弾の先に立つ藍の姿に目を大きくして首を振った。

 

「狐……何故じゃ……」

 

 痛みに痺れる肩、練り込まれた気の塊を抜き取って睨む。

 

「お前は……菖蒲の刃に侵されていたはず、立てるわけがない」

「ふん、幻惑は何もお前だけの得意分野ではない、元より私の手の中にある術の一つにすぎぬ。さあ、その袋に入れた石を返してもらおう」

 

 言うなり、水を鍛錬した指弾を横一線に投げた。

放射に広がる水平の斬激、水というよりも紙縒のように先を尖らせた太い針は、空に穴をあける勢いで妹子に殺到した。

 

「たわけ!! 風より速し我に対して愚鈍なり!!」

「そうか」

 

 高く上に飛んだ妹子は自分の目を疑った。

同じ高さにいる狐、空色の法衣と血濡れの指先。

自信に満ちた顔に金色の髪が踊る。すでに構築された方術を爪に蓄えた一撃は妹子の眼前に迫っていた。

 

「禁方角○面赴!!」

 

 避けられない、直感だった。

自分と同じ早さで空を走った者はいない、射命丸ほどの抜群の速さはなくとも狐に追いつかれるなど誇り故に考えもしなかった事に妹子の次手は護りに徹していた。

自分を護るために付けていた八卦陣の一角を使い、壁ごと藍を自分に向かって押しだそうと、その衝撃を縫って外に飛ぼうと素早く右に体を捻った。

押し出し、交錯する体を藍もまた流れにのり相手の反対に体を捻り出す。

 

『イーシャ トゥア ガナ』

「封滅……何!!」

 

 互いに背中を見せた交差の後、速い詠唱に防備の盾を呼び出そうとして妹子の声は止まった。

八角の陣を詰めて、一ずつの壁を背に立つ分け身の狐。

 

「分け身? なのに一体の重さが変わらぬだと?」

 

 ただの分け身ならば術達者である妹子が驚く理由はなかった。

分け身は高位妖怪には効きにくい術。

相手の本質量を見誤らない、見かけが小さくても中身に巨大な力を持つのが妖怪や物の怪の芯だ。

紙に呪を吹き込んでもそれ自体の芯重までを模倣しないのならば、すぐに本体を見つけられる。

紙切れ程度に芯の質を宿らせるのは熟達者でないと出来ないという法則がある。

なのに、この分け身の八体は同じ重さを持っているという事が、目をむき出すほどの驚きに繋がっていた。

 

「なんだ、こんなものも見分けられないのか?」

 

 手を組み相手を見下す視線を八方から集める藍に、さしもの妹子も身を固まらせていた。

次の手を打とうにも本体を見切れないのならば、無駄を作るのみ。

乱れた黒髪、前髪を左手で掻きあげて、心を冷やす。

中身まで乱れれば藍の思うつぼになる事を確実に感じた目は、自分の足下に起こった変化で気が付いた。

 

「我の結界札を使ったのかや……」

「いかにも、お前は私の事を愚弄したな。方外を抑え、地を組み立てたと……私を手ぶらで結界に入った愚か者扱いしてくれるとは……実に腹立たしい」

 

 ネコを捕縛するために作った結界は自身の警護を除けば二重のものだった。

だが、突然ここに現れた九尾を抑えるために二つに分けて、一つで藍を打ち倒し、残りを使ってネコを捕らえた。

それ自体は妹子の機転であり間違った策ではなかったが、倒したハズの相手が立ち上がってくるのは計算外だった。

 驚きと怒りを混ぜた赤目の妹子に、藍は煽るように結界を構築していた札を見せた。

 

「これに私の名を、血を持って書き換えてやった。方陣の密度は重くてちょうど良かったぞ」

 

 重さを従える書き換え、普通の妖怪では考えられぬ事を瞬時に実行する相手に、背筋は冷え上がっていた。

同時に残りの結界も藍の侵入と、激しい揺れで綻びができたのを確認していた。

橙を抑えていた郷人は支離滅裂になって踊り狂っていた。

結界の中身に流した寝目の波は、波状を崩し人の感情を賽子がごとく転がして変え、もはや化けネコを孕ますなどという行為がまともに出来る状態になかった。

それが最初の輪である結界を壊されたところの限界である事を、冷徹に認めた妹子は扇で口を隠して息を払った。

 

「おのれ……さすがに賢しき狐よ……我を困らすとは」

「褒めるのが遅かったな。さあ、お前を蹴落としてやろう」

 

 自分を囲む八体の九尾に、妹子は顎を上げて笑った。

 

「結界を使こうたのなら、そこに戻れば良い」

 

 甘く溶けるような声は、そこまで言うと豹変し手を片方上、片方下、掌を合わせる形で崩落の言を叫んだ。

黒髪が天を突くように煽られ、その後はさらに高く、地表の影をごま粒にする程高くに飛び上がった。

 

「乾坤震巽○離○○ 封終穴 天○間」

 

 八卦の壁を内側に突き崩す言呪。

牙を隠した妹子は、大石のごとく迫り違いを打ち付けて潰そうとする卦の中から上に、飛び上がって逃げた。

それは陵墓を作る時に重ねる、石車達が八方からぶつかり合うように八角の陣は自ら縮小して壁をけずり、背に立っていた藍を分け身ごと押しつぶしていった。

蜜を通したように中央に、滞らぬ水の流れのように、なのに石の激しい打撃音を響かせて八卦の陣は崩壊していた

 

「我の勝ぞ……糞狐め……」

 

 締め上げた壁が目に見えるものではないが、収束に集まった激しさに煙りを上げた大地を、扇を仰いで妹子は唾を吐いた。

練度大きい術符をこんな形で全部失ってしまうなど……金子に知れれば大目玉。

腰に括った袋に収まる青石こそ手に入れたが……成功とは程遠い結果に顔色は悪く、眉間を割る怒りの亀裂と尖った目は、せめて自分が打ち勝った狐の残骸でも持って帰ろうと煙の果てを睨んでいた。

 

「まだ、これからだ」

「なんだと……、どういう事ぞ」

 

 完全に潰した術符の中、指弾の指を高く天に掲げた藍は、煙を割る中で歪んだ唇を見せて答えた。

面くらい惚けた顔を晒す敵に、糸目の狐は丁寧な説明を返してやった。

 

「せっかくの壁を打ち壊しとは……浅はか過ぎる。お前が天を詠むのならば引かれる穴は地だ。文言の理ならば長短関係なく私には理解が出来る。そのうえ私は同じ乾を手にしているのに……合差を挟もうなど愚の骨頂だ」

 

 完全な意趣返し、最初の笑みを仕返す唇に妹子の怒りは絶頂だった。

だが、それでも抑えた。

抑えざる得なかった、方陣を組んで方術を施工するのは自力を温存させるための囲いでもある。

今はその輪の全てが壊されてしまっている。

この上、九尾の狐と方術合戦を続けられる自信はなかった。

 

「もは、良いわ」

「逃げるのか?」

 

小首を傾げて相手を挑発してみせるが、妹子は乗らなかった。

腰にある袋を軽く叩くと。

 

「要は済みじゃ、戯れに付き合うのは終わりぞ」

 

 意地で上げた上から目線、疲れを垂れ流す口を柏扇で隠して結うがを見せる。

一回転の舞うと、後は音だけを残して姿をくらましていた。

天狗の早飛び、続く風が忽然と消えた主を追うように引っ張られ、山に向かって駆け上がり、静かな月夜が残された。

 

 

 

 

 

「……後少し……粘られたら保たなかった……」

 

 天狗の気配の完全消滅を、八雲八卦八卦の探知で確認した藍は膝を着いていた。

実際最初の攻撃は大きな負債を体に与えていた。

脳や神経、記憶にまで干渉したあれを良くもくぐり抜けられたと安堵する間もない実戦に、さしもの藍の膝をつき荒げた息を正すために仰向けに倒れざる得ない状態だった。

 

「いかん……あの石を……速く取り返さない……と」

 

 自分の真上を行く月は、喧噪の争いから程遠い白磁の輝きを優しく降らせていた。

開かずの目は、それでも疲れの錘に負け、もう一回りの瞼をかけるように眠りを誘っていた。

 

「早く……早く……」

 

 自分を律するための繰り言を、疲労に沈みながら繰り返す藍の姿を、橙は草陰から見ていた。

藍が自分の上で戦っている間に、自分を抑えていた郷人は逃げ出し間を抜けて草むらに隠れていた。

涙でベタベタになった顔で、息を細く整え眠りに沈んだ藍を遠くから見ている事が今の精一杯だった。

 




妹子の呪言は、万葉集です。
筑波嶺は良く歌に詠まれた山です。
○の部分は漢字がないための空白です。

藍様が使った呪言は、意図的に日本語以外で唱えています。
妹子が高位方術を使えるのがわかっているので、詠唱中に術式解体の介入をふせぐためにそうしたという事です。
イーシャ……はサンスクリット語です。

詠唱は短いほど高位術式者というのがあるそうです。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。